2021年10月16日 (土)

大野光明・小杉亮子・松井隆志 編               『社会運動史研究 3 メディアがひらく運動史』(新曜社刊・21.7.15)

 本号の特集は、「メディアがひらく運動史」である。「社会運動は、ビラや機関紙、ミニコミ、映画、絵画、音楽、雑誌など、多様で個性的なメディアを生み出し、その存在や主張を社会に示し、体制的な主流メディアには対峙してきた歴史を持つ」と述べながら、「社会運動とメディアのより多義的な関係性を歴史的に再検討する」と編者たちは特集の意図を示しながら、「運動の中で生み出されたメディアの集積は、それ自体が別の運動的な営みにつながっていく」と記していく。確かに、それが例えビラや機関誌紙であったとしても、内包されている言語の集積は、思念の有り様を潜在させているといっていい。
 巻頭に配置されたのは、清原悠「出版流通の自由への模索――初期模索舎における自主流通・社会運動・ジェンダーへの問い」である。七〇年一月に開店した「模索舎」を、もちろん、わたし自身も利用していたし、関わっていた機関誌や刊行書を委託していた。ただ、それ以前からの神田ウニタ書房、同時期の国分寺アヴァン書房、吉祥寺ウニタなどがあり、果たして模索舎は継続できるのかと疑心暗鬼であった。だが、創設者の一人、五味正彦(敬称略)と面識はあるが、本人はわたしと違って〝明るい人〟だった印象(もちろん、わたしの勝手な思い込みだ)があるから、難局を乗り切っていくだろうとは思っていた。
 「様々なミニコミを一ヵ所で売買交換―流通を可能とする模索舎という空間自体も重要であった。特に対立する諸運動の情報が模索舎という同一の空間に留め置かれたという点は、特筆すべきだろう。新左翼セクト間の対立や、ウーマン・リブのグループ同士の確執は模索舎にも持ち込まれ、敵対するグループの発行物を置かないように圧力をかけられたこともあったが、模索舎は「出版流通の自由」の理念を押し立てることでそれらの介入を許さなかった(略)。」
 わたしは、その頃の模索舎よりは、ここ十四、五年の現在の模索舎に親近感を覚える。運動関連の紙誌、書籍が必ずしも売れ行きがいいわけではない情況の中で、遙か年少の人たちによって運営されている模索舎の今後を期待したいし応援したいと思っている。
 三橋俊明「日大闘争は、何を「経験/記録」したのか」では、日大全共闘書記長の田村正敏と七三年に、「「無尽出版会」を設立して『無尽』に自らの経験を執筆し、日大闘争の「記録」づくりに取り組み」、四号まで刊行し、以後の「記録」づくりをめぐって述べていく。わたしが、当時、『無尽』創刊号に関心が向いたのはいうまでもない。
 「創刊号は巻頭に私の拙文が置かれ、秋田明大とアナキスト詩人秋山清の対談「何が続くか」をトップに、田村正敏の「出発することの意味(1)」、山本義隆の「加藤一郎公判調書」などを掲載して刊行された。」
 秋山は、日大予科入学という経歴はあるが、なによりも田村の熱心な誘いが大きかったと思われる。
 わたしは、日大闘争、東大闘争等を、全共闘運動といった総称で語られることに、幾らか逡巡する思いを抱き続けてきた。三橋の論稿のなかに、次のような箇所がある。
 「日大闘争の行方は不透明になったが、バリケード生活に定着していた「愉快な時間」は維持され変わっていかなかった。日大闘争の方針や展望は重要だったが、私には自らの意思と力で手に入れた「愉快な時間」とでも名づけたい、自由で解放感に溢れた生活時間が何よりも大切だった。この「愉快な時間」を、いつまでもいつまでも持続させたかった。」
 わたしは、この文章に接して、いまだからいえる感慨がある。三橋が「時間」という認識なら、わたしは、「関係性」という感覚があったと思い返している。「愉快な関係性」と、いまだからいえるのかもしれないが、一人一人の考え方が違っていても、何かわかりあえる関係性というものが、生起していたことを思い出すのだ。
 最後に、古賀暹インタビュー「雑誌『情況』の時代――火玉飛びかう共同主観性のなかで」に触れておきたい。わたしは、創刊して一年後に『情況』の事務所を何度か訪れている。たんに、所属していた大学新聞に出す広告の版下を受け取りに行ったに過ぎない。その後、七三年頃、友人と創刊した雑誌への広告の件で何度か訪れているが、古賀氏と話した記憶がない。もっぱら柴田勝紀氏と会話をした。今回のインタビューで二人の関係性のようなことが窺い知れたといっていい。
 古賀氏は、七〇年前後の『情況』誌を次のように述べている。
 「表面的にはセクトの方は「政治闘争」を主眼に考え、ノンセクトの方は学内のことを主体に考えるから。しかし、それが、相互に刺激し合ってきたから、あの運動は発展してきたというのもまた事実なんですよね。問題はこの二つが交錯する場を構築するにはどうするかということだったわけ。『情況』は思考が交錯する「場」だったから、ある程度この二つをつなぎ合わせることができた。しかし運動の場ではできなかった。両者は次元が違うんだね。」
 今回の特集に拘泥して述べれば、〝メデイアがひらく運動〟というベクトルはありうると思う。つまり運動自体における共同性を開いていくことは、可能だと思う。だが、セクトの運動が閉じていく方向にある限り、永続的な交錯はありえないということになる。
 他に、秋山道宏他「社会運動とメディアの連環」、熊本一規「闘争終盤に東大全共闘になった」等に着目した。

[付記]本書には、李美淑「境界を越える対抗的公共圏とメディア実践――画家・富山妙子の「草の根の新しい芸術運動」を中心に」という力論が収載されている。富山妙子は八月一八日に逝去された。享年九十九。

(『図書新聞』21.10.23号)

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2021年6月19日 (土)

能登恵美子 遺稿集『増補 射こまれた矢』           ( 皓星社刊・21.3.7)

 本書の著者は、八五年、皓星社入社。『海人全集』、『ハンセン病文学全集』の編集を担当。一一年三月七日、逝去。享年四九。一周忌に刊行した遺稿集の増補版である。「二〇〇一年五月二十一日から二〇〇二年七月二十四日まで、能登恵美子が皓星社ホームページの「ハンセン病文学全集編集室」内で記していた編集日誌を、増補に際して収録した」と記されている。本書のほぼ半分に近い頁数を占める「編集日誌」は、真摯に関わっている『ハンセン病文学全集』刊行に向けての日々の心情を吐露していく。読みながら、切なくなってくる。
 「今回の粗選で、頭を抱えていたジャンルを順に示すと、短歌の選、俳句の選、詩の選だ。(略)短歌は、編集協力者でもある冬敏之さんに頼んだ。しかし、俳句[と詩]は誰に頼もうかと悩んでいたら、藤巻さん(引用者註・現、代表取締役会長)が詩人の清水昶さんに頼んでくださった。/清水さんは、皓星社のほうへ来て作業をしてくださるということで、今日から一緒にお仕事です。」(二〇〇一年六月四日)、「毎日清水さんは通ってきてくださる。梅雨に入ったようで、ご足労おかけいたします。」(同年同月七日)
 詩人、清水昶が、〝仕事〟で皓星社に行っていたのは本人から直接聞いて知っていたが、このように書かれて、わたしは、やや安堵している。しかし、後段の方で、清水昶が、「公明新聞」〇一年十一月四日付日曜版文化欄に発表した「ハンセン病文学の彼方へ」という文章に対して、能登は厳しく批判している。清水の錯誤した発語が確かに多々散見されているが、能登が最も強く異を唱えていたのは、「ハンセン病の長い歴史において記録文学として貴重な価値を持つ」という捉え方に対してだった。
 「私は文学者ではありません。おこがましいとは思いますが、清水さん。記録文学という言い方が私は良く理解できません。「私がこの場所で、私が生きている時代の中で、生きていることをありのままにしるす(刻む)」ことは文学ではないのでしょうか。」(〇一年十一月七日)
 清水昶は、能登の数か月後(五月三〇日)に逝去。
 「『ハンセン病文学全集』は文学全集として成立するのか。と思われる方々も多いでしょう。ある意味、『ハンセン病文学全集』が成立するという背景がハンセン病が抱えている問題点ともいえるのではと思います。明石海人の有名な『白描』に「(略)――深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない――そう感じたのは病がすでに膏盲に入ってからであった。(略)」とあります。人はなぜ物を書くのでしょう。海人は病を得、病み重ねてゆく。不治といわれた病と闘いながら書きぬきました。」(「みみずく通信」創刊準備号…掲載日不詳)
 能登は、編集者ではあるが、ここで明石海人の言葉の表出へ、同化していくかのように述べていく時、彼女もまた表現者となってハンセン病文学を体現していこうとしているといっていい。それは、記録を超えた文学という表現の水位へと言葉を刻んでいることになるのだ。
 「能登は、二〇〇三年の九月二九日うつ病と診断されてから「むくろじ」と名づけたインターネットの掲示板を開設し俳句を書き続けた。その句は千句以上になるが折に触れて改作し、自選句としてまとめていた」という。何句か引いてみたいと思う。
 「無患子やいのち絶つなと秋の声」「寒冷や谺となりて魂が」「ゆっくりと色無き風を抜け歩く」「枯れたなら木枯らしとなり雪花となれ」「いのちの底から眺める冬の月」「眼底の底の底の白魚よ」「なれぬならただ一群の鬼芒と」「だれかれに与たうる命たれの物」「骨片をまきし谷底雪ましろ」「生きようとする心ありトマト切る」
 けっして、心地よく読める作品とはいえないが、作者の心象を少しでも理解したいと思わせるものを選んだつもりだ。懸命な眼差しとでもいえることが、この短い詩型に満ちている。分っているよとひと言、いいたい欲求を抑えることができない。
 本書の「序文」として鶴見俊輔(一九二二~二〇一五)は次のような文章を寄せている。
 「ハンセン病のことに打ちこむ人は、矢を射こまれたようにこのことに打ちこむ。英国から熊本に来て、全財産をこのことに投じ、生涯を捧げたリデルがおそらく最初の人で、その後、日本人からそういう個人が現れた。能登さんは、そういう人の一人だ。/この矢を抜いてくれと叫びたいときはあっただろう。しかし、矢を抜いてもらわない生涯を生きた。」
 確かに、「ハンセン病のことに打ちこむ人は、矢を射こまれたようにこのことに打ちこむ」のかもしれない。書名の「射こまれた矢」は、この鶴見の一文から採られたはずだ。しかし、「矢を抜いてもらわない生涯を生きた」は、わたしは鶴見のいい読者ではないから、わからないが、少しきついいい方のように思える。
 俳句作品を読む限り、けっして能登恵美子は強い人ではない。関係性を拒絶するような独歩の人でない。人と人の関係性のなかにひとつの慰藉を求める人であると、わたしならいいたいと思う。

(『図書新聞』21.6.26号)

 

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2021年5月29日 (土)

堀江朋子 著                             『西行の時代――崇徳院・源義経・奥州藤原氏~滅びし者へ』(論創社刊・21.1.20)

 『西行の時代』という書名に、著者の溢れる思いが込められている。周知のように歌人、西行は鳥羽天皇の時代、北面の武士・佐藤義清として、平清盛とともに仕えていた。迷妄する天皇位継承と藤原摂関家の政治力の衰退がやがて、平家、源氏という武門、武家勢力の台頭によって、大きな転換期に向かっていく時期に、西行の生きた時代、歌人として生きた時代が照応していたということになる。わたしは、かつて歌人、西行という存在を国語教科書的に認知していただけだったといっていい。七六年に文芸誌『海』で吉本隆明の「西行」論が始まった。「僧形論」の後、「武門論」として連載が引き継がれていった時、西行は武士だったが出家したのかと、やや大げさにいえば衝撃を受けた。それは、たんに無知が露呈したに過ぎないのだが。
 「西行の出家の理由は具体的に追求していけば、どこかで立ち消えてしまう。だがこういう歌(引用者註・「出家した直後の体験を背後にひかえた歌」をさす)でたどった西行の心の劇をみると、歴史に加担するか宗教に加担するかの帰路にあって、宗教感情に就いたことは確かなようにみえる。(略)でも出家を決意し、実行することはどんなことで、どんな心の葛藤に出会い、周囲の人々とどんな疎隔に見舞われるものか、あたうかぎり複雑な陰影をこめて表現してみせた。それができるほどの力量ある歌人は西行のほかなかった。」(吉本隆明「西行論」)
 わたしは、吉本の西行像は、著者が想い描いた渦動する時代のなかで真摯に思考していく西行像と通底していると捉えてみたいと思う。
 著者は、若き義清(西行)と清盛の対話を次のように描いて見せている。
 「「目に見えぬ、それでいて人々を畏怖させる力。神や仏に近い力。永遠に続く力。それが欲しい」清盛は重ねて言った。/ややあって、義清は言った。/「目に見えぬ力? 永遠に続く力? そうだ民の力だ。民の力。それこそが永遠に続く力だ。畑を打つ、土を耕す、木を切る、猪を射る、機を織る、人が生きるために使う力だ。そして、この力は永遠に受け継がれる」/清盛は、義清の言っていることの意味が理解できずに、興ざめたような顔になった。」
 やがて出家する義清(西行)に、このように語らせる著者の思いは、深い。「人々を畏怖させる力」を求める清盛と、「人が生きるために使う力」は、「永遠に受け継がれる」と述べる義清(西行)の間には、大きな懸隔がある。思いを寄せる侍賢門院とその子崇徳天皇のことを心の奥に仕舞い込み、妻と三歳になる娘と別れ、西行は出家する。二十三歳の時だ。
 西行は佐藤家の祖にあたる奥州藤原家を訪れ、あらためて思う。「都の摂関家の浮き沈み、皇位争い、陰で天皇、上皇をあやつる女院たち。平家をはじめ、武者たちの勢力争い。在地の領主たちの土地を巡っての争い。平泉が孤塁を守ることはできないだろう、それが現世のさだめだ」と。西行が向かう先は、次のような世界だ。
 「その現世が厭わしくて出家したのではない、と改めて思った。人の生が愛おしいと思ったから出家したのである。滅びの予感があっても、負け戦であっても人は戦う。その生が愛おしい。」
 そして、〈時代〉は大きなうねりをもって、進んでいく。清盛の死を契機に、源氏再興の旗揚げをした源頼朝が平家と対峙していき、平家は滅亡した。「平家の栄華の時を知っている西行には、そのすべてが幻と思えた」のは、当然のことだった。西行は思う。
 「現世は幻なのだ。幻に縋って私たちは生きている。今という時も、桜の花びらのように儚く消えていく。」
 頼朝と義経の対立が、奥州藤原家を巻き込むかたちで露出していく。義経の死、奥州藤原氏滅亡。
 「秀衡の死に急かされるように、西行は生まれ故郷紀ノ川に近い河内国葛城山にある弘川寺に草庵を構え、嵯峨野から移った。やはり故郷は懐かしい。/ここで死を迎えたい。西行は七十歳を迎え、体力の衰えをしみじみと感じていた。」「歌を詠むことは、権威や武力、いや仏法思想をも超え、人間が造りだしたこの世の理すべてを超えた場所に、自分の魂を置くことだった。」「頼朝は「敵対する者、敵として滅んで行った人々、その縁者にも、情けの心を持って下さい」という西行の言葉を思い出していた。」
 著者が描く「西行の時代」は、けっしてこの国の中世だけを描出しようとしたわけではない。中世の時代を照らし出しながら、〈現在〉を開いているといっていいはずだ。西行に込めた著者の思いは、鮮烈だ。
 揺らぐことのない明晰な視線を持って、コロナ禍が拡がり、政治というものの空洞化が進む、〈現在〉の深層を捉えているといいたいと思う。

【付記】堀江朋子さんは、一月二日に亡くなられた。わたしが、最後に堀江さんとお会いしたのは、一昨年の十一月のコスモス忌(秋山清さんを偲ぶ会)の会場でだった。堀江さんとは何度も酒席を共にして楽しく歓談させていただいた。思い出は消えることはない。

(『図書新聞』21.6.5号)

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2021年3月20日 (土)

富岡幸一郎 著『古井由吉論  文学の衝撃力』          (アーツアンドクラフツ刊・20.9.23)

 古井由吉(一九三七~二〇二〇年)が逝去して一年経った。享年八十二が早すぎるのか、そうではないのか、判然としないが、やはり、やや早すぎるのかなと思う。わたしは、古井作品を熱心に読んできたわけではないが、『野川』(〇四年)までは、競馬エッセイも含めて断続的に接してきたつもりだ。それ以降は、やや遠くなったといっていい。だが、古井由吉なら単著での作家論が、何冊かあってもいいはずだ。しかし作品論や作品評は数多くあると思うが、本書が初めての古井論の単著ということになる。敢えて末端の読者の一人として述べてみれば、おそらく、やや晦渋な文章(文体)が古井論を表出することを困難にしているといっていいかもしれない。本書は、巻末に、著者と古井との対談二篇(八九年、一五年)が収録されていて、古井論を補完していることを強調しておきたい。
 ほぼ全作品に渡って解読していく著者の視線は、精緻にしかも深遠に射し入れていく。
 「「杳子」という作品の出現は、近代小説で描かれてきた「恋愛」の空間を新たな次元へと変容させつつ、そこでこれまでにない小説の可能性を示した。それは、恋愛という関係性を男女の心理や意識の領域から解き放ち、内面的な(自我と関わる)出来事として描くことの限界を超えていったことである。」
 著者が、このように「杳子」を捉えていくことに異論はないが、古井の作品世界を、「「恋愛」の空間を新たな次元へと変容させつつ、そこでこれまでにない小説の可能性を示した」といわざるをえないことに、古井論の難しさがあるといっていいかもしれない。だが、著者は、大胆に切開してく膂力をこの古井論のなかで示していく。
 「古井由吉は、(略)現代世界の実相を小説というジャンルによって最も先鋭に描き続けた作家である。硬質かつ緊密な抽象度の高いその文体の特異な小説空間は、一見すると現実を映し出すリアリズムとは異質のように思われる。しかし、現代世界の、その現実と社会の微細な流動を、これほど稠密に根底的に作品化した作家は他にいないのである。古井文学は、文学史の名称で「内向の世代」の文学などといわれたが、その作品はむしろ逆に、現実の外界の正体を描き出すところに最大の特色があるといってよい。」
 「現実の外界の正体を描き出す」といいきることによって、わたしなどが思い込んでいた古井由吉の世界を解体していく。代表作のひとつとして称揚される『槿』は、さらに脱構築していくかのように述べていく。
 「家族の親和性や血縁の桎梏が崩れ去り、社会の慣習性や伝統の秩序がことごとく無化され、人間が剥きだしの「個」として晒される虚無の地平が、この作品の真の舞台なのだ。」
 もちろん、わたしは古井由吉を「内向の世代」の作家として読んできたつもりはない。当たり前のことだが、古井由吉は、作家・古井由吉として屹立しているのだ。三七年十一月生まれの古井は、敗戦時、七歳であった。自分が七歳から八歳といえば、小学一年から二年にかけてということになるが、それなりに記憶は残っている。戦後生まれのわたしには、大きな様態が横たわっていたわけではないから、平凡な幼少期ということになる。戦禍のなかであれば、やはり大きな衝撃として記憶は残存し続けることは当然のことだといっていいかもしれない。
 古井は著者と一五年に行った対談の中で「今の作家が最も苦しんでいるところは、歳月というのが実につかみがたいということです。これは僕のような年寄りも、中堅どころの作家も、新人もそうだと思う。いま戦後七十年と言うでしょう。はたしてその七十年が長かったのか、短かったのか。(略)三七年には日華事変が始まった。それから間もなく総動員令が出て、それから四〇年に大政翼賛会ができた。その四年後には、僕なんかは無差別空襲の下を走っているわけです。あげくに原爆が落ちた」と述べている。
 古井の七歳時の記憶が、その後の作家活動のなかで、大きな源泉となったことを、著者に誘われるように了解することになる。
 「戦時下の災厄のなかに平穏があり、平和な日々のなかに残虐な破壊がある。いや恐怖と陰惨、安寧と快楽は同じ地平にあって、内は外であり、外は内となる。(略)古井作品の「可能性感覚」はさらに研ぎ澄まされはじめる。それは視覚の記憶にうちにひそむ、聴覚と臭覚の感受が驚くほどの密度をもって言葉で掬され作品を覆いつくしていくからである。」
 「視覚の記憶」が古井文学のひとつの核としてあることは理解できる。理念や理屈で理解することではない。感覚や視覚が記憶を濃密なものにしていく。そこにわたしたちが読むべき物語が開かれていくことになるといっていいはずだ。

(『図書新聞』21.3.27号)

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2021年2月27日 (土)

藤田晴央 著『空の泉』(思潮社刊・20.12.25)

 前詩集『夕顔』から、七年ぶりに刊行された新詩集は、詩篇の一作一作に込められた詩語は、これまでの藤田晴央の詩世界とは幾らか違う装いを表出しているような気がしてならない。藤田とわたしは、詩人・清水昶を介して知りあい、四十年以上の時間を共有してきた。清水昶が亡くなって、まもなく十年になる。わたしは、清水昶が亡くなった年齢を超え、藤田は今年、清水昶の享年に辿り着く。清水昶がよく述べていたいい方でいえば、歳月茫々といっていいかもしれない。詩の言葉も、批評の言葉も表出する側の年月が刻まれていく以上、ささやかな変容は素直に受け入れていくべきかもしれない。
 「陽が射し/雪が溶け/あかるい木肌をみせる/切り株が/しめった切り口いっぱいに/空を吸い/(略)/手を伸ばし/空に触れようとしている/空に触れながら/わたしの頰にも触れる/(略)/わたしは立ちつくし/空を仰ぐ/亡くなったものの/生きていた時間は/切り株の樹影のように/青々と/そよいでいる」(「切り株の樹影」)
 「空を吸い」、「空に触れ」、「空を仰ぐ」という詩語を受けて、「亡くなったものの/生きていた時間」を潜在させていく。本詩集の「あとがき」に、著者は、「『夕顔』を出したのは二〇一三年だった。その前年、私は長年連れ添った伴侶を病のために失」ったことを記している。わたしも親しくさせていただいた伴侶の雪乃さんは、一二年一一月一四日に亡くなられた。五七歳だった。
切り株と空との往還は、生命の有様を投影していくことになる。
 「ひとつの風から/ひとつの風へと/移り また移り/わたしは上昇してゆく/空へ」(「風の接線」)、「しゅう ぽうん/ときの闇にあらわれる/いのちの火花//おまえが亡くなってから/二回目の夏/しずまりかえった寝室にとどく/遠い花火の音/しっこくの夜空に咲きちる火の花たち」(「花火」)、「あなたが亡くなった秋/その秋と同じように/彼方から白鳥が/空を青く染めている//あの秋から/空が広くなった」(「あの秋から」)
 著者は、追憶の年月を空へと思いを託すことになる。
 「わたしは上昇してゆく/空へ」、「しっこくの夜空に咲きちる火の花たち」、「青く染めている」空、「広くなった」空、空は、ただ天空にあるものではない。「切り株の樹影」の詩篇のように、生きてある場所、つまり切り株が根を下ろしている地面という場所と繋がっていることをこれらの詩篇たちに著者は語らせている。それは、物語には終わりはないということであり、語れば語るほど尽きない物語が湧いてくることを意味する。「詩とは、そのこんこんと湧いてくる泉である」(「あとがき」)と著者も述べている。
「黙々と雪かきをしていたら/スコップが切った雪の中に/小さな裂け目があり/そこだけが青い/水色と藤色の中間くらいのほの明るい青/空の色を映しているのかと見あげても/灰色の雪空」(「雪の裂け目」)
雪に空の色が映ってみえると思うことの鮮烈さ、反転して「灰色の雪空」だったとしても、空と地面は繋がっているのだ。
 「あの秋の暮れ/全身から/いのちの小人たちが火の粉のように/空に昇っていったのだから//今 たましいは/この無数に降りしきる雪にのって/舞い降りているのだろう/(略)/ふり仰ぐ頭上に/たましいの泉があり/わたしは/湧きでるものに/のどをうるおしている」(「空の泉」)
 わたしたちは、一人で生きているわけではない。大勢の人たち(家族であり、友人であり、知人であり、見知らぬ人たちでもある)の生の日々、時間性のなかで、地面に立ち空を見上げてきたといってもいい。「全身から/いのちの小人たちが火の粉のように/空に昇っていった」物語をわたしは、共有できる。生も死も、「たましいの泉」のなかにある。そう思うことは、けっして難しいことではない。もちろん、それは、わたしたちが確実に、多くの時間を重ねてきたからだということになるとしても、一日一日を刻んでいくことで、日々の流れは、豊饒なものになっていくはずだと、藤田晴央の新詩集は伝えているのだ。

(『図書新聞』21.3.6号)

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2021年2月20日 (土)

暮尾 淳 著『暮尾淳詩集 生きているのさ』           (川島書店刊・21.1.11 )

 暮尾淳、逝去の報(二〇二〇年一月十一日)に接して、思ったことは、最後に会ったのが、ちょうど一年前の一九年一月十一日だったということだ。そして、その日は、喫茶店で珈琲を飲みながらの歓談だった。わたしが、暮尾淳と親しく通交するようになってから、酒を飲まないことはなかったので、心に残る歓談だったといっていい。
本詩集は、二〇〇九年から一九年までに発表された詩篇から、遺族の方によって三十一篇(逝去後の二〇年に掲載された詩篇も含む)で編まれた詩集である。
 暮尾淳による表紙絵がいい。書名から暮尾淳の声が聞えてくる。
 「私鉄の駅のすぐ傍の/線路沿いのやきとり屋で/雪もちらつく夕暮れどきの/何度目かのガタンゴトンを聞き/焼酎のお湯割を飲んでいたら/(略)/お客さんはお幾つですか/カウンターの隣の白髪まじりの男が/とつぜん声をかけるので/七十六になるところですと応えると/お若く見えますねぇなのだ。/(略)/たしかに世界は荒む一方で/落語が好きだった伊藤さんも/そうではなかったろう石垣さんも/こんな人間文化のどんづまりを見ないで/この世からおさらばしたが/おれはそういうわけにもいかず/ゴットンゴトンゴゥオー/一輪挿しのくたびれた花びらを/ふるわせて電車はまた過ぎ/明日も生きているのさ。」(「生きているのさ」―[註・伊藤さんは伊藤信吉、石垣さんは石垣りん])
 暮尾淳の詩篇に接すると、詩語のなかにまぎれもない暮尾淳の呟くような声と発語が聞えてくる。そのような詩作品を、わたしは暮尾詩以外知らない。歳を聞かれて、「七十六になる」と応えたら、「お若く見えますね」といわれたということを描出していくわけだが、「お若く見えますねぇなのだ」といい切っていくことによって、独特の情感を湛えていくからだ。さらに、「たしかに世界は荒む一方で」と述べながらも、そこには皮相なメッセージ性を引き込まず、「明日も生きているのさ」と繋いでいく。
 巻頭に置かれた「スカイプ」は、次のように書き出されていく。
 「テレビ電話の時代など/考えもしなかったろう親父のことを/ふと思い出しながら/撫でたいなぁそのおかっぱ頭をといえば/ここはサッポロだからできないよと/パソコン画面の孫娘は/東京の四Fで缶ビール片手のおれにいい/あっ!じいじのカラスが鳴いている」
 酒場で一緒に飲んでいた時、わたしに札幌に転勤した息子さん一家が、孫たちと会話できるようにスカイプを設定してくれたことをうれしそうに話してくれたことを思い出した。札幌は、暮尾淳の生地で、だから、「親父のこと」と述べていくことになる。そして、この詩篇の最後の五行は、次のように結んでいく。
 「保を分解してイロホと号していた親父よ/あの世にスカイプ行ったなら/お袋も兄貴もあの姉も弟も/みんな本音で笑って泣いて/そんなやりとりできないものかな。」
 本詩集の巻末に略歴が掲載されていて、暮尾淳が参加した詩誌を確認できる。「未踏」、「あいなめ」、「コスモス」(第四次から終刊号まで参加)、「プラタナス」。九〇年、「騒」創刊。長く続けていた「騒」を終刊した時は驚いたが、二〇一五年に「Zero」を創刊し、毎号、暮尾詩を読むことができた。十三号(一九年十一月刊)に、掲載された詩篇に接した時、入院中であることは知っていたが、それでも、冷静に読めなかった。本詩集にも収めている。
 「なるようになるのは/死ぬこともそうだが/おれの心肺能力では/五〇行ほどの/そろそろちかいおれの死へ/という作品を/書こうとして/毎日病室で/粘ってみても/一行もできずに/眠る日々だから/先のことは/哀しいけれど/ケセラセラ/誰にもわからない」(「病室にて」)
 第十四号(二〇年五月刊)には、同人たちの追悼文とともに、本詩集の最後に配置された「病気の男」が掲載されているが、「病室にて」の方がはるかに辛い情感が伝わってくる。「死ぬこと」、「死へ」と言った言葉が、詩語として立ち上がることの難しさ、といいたくなる。わたしは、詩人ではないが、詩を愛唱し続けてきたという思いはある。そうであるならば、詩人が、必死に詩語を紡ぎ出そうとすることの意思は、生きていこうとすることの苦しみなのであろうか。「一行もできずに/眠る日々」があってもいいではないかと、いいたくなるが、それは詩人にかける言葉ではないことに気付いてしまう。
 暮尾淳は、わたし(たち)に多くの共感を与えくれた詩篇を紡ぎ出してきたからだ。

(『図書新聞』21.2.27号)

 

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2021年2月 6日 (土)

北村皆雄 聞き手/松村 修 編著                『沖縄・西表炭鉱 抗夫聞き書き1972』             (発行・樹林舎 発売・人間社 --20.11.16)

 本書の頁をめくり、「はじめに」へ視線を射し入れた。そこで不思議な感慨を抑えることができなかった。映画『アカマタの歌――海南小記序説/西表島・古見』の制作のために、出てくれた「村の人たちから聞いた話をもとに、西表島西部炭鉱生き残り元抗夫を聞き取り撮影したテープの書き起こし記録」が本書なのだが、「海南小記」は、もちろん柳田國男の『海南小記』に由来するが、「アカマタ」は、西表島古見部落の「アカマタ・クロマタ祭儀」(本書では「祭祀」としている)のことを指している。この祭儀は秘儀であり、撮影は禁止なのだ。「想像していたことではあったが、あまりの剣幕にやむなく我々は、撮影機材等を置き、撮ることをやめた。しかし祭りを観ることはできた。祭りが終わったあと村の十七軒の家族を撮影させてもらいながら話を聞いて回った」と述べている。
 わたしは、かつて「祭儀論―天皇制における共同体的構造」(八回連載・未完)と題した論稿を『天皇制研究』(JCA出版・80年1月~86年8月)という雑誌に連載していて、連載六回目は西表島古見部落の「アカマタ・クロマタ祭儀」を取り上げた。現地に行ったわけではなく、幾つかの研究書を手掛かりに論稿を進めていったことになる。いまこうして、本書に出会ったのも、なにか、ひとつの縁といっていいかもしれない。
 しかし、本書に接して、南島の列島群に炭鉱があったことは、まったく想起できなかったといえる。
「西表島で石炭が採掘されるようになったのは、明治十八年(一八八五)に三井物産株式会社が内離島で試掘をして、明治政府が西表島の石炭に関心を持ったことにはじまる。(略)昭和十二年(略)からの日中戦争を経て、最盛期には千人前後の抗夫を使役して(略)採炭が活発に進められた。(略)太平洋戦争後、炭坑(ママ)は一時アメリカ軍に接収され再開したのち民間に払い下げられたものの採算が合わず撤退となった。」
 そして、敗戦後も、そのまま西表島に残って暮らしつづけた人たちに、七二年、聞き取りを行ったことになる。
四十二歳の時、星岡炭鉱の募集をみて、昭和十三年に熊本から来たという日高岩一は語る。
「(炭鉱には何人ぐらい働いていたかと聞いたことに対しての応答)台湾人、朝鮮人からみんなで五十人くらいおったですね。台湾人は十四、五人おったでしょうな。朝鮮人の人は少なかったですね。五、六人でしたね。あとは内地人と宮古、八重山の人でしたね。」「(台湾の人や朝鮮の人はいじめられていたかと聞くと)いえ、皆同じことです。それは差別は無かったです。働きさえすれば、台湾人は、またよう働きます。」
 西表島には、幾つも炭鉱があって、それぞれで様相は違っていたと思われる。野田炭鉱で働いていた太田(名前は不明)は、次のように述べている。
 「炭鉱の親方としては差別はなかっただろうな。人手が欲しいから、じゃが一杯飲む時には差別はあったとみえるですね。日本人は必ず琉球もんとそのとき馬鹿にしたですからね。(略)台湾人なんかまだ下ですよ。」
 同じ野田炭鉱で働いていた福島出身の君島茂は、炭鉱で亡くなった人は、どこに葬られたのか尋ねたのに対して、次のように語っている。
「あんたらウタラ(宇多良)まで行ってみましたか、ウタラ。(略)あそこに墓地があるんですよ。墓地に全部納めてあるんですよ。そして亡くなった人に対する慰霊祭はよくやりましたよ。結局、親方自体も亡霊に悩まされたくないんだろうな。きついこと言っておってもね。もう年に三回はね山の神といって山の神祭があるわけだ。三、五、九とね、その明けの日は慰霊祭といって拝んでから、坊主呼んでね、懇ろに弔っていましたがね。」
 やはり、神宿る島だといっていい。
 台湾から西表に来た、周沈金と陳蒼明の二人の言葉は、過酷さを体験したことが滲み出ている。「時々バカヤロウとかね、この台湾のチャンコロとかね、言うばい」(周)、「もう戦争が止めたからよ、そのままこっちに居たわけさ。人夫は皆んな台湾に送り帰してよ、戦後よもう炭鉱やらんから皆な帰って、自分だけまた復興しようと思うてよ、炭鉱起こしてやろうと思うてよ、待っておったさ」(陳)と述べているが、炭鉱は辞めて農業をすることになる。南島からみれば、最も近い本土は九州である。そこには三池炭鉱があった。やがて、エネルギー源は石炭から石油へと移っていく。三池争議は五九~六〇年というまさしく六〇年安保闘争と重なっていく。
 南島の神々の祭儀の行われる島に、炭鉱があり本州から、朝鮮半島から、台湾から労働者あるいは請負人としてやってきたということが、ひとつの歴史的時間を持っていたことに、アジアが有する〈混沌〉を、わたしなら感受してしまう。

(『図書新聞』21.2.13号)

 

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