2020年11月21日 (土)

加藤英彦 著『歌集 プレシピス precipice』         (ながらみ書房刊・20.8.31)

 第一歌集『スサノオの泣き虫』から十四年、待望の第二歌集が届いた。歌集名の〝プレシピス〟は、聞き慣れない言葉だが、「危機的な状況や断崖の謂いで、この数年、集団的自衛権や沖縄の基地問題、原発の再稼働や憲法改正など、政権は急速に危うい方向へと舵を切りはじめたように思う。そんな暗鬱な時代への喩をこめ」たと作者は「あとがき」のなかで述べている。この二十年間を振り返ってみても内と外で様々な大きな動態に接してきた。そして、理不尽なことへの憤怒から親近なる人たちの〈死〉へと、わたしたちは、年齢を重ねながら遭遇し、多様な時間を経てきたことになる。

 ひとつずつ忘れてゆけばいつの日か生まれし海にもどれるかもしれぬ
 いま夢はどのあたりなるあの沖にいつかは母もねむる日がくる
 なびくことなき隊列として山の腹には千本の杉の直立
 声をしぼれば昏き淵よりくさぐさの語りつくせぬもの立ちあがる

 海や山へ思念を飛翔させてみれば、生と死の往還を絶えず透視できるような気がしてくる。生と死は断絶して、あるのではなく連続したもの、円環しているものとして、想起させてくれるからだ。
 「いま夢はどのあたりなる」と語る作者の思念のなかには長い時間が胚胎し続けている。だから、ほんとうは「ひとつずつ忘れてゆけば」いいというわけではないのだが、忘れることは、けっして哀しいことではない。
 「千本の杉の直立」は、確かなものとして、わたしたちを喚起させてくれる。諦めることはない、「語りつくせぬもの」を立ちあがらせるのだと、いってみたくなる。

 土ふめば足裏にうすく纏いつくガジュマルの影 沖縄の翳
   辺野古の海をとりもどせ――。
 掌のなかにまだ小石ほどの熱もてば鳴らせる鐘のすべてを鳴らせ
 ふくろうが翔びたちてゆくもうだれも泳ぐことなき海の冥さへ

 「足裏にうすく纏いつく」ふたつの影・翳が鮮烈だ。列島の人々は、ふたつの影・翳の有様を感受しなければならないと思う。そして、その先へ視線を走らせることを忘れてはならない。作者は、影・翳を起点として、「鐘のすべてを鳴らせ」といい、「海の冥さへ」と向かっていく。滾る想いは南島を照射する力となっていくはずだ。しかし、だからといって、視線は絶えず地を這うようにして向けていくべきだと作者は語っていると思う。列島と南島の間には深い暗渠が横断しているからだ。そこを少しずつでも埋めていかなければならない。

 いつかわたしも消える日が来むその日まで騙しつづけてゆけわたくしを

 「いつかわたしも消える日が来む」、確かにそうだと思う。だから、「騙しつづけてゆけ」と鼓舞することの思いは切実だ。十四年という月日に、どんな意味があるのかなどとは、わたしは思わない。たぶん、作者もそうだと思う。一年も十四年も、わたし(たち)にとっては、同じ時間があるだけなのだ。

 燃える水のありかをめぐり百年を諍いやまず国家というは

 「燃える水のありか」は、様々なことの暗喩だといっていい。そこには、原発の蒙昧も南島の苦渋も、息苦しさの現在も胚胎していると見做していいと思う。だから、「暗鬱な時代」を生き続けるわたしたちは、「国家」を相対化していく視線を手放してはならない。「わたくし」から、絶えず、「国家」を透徹していく方途を見定めていくことを、〈プレシピス〉の歌群たちは、叫んでいるからだ。

(『図書新聞』20.11.28号)

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2020年10月24日 (土)

山田邦紀 著『今ひとたびの高見順               ――最後の文士とその時代』(現代書館刊・20.6.25)

 高見順(一九〇七~六五年)を、わたしが意識的に関心を抱くようになったのは、七十年代か八十年代か判然としないが、『いやな感じ』(六三年刊)という作品を知ってからだ。『故旧忘れ得べき』、『如何なる星の下に』といった戦前期の作品ではなく、晩年の『いやな感じ』と詩集『死の淵より』によって、高見順が親近な作家として、わたしのなかでかたちづくられていったことになる。同じころ、タレントの高見恭子(高見順が亡くなる直前に養女として籍に入れている)がテレビに出て父は高見順であると公言していたことに不思議な感慨をもったといっていい。高見順自身も私生児であった。
 高見順について、わたしはほとんど知らないできた。日本民藝館に行った時に、日本近代文学館に何度か訪れたことはあるが、創設に尽力をしたことは知っていたが、それ以上の関心を向けることはなかった。
 本書は評伝である。「四苦八苦して自分なりの工夫を試みたつもりだが、「高見順を通して見た昭和史」という目論みが成功したのかどうかは正直わからない」と著者は「あとがき」で述べているが、読み終えて思ったことは、作家である前に一人の人間として高見順(高間芳雄)が時代情況とどう関わってきたのかということが、鮮明に浮かび上がってきたといっていい。そしてそれは、『いやな感じ』を書き上げたことにつながっていき、わたしは高見順の有様をあらためて考えることになったのは、本書を読み通したからだと率直にいいたいと思う。
 高見順の父親は福井県知事・阪本釤之助(長兄は永井荷風の父)である。「当時の知事は官選知事で、絶大な権力を持っていた」のだ。阪本が、「三国を巡察した際、三国の高級料亭「開明楼」」に四日間、滞在した時の接待役が地元の「美貌の素人娘であるコヨ」だった。この時に高間コヨは阪本の子を身ごもる。明治三九(一九〇六)年のことである。「私生児であるという事実は、高見順を生涯にわたって苦しめ続けた」と著者は述べていく。認知を拒み続けた父とは、葬儀に参列したが直接会うことは一度もなかった。
 母と祖母の三人が三国を離れて上京したのは、高見順がまだ一歳の時で、〇八年九月だった。「釤之助邸のすぐ近くだ」った。
 府立一中(現・日比谷高校)、一高、東京帝大と進学していく。府立一中四年生時、大正十二(二三)年の九月、関東大震災が生起する。高見順はその頃、有島武郎に惹かれていたが、やがて、「大杉栄の作品を読むようになる」。著者は、「白樺派とアナーキズムの間には距離感があるものの、順の中ではそれほど矛盾しなかった」として、高見順の次のような言葉を引いていく。
 「調和的なヒューマニズムと破壊的なアナーキズムの間に一見つながりはないようで、私にはそこに自我の重視という点で共通するものを見た。ヒューマニズムが自我の確立を私に教えたとすると、アナーキズムは自我の拡充を私に教えた。」(高見順「青春放浪」)
 多感な十代半ばを思えば、大杉栄から、「自我の拡充」を喚起されるということは、庶子として生まれ育ってきた自分を律するための原初の有様だったといっていいはずだ。だから、震災時の「大杉栄・伊藤野枝が殺された甘粕事件」に衝撃を受けることになる。そしてそれは、晩年の傑作『いやな感じ』に結実していく。事件の深層を著者はかなり詳細に述べているが、直接、本書を読んで欲しいと思う。高見順は戦時下に報道班員として満洲に渡り、甘粕正彦(敗戦直後、自死)と何度も会っているということも興味深い。
 小説を書き始めるのは、一高入学以降である。そして帝大時代、三好十郎、壺井繁治らと『左翼芸術』を昭和三(二八)年に創刊、初めて筆名・高見順を使用し、「秋から秋まで」という作品を発表する。
 「順は昭和八年一月のある日、日本プロレタリア作家同盟城南地区キャップとして街頭連絡に出ている時に逮捕され、大森署に留置された。」
 「拷問を受けて転向」し、釈放されたのは三月の初めだった。その間、最初の妻、石田愛子が離れていく。二年後、水谷秋子と再婚。
昭和十六年十一月、陸軍報道班員として徴用されビルマ派遣となる。サイゴンに向かう船の中で、日米開戦を知る。その後、十九年六月からは、中国へ。帰国は十二月十日。翌年、敗戦。
 そして、高見順が、「私としては渾身の勇と力をこめて書いた」作品『いやな感じ』を著者は次のように述べていく。
「「いやな感じ」はアナーキストでありテロリストでもある主人公を中心に、昭和初期から昭和六(略)年の満州事変、昭和十一(略)年の二・二六事件を経て昭和十二(略)年に始まった日中戦争までの約十年間の激動期を描いた作品で、作家・川端康成は「異常な傑作」と激賞した。」
 『いやな感じ』の雑誌『文学界』での連載は昭和三十五年一月号から三十八年九月号までだ。あの〝六〇年安保闘争〟が苛烈化していく時期に連載が始まっていったことに、不思議な繋がりを感じる。そして、現在(いま)は、それから六十年という時間を経てきた。
 〝今ひとたびの〟と書名に関した著者の思いを、わたしは真摯に受け止めたいと思う。

(『図書新聞』20.10.31号)

 

 

 

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2020年10月17日 (土)

石川捷治・中村尚樹 著『KUP選書 1                スペイン市民戦争とアジア―遥かなる自由と理想のために』(九州大学出版会・20.8.31)

 一九三六~三九年にスペインで生起した内戦は、世界史的視線を通してみても多くの重要な問題が孕んでいたとわたしは考え続けてきた。一七年、ロシア革命によってボリシェヴィキ政権が成立、二四年にレーニンが死去するとスターリンが全権力を掌握してソ連は独裁国家へと変容していく。三二年に関東軍によって傀儡国家、満洲国が建国され、大日本帝国がアジアを圧制していく。三三年、ドイツではヒットラーが首相となりナチズムが席巻していく。イタリアは二二年からムッソリーニ政権が続いていて、日独伊三国同盟が結ばれたのは四〇年であった。
フランコら一部の陸軍が共和国政府打倒に蹶起したのが内戦の始まりだった。フランコは独伊の支援を受け、満洲国を容認した見返りとして日本からの承認を得ていくプロセスは、反乱側の象徴的な様態を示していた。対抗する側が、ソ連スターリン政権が支援していくが、やがて対立していくアナキスト、トロツキストとの抗争に邁進していくこととなり、共和国側は自壊していくこととなる。
 本書の書き出しを引いてみる。
 「一九三〇年代後半の世界政治史における焦点の一つはスペインにあった。スペイン戦争の帰趨は、第二次世界大戦への道を開くのか、それともそれを阻止しうるのか、という岐路に位置づけられていた。」(「プロローグ」)
 もう少し過剰に述べてみれば、それは戦後の冷戦時代をも通観しうるものであったといっていいと思う。
 そして、「スペインではフランコ独裁体制が第二次世界大戦を越えて一九七五年まで続いた」(「同前」)が、それはフランコの死によって終わったに過ぎない。本書は、「内戦」ではなく「市民戦争」という書名を採っている。それは次のような意味からである。
 「「スペイン市民戦争」という呼称を用いるのは、クーデターが長期の国際的「内戦」になっていく過程に注目し、共和国防衛において世界的規模での市民の主体性が発揮されたという、戦争の主体と性格を重視したからである。つまり、人間が人間の尊厳を守るために闘う、その市民的主体性を表現したいと考えたのである。」(「プロローグ」・コラム)
 本書は、「プロローグ」と「エピローグ」を挟んで、「第一章 スペイン市民戦争と現代」、「第二章 今日のスペインに見る市民戦争」、「第三章 スペイン市民戦争とアジア」、「第四章 スペイン市民戦争と日本」の全四章で構成している。そして、スペイン市民戦争を詳述していくことを目指しているのではなく、戦争の内実が、現代(現在)を透徹していることに論旨を含ませていくといっていい。
 「「現代の内戦」は、スペイン市民戦争から始まるといっても過言ではない。(略)スペイン市民戦争が単なる内戦ではなく、国際的内戦ということであり、ある意味ではひとつの国の問題が同時に世界的な問題でもあるという「現代」の特徴を先取りしていたのである。(略)「現代の内戦」の系譜は、スペイン以後、中国内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争とつづくが、ベトナムでも一九七五年に戦争が終わった。(略)他方、もう一つの、民族や人種や部族や宗教等の対立を原因とする内戦は、(略)多くのところで今なお深刻な状況が続いている。」(「第一章」)
 確かに、コロナ禍のなかますます露出したかのように中国共産党の専制権力が香港市民を圧制し続けている。同じようなことが南米、タイ、ロシアの周辺国家、アフリカと、さらに、パレスチナはもっと暗い通路しか見えてこない。
わたしは、本書の中で最も惹きつけられたのは、〇三年一月から四月まで、「セビーリャとバルセローナを中心にスペインに滞在」時の報告である。
 「転ばないよう気をつけながら山道を下りて、その広場にたどりついた。入口には高さ六メートルほどの細長いコンクリートの柱が約三〇本並んでいる。四つの面を持ったそれぞれの柱には、ぎっしりと名前が刻まれている。この柱は、この地で虐殺された人々の墓標なのだ。」「(略)CNTの事務所で私を出迎えてくれたのは、市民戦争時代に民兵だったホセ・ガルシアさんだ。(略)彼は市民戦争時代の詳細については、あまり語りたがらないようだった。(略)深い思いがあるように思えた。バルセローナでは内戦中の内戦と言われた、アナーキストと共産党との激しい銃撃戦もあった。共産党はソ連の支援を受けて勢力を伸ばし、アナーキズム勢力の排除にかかったからだ。ホセさんは自分の眼で、そうした現実を目撃したはずだ。」(「第二章」)
 なかなか、過去の悲惨、悲痛な出来事を冷静に振り返ることは難しい。自分が被害者であるとともに加害者でもあるという背理を有するのが「戦争(内戦)」の現実である。理想を求めて闘うということは、無血はありえないということだ。それでも、なにかを求めて、闘う時、わたしたちはあらゆる方途を模索すべきなのかもしれない。

【付記】本書は、〇六年に『九大アジア叢書 6巻』として刊行したものをKUP選書1巻として刊行した新装版である。

(『図書新聞』20.10.24号)

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2020年8月22日 (土)

杉本真維子 著『三日間の石』(響文社刊・20.6.25)

 本書は、「図書新聞」紙上で十年以上に渡って断続的に連載している「裏百年まち」から三五篇、「群像」、「現代詩手帖」各誌に発表した二篇、未発表が一篇で構成している。著者は三冊の詩集(『点火期』、『袖口の動物』、『裾花』)を出しているが、詩集以外の単著は本書が初めてである。
 「裏百年まち」で著者が紡ぎ出す文章に、わたしが接してきて感受したことは、物語のような世界を言葉たちが交感しているということだった。それは、エッセイといったカテゴリーには収まり切れないことを意味する。もちろん、小説ではないし詩作品でもないが、著者が詩人であることを手放さずに言葉を紡いでいるからだといっていいと思う。あらためて、本書に接して、そのことをさらに強く感じたことになる。
 「鳩も私も、窪地の底に溜まった、闇の塊の一つなのかもしれない。誰かに幽霊とまちがえられながら、夜の墓地を歩く。寺の門前には数ヶ月間変わらず、同じ格言がライトアップされている――「これからが これまでを 決める」。時間が逆さに流れ、ぐるりと一筆書きにされた過去と、未来のあいだに、自分がいる、と思った。ひりひりと、これから、が出来ていく。」(「幽霊坂」)
 過去と現在の自分、そして未来はどんな繋がりがあるのかと、わたしもまた考えたことがある。二十代前半期の頃だった。そこで、「過去こそ未来」(内村剛介)という言葉に出会い納得したことを、「ひりひりと、これから、が出来ていく」という言辞によって思い起こしたことになる。
 「あと一週間かもしれない。そういわれた祖母に対し、いまは「なにも書くことがない」という感慨を保っている。これが揺らいで、うすくなにかがひらいてきて、そこからしるが出て、詩になったらもうおしまいなのだ。つぎに、わたしに詩に書かれるような祖母が、わたしの近くで、息をしているはずはないのだ。」(「反逆の日」)
 詩を、ここまで、つまり祖母の有様と繋ぎながら述べていく詩人を、わたしは知らない。賢治が姉の死を詠んだように、詩人は身近な死を引き寄せるものだと思っていたから、杉本真維子の心象は、むしろ親近感をわたしに抱かせる。そして、心象はさらに深度を深めていく。
 「かつて、肉親の死とはどういうものだろうと、想像することのおそろしさに負けていたころ、私の父は、こういうものだ、と教えるようにとつぜん死んだ。死によって私は生まれた、と思うほど、世界は一変し、経験はゼロにもどった。自分はまだ何も知らなかった、という言葉が何度も口からこぼれた。」(「石を投げて呼ばない」)
 「死によって私は生まれた」といい切る詩人の言葉に、応答できずただ立ち止まって、その言葉を反芻する自分を確認することになる。なぜ著者は、父の死をこのように捉えてしまうのだろうか。
しかし、三十九歳で亡くなった友人のことを、「私が持っている言葉のイメージを、そのまま温かく、受け取ってくれていたなんて」(「オバQ線」)と語る視線もある。また、小学校時代の担任を追慕する著者は穏やかだ。クラスの紹介文を担任の先生は「不思議な国の五組」と記したという。
 「先生は若くして亡くなってしまったが、私に残してくれたものの圧倒的な重量感は、そのまま先生の存在感となって留まり、今も自室の壁には、先生が卒業式に贈ってくれた文字版画がひかっている。(略)今も楽しければ踊ります。並ばされたりなんかしません。自由の意味を考えていきます。いつも本気を出します。詩を作っています。」(「不思議な国の五組」)
 著者のイノセントな決意表明がいい。「いつも本気を出します。詩を作っています」は、確かに真摯だけれど、肩に力が入っているわけでなく、自然に言葉は発語していくものだということを滲ませているからいいのだ。
 「(略)今年の夏は、生まれて初めて花火を美しいと思えなかった。(略)夕暮れ、新盆の準備をしながら、そんなことを思いだしていた。茄子と胡瓜に割り箸をさして、死者になった父の乗り物をこしらえる。これがうま、これがうし。門提灯を開き、玄関につるす。松の割り木を用意し、迎え火を焚く。(略)それから、呼吸を整え、正座して、経を唱える。なんとなく、外出ははばかられたので、翌日から三日間は、家に籠ることにする。待つこと、迎えることが自分の仕事だから、窓を開け放ち、灯りを絶やさぬように、家の番人に徹する。(略)最終日、送り火の時間を迎えるころには、私は窓際に置かれた石であった。」(「三日間の石」)
 父を送る新盆の様相を、このように物語っていく著者の立ち位置は浮遊感を湛えているが、「この世に帰ってきたのは、私なのではないか。闇のなかでちろちろと揺らめく火を追って、夢中で走ってきたのは、私なのではないか」と問い掛けていくことで、それは明快なかたちをつくっていくことになることが分かってくる。
 わたしなら、「三日間の石」という物語を受けて、次のように述べてみたい。
人と人との関係性を絶えず往還することこそが、生と死の間を照射していくことになるのだといいたいと思う。

(『図書新聞』20.8.29号)

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2020年8月 1日 (土)

石井正己 著『現代に共鳴する昔話 異類婚・教科書・アジア』(三弥井書店刊・20.1.10)

 著者は柳田国男の世界をわたしたちの世代が考えてきた受容の仕方とは、幾らか角度を広げ、多層なかたちで捉えていくことを、これまで指向してきたといっていい。例えば、わたしなら、柳田の『遠野物語』を、吉本隆明の『共同幻想論』に倣って共同体の禁忌の物語として解読していくということを課してきたといっていいが、そのことは、もう少し拡張して捉えることで、〈現在〉という時空を見据えることもできると思っていたからだ。
 「思えば、柳田国男研究を進めてきたのは民俗学者ではありません。民俗学者はアカデミズムの確立に向けて、民俗学を科学にするのと差し替えに、柳田を仰ぎながらも個性をはぎ取ってしまったように見えます。民俗学者が進めようとしなかった研究を全面的に受け止めたのは、吉本隆明や橋川文三、後藤総一郎といった思想史の人々でした。柳田国男は思想家として評価されたのです。そうした刺激は歴史学や人類学、社会学、国文学、教育学など幅広い分野に及びました。」(「柳田国男とグローカル研究」)
 六十年代後半から七十年代にかけて、吉本、橋川、後藤に導かれるようにして柳田の〈思想〉に触れていったのは確かだが、わたしには、菅江真澄への近接感が柳田の民俗学的方位と交錯していったという僥倖があった。 
著者は重ねて述べていく。
 「例えば、現代社会が抱えている親殺しや子殺し、孤独死、そして大震災からの復興を考えるときに、『遠野物語』は大きな示唆を与えてくれます。柳田国男の思考は今も決して滅びていないと断言することができます。」(「同前」)
 そして、本書の書名にもある「昔話」という言葉をめぐる問題がある。柳田は「昔話」ということに拘泥していた。
 「木下順二は、太平洋戦争の深い反省から、次々と民話劇を発表して民衆運動を進めました。民話劇は社会が直面する現実の課題と向き合うことを使命感とし、民衆の話そのままではなく、新たな命を吹き込まなければ意味がないと考えました。柳田国男は新しい時代の思想を盛り込もうとする「民話」という言葉に対して、最晩年まで不快感を隠しませんでしたが、それほど社会的な影響が大きかったのです。そうした民話劇の象徴とも言える作品が「夕鶴」であり、ぶどうの会によって長く上演されました。」(「異類婚姻譚の系譜」)
 わたしたちは、ともすれば、「昔話」も「民話」も古くから語り継がれた物語というイメージを抱くかもしれない。もちろん、そういう一面もあるとは思うが、木下順二の「夕鶴」が、「民話」から想を得たとしても、それは新たな創作作品というべきである。「夕鶴」が、大きな影響力を持って、異類婚姻譚の「鶴の恩返し」と一体化されて「民話」として拡張され流布されていくことに危機感を柳田が抱いたのは当然というべきかもしれない。
 わたしは、「夕鶴」を観ていないし観たいと思ったことは一度もないが、民衆運動といういい方で語られるものが、実は民衆の存在を希薄にしていくことになることを知っているつもりだ。
 『遠野物語』が、共同体、つまり共同性に孕んでいる問題を照らし出しながら、そこで生活している人々の心性を露わにしていくことに衝迫性を持っているといっていい。だから、著者の視線は次のようなかたちで柳田の苦闘を称揚していくことができるのだ。
 「重要なのは、「心の繋がり」や「精神生活の帰趨」を見つけ出そうとする点です。柳田にとっての昔話というのはそれ自体に魅力があるというより、日本人の「心」や「精神生活」を知るための素材であると考えていたように思います。柳田が昔話にあれほどの情熱を注いだのは、自分の方法を鍛え上げるための最も重要な場所だったからにちがいありません。」(「昔話研究の未来をどう考えるか」)
 著者に誘われて、柳田国男の鮮鋭な〈像〉がかたちづくられていくことに、わたしは、素直に共感したいと思う。

【付記】
 著者は、本書の最後で次の様に述べている。
 「今から二〇〇年ほど前に東北地方を歩いて、民俗を記録し、絵画に残した菅江真澄という人がいます。(略)菅江真澄の絵画の中には、今も残っている民俗もあれば、消えていった民俗もあります。先月(引用者註・一四年一〇月)、秋田県立博物館で行った講演では、「菅江真澄の残したものを世界記憶遺産に出してはどうか」と提案しました。(略)秋田県の若い人の関心が薄くなっている菅江真澄の価値を、世界的に意味づけることができるからです。」(「無形文化遺産と日本」)
 一八年九月に、秋田県立博物館で菅江真澄の没後百九十年記念展があり、その図録は、「菅江真澄、記憶のかたち」と題されていた。「記憶のかたち」は、著者が提案したことを継承したのかもしれない。ところで、ちくま文語版『柳田國男全集』(全32巻)のカバー表紙絵は、すべて菅江真澄の「民俗図絵」から採っている。

(『図書新聞』20.8.8号)

 

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2020年6月27日 (土)

大野光明 小杉亮子 松井隆志・編               『社会運動史研究 2「1968」を編みなおす』             (新曜社刊・20.4.20)

 本書は、昨年の二月に創刊された『社会運動史研究』の第二集である。編者たちは、巻頭で次のように述べていく。
 「一九六八年は世界同時多発的に社会運動の高揚が見られた年であり、日本でも、大学闘争やベトナム反戦運動をはじめとして、社会運動史にとって重要だと思われる出来事がさまざまに起こった。当時のグローバルな現象は、「1968」と象徴的に呼ばれる。(略)「1968」の言葉が指し示そうとする出来事は、確かに歴史的・社会的に重要である。しかし、いささか粗雑な「1968」のイメージは、その重要性を理解するためにこそ、いったんほどいてみるべきだ。運動史のディティールに立ち返って再検証し、これまでのイメージや理論を書き換えていくことが、一九六八年から半世紀以上が経過した今だからこそ、必要だと私たちは考えた。」
 確かに、パリ五月革命と呼ばれた運動の中心にいたダニエル・コーン=バンディはアナキストだった。全共闘運動が広く生起していったのは党派が主導していった部分もかなりあるが、ノンセクト学生の多くが参加したことによって、可能となったことを忘れてはならない。運動論的な視線だけでは、必ずしもすべてを捉えていくことができないのは、自明のことである。
 嶋田美子の「矛盾の枠、逆説の華――名づけようのない一九六〇年代史をめざして」は、通例の運動史的視線ではみえにくくなる思想や文化、芸術といった側面を丹念に辿っている。そのうえで、六〇年から七〇年という流れをさらにそれ以後までを透徹しているといってもいい。
 嶋田は、「現代思潮社・美学校」(六九年二月創設)の研究を通して、その前史ともいうべきことに視線を射し入れていく。六〇年安保闘争時にかたちづくられた「六月行動委員会」(吉本隆明や埴谷雄高他、美術関係の人たちが多くいたことを強調しておきたい)、その後の「後方の会」、「犯罪者同盟」そして、六二年の「自立学校」、六五年の日韓闘争時の「東京行動戦線」、六七年の一〇・八より一年前に決起した「ベトナム反戦直接行動委員会」などを照射していく。
 「笹本雅敬はその後、早稲田の学生らとベトナム反戦直接行動委員会を組織し、六七年(引用者註・嶋田の記述は間違いである。正しくは六六年である)にはベトナム反戦の直接行動として当時ベトナム向けに自動小銃を製作していた田無の日本特殊金属工業を襲撃しました。」
 このべ反委の闘いに未成年だった斎藤和が参加している。彼は、後に「東アジア反日武装戦線による日本企業爆破事件」にかかわり、七五年、逮捕時に自死した。
 最後に、嶋田は次のように結んでいく。
 「六〇年代を通底し、1968年の全共闘運動に影響を与えたのは、一握りのイデオローグや大きな政党政治の動きではなく、これらの小集団や個人による、これまでの枠を超える自由への希求、「名づけようのない人間になるための」数々の試みではなかったのではないでしょうか。(略)個々の断片が積み重なり、つながり、鳥瞰図からは見ることのできない時代のうねりを作り、地下水脈となって現在に続いているのです。」
 かつて絓秀美は、一連の六八年革命論のなかで、七〇年の華青闘による七・七集会を高く評価していたが、同時期に望見していたわたしには、まったく首肯できない見方だった。そもそも、六八年を「革命」として捉えること自体、荒唐無稽といっていい。
 山本崇記は、「運動的想像力のために――1968言説批判と〈総括〉のゆくえ」のなかで、絓の華青闘への評価の言説を一蹴する。
 「第一に、切断の思想の典型であるという点である。そして、第二に、セクト(新左翼)主義的な歴史観であるということである。(略)マイノリティが「7・7を契機として、一挙に歴史の「主体」として浮上してきた」ということは考えにくいことであり、それまで「不可視だった存在」でもなかった。」
 「切断の思想」とは、「運動的想像力を喚起しない」歴史的時間を切断した論理ということになるわけだが、それは、やがて破綻していくしかない。例示するまでもないが、小熊英二の『1968』も、まさしく「切断の思想」といっていい。
 『東大闘争の語り』(二〇一八年)を著した小杉亮子は「〝1968〟の学生運動を学びほぐす――東大闘争論の検討」と題して、「二〇〇八年前後から、(略)一八年前後までに、当事者や研究者によって刊行された東大闘争論」を取り上げて論及していく。そして、『東大闘争の語り』のなかでも提示した「予示的政治」について述べていく。
 「予示的政治とは、遠い理想や目標を設定せず、運動のなかの実践や仲間との関係性のつくりかたによって望ましい社会像を予め示そうとする運動原理である。この予示的政治への志向性は、ノンセクト・ラディカルを中心とする東大全共闘派の学生たちが、新旧左翼政党・党派の運動原理である「戦略的政治」を批判し、それとは異なる運動を追求したことから形成された。」
 運動というものは、主導者がいて、共感していく人たちが連動していくことではない。そこにひとつの関係性、つまり開かれた共同性を形成していくことが切実なことなのだ。
 本書の特集は、他に、阿部小涼「拒否する女のテクストを過剰に読むこと」、山本義隆「闘争を記憶し記録するということ」、古賀暹「『情況』前夜」(聞き手・松井隆志)がある。特集のみに触れただけだが、一号に比べてさらに重厚な一冊になったことだけは、強調しておきたいと思う。
 三号は、来年の七月刊行予定である。

(『図書新聞』20.7.4号)

 

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2020年6月13日 (土)

雨宮処凛 編著                            『ロスジェネのすべて――格差、貧困、「戦争論」』          (あけび書房刊・20.2.20)

 〝ロスジェネ〟、つまりロストジェネレーションとは、日本において、バブル経済崩壊後の就職氷河期世代のことを指し示し、七四年から八四年生まれをカテゴライズして総称している。わたしが、もっとも印象深く感じたのは、フリーターという言葉が、かつての旧左翼が好んで使用した労働者と等価な、あるいはそれ以上に拡張した意味で使われ、フリーター労組が結成されたのは、〇四年だった。〇五年から、メーデーの時期に、「自由と生存のメーデー」を始めていく。わたしは四七年から四九年に生まれたベビーブーマー世代(堺屋某が命名したダンカイと一括りするような捉え方に異議を持っているから、わたしは使用しない)の最終年生まれだが、なにか隔絶した時間の流れを思わないわけにはいかなかった。なぜならわたしたちの世代は、多様性があった。わたし自身も含めて積極的に就職しようとしなかった(あるいは、様々な事由で就職できなかったといいかえてもいい)人たちが多くいたから、就職氷河期ということに悲惨さよりなにか空しさのような思いを抱いたといっていい。
 それでも、当時わたしは、本書の編著者、雨宮処凛や対話者の一人、松本哉が様々なかたちで発信したことを鮮烈な印象を持っている。その時から、十五年以上の時間が経過した。
 本書での雨宮処凛(七五年生まれ)との対話者は、倉橋耕平(八二年生まれ、立命館大非常勤講師)、貴戸理恵(七八年生まれ、関学大准教授)、木下光生(七三年生まれ、奈良大教授)、そして松本哉(七四年生まれ、「素人の乱5号店」店主)だ。
 雨宮は、かつて右翼団体に入った後、そこから離脱し、現在を堪えず見通す立ち位置を持続させている。
「私が23歳の頃、小林よしのり氏の『(略)戦争論』(略)が出版された。/『戦争論』は、多くのロスジェネにとって「初めての政治体験」となった。そうして『戦争論』以前から小林よしのり氏の『ゴーマニズム宣言』(略)の熱心な読者だった私は、その時、右翼団体に入っていた。/ロスジェネは、もしかしたら「右傾化第一世代」ではないだろうか。」
 さらにいえば、若い世代の右傾化を象徴する言葉としてネットウヨ(ネット右翼。もちろん若い世代だけではなく、たんにネットにはまってしまった、わたしと同世代の人たちもいるだろう)があるが、そのことも、ロスジェネとリンクしていくといっていいはずだ。倉橋は次のように注目すべき発言をしている。
 「日本(=祖国)を考えること自体に自己啓発性があり、自分に喝を入れる作用もすごくある。それは、日本という国家と自己を同一化させるアイデンティティへの志向がそうさせるものだと思います。実際に90年代は、自己啓発本がブームになり始めた時期でした。」
自分と国家は絶対同一化しないと考え続けてきたわたしにとってみれば、愕然とする事態を倉橋は切開している。
 「難しいけど、一つ言えるのは、自分の中だけの問題にしないで、関係性のなかに問題を開いていってほしい。脳内で暴走しないで、実際に付き合うなかで生身の相手に触れてみてほしい。」(貴戸)、「(註・雨宮のどうしたら「自己責任」論を超えられるかという問いに対して)講演会とかで、歴史をふまえたうえで、日本社会これからどうするの?みたいな話を最後にするわけです。で、どうしても「自己責任」が大好きで、なおかつ社会を壊したくないなら、もう江戸時代に戻るしかないぞ、と言っています。」(木下)
 貴戸が述べる「関係性のなかに問題を開いてい」くということは、凄く切実なことだ。これは、「自己責任」論にも通底していく。〇四、五年頃、フリーターの孤独死(自死)を知って言葉が出なった。「貧しいのも、不安定なのも、正社員になれないのも結婚できないのも将来の見通しが立たないのもすべて自己責任。おそらく、ロスジェネはその価値観をもっとも内面化している世代だ」と雨宮は述べている。そんな皮相な自己責任という幻想は拭い払うべきだと声高に叫んでも、自死していく若い人たちには、残念ながら届かないのだ。
 「ちゃんとして生きるのは無理ですよね。うちらの世代というのは、成功してる人もいるし、困っている人もいる。あるいは本当に勝手なことをやって、金はないけどすごい自由にやっている人もいるし、いろいろいると思うんです。(略)今更ね、そんな真面目に生きようなんて考えたって意味ない。(略)適当に勝手にやって、ざまあみろって最後に言って死ぬのを目指したらいいと思うんですよね。ざまあみろって言える生き方を、皆ですれば。」(松本)
 松本は一見苛烈に述べているようだが、関係性を開きながら生きていくことをシンプルに言っているのだと思う。自分を責めて関係性を閉じていくことは、暗渠に入っていくことになるからだ。暗渠は国家や国家に準じた社会が作り上げた幻想でしかない。そういう幻想は解体すべきだと言っても、残念ながら、彼ら彼女らにはなかなか届かないかもしれないが、本書をぜひ読んで欲しいと思う。

(「図書新聞」20.6.20号)

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2020年5月23日 (土)

ドナルド・キーン 著                           『新潮選書 日本文学を読む・日本の面影』           (新潮社刊・20.2.24)

 ドナルド・キーンは七〇年前後に、三島由紀夫を評価するアメリカ人研究者として、その名を意識したのが、最初だったと思う。だが、わたしは三島に耽溺するほど愛読することはなかったから、キーンについても、それほど近接してこなかったといっていい。それでも、日本国籍を取得して最後の場所としてわが列島に居を構えた時は、素直に驚嘆した。そして一九年二月、九十六年の時間を閉じたわけだが、日本人以上に、〈日本的〉なるものを愛惜してやまなかった心性は、鮮鋭なものだったと、思わないわけにはいかない。
 「日本人には「ぼかし」の趣味がある。はっきりしたものより、ちょっとあいまいなものを面白がります。はっきりしたものならば意味は一つしかありません。しかし、ぼかした意味や、二つの意味にとれるような文章には、より深みがあり、より楽しみがある。」「戦争がはじまっても作家活動をやめませんでした。おそらく太平洋戦争中の四年間にもっともいい作品を書いた作家は太宰治だったでしょう。」「三島さん(引用者註・三島由紀夫)は、太宰の文学は嫌いだ、自己憐憫の文学だと何度も私に言っていました。三島さんの立場はそうでしたが、もし彼が意識的に太宰とは別の文学を目指していなかったとすれば、太宰文学と同じようなものを書いただろうと思います。」(「日本の面影」)
 「日本の面影」は、一九九二年、NHK教育テレビ「人間大学」での十三回分の講座テキストである。単行本、著作集いずれにも未収録である。最初の引用箇所は、「『徒然草』の世界――日本人の美意識」からだが、「「ぼかし」の趣味」といういい方が、文学的ではないところがいい。キーンは、文学的な視線を向けていながらも、そこに日本人像のようなイメージを潜在させているといえるような気がする。「ぼかし」は表現論としては優れたものなのかもしれないが、資質や感性といった位相をイメージすれば、「あいまい」といった負の様相を湛えてしまうからだ。さらにいえば、後段の箇所(「日本文学の特質」)で、「日本文学は〝余情の文学〟だ」と述べていくことに、それは通底していくといっていいはずだ。
 「近代の文学3――太宰と三島」から二カ所、採った。太宰治と三島由紀夫を並立させるところがいい。どちらも自死した作家といえるかもしれないが、キーンはそういうところに拘泥してはいない。三島と親しかったキーンならではの捉え方だと思う。
 集中、次のような箇所に惹かれる。「戦争中、谷崎先生は軍部に全く協力しませんでした」、「荷風は戦争には全く非協力的でした。あれほど戦争に協力しなかった日本人はほかにいなかったと思います」と述べていくキーンは、太平洋戦争開戦時、海軍の日本語学校に入学する。日本軍の書類の翻訳や、捕虜収容所の捕虜の尋問にかかわる。さらに戦地にも向かう。日本軍撤退後のアリューシャン列島のアッツ島(アナキスト詩人、秋山清の詩「白い花」によって、わたしは知った)とキスカ島、そして最後は沖縄だ。
 「日本文学を読む」は、四十九人の作家論と「現代の俳句」の項目を含む文学史的視線からの論集である。一九七一年から七七年まで雑誌「波」に連載されたものを纏めたものだ。敢えて、大岡昇平をめぐる論述を見てみたい。一九四五年三月、キーンはレイテ島の日本兵俘虜収容所へ向かった。ジープの運転手が「あいつらは仕合せだ。フィリピンのゲリラに捕まった日本兵はなかなか収容所まで着かないんだ」と言ったことに対して、キーンは次のように述べていく。
 「「仕合せだ」という気配は何処にもなかったが、私は生が死よりましだと単純に信じていたので、運転手の言葉に頷いた。俘虜の一人が大岡昇平であったことを何年か後で知った時、感無量だったが、その時は、柵の中に立っている兵士に特別の関心を示さなかった。(略)大岡の『俘虜記』を読んだ時、その頃のことが目の前に浮かんで来た。そして外国人である私は、現在の若い日本人よりも当時の大岡の心境を理解できるのではないかと思った。(略)私は人間のさまざまの醜態の中で戦争ほど嫌なものはないと信じ、心から反戦主義者であるつもりだが、戦争の体験を忘れようとはしない。(略)私が大岡の文学を読む時、戦争の犠牲者同士として感情移入できると思う。」
 このキーンの言葉は、日本人以上に、〈日本的〉なるものへ心情を仮託できることと通底していくと、わたしならいいたくなる。キーンが十八歳の時に、『源氏物語』と出会って、〈日本的〉なるものへと傾注していくが、まもなく、日米開戦となる。「大岡の文学を読む時、戦争の犠牲者同士として感情移入できる」からこそ、日本文学を通観する膂力を培っていったのかもしれないし、わたしたちが未知に思う様相に対して、共感しうる豊饒な感性を絶えず湧きたたせることができたからだといえるかもしれない。
あらためて、ドナルド・キーンの世界の広大さを思わないわけにはいかない。

(『図書新聞』20.5.30号)

 

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2020年5月16日 (土)

つげ義春 著『つげ義春日記』                  (講談社文芸文庫、講談社刊・20.3.10)

 『つげ義春日記』は、「小説現代」誌上で、一九八三年三月号から十二月号まで断続連載(七五年十一月から八〇年九月までの日記)の後、同年十二月、講談社から刊行された。刊行当時から三十七年近い時間が経過したことになる。しかし、「沼」や、「西部田村事件」、「ねじ式」、「ゲンセンカン主人」、「夢の散歩」、「窓の手」、「別離」といった多くのつげ作品は、いまだに、〈現在性〉を有していると、わたしは捉えているから、久しぶりに装いを新たにした『つげ義春日記』(ただし、本文に訂正をした箇所がある)を眼前にして、近接な、リアルなこととして、わたしの中では奔出している。なぜなら刊行後どれぐらいの時間性が経過したかの記憶は薄れているが、突然、つげ自身の判断で絶版にしたからだ。さらに、わたしの友人・石川淳志監督が映画化を試みたが、絶版によって叶わなかったということが、強く印象に残り続けてきたという、もうひとつの時間性を持っている。
 つげ義春にとって、先行する日記に「夢日記」がある。周知のように、島尾敏雄の夢作品を契機にしているといってもいい。しかし、『つげ義春日記』は、通例、見られる日記文学のカテゴリーに入るとしても、つげ義春の表現者としての独特の視線があることを前提にして読み進めていかなければならない。始まりは、昭和五十(一九七五)年十一月一日。同月十八日深夜、正助、誕生。NHKで「紅い花」がドラマ化される。文庫版作品集(小学館、講談社、二見書房)が次々と刊行され、増刷を重ねる。しかし、妻のマキが、昭和五十二年八月、子宮癌の手術。この時期は大きなうねりのようなことが、続くわけだが、日記は書き手の個的心性の表出である以上、書き出された言語の集積は、時には変容しながら形成されていくことになる。意識的か無意識的かということではなく、つげの表現者としての資質が、そういう世界性をかたちづくっていくのだということを強調しておきたい。
 「今日も正助のうなり声で熟睡できず、子供のために生活のすべてを混乱させられるようで憎悪を覚える。そのことをマキに云うと泣き出した。」「夜「紅い花」放映。(略)出来栄えには失望。新しい技法も陳腐に思える。原作には無い戦時中の空襲場面を挿入したのは反戦思想を示し、専門家筋への受けを考慮したとの由。私の作品に反戦思想とは表現の次元がまるで違う。」「マンガで生活できなくなった忠男のことを想うと胸が傷む。忠男のマンガを評価しないマンガ界に激しい怒りを覚える。」「雨の中を、正助を抱いて三人で飯野病院まで出かけた。結果はやはり癌だった。診察室から出てくるなり、マキはその場にしゃがみ込んで泣いた。私は少し離れ正助を抱いて窓の外を通る電車を眺めていた。」「夜、入浴中、石子順造さん死亡の連絡があった。マキが電話を聞いた(享年四十八歳)。予期していたことでもあるのでとくに感慨はない。実感もない。それより一年間も病人に付添い献身的な看護を続けた石子夫人の努力には感動せずにはいられない。」「今度神経症となったのは、風邪で寝ているときいろいろな現実的な心配ごとを考え過ぎ、それが発端であったが、根源はこの漠とした(存在の不安)が原因だったのではないだろうか。」「夜、床に就いてからひどい孤独感に襲われた。深い深い、たとえようもない孤独感だ。(略)なんといったらよいのだろう。生の孤独感とでもいうのだろうか。」
 「あとがき」で、「好んで読むのは「私小説」」であり、「日記や年譜も熱心に読む」と、つげは述べている。本書は、日記ではあるが、確かに、ひとつの「私小説」というかたちの表現といってもいい。子どものうなり声に憎悪を覚えると妻に云う。妻は泣き出す。妻は自分が癌だと分かったから泣くというよりは、夫や息子のことを思えば、「しゃがみ込んで泣」くしかないのだ。私小説というものは、例えば、島尾敏雄の『死の棘』を想起してみる。つげ的に述べれば、「主観」を拡張して物語化したものだといえる。では、そもそも「主観」とは、どれほど強固なものだろうか。わたしは、「主観」や「私」という有様は絶えまなく揺れ動くものだといいたい気がする。そもそも、「主観」や「私」は、確たるものではないのだ。そのことを、誰よりも知っているからこそ、つげ義春や島尾敏雄が表出する物語は、わたし(たち)の深奥へと刻み込まれていくことになるのだ。
 だから、『つげ義春日記』が放つ「世界」は、「生の孤独感」を慰藉するために、わたし(たち)は、生きていくのだということを鮮鋭に語っているといっていいはずだ。

 【付記】わたしが、つげ義春さんと初めてお会いしたのは、本書にも記述されている昭和五十三(一九七八)年十二月二十三日の北冬書房忘年会の席上だった。秋山清さんや鈴木清順さんたちが参加。わたしは遅れて参加したのだと思う。後方に座ったら目の前がつげさんだった。「自分は酒も呑めず、緊張して物も食べられず、話もできなかった。知識人の前に出ると畏縮してコチコチになる」と本書には書かれている。つげさんが、「知識人」という時、ある種の無意識のアイロニーが含まれていると思う。どういう話をしたか、もう覚えていないが、図々しくサインをお願いしたら、快く引き受けてくれた。しかし、色紙のようなものは持ってはおらず、失礼とは思ったが、手帳の白紙の部分を切って渡し、書いてもらった。
 「眠い! つげ義春」
 つげさんは四十一歳、わたしが二十九歳の時だ。

(「図書新聞」20.5.23号)


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2020年3月 7日 (土)

岡本勝人 著                                   『詩的水平線―萩原朔太郎から小林秀雄と西脇順三郎』    (響文社刊・19.9.10)

 「詩的水平線」とは、なかなか意味深い書名だと思う。詩的なるものや、思想・文学表現の位相は、様々に繋がっていくものだと思う。ひとつの系列が縦割りのように繋がるのではなく、幾重にも折り重なって拡張されていくのが、表現の水位といえるはずだ。著者が本書で指向していくのは、萩原朔太郎を起点として小林秀雄と西脇順三郎の表現の有様における詩的水平線(地平線)を切開していくことにある。
本書の開巻、萩原朔太郎の詩「夜汽車」が引かれる。「抒情詩を唱える朔太郎の反自然主義態度は、象徴詩運動にみる音楽性に詩的優位をおくものであった」と述べた後、次のように繋いでいく。
 「詩はひとりで書くものであるが、大正期の北原白秋、室生犀星、山村暮鳥、萩原恭次郎という「無名にして共同なる社会」の一員として、詩作に精力をついやしていたころである。」
 本書では、このように「無名にして共同なる社会」という捉え方が、基調となって流れていく。後段において、西脇順三郎と小林秀雄の「青春の時代は、大正期に重なっている。大正期の教養主義の坩堝のなかに、二人の教養があったことはいうまでもない」と述べながら、著者は直截に記していく。
 「二人はとても近い関係にあった。小林秀雄や西脇順三郎にも、確かな時代の空気である深層に、「無名にして共同なる社会」があった。」
 この、「無名にして共同なる社会」という視線を、著者は、「鮎川信夫が起草したといわれている「Xへの献辞」の文章」に拠っていて、「「閉じた社会」から「開かれた社会」への転換をはたし、詩を書くうえでの生活の上によみがえってくるのである」と述べている。しかし、わたしなら、「社会」を前提として措定するのではなく、鮎川信夫が『戦中手記』のなかで記しているように、「思想は精神たちをあつめた無名にして共同のものであ」るということのほうが、共感できるといいたい気がする。「思想」は、「文学」、「芸術」に置き換え可能なのはいうまでもない。
 さて、本書の中心へと向かってみる。
 「小林秀雄の「中世古典論」から戦後いち早く発表された『モオツァルト』を執筆する散文(エッセイ)の幅と、西脇順三郎の『Ambarvalia』から戦後いち早く発表され発行された『旅人かへらず』の詩のエクリチュール(書記)の幅をひとつの軸とすれば、そのように時代の転換期を通過した小林秀雄と西脇順三郎のふたりのタイムラグの幅に、文化の幅と文化を架橋する現代的可能性が仄みえるといえるだろう。(略)ふたりのクロスする戦中から戦後という「戦争期」の文化の詩的地平線をとらえ、日本文学の、特にテクノロジーによる革命を内在させる近代を通過した現代社会にたいして、「戦後」というものを超える詩的現代の問題性が、文化を架橋する層として存在してみえてくると言えるだろう。」
 「萩原朔太郎は、故郷との葛藤のなかで、自らの言語の構造に無意識裡に目覚めている。精神のうちから、文語調をつきあげている。そこに朔太郎の故郷のイメージも、結ばれていた。(略)近代の運命のなかに生きた萩原朔太郎にたいして、故郷への帰郷を果たし、死に水をとられる西脇順三郎は、文語調ではない言語のネットワークの自由な詩をつむぎ、それはある意味で、空や無のような無色で幸せな帰郷をしたと言わなければならない。」
 小林秀雄の戦前期のドストエフスキー論から『モオツァルト』へと至る軌跡と西脇順三郎の『Ambarvalia』から『旅人かへらず』への軌跡は、ともに戦時下を通過していくにもかかわらず、確かに、そこでは詩的水平線(地平線)を架橋していると見做すことができる。それは、二人の表現者が一貫して自らの立ち位置を、情況的な事態に絡めとられることがなかったからだといいたくなる。
 朔太郎と西脇は、「故郷」という原像に、複雑に絡み合っている。二人の詩人にとって、「故郷」は、詩魂が宿る場所なのである。だから「故郷」も詩的水平線を架橋していくといっていい。
 著者の論旨に誘われながら、戦前期から八〇年代初頭にかけての詩魂の地平は豊饒なものだったことが、確認できる。最後に著者は、「詩的現代の問題性について考え、論ずることは、とりもなおさず、詩について考えるヒントを明示することであろう。詩を書くことを欲望論とするために、もういちど、現代社会のなかで、孤立し、社会的効用から切り離された詩そのものへと立ち返りながら、詩の実態とその存在の意義について、考えてみようと思う」と述べている。むろんそのことに、わたしは率直に同意したいと思う。

(『図書新聞』20.3.14号)

 

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