2019年8月10日 (土)

追悼・梶井純

 梶井純(本名・長津忠)さんが、七月二三日午前三時、虚血性心疾患で急逝された。七八歳。梶井さんとわたしが初めてお会いしたのは、権藤晋(高野慎三)さんが紹介するかたちで歓談した時で、七一年頃だったと思う。梶井、権藤両氏が、石子順造さんと菊地浅次郎(山根貞男)さんとともに、漫画評論誌『漫画主義』を創刊されたのは、六七年だったから、梶井純という名前は、ある種の憧憬感を抱いていたが、太平出版社の編集者の長津忠さんにたいしては、わたしが『性の思想』(六九年刊)、『われらの内なる反国家』(七〇年刊)を既に購読していて、たぶん、そのことを話したような記憶がある。わたしが二十代前半、梶井さんは三〇歳前後の頃になる。
 漫画評論家としての梶井さんは、貸本マンガ(『戦後の貸本文化』・七九年刊)と戦時下マンガ(『執れ、膺懲の銃とペン 戦時下マンガ史ノート』・九九年刊)に関心の方位が向けられてきた。一方で、骨董趣味があり、『骨董紀行』(九二年刊)、『骨董遊行』(九六年刊)の二冊の著書がある。そういえば、梶井さんから骨董について、いろいろ教えてもらったことを思い出す。また、『トキワ荘の時代 寺田ヒロオのまんが道』(九三年刊)という著書が、近々、文庫化の予定で進行中だった。
 つげ義春編『山野記』(八九年刊)に、梶井さんは「古董旅日記」を、わたしは、「高遠行」という論稿を寄せたのだが、梶井さんに、わたしと君の論稿が趣旨から外れるのではないかとつげさんは心配していると思うよと言われて、確かにそうだなあと考えてしまったが、刊行後、特に厳しいことをつげさんから言われることなく、ほっとしたことを今でも覚えている。ちなみに、梶井さんの論稿のなかに、わたしが撮った近江八幡の「家並」と「掘割」の二枚の写真が使われている。
 九九年、権藤晋、三宅秀典、三宅政吉、ちだ・きよし、吉備能人(この筆名は、梶井さんが考えたものだ)諸氏と「貸本マンガ史研究会」を設立。会誌『貸本マンガ史研究』を発行。わたしは会誌には、何度も寄稿させていただいた。近年は、アナキスト詩人・秋山清さんを偲ぶ「コスモス忌」でお会いする機会が多かった。だんだん、足腰に不安があり、奥さんのサトノさんとの同伴が多かったけれど、ここ二年ほどは欠席が続いていた。
 梶井さんは、『秋山清著作集』の「月報」に次のような文章を書かれている。
 「秋山さんは、かけ出しの編集者だったわたしたちにやさしかったように、無知なわかものには、だれにでも心やさしかったのではないか。しかし、いまでは秋山さんを知るわたしたちにはわかっている。そんな秋山さんのやさしさが秘めていたものが、慄然とするような思想的なきびしさを同伴するものであったにちがいないことを。」
 秋山さんをこの文章の書き手の梶井さんに置き換えてみれば、なんの異和感がないことに気づいてしまう。やさしさのなかに、「慄然とするような思想的なきびしさを同伴」していた梶井純(長津忠)さんが、いま、鮮明に浮かび上がってくる。

(『図書新聞』19.8.17号)

 

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2019年8月 3日 (土)

坂本俊夫 著『おてんとうさんに申し訳ない 菅原文太伝』  (現代書館刊・19.5.20)

 俳優・菅原文太(一九三三~二〇一四)は、その最後の場所も含めて、わたしにとって最も大きな存在としてあり続けている。わたしが十代後半の時、つまり六十年代後半から七十年代にかけて、情況的なるものに切迫しながらも、東映の任俠映画(それ以前の股旅映画や日活の清順映画は再映で観ている)をリアルタイムで観て共感していた。そして、当然のごとく高倉健、鶴田浩二、そして藤純子の有様に魅せられてもいた。だが、七〇年三月に封切られた『緋牡丹博徒 お竜参上』(監督・加藤泰)での、青山常次郎役の菅原文太は、静謐ながらも、鮮烈に今戸橋の上でお竜(藤純子)に語りかけていく姿が、わたしには強く刻まれてしまったといっていい。
「やはり川はあるんですよ。クニです。北上川という川に。その川上の貧しい小さな村です。山も見えるんですよ。岩手山が。その山の見える林の陰の墓地におやじとおふくろが眠っているんですよ。」
 妹の亡骸をそこに埋葬するために、クニ(故郷)へ帰る青山とお竜の別れのシーンは、ひとつのラブシーンではあるが、わたしには、俳優・菅原文太の静かなる宣明とも思えた。そこでは、宮城県出身の菅原文太が東北へと視線を馳せるイメージを秋田県出身のわたしが共振していったからかもしれない。この青山の役は、高倉健にも鶴田浩二にもできない。菅原文太だからこそできるのだ。高倉健の二歳年下の菅原文太が以後、任俠、実録といったジャンル(境界)、さらには硬質、破天荒といった固定化された役柄を無化していくかのように、東映映画の秀作群を牽引していったとわたしは捉えている。
 本書では、『緋牡丹博徒 お竜参上』について、「『ぼく自身は、ひとがいうほど残っていない』と振り返る。『菅原文太が菅原文太として生きていないという感じが、いまだにぼくはしている』というのだ」と記述されていく。もちろん、あの役は思い入れのある役だったなどと語ったら、それは俳優としての有様を否定することになる。加藤泰作品の初出演は、『男の顔は履歴書』(松竹・六六年)の朝鮮人ヤクザの役で、静謐さとは程遠い役柄だった。加藤泰、最後の劇映画作品『炎のごとく』(東宝・八一年)の主役は菅原文太である。
 本書によれば、菅原文太にとって「印象深い作品」として、『現代やくざ 血桜三兄弟』(監督・中島貞夫、七一年)を挙げている。
 「『現代やくざ 血桜三兄弟』では、単なる演じ手としてだけでなく、程度はわからないが、意見を言って内容に関わることができた。中島とそういう関係ができていて、文太はそのような映画づくりに意欲を示していたのだった。だから、『緋牡丹博徒 お竜参上』では関わったという感が薄かったのである。」
 深作欣二は三歳上、鈴木則文とは同年、中島貞夫は一歳下ということで、同志的な連携が可能だったといえる。わたしは、中島貞夫との作品なら、『木枯し紋次郎』、『木枯し紋次郎 関わりござんせん』(七二年)と『総長の首』(七九年)を挙げたい。
 本書では、父親の事がかなり詳しく書かれていて、私には、未知のことが多かった。母親のことも含めて、妹の事にもう少し触れてくれればと思わないではない。しかし俳優・菅原文太の足跡が、さまざまな資料を丹念に辿りながら、見事な〈像〉を描出していく。
 本書の中で、最も印象深いのは松竹時代のことで次のように記述している箇所だ。
 「暇なときは、よく動物園に足を運んだ。『孤独をまぎらわすために檻の中のチンパンジーやライオン、クマなどを見ては独り言を言っていた』のである。/檻の中にいる動物たちを見ながら、文太は、『こいつらは一生、檻の中で生きるのか。その点、オレは幸福だ。まだまだ自由があるな』。それに比べると、『人間の孤独感なんかたいしたことないな』と思って、孤独感から立ち直っていた。」
 もちろん、本当に孤独感から解放されることは、難しい。それでも、そこで立ち止まるのではなく、少しでも歩を進めることは意味がある。動物たちに比べたら、「人間の孤独感なんかたいしたことないな」と思う菅原文太の方位に、わたしは共感する。人間も動物も孤独な生き物だ。だが、少しだけ違うことは、大きな群れ(関係性)でなくても、小さな群れ(関係性)で、慰藉されるのが、人と人の関係性といえるからだ。
 「文太が言う『おてんとうさん』は、『お天道様が見ている』で使われるようなすべてを見通す存在という意味も込められているかもしれないが、楽なことだけを、自分の楽しみだけを安穏と生きていったら、これまで有形無形に世話になってきた、任俠映画風に言えば、『世間のみなさんに申し訳ない』、あるいは、今日まで生かしてくれた社会に対して、何かしなければ申し訳ないという思いが、文太にはあったのだろう。」
 著者は、そう述べながら、「『おてんとうさん』は、まず『世間の人』なの」だと述べていく。わたしたちが、自分自身も含めて大衆とか民衆と見做しているものは、茫漠としている。「世間の人」もそういうことになるかもしれない。だから菅原文太の視線の先にあるのは、クニ(国家)ではなく、クニ(故郷=共同体)だと思う。沖縄の人たちにとって、本当のクニ(故郷=共同体)を手にするために、最後まで菅原文太が随伴したのは、青山常次郎の故郷への思いと通底していくのではないのかとわたしなら思いたい。

(『図書新聞』19.8.10号)

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2019年6月 8日 (土)

村松武司 著『増補 遥かなる故郷―ライと朝鮮の文学』  ( 皓星社刊・19.1.29)

 詩人、評論家、編集者である村松武司(一九二四~九三年)のことは、旧知の暮尾淳と黒川洋から、しばしばその名を聞いていた。どこかですれ違いのかたちで接近していたかもしれないが、わたしは一度も会ったことがないと思い続けていた。だが、本書の年譜に、八九年一月、秋山清追悼会にて司会を務めると記されていて、そうかあの時の司会者が村松武司だったのかと、思い起こしたことになる。村松は、秋山清と、五六年一一月、石川三四郎の葬儀の際が出会いのようだったから、長い時間を共有していたことになる。
 京城(現・ソウル)で生まれた村松は、四三年、京城中学卒業、四四年、召集され朝鮮・満州・ソ連国境に従軍。四五年一〇月、「一家で下関へ引き揚げる」、二十年以上、朝鮮での暮らしをしたことになる。村松は、自らを植民者と名乗る。引揚者、帰国者ではなく植民者と立ち位置を表明する村松の一貫した態度は、ライと朝鮮という場所に象徴されていく。
 「現在までの他の多くのライ文学に一貫して流れている思想は、さまざまな文字でありながら、二つの言葉に集約されるような気がする。すなわち、自殺と望郷である。いまようやく、自殺が自らの文学から消えようとしている。残るのは望郷の一語。日本文化の近代化路線で放棄され続けてきた言葉である。むしろ近代の文化は、故郷を捨てる、『脱郷』を敢えて行うことによって獲得されたといっていい。(略)過去において、放棄され、脱出された側のアジア地域の人々は、わたしたち日本の弱さと矛盾を知らないはずはない。きわめて覚めた眼で、わたしたちを見ているにちがいないのである。」(「脱郷と望郷」・七七年)
 不治の病であり感染するということで、隔離政策をとられたライ患者たちは、自殺を考えるほどに未来は閉ざされていた。故郷から断絶されて遠く離れた異郷の地での療養生活を強いられるということは、特に半島出身者には、確かに「脱郷」に違いない。しかし、村松は安直に共感という視線をとらず、ただ、自分が立っている場所を問いつめていく。「日本の弱さ」、つまりそれは、這い出せずにいる「暗渠」といっていい場所なのだ。
 本書と同じ書名で、七九年、皓星社創業時の最初の出版ということで刊行された。著者にとっては生前、唯一の評論集であった。没後、九四年に暮尾、黒川の協力を得て、『海のタリョン』が出される。二冊の著作を再編集されたかたちで、皓星社創業四十年の今年、村松武司の批評集成が結実したことになる。そして、わたしにとっては、三十年という時の流れのなかで、ようやく村松と再会したといえる。
 「この時代、彼らは『日本人であらねばならない朝鮮人』であった。彼らの生活――風俗・礼儀・言語・歴史・政治経済・商工業、すべての生活において、日本はつねに外側にあり、彼らは不思議なことに外側の一部分として生存しなければならなかった。彼らは自分の生活および生き方を意識するときに、外側にある日本という国家にみずからを貼りつけねばならない。そういう『皇民』であった。(略)わたしたち日本人の『皇軍』の過去は解け、朝鮮人『皇軍』の過去は解けない。」(「戦前三〇年、戦後三〇年」・七二年)
 「ライを切りすてることによって、日本はライをのがれてきたからである。/やはり、ライはアジア・アフリカなのであろう。しかしそのとき、非ライ者、非アジア・アフリカという立場が何を意味するのであろうか?」(「ライの歌人」・七三年)
 「日本人の『皇軍』の過去は解け、朝鮮人『皇軍』の過去は解けない」とする松村の視線は、日本人の皮相さを突いているのだ。例えばここ一、二年の情況を見るだけでもいい。醜態は相変わらず不変に持続させている。つまり解決済みの日韓問題を、また、韓国側は蒸し返してくると批判する政府・与党、保守メディアは、「日本はライをのがれてきた」のは、脱アジアから非アジアへと、その足跡を刻んで来たことに通底していく。松村は朝鮮植民者という立ち位置を手放すことはない。それは、七九年版『遥かなる故郷』の「あとがき」で、「ライと朝鮮という、二つの中心をもった楕円形が、じつはわたしにとってほぼ円に近くなっている。つまり二つの中心は、ひとつと思っている」と記していることに共振していく。過去の時間は、現在という時間に重層化する。あるいは現在という時間は過去という時間を見通すことができるといいかえてもいい。過去も現在もひとつの時間として繋がったものだからだ。
 村松にとって自分自身もライも朝鮮もひとつの円のなかにあることを自覚して生き抜いたことになる。それが、植民者としての真摯な有様を示しているのだ。

(『図書新聞』19.6.15号)

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2019年5月25日 (土)

堀江朋子 著『奥州藤原氏 清衡の母』              (図書新聞刊・19.3.20)

 多くの評伝やドキュメント作品の著書をもつ著者にとって、「初めての長篇時代小説」だ。ただし、わたしは未見・未読であるが、二、三の短篇の現代小説は発表したことがあるという。長らく、雑誌『文芸復興』で、「国見山幻想―北天の王安倍一族」を連載している著者にあっては、安倍一族以後に連なる藤原清衡の母(本書では亜加としているが、史料には安倍頼時の娘は、有加一乃末陪、中加一乃末陪などが記されている。しかし、著者によれば、「この時代を生きた安倍氏の女性たちの事が、文献資料には殆んど著されていない」という)を起点にして、十一世紀から十二世紀にかけて、わが列島の北方の氏族たちの絶え間ない激しい抗争を描きながら、必死に生き切った母・亜加と清衡を鮮烈に描像しているのが、本作品ということになる。
 亜加が、陸奥国亘理郡の郡司、藤原経清に嫁いだのは、十七歳の時だった。経清とは「親子ほど年が違う」が、亜加にとって、「父の匂い」がして親近性を抱いたことになる。父とは安倍一族を束ねる安倍頼時のことだ。
 「父は都ぶりを真似するのが、あまり好きではなかったが、香を焚くことを好んだ。(略)香を焚くと心が落ち着くと、父は言った。経清にも同じ匂いがした。政務は心が休まる時が無いのだ、と亜加は思った。」
 亜加が持つ優しい視線が象徴する場所だ。やがて、陸奥国を制圧したい源頼義・義家親子と安倍一族の長い戦い(前九年の役)が始まる。本来なら頼義のもとに参軍すべき経清であったが、「安倍氏の社会で、安倍氏の秩序の中で生きる道を選」び、安倍氏側へと就いた。
 亜加は、まだ幼い清衡とともに、逃避行をせざるをえなくなる。しかし、戦況は、安倍一族にとって敗残へと向かっていった。経清は、頼義に「投降の意を示したが許され」なかった。「お前の先祖は代々河内源氏の従者だった。それにもかかわらず、お前は、我が源氏を軽んじ、ひいては王を軽んじた」として、「残酷な処刑」となった。「経清は、薄れていく意識の中で、亜加に呼びかけ」る。
 「亜加、生きのびろ、清衡とともにどこまでも生きのびろ。清衡、清衡は大きくなったら必ず戦のない世の中を創るのじゃ。清衡頼むぞ。陸奥を平和な国にすることを。」
 亜加の過酷な逃避行はさらに続く。経清の思いへ通底していくかのように、自然のなかで心情を吐露していく。
 「自然の佇まいが、こんなに心に染みることはなかった。自然の巡りには、何の変わりもないのに、男たちは、土地や富を争って、何故、戦などするのだろう。自分の欲望の為に、何故、人を殺すのだろう。」
 もちろん、著者が亜加と清衡を巡る物語を本書で紡ぎ出すのは、歴史への鋭い楔を撃ちたいだけではない。例えば亜加の生地に流れる衣川の流れは、現在(いま)も同じように流れているはずだとわたしならいいたい。わたし自身、何十年も前に、その川の流れに接し、不思議な感慨を抱いたことをいまだに忘れることができないでいるからだ。自然は、変わらずにあるのに、人はなぜ、余計な欲望に惑わされるのかといいたい気がする。
 亜加は、列島の北方・陸奥国という大地の場所の安寧を希求し、安倍一族と対峙した清原武貞へと嫁ぐ。
 亜加の清衡への思いは、安倍と清原という陸奥国の二大一族を纏めて、中央政府(王権)との距離感を醸成する契機になったのはいうまでもない。しかし、安寧を求める亜加の思いは、武貞の急死で暗礁に乗り上げる。
 そして、いわゆる後三年の役が生起する。亜加と経清の子・清衡と亜加と武貞の子・家衡という、兄弟間の戦いとなる。やがて家衡は、本意ではないかもしれないが、母・亜加を死へと追いやり、清衡は義家の助力を得て、弟を死へ向かわせる。悲惨な抗争の後、陸奥の大地に戦いのない日が訪れるが、肉親の死はもとより、多くの〈民衆〉の犠牲を重ねていったことになる。
 「清衡は心を衝かれた。いちばんの被害者は陸奥の民ではないか。哀しみを背負ったのは土地を荒らされ、兵として徴用された身内を失った彼らではないか。自分の哀しみばかりにとらわれて、民のことを考えていなかった。彼らの為に、自分はこの国の再興に生命をかけねばならぬ。それが、生き残った私の使命だ。」
 やがて、清衡は母の願いを込めた戦いのない理想郷を平泉に作り、中尊寺を建立し、七十三歳で亡くなる。「母亜加の霊魂が還る所として建てた金色堂」に葬られて物語は閉じている。
 平安朝末期、北方では藤原四代が続き、中央政府(王権)は平家と源氏の戦いとなり、源氏が勝利しやがて源頼朝と義経との抗争が、再び平泉という場所に飛び火していく。ただし、わたしの歴史という時空への視線は鎌倉幕府の成立、つまり王権との距離感の生起にひとつの通路を見ていることを本書の読後の思いとともに述べておきたい。

( 『図書新聞』19.6.1号)

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2019年4月15日 (月)

日本アナキズム運動人名事典編集委員会 編       『【増補改訂】日本アナキズム運動人名事典』        (ぱる出版刊・19.4.20)

 十五年前に『日本アナキズム運動人名事典』が刊行された時、わたしには不思議な感慨を抑えることができなかったといっていい。それは、なぜこの時点で人名事典なのかということが、なかなかリアルなこととして了解できなかったもどかしさがあったからだ。
 前年の〇三年九月、大杉栄・伊藤野枝虐殺から八十年が経過したことへのイベント企画として「S16 - Reclaim the Life〈生の奪還〉─1923年大杉栄ら虐殺と今をめぐって─」が行われた。わたしは、わずかばかり関わっただけだったが、若い世代とのあらたな連携でなされたことに大きな刺激を受けたことを忘れないでいる。これは、〈アナキズム〉という思考の有様がイデオロギーや運動を推し進めていくための理念としてあったものから、もっと自在に、多様に受けとめていくことを可能にしていく方途を開いていったことを示していたといっていい。もちろん、情況的な背景としては、イラク反戦の渦動が大きなかたちで投射していたことも確かであった。
 「S16」に参集したメンバーと旧版『人名事典』の編集委員、執筆者が重なっていたのはいうまでもないが、“日本アナキズム運動”というカテゴライズに、いうなれば楔が撃ち込まれたことが大きな意味を持っていたというべきかもしれない。つまり、反体制といった曖昧な前提の揺らぎに対して、明確な立ち位置と意思表示をもって、対抗・抵抗の視線を射し入れていくというものだったということになる。
 人名事典というものは、本来、一人一人の顔や声や生き方の表象としてあるものを示してくれるはずである。あるいは動態としての人名が読み手に切迫してくることだといい換えてもいい。そういうことが、無意識のなかで、強いてきた事象が人名事典というものだったのだが、十五年前の旧版は、直截に鮮烈な印象を与えてくれたのは確かだったといっていいはずだ。
 そして増補改訂版が、十五年の時間を経て、いま刊行された。それは、これまでの時間性以上に難渋な様相を絶えず強いられてきたといっていいかもしれない。例えば、旧版が、「近代日本の民衆運動に大きな影響を与えた社会運動家や自由思想家、また台湾、朝鮮、中国などの活動家をも取り上げる」という「基礎情報を重視する立場を貫いた」(「増補改訂版刊行にあたって」)ことの意味は大きい。そしてバクーニンと安藤昌益が同等に扱われるといったことに、ある種の鮮鋭さはあったとしても、あるいは、まだ存命であった水木しげるが採り上げられるという画期性はあったとしても、それが本来的な意味での画期性とは違うという印象を与えたといってもいい。
 だからこそ改訂も大事な作業ではあったが、増補の重要性はなによりも切実なものとなったといえるし、約三千名から六千余名に増えたことは大きな意味を持つにいたったことになる。
 そのなかでも、多くの俳句表現者が採り上げられているのは異彩を放っている。もちろん、和田久太郎という存在は、わたし(たち)にとって大きな有様だが、俳句表現者として見做す時、幾らか角度が違ってくるといわざるをえない。だから、西東三鬼、鈴木六林男、高柳重信、富澤赤黄男、永田耕衣、平畑静塔といった俳句表現者たちを採り上げていくこの事典は極めて特異である。
 「57年『高柳重信作品集 黒彌撤』(琅玕洞)を刊行。この『序にかへて』で富澤赤黄男は『高柳重信の精神』はアナキズム的な『反抗と否定の精神』であると指摘した。(略)この『黒彌撤』の『黒』には23年1月に創刊された『赤と黒』をはじめ『黒色文芸』などに繋がるアナキズムの思想が認められる。(略)第一評論集『俳句評論 バベルの塔』(略)の巻頭の評論『敗北の詩』(略)では高柳は俳句を『敗北の詩』と呼び、俳句作家を『反社会的な』存在と捉える。そこには24歳のアナキスト・高柳重信の姿が『虚無的な教条の光芒の中』ではっきりと描かれている。」(「高柳重信」―平辰彦)
 わたし自身も重信俳句の世界に共感してきたつもりだったが、ここまでアナキズム的様相を色濃く見通すことができなかったといっていい。
 わたしは、一人の建築家に惹かれる。
 「64年『文明と建築』においてアナキズムへの関心を初めて表明、翌65年東京海上火災本社ビルの設計に際し美観論争が生じ、都および建設省との抗争は以後10年に及ぶ。68年に生じた大学闘争に深く関心を寄せ『孤立を恐れず、連帯を求める』に深く共感するとともに日大の自主講座に講師として参加した。日本における近代建築の確立と建築家の地位向上のために権力に屈することなく、また商業主義に流されることなくその思想と立場を貫いた。」(「前川國男」―奥沢邦成)
 前川國男邸はいま、東京都小金井市の小金井公園の「江戸東京たてもの園」に移築されている。わたしは、時々訪れているが、建築家の家というよりは、夫婦二人だけの理想郷の場所というイメージだ。
 広くアナキズムを包摂するという意味で、この人名事典は、多彩な幅を持っている。最もそのことを指し示す意味でも以下の人物を列記してみれば分かる。
 吉本隆明、谷川雁、花田清輝、対馬忠行、澁澤龍彦、滝口修造、石牟礼道子、赤瀬川原平、斎藤竜鳳、白土三平、マキノ雅弘、大島渚、若松孝二、永川玲二、中西悟堂と並べてみると、なぜ、アナキズムなのかと思われてしまうかもしれない。それは、それぞれの描出に接していただくしかない。
 増補改訂された本書は収録人物の多くの増量が最大の業績ではあるが、附録の関連機関紙誌一覧の充実(四五年から六八年が新たに加えられた)、二〇年設立の日本社会主義同盟の加盟者名簿を収録、人名索引の他に、機関紙誌名の索引も掲載している。
 巻頭に置かれた「増補改訂版刊行にあたって」は、「近代日本の歴史の中で自由と平等を求めて闘った有名・無名の活動家の足跡発掘と業績の顕彰に、この増補改訂版が役立つことを願うものである」という文章で締めくくっているのは、なによりも印象深いといえよう。
 二十年という長い時間のなかで、本書が結実したことに、敬意を表したいと思う。

(『図書新聞』19.4.20号)

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2019年2月 2日 (土)

末永史 著『猫を抱くアイドルスター』              (ワイズ出版刊・18.11.17)

 本書は、一八年一月に急逝した末永史の遺稿集である。わたしが、末永史という漫画家を初めて知ったのは、『COMICばく』(No・3、八四年一〇月~No・15、八七年一〇月)という漫画誌に掲載された作品によってだった。既に、『ヤングコミック』で、七一年から七三年にかけて作品を発表していたことは、しばらくして知ったことになる(漫画家としてのデヴューは、本書に収録した、六七年、『りぼんコミック』誌に掲載された「ハロー仲間たち!」)。
 それよりも、わたしにとって末永史といえば、「いま、吉本隆明25時」と題した二十四時間連続講演と討論集会(主催者、中上健次、三上治、吉本隆明)のことが、真っ先に想起される。このイベントは、八七年九月十二日から十三日にかけて東京・品川区寺田倉庫で行われたのだが、わたしは、夜通し行われた、この試みに仕事の都合で行くことができなかった。後に記録集や音源集(カセットテープ)によって、その内容に接することになるわけだが、イベントのスタッフのなかに、末永史の名前があり驚いたことを忘れることができない。しかし吉本隆明と末永史という繋がりに、意外性よりも、世代的にいえば、わたしもそうだが、必然的なものの方が、強く感じたのは確かだった。
 わたしと末永史との通交は亡くなられる前の数年間という短いものだったが、不思議な空気感を漂わせる人だったと、いまふりかえって思う。「いま、吉本隆明25時」のスタッフだったことについて尋ねたことがある。大学の先輩の味岡修(三上治)さんに頼まれて手伝ったけれど、あまり役に立たなかったと屈託なく述べてくれたことが、いまだに淡い印象として残っている。
 本書の編者でもあり末永史のパートナーである齋藤英二(敬称略)が本書の「あとがき」で、「武蔵野美術大学に進学するも(略)三ヶ月で(略)中退。翌年中央大学文学部国文科に入り、(略)当時は全共闘運動の盛んなときであり、彼女も中大全共闘(引用者註・ただしくは中大全中闘)に参画した」と記している。ほぼ、同時期にわたしは、末永史と同じ場所にいたことになる。
 末永史が、齋藤史子名義で小説を書いていたことは、もちろん本書によって知った。吉本隆明の『マス・イメージ論』、『ハイ・イメージ論』の雑誌連載時の編集担当者だった根本昌夫の小説講座に五年間、通っていたという。本書には、漫画家としての貴重なデヴュー作「ハロー仲間たち!」、『ヤンコミ』、『ばく』誌から三作品、エッセイ四篇とともに、小説作品が二作品収載されている。
 精選した三篇の作品の中で、『COMICばく』に発表した「鬼来迎の夏」は、何度読んでも深い感慨を抱いてしまう。「家庭の主婦的恋愛」よりは、わたしなら、「鬼来迎の夏」に末永史の世界が凝縮されているといいたい気がする。
 二篇の小説作品を読んで、あらためて末永史は傑出した物語作家だったと確信したことになる。ここでいう物語とは、たんにストーリー展開のことを意味しているのではない。劇画作品にもいえることだが、登場人物たちの台詞、つまり、〈語り〉が重層化されていくことによって物語をかたちづくっていくことに、末永の表現者としての卓抜さがあるといいたいのだ。
 「北風と結婚」(15年12月)は、意表を突く物語の始まりだ。二十代後半になった佑実が、年末、帰省して母親に、「暮れ正月のたんびに、いちいち帰省しなくたっていいのよ。今年は、義母様の手前もあるから、実家に帰るのはひかえるわとか、そんなことばでも言ってみてごらんよ。どんなにうれしいか」と切り出される。佑実は、「結婚と親孝行が同意語だったとはなんて奇妙な発見だろう」と考え、やがて二人の男性との間で揺れ動きながら、結婚という選択をしていくわけだが、母娘像といい、登場する二人の男性像といい、不思議な雰囲気を醸し出す末永史の筆致は、「小説家になるべくここ五年間ワープロをいじっていた」(「あとがき」)という熱情が凝縮されたものだと捉えてみたい。
 本書の書名にもなっている「猫を抱くアイドルスター」(17年5月)は、わたしのように登場人物を知っているものにとって、実写映像をともなったドキュメンタリーのようであり、物語の後半に至って急展開していくことに象徴されるように幻想譚のようでもある。
 「(略)ニャオ、ニャオと遠くで猫が啼いている。(略)大先生はあたりをはばかるように、語尾をひそめた。/ニャオ、ニャオ、ニャオという啼き声が近づいてきて、猫が大先生の膝に乗った。やさしい声で、/『おっ、来たか』とつぶやくと大先生は猫を触った。」
 猫が出てくる場面はここだけである。表題の「アイドルスター」とは、当麻先輩が「敬愛する評論家の大先生」のことであり、吉本隆明を像として活写している。当麻先輩は、味岡修(三上治)をモデルにしていて、他に作家の諏訪文兼は、中上健次だ。物語は、当麻先輩の死を予兆しながら、「私」こと「でか子」が、三十年前に当麻先輩から頼まれて、大先生と先輩の対談に立ち合い、そのときの音源(カセットテープ)を再現しながら猫を抱くアイドルスターを描いていく。大先生と当麻先輩の語り口は、まさしく吉本と三上の実際の語り口を彷彿とさせる。しかし、リアルでありながらも、どこかユーモラスな響きを醸し出させるのは作者の視線の鮮鋭さだ。憲法九条をめぐる語り、フーコーの死に際し語る大先生の声は、難解そうでじつは簡潔明瞭であるように読めてしまうのは、わたしの身びいきか。諏訪文兼の死、大先生の死、そして当麻先輩(念のために記しておけば三上治は健在だ)の死を記した後、「私」が脳腫瘍になる。そして、次の一行で、物語を閉じている。
 「しかしあきれることにそれから何年も私は死ななかった。」
 末永史が紡ぎだす物語は、作品が遺されてある限り、終わりはない。

(『図書新聞』19.2.9号)

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2019年1月26日 (土)

高野慎三 著『東京儚夢ぼうむ 銅板建築を訪ねて』     (論創社刊・18.9.10)

 わたしは、著者のように銅板建築にたいし関心を持って眺めてきたわけではないが、それでも東京で暮らして五十年になるから、帝都時代の名残とはいえ、なにか郷愁のようなものを誘う佇まいであることに惹かれてきたのは、確かだった。
 「震災以後、『帝都復興』の名のもとに大がかりな区画整理が行われ、次々と新築の家が並びはじめた。しかし当初は、バラック仕立てや平屋の家が少なくなかったようである。(略)一九三〇年前後になると、暮らしに活気がもどってきたのか、銅板張りの建物が出現するようになる。」(「まえがき」)
 そして、「耐火や耐久を兼ね備えた」ものとして、「銅板張りの木造二階建て」の民家や商店が、「銅の価格が下落気味であった」ため一気に、東京で広がっていったと著者は述べている。
 アメリカの空爆による戦禍から奇跡的に免れたものや高度成長期にも耐え抜いて、いまだ、「戦後の風景」を表象するかのように存在する銅板建築の様相を、著者は旅するように活写した写真集が本書である。
 地域としては、千代田区神田界隈、台東区、中央区、品川区である。巻頭に配置された神田界隈の家々は、民家や寿司屋、雀荘、洋品店、糸や裏地・ボタンを売る店、軽食・喫茶の店、青果店などが写し出されていく。なかでも、三階建てのものは、「錆びて緑青色に変色」しているにもかかわらず、かえって長い時間を湛えてきた雰囲気をもって、重厚さを醸し出しているといっていい。
 台東区東上野に佇む、“居酒屋アイリス”の看板を掲げた、三棟続きの銅板建築の隣にビルが建っているという不思議なコントラストの構図の写真[44~45P]は、銅板建築の現在を象徴させているように思う。築地や北品川の緑青色も見事に映えているが、わたしは本書の中では、台東区の鳥越の〝おかず横丁〟の家並み[66~75P]がいいと感受した。
鳥越について、著者は次のように記している。
 「鳥越神社に近い『おかず横丁』を訪ねたのは、そう古いことではない。一五、六年前のことである。(略)鳥越神社は、下谷神社から歩いてそう遠くない距離なのだが、都電が廃止になってからはなんとも不便な土地となった。(略)幅広い蔵前通りに並行した北側に狭い『おかず横丁』がある。いくつもの商店が軒を並べていたが、人通りは少なかった。それでも肉屋、魚屋、惣菜屋が並び、下町情緒がのぞいた。(略)それよりも目を見張ったのは銅板建築の存在である。緑青色に錆びた姿を好まないのか、上から赤や青のペンキが塗られた建物もある。(略)『おかず横丁』の裏には零細工場が並ぶ。印刷業、製本業、箔押し業、製箱業、合紙業、ボタン製造業、穴かがり業、革抜き業、数え上げたらきりがないほど多くの業種が固まって存在する。多くは二階建てである。どこも敷地は十数坪から二〇坪前後だろうか。家族だけで営む家内工業の町だ。」(「私的回想」)
 現在は、あきらかに「家族だけで営む家内工業の町」ということを、直ぐに想起するのは困難になってきているとはいえ、暮らしの様態は、多様なものであると考えてみれば、家は住宅という機能だけのものではない。かつてといっても、何十年も前のことになるが、変貌する大都市に比べたら、まだ地方都市の方が、古い家並みや商店街があったわけだが、いまは、地方都市の方がはるかに時間の進捗は早くなっているように思う。古い建物にはほとんど生活感なく、大げさにいえば廃墟のようになっている。東京だからこそ高層ビル群とおかず横丁のような家並み、町並みが併存できるといえるのかもしれない。もちろん、そうした風景が永遠不変に続くとは思えないとしても。
 かつて、林静一画集『儚夢』(幻燈社刊、1971年)という本があった。そして、林静一の世界に共振するように、あがた森魚の「乙女の儚夢」(72年)という歌があった。この二つの“儚夢”は“ロマン”と読ませている。当然、本書の書名も“ロマン”と読ませると思ったのだが、著者は、敢えてといっていいのかわからないが、“ぼうむ”としている。文字通り読めば、“はかないゆめ”となるわけだが、“ろまん(ロマン)”も“はかないゆめ”も、ただ、過去の時間への郷愁というものが色濃くあって、現在に対する視線をどこかに留保するように感じられるといえる気がする。だからかもしれない、著者が“ぼうむ”としたのは、そこに、強い意志をもって現在の風景と暮らしという世界を透徹しようと思考したのだと、わたしなら思う。

(『図書新聞』19.2.2号)

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2019年1月12日 (土)

藤井貞和 著『非戦へ 物語平和論』               (編集室 水平線刊・18.11.9)

 『湾岸戦争論』(河出書房刊・一九九四年)から二十四年、著者は、〈戦争の起源〉、〈戦争の本性〉から抽出される「未完の戦争学」を指向して、本書をあらたに提示している。詩人であり、物語文学者であるからこそ、〈起源〉や〈本性〉を切開して、〝非戦〟へとその視線を放射させていこうとしているのだ。3.11以後に書かれた文章群、講演と、書き下ろし論稿「戦争から憲法へ」を中心にして構成している本書だが、9.11アメリカ同時多発テロ直後に書かれた回文詩と、清水昶、佐々木幹郎、倉橋健一らと編集・発行していた伝説の詩誌『白鯨 詩と思想』四号(74年刊)に掲載した「近代と詩と――主題小考」を再収録していることにも注視すべきだ(なお、本書には刺激的な解説文として元『現代詩手帖』編集長・桑原茂夫の「『戦争』のこと」が付されている)。特に四十年以上前の論稿のなかに、著者が現在、思考をめぐらす起点があることに、わたしは、驚嘆せざるをえない。
 「戦争は地域や住み分けの差別からも、民族や宗教の差別からも、生産手段や階級の差別からも引き起こされる、それらの差別の根底に、そもそも好戦的な残虐性がよこたわっており、しかもそれが人類をみずからきたえ、ほとんど他の動物を寄せつけないほどの本能と頭脳とを育ててきたのだとしたら、これほど現代の『平和主義者』を絶望させる事態がほかにあろうか。」(「近代と詩と――主題小考」)
 そうなのだ、人類史の、あるいは生態史的な視線から考えても、動物たちの環界を弱肉強食の様態として、差異化したところで、人間の、人類の〈本性〉を考えた時、人間(人類)は、動物以後ではなく、動物以前の争闘本能を強固に潜在化した存在だといいたくなる。なぜなら、動物にはないとする〈知〉というものは、行為を正当化する偽善的な様相を逃れがたくあるといえるからだ。〈戦争〉と〈平和〉を対置したロシアの文豪がいたが、わたしには、欺瞞に満ちた対置でしかないと思っていた。さらにいえば、反戦平和というロジックもそうだ。反戦と平和が安易に連結してしまうのはレトリック以外のなにものでもないからだ。それは、かつて、〝原爆を許すまじ〟というスローガンに象徴されるといっていい。だからこそ、三十歳前半の著者が発した、「『平和主義者』を絶望させる事態」という捉え方に、わたしは同意したいのだ。〈反戦〉には、表出する〈戦争〉に対しての対抗視線しかなく、残念ながら、〈絶望的〉な起源や本性を見通す膂力がないのだ。
 だが、物語文学者としての著者は、記紀神話や物語世界から、絶望的な起源や本性を照射していく。それが、「学」となるかは、わたしには関心がないが、「学」ではなく、ひとつの切実な考え方であるとするならば、わたしもまた、そのことに随伴したいと思う。
 以下、本書における中心的な論稿の一部を、任意に例示してみる。
 「縄文から弥生への劃期は大陸から水田耕作を携えたひとびとの流入であり、戦争がそこに伴ったことは確実だと思われる。銅鐸が最初から銅鐸のかたちで大陸から移入されるはずはない。必ずや農耕具であるほかに、剣、矛、槍先などのかたち、武器として大量に日本列島にもたらされた。集落は要塞化し、戦士の埋葬を見ることになる。」「戦争には確かに広範囲の移動という一面がある。たとい国内であろうと(内戦である)、部族間抗争(と言っていなければ氏族間抗争)とのみ見るのでは不足であるという、〈国家の火〉を前提とする理由であり(平家にしろ、源氏にしろ、国政を担当しなければならないということでもある)、ここに戦争の定義が胚胎する。」「『戦争の放棄』は不戦の一環であり、諸他国の憲法にもありえてよいが、『戦力不保持』『交戦権の否認』は『戦争の放棄』を超える徹底であり、日本国憲法に見られる特徴として知られる。この特徴はパリ不戦条約と日本国憲法とのあいだのかなり大きな相違点であって、前者を不戦とするならば、後者を(略)〝非戦〟という語をここにおいて用意することは至当だろう。」(「戦争から憲法へ」)
 古代社会における人間の多様な意識の集合性(共同幻想)が、親和性へと傾くのか、ひたすら争闘によって共同体を拡張していくのかということは、強引に類推していけば、現在における西アジアや、民族宗教対立の争闘へと、それらはリンクしていくような気がしてならない。
 物語とは、過去だけではなく、現在にも未来にも潜在していくことだと思う。誰にでもある日々の暮らしを切実に考えていくことこそ物語であって、非戦とは、そういう物語を表わすひとつの言葉なのだと、わたしは、本書から喚起されたといっておきたい。

(『図書新聞』19.1.19号)

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