2018年6月 9日 (土)

矢崎秀行 著『つげ義春 「ねじ式」のヒミツ』          ( 響文社刊・18.1.15)

 一九六八年という〈場所〉から、五十年という〈時間〉を刻んだことになる。十年刻みでメモリアルな想いを込めることに、わたしの感性は動かないし、わたしにとって、六七年も六九年も同じ様に地続きな時間としてあるから、六八年だけを特化して捉え返すということはしたくないと思っている。つまり、全国的な学園闘争が惹起したことや新宿を中心とした国際反戦デー闘争、あるいは三億事件を、六八年を象徴するものとして見做すことはしないということをいいたいだけなのだ。後年、〈六八年革命〉などという大仰な捉え方をすることに、わたしは明確に否といいたい。わたしにとって、最も大きな事件は、吉本隆明の『共同幻想論』(十一月下旬刊)を読んだことだ。もうひとつ、付け加えるなら、つげ義春の『ねじ式』(『ガロ』六月増刊号)が発表されたことになるのだが、つげ作品から受けた衝撃度としては、高校生の時にリアルタイムで読んだ『沼』(『同前』六六年二月号)の方が大きかったし、『ねじ式』の直ぐ後に発表された『ゲンセンカン主人』(『同前』七月号)も『ねじ式』と同等の評価をされるべき作品だと思っている。
 本書の著者は、わたしより七歳ほど年少で、「『ねじ式』を初めて読んだのは19歳の時、1975年」だったという。七五年といえば、作品集『夢の散歩』(北冬書房)が刊行された時ということになる。わたしが本書に対して率直に感受できたのは、『ねじ式』をテクストとして、著者の思考の根拠を全篇にわたって透徹させていると思ったからだ。『ねじ式』論であるとともに、著者による思想論であるということに、わたしの心性は大いに刺激されたといっていい。
 もちろん、『ねじ式』の解読、つまり、〈ヒミツ〉の解析は、十人の読者がいれば、十通りのアプローチがあって当然だと思うし、どれが正解などというのは、まったく埒外にあるといっていい。著者の視線を、わたしなりに収斂させて述べるならば、〈死生観〉への真摯な論及ということになる。
 「『ねじ式』の冒頭のコマ絵は、死と重苦しい敗戦・占領の雰囲気に満ちている。それでは全面的にマイナスのイメージに覆われているかというと必ずしもそうではないと思われる。それはページの下半分に『海』が描かれているからである。あたかも海の彼方から到来してくるように主人公が、つまりつげ自身がこの漫画に登場してくるからである。戦火に傷ついた《マレビト》のように痛めた左腕を押さえて彼が到来してくるからである。」「『ねじ式』の本筋は、《日本人の死生観の変容》であり、(略)《その死生観の劣化》である。(略)お手軽な死生観(生き方死に方)に、彼は本気で強い違和感を底流では表明している。」
 このように述べていく著者の鮮鋭な『ねじ式』論に敬意を表しながらも、一九六八年時、十八歳(誕生月は十一月)で、『ねじ式』に接した立場から、少しだけ異和を述べておきたい。わたしもまた、冒頭の飛行機にベトナム戦争の〈影〉を見たのは確かだが、だからといって著者が「つげ義春にもこうした米国のアジアのベトナム戦争軍事介入に対する《義憤》があり、それに基づく反米感情があったと感じる。それがこの1968年に創作された『ねじ式』にも底流に流れていると強く感じる」と述べていくことには首肯できないといっておきたい。表現者つげ義春にとって《義憤》や「反米感情」は、最も遠い感性だと思うからだ。だからこそ、『ねじ式』という作品に普遍性があるのだ。著者が、作品から反戦、反米といったことを感受することは否定しない。だが、作者がどういう意図を持って表現したかは、別問題であり、作者の感性の深層まで切開していかなくても、作品論は成立するものだといえるはずだ。
 スパナ男は、木村伊兵衛が撮ったアイヌの教育者・言語学者の知里高央を引用したものだという論及から、アイヌの「他界と現世を往還する」死生観に着目していくのは見事だと思う。そして、次のように導いていく著者の論旨は、あらたな『ねじ式』論の達成を象徴しているといっていい。
 「生死が連続する循環的な死生観、私たち日本人の本来の死生観においては死と生は通路でつながっており、再生の回路が確固としてあるという意味なのである。そこを《ニライ・カナイ》と呼ぼうが、《根の国》《常世の国》、あるいは《アフンルパルの他界》と呼ぼうが、どう呼んでもいいと思うが、私たち日本人の魂の根源の国は、再生のない死穢の黄泉の国ではなく、命の再生がある点が最大の特徴の聖所だということである。つげはそうした意味で『それほど死をおそれることもなかったんだな』と言っている。」
 わたしもまた、つげ義春という表現者の作品には、絶えず、「死」というものの陰影が潜在していると見做してきた。『ねじ式』は、確かに死と生が往還する物語と捉えることを可能にしていると思う。それは死を救済することによって、生を根源化して表出することを意味するからだ。

(『図書新聞』18.6.16号)

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2018年4月21日 (土)

吉本隆明 著『吉本隆明質疑応答集 ③ 人間・農業』          (論創社刊・18.2.25)

  『質疑応答集』の本巻は、「『受け身』の精神病理について」、「異常の分散――母の物語」、「言葉以前の心について」、「自己とは何か」など〈人間の心身〉をめぐってなされた講演後の質疑応答をⅠ、Ⅱ章に配置し、安藤昌益についての講演も含む〈農業〉をめぐる講演後の質疑応答をⅢ章として、編まれている。
 時として、当日の講演をさらに深化させていくかのような言葉を発しながら、吉本の、どのような質問にたいしても、真摯に切実に応答する姿勢は、本巻でも、貫かれている。
 例えば、「『生きること』と『死ぬこと』」(八〇年六月)の講演後では、当時、六十三歳の男性の質問者が、「『生きること』と『死ぬこと』というような抽象的なことではなく、政治的なことで」質問があると述べ、「今の憲法にたいして全然批判的ではない。実績は評価している」としながらも、「今の憲法を立派にするためには、軌道修正する必要がある」と思うが、「どう思っておられますか」と聞く。吉本は、こう答えていく。
 「あなたと僕とでは、『新憲法は立派じゃない』と思ってるところがちがうと思うんです。たとえば、『天皇は国民統合の象徴である』というところがあるでしょう。僕はああいうところが立派じゃないと思うんです。(略)とにかく僕は、そこでは不満をもっている。(略)とにかく、そこがガンだと思っています。」
 わたしの記憶のなかでは、吉本が明快に第一条の象徴天皇条項に触れた記述に接したことがなかったから、即座にこの発言に惹かれたといっていい。第九条に込められた理念を積極的に評価する吉本にたいし、同意するとともに、やや逡巡してきたわたしにとって、ようやく共感できる位相に出会ったことになる。この国の〈憲法〉が、九条の前に、一条(「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であってこの地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」)から八条まで天皇条項が配置されることに、わたしは、まったく首肯できないでいたからだ。「主権の存する日本国民の総意に基づく」と記述されるわけだが、いったい、いつどこで、国民の総意がかたちづくられたのかといえるからだ。不満だ、ガンだという、吉本の裁断は極めて先鋭だと強調しておきたい。
 もうひとつ、わたしが本巻に収められている質疑応答のなかで、特に視線を注ぐことになったのは江戸中期の思想家・安藤昌益をめぐるものだ。
 「(略)日本の思想家は近世ならたいてい儒教の影響を受けています。安藤昌益だけはそういう影響を身につけてはいますが全部排除するというか否定するというか、そういうことを徹底してやっている人です。何はともあれ安藤昌益のいちばん根本的な思想は何かというと、『直耕』という概念です。」(講演「安藤昌益の『直耕』について」九八年九月―『吉本隆明〈未収録〉講演集〈3〉』) 
 そして、その講演で昌益の思想をシモーヌ・ヴェイユや親鸞へと敷衍していくのは、吉本らしいといえる。だが昌益を最初に発掘したのは、E・H・ノーマンだと述べているのだが、狩野亨吉という漱石の友人だったことだけでも知っていて欲しかった。質疑応答のほうでは、「直耕」という概念を『母型論』のなかの重要なモチーフとなった贈与へと連関づけていることに、わたしは重視したことを記しておきたい。
 さて、ここからは、『質疑応答集』の校訂と解説を担当している詩人・批評家の築山登美夫氏が論述している「『劇(ドラマ)』としての人間」と題した本巻の解説に触れたい。静謐な文体から滲み出てくるのは、解説文という枠を超えた鮮烈な吉本論である。なぜなら、徹底して吉本の有様に、築山氏自らの心性を注ぐように言葉を紡ぎ出しているからだ。
 講演「農村の終焉――〈高度〉資本主義の課題」(八七年十一月)の後の質疑応答では、国鉄の分割・民営化に反対して労働運動を指向していくとする質問者にたいして、「それはちがう」と激しく応答する吉本を捉えて、「口調はしだいに急き込んで、激流のようにとどまることを知らなくなり、たぶん途中からは質問者を含めた会場を凍らせるようだったのではないでしょうか」と記していく。そして、次のように述べて、この文章を閉じていく。
 「この応答の場面では、最後にいたって吉本さんの口調は我に返ったかのようにやわらかくなり、質問者へのいたわりを見せます。考え方の相違とはべつに、彼もまた無名の民衆の一人として、時代の波に翻弄されながら自分の運命をつくって行くほかない。そのことに例外はないのであって自分もまたそうしてきたのだ。そのかなしみが吉本さんを襲ったのだと、私には思われるのですが。」
        ※
 築山登美夫氏は、わたしの親しい友人である。彼からは、かなり前の段階で『質疑応答集』の企画を聞いていた。そして渾身の思いをかけていたことは、校訂作業に入ってからの彼の言葉のひとつひとつから伝わってきていたといっていい。だが、昨年末、彼は急逝した。突然の訃報に、わたしは、いまだに哀しい寂しいという言葉が直截に出てこない状態が続いている。彼の不在を確信したくない自分がいるからだ。
 彼の〈死〉によって、『吉本隆明質疑応答集』の四巻以降の刊行は、暫くの延期となっている。

(『図書新聞』18.4.28号)

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2018年3月 3日 (土)

赤澤史朗・北河賢三・黒川みどり・戸邉秀明 編著       『触発する歴史学―――鹿野思想史と向きあう』             (日本経済評論社刊・17.8.12)

 かつて、鹿野政直(一九三一~)は、「ひとはだれも、時代のもつ拘束性から自由ではありえません。それだけに、自己のうちに潜む非拘束性を自覚しつつ、それと格闘するとき、思想主体はもっとも耀き、そこで生みだされる思想は、時代を超えて光を放ちます」(『近代日本思想案内』九九年刊)と述べていた。わたしは、鹿野の心意を直截に表出している論述だと思っている。なぜなら、いわゆる歴史学というものは、最も「時代のもつ拘束性から自由ではありえ」ない領域だと、わたしは見做してきたからだ。「時代」を「情況」や「イデオロギー(マルクス主義)」と置き換えてみれば、理解は明白になるはずだ。わたしにとって、そのような「拘束性」と格闘した歴史学者は、鹿野の他に、網野善彦しか思い浮かばない。学際的な場所からは、他にもっといるだろうと声が出るに違いない。家永三郎、色川大吉、さらには政治思想史としての丸山眞男というように。だが、わたしが考えているのは、歴史的事象だけが歴史学の対象ではないということになる。人々の暮らしや生活から滲み出てくる経験相へと、開かれた視線を持って、自在な思想性を析出することが、「拘束性から自由になる」ことだと捉えたいのだ。だからこそ、二人に共通のものがあると見做したいと思う。
 さらにいえば、「思想という言葉を、もう少しひろい意味に用いたい」として、「あらゆる作品が思想性を湛えている」と述べながら、「思想の角度は、歴史を、可能性や構成力の欠落や陥穽から洗い直してゆく効用をも」(『同前』)っていると述べていく鹿野の視線は、なによりも鮮鋭だといいたいのだ。
ところで、わたしが、鹿野の著作に初めて接したのは、堀場清子との共著『高群逸枝』(七七年刊)だったが、高群に深い関心を抱き始めた頃ということもあるが、「あらゆる作品が思想性を湛えている」ということでいえば、必然的な出会いだったといえるかもしれない。
 さて、本書のようなかたち(恐らく、初めての鹿野政直論集だと思う)で、鹿野政直がこれまで論及、論述してきた「作品世界」を対象に、「日本現代思想史研究会」に参加する会員による「共同研究にもとづく論文集」が出されたことへ驚きとともに、感嘆の思いを抑えることができなかったといっていい。
 諸論稿は、どれも力論である。「序説」も含めると全十一章を九人の執筆者によって構成している本書に対して、全てを俯瞰して論及する余裕がないことを、いささか弁明しながら、わたしが共感する、鹿野政直が紡ぎ出す「思想」の表出を照らし出している論稿を以下、任意に援用してみることにする。
 「鹿野は、あらゆる場に成立する“権威”に抗うことを求め、『うちなる奴隷性』(略)を見つめ、疎外されている人びとの声を拾い上げ、日本の現実的な問題に“正対”してきた研究者である。鹿野の学問研究の手法は、学会の主流に身を置かず、主として作品そのものをとおして読者に直接はたらきかけるというものであった。」(黒川みどり「鹿野思想史と向きあう――『近代』への問い」)
 「うちなる奴隷性」とは、まさしく「時代のもつ拘束性」に通底するいい方だといってもいい。そして、そのことを見通し切開していくためには、「学会の主流」とは相対する立ち位置にいることが必然になるといえる。さらに付言してみれば、「あらゆる場に成立する〝権威〟に抗う」ことは、一人の、つまり、個としての存在性(それを思想性といい換えてもいいはずだ)を確信していなければ、できないことなのだ。
 「そもそも鹿野がことば遣いに注目するのは、ことばを通して、その『根』にあるもの・思想が『発酵する土壌』に思い致すからである。それは書き手・語り手や芸術作品の制作者の姿勢すなわち精神に眼を向けることであろう。」(北河賢三「触発する歴史学――鹿野思想史の特徴と性格について」)、「『初年兵哀歌』をめぐる議論の焦点ともなる被害と加害の問題についても、鹿野は両者の関係性、いわばダイナミクスが一人の表現者の主体においてどのように作動しているかを問題とした。(略)鹿野自身の経験と共振させながら、日本軍兵士だった作家の精神構造と戦後日本への異議申立てを絵の中に読み解き、絵画から照し返されるようにして言葉を紡ぎ出していく。」(小沢節子「鹿野政直『浜田知明論』の深度と射程――歴史家が絵画を読むということ」)
 表現されたもの、つまり作品というものに向きあう時の鹿野の姿勢を、二人の論者は述べている。北河が、ことばの「根」にあるものを「思想」と見立てて、それを「発酵する土壌」だと見通すことで、後段において、「科学的歴史学」に対し「文学的歴史学」というものを対置させながら、鹿野の歴史的視線の方位へと言及していく。小沢は、「共振」といういい方をもって、鹿野の思想の表出を見事に照射しているといえる。二人の論者の衒いのないいい方は、鹿野が発する言葉から率直に喚起されているからだといっていいはずだ。
 「一九八〇年代にかけて、鹿野の著作活動のなかに沖縄の『戦後』が一気に前景化する。(略)一九八七年、書き下ろしも含めて『戦後沖縄の思想像』(略)にまとめられた。(略)今日に至るまで、これほど綿密に史料分析に裏づけられた沖縄の戦後史はない。(略)本土戦後史という枠組みの解体を促す『沖縄の戦後』の発見は、手慣れた自己の思想史分析を応用する場所ではなく、鹿野自身の思想の見方の根底的な組み替えを要請した。」(戸邊秀明「いのちの思想史の方へ――鹿野民衆思想史にとっての沖縄」)
 鹿野政直の思想・思考の方位は、極めて「現在的」だと思う。「現在的」というのは、今を生きている人々の暮らしへと「共振性」をもって視線を向けていくことである。だから、鹿野は絶えず歴史思想というものを触発し続けているといっていい。

(『図書新聞』18.3.10号)

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2018年2月24日 (土)

新居 格 著『杉並区長日記――地方自治の先駆者』    (虹霓社刊・17.10.20)

 恐らく、戦前期の社会主義運動やアナキズム運動に関心を持っていたとしても、本書の著者、新居格(にいい・いたる、一八八八年~一九五一年)を知っている人は、極めて少ないと思う。
 例えば、アナキスト詩人・秋山清は、新居について「啓蒙的社会評論家として、アナキズム思想家として、文芸および文化批評家として、またユニークな短編小説家として、最後に、太平洋戦争後に東京都杉並区の戦後第一回の区長選挙に当選し(略)一個の知識人として多面的すぎるほどの特長を身につけた生涯」(「反骨の自由人 新居格」・七一年一〇月)を送ったと述べている。わたし自身、秋山の新居論に誘われるようにして、機会があれば、新居の著作に接してみたいと思ったのだが、いつのまにか閑却してきたのだ。それには、幾つかの事由があるのだが、たぶん戦時下でも情況とは距離を置いていたため、戦後直ぐに旺盛な執筆活動を開始し、ついには、一年間だったとはいえ四七年に杉並区長として、その任にあったことに、不思議な感慨を抱きながらも、なぜか、積極的に接近しようという思いが湧かなかったからかもしれない。だから、長い時間を要して、ようやく、いま新装版(五五年刊の『区長日記』を底本とし、七五年刊の『遺稿・新居格杉並区長日記』を適宜、参照)の本書を読むという僥倖を得たことになる。
 そして、読了後、わたしは率直に驚嘆したといいたい。新居格という人物像や、その著作活動を熟知していなくても、本書は、副題にもあるように、地方自治、あるいは行政というものはなにかということを、ほとんどリアルな視線で、〈現在〉を見通していることになるからだ。
次々と軽佻な知事に変わる東京都や排他主義の知事を生んだ大阪府の有様、さらには国会議員の劣化が、そのまま、地方議員にも汚染しているかのような、皮相な不祥事の頻出を思えば、杉並区長・新居格を、〈鏡像〉とすべきだと、わたしは、いいたくなってくる。
 「天下国家をいうまえに、わたしはまずわたしの住む町を、民主的で文化的な、楽しく住み心地のよい場所につくり上げたい。日本の民主化はまず小地域から、というのがわたしの平生からの主張なのである。/美しくりっぱな言葉をならべて、いかに憲法だけは民主的に形作っても、日本人の一人々々の頭の中が、相変わらず空っぽであり、依存主義であり、封建的であるのでは、なんにもならない。わたしは、日本中のあちこちの村に大臣以上に立派な村長ができたり、代議士以上に信用のできる村議会議員がぞくぞく出てくるようでなくては、本当の民主主義国家の姿ではないと思っている。」「彼らはいう。――君は理想主義者だから現実を知らぬ、と。だが、わたしはそれに対してこう抗弁することが出来る。/わたしが現実を知らぬというのは間違っている。ただ、君等と現実の認識に相違があるだけだ。そしてわたしは昂然といい放った。/君等の現実の認識とは、旧態依然たる現実が対象ではないか。それに反してわたしのは、進行形においてなされるのだ、と。」「首長は、外部にたいしましては全的に責任を負うものではありますが、内部的には各自がそれぞれに全責任を負うわけになるのであって、わたしたちの職場ではだれもが誰をも支配していないのでありまして、あるものは分担の相違だけなのであります。」
 当時、杉並区は人口三十万人だった。区長とはいえ、地方の県庁所在地の市と同じ規模を有していると考えてみれば、新居の首長としての構想は、大胆で斬新過ぎたといえるかもしれない。新居が杉並区長だった時から、七十年経ったことになる。だが、新居の地方自治の構想からは、大きく後退・停滞しているのが、現在的な様態だといっていい。
 「わたしたちの居住地区では区議会議員がある。そのうちで、都議会議員に可能性があると思うものは、この次には都議会に出るという気になるのだ。(略)次には国会ということにする。そこに根本的な誤謬があるので、その連中は初めから自治体の意義を知らず、小地域ながら自治体のためにつくすことがいかに尊貴なことであるかを弁えないのだ。」
 そもそも、〈政治家〉は、パブリックサーバントであるべきである。しかし、いつの間にか、自らの地位に権力という媚薬があることに酔いしれていく結果、たんなる上昇志向という病に罹っていくことになる。
 地方行政が、国からどれだけ多くの予算を配布してもらうかということに汲々としている限り、地方自治というのは幻想態に過ぎない。国から村へと至る現在の垂直的な構造を考えてみれば、新居が描く、「まず小地域から」というベクトルの可能性は、明らかに至難なことに思えてくる。「政治力とは、他の区を出しぬいて都からより多くの交付金(略)をせしめることなのか」と新居は憤怒する。選挙の度に住民のためといいながら、当選してしまえば、自らの地位に連綿としている〈政治家〉たちがゾンビのように蔓延っていては、〈政治〉は、わたし(たち)の〈生活〉と相反する位相でしかないと断定していい。
 持病であった腎臓疾患が悪化せず、少なくとも、数年、杉並区長を続けて、新居格の〈理想〉の落葉でも残してくれていたならと思わずにはいられない。

(『図書新聞』18.3.3号)

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2018年2月17日 (土)

五十嵐勉 著『破壊者たち』(アジア文化社刊・17.9.7)

 五十嵐勉が著した本著を読み終えて、真っ先に思ったことは、なぜこれほどまでに苦悶する物語を、著者は描出しようとしたのだろうかということだった。
 物語(小説作品)というものは、現在と未来をどのように見通すことが出来るのだろうかというモチーフを有していると、わたしは理解してきた。だからといって予定調和的な展開であるべきだとは思わないし、押し付け的な未来像を見せられることを求めてきたわけではない。例えば、高橋和巳がかつて著した『邪宗門』(六六年刊)という小説を、救済のない、ただ破滅していくだけの物語だと、当時、多くの批判にさらされていたのだが、共感していた読者であるわたし(たち)は、けっしてそうは捉えてはいなかったのだ。なぜなら、マイナスの位相を集積していくこと(つまり、“敗北の構造”を徹底的に感受することで理解しうる道筋というものがあるのだという思い)によって、必ずどこかでプラスの位相へと転化していく可能性があるはずだと考えていたからだ。
 本書の物語は、三つの場所からの視線を交互に描きながら展開していく。「マネキン破壊のアルバイトという現在の東京」、七十年代中頃から生起したクメール・ルージュ(カンボジア共産党)に参加している一兵士の独白に添って描像していくカンボジア、四五年八月、ヒロシマに向かって原爆投下を任務とするエノラ・ゲイの機内というそれぞれの場所は、ひたすら大量破壊と大量殺戮へと向かっていく場所でもある。
 著者は、本書のなかに挟みこまれている冊子のなかで、次のように述べている。
 「原爆を落とす側、虐殺をする側には、何か共通するものがあるのではないか、という考えが以前からありました。大量破壊、大量殺戮に通底するものを小説という方法で探ることです。人間の意識には、戦争や集団の機能行為を通して出現してしまう危険なものが潜んでいる。それを抽出してみるという作業です。それは遠いできごとや行為ではなく、日常生活や普通の市民生活の中に、潜んでいる。」(「『破壊者たち』をめぐって」)
 破壊や殺戮をしながら、あるいは、これから膨大な無辜の住民の命を奪うため原爆を投下しようとしていながら、どこかで逡巡しつつ、自らの行為を正当化していく像をそれぞれ次のように著者は描出していく。
 「マネキンたちは、大きな群れとして僕と対峙し、(略)声は複数になり、そして不意打ちのようにあちらこちらから投げかけられてくる。(略)反感や非難は僕の体や頭や手足を打つが、僕はひるまない。むしろそれと闘うことによって、僕のパワーは大きくなり、よりいっそう熱い力が残酷さを増してマネキンの群れに向かっていく。」「いったんある線を越えてしまうと、人間は何か別なものになっていく気がします。それは人殺しの機械として機能していくことでもあり、何か麻薬のように、それをしないと落ち着かなくなるのです。(略)すでに私たちには大義はなく、(略)我々の生活とは死刑執行であり、首を打って穴の中へ投げ込むことが、仕事だったのです。」「おれはただ、『この作戦が成功すれば、終戦を早められる』という言葉を信じた。おれはそれをスチムソン陸軍長官からもじかに聞いた。おれは信じた。そのためだったら、どんな孤独にも耐えられる。おれは耐えた。だからこそこの空の青さが美しく思えるのだ。」
 破壊や殺戮をする行為を狂気性として捉えるとして、では、その狂気の始原つまり、狂気の母型とはなにかと考えてみる。誰にでも、狂気性は潜在しているのだと捉えていくならば、人間という存在そのものが、狂気の母型といえるのかもしれない。しかし、それでは堂々巡りでしかない。どこかで、それを転化する契機はあるはずだ。著者も、「日常生活や普通の市民生活の中に、潜んでいる」と述べるように、夫婦、親子、兄弟間であっても、命を奪う行為はあるし、突然、なんの関係もない人たちに襲い掛かって殺傷する事象も多くあることを考えてみれば、戦争や内戦だけが殺戮の場所ではないことは、自明のことである。しかし、それでもなお、〈死〉より〈生〉のほうが、「美しく思える」場所を紡ぎ出すことを、微力ではあっても、一人ひとりが日々想起していくことからしか、マイナスをプラスへと転化できないといいたい気がする。
 「集団の機能行為を通して出現してしまう危険」性と著者が述べているように、個が共同性のなかに置かれた途端、個の屹立性を喪失していくことを、わたし(たち)は知っている。だからこそ、まず一人ひとりが母型からの再出発を試みることだと、『破壊者たち』という物語を通して、わたしが喚起されたことだ。

(『図書新聞』18.2.24号)         

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2018年2月10日 (土)

吉本隆明 著『吉本隆明質疑応答集 ② 思想』        (論創社刊・17.9.25)

 吉本隆明の講演後の質疑応答をテーマ別にまとめて全七巻で刊行するという画期的な企画の第二巻が本書だ。このような企画が成立するのは、吉本隆明が絶えず切実に情況的課題や思想的課題に真正面から向き合い続けてきたからだといっていい。特に、本書の前半部に配置された1967年10月12日から11月26日にかけて中大、早大、国学院大、関大の四カ所で行われた質疑応答は、白熱化するというよりは、いわゆる67年10.8羽田闘争直後の対抗的運動の高揚が投射されて、国家や権力の所在をめぐって吉本と学生たちとの拮抗と離反していく言語の応酬が苛烈だ。読みながら、わたしは、同世代であった学生たちへ、ある種の痛ましさを感じないわけにはいかなかった。吉本の『共同幻想論』が刊行されたのは、68年12月であったし、その前半部は雑誌「文藝」に66年から67年まで連載されたものだが、もとより、わたしもそうだったが、雑誌「文藝」を手に取るはずのない学生たちは、吉本が展開していく「共同幻想」の概念を、未消化のまま誤解していくのは無理がないかもしれない。だが、66年10月に刊行された『自立の思想的拠点』には、『共同幻想論』のモチーフを込めた論稿が幾つか収められていたから、それらを了解していれば、もう少し冷静な質疑応答が成立していたのかもしれないが、10.8以後の高揚は、論議を皮相な情況論的な場所へと押し込んでしまったといえる。
 四大学での講演から一年半後、つまり、10.8以後、全国的に拡がっていった大学闘争(高校での闘争もあった)は、東大安田講堂の攻防を頂点として、さらに苛烈なかたちで続いていったわけだが、吉本は、学生運動をまるで革命闘争のように鼓舞していった歴史学者・羽仁五郎を次のように述べて、断じている。
 「いったいこの老人は、安田講堂に赤旗がたち、都庁に赤旗がたち、つぎにまたどこかの都市や地域自治体に赤旗がたつという具合に拡がれば、国家が覆滅するなどと本気でかんがえているのでしょうか。(略)羽仁五郎の『エキストラポレイション』(引用者註・「外挿」)の論理は、いかように学生や労働者に実践的に蔓延しても、政治的国家の本質に一指も触れられないということは申すまでもないことです。この老人は、本質的には社会的な運動の課題でしかない問題を、政治的な運動の課題と滅茶苦茶に混同しているにすぎないのですが、こういう馬鹿気た論理が、現在急進的な学生たちに受けいれられる基盤があるとすれば、そこにたちどまって考えてみるだけの問題がひそんでいるにちがいありません。」(「情況への発言」69年3月)
 後年、70年前後の学生運動に大きな影響を与えた思想家として吉本を称揚する文章を多く散見することになるが、それは、記号化すればわかりやすいという安直な捉え方に過ぎない。たとえば、国学院大と中大では、運動の主体的な担い手たちの党派性は、両極端といえるし、わたしが、当時の情況を想起してみれば、吉本を読んでいるのは、運動の主体的な担い手というよりは、その周辺にいる学生たちの方が多かったはずだ。70年6月に結成された共産同叛旗派の集会で、吉本はしばしば講演をしているが、叛旗派にシンパシイを寄せているからではなく、六十年代から関係が続いている三上治(味岡修)の依頼に応じているにすぎないのだ。
国学院大での応答を引いてみる。
 質問者「一般の大衆は意識しないでも国家の共同性に対立しているとしても、彼らにたいしてたんにイデオロギー的な先験性を打ち出していくのじゃなくて、大衆そのものを止揚していく立場に立たなければだめだと思うんです。」
 吉本「(略)大衆というのはね、あなたのいうようにイデオロギーをそこに注入すべきものだというような、そんなものとはまったく反対なんですね、(略)僕はその大衆というものを全体として把握するばあいには、その裏面というものを考えるわけです。つまり、大衆はいったんある契機というものがあるばあいには、かならずあらゆるイデオロギー的抑圧をくつがえしていくものだということ、ある契機さえあれば、転化しうるものだということですね。大衆は国家の共同性にそう易々諾々として服従しているとは考えない。」
 大衆をよくいえば啓蒙、要するに組織(コントロール)していこうとする学生たちと、大衆の側にたって情況的な位相を見通していこうとする吉本との間には、大きな障壁が横たわっているかのようだ。わたし(たち)は、革命運動を領導する前衛なんかではない、大衆の一人一人であることを彼らは理解できないのだ。その後、質問者たちは、「あんたはな、大衆の反体制的な後退的な意識に依拠しているんですよ」「あなた自身がね、現実的な階級闘争をどう必然的に高めていくか、そういう立場こそ問題なんですよ」と畳みかけていく。吉本は、「何いってるんだい、僕は少しも依拠なんかしてないよ」「何いってるんだ、それはあなたの問題だよ」と述べながら次のように応答していく。
 「私らはね、安保闘争以後ね、独立ですよ、独立、自立ですよ。そして、私たちはやってきているんですよ。宣伝、啓蒙から、理論的建設の過程まで全部やってきてるんですよ、一貫して。」
 本書では、後半部、柳田国男、竹内好、〈アジア的〉な問題など重要なモチーフの講演後の質疑応答も収められていて、そのことに触れることはできなかった。しかし、『共同幻想論』が、わたしたちの前に現出する前夜、吉本の「独立」、「自立」、「一貫して」といった言葉の発露に、思想の根源からの熱視線を感じないわけにはいかなかったといっておきたい。

(『図書新聞』18.2.17号)

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2018年2月 3日 (土)

三上 治 著『吉本隆明と中上健次』(現代書館刊・17.9.7)

 著者は、本書の中で、「初めて訪ねたのは、一九六〇年の九月か一〇月のことであった」と記しているように、吉本隆明と長い交流を続けてきたことは良く知られている。機縁はもちろん、六〇年安保闘争であるのは、いうまでもない。著者はその後、社学同全国委員長になり、七〇年には、神津陽とともに共産同叛旗派を結成する。叛旗派の集会や中央大学で、吉本はしばしば講演をしているが、それは、ひとえに三上治との通交によって実現したものだといっていい。「図書新聞」紙上で、「吉本隆明と中上健次」と題して連載が始まった時、没後、多くの吉本論が氾濫するなかで、現実的な場所で、〈政治運動〉として吉本思想の核心を、最も実践してきた三上治(味岡修)が、吉本を本格的に論ずることになったことを、わたしは期待を抱きながら読んでいた。いま、一冊に纏まったかたちで通読して、やはり、著者だからこそ、吉本思想の深遠へ、さらに深奥へと論及していることに、率直に共感したことを、まず述べておきたい。
 開巻(「第一章 死の風景・精神の断層」、なお、「序章 『三・一一』の衝撃」では、小沢一郎との対談が“幻”に終わったことが記されていて、興味深い)、三・一一以後のほぼ一年間の〈最後の吉本隆明〉へ、静謐ながらも鮮鋭に視線を射し入れていく著者の言葉はなによりも苦闘の中から滲み出ているといいたくなる。
 「経験として取り出した言葉や抽象には、他者の経験が介在してもいるのだ。事実そのものと、事実として取り出したものとは同じではない。これは前提である。しかし、事実は先験的な理念との現実の誤差を教えてくれるのであり、それは理念を開いていくことを可能にする。」「僕は、吉本がなぜに原発容認の考えであったかをエコロジカルな思考への批判も含めて知っていた。(略)僕が吉本に魅かれてきたのは、その思考が事実に対して開かれていること、経験的であることだった。原発問題でも気にかけていたのはそこだった。」「吉本が繰り返し述べているのは、原子力エネルギーに害があるのであれば、その防御策を同時に発展させるのが根本問題であり、止めるのは科学的でないということだ。これは彼の強固な科学技術についての考えであり、福島の事故を目にしても変わらなかったものである。/僕はこうした考えを取らない。人間が生み出した科学技術を人間の意志で止められないとは考えない。また、ある領域で科学技術の進展を留めるのを人間の退化だとも思わない。」
 わたしも、〈最後の吉本隆明〉に接して、戸惑いを払拭することが出来なかった。頑迷に、「科学技術は後戻りできない」とする主意に、『最後の親鸞』で、〈往相〉、〈還相〉という概念を析出した吉本にとって、科学技術(科学知)に関しては、〈還相〉がないことになると思ったからだ。つまり、著者の言葉を援用していくならば、なぜ、科学技術や科学知をめぐって「理念を開いていく」ことをしなかったのかということになる。
 本書は、「第二章 安保闘争のころ」から「終章 『いま、吉本隆明25時』」まで、吉本の思想を語り、中上健次の文学を語り、著者と中上が企画して、八七年九月に行われた「いま、吉本隆明25時」をめぐって述べながら、本書を閉じていく。
 「我が列島に存在してきた共同幻想の歴史的な構造を析出し、その一部に過ぎない天皇制的な共同幻想が支配力を持つ現状を無化する試みは未知の思想として今も残されているといえる。このころ『共同幻想論』は別の形でも読まれて衝撃を与えていたが、その中に中上健次も存在していた。」「吉本も中上も文学を基盤として活動していたのだから当然だが、彼らが執着していたのは幻想ということだったように思う。幻想としての人間の存在を追い、それを生涯にわたって考え抜いたのだと思う。彼らが遺した膨大な作品は、彼らが紡ぎだした幻想にほかならない。幻想とは幻影でも想像力でもない。それらを含む人間の精神的(心的)な表出であり表現なのだ。」
 中上健次は、『岬』で芥川賞を受賞したのを契機に、わたしは読むことになる。いつしか、芥川賞作家などという冠を忘失するほどに、旺盛な中上の仕事に随伴していった。敢えて絞りに絞って述べるならば、わたしは、『千年の愉楽』と『鳳仙花』がいいと思っている。中上の、『共同幻想論』角川文庫版の解説がいい。中上らしい熱い言葉に散りばめられた文章が、うれしかった。著者が、「幻想とは幻影でも想像力でもない。それらを含む人間の精神的(心的)な表出であり表現なのだ」と述べて、吉本隆明と中上健次を繋ぐ時、それは、「世界」を震撼させることの可能性を見通すことであったと、わたしなら思う。中上は、吉本の詩「廃人の歌」のなかの一節「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」を好んで援用していた。ならば、本書に誘われながら、わたしは、微力ながらも、そのことを追認し、先へ先へと進むしかないと思っている。

(『図書新聞』18.2.10号)

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2018年1月13日 (土)

宮岡蓮二 著『APARTMENT――                   木造モルタルアパート 夢のゆくえ』(ワイズ出版・17.8.15)

 わたしは、著者と同世代(二歳年長で、上京は二年ほど早い68年)だから、“木造モルタルアパート”とは、実際に暮らし続けた空間であり、懐かしい場所でもある。最初の場所は、“木造モルタルアパート”というような上等なものではなく、玄関を開けると長い土間が続いてあり、突き当りは共同トイレ(もちろん水洗なんかではない)で、左側に小さな洗面所があり、右側が四畳半の部屋が五つ並んでいるだけの木造長屋であった。それでも、住人たちの不思議な矜持があって勝手に“野人舎”と名付け、玄関に木の看板を掛けていた。そこに三年半ほど住んだ後、“二人暮らし”を始めるため別の場所へ引っ越したが、そこは一階建てて、共通の玄関を入ると廊下があり、履物を脱いで上がり、突き当りの六畳間に小さな台所があるだけの部屋が、“新居”であった。もちろん、洗面所とトイレは共同、風呂は、銭湯だ。窓を開けると、隣に二階立てのアパートがあり、夏など下の階の一室が見え、家族五人が暮らしているのが見えた。なぜか、貧しいとか、もう少し広い部屋に住みたいとは、あまり思わなかったのだ。六畳でも充分の広さを感じたし、それが、自分たちの現在なのだと考える以外なかったからだといっていい。
 著者は、最初の場所を次のように述べている。
 「六畳一間に半間の流しと押入れ、それが東京でのわたしの最初の住まいであった。しかし、それをアパートと呼んでよいのかどうか、いまでは疑問である。なにしろ一軒家(大家一家は一階で暮らしていた)の二階に、たった二部屋の貸室しかなかったのである。/当時、同じ練馬やその周辺の友人たちの住まいは(略)内廊下の左右に部屋が並ぶアパートがほとんどだった。」
 いま、思い返してみれば、「内廊下の左右に部屋があるアパート」をわたし(たち)は、羨望の目で見ていた。なんとなく、プライバシーが確保されているように見えたからだ。わたしの記憶に間違いなければ、そのようなアパートの方が賃料は高かったはずだ。
 著者の“木造モルタルアパート”をめぐる写真撮影の旅(といっても、東京都二十三区のうち江戸川区、千代田区、品川区、渋谷区、目黒区を除いた十八区が旅の場所であるが)は、二十年にも及ぶ。膨大な数の写真を本書に精選して収録する作業でも大変なことだったろうと推察する。訳知り顔に収録されている“木造モルタルアパート”の写真に対して、なにかを言及することは憚れるのだが、幾つかの印象深い建物に触れてみたい。
 台東区台東のアパート(一六一頁)の真正面から撮った一枚は、一階と二階の窓が違う構造になっていて、不思議な感じを湛えている。しかし、前方は駐車場で五台の車が並んで停まっている。もう一枚は、アパートに近寄って仰角で撮っている。建物の下方に、「最大料金駐車後24時間2200円」と書かれた看板が掛けられていて、写真は、アパートの背後にあるマンション風の建物とビルを捉えている。駐車場と新しい高い建物に挟まれている二階建てのアパートは、長い年月が威厳のような風合いをもって漂わせているとわたしには、思われた。
 世田谷区若林(二一六~七頁)の、二階建てアパートの外階段を撮った写真七点は、様々なヴァリエーションを見るものに感じさせる。二階へ上る、二階から下りる、住人たちは、どんな思いで、毎日、アパートの階段を上り下りするのだろうか、ふと、そんなふうに想像したくなるアパートたちの佇まいだ。北区西ヶ原(二七四頁)の一枚、窓の廂の上に白黒模様の猫が佇んでいる姿を捉えている。集中、唯一、“生きもの”が登場する貴重な一枚だ。なぜ、この一枚にだけ猫が写っているのか、著者の思いを問いたい気がするのだが、それよりも、わたしには、窓の廂が、猫が佇むことができるだけの空間であったことに驚いたといえる。
 わたしも、実は、近所を散策しながら古いアパートを見つけては、なんとなく懐かしい気分に浸ったものだ。確かに、ここ十年ほどは、その佇まいを見つけることが困難になってきている。トイレが共同で、風呂もないアパートに若い人たちが住みたいとは思わないことを誰も責めることはできない。著者はそんなアパートを撮り続ける思いを次のように述べていく。
 「一九五四年に始まった『集団就職』は地方から東京へ多くの若者を運んだ。かれらのほとんどは、大きな企業であればその寮、個人営業の店などではそこの家族と同居する。まだ幼いといっていいかれらが、あかの他人と生活を共にするのはつらいことだったに違いない。かれらが夢見たのは、故郷へ帰ることをのぞけば、一人で生活していくこと、ではなかっただろうか。その憧れの対象が、いま朽ち果てようとしている、この木造モルタルアパートではなかっただろうか。」
 記憶というものは、なにか契機となるべき像がなければ失われていくものかもしれない。だからといって、過ぎ去ったことに拘泥することが、負の方位だと、わたしは思わない。なぜなら、記憶というものは、たんに過去のことを包有することではなく、現在を絶えず、共振させていくものなのだと思っているからだ。そういう確信を、わたしは本書から受け取ったといっておきたい。

(『図書新聞』18.1.20号)

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2017年12月23日 (土)

松本亮 著『金子光晴の唄が聞こえる――金子光晴の人と詩への、永久なる愛惜の想いをこめ』(めこん刊・17.7.10)

 わたしは、金子光晴を生前、何度か見ている。当時、吉祥寺に住んでいて、駅北口のサンロードと名付けられた商店街の入り口あたりで、褞袍のようなものを羽織り一人で佇んでいたのだ。なにをしていたのだろうかとは思ったが、金子光晴なら不思議ではないと、何の根拠もなしに思ったものだった。それから、しばらくして、吉祥寺駅のホームで、旧知の秋山清と偶然会い、これから金子の通夜に行くのだと告げられた時、驚きよりも、なぜか、褞袍姿で佇んでいた金子の像が想起され、死の予兆とともに彷徨していたのかもしれないと、思ったものだった。本書の巻末に「松本亮の優しさ」の一文を記している暮尾淳がその時、秋山に随伴していたことを、秋山が亡くなって十数年後に聞くことになる。わたしにとって、金子をめぐるささやかな縁である。
 わたしが金子光晴に関心を抱いたのは、入り口としては邪道なのかもしれないが、秋山清とともに戦時下、抵抗詩とも反戦詩ともいわれる詩篇を紡いだ詩人としてだった。特に、詩集『落下傘』に収められている「寂しさの歌」は、わたしに金子への共感を強く喚起するものになったといえる。周知のようにそれは、「国家はすべての冷酷な怪物のうち、もっとも冷酷なものとおもはれる(略)」というニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の一節が引かれた後、次のように始まる。
 「どっからしみ出してくるんだ。この寂しさのやつは。/夕ぐれに咲き出たやうな、あの女の肌からか。/あのおもざしからか。うしろ影からか。/糸のようにほそぼそしたこころからか。/そのこころをいざなふ/いかにもはかなげな風物からか。」
 本書の著者は、「金子はついに社会主義者、共産主義者、またアナーキストでもなかった、要するにニヒルな一個のリベラリストで終始したといえる」と述べているが、確かに、そうかもしれないが、「寂しさのやつ」という詩語に込めた金子の思念を考えてみれば、貧困に陥ることはなかったとはいえ、出自に由来する孤独感のようなものを生涯にわたって払拭できなかったのではないかと思わないわけにはいかない。奔放な妻・三千代に翻弄されながらも、関係を切断することなく、晩年は、宿痾のリューマチの「病勢がしだいにすすみ足腰の立たぬ状態になって」いた三千代の「排便を手伝ったり風呂をつかうのを可能なかぎり身をもって世話」をしたという。
一方では、二十九歳も年少の大河内令子(本書では、R子と記されている)との悲惨な関係を切断させることもできないまま、続けていく。
 著者は、詩篇の中で、「柔さ弱さに触れるとき、私たちは逆に金子の無類の強靭さを感得することができる」と述べている。あるいは、三千代とアナーキスト詩人・土方定一(戦後は美術評論家として、全国美術館会議会長などを務めた)との関係に苦悶する金子を次のように捉えていく著者の視線は、わたしが感受した金子の孤独感のようなものを閉塞させていくのではなく、屹立させていくかのように喚起してくれるといっていい。
 「私には土方を下敷きにして三千代をみつめ、さらには金子にとって女とは何であったのかを見据えることで、金子の全貌が明瞭に浮かんでくると思われる。それは戦争でも、国家でも、ましてや貧乏でも流浪でもない。三千代の存在こそ、金子にとって悠久の水の流れ、血、またたゆたう海以外の何ものでもなかったのだ。その基底を読みとることから、逆に金子における戦争、国家、また流浪の命題が立ちあがってくるものと思われるのである。」
 土方の薫陶を得、R子と金子の間を仲介する著者だからこそ、金子夫妻の愛の有り様、そして金子の表現者としての基層を捉えることができるのだ。暮尾淳は、「松本のまなざしは優しい」「松本にしか書けない」と述べているが、読み終えて確かにそうだと思った。評伝のようでもあり、金子光晴論のようでもあるが、むしろ金子光晴と森三千代の関係性を鮮鋭に描像する物語として、著者は、わたしたちに見せてくれたといいたくなる。
 著者・松本亮は一九二七年生れ、五一年、「金子光晴を訪ね、同氏没年(一九七五年)まで親交をつづける」。二〇一七年三月九日、死去。著者本人の「書きかけのあとがき」には、次のように記されている。
 「『金子光晴の唄が聞こえる』は、雑誌『新潮』の一九八三年(略)四月号に、三五〇枚一挙掲載ということで発表された。その後まもなく単行本化されるはずのところ、事情により、そのまま三十数年が経過した。(略)マッちゃんと金子の呼ぶ声が聞こえる。考えてみれば、私がもう金子大兄より一〇年も余分に生きているということで、なにか忘れてやしませんかというわけである。そんなことで一寸慌ててこの本がやがて遅まきの初版本として世に現れることになった。他意はない。」
 暮尾によれば、著者の妻は二月に亡くなったという。本書は、もうひとつの夫婦の愛の有り様を投射させているのかもしれない。

(『図書新聞』18.1.1号)

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