2016年12月 3日 (土)

井川博年 著『夢去りぬ』(思潮社刊・16.10.15)

 六年ぶりの新詩集に接し、ほとんど行変えせず、長いセンテンスで息継ぐこともできないまま終景へと至る井川博年、独特の詩作品四篇のうちの一篇、「新宿の唄」という作品に、わたしは、真っ先に魅せられた。
 「私はその頃二十歳になったばかりで、お誂え向きの失業者だった。古着屋で買ったバンドマンが着るような赤いコール天の上着を着て、学生ズボンに靴だけは新品の革靴。全財産の入った(中には詩の原稿も)ボストンバックを手にさげ、高田馬場での同人誌の会合に出て、帰りに一杯呑んだおかげで、懐中無一文に近く、終電車に乗りそびれたあげく友人にも逃げられ、深夜ひとりとぼとぼと線路に沿って歩き、ようやく新宿に辿り着くと、かねてから目をつけていたドヤ街の、一番奥にある一番安そうな宿の玄関に立った。」
 「昭和三十六年頃(略)の年末」とその前に記されているから、わたしたちは、「赤いコール天の上着」、「学生ズボンに靴だけは新品の革靴」に、作者の像を想起させながら、新宿の「安そうな宿」に辿り着くまでの時間を、誰もが通過するアドレッセンスの象徴的な情景として共感することになるはずだ。同じような体験をしたかどうかではない。センテンスの長さに、性急さ必死さのような思いを、生きていることの証しとして描像しているからなのだ。
 もう一篇、行変えを精緻にし、刻むようなリズム感を滲みだしながら、紡いでいく極私的物語詩とでもいいたくなる作品がある。
 「綱は始めはゆっくりと次は大きく揺れる。/一年後の東京は六〇年安保騒動の真っ最中で/学生詩人連中は大興奮の様子だったが/大阪にいるこちとら新米の人生サーカス団員は/下駄履き作業服の造船所の工員さん。(略)/私こと人生サーカス団員も二十歳になっていた。/何の感動もなかった。/人生で初めて手がけたといっていいこの工事を終わらせ/待望のボーナスを手にしたらそれを元手に/詩集を出そうとそればかり考えていた。/詩集の題は『見捨てたもの』と決めていた。/何もかも見捨てるつもりだった。二十年しかない過去など捨てて悔いはない。」(「人生サーカス――二十歳の履歴書)
 六二年に第一詩集『見捨てたもの』を井川は出している。「見捨てたものよ さようなら」という書き出しで始まる表題詩からは、「昼は明るく ぼくは好きだ」、「ぼくには涙もないのだ」、「見捨てたことで強くなろう」といった言葉に、わたしは惹きつけられたものだ。
 五十年以上という長い時間を遡及させ、自らを「人生サーカス団員」として、アドレッセンスを描出する作者の現在ということに、わたしなら拘泥してみたい。もちろん、誰もが十代から二十代という時期には悔恨を含みながらも郷愁のような思いを払拭できないことはわかる。それにしてもと思う。父母や祖父母のことを描像した作品があるかと思えば、「二百年」という「二百年後の人々は/まだこの日本の東京と呼ばれた辺りに/かたまって住んでいるだろうか。」という作品もある。
 前詩集から後のことを、井川は「あとがき」で次のように記している。
 「その間に、娘の死あり、(略)清水昶が、二〇一一年五月に急死するという、私にとっては同い歳の詩人の死として、忘れられない出来事があった。」
 さらに、岩田宏の死にも触れている。そして詩集名の「夢去りぬ」には、「すべては過ぎ去って行く」という思いが込められていることが、わかってくる。だが、「過ぎ去って行く」ものは、還り路のようにして、わたしたちの心奥に潜在してくるといってみたい。往ったものは、また、還ってくるというように。
 「東京に降る雪は/いつもはやさしく時に激しく/すべては夢であったよう……//失ったものはかえらない/子供たちとの食事の時に決まって/変なことをいいだして突然怒りだし/せっかくの雪の夜をだいなしにした……」(「東京に雪が降る」)
 家族とのひと時を描出する一篇は、切ない情感が滲み出ている。悔恨。それは、もうひとつの悔恨を思い起こさせていくことになる。時間は、切断して感受出来るものではない。絶えず、連続したものだ。この先の時間もそうだと思う。そのなかに、往きて還ってくるという人と人との生きる場所があるのだと、『夢去りぬ』という詩集は、わたしに語ってくれている。

(『図書新聞』16.12.10号)

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2016年11月12日 (土)

澤村修治 著『敗戦日本と浪曼派の態度』            (ライトハウス開港社刊・15.12.20)

 わたしにとって、日本浪曼派並びに保田與重郎という存在を知ったのは、十代後半の時で、時間性でいえば六十年代後半であった。情況的には反抗と対抗的渦動のなかにあって、思考の方位を迷路のような場所で浮遊していたといえる。国家の有様と天皇制の擬態を撃つことに腐心していたわたしは、権藤成卿や北一輝といった異貌の思想家を通過した後に、保田與重郎に辿り着いていったといっていい。ただし、本腰を入れて読解へと至ったのは、それから十数年後ということになる。
 「日本浪曼派の中心人物が『敗戦』という決定的事態をどう受け止めたのか」ということが、本書の核心的なモチーフとなるわけだが、それは、同時に、ここで取り上げられている保田と伊東静雄、そして、雑誌『コギト』の発行人・肥下恒夫の思考と感性の有様を照射していくことでもある。
 表現者や主義者、研究者たちだけではなく、多くの人たちにとって、戦時下と敗戦後は大きな価値転換を強いられたといえる。だが、強いられたものだったとしても、彼らの戦時下における様態は、天皇制という統治システムを順守し、戦争を肯定していったことは事実である。例えば、詩人の三好達治は戦争賛美の作品を数多く書き上げながら、敗戦後、吐露した言葉が天皇は退位すべきだということだった。それはそれで、間違った視線ではないが、自身の内省はどうしたのだということをわたしならいいたくなる。「転向」という概念がある。昨日まで、急進的な考え方をしていたものが、強制されて保守的な考えに変わることを意味するわけだが、強制力が緩和された途端、何ごともなかったように、つまり、「転向」はなかったかのように、また、急進的な物言いをすることを、「転向」とはいわないことに、「転向」問題に内在する難渋さがあるのだ。ならば、保田たちは、どうなのかということが、本書が突きつける重大な提示ということになる。
 保田も肥下も戦地から帰ってくると、農耕作業を通した生活に入っていく。著者に倣うなら、「帰農者」ということになる。
 「ともに『百姓』となった肥下と保田であった。旧制高校時代からの友情は戦後社会にあっても変わりなく、同志のような連帯感を感じさせる。ふたりは『コギト』を『協同の営為』として刊行し続けることで、昭和前期(二〇年八月以前)、日本的な浪曼主義を発信した。もっとも、日本主義を宣したとはいえども、彼等は軍国日本の与党ではない。彼等は独立運営の雑誌、保田のいう〈孤城〉を拠点に自立して表現活動をおこなったのだ。軍国日本は仕舞にはむしろ彼等を危険視した。/そして敗戦後、今度は新時代が彼等を忌み嫌った。軍国日本の亡霊のような存在だと見た。(略)戦争終結時点の前でも後でも、彼らは反時代的であった。ゆえに孤立した。しかし本来、文学も思想も、そういった地点からしか本物はあらわれないというなら、彼等はむしろ本物への有資格者だといわねばならない。」「戦争時代、〈屍〉になるかもしれぬ戦場へ行く友を送り、残された身として〈さびしいやうな気〉に包まれていた伊東は、拠るべき確乎としたものを持たぬまま、戦後社会に投げ出された。(略)伊東は〈傷ついた浪曼派〉として在り続けたのである。(略)戦後の伊東にも心からの安息はない。かれは人間社会の暗澹を前に矛盾に引き裂かれていたのだ。」
 敗戦後の時空間を、ある種の解放として率直に受け入れることを、わたしは否定したいわけではない。しかし、人は、簡単に価値観の転換というものができるのだろうかと、思う。保田たちの敗戦後の態度を見事だといえるとしても、それは、やはり、彼等の、いや、敢えて特化していえば保田與重郎の思想と感性を横断するものを理解しない限り、本当に見事だといい切ることはできない。戦後憲法が施行された三年後に上梓された保田の『絶対平和論』は、朝鮮半島の内戦に際し警察予備隊が創設された情況を俎上にのせながら、九条の平和理念の空洞性を鋭く突くものであった。保田にあっては、平和憲法という欺瞞を切開していくことは、明治近代天皇制と地続きの中で、論断していくものであったのだ。なぜ、「みやびあはれ」ということに保田が拘泥するのかといえば、近代天皇制は、古代的時間を変容させた擬態の有様でしかないからなのだ。「帰農者」としての数年間、農本主義者の像を持って保田は生命の有様を示したといえる。
 「彼等は実のところ、日本に託した己のうたを、己の生命をうたったのである」と著者は述べる。さらに、「近代」とは、「人びとから『型』と『劇』を失わせたもの」だと断じていく。わたしたちは、いま一度、日本浪曼派、そして保田與重郎たちの“声”を現在という場所へ反照させるべきだと思う。

(『図書新聞』16.11.19号)

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2016年10月15日 (土)

角田忠信 著『日本語人の脳――理性・感性・情動・時間と大地の科学』(言叢社刊・16.4.15)

 わたしが、初めて角田忠信を知り、その著作『日本人の脳』(78年)、や『脳の発見』(85年)に接したのは、吉本隆明の『母型論』(95年)を介してだった。吉本の膨大な仕事のなかで、時間列でいえば後期に位置する著作であるが、『アフリカ的段階について』(98年)とともに、最重要のものとして、わたしは理解しているから、引かれているテクストに対しても、関心の方位は必然的に向けられていったということになる。三木成夫や柳田國男とともに角田の名前が引かれ論及されていく『母型論』の中の一章「大洋論」は、実に刺激に満ちていた。吉本は、角田の仕事に触れて、次のように述べている。
 「角田忠信の研究によれば(角田忠信『脳の発見』)、母音『あ』の音声を聞かせた場合、日本人は左脳(言語脳)優位の状態で聴いており、たとえば米国人は右脳(非言語脳)優位の状態で聴いていることが確かめられている(略)。」「日本人はポリネシア語族と旧日本語族(縄文語族)を象徴し、米国人は、ひろく西欧のインド=ヨーロッパ語族と、もっと拡大して旧日本語族とポリネシア語族以外の語族を象徴するとかんがえてよいことを著者角田忠信は確定している。」
 この角田の研究が、思わぬ反発を受けていたことを、本書の「序にかえて――私の研究の歩み」で、記されている。角田の考えは、言語的文化性からの視角であって、日本人ではなく日本語人(あるいは旧日本語族)というカテゴリーであったにもかかわらず、「欧米諸国からも猛反発があり、ドイツ誌は日本人優越論を主張する超愛国主義者でナチスの再来とまで非難され、私の説は理解されずに非難を浴びせられた」という。そして、「世界は一つという新理念に背くという攻撃が延々と続いた」というのだ。そもそも、「世界はひとつ」とか、「人間はみな同じ」といった理念ほど陥穽に満ちたものはない。世界を構成する諸共同体は、多様性であるということを前提に、そこでの共通項を見出しながら連携していくべきであって、はじめから、〝ひとつ〟と括るのは傲慢なことでしかない。同じように、左脳と右脳の働きが、みな同じとすること自体、科学性の転倒でしかないと、わたしならいいたくなるのだが、角田は、大きな障壁の前に、孤高な営為を続けてきたことになる。
 後半に収められた対話の中で、角田は、「アメリカの学問も随分と政治に影響されているように見えます。初めは少数民族を理解すべきだという相対論を掲げる人たちが頑張っていたものが、いまでは一変して、ある種の普遍論を押し付けようとしているのではないですか。違いは許さないという非寛容が感じられる」と述べている。学問が、「政治に影響されている」と危惧感を吐露する角田の立ち位置に、わたしは感応せざるをえない。何度でもいいたいが、「世界はひとつ」とか、「人間はみな同じ」という間違った普遍性は、欧米至上主義でしかないのだ。角田理論に対して、「超愛国主義者でナチスの再来」といういい方自体が、政治という亡霊に絡めとられたものでしかない。
 本書は、77年から04年までに発表された諸論稿と対話二篇、書き下ろしの「序にかえて」と「おわりに」を付して構成されたものだ。著者は、「日本人の脳の研究から、脳センサーの研究に到る詳細な知見と結論、結果」を紹介できたと、「おわりに」で記している。わたしが、本書で、角田の研究とのあらたな出会いが、「脳センサー」という考え方だ。
 「人間は太陽系の一部として、完全に同調する宇宙とは切り離すことの出来ない無力な存在であることを痛切に感じる。こうして、見えない足下の地殻に異常なストレスが溜まると、その強度に応じて脳センサーには歪みが生じ、地震発生によってストレスが解消されると脳の歪みは消失して正常に戻る現象が見出された。」「人間の中心脳には太陽系の運行と同期するセンサーがあり、宇宙の縮図が私たちの脳幹に記憶されていることは、ほぼ間違いありません。」
 人間(脳)と太陽系(宇宙)同期化し、「完全に同調する宇宙とは切り離すことの出来ない」という捉え方、「宇宙の縮図が私たちの脳幹に記憶されている」という見方に接し、わたしは直ぐに、三木成夫の「生命記憶」、「内蔵波動」という視線から開示されていく「原初の生命球を介して宇宙と臍の緒で繋がる」、「生の波は、どの一つをとっても、宇宙リズムのどれかと交流する」(『胎児の世界』)といった生命形態論に通底していると想起したといっていい。
 脳の世界は、まだまだ、未知の領野を多く湛えているといえる。それは、人間が、国家や政治といったカテゴリーから離れて、真摯に生命の繋がりを見通していくべきであることを示唆しているのだと、わたしなら考えていきたい。角田理論の長い間にわたる試行の集大成である本書は、間違いなく、わたしたちに鮮烈な刺激を与えてくれることを最後に強調しておきたい。

(『図書新聞』16.10.22号)

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2016年8月27日 (土)

北井一夫 著『写真集 流れ雲旅』(ワイズ出版刊・16.5.28)

 つげ義春・大崎紀夫・北井一夫共著『つげ義春流れ雲旅』(朝日ソノラマ・71.6、以下『流れ雲旅』と記す)が刊行されたのは、いまから、四十五年前のことだ。つげ義春は三四歳、北井は二七歳の時だった。つげは、「もっきり屋の少女」(『ガロ』、68年8月号)を発表以後、いわゆる沈黙期(作品は発表しなかったが、水木プロの仕事に専従していた)に入る。その間、「アサヒグラフ」で断続的に紀行文のようなものが連載されていることを知る(わたしが、当時、実際に手にとって見たのは一、二冊だったように思う。この連載が後に、『流れ雲旅』として結実する)。つげ作品に出会えない枯渇感のようなものを、わたしが抱いていたことを、昨日のことのように思い出すことができる。70年に、「蟹」(雑誌掲載時は未見で、後、『ガロ増刊号 つげ義春特集2』に収載されて知ったことになる)、「やなぎ屋主人」(この作品が、『ガロ』掲載、最後の作品となる)の二作品を発表。そして、翌年刊行された、『流れ雲旅』を手にした時、わたしは、「ねじ式」の時とは、また違った意味で、あらたなつげ義春の世界に出会ったという衝撃を受けたといっていい。それは、柳田國男や宮本常一への共感の時間を持ち始めていたわたしにとって、つげ義春の世界が、そのまま重層化されて感受できたことを確信したからだった。
 さらにいえば、『流れ雲旅』によって、北井一夫の写真に出会ったことは、大きかった。以後、ひそかに、北井写真を追いかけていくことになる。そして、写真集『村へ』(76年)によって、柳田や宮本と重層化する、もう一つの世界をわたしたちに北井は見せてくれたのである。
 『流れ雲旅』のなかで、北井が担当したのは、「下北半島村恋いし」、「篠栗札所日暮れ旅」、「国東半島夢うつつ旅」であった。本書『写真集 流れ雲旅』には、数点の再録はあるものの、ほとんど未収録写真(全作品、モノクロ・フィルムで撮ったものだ)を掲載している。他に、「東北の湯治場」、「四国室戸」、「天竜川/山形」、「藤原マキ」(「朝日ジャーナル」に依頼されて、「久しぶりに舞台に立つという」マキ夫人を撮った写真、六点)と題した70年から73年にかけて撮影された写真が収められている。北井は、「あとがき」で次のように述べている。
 「その頃私は、つげさんのマンガとそっくり同じような写真を撮っていた。つまり私の写真の被写体になった人たちは、いつも決まってカメラに向かって凝視しているという写真だった。私はこうして凝視する関係性こそがドキュメンタリーだと思うようになっていた。」
 北井は、「凝視」というやや硬質な言葉を使っているが、収載された写真の子供たちや、大人たちは、男女を問わず、和やかな表情を湛えている。つまり、カメラを構えている北井に対し、親近なる情感を発しているといえばいいだろうか。時代性や場所性にそのことの起因を求めて分析しようなどとは、わたしは思わない。見知らぬ人が、自分たちの共同性の場所に来訪しても、閉じていくのではなく、開いて受容する感性を胚胎していることに、感応するとともに、わたしは、北井の写真に関係性の拡がりとでもいえるものを喚起する膂力があるといっておきたい。
 つげ義春を撮った写真(表紙にも使われている)が、『流れ雲旅』に収録済みのものも含め、十点、本書には掲載されている。なかでも、「福岡篠栗」での穏やかな表情をしている石仏大小二体の脇で、カメラを持ちながら、うつむきかげんで笑っているつげ義春を捉えている写真(本書・140P)がいい。本書の帯に、「デジカメ時代になっても/北井作品だけは/やはりフィルムがふさわしい」という文章を寄せるつげとの関係性が、四十六年前の石仏二体の脇で笑っている写真に象徴して表れているといいたい気がする。
 本書収載の多くの写真に感応したわたしだが、敢えて、人と風景の写真を一点ずつ挙げるとすれば、「秋田泥湯温泉 1970」(47P)と「長野高遠 1973」(113P)だ。「泥湯」は、けっして広くはない共同浴場に年長の男女六人が浴槽のまわりを囲んで、談笑しているような写真だ。左側に座っている男性の表情に、わたしは、なぜか魅せられていく。「高遠」は、左側に中学生ぐらいの男子二人が、やや下りの坂を降りてくるのをとらえているから、風景写真とは厳密にはいえないかもしれないが、むしろ、少年たちの表情が伝わり、話し声が聞こえてきそうだから、ひとつの風景であると、いってみたくなる。右側に遠慮ぎみに写っているのは、桜のような気がする。高遠の桜をこのように写し撮る北井の感性に刺激される。もちろん、高遠の見事な家並の風景は、鮮烈だ。
 こうして、北井写真は、見るものに多様な物語をイメージさせてくれるのだ。

(『図書新聞』16.9.3号)

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2016年7月23日 (土)

青木圭一郎 著『昭和の東京 映画は名画座』           (ワイズ出版刊・16.4.15)

 映画は、映画館でしか観ることができないという時代があったことを、実感としてわかる世代は、五十代以降の人たちということになるはずだ。レンタルビデオ店が普及し出したのは82年頃からだといわれているからだ。本書で取り上げている名画座は、象徴的にいえば現在のレンタルビデオ店にあたるといっていいかもしれない。
 著者は、「名画座」というものを次のように述べている。
 「ホームビデオ機器の普及もあって、古い映画を安く観ることが出来た名画座も昭和の終わりまでに次第になくなって行った。それまでは名画座が映画の学校であり、その後の人生観を形成したのも学校より映画館で得たものの方が大きいような気がする。」
 わたしは、著者と同世代だから、「学校より映画館で得たものの方が大きい」というのは、まったく同感である。しかも、学生の身分で、高い料金の封切映画や、洋画のロードショーには、とても行けなかったから、いわゆる二番館(特に邦画だが、封切から何か月か遅れて上映する映画館)や、旧作を魅力あるラインナップで上映する映画館(当然、料金は安価だ)を友人や先輩から得た情報(既に休刊したが、「ぴあ」や、Netでの情報がなかった時代だ)で、出掛けたものだった。本書の著者と違って、洋画をほとんど見なかったわたしだが、アンジェイ・ワイダの『灰とダイヤモンド』(日本公開・59年)は、映画館を探しては、何度も観たことを思い出す。
 いまこうして、本書を前にすると、様々なことが湧き上がってくる。同世代とはいえ、東京在住の著者と東北出身のわたしとは、明らかに映画の傾向が違っているのがわかる(著者が観ることができなかったという『新諸国物語』シリーズは、幼少期、しっかり観ている)。つまり、洋画上映館が少なかったから、当然、洋画に馴染むことなく上京したわたしとは、その本数に歴然とした差があるのは仕方がないかもしれない。とはいえ、本書のように東京限定とはいえ、六十年代から八十年代にかけて活況を呈した「名画座」を詳細に紹介したものが、これまでなかったから、まぎれもなく、本書は画期的な「名画座」事典といっていいと思う。特に、紹介した場所(新宿、池袋、渋谷、銀座だけでなく、東京を広範囲にわたって取り上げている)の地図を74年時のものと、89年時のものを並列して掲載していることで、かつて、何度も観に行っていた「名画座」の場所の記憶を喚起させてくれるのだ。
 本書に掲載されている「名画座」を任意に取り出してみれば、わたしにとっては、池袋・文芸座ということになる。それも、土曜日終夜五本立て上映である。
 「文芸座(註・68年7月に閉館した「人生坐」が先行して終夜上映をしていた)でも昭和四三年(一九六八)五月に石井輝男監督の『網走番外地』シリーズ第一作から五作(一九六五~一九六六)でオールナイト興行をおこなうと、文芸座が満杯となって文芸地下でも上映された。」
 わたしの六十年代末から七十年代にかけての映画体験は、監督としては、加藤泰、鈴木清順であり、ジャンルとしては、東映やくざ映画とピンク映画(本書にも記載されている新宿・蠍座で若松孝二の主要作品を観ている)であった。そして、映画館は、文芸座と新宿・昭和館(02年、閉館)に特化される。だから、文芸座終夜上映は、『番外地』シリーズはもちろんのこと、『残俠伝』シリーズも観に行ったし、『鈴木清順大会』、『大島渚大会』、加藤泰作品を観たいために『中村錦之助大会』などに行っている(〝大会〟と称していなかったかもしれないが、わたしたちは勝手にそう捉えていた。他にもあったと思うが記憶が曖昧だ)。
 文芸座では、映画と観客たちが密接に繋がっている体験もしている。『昭和残俠伝 血染の唐獅子』で、殴り込みを決意した高倉健を藤純子が泣きながら止める場面にたいして、観客席からいっせいに、「めそめそするな」と声が飛ぶ。殴り込みに行って、高倉健が、「死んで貰うぜ」という台詞が出ると、「ヨォーシ」や「異議なし」の声がかけられる。鈴木清順の『けんかえれじい』で、野呂圭介のステッキが桜の樹を叩くと、はらはらと桜の花が散る場面に、「セイジュン!」と声が放たれる。役者名はもちろんだが、加藤泰や鈴木清順の時は特に、タイトルクレジットの最後に監督名があらわれると大きな拍手が起きたものだった。それは、いわゆる反抗と対抗の渦動の時代だったからこそ、映画になにがしかの思いを仮託していたための応答だったのだと思う。
 そんな、わたしの体験の記憶が本書によって甦ったことになる。

(『図書新聞』16.7.30号)

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2016年7月 9日 (土)

新木正人 著『天使の誘惑』(論創社刊・16.6.30)

 「天使の誘惑」という不思議な書名は、本書に収載されている論考「天使の誘惑 南下不沈戦艦幻の大和」(「早稲田文学 学生編集号」収載・71年2月)に由来する。さらにいえば、あの黛ジュンの最大のヒット曲にして第10回レコード大賞(68年)を受賞した曲(作詞・なかにし礼、作曲・鈴木邦彦)から喚起された暗喩ということになる。当然、本書には、「黛ジュン」(「遠くまで行くんだ…」4号、70年5月)と題した文章も収められているから、そもそも、彼女へのオマージュといっても差し支えないかもしれない。
 ふたつの論考には、様々な人名が記されている。任意に挙げてみれば、「石原慎太郎」、「村上一郎」、「青江三奈」、「保田與重郎」、「桶谷秀昭」、「北川透」、「黛ジュン」、「愛田健二」、「小川知子」、「西田佐知子」、「吉本隆明」、「磯田光一」、「橋川文三」、「佐々木幹郎」、「石川啄木」等々となる。著者・新木正人より三歳ほど年少のわたしもまた、列記された人たちに共感し喚起されてきた。なんともいいようのない機縁を感じる。
 「(略)ジュンの歌で最も問題を含んでいると思われるのはデビュー曲『恋のハレルヤ』とこの(引用者註・前段に、なかにし礼の詞を引いている)『霧のかなたに』なのですが、内部葛藤のはげしさという点で『霧のかなたに』がまさっています。そしてこの内部葛藤は頽廃と紙一重なのです。以後の彼女の歌はみな流されています。(略)Q様、黛ジュンの軌跡とは何だったのでしょう。情況にどう立向い、また身をそらそうとしたのでしょうか。『恋のハレルヤ』は戦いの歌でした。しかしそれは守るべき最後の一線を歌った哀しい歌でもあったのです。守るべき最後の一線、太陽の季節か 上海への想いか それとも吉野の桜か ジュンは慎太郎ほどあまくはありません。上海への想いもありません。ましてや吉野の桜など意識するはずがありません。彼女が守ろうとしたのは、彼女が守ろうとしたのは純粋な意志だったのです。純粋な、勝利への意志だったのです。」(「黛ジュン」)
 「黛ジュン」あるいは、「彼女」とは、いうなれば「新木正人」であり「私」であるといっていいはずだ。新木はジュンに自らの内なる声を重ねるように、自身の「物語」を仮構させていったと捉えることに、わたしは躊躇しない。
 本書の中で、わたしを最も刺激した論考から、長くなるが、断片的に引いてみる。
 「西田佐知子の悲しみは赤坂の悲しみである。/なぜ赤坂の街が悲しいのか。/それは、そこに怨霊が彷徨っているからだ。/二・二六の青年将校の怨念が彷徨っているからだ。/西田税の怨霊が彷徨っているからだ。//だから赤坂の夜は美しい。」「日本浪漫派の思想は、空と海の思想だ。溺れ死にの思想だ。完璧に、非のうちどころなく溺れたものが最も美しい。」「吉本隆明は偉大である。/彼がロシア・マルクス主義を断罪する時、僕は眩暈すら感じてしまうのだ。/けれども僕は、彼を好きになることができない。/いま一歩のところで彼の胸に飛込むのを躊躇する。/彼はなぜアマテラスとスサノオのあいだの自然的な性行為を認めないのか。/なぜ姉弟相姦を認めないのか。/なぜ姉弟相姦の彼方にあるものを凝視しようとしないのか。」「思想を構築することはできない、と僕は考える。/思想とは、築くものではなくて、突き抜けるものだ。/思想者とは、大工ではなくて全力疾走者だ。/スサノオとアマテラスから国家論を組み立てることはできない。/無理に組み立てようとすると二人の恋は壊れてしまう。/二人の恋は壊さないほうがよい。/いま僕たちに必要なのは、国家論を組み立てることではないのだ。必要なのは、二人の体を流れる血の徹底的追求である。」(「更級日記の少女 日本浪漫派についての試論(二)」―「遠くまで行くんだ…」2号、69年2月)
 西田税の獄中手記を読んでいれば、悲しくて美しいという心象は理解できる。戦艦大和の「溺れ死に」を日本浪漫派の思想の行く立てに重ねていく。そこまではいい。だが、「アマテラスとスサノオのあいだ」に、恋の関係性を見立てることは、自らを困難な場所へと追い込むことになるといいたくなる。黛ジュンや西田佐知子、西田税は、仮構すべき存在としてありえる。だが、アマテラスとスサノオには、どんな視線を投じようとも、それは、天皇制や国家起源の象徴でしかない。同化して何かをなすべき有様ではない。あえて、「アマテラスとスサノオの関係性」へと投企しようとしたのは、たぶん、次のような思いがあるからだ。
 「自分が最も嫌いな人間と深くかかわることからしか自分の生きる道はない。自分のいごこちのよい所にいきたがる人間は、自分の人生を半ば捨てた人間だ。」「自分のいごこちのよい所、今の自分をよく理解してくれる人々は自分をダメにする。自分の深いところにある感情、つまり自分らしさにあぐらをかいてしまうと、この上なく楽だろうけれど、本当に何も見えないまま終わってしまう。」(「中森明菜」―山口峻歌集「総括」・95年6月)
 ふと思う。新木は、難渋な「アマテラスとスサノオの関係性」を引き寄せたうえで、自ら拘泥する思想(生き方)を徹底して突き抜けようとしたのかもしれない。
 最後に本書の成り立ちを記す。奥付にある略歴には、「1946年8月13日 埼玉県大宮市生まれ/1968年 『遠くまで行くんだ…』編集委員会/1975年 『遠い意志』編集委員会/1981年 公立高等学校全日制課程教諭/1985年 公立高等学校定時制課程教諭/2001年 専門学校講師/2016年4月 死去」とある。田谷満氏の企図によって、1968年から2016年までの長い時間を横断する論考を収め、刊行された本書は、著者・新木正人の初めての著書であるとともに、遺著となった。

(『図書新聞』16.7.16号)

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2016年6月11日 (土)

桃山堂・編 アレクサンドル・ワノフスキー、鎌田東二、野村律夫、保立道久、蒲池明弘・著                     『火山と日本の神話――亡命ロシア人ワノフスキーの古事記論』(桃山堂刊・16.2.10)

 一九一七年十月に生起したロシア革命の二年後の一九年に亡命、そのまま定住し、六七年、九十三歳で亡くなったロシア人は、五五年、八十一歳の時に『火山と太陽』という書名で、新解釈の『古事記』論を出版したが、ほとんど、知られることなく六十年という歳月を経てきた。本書は、その『火山と太陽』の「ほぼ全文を復刻して」掲載し、鎌田東二らの「解説と感想」、評伝等で構成したものだ。
 亡命ロシア人の名は、アレクサンドル・ワノフスキーといい、レーニンとともに、ソ連共産党の前身、ロシア社会民主労働党の創設時の構成員だった。革命前夜、レーニン主導のボリシェヴィキに対して、ワノフスキーは、メンシェヴィキ派に属していたことが、「大きな運命を担う人――地下運動時代のレーニンを語る」(「月刊朝日評論」五〇年二月号)のなかで語られている。『古事記』論より、亡命後、革命ロシア(ソ連体制)をどのように望見していたのだろうかということが、さしあたって、わたしの関心は向いていくことになる。
 「一九一七年の夏(略)、私は自分を宗教的な社会主義者と自認していたし、彼等と私の間にはすでに深い溝が横たわっていることを知っていた。概して言えば、私の思考の中には、二つの異なるレーニンが存在している。自由な、民主主義的な共和国の名において、反動的ツアー政権と闘った社会民主主義者としてのレーニンと、それが事実となった時、その共和国に対して反乱を起こした共産主義者としてのレーニンとである。」
 やや、慎重ないい回しで語られるレーニン像だが、わしなりのいい方に換言してみるならば、思想や哲学的な思考の中のレーニンは、優れているが、政治家としてのレーニンは権力を握った途端、ツアー権力と同じく抵抗勢力を弾圧していったということになる。ワノフスキーより三歳年少だったスターリンが、まだ体制の中心にいた時だから、レーニンとスターリンは地続きな有様なのだということを言いたかったに違いない。
 ワノフスキーにとってソ連でもなく、ロシア帝国でもない、〈ロシア〉こそが、自分にとってのネーションだったと思われる。流刑されたシベリアから日本列島というものを俯瞰する時、ユーラシアからアジアへと連なる観念の地勢図が胚胎したからこそ、列島の国生み神話に喚起され、生命なるものを鼓舞していくような火山というイメージに魅せられていったと、わたしには思われてならない。さらにいえば、晩年のワノフスキーと最も親交を持っていたのが、北一輝と交流していたために、二・二六事件に連座して逮捕された経験をした嶋野三郎だったということも、わたしには、興味深いものがある。超国家主義者・北一輝と『国家と革命』を著したレーニンの間隙に、ワノフスキーの『古事記』論があると思えば、もうひとつの感慨が湧き上がってくることを、わたしは抑えることができない。
 ところで、鎌田東二は、「学術的なことをいえば、疑問点、問題点」が、あるとしながらも、「彼の洞察は日本神話の本質を射抜いている」として、次のように述べていく。
 「古事記神話の本質は火山であると、これほど力強く断言したのはワノフスキーがはじめてではないでしょか。今から六十年もまえに、こうした火山の神話論を提示したプライオリティを私たちは認めるべきだと思います。」
 確かに、わが列島が、火山活動によって形成されてきたことを思えば、ワノフスキーのイマジネーションが的はずれのものでないことは理解できる。
 「女神イザナミは地を創り出したり、島を創り出したりしているのではなくて、それ等を母親が子供を産むのと同じようにして産み出しているのである。」「噴火が終了する。やがて太陽が火山に勝ち、火山を追い落としたのだと決めてしまう。(略)火山の噴火は有害なことばかりでなく、有益な面も持っている。火山泥だけとってみても、それは各種の栽培植物、たとえばブドウにとっては肥沃な土壌なのである。」「古事記は、壮大な様式の古代建築に似た叙事詩である。」
 編者の蒲池明弘は、本書の中で、「多くの人がワノフスキーのことを詩人的であるといい、浪漫的であると評しているが、それが端的にあらわれているのは、風景のなかに聖なる気配を感知する能力である。そしてそれこそが、彼の火山神話論の源泉であった。」(「評伝ワノフスキー『火山と革命』」)と述べている。ワノフスキーの『古事記』の世界への想像力を考える時、やや、唐突にいうならば、〈アジア的な感性〉とでもいうべきものが、イノセントなかたちで表れているといいたいと思う。

(『図書新聞』16.6.18号)

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2016年4月 2日 (土)

太田昌国 著『〈脱・国家〉状況論――抵抗のメモランダム2012-2015』(現代企画室刊・15.12.8)

 著者による状況論の射程は、ほぼ第二次安倍政権成立から現在までということになる。「たたかっている相手が、あまりにも卑小すぎはしないか」と著者は述べる。わたしもまた、12年9月の自民党総裁選で、一回目は石破茂に次いで二位だったにもかかわらず、どうにか決選投票で逆転して二度目の総裁に就任した段階で、またもや短期の総裁(首相)で終わるだろうと達観していた。民主党の自壊と劣化によって、二度にわたる総選挙での自民党圧勝は仕方がないとしても、どちらも投票率は50%代で、特に直近の14年時は、戦後最低の投票率(52.66%)だったから、06-07年時の再現になるだろうと考えていた。しかし、あの小泉純一郎でさえ、〝抵抗勢力〟を削ぎ落しながら権力を維持していったにもかかわらず、安倍は、はじめから、あたかも王のように君臨していて、自民党内には、いまや政治家として最低限の矜持すらなく(空疎で乱暴な言葉が至るところで頻出しているのが、その証左だ)、しかも理念なき安倍のイエスマンしかいない状態になっていること自体、わたしには理解不能の状態だといっていい。なぜ、そうなってきたのか。状況的な流れと安倍の卑小な理念が、うまく接合されていったからだと、著者は論述していく。
  「安倍晋三の情報操作の技は際立っている。」「今では『情報』や『知』を独占してきた大メディアと知識人を見返すかのように、ネット空間は活気づく。『拉致』や『慰安婦』というテーマでは、さまざまな意味で従来の主張の正否が検証されるべき段階を迎えている左翼や進歩的知識人こそが『叩きやすい』。『いつまでも謝り続けること』を周辺国から要求されることへの屈辱感と、それを支えてきた左翼への憎悪と怨念は、こうして燃え盛るのである。/安倍晋三はこのことをよく心得ている。論理も、倫理も、政治哲学も、外交感覚も徹底して欠く安倍晋三を、見くびる意見をよく見聞きする。私もその種の書き方をしたことがあったかもしれない。孤立している安倍晋三は叩きやすい。だが、社会的な雰囲気がここまで変わってきている以上、安倍はけっこう手強い『敵』になったというのが、私の見立てである。」「ある特定の時代状況の中に、それに見合ったひとりの政治家が登場し、彼がもてる能力や識見とは異次元の要素の働きによって社会をまるごとつくり変えてしまう――民主党政権の『失敗』後の三年半のあいだ、私たちが直面している事態は、こう表現できよう。」
 安倍政権を組みやすしと見ていたわたしは、素直に反省せざるをえない。ネット右翼の台頭すらも軽視していたわたしだが、「『情報』や『知』を独占してきた大メディアと知識人を見返すかのように、ネット空間は活気づく」ということが、いかに、大きな時代状況の変容をかたちづくっているのかまでは、見通しできなかったともいえる。確かに戦争法案が討議中、安倍はネットとテレビに盛んに露出していたことを思えば、「情報操作の技は際立っている」といえる。だがと、いいたい。この間の安保法案めぐる論議と闘いのなかで、憲法九条を守れ、憲法違反だ、立憲主義をといった抵抗と対抗の言葉が、表出されたわけだが、なぜ、「日米安保体制」という九条より上位概念の共同幻想を撃とうとしなかったのかということが、わたしには、疑念であったし、既にそのことが動かしがたい前提であるかのような有様に落胆する思いであった。著者は次のように指摘している。
  「『反戦・平和』運動の内部には戦後一貫して、『憲法九条』と『日米安保体制』を『共存』させる心性が消えることはなかった。沖縄の現状は、その延長上で担保される。」
 メキシコのサパティスタ蜂起を、高く評価する著者の視線を、わたしもまた追認していくことになるのだが、そもそもサパティスタ民族解放軍が二十年前に闘いを惹起させていったのは、メキシコ・カナダ・アメリカの三カ国で結ばれる北米自由貿易協定(NAFTA)締結への反対運動としてであった。わが列島もかつては強大なアメリカ帝国権力に対して、抵抗していたことを思えば、遠く対岸の運動との差異の大きさに、考えざるをえない。
  「健康で、頑強な、大人の『男』を軸に展開されてきた従来の社会運動のあり方に疑問を持ち、これを改めようとする努力がなされている。そこでは、サパティスタ運動が、さまざまな人びとの日々の生活基盤をなしている村(共同体)に依拠した運動体であることのメリットが最大限まで生かされている。」
  国家間の協約によって民衆の生活の危機を招来されることに抗するサパティスタ運動は、「脱・国家」あるいは「反・国家」の相貌をもってきたといっていいはずだ。だから、この間の「拉致」(当然、その反語として、わたしたちは戦前の朝鮮人連行を連結させて考えるべきだ)や「慰安婦」という問題とともに、「秘密保護法」「安保法案」「原発」といった状況的なるものに抗していくためには、「国家」という相貌を相対化する場所からでなければならないというのが、本書の著者に誘われながら、あらためて、わたしが確信したことだ。

(『図書新聞』16.4.9号)

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2016年3月 5日 (土)

『大杉栄全集 全12巻・別巻1』(ぱる出版)完結にあたって

 大杉栄虐殺後九十年、現代思潮社版全集刊行後五十年という長い時間を経て、完全版編集として刊行された本全集は、先頃、別巻を刊行して、完結した。わたしが、完全版『大杉栄全集』刊行の企画を知ったのは、いつ頃だったろうか。たぶん、関わっていた、『秋山清著作集』(ぱる出版)の編集作業が終わりに近くなっていた時だったから、06年末から07年の初めにかけてだったように思う。率直にいって無謀な企画だなあと、感じたといっていい。なぜなら、研究者(といっても、きわめて少数のはずだ)以外、果たしてどれだけ、一般的な読者が購入対象になりうるのだろうかと、考えたからだ。11年から12年にかけて、他の版元からペーパーバックス判で三点、大杉の著作が刊行されて、若い読者を幾らか獲得していたようではあったが、『全集』となれば、話は別である。現在のような閉塞的な情況だからこそ、大杉栄は読まれるべきであるとしても、高価な『全集』を購読することの難しさは、停滞する経済的な情況に、そのまま繋がっていくことを思えば、全集刊行の決断は、凄いことだといわざるを得ない。それでも、わたしのなかでは、果たして順調に刊行されて、完結にいたるのだろうかという懸念が払拭されていたわけではなかった。だが、わたしの杞憂は、見事に外れ、ほとんど、間隔もそれほど空くこともなく一年数カ月で完結に至ったわけだから、版元、編集委員諸氏(小松隆二、山泉進、梅森直之、大和田茂、白仁成昭、田中ひかる、手塚登士雄、冨板敦、飛矢崎雅也、故・堀切利高)の膂力に感服するしかない。編集委員の一人、山泉進は、次のように述べている。
 「今回の新全集は、(略)初出をもとにした厳しいテキスト・クリティ―クのもとで客観性と完全性をめざし、次の五〇年の年月に耐えられる全集にしたつもりである。もちろん、新しい時代の思想状況と運動課題を意識して刊行するものである。折しも二〇一一年の『3・⒒』(略)を挟むことになった。大杉栄は『3・⒒』以後の時代状況のなかで、どのような未来の社会ヴィジョンと未来への運動スタイルを私たちに示してくれているのであろうか。そのことへのヒントが本全集に含まれ、そのための編集方針であることが十分に評価されることを願っている。」(「編集を終えて」)
 確かに、大杉の魅力のひとつをいえば、わたしたちがいる現在というものを、大杉ならどのように捉えるだろうかと思うことに尽きるような気がする。別に、大杉に同化(そんなことは不可能に決まっているが)して、考えるべきだというのではない。山泉がいうヒントを、少しだけ敷衍してみるならば、考えていく契機といっていいかもしれない。
 そこで、最終配本となった七九二頁という大部な一冊の『別巻』に関して、触れておくならば、全六章立てで、「補遺」「書簡」「雑簒」「著書目録」「著作年譜」「年譜」という内容となっている。なんといっても、注目は、「書簡」である。かつて、『大杉栄書簡集』(74年12月刊・海燕書房)を手にしたものにとっては、さらに三二通補完され、二一九通収められたことは、大杉の〈像〉へのあらたな通路となっていくはずだ。
 「いろんな奴に会つて見たが、理論家としては偉い奴は一人もゐないね。其の方が却つていいのかも知れないが。が、戦争中すつかり駄目になつた運動が、今漸く復活しかけてゐるところで、其の点は中々面白い。そして若いしつかりした闘士が労働者の中からどしどし出て来るやうだ。此の具合で進めば、共産党位は何んの事もあるまい。共産党は分裂又分裂だ。/イタリイはフアシスチの黒シヤツのために無政府党も共産党もすっかり姿をかくして了つた。/ドイツは余程、と云ふよりも寧ろ、今ヨオロツパで一番面白さうだ。そこでは、無政府党と一番勢力のある労働組合とが殆ど一体のやうになつてゐる。そしてロシアから追ひ出された無政府主義の連中が大ぶ大勢かたまつてゐる。」(近藤憲二宛、一九二三年・月日不明)
 親愛なる同志・近藤憲二に当てた書簡ということもあるかもしれないが、適確に、「ヨオロツパ」情勢を伝える大杉の視線に感嘆する。わたしが、いつも思うことなのだが、大杉は視線の軸をしっかりと据えながら、それを、まるで扇のかなめのようにして、拡張させていくことで、類まれな情況分析の深度を、有していることだ。
 さらにいえば、思考の幅を閉じることなく、いつも開いていることだといっていい。だからこそ、閉塞的な情況を開示させていく契機を、大杉の思考に見出すことは、極めて現在的だと、『全集』完結に際し、いっておきたいことである。
 「いずれ遠くない時期に、『大杉栄関係資料集』(仮題、全三巻)の企画、刊行を考えている」(山泉進「同前」)という、期待して待ちたいと思う。

◎第1巻~第7巻・定価:各巻・本体6800円+税、 第8巻~第⒓巻・別巻・定価:各巻・本体8000円+税

(『図書新聞』16.3.12号)

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2016年2月 6日 (土)

上村武男 著『形なきものの影――上村武男写真文集』  (白地社刊・15.11.20)

 本書は、『帰巣者のかなしみ』、『吉本隆明手稿』、『吉本隆明 孤独な覚醒者』等の著書をもつ、上村武男の〈写真集〉であり、日記・詩篇・書簡集・紀行・書評・追悼文等を抄録した〈文章集〉でもあると記したとたん、本書への視線が揺れ動いてしまうことを自覚することになる。それは、かならずしも、左頁に掲載した文章に対応させるかたちで、右頁に写真を配置させているわけではないからだ。つまり、写真と文章が、一見、内容的な連関がないような構成をとっていることの方が多いのである。だが、にもかかわらずというべきか、〈写真〉と〈文章〉は、互に呼応し合って、〈写真〉からは言葉が、〈文章〉からは、不思議なことに、イメージが立ちあがってくるかのように感じられるといっていい。
  「多摩丘陵より父へ」と題した文章がある。〈写真〉は、港で若い母親と子供たちが手を振って通り過ぎていく船を見ているところを後ろ姿からとらえた一枚が上に、下の一枚は、電車内でやや横向きになりながら、ベビーカーを手で押さえながら立っている若い父親と、座席で並んで座っている妻と子供たちをとらえたものだ。著者の息子を正面から写したものの他、人物を明確にとらえた写真は、数点に過ぎない。多くの写真は、人物を風景のなかのひとつとして写してとっているから、親子たちの写真にたいし、一瞬、異和感のようなものを感じたのは確かだ。だが、わたしには、五十年ほど前に綴られた父への手紙の書きだしの頁に対応させて配置した、〈現在の家族〉の写真が、奇妙に胸に突き刺さってくるように思えたのだ。「後ろ向き」と、「横向き」は、それ自体、けっして負の様態を示しているわけではない。ただ、〈現在〉というしかない様態を鮮鋭に活写しているといっていいからだ。
  「お父さんの生涯を通じて一条厳しく澄んで絶えることのないかにみえる、その精神的な緊迫度はただものではないとぼくに思われ、それが何といってもぼくの重荷でありながら、他方、深い安心をぼくに与えるのです。」「自分の家の庭に芽生えた草々を、何か悪いものでも芽を吹き出したかのように早々に刈り込んでしまう人間の心理が、ぼくにはまるで理解できないものに思われます。なぜ、草々がいけないことがあるでしょう? それがきれいに手入れした庭に生えたからでしょうか。自分の庭とはいったい何でしょう。この草々の生え初めた大地そのものは、いったいたれの所有に帰することがあるのでしょう。草々はいい。全くいいのです。」
 父の心身の状態への気遣い、草々への愛しむ思いを記す、まだ二十代の若き著者の言葉たちに呼応していく写真は、「岡山吹屋小学校」と明示した古い木造の玄関だ。上方に設置された時計は、古くはないオーソドックスなものだ。次頁には、「伊丹昆陽池」、「広島庄原」の二点。池のなかに草々が盛り上がって出来た浮島のようなかたちが二つ繋がってある。その下は、木々が四本だけある遠景。最後は、「出雲宍道湖」と付された一頁大の写真。湖面を背景に歩いているのか、そこに佇んでいるのか、男が、まるでシルエットのように映し出されている。そして、最初の若い母子、親子の写真から、陰影のある人物への展開は、まるで、「現在」から、過去の「記憶」へと遡及していくかのような物語時間を湛えているといいたい気がする。もちろん、最初の二つの写真以外には、すべて、「2015年」、「2014年」、「2012年」、「2010年」と撮影年が付されているから、著者の意図としては、そのように遡及させていくつもりではないのかもしれない。だが、「写真とは、永遠が印画紙に写っている出来事である。時は永遠の影であるから、永遠は時という影の姿で顕現する」(「エピロオグ 形なきものの影」)という著者の言葉を敷衍して考えてみるならば、ひとつの文章群と協奏しあうように、写真のひとつひとつが、「時」の流れを示しているといってもいいはずだ。
 それは、著者が表出させる写真そのものに、そのような膂力が内在していることを意味しているともいえる。
  「影が光を産むのであって、光だけでは影は生じない。」「暗さは明るさの根源である。」「言語と映像――これほど魅力的な表現の方法が、ほかにあるだろうか。それらがこんなにわたしたちの魂の底をえぐってやまないのは、おそらく、人間の原初の表現手段である泣き叫びや光陰の感覚に、それが通じているからにちがいないのだとわたしは考えることがある。」
 わたしは、多くの文章と多くの写真作品に触れないまま、本書を望見したかもしれない。収められた文章群には、五十年ほどの時間が流れている。著者が写真を撮り始めてから二十年のうちの、どれだけの時間幅をもった作品が掲載されているのかはわからないが、静謐な風景や空間を撮っていても著者の息遣いが聞こえてくるように、わたしには感じられた。そして、その息遣いが、そのまま、五十年という時間へ連結していくことをわたしは感嘆しながら頁をめくっていったといっていい。

(『図書新聞』16.2.13号)

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