2015年11月 6日 (金)

山田勇男 監督『シュトルム・ウント・ドランクッ【DVD版】』  (株・オルスタックソフト販売:発売・販売、15.7.30)

 大正ギロチン社に集う若きアナキスト群像を活写した映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』が完成したのは、13年の11月。完成試写会と特別上映会が開かれたのみで、一般上映の目途が立たないまま、越年し、映画の制作に関わった人たちはもちろんのこと、サポートしていた人たちが、半ばあきらめていた時に、急転直下、渋谷・ユーロスペースでの一般上映(14年8月の二週間、以後、各地で上映されていった)が決まったのは、14年3月だった。こうして、ちょうど一年後にDVD化されたいま、わたしは、この間の時間をある種の感慨もって振り返ることになる。わたしは、昨年、本紙(14年8月16日号)にて映画評を書いているので、ここでは、作品紹介というよりは、作品の外延性のようなものに、触れてみたいと思う。
 本DVD版には、特典映像として、メイキング(37分)、山田勇男監督、松浦エミル役の中村榮美子、中浜哲役の寺十吾のインタビュー(18分)、そして劇場予告篇2種(3分)が収められている。普通は、本篇を見てから、特典映像を見るべきだと思うが、わたしは、まず、山田監督のインタビューを薦めたい。かつて、山田勇男は、映画『蒸発旅日記』(03年、原作・つげ義春)の撮影時に、「わたしが今までつくってきた映画の方向性というのは夢の感覚のリアリティみたいなもの」だと述べていた。「夢の感覚」といういい方に、山田勇男ならではの感性の発露が表れているといっていい。そして、今回のインタビューでは、「余白」ということを語っている。「ほんらいの物語性より、他人がどうでもいいと思うことに拘ってしまう」ということを意味するようだ。さらに次のように述べていく。
 「映画の本質に関わりのないどうでもいいようなことに拘りたい。」「芝居の後のものを、つまり、台本にはないものを見たい、それが余白であり、余白を撮っていくことによって、その人物像が確かなものになると思っている。」
 さらに、寺十吾が撮影時に語っていた「神は細部に宿る」(デザイン上、ディーテルに拘るといった意味を込めた、ローエというアメリカの建築家の言葉に由来する)という言葉に啓発されて、自分の考える余白とは、そういうことだと重ねて語っている。
 『シュトルム・ウント・ドランクッ』のモチーフは、実際にあった出来事として、九十年以上の時間を経ながら記述され、語られてきた〈事件〉である。そこには、思想や文学・哲学といった〈知〉の位相と反権力という〈対抗〉の実相を潜在させながら、二十代から三十代の社会の底辺で苦闘する若者たちの〈関係性〉が、〈事件〉を惹起していったのだと見做していいはずだ。出来事や〈事件〉を、できる限り、記述されてきたことに忠実に映像化したからといって、〈事件〉や〈関係性〉を描いたことにはならない。山田がいう「映画の本質」を、〈事件〉の様態へと繋がっていく位相と捉えてみるならば、「余白」や「どうでもいいようなこと」とは、一人ひとりの生きている「感覚」を映し撮ることを意味しているのだとわたしには思える。
 つかないマッチを擦りながら懸命に煙草を吸おうとする中浜の顔のアップ、悲しみの顔で仰ぎみるエミルの佇まい、はにかんだ顔をしながら中浜に話しかける古田大次郎(廣川毅)。このような「余白」や「どうでもいいような」カットこそが、わたしの中には、いつまでも印象深く刻まれ続けているといっていい。
 ラストの南天堂の場面は、まさしく「余白」や「どうでもいいようなこと」が溢れていて、これぞ、アナーキーだといってみたくなる。南天堂の場面からエンディングへと繋がっていく間隙のシーンとして、ギロチン社の面々の顔のアップが判決結果とともに映し出されていく。山田本人から聞いたことなのだが、リハーサルなしに自由に振る舞ってもらい撮ったという。すべての演技が終わった後なのか、途中だったのかは、聞きそびれたが、彼らのなんともいえない清々しい表情は、「芝居の後の」、「台本にはない」ものだったといっていいはずだ。
 メイキング映像について、ひとつだけ述べてみる。撮影時は、スタートの声とともに始まり、カット、そしてオーケーの言葉で、ひとつの区切りを示すことになる。だが、山田勇男監督は、オーケーの代わりに、「ありがとうございました」とキャスト、スタッフに向かっていっている。これもまた、山田監督自ら表出する余白性というべきかもしれない。
 つげ義春氏から、わたしへの私信のなかに書かれていた一文を、最後に引いておきたい。
 「先日山田勇男氏の映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』を観ましたが文句なしによかったです。」

(『図書新聞』15.11.14号)

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2015年10月 4日 (日)

八木晃介 著『親鸞 往還廻向論の社会学』(批評社刊・15.6.25)

 親鸞をはじめとする、中世の時代に生起した諸仏教の実践者たちは、宗教性を身に纏いつつも、実は思想者としての相貌を持っていたといっていい。それは、当時の時代情況や社会様態を考えてみれば、理解できるはずだ。差別的な支配や、自然災害、飢饉によって苦しむ人々が求めていた未知の未来へ、生きていくための縁(よすが)として宗教は必然性を有していたということだ。わたしも含めてだが、親鸞は、その時代においてだけでなく、日本思想を通観してみても、傑出した存在であったといえる。これまで、宗教者はもちろんのこと、哲学者、思想家、文学者、運動家や市井の人たちも含めて、様々なかたちで最も多く親鸞は語られてきたといえる。
 『現代差別イデオロギー批判』、『部落差別論』(いずれも批評社刊)などの著書を持つ著者だからこそ、現在の「戦後最低の“濁悪世”」の情況のただ中に、敢えて本書を著したのだと、思う。「本書はどこまでも『私の親鸞』観であり、客観的・普遍的な親鸞像の構築をめざすものでは」ないと述べているが、“私の親鸞”であり、“私観”であるからこそ、読む側の心奥へと直截に響いてくるのではないかと、わたしならいいたい気がする。
 書名となっている「往還廻向」という概念は、浄土真宗の、つまり親鸞思想の骨格をなすものだ。つまり、「往相(おうそう)」と、「還相(げんそう)」のふたつの廻向に「言及したのは親鸞ただ一人だと」著者は述べながら、次のように論述していく。
 「往相とは念仏信心の個人が弥陀の本願に摂取されて往生する局面ですが、還相はその個人が現世に立ち返って類的存在として他者(衆生)を利益し救済(利他教化)するステージです。」「強調すべき点は、この往相と還相とのいずれもが、来世においてではなく、ほかならぬ現世においてなしとげられるべき浄土実現の道筋であると親鸞がかんがえていた事実です。」「私自身は、往相は還相の前提であり、還相実現のための不可避的な局面が往相であるとかんがえています。」「浄土を命終後の世界とかんがえるのは本質的に親鸞的ではなく、否、むしろ反親鸞的でさえあると私は理解しています。」
 末世の信仰がないわたしではあるが、親鸞が説く浄土理念には強く惹かれているのは確かだ。それでも親鸞が説く“浄土”は、彼岸のユートピアではなく、此岸にあるべき理想世界だと思う。だから、ここでの著者の論述には、ただただ首肯することになる。
 本書では、“非僧非俗”、“悪人論”や“宿業”といったことをめぐって、これまでの様々な論議を踏まえながら、著者の親鸞論が展開されていくわけだが、何よりも、わたしは、著者の「私の親鸞」観を象徴的に語られている〈場所〉に拘泥したい。著者は、一九六〇年四月に京都の高校に入学し、当然のことのように安保闘争に参加していく。そして、六月一五日のデモ後に「疲労困憊して帰宅後、なぜか『歎異抄』を読んでいるときに、東大生・樺美智子さんの死を知り、まったく見ず知らずの人の死に涙する初の経験をしたことが今も記憶に鮮明です。そのとき、ほとんど脈絡もなく『親鸞はアナキストではないか』と感じたことが、親鸞を意識した最初の感覚でもありました」と述べて、次のように語っている。
 「当時の私は、よく意味もわからぬままにアナキズムへの一定の憧れをいだいていました(略)。アナキズムを通俗的に『無政府主義』と訳すことに違和感があり、私としては時宜どおりに『無権力主義』と私訳してひとり悦にいり、友人たちにもそれを吹聴していました。権力というものは人間と人間との間にはたらく一つの力であり、(略)密かにはたらく不可視の力でもあるというイメージですが、そうしたタイプの権力を無化するには一人ひとりの人間がいかなる生きざまを選択すればよいのか、高校生時代から現在にいたるまで私はそのことをかんがえてきたようにおもっています。/私が高校生時代から今にいたるも一貫して夏目漱石を敬愛するのは、私のいう意味でのアナキズム的雰囲気が漱石にはあるからです。」「党派心をもたず主体的な一人の力量において理非を明確化していくなら、徹して国家権力と対決せざるを得ないのが道理であって、親鸞はあの激烈な『主上臣下』糾弾をつうじてそれを実践していました。漱石の場合は、親鸞ほどに徹底はしませんでしたが、それでも、あの時代、あの場所において『国家は大切かも知れないが、そう朝から晩まで国家国家といってあたかも国家に取りつかれたような真似は到底我々に出来る話ではない。(略)』と言い放ったのです。(略)『ひとり』になって国家権力と対峙するとき、親鸞の念仏も、漱石の自己本意という個人主義も、きわめて重要な思想的武器たりえたのではないかと私は想像するものです。」
  “「私の親鸞」観”だからこそ、このように、苛烈で、鮮烈な親鸞をめぐる〈相貌〉を浮き上がらせることができるのだ。

(『図書新聞』15.10.10号)

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2015年8月 1日 (土)

上村忠男 著『回想の1960年代』(ぷねうま舎刊・15.4.23)

 著者は、一九六〇年春、尼崎から上京し東京大学に入学する。まさに安保条約改定反対闘争が激化しつつある時だった。著者もまた、その渦の中に入っていくことになる。本書を読了後、偶然にも六〇年安保ブントの理論的リーダーだった姫岡玲治こと青木昌彦の訃報が入った。姫岡は、六〇年代を公的に語ることはなかったが、著者より十歳年長で当時の全学連書記長だった島成郎には、死後刊行された『ブント私史』があり、著者と同年生まれの三上治には『一九六〇年代論』がある(西部邁の『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』も挙げてもいいが、本書では、長崎浩の『1960年代――ひとつの精神史』が引かれている)。本書をその流れのなかで読み始めたわけだが、情況論的な視線で追っていくと、幾らか違う断面に遭遇することになる。やや強引ないい方になるが、島の書名に倣っていえば、“一九六〇年代におけるわが思想私史”といっていい気がする。
 著者は、入学後、『東大教養学部新聞』に所属する。一学年上級の編集長が柏倉康夫であったという。六月十五日の情況は、著者が当日の取材記事として、『東大教養学部新聞』第一〇九号(一九六〇年六月二〇日発行)に掲載された文章を引いて詳述されていく。回想文ではなく、本人自身がまさしくリアルタイムで綴った文章であることで、率直にいって、わたしには深く伝わってきた。
 「憎しみと憎しみとの目をおおいたくなるような激闘二十分の後にデモ隊は完全に門外へ押し返されてしまった。/シャツは血と泥にまみれ、撲られ踏みにじられてしびれるような痛みをこらえて負傷者の介抱をする間を救急車のサイレンが長く尾を引いて各病院へと去って行く。/『女子東大生が死んだ』/(略)デモ隊は女子学生の死に怒りの涙を流しながら静かに構内に入った。(略)悲嘆と憎悪の感情をじっとかみしめながら涙とすすり泣きの中の一分間の黙祷は実に長い一分間であった。」
 著者は、「いま読み返してみると」、「主情が前面に出すぎている」と自省して述べているが、十九歳(誕生月がわからないから、十八歳かもしれない)の学生が真摯な眼差しで綴った文章と主情溢れた言葉だからこそ、後に論理的に綴られる多くの回想譚より遥かに共感できるといっていい。
そして、著者は、樺美智子が、出身高校(兵庫県立神戸高校)の四年先輩であったことを、その後に知ることになる。
 本書では、六・一五以後、「安保闘争に参加した学生たちが、その運動を別のかたちで持続すべく、郷里に帰って展開しようとこころみる」という帰郷運動や新島闘争(ミサイル試射場設置への反対闘争)を経て、安保ブントの解体を契機にして招来した新左翼諸派の再編過程の中で、著者の思考の遍歴が綴られていく。つまり、安保ブントの理論的核となった「国家独占資本主義論」から「構造的改革論」へと関心を展開させて、東京グラムシ研究会へ、さらに統一社会主義同盟(フロント)へと参加していったのだ。
 「数ある党派のなかでもフロントという党派は教条主義の呪縛からもっとも自由で、新しい政治文化の動向をもっとも機敏に察知して柔軟に対応する能力を具備した党派であった。そしてわたしの選択基準は、なによりもまずもっては政治文化の新たな可能性にどの程度まで開放的であるかという点にこそあったのだった。」
 わたしが一年間の受験浪人生活を経て大学に入学したのは、一九六九年春だった。周知のように全国的な大学闘争と新左翼諸派の対抗的運動が苛烈化していく時期でもあった。その当時、わたしのまわりでは(わたし自身もそうだったが)、構改派(フロント)に対してある種の偏見と誤解を抱いていたように思える。著者が本書で論及していく、グラムシやトリアッティの思想に対する自分なりの偏見を解き放つことになるのはかなりの年数を経ることになる
 吉本的ないい方をするならば、ロシア・マルクス主義(スターリン主義)を超える可能性を持った新しい理念として構造的改革路線を志向した著者にあって、やがて、「構造的改革論とはつまるところ、この革命の不可能性をこそ無言のうちに呼びかけていたものだった」という認識へと至る。グラムシの「獄中ノート」を手掛かりに修士論文を執筆し、フッサールを通して、「ヴィーコという十八世紀ナポリの哲学者」を知り、イタリア思想史を核とした研究者の道へと進むという「再出発」を確認し、六八年三月、東京を離れるところまで、記述されていく。つまり、東大全共闘が日大全共闘とともに全国大学闘争を主導していく直前で、本書における回想は閉じられることになる。

(『図書新聞』15.8.8号)

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2015年6月27日 (土)

うらたじゅん 著『冬のプラネタリウム』(北冬書房刊・15.5.9)

 九年ぶりの作品集である。収載作品は、書き下ろし作品二篇と07年から13年にかけて、『幻燈』、『架空』誌上で発表された作品十篇、そして、巻末にはインタビュー「60~70年代音楽シーンを語る」を収めている。既発表作品に関していえば、「図書新聞」紙上にて、『幻燈』誌の書評時に幾らかの評言を提示しているので、三作品に収斂させて、あらためて述べてみることにする。
 「おつかい」という作品は、父と少女、少女と同級生の少年との往還を描いたものだ。父にノートを買うように頼まれる。10円の駄賃をもらえたことで、文房具屋ではなく、チョコを買うためにスーパーでノートを買って来る。ノートは、文房具屋より一円安かったため、お釣りの一円を父に返す。しかし、父に、「五年生にもなって/たった一円を/ネコババできなくて/どうする」、「バカ正直の/ままでは/生きて行けない」などと言われ、怒られてしまう。父の実直さが描出された場所だ。だが、父は実直さゆえのストレスによって病に倒れてしまう。困惑する母とともに、父のことが心配で、気持ちが不安定になった少女は、なにかと気にかけてくれる少年にたいしてもきつく当たってしまう。母子のその後のことを類推すれば、暗い物語へと向かうはずだが、少年は落ち込んでいる少女に、「あさのーっ/げんき/だせよー」と懸命に声をかける。一瞬、不安げな少年の顔。「うん!!」といって振り返る少女のきりっとした顔で作品は閉じていく。うらた作品の秀抜さは、このような終景の描き方にあるのだ。
 「夏の午後には」は、八頁の作品だが、鮮烈なる時間性の横断によって、深い物語性を湛えている。いまふたたび作品に接してみても、モノローグと画像の緊密な連繋によって見事な物語構造を醸成しているといいたくなる。タイトル画面の右上隅に「いつかひとりぼっちの/おばあさんになったら/夏の午後には/レースのカーテンを/編もう」とモノローグが記されている。そして、次頁には、「貧しい私は/小さなアパート/暮らしだが」、「緑の同居人たちに/囲まれている」というモノローグとともに、陰影のある古い二階建ての建物を奥行きある構図で描写し、左コマには、草花というよりは、草の葉が配置されている。続いて水泳用キャップをかぶって、溌剌とした少女のカットがふたつ。「もう老いて/泳ぐことはできないが/はじめて海で/泳いだ日のことは/今でもおぼえている」とモノローグが記されていく。この作品の始まりの三頁のなかへ、うらたじゅんにおける「生」から「死」への往還にたいする深い思念を先鋭に込めたとわたしは思う。なぜなら、漫画作品を物語として紡ぎだすうらたじゅんにあっては、時間を横断させながら、記憶の断片を重ねあわせることで、そこにリリカルな心情を滲み出させるからこそ、わたしたちは、率直に感応できるからだ。七頁目は、四コマ。屋根を伝わっていく猫。朽ちかけた向日葵一輪の絵に、「病いに倒れ/窓を閉ざしたまま//朝夕を送る日が/やってきても/光を感じて/いたいから」のモノローグ。木の実の絵に、「秋が来ても/冬が来ても/レースのカーテンは/いつもきれいに/洗濯しておこう」。猫が屋根の上で尻尾を振っていて、窓からはカーテンがたなびいている。八頁目、力強く咲き誇る向日葵の大輪たちの終景である。暗く、いずれ訪れる老いと死にたいして、咲き誇る向日葵は、それでも生き続けていくことへの暗喩としてあるといっていいはずだ。
 「海の夜店」は、少年が、母の故郷へ夏休みに訪れた時の体験を描いている。それは、亡くなった「おじいちゃん」の新盆の時だ。一人で遊びに出て、「おじいちゃん」の幼なじみという「少女」に出会う。この「少女」は、「おじいちゃん」が子どもの時に死んでいたのだ。迷子になりながらも、なぜか、死んだはずの「おじいちゃん」に導かれながら帰り着くという物語である。荒唐無稽譚のように思えるが、うらたじゅんが描出する世界は、軽やかに「生」と「死」を往還させてくれるのだ。
 近作の二篇は、これまでの作品とは、描線と人物の描像が、幾らか違いを感じさせる。なぜだろうか。
 「かりんの花が咲けば」は、病院の外にあるベンチに座って、検査結果を見ながら、「あと2、3年は/大丈夫かな…?」とつぶやいている女性のもとへ猫が集まってくる。そこへ、老人が「猫お好き/なのですか?」と話しかけてくる。老人もまた、病院に長く通院していることがわかる。二人の淡々とした会話で作品は進み、閉じていく。
 「冬のプラネタリウム」は、冬の季節、プラネタリウムで知り合った高校生の男女が、やがて好意を抱くようになり、二人で旅行に出かける。旅先で補導され、親たちによって二人の関係は終焉を強いられる。「月日が流れ」、医師となった男は、病院内に展示されている絵に惹かれる。「冬のプラネタリウム」と題された絵の作者は、高校時代、一緒に逃避行した女性だった。病院の同僚から緩和ケア外来の患者さんの遺作だと伝えられ、衝撃とともに、「ぼく」は悔恨を抑えることができない。うらたじゅんの最新作は、特に髪の毛の描線の鮮鋭さとともに、「生」と「死」をめぐる物語は、ポエジー性を超え出て、さらなる位相へと向かっていくかのようだ。

(『図書新聞』15.7.3号)

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2015年6月19日 (金)

戸田昌子・比留間洋一 編                                    『シャッター以前vol.6 没後30年記念号《アキヒコ》を索めて』(岡村昭彦の会-発行、川島書店-発売・15.3.29)

 わたしにとって、岡村昭彦(1929~85)は、ベトナム戦争の現場に立った報道写真家ということになる。ベトナム戦争が終結して、丁度、五十年という長い時間が経過した現在から、当時の情況分析を披瀝しても、意味がないと思うが、わたしは、当時、ベトナム戦争にたいして直截に反戦運動へ喚起させていくことに逡巡していたといっていい。抵抗するベトナム民衆の影に中国やソ連の力が見え隠れしていて、アメリカに対峙していくのは、当然としても、米中ソという大国的思惑から自立していくベトナム民衆を支援する運動でなければならないと考えていたからだ。そして、そもそも報道写真というものにたいしても、どこか疑念を払拭できないでいた。岡村をベトナム戦争へ写真家として駆りたてものはなにかということが気になりながらも、何十年もの時間を経てきたいま、現況の西アジア情勢とベトナム戦争を安直に対比することは避けたいが、戦場カメラマンと称したテレビ・タレントが登場したり、多くのフリーランサーが民族間内戦の只中へ向かって死を招来しているのを目の当たりにして、彼ら彼女らのいわば先駆けともいえる岡村なら、この現状をどう捉えてみせるのだろうかと考えざるをえない。
 岡村昭彦が亡くなって三十年の今年、池上正治、岡村春彦、暮尾淳、玉木明、中川道夫、米沢慧ら十五人の編集同人によって『シャッター以前 vol.6』が刊行された。岡村没後の五年後の90年に創刊号(当時は、発行母体は岡村昭彦発見の会としていた)を出しているから、ほぼ五年ごとの刊行ということになる。〝シャッター以前〟とは、実に意味深い誌名だと思う。昭彦の弟、春彦は創刊号の巻頭に配置した「刊行にあたって」で次のように述べている。
 「昭彦は己れの目指す生き方を生きるために、可能な限り誠実に全身全霊を捧げようとし、そこで発見したものをまた己れの目標とすることによって、ついにはほとんど不可能と思われるものを完全に解明することをめがけていたようにおもわれてならない。/戦争のなかに立ちながら反戦を、最新の科学の発展を知ることで真の生を、それも絶えず弱者の側に身を置くことを自らに課しながら考え続けていた。/激動する現在の世界情勢の報道のなかに昭彦の仕事が見えないのはいかにも残念なことだが、今を生きる人達のなかに〝シャッター以前〟の思想が生き続けることをそっと願う。」
 わたしは、「〝シャッター以前〟の思想」ということに、率直に感応する。報道写真は、写真の中に写真家の、あるいは報道する側の立ち位置(それは、やがて思想に通底していく)が見えない限り、見るものの心奥を撃つことはありえないと思う。あえて、誤解を恐れずにいえば、有名なベトナムの少女、キム・フックを撮った写真に、わたしは、共感できないといえば、立ち位置の切実さは理解できるはずだ。
 昨年の七月から三か月間、東京都写真美術館で、大規模な岡村昭彦の回顧展「岡村昭彦の写真 生きること死ぬことのすべて」が開かれた。わたしは、この回顧展の前に佇んで、ただただ岡村の仕事に圧倒されたといっていい。岡村は、部落解放運動を端緒として、戦争の現場に立ち、反公害の立場から運動に参画、やがて、水資源問題に取り組むことで生命倫理学へと関心を拡げていき、晩年は、といっても五十代だが、死を迎えることへのケアの問題としてホスピス運動へと取り組んでいく。八〇年代前半、わたしたちのまわりで、まだだれも終末期医療やホスピスという問題が語られることのない時だった。
 回顧展を「生きること死ぬことのすべて」と題したのは、わたしたちにとっても普遍課題ではあるが、まさしく岡村が疾走した時空間を象徴したいいかたであるといっていい。企画を担当した戸田昌子は、「岡村の写真を見続けたなかで、この人は、人の死を通じて生きることの輝きを撮った写真家だ、と思う」とし、「そうした姿勢は、ベトナムからホスピスへ通底する姿勢であると思った」と直截に述べながら、次のように記していく箇所に、岡村昭彦の「〝シャッター以前〟の思想」が間違いなくリレーされていると思った。
 「『戦場』だけ岡村の現場だとみなさず、すべて等価なものとして展覧しようとした。岡村の凄さを印象づけようとしたのではなく、あらゆる日常の場を戦場としてみた岡村の徹底した視線を、展覧会場という場で再現しようと試みたのであった。」(「写真展を終えて」)
 本誌は、他に比留間洋一「岡村昭彦撮影のベトナム中部高原・戦略村の写真を読む」、米沢慧「心(いのち)の劇としてのホスピス」、池上正治「岡村昭彦の中国」など、興味深い文章が掲載されている。編者たちは「《アキヒコ》という資料」の継承と読解を謳っている。確かに、《アキヒコ》という存在とその仕事は、まだまだ未知の様態を多く湛えていると思われるが、わたしなら、もっと直截にいってみたい。
 わたしたちにとって、「《アキヒコ》という現在」はなにかと。

(『図書新聞』15.6.27号)

       

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2015年6月 6日 (土)

山中 恒 著『靖国の子― 教科書・子どもの本に見る靖国神社』(大月書店刊・14.12.15)、堀 雅昭 著『靖国誕生― 幕末動乱から生まれた招魂社』(弦書房刊・14.12.16)

 〈戦後〉七十年である。だが、長年の靖国神社をめぐる喧噪を考えてみれば、〈戦後〉とは、〈戦前〉との地続きでしかないのではないかといいたくなる。それは、連合軍最高司令部とその周辺権力による日本国の占領政策のなかで、様々な価値転換を強いる制度を施行していったにもかかわらず、アンビバレンツに天皇制と靖国神社を温存して、ねじれたかたちで、七十年という時間性を経過させてきたからだといっていい。春の例大祭に、また大挙して自民党右派議員たちが参拝している。いったい、彼ら彼女らの思考の中味は、どうなっているのかと、わたしには、ほとんど理解不能である。戦後生まれの元タレントの自民党議員が、国会の委員会の場で、「八紘一宇」と平然と発言していることを知って、ついにそこまで来たかと思った。ほとんどのメディアは、小さな記事で報じただけで、その元タレント議員に対して厳しい批判をするわけではない。四、五十年前だったら、自民党内の〈戦後〉ということへの鋭敏さやメディアの反応によって、間違いなく議員辞職に追いやられていたと思う。七十年も経過するとなにもかも弛緩してくるのかと思わざるをえない。
 『靖国誕生』は、書名からわかるように、靖国神社の〈発生史〉である。わたし自身が思い込みで理解してきたことが、いい意味で次々と崩れていった。明治維新を革命と捉えることをわたしは、敢えて否としてきた。徳川幕藩体制から天皇を象徴権力にした薩長政権に移行しただけだという、わたしの考え方に修正を加えることはしないが、薩長政権自体に成立時において、様々な矛盾が既に胚胎していたことを、本書によって知ったことになる。つまり、維新以後、様々な士族たちの反乱と靖国神社の成立過程に、そのことが交錯しながら象徴的にあらわれていると思えるからだ。
 著者によれば、靖国神社は、長州藩由来のものだという。つまり、「明治維新時に長州藩で行っていた招魂祭を東京でも行うため、長州藩洋学者・大村益次郎が社地を選定し、明治二年六月に九段坂上に仮社殿を建てたのがはじまり」で、その時の名称は、東京招魂社であった。本殿が完成した「明治五年に兵部省から発展した陸軍省・海軍省の管轄となり、明治一二年六月に」改称して靖国神社となったことになる。しかも、初代宮司は、萩出身の青山上総介(清)であった。
 そもそも長州藩は、関ヶ原の戦いで毛利輝元が豊臣方の総大将だったため、「中国八カ国から防長二州に減封され」、維新までの二六〇年間というのは、外様大名となった毛利家にとって「屈辱の敗戦体制」であったのだ。いわば、敗戦体制からの脱却のために、長州藩士たちを激しい討幕運動へと駆り立てていったといっていい。
 わたしが本書の中で、最も喚起されたことは、長州は早くからキリスト教を受容していたことと、洋学にたいして開かれていたことだ。
 「国のために亡くなった者は、貴賤貧富の別なく平等にこの国の神になれるのだ。キリスト教のいう神の前の平等という思想が、そのまま靖国神社の文明開化思想に連結されていた。靖国神社から浮かび上がる身分解放の近代主義も、徳川身分制度を支えた儒仏思想へ対峙した長州藩国学に担保されていたのではあるまいか。青山とその仲間は、洋学と融合した革命的な神道の中から、明治近代の平等主義を実践したともいえよう。靖国神社がその象徴であったなら、今とは全く違う姿があったこともうなずける。」
 しかし、薩長政権の中枢は、天皇制を強化するために国家神道をそのイデオロギーの核に据え、さらには、軍事大国化を進めていくために、〈靖国〉を国家の中心に据えていったといっていい。そして、「靖国神社の開明性は影をひそめ」、「何層にも重なるように戦死者が英霊として祀られ、偏狭なナショナリズムに彩られた戦争神社に姿を変えた」とし、「政治問題のみで語られる現在の靖国神社は、特に最後の戦争が負け戦だったゆえに、敗戦体制というべき戦後民主主義社会の荒波の中で、創建当初の存在意義さえ失った感がある」と著者は述べていく。
 『靖国の子』は、『ボクラ少国民』シリーズの著者ならではの、明快な国体原理主義(天皇制)批判によって、戦前期の皇民化教育の実相を切開している。それは、現政権のアナクロな復古主義の陥穽を衝くことでもある。
 本書の中で、子供向けの本や雑誌に掲載された「少国民詩」をめぐっての北原白秋や丸山薫の選評や、相馬御風の詩歌集について、著者は俎上に載せている。戦時下の文学者たちの表現は、あまりにも罪深いものがある。白秋の「浅間丸」という詩作品に触れて、次のように述べている。
 「白秋は、まだ日本が太平洋戦争で敗色の見えていない時期に没しました、それは、彼のためによかったかなと思っています。生き延びた他の詩人たちも、戦後は戦中の言動を隠し、息を殺していました。そのうちに、若い頃の名声を得た作品が復活し、お互い古き傷を見て見ぬふりで終わらせてしまいました。/白秋が権力側の要請で、このような国体原理主義賛歌みたいな作品を書いたとは思えません。そこに不気味な国体原理主義の呪術の力を感じてしまうのです。」
 現在のアナクロ復古主義政権が、それでも五〇%以上の支持率があるからか、自民党内部からはもとより、本来、政権に厳しいはずのメディアも含めて、声高に政権を批判する事態が見えてこないのが、まるで、戦前期の言語空間のような気がしてならないと感じるのは、わたしだけではないはずだ。

(『図書新聞』15.6.13号)

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2015年3月14日 (土)

五十嵐進 著『雪を耕す――フクシマを生きる』        (影書房刊・14.12.25)

 わたしは、著者から発せられる痛切な言葉のなかに深い憤怒を感じ、3.11以後、あるいは、フクシマ以後に対する自分自身の言説が空疎なものへと露呈していくのが、いやがおうでも突き付けられてしまい、ただ悄然とするしかなかった。それは、原発に対峙する理念をめぐって、当たり前に「生きる(生活する)」ことへの普遍視線を、理念以前のリアルな言葉として表出することを無意識のうちに、置き去りにしてきたのではないかと、気づかされたからだ。四年前のあの時、想像を絶する大地震と津波、そして原発の崩壊によって、わたし(たち)を襲った、放射性物質の広範囲にわたる飛散に対する恐怖心を、日々感じていたはずなのに、いまは何ごともなく過ごしている日常がある。そこで叫ぶ、反原発がなんとも空々しく思えてならない。福島原発の周辺どころか、福島県全域で「生活する」ひとたちは、四年経ったいまでも、日々の放射線量を意識しながら生きていかなければならないのだ。自分自身も含めて、わたしたちは、自分たちの場所で、そのことをどれだけ意識しながら、現在という時間を過ごしているのだろうかと思わざるをえない。
 原発の廃炉作業は、トラブル続きで、汚染水の流出は頻繁に起きている。除染問題も含めて、一体どこまで廃炉作業が進んでいるのか、さらには、被曝によって人体に与える影響(政府や行政は、福島の子どもたちの甲状腺がんの発症率が上がっても、依然、過小評価をし続けている)も含めて、ほんとうのところは、何も知らされていないのが、フクシマの現在なのだ。
 「会津・喜多方に住み、(略)社会的な職も人並みに勤め上げて、今は土を耕している。父祖伝来の土である。この土が3月12日の福島第一原子力発電所の水素爆発により吐き出された放射性物質によって汚染の土と化してしまった。」「低線量、高線量に関わらず平常とは違う放射線量があることは確かなのだ。それを『風評』として一蹴すべきではない。感情的に流すべきではない。もっと慎重に対応すべきである。」「除染も大量の労働力と何千億円もの予算がつぎこまれているが進捗状況は必要戸数の26%程度である(14・2月現在)。その効果も一時的で、再除染要求の声も聞かれ、きりがない状態だ。また除染による放射性ゴミも正式な集積場もなく、民家の敷地内や公園の一角などに野晒しの状態である。」「日本でも識者から放射能の人体被害として癌が大きく取り上げられ、懸念されているが、タチアナさん(引用者註・ウクライナの看護師)はその他に鼻血、低血圧、無気力症、皮膚障害、頭痛、足痛、胸痛、背中痛、胃痛等々、痛みとして現われる現実を(略)話してくれた。(略)放射能による痛みは1・1ベクレル/kgの食事で発症し、健康影響が出るとされていた最低線量の1300分の1で痛みが出た、ということが明らかになった。これから日本でも現れるだろう症状である。われわれは原発爆発がどういう災厄をもたらすかを知らない、といっていい。蛮勇は退けなければならない。」
 著者は、『指』『引首』『いいげるせいた』といった句集をもつ俳句表現者である。本書の大部は、福島の同人誌「駱駝の瘤」、独立労組・横浜学校労働者組合機関紙「横校労」、俳句同人誌「らん」に、11年7月から14年8月まで執筆され、それぞれに掲載された先鋭なる「フクシマレポート」とでもいうべき文章群である(他に俳句作品75句、震災後俳句への批評を収載)。そして、「書くことによって見えてきたものがある。意図的なごまかしと誘導の動きである。当局は人々のことなど本当には心配していないのだ」と述べながら、「国とは、政府とは、行政とはなにか」(「うしろ書き」)と鋭く問う。ほんらいは、「国」や「政府」、「行政」なるものは、「人々」のために存在するものであるはずだ。しかし、ほんらいということ自体が、人間社会の剥き出しの欲望のなかで、風化してきたといえる。その果てに、そこの構成員たちは、public servantであることを忘れ、幻想の共同性へと掬い取られていき、「人々」より大事なものは、「国家」ということになっていったと、わたしなら断じておきたい。
 「あゝ以後は放射能と生きてゆくのかあやめ」「汚染藁焼く日本の夜と霧」「真剣を雪で研ぐ心のテロリスト」「種蒔くよ国家より古き土くれ」「雪解けの見えざる敵や光る鴨」「汚染とよ人を侮る心生(あ)れんか」
 著者・五十嵐進の俳句表現は、さらに先鋭に、「国家」と、「政府」と、「行政」を撃っていく。

(『図書新聞』15.3.21号)

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2015年2月28日 (土)

藤森節子 著『そこにいる魯迅――1931~1936』         (績文堂出版刊・14.12.5)

 本書の副題にある1931年は、柳条湖事件を契機に満洲事変が勃発した年であり、関東軍が次々と中国東北部を制圧し、翌年の3月、満洲国建国が宣言されたという時間性を示している。以後、日本帝国、国民党、共産党の三すくみの〈内戦〉状態が続き、やがて日本帝国は欧米列強と〈戦争状態〉に入り、敗戦へと至ることになる。著者は建国宣言後の6月に旧満洲国(現・遼寧省)鉄嶺市で生まれた。旧満洲国を生地としたのは、自分の意志ではなかったにせよ、その宿運は著者の心情を重くする。魯迅が亡くなる二カ月前(36年8月)に発表された文章のなかに「抗日」という言葉があることを引きながら、次のように述べている。
 「私はといえば、〈抗日〉というときの、その当の日本人の一人なのだ。この時点での私は四歳の幼児にすぎないけれども、関東州庁に任命される立場の、金融組合理事である父の養育を受けて育っていたのだった。/魯迅小父さんは、いきなり日本人というだけでの理由で日本人を敵視するような人ではない。しかし、日本の国家が中国の大地をじりじりと侵していくさまをずっと注目追跡し冷静にとらえている。」
 だからこそ本書は、著者が、「ずっと中国大陸の地つづきの場にいて、魯迅と同じ空気を呼吸していた」という思いのもと、そこにいる魯迅小父さんへ親愛なる視線を注ぎながら、「最後の魯迅」とでもいうべき像を鮮鋭に描出したものとなっている。そして、著者の生まれる前年から魯迅が亡くなるまで六年間の「日本の国家が中国の大地をじりじりと侵していくさま」を魯迅の目線と共振させながら記述していく文章群は、わたしにあらためて魯迅の存在性を深くに感受させてくれた。
 「この言論界のさびしさ、萎縮ぶりはどうだ。つい先頃まで少しおかど違いなものもふくめて、まるで魯迅に喧嘩をふっかける勢いで論争をいどんできていた青年文学者たちはどこへいったのだ。(略)ひところの『民族主義文学』などと威勢よく国民党のお先棒をかついでいた者たちさえも影をひそめ、今年は、表向き中立をよそおう『第三種人』なる者たちが登場して魯迅を攻撃してくる。彼らは中立をよそおうだけにいっそう陰湿だ。/魯迅のたたかいが孤独であったのはこれまででもそうだったが、いまはひっそりひとりである。それでも魯迅は妥協しない。」(「1932年の魯迅――眉を横たえて冷やかに……」)
 「魯迅の日常を豊かにし心やわらげてくれるのは、時にもてあますほどにいたずらな四歳の海嬰だ。」(「1933年の魯迅――筆名をとりかえとりかえ……」)
 「魯迅は、一九三一年の九・一八(満洲事変)からこちら、日本が『満洲国』をつくっただけでなく、その国境線を越えて、じりじりと華北に侵攻してくる状況をしっかりと目の前に見ている。だから、〈満洲と華北の状況を見れば明らかであろう。中国の唯一の出路は全国一致して日本にあたる民族革命戦争である〉と第一に明言するのだ。」「『民族革命戦争の大衆文学』というスローガンの根元にイメージする『大衆文学』とは、おそるべき底力を蓄えているものであることを魯迅は知っている。」(「1936年の魯迅――『徐懋庸に答え、あわせて抗日統一戦線の問題について』」)
 また、最初の妻であり戸籍上の妻であり続けた朱安と海嬰の母となった許広平をめぐる記述は魯迅のもうひとつの像を浮き彫りにしている。そこにも、魯迅の苦悩が沈潜しているのだ。さらにいえば、日本に留学し、上海に居住を定めてからは、上海内山書店の内山完造との親密な交流(主治医は内山から紹介された日本人医師だった)を亡くなるまで続けていた魯迅にあって、「抗日」ということ、あるいは、「日本にあたる民族革命戦争」という根拠は、心情的な意味あいを考えてみれば複雑なものであったことを、充分に推察しうる。井上ひさしの「魯迅という人は日本を非常に愛していると同時に、日本を非常に憎んでいた人なんです」といういい方に対して、「ほんとうに憎んだのは、じりじりと侵略をつづける日本の軍隊であり、それを阻止し得ない中国の政治状況であり、それを支える中国人のありようだ」と明快に批判していく著者の視線に、わたしもまた同意したい。だからこそ、魯迅が「大衆文学」というとき、そこに、「おそるべき底力を蓄えているものである」と見通せるのだ。魯迅の研究論文ではないと著者は、本書について述べているが、魯迅論として際立った思想(イデオロギーを意味するのではなく、生きることの思惟と見做したい)性を湛えたものとなっていると、わたしは、断言したい。

(『図書新聞』15.3.7号)

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2015年2月14日 (土)

『アナキズム叢書』発刊に寄せて                  ――多様なアプローチによって喚起されていくこと

 アナキズムという思考の有様、あるいは概念というものついて考えてみる時、おそらく、多様なアプローチがなされるはずだと、わたしは思っている。なぜなら、長い間、アナキズムという思考の有様について考えを巡らしてきたわたしですら、いまだに、明確なテーゼをつかみきれないでいるからだ。フーコーの権力は至るところに偏在するという見立てに倣うならば、反権力を中心的な思考の核とするアナキズムは、至るところへと視線を射し入れるべきであり、その限りでは、アナキズムという思考の有様は、絶えず、難所や障壁の前に佇まざるをえないことになる。
 マルクス主義が、マルクスやエンゲルス、レーニン、トロツキーといった先人の著作(テクスト)によって、共感していく人たちに、その思想的な端緒が開かれているように、アナキズムも、バークニンやクロポトキン、プルードン、幸徳秋水、大杉栄といった先人の足跡を辿ることは、可能だ。だが、これらの思考を継承していくだけでは、現在の閉塞的な情況を越え出るための契機に、なかなか、なりにくいことは断言できる。少なくとも、現在というものを絶えず、視線の中に組み入れることなしには、思考というものは、たんなる知的円環のなかの断片に過ぎないといっていい。
 いわば、現在を見通すべくテクストの創刊という企図のもと、わたし自身も関わって、『アナキズム叢書』という冊子を『アナキズム叢書』刊行会(発売元・『アナキズム』誌編集委員会)から発刊した。第一回配本は、『死の商人への挑戦―1966/ベトナム反戦直接行動委員会の闘い』、『アナキズムの展望―資本主義への抵抗のために』、『労働廃絶論』の三冊。予定では、半年後に、『アナキズム入門』、『六月行動委員会』などの刊行を予定していて、継続的な刊行を目指している。
 『労働廃絶論』(ボブ・ブラック著、高橋幸彦訳)は、苛烈な書名に一瞬驚くかもしれないが、極めてシンプルに、わたしたちの現在の立ち位置を問うている。つまり、「人は皆、労働をやめるべきである。/労働こそが、この世のほとんど全ての不幸の源泉なのである」、「私が本当に見たいと望むのは、『労働』を『遊び』に変えることである。/その最初のステップは『仕事』や『職業』という観念を捨てることだ」、「誰も働くべきではない。万国の労働者よ……リラックスせよ!」等々、と述べながら社会主義国家や資本主義国家が陥っている矛盾を鋭く切開しているのだ。他に「国家はウソだらけ……世の中ウソばかり」など三篇の小論も収録されている。
 『アナキズムの展望―資本主義への抵抗のために』(シンディ・ミルスタイン著、森川莫人訳)は、現在を視野に入れた鮮鋭なアナキズム論集である。解説の高祖岩三郎によれば、ミルスタインは、3.11に「衝撃を受け、かつてない終末的時代の到来を確認」し、以後、「各地を転戦し、ニューヨークに居を定め」、「アナキズムを主調とした民衆闘争にまつわる資料の展示/保存室の運営委員会で」の活動を通して、「福島以後の問題に積極的に介入している」という。本書は、ミルスタインが、2000年から12年までに発表した五篇の論稿を収めたアンソロジーとなっている。
 『死の商人への挑戦―1966/ベトナム反戦直接行動委員会の闘い』は、1966年の10月と11月の二度にわたって軍事兵器を生産し、ベトナム戦争へ加担していた軍需工場へ抗議行動をし、逮捕されるという事件の詳細とその反響を収めて、67年5月に発行された資料集(編集・べ反委公判パンフ編集委員会、発行・ベトナム反戦直接行動委員会)に、新たに、わたしの「序」と松本勲による「あとがき」を加えた新装版である。べ反委の行動は、67年10月8日の新左翼諸派による羽田闘争の一年前であり、日韓闘争以後、対抗的運動が低迷していくなかで、生起した衝撃な行動であったのだ。そしてなによりも、戦後、サロン化し思想的退行のなかに浸っていたアナキズム潮流に対して、楔を打った行動でもあった。さらにいえば、べ反委以後、七〇年前後にかけて、様々なアナキスト・グループの運動を派生させた契機でもあったと見做すことができる。当時、多くの人たちがベトナム戦争は対岸の火事としか認識できなかった時に、日本資本主義国家の暗部を燻り出したことは、戦後の反体制運動のなかで、象徴的な「事件」だったといっていいと思う。
 こうして、発刊された三冊の多様なアプローチによって、未知の読者が喚起されていくことを願っている。

(『図書新聞』15.2.21号)

※『死の商人への挑戦―1966/ベトナム反戦直接行動委員会の闘い』
[編集・べ反委公判パンフ編集委員会]
四六判変型・232頁・定価[本体一三八九円+税]

※『アナキズムの展望―資本主義への抵抗のために』
[シンディ・ミルスタイン著、森川莫人訳]
四六判変型 ・100頁・定価[本体八三三円+税]

※『労働廃絶論』
[ボブ・ブラック著、高橋幸彦訳]
四六判変型92頁・定価[本体八三三円+税]

※発行・『アナキズム叢書』刊行会
※発売元・『アナキズム』誌編集委員会[Tel03-3352-6519]

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2015年1月24日 (土)

つげ義春・山下裕二・戌井昭人・東村アキコ 著             『つげ義春 夢と旅の世界』(新潮社刊・14.9.20)

 つげ義春の作品、「ねじ式」が発表されたのは、一九六八年、『ガロ六月増刊号・つげ義春特集』であったから、四十六年以上経ったことになる。「沼」(六六年二月号)、「紅い花」(六七年十月号)といった衝撃的な作品を『ガロ』に発表し続けていたつげ義春の書き下ろし作品を付した『つげ義春特集』刊行の予告に、当時、わたしたちは待ちわびていたものだった。予告からかなり遅れ、「ほんやら洞のべんさん」(六八年六月号)と「ゲンセンカン主人」(同年七月号)の間に挟まれるように、「ねじ式」は現われたことになる。その直ぐ後に発表された「もっきり屋の少女」(同年八月号)をもって、つげは、一年半近い沈黙期にはいってしまう。
 わたしは、当時のことを「ねじ式」ブームと称することに、つげ義春という表現者の在り様を考える時、必ずしも的確ではないと思うのだが、それまで、漫画を語ることのない人たちから多くの応答があったわけだから、鮮烈な印象を与えて、大きな反響を巻き起こしたのは間違いない。リアルタイムで接していたわたしは、どこかで、そのような情況に対して醒めてみていたように思う。「ねじ式」に特化されてつげ作品を評されることに抵抗を感じていたといえばいいだろうか。いまとなっては、他のつげ作品に比べ、わたし自身、「ねじ式」に正面から向き合うことを避けてきたことに気づかされたといっていい。そして、いまあらためて、自分自身の視線で作品世界に向き合おうと思い至った契機が、昨年末刊行された『芸術新潮』(一四年一月号)の特集「デビュー60周年 つげ義春 マンガ表現の開拓者」であった。本書は、その『芸術新潮』の特集を再編集し、未発表写真二〇点と「ゲンセンカン主人」の原画を加え、「とんぼの本」シリーズの一冊として出されたものだ。「紅い花」の原画や、「無能の人」の鳥師の場面、「李さん一家」の終景の原画とともに、収録されている「ねじ式」の原画を見ながら、わたしは、圧倒的な画像の迫力に言葉を失ってしまった。つまり、「ねじ式」に対し訳知り顔のように言葉を重ねてみたところで、画像力のまえに言葉は皮相さを露わにされ、沈黙を強いられるだけなのだ。いまさらのように、述べるのは、気恥ずかしいことだが、つげ義春のイメージ喚起力にただ、素直に感受することが、最も確かな「ねじ式」に対する向き合い方だと、いまのわたしは、思っている。
 美術史家の山下裕二を聞き手にしたロングインタビューは圧巻だ。さらに、七〇年代生まれの漫画家・東村アキコと作家の戌井昭人による〝つげ論〟は、新鮮でいい。
「つげ義春先生って、現実に私たちが生きてると、こういう瞬間ってあるよなというのを、紙にスッと落とせる稀有な作家だと思うんですよ。ドラマを盛り込んでいないからこそ、本当のドラマがそこにある、みたいな。」(東村)、「つげさんの場合は、わたしのようにやたらキョロキョロして探し求めているのではなく、自然に、流れるように、変なものや人間にぶちあたっている感じなので、そこがつげさんにはまったく敵わないところなのであり、旅人つげ義春に憧れるところであります。」(戌井)
 なぜ、つげ漫画の新しい読者が世代を超えて、増え続けているのかと、よく語られるが、ほんとうは、なぜという疑問は、まったく無意味になるほど、つげ作品(特に「ねじ式」)は、四六年経過しても依然、屹立しているからだと、断言したいと思う。

(『図書新聞』15.1.31号)

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