2014年11月 8日 (土)

上村武男 著『吉本隆明 孤独な覚醒者』            (白地社刊・13.12.30)

 本書は吉本逝去後、刊行されている多くの吉本論とは一線を画しているといっていい。なぜなら、かつて、『固有時との対話』(52年刊)、『転位のための十篇』(53年刊)、「マチウ書試論」(54年発表)などをテクストにして、初期吉本の世界を鮮烈に論及した『吉本隆明手稿』(78年・弓立社刊、初出は70年私家版で刊行)を前半部に収め、後半部にはその後、書き記してきた諸論稿と、著者が67年に企画した吉本の講演の筆録(勁草書房版『全著作集』に収録済)、その時の質疑討論(初公開)、講演に向けてのメモを後半部に収めた著者の吉本論集成であるとともに、著者と吉本の五十年に渡って往還した精神史の集大成といってもいいからだ。
 書名の「孤独な覚醒者」は、吉本の講演集『敗北の構造』(72年、弓立社刊)の書評の表題から採られている。そこで、著者は、「あきらかに生活的な、そして体験的な、健康で根太い真理探究者の相貌があることを、あらためて感じさせられた。これは、自覚的であるがゆえに孤独であり、覚醒しているがゆえに省察ふかい一人の思想家の、大きな構想力に裏打ちされた、見事な講演集である」と述べている。「自覚的であるがゆえに孤独であり、覚醒しているがゆえに省察ふかい」といえば、あの、「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくははいじんであるさうだ」(「廃人の歌」)という詩篇を、わたしなら直ぐに想起する。その詩篇が収められている詩集『転位のための十篇』について、著者は、次のように述べていく。
 「(略)ほれおまえのところにかえってきたよ、といってみたい幻想と、だがもっと強く『冬の圧力の真むこうへ』でてゆくために、なべてのものどもに『さようなら』を告げねばならない現実とが、ぎりぎりの一線であやしく表裏一体となったものというしかない。この帰還を強いる幻想と、出立を強いる現実との最大限に張りつめ、ひき裂かれた緊迫のなかにしか、『転位』の誇っていい生活倫理の美は存在しないはずである。還りゆくことは、そのまま出立することだ。出立することは、さらにもっと遠く還りゆくことだ。」
 ここで、著者が指摘する、「帰還」と「出立」という概念は、たんに代表作と冠するだけではおさまらない、吉本の最重要著作といえる『最後の親鸞』(76年刊)で展開された、「還相」と「往相」に照応できることに、わたしは驚嘆せざるをえない。初期詩篇と『最後の親鸞』のモチーフを繋げる著者の鮮鋭な視線によって、「還りゆくことは、そのまま出立することだ。出立することは、さらにもっと遠く還りゆくことだ」と詩的に表現される時、「詩人的思想家」として、より屹立した吉本が描像されていくことになる。
 「わたしが、この手稿で不断に追いもとめてやまないのは、吉本隆明、この現代日本の不敵な詩人的思想家の人間的本質はなにか、ということである。(略)いわば、詩と思想と生活との、引き裂かれた三位一体をあやしくみずからに体現する者を呼んで〈詩人的思想家〉といい、その原像を求めてさ迷う過程でかれ、吉本隆明はわたしの眼前に立っている。」
 このように、率直に述べていく著者だが、「詩と思想(哲学)と生活との、引き裂かれた三位一体」を求めているのは、まさしく著者自身であるといっていい。吉本の営為を論及することは、自らの「詩と思想(哲学)と生活」の在り様を問うていくことでもあったはずだからだ。
 本書では、「『西田幾多郎における〈実在と認識〉』を『試行』に連載したころ」と題した書下ろしの文章が収載されている。そこで、「一九七〇年代から八〇年代にかけての十数年」、つまり、著者が「三十歳過ぎてのちの十年余り」の頃を次のように記していく。
 「生木を裂かれるような最初の妻との生き別れ、敬愛措くあたわぬ父との病苦の果てにやって来た突然の死別、その父との別れが呼び寄せたとしか言いようがない二度目の妻との出会いと結婚、そして二人の子の誕生。(略)小さな村やしろの宮守りと、これまたごく小規模な、いつ潰れても不思議でない幼稚園の経営者と、それからささやかな、しかし根深い文学の徒――これが、そのころのわたしの暮らし向きにほかならなかった。」
 その間に、『吉本隆明手稿』をはじめ、幾冊かの著作を出しながらも、著者は「言語表現の領域が広がれば広がるほど、かえって沈黙の領域が深まっていく」のを感じていく。そして、沈黙の領域を埋めるべく、「詩と哲学と生活の三位一体」という「根源的生成の圏」を求め、吉本が主宰する「試行」に「『善の研究』解読の試み」という副題を付した西田論を寄稿する。
 著者の長きに渡る、あるいは、これからも続くであろう吉本との往還する「劇」を、わたしは、感応しながら本書を読み終えたことを最後に記しておく。

(『図書新聞』14.11.15号)

| | コメント (0)

2014年10月11日 (土)

いま、なぜ大杉栄か                        ――『大杉栄全集 全12巻・別巻1』(ぱる出版)刊行に寄せて

 大杉栄(1885~1923年)は、幸徳秋水(1871~1911年)とともに、明治、大正期における無政府主義・社会主義運動の先駆的存在として知られている。幸徳は、日本が天皇制国家として成立していく時間性のなかで刑死し、大杉は、やがて軍事大国、帝国主義国家としてアジアへの覇権を確立していこうとするなかで虐殺されたといえる。そのことは、日本近代史過程のなかで、屹立した存在だった二人の死が、結果的に日本国家の暗部を燻り出したことになる。
 大杉栄は、生き急ぎ、ひたすら疾走した人だったといっていい。その奔放なイメージは、時として、「自由」で鮮鋭な「個」を確立した存在だったと見做されているが、わたしは、幾らか違う印象を大杉にたいしては抱いている。わたしが、大杉栄や日本のアナキズム運動に関心を持った最初の契機は、大杉虐殺への復讐と後退していく運動を立て直すべく、ある種のテロリズムに傾斜していった古田大次郎や中浜哲らが結成したギロチン社の存在を知ったからだ。やがて大杉が主導する労働運動社に参加していた村木源次郎と和田久太郎が大杉死後、合流していったことで、彼らが、イノセントな思いで大杉に心酔し共感していたことがわかった。彼らが心酔したのは、大杉が持っているカリスマ性というよりは、関係性の結び方が自由で、開かれていたと考えたから、大杉にたいしても、わたしの関心の方位が広がっていったことになる。大杉は、一見、大らかに振る舞っているように見えるが、実はかなり繊細で、気配りのできた資質を持っていたのではないかと推察したくなる。そうでなければ関係性や共同性について、見定めていくことはできないはずだからだ。
 わたしが、大杉の論考や思考なかで、最も共感できたのは、ロシア革命が生起したということを、いち早く認知すると同時に、農民やナロードニキ、アナキストを弾圧しているボルシェヴィキの独占権力によって革命が推移していることを、かなり初期の段階で、見通していたということである。その後、山川均とのアナボル論争があったわけだが、それは結局、ロシア革命をめぐっての評価の対立ということになる。やがて労働者にとっての理想的な社会・国家が出来るという認識なのか、ボルシェヴィキ権力による独占支配国家でしかないという見かたなのかの違いなのだが、ロシア革命に対する共感の広がりのなかにあって、大杉は、鋭利な分析と判断によって、ある意味、孤立を強いられることになったといえよう。
大杉における個の自由を希求するということは、ある種の自己革命的とでもいうべきものを胚胎していたといっていい。
 「われわれが自分の自我――自分の思想、感情、もしくは本能――だと思っている大部分は、実に飛んでもない他人の自我である。他人が無意識的にもしくは意識的に、われわれの上に強制した他人の自我である。(略)われわれもまた、われわれの自我の皮を、棄脱して行かなくてはならぬ。ついにわれわれの自我そのものの何もなくなるまで、その皮を一枚一枚棄脱して行かなくてはならぬ。このゼロに達した時に、そしてそこから更に新しく出発した時に、はじめてわれわれの自我は、皮でない実ばかりの本当の成長を遂げて行く。」(「自我の棄脱」)
 ここで述べているように、徹底した自己変革を指向していた先に、権力奪取を自己目的化するような政治的革命とは、まったく次元を異にする自己革命から社会革命へと至る道筋を大杉が指向していたことがわかるはずだ。
 大杉のもとから、日陰茶屋事件(吉田喜重監督作品『エロス+虐殺』のモチーフにもなった、1916年に起きた三角関係のもつれによって大杉が刺され重傷を負った事件)によって多くの同志が離れていった。ある意味、大スキャンダルであったし、巷間、世俗的な話題として拡散していったと思われるから、それも当然のことかもしれない。しかし、それでも村木や和田らは残ったわけだから、彼らの心情は想像して余りあるといっていい。だが、大杉は、事件後、一時的には孤立していたにもかかわらず、その後の活動は、非常にエネルギッシュになっていったところが、凄いといえる。
 大杉の文章が当時も、そして現在に至るまで読み継がれてきたのは、幸徳と違って口語文体だったこともあるが、現在時に置き換えてみれば、ポストモダン的志向を持っていたと見做すことができる。80年代に流行した概念でいえば、旧体制や古い思考を脱構築しようとしたと捉えると分かりやすいかもしれない。既成のものをいったん壊して、そのなかで有用のものを残し、新たな考え方を作り上げていくといったことが、特に、大杉が説くアナルコサンジカリズムという考え方の提示のし方にあるといってもいい。つまり、労働者による革命運動といった表層的なものを必ずしも指向していたのではないのだ。つまり、ヨーロッパのサンジカリズムと、日本に移入したサンジカリズムをそのまま、同じものと考えることはできないからだ。脱構築した大杉風のサンジカリズムは、けっして、労働組合主義でもなければ、労働運動至上主義でもないと思う。そういうことを見据えないかぎり大杉たちがやってきたことや、主張してきたことを取り違えてしまうことになりかねないといいたい気がする。大杉が主張する労働運動というのは、もっと広義な意味での大衆運動のことだといえるはずだ。それを労働運動という狭いカテゴリーに特化して捉えてしまうと、違った方向にいってしまうことになる。大杉の時代の労働運動といわれるものは、要するに、関係性や共同性を構築していくという運動だったという気がする。いうところの社会革命も、そういうことなのだ。
 結局、大杉栄は、ある意味、自分を開いている、開くことができたことになる。人間関係を結ぶということは、自分を開かなければ、できないわけだが、どこかで無意識のうちに、自分で閉じることをしないと、関係性に身を置くことは大変になってくるから、自分を開いていくのは至難なことだといっていい。
大杉は、閉じてはいけないと自分に課しながら、ひたすら疾走したのだと思う。だから、わたしは、自分も開くし、関係性や共同性に対しても、絶対に閉じてはいけない、開いていくべきだという強い意志を持っていたことこそ、大杉の考えたアナキズムだといいたい。
 個というものを想起すれば、それは、多様性というものを認めていくことからしか、いわゆる関係性の変革は、成立しないことになる。しかし現実では、なかなかその多様性というものは認められずに、ある種の秩序化した様態へと組み入れられているといっていい。例えば、対抗的な運動というのは、往々にして、ひとつの考え方やスローガンに統一したいとか、収斂させようとする。この間の反原発運動もそうだが、反原発といっても、それぞれの人たちにとって、様々な視線とアプローチの仕方があるはずだから、反原発ということだけに、対抗目標を定めてしまうことの危うさを自覚すべきだと思う。
 だから、現在、迷路のような場所を彷徨しているかのような対抗的・反抗的渦動だが、もし大杉栄が放つ、簡潔で鮮烈な発言に触れることで、一筋の光明のようなものを、この先の通路に見出すことができるなら、『大杉栄全集』の刊行は、意味あることになるはずだと、わたしはいま思っている。

(『図書新聞』14.10.18号)


| | コメント (0)

2014年9月19日 (金)

勝田吉太郎 著『ドストエフスキー』(第三文明社刊・14.4.30)

 わたしにとって、勝田吉太郎は、四十年以上前のことになるが、当時(いまもだが)、最も関心を向けていた思想の所在への導き手であった。導き手といういい方は、やや誤解を与えそうなので、本書の巻末に付された著作目録にそって、具体的に述べてみれば、『アナーキスト』(66年刊)、共訳書として『世界の名著42 プルードン・バクーニン・クロポトキン』(67年刊)、『アナキズム叢書Ⅰ バクーニン』(70年刊)、その後の『人類の知的遺産49 バクーニン』(79年刊)は、わたしが、求めていた〈外〉の立場からの視線による貴重なテクストであった(〈内〉からの閉塞した思考をどう切開していくかということに難渋していたから、勝田の仕事は刺激的だった)。なによりも、当時、バクーニンの新訳(『バクーニン著作集』全六巻が刊行されたのは、73年である)に接することができたのは、ひとつの僥倖なる事件だったといっていい。『近代ロシヤ政治思想史』(61年刊)を最初の著作とする著者だからこそ、『ドストエフスキー』(元版は、68年刊、本書は新装改訂版)を著しながら、バクーニンに論及できていたのだと思う。
 ドスエフスキーに関する論考は数多くあり、様々な視線からのアプローチを可能とする世界的作家であることは、誰もが認めるはずだ。わたしは、この装いも新たに著された勝田吉太郎による“ドスエフスキー論”は、他に類するものがない異彩を放つドスエフスキー作品の思想世界を切開するものとなっていて、ドストエフスキーの思想性、文学性の深遠さにたいし、あらためて驚嘆せざるを得なかったといっておきたい。
 「ドストエフスキーは、たんに偉大な芸術家であるばかりか、偉大な思想家でもあり、また言葉のもっと深い意味で『ロシア最大の形而上学者』(略)と呼ぶことができ」ると捉える著者は、「本書において、私はドストエフスキーの思索を通して、(略)現代政治の思想と行動の提起する諸問題のみならず、(略)宗教哲学や倫理の根本問題、現代文明の基底にひそむ危機的状況の解剖や、(略)歴史・社会哲学にかかわる諸問題」を取り扱ったと述べている。そして、「人間とは何か――この問いこそは、ドストエフスキーが巨大な精神力を傾注して、あくことなく追求した問題である」としている。
 周知のように、フーリエ的な空想的社会主義に傾倒していた若きドストエフスキーが、逮捕、死刑宣告、皇帝の特赦によって四年のシベリア流刑を経験している。「シベリア流刑の絶望の日々のうちに、無神論に代る新しいもの――人間の生に意味を与え、生きる力を与えるようなものを渇望し、探求して、ついにそれを神への信仰を見出した」ことは、ある意味、思想的転向と見做していいし、その後の壮大な作品世界を創出していく起点になっていったと捉えていいはずだ。
 「人間とは何か」という問いは、そのまま信(宗教)の問題へ連結していく。そして、それは、勝田の言葉に
倣うならば、ロシヤ的特性あるいはロシヤ的心性の位相を切り離しては考えられないということになる。
 「無神論は情熱的な人間の許では、しばしば狂信的かつ戦闘的な形をとるのである。ベリンスキーがそうあった。バクーニンもそうであった。チェルヌィシェフスキーもレーニンも、そうであったのだ。そこには、ロシヤ的心性に特徴的な狂信的無神論がある。彼らの無神論は、西欧の無神論者がしばしばそうであったように、宗教的無関心から、心の冷淡さから発する不信ではなく、神への燃えるような憧憬がひそんでいる。」
 「信」は、絶えず「不信」との間で揺らぐものだというのが、わたしなりの宗教への接近の仕方だ。「狂信的無神論」が「神への燃えるような憧憬」を潜在させているというのは、バクーニンの指向性を想起してみれば、よくわかる。もう少し、踏み込んでいえばロシヤ特性とは、ナロード信仰(民衆信仰)のようなものを、内在させていると見做してもいい。
 「正教理念による全人類救済という宗教的理念は『カラマーゾフ兄弟』における僧パイーシイの口を通してもっとも純粋に披瀝されている。それは、国家権力がついに消え去り、そのあとに全人類的な愛の共同体が実現するというユートピアにほかならない。地上の国家を教会にまで高揚させること――これが聖ロシヤの全人類的使命でなければならない。(略)初期スラヴ派とドストエフスキーが理解したような、自由の宗教としての正教理念に由来する一種の宗教的アナーキズムのパトスが脈動しているのである。」
 「十九世紀のロシヤ・インテリゲンツィアの多くは、スラヴ派も西欧派も、七〇年代に『人民の中へ』はいっていったナロードニキも、多かれ少なかれ民衆崇拝を分かちもっていた。しかしこのことは、無神論的社会主義の立場に立った西欧派やナロードニキの場合よりも、敬虔なスラヴ派にとって、より大きな悲劇を意味した。(略)彼らが真実敬虔なキリスト教徒であったからこそ、かえってその民衆崇拝は、民衆に裏切られることによって悲劇性を増すのである。」
 わたしは、ロシヤ的なるものは、アジア的なるものと通底していると考えている。ロシヤは、そもそも西欧ではないのだ。スターリンの失政は、ロシヤの西欧化(社会主義を標榜した軍事大国化)を急激に推し進めていったことにある。明治期以降の日本にも、同じことがいえる。だから、ロシヤもアジアも、市民ではなく民衆とはなにかということが、最も切実な問題なのだと、本書を通読してわたしが、想起したことになる。

(『図書新聞』14.9.27号)


| | コメント (0)

2014年8月 9日 (土)

山田勇男 監督『シュトルム・ウント・ドランクッ』            (ワイズ出版配給・2013年制作)

 『蒸発旅日記』(03年)、『アンモナイトのささやきを聞いた』(92年)の山田勇男監督による待望久しい新作映画は、大正ギロチン社に集う若者たちを描く群像劇だ。わたしは、かつて古田大次郎や、和田久太郎、村木源次郎らに強い関心を抱いていた。秋山清の『ニヒルとテロル』という著書からの影響もあったが、当時の70年前後の対抗的な渦動のなかにあって、彼らの在り様に対し、心情的なものを仮託できたからだ。いわゆる大正ギロチン社事件(大正11年~13年)とは、中浜哲、古田たちがつくったギロチン社に、労働運動社から参加した村木、和田らを加え、大杉栄虐殺(大正12年9月)への報復も含めた、テロルによる思想行動によって生起した一連の出来事を指している。英国皇太子暗殺未遂計画、大杉虐殺実行犯の甘粕大尉の弟(当時中学生)への襲撃、陸軍大将福田雅太郎の狙撃未遂、福田邸へ小包爆弾送付も被害なし。資金源強奪のため銀行員を襲い(小阪事件)失敗する。様々なテロルと資金獲得のための掠活動を行ったギロチン社だが死者が出たのは小阪事件だけであった。小阪事件の実行者としての古田と、ギロチン社の中心的な存在だった中浜の二人が、死刑。村木は未決のまま病死。和田は無期懲役だったが、獄中で自死。
 山田版ギロチン社は、当然のことながら、そのような史実を踏襲するにしても、リアリズム映画を目指しているわけではない。例えば、かつて、『日本暗殺秘録』(69年・東映、監督・中島貞夫)という映画があり、古田を描出したエピソードも織り込んでいたが、わたしは、当時、熱狂的に見ていた東映任侠映画群と同じように共感し、娯楽大作として楽しんだといっていい。だからといって、作品からの感受が浅いということではない。わたしのなかでは、むしろ深い印象を受けながら、いまだに忘れられない作品のひとつとしてある。山田作品としては、異色作といっていい本作品は、『日本暗殺秘録』公開から、四十年以上経っているわけだから、同列に語るわけにはいかないが、それでも、現在の閉塞した情況の只中で、若い世代の人たちに共感の波を起こすことは、間違いないはずだと、わたしは確信している。
 「中浜『桜の季節も終りに近づいてきた。俺たちは既成の運動に限界を感じている。しかし、ひとつあるとすれば、それは国家秩序を解体し、個人の自由を束縛することのない世界を実現することだ』/古田『新たな結社の誕生ですね』/中浜『この世を首になった連中ばかりだ。ギロチン社という名はどうかな?』/古田『ギロチン社…』/中浜『洒落てるだろう?』/倉地『なんかワクワクします』/中浜『なぁ!』/古田『じゃあ、ギロチン社で決まりですね』」
 「この世を首になった連中」が、かたちづくる関係性とはなにか。それは、花札に興じたり、酒を飲んだりしながらも、けっして、後ろ向きではなく、一人一人が関係性のなかにあることを、切実に確認し合えることを示している。そして、わたしたちは、現在の突破できない様態に対し、すこしでも、切開していくためのものを、彼らの共同性の中に見出すことができるはずなのだ。
 わたしは、失敗したテロル、無計画性の運動といった否定的な見方から、彼らギロチン社の行動を捉えようとは思わない。むしろ、運動体の有様、つまり、共同性・関係性の動態というものから見通して、ギロチン社というものに共感したいのだ。だからこそ、山田勇男独特の映像美によって紡ぎ出される映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』という物語は、ポエジーを潜在させながら、夢幻のアナーキー的世界を描出していると見做すことができる。
 物語の時間は、松浦エミル(中村榮美子)と中浜哲(寺十吾)の二人の存在を軸として描出されるわけだが、煙草を吸うためにマッチを擦って火をつけるカットがしばしば挟まれる。行為としては、ただ、マッチの火をつけるだけなのだが、そこには、擬音や鮮烈な画像を重ねながら、鮮やかに、そして瞬時に、生の在り様を象徴するかのように、エミルの、中浜の存在表明として描かれていく。そういえば、山田の師、寺山修司の、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」を想起するのは、わたしだけではないはずだ。マッチの火とともに、作品中、印象深く描かれるのは、エミルが流す涙、悲しみを漂わせたエミルの横顔、湿地に佇むエミルの遠景での姿である。エミルの存在を、わたしたちは、夢のようでもあり、現実のようでもあると感受しながら、この疾風怒濤の物語のなかへ誘われていくことになる。物語の始まりと、後段において、「平成二十五年九月」とクレジットされる時制で、大杉、野枝とともに虐殺された橘宗一少年の生まれ変わりと思われる宗一じっちゃん(井村昂)とエミルとの飄々と応答する場面が挿入されている。
 「宗一『逆立ちしてもこの世はさかしま。あの世も同じってことか』/エミル『あの世も儚い…』」
 この応答は、生と死をめぐる時間と空間を象徴している。そもそも、エミルは存在しているのか、どうかというのは重要ではない。エミルは、夢と現実の狭間で、切実に生きて死んだ者たちへ鎮魂する存在としてあるといいたい。じつは、わたしたちもまた、夢と現実の狭間のなかに生きているのだ。だから、理想というものは、夢幻のなかにあるといっていい。だが、例えそうだとしても、それが、ひとつの膂力の源泉になっていくのだ。
 最後の「南天堂(大正期に創業した書店で、喫茶兼レストランもあり、アナキストたちが日々集まっていた)」のシーンは、圧巻だ。大杉栄・伊藤野枝追悼会として開かれる宴は、「ワルシャワ労働歌」が流れる喧噪溢れるアナーキーな場となっている。竹久夢二(つげ忠男)、村山知義(原マスミ)、林芙美子(白崎映美)、辻潤(宍戸幸司)、らが談論している。ギロチン社の面々が輪になって、楽しそうに踊っている。やがて、大杉栄(川瀬陽太)が逆光の画面に現われ、「みんな無事か?」と語りかけてくる。わたしは、そこで、率直に感応したといっていい。それは、エミルやギロチン社の面々にだけ語りかけているのではなく、映像を見ている、現在のわたしたちに、「無事か」、「生きているか」と語りかけているのだと、思う。その言葉を、切実に受けとめることで、わたしたちは彼らと間違いなく繋がっていくことになる。
 映画はエンドクレジットが終わり、次の言葉が黒い画面のなかに現われて、閉じていく。
 「瞼は黒いスクリーンである」(山田勇男)と。

※渋谷・ユーロスペースにて、8月16日(土)から22日(金)、19:30~本編上映、22:00~トークショー(8月17日、20日のみ、19:30~)。
※8/16 (土) 22:00〜・山田勇男監督、キャスト、スタッフ一同でご挨拶。寺十吾と監督のトーク有り。※8/17(日) 19:30〜・宇野亜喜良、黒色すみれ(ミュージシャン)、山田勇男監督。※8/18(月) 22:00〜・あがた森魚(ミュージシャン)、天野天街(少年王者舘主宰)、山田勇男監督。※8/19(火) 22:00〜・三角みづ紀(詩人)、藤口諒太(本編録音・整音担当)、山田勇男監督、「ギロチン社の遺した文学について、音とことばの夜」。※8/20(水)19:30〜・つげ忠男(漫画家)、原マスミ(ミュージシャン)、うらたじゅん(漫画家)、山田勇男監督、「漫画!漫画!山田漫画!の夜」。※8/21(木) 22:00〜・大熊ワタル(ミュージシャン)withジンタらムータ、イルコモンズ (現代美術家/文化人類学者)、山田勇男監督、「音楽の夜:生ライブANDトーク」。※8/22(金) 22:00〜・相澤虎之助(空族/脚本家)、野木萌葱(パラドックス定数/主宰・脚本)、川瀬陽太、司会:中村友紀(本編助監督/映画「素人の乱」監督)「アナキズムの愉快痛快な魅力について」。
※23日(土)から29日(金)、16:00~18:30本編上映のみ。上映時間:138分、配給:ワイズ出版

(『図書新聞』14.8.16号)

| | コメント (0)

2014年8月 1日 (金)

伊福部昭 述、小林 淳 編『伊福部昭語る―伊福部昭 映画音楽回顧録―』(ワイズ出版刊・14.5.31)、木部与巴仁 著『伊福部昭の音楽史』(春秋社刊・14.4.25)、片山杜秀・責任編集『KAWADE夢ムック 伊福部昭』河出書房新社刊・14.5.31)

 映画は総合芸術であると、しばしばいわれている。それは、画像や音声だけではなく、音楽を多用させることによって物語としての映像に深みや厚みを与え、観る側に、鮮烈な印象を植え付けるからだといっていい。
 伊福部昭(1914~2006)という名前は、いまでは多くの人が知る存在だといえる。伊福部が生み出した映画音楽は、あまりにも有名で、誰もが一度は耳にし、ついにはいつまでも、記憶の中に潜在し続けるといった事態になっているはずだ。いわずと知れた、映画『ゴジラ』(監督・本多猪四郎、1954年)で流れる音楽のことである。
 しかし、伊福部はそもそも、戦前期からの現代音楽の作曲家であり、47年から始めた映画音楽(『銀嶺の果て』、監督・谷口千吉)の仕事は、戦後直後の不安定な生活を支えるためのものであった。そして、多様多彩に数多くの映画作品(作品数は三百強、監督数は七十人を超える)を担当しながらも、現代音楽の作品も数多く残していることは、あまり知られていない。今年は、伊福部昭生誕百年ということで、関連本やCDが出され、たまたま時期が重なったのかはわからないが、ハリウッド版新作『GODZILLAゴジラ』(監督、ギャレス・エドワーズ)が公開され、伊福部昭への再評価の機運が高まっているといっていい。
 『伊福部昭語る』は、編者が、「一九九一(平成三)年から二〇〇四(平成十六)年にわたる期間」、「映画音楽にかかわる種々様々な話題についてインタビューしてきた内容を作品単位に、時系列に整えて再構成、集成したもの」だ。『銀嶺の果て』から、『ゴジラVSデストロイア』(監督・大河原孝夫、1995年)まで、上映時間、公開日、「スタッフ」、「キャスト」、「作品概要」、「音楽概要」そして、「伊福部昭・述」という構成になっていて、さながら、決定版・伊福部昭映画音楽事典といった趣になっている。編者・小林淳は次のように述べて、伊福部に対し、深い理解と共感を示している。
 「日本・アジアの風土、空気、民族性、伝統文化、大衆芸能といったものを伊福部は真摯に正面から見据え、己の土壌と融け合わせることを基盤とし、音楽を生み出してきた。」「映画とは映像で語り、音楽で語り、作劇術で語るもの――。この三種が合わさって一つのものを構築するのが、映画――。伊福部はそうした考えを持っていた。」(「序章」)
 北海道出身の伊福部が、アイヌ文化などに接する機会があったからこそ、例えば、『日本誕生』(監督・稲垣浩、1959年)に象徴させてみれば、「民族性、伝統文化、大衆芸能」を源泉としたアジア的な音楽性に満ち溢れたダイナミック作品を生み出すことができたと思うし、作品的な出会いをいえば、『コタンの口笛』(監督・成瀬巳喜男、1959年)を担当したのは、ある意味、必然だったといえる。ところで、本書のなかで伊福部が語る監督観、作品観が、実に興味深かった。二人の監督について語った箇所だけを引いてみる。
 「黒澤さんの映画だからでしょう。この映画(註・『静かなる決闘』1949年、脚本も黒澤明)に関しての質問をいろいろな方からたびたび受けます。(略)まず台本を読んだのですが、今一つ乗れなかったんですよ。ピンと来るものがなかった。(略)過酷な運命を自ら選択して思い悩む姿がどこか新派劇のようで、その深刻ぶりがちょっと共感できなかったんですね。鼻につく、というか。」「『炎の城』(註・1960年)というのは、シェイクスピアの『ハムレット』を翻案化した作品でした。監督の加藤泰さんともそのあたり、宗教色をどうしようか、なんて話し合った記憶があります。(略)加藤さんとは主人公の考え方、対処の仕方まで話し合いました。/加藤さんとの仕事はこの一本だけだったと思いますが、なかなか音楽に対する個性的な考えを持った方でした。」
 わたしのなかで、加藤泰と黒澤明の間には、映画作家として埋めようもない遠く離れた距離があると見做していたから、伊福部の見方に、全面的に首肯する思いだ。
 『伊福部昭の音楽史』は、伊福部昭の映画音楽以外の現代音楽(著者は純音楽としている)作品に焦点を当て、時間順に辿りながら作品構想、成立過程を詳細に記述し、同時に伊福部の発言・文章を適時に挟み、伊福部の時間性を重ねて、その“生き方”を浮き彫りにしている。なによりも、著者が伊福部の代表作と評している『シンフォニア・タプカーラ』(1955年、アメリカで初演)を二十五年かけて改訂し発表するという、その作家姿勢に、わたしは、率直に伊福部昭の真摯さと音楽的熱情を感じてしまう。「タプカーラ」とは、アイヌ語で、「立って踊る」という意味だそうだ。ここでも、アイヌ文化に象徴されるアジア的な民族芸能的なるものに拘泥する伊福部音楽を見通すことになる。
 「伊福部は抽象画家ではない、あくまで具象の画家だ。これは改訂版『タプカーラ』について触れることだが、伊福部は『ノスタルヂア』という言葉を使って曲を解説している。しかしそれは、淡くて温かく、柔らかくて優しい、そんな『ノスタルヂア』ではない。荒々しく筋肉質なものなのだ。」
 例えば、『タプカーラ』の第三楽章を聞くと、まさしく「立って踊る」といったイメージを喚起させてくれる。アイヌの人たちに触れて、「興がのると、喜びは、勿論、悲しい時でも、その心情の赴くまま、即興の詩を歌い延々と踊るのでした。/それは、今なお、感動を押え得ぬ思い出なのです」と語る伊福部の感性が、「ノスタルヂア」という言葉を発しながら、歓喜する生を希求しているといえなくもない。著者、木部はいう。
 「音楽を、人は何のために聴くのだろう。/そう問われた時、伊福部の音楽を身体によみがえらせながら思う。/それは生きるために、と。」
 『KAWADE夢ムック 伊福部昭』は、音楽家(大友良英、吉松隆他)やミュージシャン(あがた森魚)へのインタビューや文章の他、片山杜秀による伊福部への未発表インタビュー、伊福部の文章や鼎談・対談等を収録して、幅広い視点から伊福部昭の世界への入り口になっていると同時に、深く望見しうるテクストにもなっている。伊福部の甥(兄の息子)、伊福部達の文章に、3.11以後、頻繁に流れて認知されることになった緊急地震速報のチャイムの作成を依頼されたことに触れて述べている。
 「考えあぐねた結果、叔父が長い年月をかけて完成させた《シンフォニア・タプカーラ》の(略)第三楽章の冒頭をアレンジしてチャイムにすることにしたが、その部分には『急げ、でも慌てるな』というメッセージ性を感じたからである。」(「伊福部音楽の底に流れるもの」)
 あの時、核と原発を繋げて、チャイムは、『ゴジラ』の音楽をアレンジしたものだという噂が流れていたのだが、『タプカーラ』からだったことをこの一文で知り、さらには次の言葉に接し、あらためて伊福部音楽が持つ普遍性を理解することになったといっておきたい。
 「グローバリズムのような單一の価値観ではなく、夫々の異文化が互に理解と敬意をもって共存し得る時代の到来を希って止みません。」(『伊福部昭の音楽史』で引用されていた九十歳時の文章)

(『図書新聞』14.8.9号)

| | コメント (0)

2014年6月 7日 (土)

池内 郁 著『日本の祭りを追う』(西田書店刊・14.2.25)

 わたしは、かつて祭りというものに深い関心を抱いた時期がある。いささか、気恥ずかしい告白となってしまうが、「祭儀論」と題した論考を、『天皇制研究』(JCA出版刊、80.1~86.8)に連載していた頃のことだ。モチーフとしては、民間祭儀を通して、天皇家の祭儀(王権継承祭儀)を相対化し、無化させていく地平を析出することにあった。それは、同時に、それぞれの土地で暮らす人々の共同性にはらむ膂力といったことへ視線を馳せることでもあった。つまり、身近な神社での祭礼から、古来より引き継がれてきた伝統的な祭りまで、多様な民間の祭りには、わたしたちが生きていることの、あるいは生きていくことへの、潜在力があるということを意味していることになる。本書の著者は、「そこに暮らす人びとが先人から受け継いだ町の宝を大事に守っていく気持ちが伝わってくるのが」、祭りを撮ることの「醍醐味だ」と述べている。このようなイノセントな視線から、次のような言葉を紡ぎだしていく著者に、わたしは、素直に共感したいと思う。
 「これから日本の祭りがどのような道をたどるのだろうかと案じるが、土地の記憶があるかぎり祭りは存続することだろう。」(「後記」)
 「土地の記憶」とは、わたしなりの言葉にいい換えれば、「共同性」や「関係性」ということになる。未知の場所で祭りに接しても、すぐに、その空間の中に入ることができるのが、祭りというものなのだ。天皇家の祭儀のように、秘儀つまり閉じた祭りもあるが、祭りというものは、ほんらい、開かれたものなのだ。
 本書は、堅苦しい研究書のような体裁ではないし、かといって、観光ガイド的な平板なものでもない。和綴じ本のような装本によって、頁は開きやすく見やすい。そして、任意に頁を開けても、格式張っていない、親近感溢れるショットで写真が配置されている。さらにいえば、愛知県東栄町の「花祭」から、東京都練馬区の「関のボロ市」まで、98ヶ所の多彩な祭りが、著者による写真と的確な短文によって紹介されている。わたしが、秋田県の出身だから挙げるわけではないが、なかでも、秋田市の「三吉梵天祭」と、秋田県大館市の「大館神明社例祭」の子どもたちの表情が、実にいいのだ。この表情があるかぎり、「祭りは存続する」はずだといいたいと思う。

(『図書新聞』14.6.14号)

| | コメント (0)

2014年5月24日 (土)

太田昌国 著                            『【極私的】60年代追憶―精神のリレーのために』           (インパクト出版会刊・14.2.20)

 書名の副題に「精神のリレー」とある。この文字を見て、わたしが真っ先にイメージしたのは、埴谷雄高の講演「精神のリレーについて」(75.5)だった。この講演は『死霊』全五章刊行を記念することと、高橋和巳の追悼(71.5.3逝去)も兼ねて行われた講演会でなされたものである。埴谷は、ここで、「より深く考えること」と刻まれたバトンがリレーされることを希望して言葉を閉じている。リレーといえば、人と人との関係性(共同性)をともなった思考や体験の継承ということだけでなく、自分自身が、思考や体験をひとつの連続した繋がりとしてかたちづくっていくことも、「精神のリレー」と呼んでいいのではないだろうか。「60年代追憶」、あるいは「60年代再考」とも命名される本書は、著者の思考や体験を関係性のなかにあって、ひとつの連続した繋がりとして、振り返りながら、絶えず、現在という視線を手放さずに述懐したものだが、そこには、緩い回顧譚のようなものはない。緊密に、著者自身の思考の織りを見せてくれているのだ。
 わたしが、著者に関して抱いていたイメージは、松田政男や山口健二、太田竜(第8章では太田竜への追悼を込めた文章が収められている。わたしなどは、吉本に三バカトリオと罵倒された時より以前から、太田竜の大言壮語には、まったく関心を持たなかったが、それにしても彼の変節には驚いたものだった。著者の思いは、もっと複雑だったと窺い知れる)との繋がりで、例えば、『世界革命運動情報』の編集に関わっていたことや、ゲバラや第三世界の思想・運動に深くコミットしていたというものだ(近年、金王朝政権による拉致問題に対しても多くの発言をしていることも周知している)。だから、本書を通して、吉本隆明や埴谷雄高、三好十郎に強い共感を表明していることを初めて知り、著者に対する親近感が湧いてきたのは確かだ。
 「吉本の書物は、地図が体現しているような意味での『世界』への開眼を促すものではなかった。むしろ『井の中の蛙』でありたいというモチーフを内に秘める吉本は、日本が孕む問題の中に閉じこもり、あくまでもその坑道を掘り続けていく中で、〈世界〉に到達しているかに見えた。それもまた、青年期の私のこころを激しく突き動かすものであった。地図上に描きあらわされる『世界』を変革する第三世界の始動と、思想・文芸上の〈世界〉を激しく揺さぶる吉本の理論とは、私の内部で共存していた。」(「第9章 アフリカと吉本隆明―第三世界主義と自立思想」)
 ここで著者が、刮目していくのは、吉本の纏まった仕事(インタビュー本ではないという意味)としては、最後の代表著作ともいえる『アフリカ的段階について』である。この章を、著者は、「それにしても、60年代から四〇~五〇年が過ぎようとしているいま、少なくとも私の内部では、『アフリカ』と『吉本』が、不思議な再会をしている。これは、やはり、『僥倖』と呼ぶべきだろうか?」と結んでいる。著者の思いを、勝手にわたしが忖度するならば、幾らか方位は違うとしても、素直に、僥倖としいいのではないだろうか(確か、吉本は「南島論」を本格的に始めるにあたって、〈アフリカ的〉なるものを思考に組入れたはずだ。その限りでは、アフリカ的なるものも、吉本にとって、やはり「日本が孕む問題の中に」あるといえるようだ)。
 ほんとうは、本書に対して真っ先に取り上げるべきなのは、「第6章 権力を求めない社会革命―アナキズムが問うもの」で記述していく著者の立ち位置のことだ。「『60年代を再考』するに当って、私はアナキズムに、現実不相応の、不当なまでの重要性を付与しているのではないだろうか? その自問が湧き起こってくる」と述べているが、著者が、本書の中に度々、そしてこの章のなかにも取りあげている現在進行形の運動、共同性の有様を示している「『国家権力の獲得』を目的としない社会変革」を主張するサパティスタ(94年、メキシコのチアパス州で武装蜂起した民族解放軍のこと。軍と称しているが、国軍を目指しているわけではない。ゲリラ組織や運動体といった方が的確かもしれない)を高く評価していることに、「60年代」から、現在へと繋げていく通路として、わたしは、注目せざるをえない。
 「協調形態社会とは、産み育て、創造する自然の力の象徴である『聖杯』に最高の価値が与えられ、支配者形態社会とは逆の価値観に貫かれている社会である。(略)私たちは、協調形態社会に関する歴史的知見とサパティスタの具体的な実践に対する共感を通して、歴代のアナキストたちの試行錯誤の過程を豊富化することで、(略)正統派マルクス主義の権力観を克服する端緒を掴みつつあるということができよう。」
 いわば、著者の思い描く「精神のリレー」は、ここで最も濃密に語られているといっていいと思う。

(『図書新聞』14.5.31号)

| | コメント (0)

2014年4月12日 (土)

藤田晴央 著『夕 顔』(思潮社刊・14.11.14)

 著者、七冊目の最新詩集は、哀しい物語を湛えたものとなった。前詩集『ひとつのりんご』(06年刊)は、妻の画家・野原萌との共作詩集といっていいものだっただけに、妻を送った本詩集は、一枚の扉絵があるだけで、いやおうなく、さびしさが横たわっていると感じないわけにはいかない。
 だが、ふたりの濃密な関係性は、詩語のいたるところに潜在している。哀しさもさびしさも、それは、関係性が濃密だったことの、証しなのだ。
 「たえまなく/さらさらとうたう/たけばやしにかこまれた/ちいさないえで/わたしたちは/あたらしいせいかつをはじめた/(略)/ひとりのおとこと/ひとりのおんなの/たびのはじまりだった/どちらかが/いつかしぬなんてこと/ほんきにはかんがえていなかった/ひとときもたえることのない/たけさざのなみのおとが/ふたりと/おなかのちいさないのちの/はてることのない/あしたであった」(「竹林」)
 誰もが、自分や近親の人たちに、いずれ死というものが訪れることを知っている。だからといって、そのことを絶えず、想起するわけではないし、「ほんきにはかんがえていな」いものなのだ。ましてや、関係性の「はじまり」において、どちらかの「死」によって、その関係性の「おわり」をイメージすることはできるはずがない。むろん、それは、「たび」の途上であっても同じことだ。「たけさざ」が「なみのおと」になって二人の関係性へとふりそそぐとき、たえず、関係性というものは、「あした」であり続けている。
 一時退院のひと時の安穏、その一篇。
 「木戸を入ってすぐに/しゃがんだ妻が/庭の土に手のひらをあてた/『あったかい』/わたしもあててみる/あたたかい/病室では/触れることのできないものたち/妻はまずはじめに/土を選んだ」(「土」)
 「土」に「手のひらをあて」ることは、「生きている」ことを確かめることだ。そして「土」を、「あたたかい」と感じること、そのことに、わたしは、率直に感嘆する。草花が、わたしたちを慰藉してくれるためには、そこに「土」があるからだという、当たり前の感受を忘れがちになる。「土」が、「あたたかい」からこそ、そこに命ある草花があるのだ。まるで、わたしたちが希求すべき豊饒な関係性を象徴するかのように。
 「おまえは/黄昏の庭先にすわっている/わたしの帰りを待っていたのか/残された陽射しあるひとときに/花を愛でたいからなのか/植栽用の小さな椅子にすわり/ぼんやり花たちを眺めている/そうしているとおまえ自身が/まるで夕顔ようだ/たそかれに/ほのぼの見つる花の夕顔」(「夜顔」)
 「緊急入院のあと/苦しくつらい日々/なにも食べられず/嘔吐をくりかえす/瀕死の白鳥がここにいる//おまえの絶望/おまえの苦しみ/弱りゆく気力/翼を撫ぜると/冷たい と/驚いた様子//病の白鳥が/ふたたび舞い立つ日を夢見て/閉じた翼を/そっと撫ぜる」(「白鳥」)
 「時の流れは/海のようだ/(略)/結ばれたその日から/ここまでつづく/寄り添うふたつの水脈/(略)/おまえのいのちが消えることは/太陽が沈むこと/海に雪が降りつづけること」(「海」)
 哀しい物語は、「夕顔」から、「白鳥」へ、そして「海」へと連結していく。だが、わたしは、藤田晴央の静謐で繊細な詩語に誘われながら、そこに、「おわり」ではなく、あらたな記憶の「はじまり」を見たい気がする。
 「たそかれ」の「花の夕顔」は、「瀕死の白鳥」となって、「ふたたび舞い立つ日を夢見」る。そして、「おまえのいのちが消えること」はあったとしても、「ふたつの水脈」は消えることなく、「雪が降りつづける」、「海」へと流れていく。「たけさざ」の「なみのおと」が、「ふたつの水脈」のはじまりならば、やがて、「海」のなかへと「おと」は、いつまでも、二人の関係性を漂わせていくといいたい気がする。あたたかい「土」が、雪が降りつづける「海」が、あるかぎり。
 著者の妻・野原萌こと雪乃さんは、12年11月14日に逝去。享年五七だった。
 なお、本詩集が、本年度、三好達治賞(大阪市主催)を受賞したことを、最後に付しておきたい。

(『図書新聞』14.4.19号)

| | コメント (0)

2014年3月29日 (土)

上野延代遺稿集『蒲公英――百一歳 叛骨の生涯』         (上野延代遺稿集刊行会刊・13.12.15)

 本書は、上野延代(1911~2012)にとって初めての著作集でもある。遺稿集刊行の経緯は、刊行会のメンバーの一人、沼知義孝によれば、次のようになる。「偲ぶ会」を開くために、「『資料』の提供を申し出」たところ、家族から、「『要保存「蒲公英メモ」』の封筒に入った冊子や原稿、写真の数々」を借りることになった。「集会で会う上野さんは、端然と席をしめ、自己紹介などを求められると、『上野です』以外は語らない。長々と所属団体や『闘い』を縷々披歴する発言者の口舌に憤然としている風であった」から、「蒲公英メモ」は、上野のそのような「想いを書きとめ、残されていた」と考え、遺稿集を編むことになったようだ。ちなみに蒲公英は、上野が「好んで使ったペンネームの一つであ」る。全六章で構成され、最終章は、句篇となっている。そういえば、上野延代の夫・上野克巳(1905~54)は、大正期、中浜哲、古田大次郎らのギロチン社に参加して活動していたのだが、労働運動社から村木源次郎とともに合流した和田久太郎も、俳人であったのは、ひとつの機縁といっていいかもしれない。上野は戦後、夫・克巳とともに、地元、板橋区で地域紙「板橋新聞」(後、「民友新報」)を49年ごろまで発行していたという。その後のことを簡略化して記してみれば、「50年以降、(略)日本アナキストクラブに参画。(略)その柔軟で実践的な姿勢は組織的対立関係に左右されることなく、秋山清らとも交流。戦後一貫して同志たちの救援活動に携わり、皇居発煙筒事件、べ反委、背叛社事件、全共闘、黒ヘル、東アジア反日武装戦線など、アナキズム戦線に限らず死刑廃止運動や一般刑事犯の救援まで幅広く行う」(松本勲「上野延代」―『日本アナキズム運動人名事典』・ぱる出版04年刊)となる。
 上野の、遺稿集に収められた文章群を読めば、自分の立ち位置というものを揺るぎのないものとして、確信し続けてきたことが、よくわかる。なによりも、「柔軟で実践的な姿勢」によって「組織的対立関係に左右されること」のない関係性を持つことができたのは、立ち位置を見失うことなく、日々の生活を持続してきたからだといっていいはずだ。野田房嗣は「あとがき」で、「上野さんは、抵抗しても無駄かもしれないと知りながら、しかし絶え間なく異議の声を挙げ続けること、その困苦を、あの微笑みとともに緩やかにそして穏やかに遂行されていた。彼女は、思想が試される場所、つまり『自分の確信』という場所に、愚直に、敢然と立ち続けていた」と述べているが、まさしく、そのことが「叛骨の生涯」ということになるだろう。
 「(略)アナーキズムは特別の人種の特別の思想ではなく、吾々日常の生活の上に知らず知らず実行している平凡で普遍的な行為と思考なのだ、流行しようがしまいがアナーキズムは死に絶えるような思想ではない。」「(略)故郷の山にごぶさたをしている間に山はすっかり変貌していました。緑の斜面がいたいたしいまでに削りとられてコンクリートの小型ダムが塞いでいます。なん十年、なん百年、人の手によって保護されてきた谷がたった一度の出水で同じ人の手で壊されてしまったのです。」「(略)上下身分の差別意識、部落者に対する荒唐妄誕の人間比較論が尊皇討幕派に根強くはびこっていたことは人間解放の夜明けと期待された明治の〝革命〟に何をプラスしたか。多くの血を流しながら斃れていった人々の夢見た理想と勤皇復古の奴隷意識でしかあり得なかったという、かなしい事実はそのまま敗戦後の日本の現在に引き継がれて、先進国家を自称するこの国の厳として否定し得ない後進性を物語っている。」
 「日常の生活の上に知らず知らず実行している平凡で普遍的な行為と思考」という考え方、「人の手によって保護されてきた谷が」、「同じ人の手で壊され」たという捉え方、明治近代天皇制と、戦後の現在を通底させていく認識の仕方、それぞれは、まぎれもなく上野の立ち位置を象徴していると思う。だが、なによりも、「柔軟で実践的な姿勢」を表しているのは、俳句表現にあるといえるはずだ。任意に挙げてみる。
 「生きてると光りかがやく春の水」「どの路地をぬけてもさむき日本海」「白息の波打つ闇のふかさかな」「月のもと首都は巨大な墓石群」「老残の身は天外に朴の花」「凍土にも日のあるかぎり虹が屹つ」「百歳に冬が追い打ちかけてくる」「わが思念中空に雪涌くごとく」
 どれも、自らの感性を発露として、率直に表出する、詩性を湛えた句作品だ。そして、それは、間違いなく、上野延代という一人の存在の有様をわたしたちに放出している。加藤典洋は、「はじめに」で、「この本は上野さんの海に浮かぶ一つのブイと似てい」ると記しているが、もう少し、踏みこんでいえば、上野さんという人そのものが、わたしたちの関係性を織り成すブイだったといってもいいのではないだろうか。

(『図書新聞』14.4.5号)

| | コメント (0)

2014年3月15日 (土)

つげ忠男 著『出会ってみたい人』(ワイズ出版刊・14.1.25)

 つげ忠男、三年ぶりの作品集である。ただし、本集に収録されている作品「曼陀羅華綺譚」は、前著『曼陀羅華綺譚』(北冬書房刊・11.4)からの再掲載ということになる。漫画作品は、他に「女ご衆漁」(書き下ろし)、「変転」(初出『幻燈 13』・13.6)。書名とした「出会ってみたい人」は、「思想の科学」76年1月号から12月号まで連載されたもので、人物画に短めの文章が見開きで配されていて十二点の画集のような趣きになっている。そして、絵本「バルトークの生涯」(初出「おんがくのほん」74年7月号)と題した、高橋英郎の文との合作というかたちの作品が最後に収められている。
 先日、繊細かつ独自のアグレッシヴな演奏で魅了し続けている橋口瑞恵というヴァイオリニストのライブでバルトークの「ヴァイオリンのための無伴奏ソナタ」(最晩年の作品)を聴いた。圧巻の演奏だった。演奏前にMCのようなものを入れるのが彼女のライブの特色で、バルトークについての語りもじつに良かった。アメリカ亡命後の悲惨な生活、自らの故郷の土地の音楽(民謡)への憧憬といったことを、その時、知ったことになる。前衛的で難解な音楽を紡ぎ出した音楽家というイメージだったバルトークが、なにか暗い道筋にその生を過ごしていたとは、意外な思いをしたといっていい。高橋英郎とつげ忠男の「バルトークの生涯」には、つげ忠男の陰影深い描出と、高松のたんたんとした筆致が共鳴して、メロディーを奏でているかのように、バルトークの孤絶感を表象している。特に農民たちの歌う佇まいがいい。
 「出会ってみたい人」は、七十年代のつげ忠男作品に繋がる人物たちが活写されている。
 「『なにもかも一体どうなってんだよオ 冗談じゃないぜ、まったく』と、雨の中で呟いているヤクザ」「『戦争? カッコイイようォ…… 軍隊ってところは本当に楽しかったねえ』などと、安酒場の片隅で吠えている特攻隊生き残りの本格派アウトロー。」「気紛れに人をなぐり、やりたければ犯し、そんな風に土地から土地を渡り歩く初老の男。」「毎日 やはり 浜へ 出るしかない 盲目の漁師。」「いつ自分がそうなり 何年過ぎたのか 思いかえしてみる事もなく、小さなアパートの部屋でただ ひっそりとすごす女性(ひと)。ブルーフィルムの中でのみ、活き活きと見える女性(ひと)。」「結局、本当はどうでも良いのだ と、そんな感じで 終わっちまえ!」
 つげ忠男は、「あとがき」で、この「出会ってみたい人」について、「迫力はある」、「今の自分が失ってしまったものが見える」と述べている。確かに、短文と画像の間を横断する作者の息遣いのようなものは、先鋭的に感じられる。だが、本集に収められている漫画作品三作との時間の幅は、三十年以上あるのだ。しかも、この間、つげ自身にとって、「体調不良」という大きな障壁のなかでの、途切れることのない表現行為を考えてみれば、同じように「迫力ある」描像を表出することは、至難であることは、わたしたちも理解しているつもりだ。
 初出時、「変転」という作品に、少なからず戸惑いを覚えたのだが、イノセントに「漁師になりたい」という願望(それは、「体調不良」であることからくる「変身願望」といえなくもない)を込めたものだと捉えれば、やや断絶感を持ってしまった物語であっても、それが、つげ忠男の現在なのだというべきかもしれない。
 「曼陀羅華綺譚」は、男女三人の出会いと邂逅を通して、「性」と「死」が、遊戯的感性のようなものを漂わせながら、浮遊していく物語だ。いうなれば、この遊戯感や浮遊感といったものが、つげ忠男を支えている膂力のような気がする。最新作「女ご衆漁」は、そう意味でいえば、土俗的(あるいは秘儀的といってもいい)なモチーフを、敢えて「明るく」変容させて描出させながら、作品に内在する混沌とした共同性を浮揚させて、感動的であると、わたしはいいたいと思う。
 三作品に共通するものは、「魚釣り」ということになるが、大作『舟に棲む』があるように、つげ忠男と釣りは、ひとつの「生」の証しでもある。「出会ってみたい人」には、「盲目の漁師」の他に、もう一人、漁師が登場する。極太い指をした手を活写した画像に、「ある日、突然に 海を捨ててしまった漁師」と付されている。手は、まさしく「迫力ある」イメージをわたしたちに喚起する。そして、その手は、漁師の手であるとともに、漁師になりたくてもなれない漫画作家の手でもあるのかもしれない。

(『図書新聞』14.3.22号)

| | コメント (0)