2007年11月16日 (金)

コリン・クラウチ 著 山口二郎 監修・近藤隆文 訳『ポスト・デモクラシー[格差拡大の政策を生む政治構造]』(青灯社刊・07.3.30)

 九〇年代初頭の社会主義政権国家群解体以後、デモクラシー(とりあえずは、民主主義という従来の訳語を同義として援用していく)は、格好のキーワードにせり上がっていったといっていいはずだ。多くの社会主義国家は一党独裁政権であるから、確かに議会主義制度においては〈民主的〉ではない。だからといって施策が、〈民主的〉でなかったかといえば、必ずしもそうとはいい切れないものがある。だが、欧米の施政者たちやそれに追随するメディアはいっせいに社会主義政権が崩壊して〈民主化〉に向かったと喧伝していった(もちろん、わが国の施政者・メディアは、そのままの文言を表明しているに過ぎない)。であるとしても、民主主義社会=資本主義社会であるという絶対的な定立の根拠にはならないのだ。
 「米国の政治学者たち(略)は民主主義を定義する際、米国と英国の実態に一致させることを目指し、この二カ国の政策の欠点を一切認めまいとした(略)。それは科学的分析というより冷戦期のイデオロギーだった。同様のアプローチが現代の思潮を支配している。やはり米国の影響で、民主主義は自由民主主義として定義されることが増えているのだ。」(10P)
 本書の著者が指摘している通り、傍点を付さなければならないほどに、“自由”という概念の含みはそもそも曖昧なものだ。わが国の例でいえば、構造改革と称して、規制緩和、民営化、自由競争といった施策は、国民のためだと掛け声だけは威勢よく発しているだけで、民衆の生活や自存には関係なく、本書の著者に倣って括れば、企業エリートと少数の政治エリートが跋扈する資本主義体制を肥大化していくための環境づくりにあるといっていい。その結果、招来したのは、格差拡大という、平等性をその理念としているはずの民主主義とは相反する事態となっている。そういう事態を指して、著者は、“ポスト・デモクラシー”と述べているわけだが、哲学・思想的な領域に敷衍すれば、通常、ポスト・モダン、あるいはポスト・構造主義といったいい方には、その後の新たな展開への期待感のようなものが含まれるが、ここでの、“その後”は、極めて危機感を内在しているものとなっている。
 著者は、イギリスの経済社会学者であるが、イタリアのフィレンツェで研究に従事していた頃に本書を執筆したという。だから、本書ではイギリスはもとよりイタリアの現況がその中心モチーフとなっている。それゆえどうしても、デモクラシーに基づく政治・経済構造に対する微妙な視線の差異(例えば日本でいうところの第三セクターに近似しているが、しかし、それとはかなり位相が違う公共サービスの外部委託ということを著者は、新自由主義の顕著な政策として俎上に乗せている)は、散見される。それでもなお、本書が、わたしたちに啓発してくれるものを内包しているのは、次のような論述があるからだ。
 「民主主義が繁栄するのは、一般大衆が議論や自治組織を通じて公共的生活の方針決定に能動的に参加する機会が豊富にあり、その機会を能動的に活かすときである。単に世論調査の受動的な回答者であるのではなく、国民の大多数が真剣な政治論争や政策課題の形成に活発に参加したり、豊かな知識をもって政治の出来事や争点を追いかけたりするのを期待することは、たしかに高望みかもしれない。それは理想のモデルであり、完全に達成されることはまずないとしても、あらゆる実現不可能な理想と同様、ひとつの指標にはなる。」(9P)
 そして、大量消費社会の展開とともに、グローバル企業の席巻が、ポスト・デモクラシーの中心軸になっていることを警告しながら、尖鋭に、「結び」の言説を述べている。
 「新しい反グローバリゼーション運動につきまとう破壊的で否定的というイメージの裏には、じつに多くの建設的革新的な理念やグループがある。それらにとって関心があるのは暴力や経済上の変化への抵抗ではなく、新しい形態の民主主義と第三世界の人々を搾取しない形態の国際主義を真剣に追及することだ。こうした運動は“反グローバル”というより、きわめて鋭敏な慧眼の士の言葉を借りて、“ニュー・グローバル”と呼ぶべきだろう(略)。」(177P)
 著者は重ねて、「EU自体は、とても民主主義の立派な手本とは言いがたい」(162P)と断じながら、新自由主義からの脱却を模索している。市民生活、市場経済が、どう現実政治へとアクセスされていくのかということを、著者は様々に分析していきながら、ポスト・〈ポスト・デモクラシー〉へと、その方位を措定していこうと考えているといっていい。著者が触れていないことで、一点だけ、わたしが付言することがあれば、「国民の大多数が真剣な政治論争や政策課題の形成に活発に参加」することの基底的な場所に関してである。施政者は確かに、“民主的手続”で選ばれる。だが、その施政者が、民意に反した行為をした時、実際的なNOとはいえないのが、大方の民主主義政治の制度となっている。しかし、これは逆倒した陥穽だ。いつでも、民衆によって選ばれた施政者は、民衆によってリコールされるという仕組みでなければ、理想の民主主義政治の執行(権力の集中と政治の悪化に対する阻止)とはならないということも、「ひとつの指標」に加えるべきだと、わたしは思う。

(『図書新聞』07.11.24号)

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2007年11月 2日 (金)

英国王立国際問題研究所 著・坂井達朗 訳『敗北しつつある大日本帝国―日本敗戦7ヵ月前の英国王立研究所報告―』(刀水書房刊・07.6.14)

 アジア太平洋戦争が終結(日本の敗戦)して、六〇年以上の時間が経過した。長い時間の経過というものは、確かに記憶や事実への認識を空白化していくものだ。そして、いつしか惨めな記憶は濾過されて、記憶と事実の積み重ねというべき相対としての歴史性を、恣意的な歴史〈観〉で改竄していこうとする勢力が露出してくることになる。直近のことでいえば、“戦後レジームからの脱却”を声だかに謳いながら、民意を得られず散っていった戦後生まれの首相を例に出すまでもなく、
占領下で制定された憲法の見直しをするという考え方がそうである。また、それに先立つことでいえば、いわゆる教科書問題で、日本のアジアへの侵略戦争だったという捉え方に対して自虐史観だといい募り、戦争遂行の正当化を腐心するといったことがなされていく。
 現在の憲法九条をめぐる喧しい言説には、様々な問題が沈潜してある。改憲論者の主意は、連合国側による押し付け憲法であるから、いまこそ自主憲法を制定すべきだということであり、いわゆる護憲勢力は、敗戦によって獲得した貴重な平和憲法であるからこそ、これを護り抜くことに意義があるのだということになる。だが、わたしの考えは、そうではない。ただただ率直に、九条に込められた言説は、究極の理想を追求したものであって、例え、現実に立脚していないと批判にさらされようとも、これを否定する論拠はどこにもないというものだ。そして、この理想を、ひたすら実践していく方途を模索する以外、現在を見通すことはできないといっていい。おそらく、米日のリベラリストたちは、その時点で二度と戦争を惹起させないために、理想の非戦理念を構想したものと思われる。連合国側(米・英・仏・ソ連・中国)にとって、後に東西冷戦情況が急速に到来することになるとは、想定していなかったはずだ。ドイツの東西分立、大陸中国に共産党政権樹立、朝鮮戦争の勃発といったことなどが、やがて、理想の種子を摘み取っていくことになる。さて、こうしたことを踏まえながら本書に、立ち入ってみれば、実に鋭利な言説が散在してあり、現在の帝国アメリカを中心とした欧米的グローバリズムの深奥を鏡のように照らし出す格好のテクストとなっている。
 本書は、「日本の敗戦を目前にして、その結果起こるであろう日本内外の情勢を予見し、連合軍側の各国がそれに対してどのように臨むべきかを考えたもの」で、「一九四五年一月、アメリカ(略)で開かれた太平洋問題調査会の第九回国際会議にイギリスの王立国際問題研究所が提出した報告書」(「訳者あとがき」)の初めての全文翻訳である(ただし第一章のみは既に、資料日本占領一『天皇制』―一九九〇年刊に翻訳所収されている)。そういう意味でも、近代史資料として貴重なものだといっていい。イギリス王立のシンクタンクということを考えれば、イギリスに共感を持っている日本の皇室に対して、いささか理解ある視線は隠しようがないとしても、かなり詳細にわたってしかも、なかなかの深度をもって帝国日本の基層を分析している。全体を十四章に分け、「第一章 皇室と憲法」、「第二章 軍隊」、「第六章 外国に対する態度」、「第七章 宗教」、「第八章 教育が日本人に性格を与えた影響」、「第一三章 農民の重要性」などの章立てを見ても、その分析は多岐多様にわたっていて、厳密な正確性を問わなければ実に刺激に満ちている。「西暦六世紀、信頼するにたる歴史が存在するようになって以降、短い期間を除いて、日本の天皇が世俗的権威を有効に行使したことがあったかどうか疑わしい」という書き出しから始まる「第一章 皇室と憲法」は日本の天皇制を精緻に解析している見事な論述だといっていい。
 「天皇の神聖性についての神話を、信仰原理として日本人の心の中に確立しようとする運動は、維新以来熱心に行われてきており、その勢いは満州事変以後急速に高まり、それに伴って神官としての天皇の機能が強調されるようになった。」(20P)
 「最高の神官としての天皇」という捉え方は、軍部権力が「陸海軍の最高司令官」という天皇大権を「一般国民の想像の中にある軍隊の威信を高めるために編み出された、一つの政治的工夫である」(41P)という視線に繋がっていく。戦後、象徴天皇制として温存されたわが国の天皇制なるものは、既に敗北間近な情勢の中で、連合国側に見事に解析つくされていたというべきかもしれない。「日本の歴史には、突出した能力を示した天皇はほとんどいない。天皇に代わって他の人間が支配したのである。天皇の身体を操った者が、すべての権威を行使したのである」(72P)と論述していく本書の主調音は、君主制をともなった民主主義政府というイメージを既に戦後の日本に仮託していることがわかってくる。
 ところでわたしが、本書のなかで最も注視したことは、日本人が西欧的個の確立ができず、ひたすら集団性に依存するしかないという点を負性として分析していることだ。
 「日本人が一人の人間として生み出すものはほとんどない。しかし、二人ないし三人の日本人からは、より多くのものが生まれる。この『集団志向性』(それは個人としての責任を逃れようとする国民的感情と結びついているのだが)は、おそらく日本人に特徴的な、組織を作る能力の基礎であろう。」(71P)
 これは、一見、的を射た言説に見えるかもしれない。だが、あきらかにアジアと西欧の共同的社会の成り立ちを混同していることからくることの偏見でしかない。また一方では、「キリスト教徒がもっている国際的な視野は、日本にとって有用である」(115P)とか、「キリスト教はこの国民にとって大きな影響力となり、新しい世界観を生み出すだろう」(223P)などと縷々述べていく。このような捉え方、考え方は、「十九世紀の西欧資本主義社会の興隆期に、ルソーやヘーゲル、マルクスによってかんがえられた、西欧近代社会を第一社会とし、これに接するアジア地域の社会を第二社会とし、アフリカ大陸や南北アメリカ大陸やその他の未明の社会を旧世界として世界史の外におく史観」(吉本隆明『アフリカ的段階について』)に貫かれたものだといいたくなる。現況のグローバリズムというのは欧米社会(キリスト教社会)を中心とした世界という枠組みといった意味でしかないことを思えば、日本や中国がアジアの大国だといっても、所詮、第二社会でしかないという高見からの視線を曝け出しているだけなのだ。いまだに〈戦場〉は、キリスト教から見て後進性で野蛮な宗教と見做されているイスラム教社会でもある〈西〉アジアであることを見過ごしてはならない。

(『図書新聞』07.11.10号)

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2007年10月12日 (金)

朴  一 著『朝鮮半島を見る眼―「親日と反日」「親米と反米」の構図』(藤原書店刊・05.11.30)

 在日韓国人三世の著者による朝鮮半島をめぐる時評集(対談含む)である。1997年から2005年までのほぼ八年間にわたる、月刊誌「論座」に発表された論考を中心に纏められたものだ。わたし(たち)は、朝鮮半島の歴史や政治的情況、あるいは文化の有り様をどんな偏見もなく捉えることができるだろうか。偏見といえば、やや衒ったいい方かもしれない。明確な視線をもって、わたしたちが立っている場所と等価に相対化できるだろうかといいかえてもよい。どんなに、わが国による戦前の理不尽な朝鮮半島統治による圧制と差別の時間を精緻に遡及し、理念的に解体していく考えをもったとしても、どこかでアメリカやヨーロッパ、あるいは中国でもいいが、それらの国家群へ向ける視線と比重の差異を発生させているのではないかと思われる。わたし(たち)が立っている場所とは、まぎれもなく、日本国(あるいは日本人)という場所である以上、朝鮮半島をめぐる言説においては、微妙な空隙を埋めることを困難にしているといってもいいだろう。例えば、靖国問題や歴史教科書問題は、小泉参拝や扶桑社版を良しとしないと思っていても、なぜ、これほどまでに、韓国(民)は執拗に抗議し続けなければならないのかといった戸惑いを抑えることができないはずだ。
 それは、加害者・被害者といった二項対立の図式では、裁断できないことなのだといっていい。
 日本は、ふたつの核爆弾によって、致命的敗戦を迎えながら、皮肉にも朝鮮戦争特需といったことなどが契機となって、加速度的に戦後復興を遂げて、アジア最大の経済大国になっていった。一方、日本からの解放も束の間、悲劇的な朝鮮戦争によって国を分断され、長年にわたって戒厳令下にあって、様々な軋轢のなかにあった韓国は、ソウル・オリンピックを契機に、ようやく資本主義経済システムの高揚期へと向かって行くことになる。この遅延が、韓国(民)側からいえば、戦前からの時間性は切り離すことのできないものとして残存し、日本国(民)側にとっては、敗戦時の数年間は、記憶の沈殿となって、逆の意味で、戦前からの連続した意識(欧米に対する劣等意識の裏返しでしかない、アジアに対する蔑視感)を払拭することなく、むしろ肥大化させている。
 戦後六十年、経過したわけだが、大半は世代的には戦争責任というものはない。だが、日本国政府というものは、構成メンバーは変わったとしても、政府というシステムは連続的なものなのだ。その限りでは、日韓条約が象徴するように、国家賠償としてクリアに戦後処理をしてこなかった日本国政府に対して戦後責任を問い続けなければならない。韓国・北朝鮮、アジアの人々からはもちろんのこと、これが一番重要なことなのだが、わたしたちからもだ(特に、九条問題がそうだ)。
 本書を通読して、すくなくとも、このような立ち位置を確認したうえで朝鮮半島へ視線を向けなれば、なにも見えてこないということを教えられたような気がする。
 「韓国語の『チニルパ親日派』は、日本語の『親日家』とは異なり『日本の朝鮮支配に協力した人物やグループ』を指す言葉である。『植民地時代の朝鮮人官僚、警察官、それに日本人の庇護のもとで冨を築いた朝鮮人地主、企業経営者』、(略)など、当時の『対日協力者』を韓国人は『親日派』と呼ぶのである。」(137P)
 このような視点のもと、2004年に韓国国会で「親日真相究明法」というものが可決されたという。著者は、「『民族の裏切り者』のレッテルをはり、彼らを処罰しようとするものではない。」と述べながら、この法律の真意を姜萬吉の「国民が負の歴史を自ら省み、過ちがどこにあったのか学ぶ」ところにあるという一文を引きながら、「韓国人にとって『親日』は民族の歴史を取り戻すために、どうしても越えなければならない歴史の壁なの」だと記す(145~146P)。
 また、植民地期と解放後の経済構造(特に工業化―資本主義化において)の対比に関しても、詳述している。わたしたちは、戦前期の日本統治がなんらかの経済的基盤を作ったと思いたいはずだ。だが、韓国では、当然ながら、解放後によるものだということが主流を占めていた。著者はいう。
 「韓国社会の解放後の経済復興や経済開発は、植民地権力との連続性を抜きにして語ることはできないと思われる。」(38~39P)
 もちろん、このことは、「解放後も『親米派』として残存した『親日派』の功罪」に関してであって、わたしたちは、けっして溜飲を下げるような愚行をしてはならい。
 さて、著者に導かれるように半島へ眼を向けていくことは、同時にわが国政府権力に対して、厳しい視線をあてていくことにほかならない。
 「日本がアジア諸国に向けて『過去を反省する』と言いながら、一方で『過去を正当化する』歴史教科書を公認するというダブル・スタンダードの姿勢をとっていては、どこの国からも信用されないだろう。」(112P)
 「『拉致問題の解決が先か、それとも強制連行への保障が先か』という平行線の議論から抜け出すためには、両国とも加害者としての事実を重く受けとめ、謝罪と保障の対象が被害を受けた国ではなく、被害者個人に向けられるべきことを強く意識する必要がある。」(236P)
 後段の、「謝罪と保障の対象が被害を受けた国ではなく、被害者個人に向けられるべき」だということに、まったく、異存はない。国家(政府)は、いつでも、個々人に対する負債をおっているものなのだ。
 「国家」が開いていかない限り、個々人は、いつも犠牲を強いられることになる。

(『図書新聞』07.10.20号)

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2007年9月28日 (金)

石渡博明 著『安藤昌益の世界―独創的思想はいかに生まれたか』(草思社刊・07.7.31)

 「忘れられた思想家」とも、「幻の思想家」ともいわれていた安藤昌益は、八〇年代に入って、本書の著者も関わった本格的な全集刊行を契機に、その実相が明らかになり、現在にも生き生きと屹立しうる、江戸中期に実在した、同時期における世界最大の思想家としての評価を獲得したといってもいい。
 早くからその独特の思想的初源を、東洋的アナキズムとも農本的アナキズムとも称されてきたが、アナキスト詩人・秋山清も戦前時のまだ二十代後半に、安藤昌益を次のように評価している。
 「かの無政府主義的な最初の著書といわれるイギリスのウィリアム・ゴドウィンの『政治的正義』が出た(一七九三年刊行)のは彼の死より三十年の後である。おそらく無政府主義思想史の最初の頁を飾るものは全世界を通じてこの安藤昌益であり、従ってアナキズムはいう如き西欧からの不穏思想ではないという事になる。」(「安藤昌益の思想」・一九三三年)
 よく知られているように明治四十一(一九〇八)年、雑誌『内外教育評論』に掲載された狩野亨吉の談話によって安藤昌益の存在は、告知された。そして、その「反響の一つとして、森近運平の編集になる大阪平民社発行の『日本平民新聞』(略)に『百五十年前の無政府主義者・安藤昌益』と題した紹介記事が掲載された」(72P)そうだ。だが、その二年後に生起した大逆事件によって、「百五十年前の無政府主義者・安藤昌益」は、それからしばらく閑却されてしまうこととなる。
 さて本書は、著者が寺尾五郎とともに全集編纂に寄与してきただけあって、安藤昌益の全体像を懇切に論じながら、未知の読者に向けた見事な通路ともなっている。ともすれば、わたしたちがそうであるように、イデオロギー的な視線で捉えすぎて狭隘な場所へと押し込めて、その思考の根源を見失いがちになることを、著者は明確に忌避している。
 開巻、その生涯を類推も含めて丹念に記述している。そこで、わたしたちは、仏門から離脱し医学の道へと進んでいった若き昌益の像を、後年の壮大な思考の淵源と見做すことができるはずだ。さらに弟子たちとともになしえた行動の足跡の記述には、一気に惹き込まれていったといっていい。そして、狩野亨吉以降における昌益思想の受容の時間を辿った後、その思想の沿革に深く分け入っていく手捌きによって、わたし(たち)は、いまさらのように安藤昌益の思想の深度の深さを知ることになる。
 「(略)人と人との本来的なつながり、相互扶助的なあり方を『穀精の人(穀物の精凝である人間)は、人より人を生じて多人となり、耕道弘まり、人家・門を並べ、互いに親睦し、能きことは互いに譲り、難事は互いに救い、営むところは、ただ耕穀の五行なり』と、農耕共同体における近隣家族の結合の中に見出している。」(217P)
 「(略)昌益は、『万国の人、すべててんち転定とともに直耕して、安食・安衣して、生死は転定とともにして、この外に耕さずして衆を誑かし貪り食い、衆の上に立ち、王と称して栄華をなし、謀議をもって民を導くなどといい、亢知にして道を盗める者あることを知らず』と述べ、こうした自然と一体化した、平和で平等な農村共同体は、(略)地球上いたるところに存在していたと考えた。」(231P)
 また、昌益は、治世者が「治安を維持するためと称して『法』や『制度』をこしらえて、人々の心までも取り締まろうとする」ことを、「反自然的で作為的な世の中」(233P)だと批判したという。こうして見るならば、「法」を治世者の統治のためだとする苛烈な考え方は、マルクス主義というよりは、限りなくアナキズムの思考方法に近似しているし、「社稷」のなかに農本的なユートピア共同体の理念を込めた権藤成卿の思想を想起したくなる。現在のような〈関係性〉、〈共同性〉の環界が、手探りで辿れない空虚なものとなっている時に、昌益や成卿が抱く農耕的なイメージを持った〈共同性〉は、アナクロなものとして切り捨ててしまっていいとは、思えない。
 さて、ここまではある意味、通例の昌益像だといってもいい。さらにもう少し踏み込んでいえば、昌益の傑出した自然観・宇宙観は、そのままあらゆる生物の生命体系への視線であると捉えることができる。動植物のうち、より植物(穀物)との一体感を強く内在せしめながら展開している昌益の自然観・宇宙観を著者は次のように述べていく。
 「昌益は、この宇宙のすべての存在が、生命あるもの、相互に有機的に関連しあい、時々刻々と新陳代謝しつつある存在であり、自己運動によって日々生まれ変わりつつある一大生命体と見て、その総体を『ひと自りす然る自然』と名づけた。」(141P)
 わたしは、すぐさま、生命形態への見事な切開を提示した『胎児の世界』の著者・三木成夫の壮大な思考世界を想起した。人間の臓器の原初を植物系に見立てて分析し、生命形態全体と宇宙との“いのちの波動”といったことを展開していく三木のセンシブルな論旨は、まさしく昌益の「自り然る自然」観と通底していくことに驚く。そういうことを考えてみれば、後年の優れた思想・哲学・生物学の達成を二五〇年前に抱懐していた思想家がいたということだ。
 「独創的」な思想家・安藤昌益は、今日でも依然、リアルなのである。

(『図書新聞』07.10.6号)

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2007年9月21日 (金)

塩浦 彰 著『荷風と静枝 ― 明治大逆事件の陰画』(洋々社刊・07.4.20)

 永井荷風といえば、「花柳小説」作家、「戯作者」といった独特なイメージが付加されているように思える。晩年の生活に象徴される孤独者的相貌もあいまって、独自の生活スタイルが、喧しい現在のわたしたちに対するアンチテーゼとして注目されたりもしているようだ。荷風を「遁走者」であり、「個人主義者」であったと評したのは、江藤淳であった。
 「永井荷風の一生は、近代日本の現実からの絶えざる遁走の連続である。(略)表面的にいえば、彼の一生は個人主義者の一生である。個人主義者が変人あつかいにされるこの国では、それはほとんど一個の倫理的な規範をかたちづくっているかも知れない。(略)彼は批判者として生き、同時に芸術家として生きた。」(「永井荷風論 ある遁走者の生涯について」)
 こうした荷風像が、確立していくための転換点として、本書の著者は、明治末期に生起した、いわゆる大逆事件が、契機としてあったと捉えている。
 幸徳秋水、菅野すが、宮下太吉らが明治天皇暗殺計画を企図したとして十二名もの無政府主義者・社会主義者が死刑に付された大逆事件は、明治四十三(一九一〇)年五月から六月にかけて一斉検挙・逮捕を重ね、翌年一月十八日午後、大審院特別刑事部で、刑法第七十三条(天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス)適用による大逆罪の公判が行われた。二十四名に死刑(十二名は翌日、無期に減刑)、二名に無期懲役刑の判決が下され、一月二十四、二十五日と僅か一週間のうちに、死刑が執行された。この前代未聞で最大の思想弾圧事件は、天皇制を強固な国家権力体制として誇示するために仕組まれた国家犯罪であることは、いまや周知の事実であるといってもいいが、当時の文学者、知識人たちに与えた衝撃は計り知れないものがあったといっていい。もちろん、荷風とて例外ではなかった。
 「悪罵をあびせかけて来た国家権力から」文化勲章をあえて辞しせず、受けながら「文化勲章年金」と揶揄したいい方に「国家権力というものが、荷風の存在自体にとってはなにものでもなかったことをものがたっている」(「前出」)と江藤が見ていたように、著者もまた、荷風のなかに反抗の思念を見て取ろうとする。
 「大逆事件前、自作の発売禁止という、国家権力の弾圧を受けた経験から、言論出版の自由について、直接間接に発言を繰り返していた荷風の『苦痛』を視野に入れなければならない。」(14P)
 このような荷風にあって、本書の著者は、大逆事件の判決の日に、当時、親交を深めていた芸妓八重次(後に新舞踊の名取となり、戦後、文化功労賞を受けた藤蔭静枝)に宛てた絵葉書に着目する。
 「度々電話をかけましたがお帰りがないので独りで博物館内の古い錦絵を見歩いて居りますこの暖かさでは江東の梅も間がありますまい近い中亀井戸へ行きませう」
 この文面から、著者も指摘するように、博物館に一緒に行こうと思い電話をしたが、不在だったことをただ告げているにすぎないのだが、「荷風が、あえて判決の日に八重次という女性に逢いたくなったのは、はたして偶然のことなのであろうか」と疑義を呈していく(10P)。そして、「大逆事件」の諸相を縦軸として考えるなら、荷風と八重次(静枝)との「通交」を横軸として見做すことによって、その交差する場所を基点にし、国家権力が徐々に膨張していく過程を見通しながら、二人(荷風と静枝)の表現者が織り成す地平を解きほぐしていこうというのが、本書のさしあたっての眼目であるといってもいいはずだ。
 「荷風の作家生活前半生の、充実した〈花柳小説〉という作品群が生み出された時期は、八重次との遭遇によってもたらされた。(略)自立心の高かった八重次の生そのものに添うことによって、荷風は〈戯作者〉としての国家権力への反抗のし方を、身につけていったのである。大逆事件判決の日に、荷風が八重次に『度々電話をかけ』たのは、けっしてたまたまのことではなかった。荷風周辺に取り沙汰された数多の女性たちのなかでも、芸妓八重次の存在理由は重いのである。」(17P)
 確かに、荷風の代表作ともいえる『斷腸亭日乘』に「帰朝以来馴染みを重ねたる女」として十六人の女性が列挙され、ほとんどが芸者、私娼、女給といった女性たちで、商人の娘二人のうち、一人が、父親の勧めで結婚した女性で、父が急逝するとすぐ協議離婚し、それまで付き合っていた内田八重(芸妓八重次)と結婚している。だが、通交の長さに比して、結婚生活は長く続かず、半年後、八重が家を出たことによって離婚している。荷風の結婚歴はこの二人だけで、生涯、子供も設けず、以後、独身を通している。
 父権の前に最初の結婚を承諾してしまった荷風の屈折した思いを、著者は「父権の意識下に」、「天皇を頂点とする国家」が置かれていたはずだと捉えている(61P)。そして、「『戯作者』あるいは『隠者』というスタンスを保ちつつ、不当な強制に反発する個人主義者として、当代の権力から民衆までの諸相を観察し批判し続けた荷風は、磯田光一のいう『保守のラジカル』にあたり、(略)静枝の生き方は逆に『ラジカルな保守』といえるかもしれない。(略)共通するところは、(略)『制度』の普遍を疑い、個人の自由を過激に言語あるいは身体で表現したことである。」(248~249P)
 こうして本書を辿ってみるとき、荷風と静枝の二人の親近なる通交と、交差した場所に、大逆事件という大きな動態があったとする著者の視線は、実に刺激的だといえる。

(『図書新聞』07.9.29号)

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2007年8月10日 (金)

岩田儀一 著『歌集 内線二〇一』(砂子屋書房刊・07.3.12)

 三枝昂之の第一歌集『やさしき志士たちの世界へ』(一九七三年刊)に、「まみなみの岡井隆へ 赤軍の九人へ 地中海のカミユへ」という印象深い作品があった。かつて(といっても五七年のことだが)、吉本隆明と激しく論争をした前衛短歌の旗手と目されていた岡井隆はその頃、沈黙期にあった。だからこそ、わたし(たち)は、鮮烈な作品を持って登場した三枝や福島泰樹といった同時代の歌人たちに共感を持ちつつ注目することになった。そしてその後、活動を再開した岡井隆にも、当然のごとく随伴していった。それは、翻ってみれば、わたし自身、もっとも短歌作品に触れた時期だったように思える。
 本書は、著者にとって「五十六歳にして初めて出す」歌集である。だが、「あとがき」に、次のような記述があり、わたしをある種の共感の関係性へと連れ出してくれた。
 「初めて短歌を作ったのは、大学一年十九歳の冬であった。(略)『前衛短歌』に強い感銘を受け、腰を据えて歌集や歌書を読み、勉強しながら短歌を作り始めたのは、その数年後であり、一九七〇年代初頭の頃である。当時、私たちが関わった『全共闘運動』は、〈後退戦〉を余儀なくされており、私たちの仲間うちでは『ここが本当の出発点だ。組織に拠らず何事も一人で始め、持続してゆくしかない』ことが暗黙の了解だった(どこにでもあったように)。」
 「〈後退戦〉を余儀なくされ」た情況のただなかで、確かにまた、わたしも吉本や鮎川信夫の詩篇とともに、短歌作品は自らの矜持を支えうる感性の拠りどころとして接していたといってもいい。
 
 『詩とメーロス』読み継ぐ夜のベランダにしんしんと降る霜の韻(ひびき)
 双肩に漆黒の闇降りしきり『I want to talk about yo』
 きしきしと霜踏みしめる朝には 森(しん)として少し「とほくまでゆくんだ」
 未明には〈風〉の思想をたずさえて登檣(のぼ)りていかな最上帆(ロイヤル)の辺に

 菅谷規矩雄、ジョン・コルトレーン、吉本が引かれる。そして〈風〉は、村上一郎の墓碑に刻まれている一字だ(私事をいえば、毎年三月、小平霊園のその墓碑の前にわたしは出向いている)。岡井隆は本書の「解説」で「はっきりいへば『村上一郎の時代』を憶ひ出した」などといっているが、これは誤解を招くいい方だ。もし、“村上一郎の時代”、つまり、村上一郎の思想と感性が、当時広く共感を得ていたならば、自死は、もう少し先延ばしされただろうと思われる。そのように括られる時代がなかったからこそ、著者は〈風〉を織り込んで歌ったのだ(もちろん、わたしは“吉本隆明の時代”とも、ましてや“全共闘運動の時代”だったとも括りたくはない)。後段に、初期の作品を配置し、大部は作歌を再開した二年半の作品を「近似するテーマの一連」(「あとがき」)を分類して構成している。確かに、モチーフの多様さを、どこかで収斂させようとするならば、“仕事場”にまつわることであり、「副委員長」と題された一連の作品群に象徴されるもうひとつの後退戦の心象ということになるかもしれない。しかし、不思議なことに、これは短歌的膂力といっていいかもしれないが、著者の発語は、なんの外連みなく自分が立っている「現在」というものを鋭く撃っていると感じられて、わたしには鮮烈な印象を与えてくれるのだ。
 
 ブラインド一気に開く(黄昏だぁ)疎まれしかな「理論派」われは
 消費者を標的(ターゲット)と呼ぶ市場理論そのフレームごと気に喰わねえんだ
 自らを撃たぬ批評は何ならん真赤な柘榴の酸にむせびぬ
 会議果てて寄せ鍋つつく「まあまあまあ」今夜の俺は軟らかい牡蠣

 「黄昏だぁ」、「気に喰わねえんだ」、「まあまあまあ」といった内発する言葉たちは、現在の場所を見通すための視線の根拠だ。だからこそ「自らを撃たぬ批評は何ならん」といえるのであって、それはこの著者が「何事も一人で始め、持続して」きたことの証左でもあると、わたしはいってみたい気がする。
 歌集巻頭に配置された一連の作品は「二十五時」と題されている。吉本隆明が度々言及した二十五時間(目)という考え方に想を得ていると思われる。わたしなりに吉本の二十五時間(目)論を咀嚼して述べるならば、一日を二十四時間としてではなく、二十五時間として捉え、その二十五時間目に自分がなにをするか、あるいはなにができるのかということを問うことを意味している。

 加速する変化(へんげ)の芯を探しあぐねゆっくりと挽く夜のキリマンジャロを

 強いてくる時間性に、二十五時間目を自らに置くことは、もちろん困難なことに違いない。しかし、“ゆっくりと”キリマンジャロコーヒーを飲むことは、なによりも豊饒な二十五時間目だと、思う。
 岩田短歌の次なる段階を期待したい。

(『図書新聞』07.8.18号)

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2007年6月21日 (木)

うらたじゅん、西野空男、斎藤種魚 他『幻 燈7』(北冬書房刊・07.2.12)・斎藤種魚 著『コシヒカリの見た夢』(二級天使研究所刊・07.2.5)

 一年数ヶ月の時間をおいて、『幻燈』の第7集が刊行された。うらたじゅん、菅野修、山田勇男、西野空男、木下竜一、斎藤種魚という常連作家の作品群のなかに、新たに、海老原健悟が参加。また、湊谷夢吉の旧作「夏の雲」が、掲載されている。他に、現在、北冬書房のWebsiteで連載されている「つげ義春『旅写真』」の一部が再録、うらたじゅん、山田勇男、それぞれへのインタビュー、創刊された西野空男編集の漫画雑誌『架空』への宮岡蓮二の論評「『架空』を読んで」も収載されている。宮岡の『架空』への論評の骨子は、「つげ義春以後」の劇画・漫画表現とはなにかということだが、それは、そのまま、現『幻燈』誌にもいえることだ。確かに、つげ義春、つげ忠男、林静一といった作家たちによる、『ガロ』、『夜行』を通してなされた作品がもたらした表現の水位の衝撃は大きい。それは、いまだにひとつの塊りのようなものとして在りつづけている。だからこそ、『幻燈』は、「つげ義春」以後の以後として新たに創刊されたのだとわたしは思っている。そう、以後ではなく、ほんらいは“以後の以後”と捉える段階に達しているとみるべきなのだ。もちろん、大きな衝撃、大きな塊りを自らの表現水位に繰り込んでなされるべきであったとしても、もはや、つげ作品が生み出されていた情況と、現在の劇画・漫画表現が置かれている情況は、依然変わらぬ実相もあるとはいえ、大きな変容を強いられていることは確かなのだ。わたしは、『幻燈』誌に集う作家たちに、“つげ義春以後の以後”というかたちで、できるかぎり、その大きな塊りを相対化した地平に自らの表現を置くべきだと願っている。
 新参、海老原健悟の「偽眼」は、表題の持っている思惟的なものをとりあえず留保するとしても、独特の描線と展開させていく画像、そして配置されている詩語的フレーズが、見事な世界をかたちづくっている。
 うらたじゅんの作品は、二作品。未発表の旧作、「JUNE BIRTH DATE」は、柔らかな描線が、やや閉塞していく男と女の関係性を慰藉するように解き放っている。むろんそれは、うらたじゅんが持っている物語力といっても過言ではない。新作の「河原町のジュリー」は、いまでいうところ野宿者がモチーフになっている。作者がもっている時間性をつかむ構成力は、この作品でも見事に発揮されている。作品の背景は七〇年代中ごろか(映画『仁義なき戦い』の看板が描かれている)。作者自身の同時代的体験が作品の中に生かされているのかどうかということには、わたしは関心がない。ひとつ、いえることは、旧作と新作に流れている七年ほどの時間性を、わたしは注視してみたい。“以後の以後”ということに絡めていえば、「JUNE~」の方がかえって、「河原町のジュリー」より、〈自在度〉が深いことに思いがいく。格差や野宿者の問題は、現在が強いてくることの情況であるとすれば、それほどに、表現の問題もまた、だんだんきつくなっているということだ。うらたじゅんの新作は、作者の意図を越えて、そういうことを指し示しているといえるかもしれない。
 “つげ義春以後”と擬せられている作家・斎藤種魚の最新作品集『コシヒカリの見た夢』(一九八九年から二〇〇六年まで月刊誌「政経東北」に見開き二頁の連載を纏めたもの)は、自ら、“以後の以後”へと地平を切り開くべく、〈自在度〉を過激に駆使したかたちが示されていると、いっていいと思う。斎藤は、第7集においても、「ベートーベンの右耳とゴッホの左耳の間で戦争が起きた」を提示している。斎藤作品の特色でもある、言葉と画像の見事な意識的な融合が、ますます過剰になっていることに、支持したいと思う。たぶんそれは、延べ十七年間、月刊誌(様々な規制があるのは当然だ)という制約の中で、培われたことの達成だといえるはずだ。
 作品集『コシヒカリの見た夢』は、五系列に連なる作品群で構成されている。時間順に並べてみれば、「コシヒカリの見た夢」(八九年~九三年)、「えご」(九六年~二〇〇〇年)、「愛モード」(〇一年)、「死にたくない」(〇二年)、「センチメンタルアーミー」(〇三年~〇六年)となるが、集中、構成順は、「えご」、「センチ~」、「愛モード」、「死にたくない」、「コシヒカリ~」となる。多彩なタッチ、多様なモチーフを持った作品群を眼の前にして、作者の重心はどこにあるのだろうかと、考えてみる。むろん、そんな問いは愚問に過ぎないことは明白だ。誤解のないようにいえば、斎藤種魚は、自身が農業に従事しているからこそ描出できる世界というものを持っている。そしてそれは固有の世界をかたちづくるものでありながらも、やがて拡張できる世界でもあるのだ。だからこそ「コシヒカリ~」という一群の作品は、斎藤にとって最も重心がかかった物語として提示されているといっていいだろう。
 “米”というものは、生命の循環に似ている。それゆえ、天皇制は農耕的なのものに擬定せざるをえないのだ。斎藤は、あえて霊的なものを対置して、生々しい現実の天皇制に抗おうとしているかのようだ。
 「人には手がある/おのおのの手がある/おのおのの手が…/その手には過去をもつ/その過去ゆえに/その手はそのように変わらざるをえなかった」(「ひとめぼれ」―《コシヒカリの見た夢》)
 Mさんこと松田清治の手に秘められた不思議な力は、「土に触れば/土はどんどん肥沃になるあの力さえあれば/どんな水だって/どんな…」というものだ。自然対人間から生み出されていく力、それを霊力と呼ぶ人がいても、それは別に構わない。そしてそれが発生する不思議な場所から、現在という重い課題を引き受けて、斎藤種魚は、「EGO」や「悪路王子」という“不思議な”作品を描き出していることが重要なのだ。わたしはそのことに、素直に感動したいと思っている。

(『図書新聞』07.6.30号)

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2007年6月14日 (木)

西川徹郎句集『決定版無灯艦隊―十代作品集』(沖積舎刊・07.6.1)

 わたしは、かつて俳句という表現形式に対していつも難渋な思いを抱いていた。つまり、短詩型であることが、どうしても自己表現というかたちをとりにくくさせていることを強いているのではないかと捉えていたのだ。それは、どこかで、主体というものを客体へと転換させていくことによってしか獲得できない地平が、俳句表現の内在的な必然だと理解していたからだ。
 雑誌「試行」誌上に、西川が主宰する雑誌「銀河系つうしん」の広告を見て、西川徹郎の名を認知していたからかもしれないが、後年、たぶん、「俳句空間」誌での、『秋桜COSMOS別冊 西川徹郎の世界』の告知を見て、入手し、作品に接した時が、西川俳句との最初の出会いだった。巻頭に配置された、「マネキンは、今、死にかかる―『桔梗祭』以後 五十句」の作品群は、わたしにとって、俳句形式に対する考えを破砕させるほど衝撃的なものだった。

 蕎麦の花マネキンはいま死にかかる
 ゆうぐれは銀河も馬も溶けている
 抽斗を出て来た父と月見している
 まひるの岸を走れはしれと死者がいう

 動態していく言葉の、深く降り立っていく場所は、主体が客体化されていくことを拒絶し、自身が確信する視線を屹立させる位相としてある。既に、第一句集『無灯艦隊』を上梓して十数年経ち、第六句集『桔梗祭』以後の作品であれば、それは当然の作家性としての在処であるわけだが、それにしも、「マネキン」という無機質なものと「死」という人間における最も本源的なものとの鮮烈な連結は、西川俳句が拡張された詩世界を獲得していくことを示しているのだと感得されたのである。
 極北の地にて、真宗本願寺派の寺の副住職の子として生まれ、やがて父の死後、自身もまた住職の道を歩み始める。いわばそのような環境のなかで生み出される作品の相貌が、ある種の「死」を換喩していくものとしてあることは、避けられないものだったかもしれない。だが、西川の場合、出自や環境へと安易に、作品表出の淵源を見做すことができないほど、独自の作品世界が発せられていることに、わたしたちは瞠目すべきなのだ。むしろそうした他者の視線とでもいうべきものを、初めから排したところから出立したというべきかもしれない。
 第四句集『死亡の塔』の「覚書」で、次のように記している。
 「私とは一体誰なのか、私とは一体如何なる生きものなのか、と問い続けることが、私を今日まで俳句という表現に駆り立ててきたと言っても過言ではないという事実をまず私は述べておきたい。」
 自存する方位と、表現が向けられていく共同的な環界との対峙する場所を措定することは、西川が最初期から現在までも持続して追究し切開していこうとするモチーフだったと、いえるはずだ。時に俳壇的なものや、自身に対する批評への鋭敏な感応は、俳壇的な場所や他者が共同的なるものを、無意識に、ある種の圧力ある「制度」として振る舞ってくるからであり、たんに自己の孤塁だけを安逸に堅持したいがためではないのだ。雑誌「銀河系通信」の巻末に配される「黎明通信」に記される激烈な言葉の数々は、したがって、西川自身の存在証明であり、「制度」的世界に対する宣戦布告であり、解体宣言なのである。
 今年の五月、旭川市に開館する西川徹郎文學館開設を記念して、第一句集の決定版として出されたのが本書である。あらためて、「無灯艦隊」と付された作品群に接してみて、最初期から一貫して今日まで濃密な世界を表出し続けてきたということを、率直な感慨として、驚嘆する以外なかったといっていい。

 海峡がてのひらに充ち髪梳く青年
 父よ馬よ月に睫毛が生えている
 死者の耳裏海峡が見えたりする
 沖へ沖へ 艦長の青くさい耳も
 全植物の戦慄が見え寺が見え
 海女が沖より引きずり上げる無灯艦隊

 ここにあるのは、通例の初期作品といった捉え方を解体させるほどの力感ある世界を提示していると見るべきである。わたしのような、いわば作品を作りださない、ただの鑑賞者に過ぎないものであるにもかかわらず、心奥が楔を撃たれるような感覚をもってしまうのだ。
 「てのひら」、「髪」、「睫毛」、「耳裏」、「耳」といった身体の中でも、感覚的な器官、場所を詩語として表出し、「海峡」、「月」、「沖」といった拡張された空間、つまり共同性の表徴と対峙させながら、主体を客体化させる視線(「梳く」、「生えている」、「青くさい」)を導入することで、さらに主体を際立たせて、作品世界を見事に屹立させていると、わたしなら理解したい。
 それは、“無灯”の艦隊として出艦させる先、つまり切実な言葉を紡ぎ出していく先は、「全植物」が「戦慄」する場所であり、さらには、自存を獲得するための戦う場所でもあることを宣していることを意味しているのだといってもいいだろう。
 西川俳句は、こうして、現在も、荒れ狂う海峡のただなかで、存在証明としての鮮烈な詩語たちを発し続けているのだ。

(『図書新聞』07.6.23号)

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2007年6月 8日 (金)

今津孝次郎 著『増補 いじめ問題の発生・展開と今後の課題 25年を総括する』(黎明書房刊・07.3.15)

 「いじめ」論議が、また再燃した感がある。昨年後半から、幾つか発生した自殺事件が、「いじめ」に起因していたからだが、「いじめ」という現象が、解消されえないものとして在り続けていることをわたしたちは、ともすれば忘れがちになっているといっていいかもしれない。再燃するという事態が、そもそもおかしいのだ。
 「いじめ」以前という括り方をすれば、幼少期におけるガキ大将を中心とした喧嘩や諍いは、誰もが、経験することであり、それが取り立てて“社会問題化”することはなかった。それらは、学校を中心とした閉鎖的な共同性で発生するものではなく、日常的な暮らしの空間と連動した場所で生起していたからである。諍いの後、帰宅しても親たちは、ある程度、どんな連中とそうなったかは理解できていたし、時間が経てば、諍いした相手と親密になる場合もあったのである。現況における「いじめ」は、明らかにそういった子ども同士の喧嘩や内輪もめといった位相を遙に逸脱したものになっているのは明らかだ。
 本書の著者によれば、いまだに「いじめ」論議のなかには、子どもたち同士の内輪喧嘩的位相に押しとどめておこうとする見解が、教育現場側の多くに、見受けられるそうだ。ある意味、責任の所在を曖昧化する、驚くべき実態というしかない。
 一九八〇年五月に起きた、いじめ苦によってマンションの十一階から飛び降り自殺した在日三世の少年の事件を端緒として、「いじめ」が社会問題化したと著者は捉え、この二十五年の経過を総括して本書の元版を〇五年十一月に刊行したが、その直後に著者のいい方でいえば、“第三の波”が起きたため、その後の一年ほどの事象に対する見解を緊急増補して、本書を改めて問うこととなったようだ。確かに、本書のなかで、著者も度々、記述しているが、この二十五年(正確には二十七年経ったことになる)、なにも「いじめ」という実態は変わらないし、現場の対処のし方も旧態のままだといっていいような気がする。むしろ、「いじめ」の実相は、高度消費社会の過剰さのなかで、携帯電話やインターネットの普及によって、ますます不分明で、陰湿度が深くなっているといえそうだ。文部科学省が、発表してきたここ数年の「いじめ」件数の減少は、現場からの報告の隠蔽だったことは、明らかな以上、依然、「いじめ」という現象は、大きな社会問題であり続けているということになる。
 本書の冒頭には、イギリスやオーストラリアなどの事例や取り組み方が、紹介されている。考えてみたら、「いじめ」という現象は、わが国、固有の問題ではありえず、アメリカの学校での銃乱射事件を想起するまでもなく、 事は、「いじめ」に象徴される様々な確執が、異様な事態を発生させていると捉えるべきなのだ。著者は、研究員として滞在したイギリスで得た印象を、次のように述べている。
 「(略)いじめを論じるには『人間に対する深い洞察』が求められるのではないか、ということであった。単に教育者や親としての立場から、周囲の批判を受けないように、ただいじめをなくすことだけに汲々とするような姿勢で、はたして問題解決になるだろうか。(略)問われているのは、表面的な対策ではなくて、『善』も『悪』も持ち合わせる人間そのものを見つめる深いまなざしを、まず私たち大人が培うことなのではないかと感じた。」(15P)
 本書で、多様な視角からの「いじめ」における「排除」と「拘束」といった見事な分析と問題の切開を提示できたのは、著者の、こうした「表面(外面)」性よりも、「内面」性へと注視していく考え方に支えられているからだ。そして、「いじめ」問題に対して“介入”していくことは、「いじめ」を無くすといった表層的なことではなく、それぞれの子どもたちの「自立」をはかっていくことだと著者はいう。つまり、「『自立』に向けた障害を一つひとつ取り除いていくこと」で、「『悪性』の攻撃性を回避する道」(165P)を探っていくことだと主張している。
 ここからは、わたしの幾らか浅薄すぎるかもしれない考えを述べてみる。「いじめ」という現象に対して、倫理的視線を持つのは、避けるべきではないかと思っている。善と悪、加害者と被害者といった二項対立だけでは、事の内在性に到達することはできないといっていい。本書のなかで、「加害者の家族」の手記が引例されていて興味深かったが、実は、「いじめ」加害者や、「いじめ」傍観者は、いつでも、「いじめられる」側に転位することができるという視線を持つベきなのである。本書で紹介されている事例を見て、「いじめ」という現象は、現在いかに重層的な様態を示しているかということが分った。二七年前の民族差別による「いじめ」というそれ自体、許されざる行為ではあるが、内実はある意味、明確だった。だが、現在の「いじめ」という現象は、「いじめ加害者」と「いじめ被害者」は、いつでも交換可能であって、「内面」的深刻さは、どちらも等価であるとわたしは思う。「いじめ加害者」へ重刑罰を付加すべきだという錯誤した論議は、排すべきだ。
 では、この先、「いじめ」という現象を後退させうる方途はあるのかと問われれば、明確に即答できないもどかしさはあるものの、著者も指向する「内面」性の通路を開いていくことを根気強く模索し続けていく他はないといっていい。

(「図書新聞」07.6.16号)

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2007年6月 1日 (金)

ノーマン・G・フィンケルスタイン 著 立木勝 訳『イスラエル擁護論批判 ― 反ユダヤ主義の悪用と歴史の冒涜』(三交社刊・07.3.10)

 イスラエル‐パレスチナ紛争は、依然、通路の見えない情況のなかにある。どちらも、和平、徹底抗戦の両面を揺れる様態を指し示しながらも、基底には拭いがたい憎悪の連鎖が潜在化しているからだ。漂流するユダヤ人という「神話」が、どこかでわたしたちの思考を規制していることもまた確かだ。この強力な神話は、さらに、ナチス・ドイツ下でのホロコーストにおけるユダヤ人大量虐殺という歴史的負の遺産が補強していく。
 かつて、わたしはバクーニンとマルクスの対立のなかに、奇妙な隘路があることに気付いたことがある。それは、“スラヴ人”バクーニンの激しいマルクス批判の底流に、マルクスの“ユダヤ系ドイツ人”としての行動様式に対する疑義があることだった。それは要するに、マルクスが「世の常の政治屋」(吉本隆明『カール・マルクス』)としての貌を、時としてせりだしていたからである。第一インターナショナルにおけるバクーニン派放逐は、その典型的なものだった。わたしは、なにもマルクスにおける“ユダヤ人的行動様式”を拡張して、すべてを論じたいわけではない。だが、第二次世界大戦終結後の国連総会でのいわゆるシオニスト指導者の“ロビー外交”は、見事に功を奏して、パレスチナの地に強引にユダヤ国家を構築したという事実は明白なことだといいたいだけなのだ(国連総会の分割決議案を受け入れながら、その後、強大な軍事力と経済力で国土を強引に拡張していったことは、徹底的に批判されなければならない)。もちろん、ここでは、漂流するユダヤ人という「神話」とホロコーストという近時の事実を“政治的素材”にしたことは、いうまでもない。本書の著者は、そういうユダヤ人の政治的ネゴシエーションの根拠を見事に破砕させている。
 「シオニズム運動が提出した一群の正当化理論は、シオニズムのイデオロギー的教条をそのまま受け入れ、パレスチナへのユダヤ人の『歴史的権利』とユダヤ人の『祖国喪失』が前提となっていた。たとえば、『歴史的権利』という主張は、ユダヤ人が元々パレスチナに生まれ、二〇〇〇年前に暮らしていたということを基礎としている。(略)パレスチナには二〇〇〇年のあいだ非ユダヤ人が暮らしてきたし、ユダヤ人は二〇〇〇年間よその土地に暮らしてきたのだから、このことを避けて通る限り、歴史的な主張とはならない。これが権利となるのは神話的・ロマン主義的な民族主義イデオロギーにおいてのみで、こんな権利を履行しようとしたら、めちゃくちゃなことになってしまう(実際にそうなっている)。」(16P)
 だから、著者によれば、イスラエル‐パレスチナ紛争は、実にシンプルなものだという考え方になる。「シオニズムがパレスチナにもたらした(略)不正義は明白であり、人種・民族差別の領域に持ち込む以外、答えようのないもの」であって、パレスチナ人の「自決権と、おそらく郷土への権利さえ否定」したものであるということになる。
 本書の著者は、両親ともナチ強制収容所体験をもつユダヤ系アメリカ人で、シカゴ・デュポール大学にて政治学の教鞭をとっている。訳者によれば、「ホロコーストやイスラエルにまつわる被害者イメージとその利権に群がるアメリカ・ユダヤのエリートに対し、厳しい批判を続けながら」、前著『ホロコースト産業』(〇四年、三交社刊)では、「主要なユダヤ人組織や著名人による『ゆすり・たかり』の実態を暴き出して」(「訳者あとがき」)、“アメリカ以外”で反響を呼んだとのことだ。わたしは、その前著は未読だが、本書の骨子もほぼ、同じ底流にあるといっていい。イスラエル政府権力に対する批判のすべてをユダヤ人全般への批判だとしてすり替えながら、“反ユダヤ主義”というレッテルを貼り、言葉狩りや思想弾圧(当然本書もまた、出版妨害を受け、十五ヶ月かかって、〇五年にカリフォルニア大学出版局から刊行にいたっている)を行うというアメリカ・ユダヤ人エリート(知識人・政治家・実業家)の実態は、恐るべきことである。いまや、彼らはイスラエル政府の政策を支持しているというだけで、アメリカのキリスト教右派勢力とも連繋しているのだそうだ。だから著者は躊躇なく、そのような反ユダヤ主義の乱用は、スターリン主義や、逆説的な意味ではなく、まったくナチズムと同様だと断じている(著者は、このことをユダヤ人エリートによる反ユダヤ主義の道具化だとしている)。 
 さて、本書のもうひとつの主眼は、ハーバード大法学教授のアラン・M・ダーショウィッツが著わした『イスラエルのための弁明』(〇三年刊)という全米に影響を及ぼすほどに大ベストセラーとなった本への徹底批判である。先行するイスラエル擁護本からの盗用・剽窃だけでなく、様々な事例がすべて根拠のない捏造であることを、仔細に指摘しながら、イスラエルのパレスチナに対する凄まじいまでの民族差別・弾圧の実態を暴露していっている。わたしなどは、だいたいのところは類推できていたが、ここまで具体的に明確な数字(民間人の意味のない犠牲者の数は、圧倒的にパレスチナ側にあることが示されている)や実態を例示されれば、イスラエル‐パレスチナ紛争というものは、二国間紛争といったものではなく、イスラエルによるパレスチナ地域へのホロコースト以上の残虐な侵略戦争だという認識をとらざるをえなくなる。精緻で膨大な資料を付随した本書は、これ以上ない最良の、イスラエル政府権力の蛮行に対する徹底的な批判書となっていることを、強調しておきたい。

(『図書新聞』07.6.9号)

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