2015年10月20日 (火)

なぜ、「終着駅」に魅せられてしまうのか

 わたしにとって、「駅」というものは、いつもなにがしかの思いを喚起させてくれる場所だ。なぜなら、そこは、人びとが行き交う場所であり、「暮らし」とその「時間」が、絶えず潜在している所だからだ。都会のターミナル駅であっても、地方の小さな駅であっても、わたしには、同じように親近なるものとして、「駅」はある。考えてみたら、上京して四十六年ほど経っているが、住まいの近くの「駅」に行き、電車に乗り、目的地に辿り着き、また、電車で帰宅するということが、日常的なこととしてあり続けてきたことになる(あえて、付記しておけば、わたしは運転免許証を所持していないから、車での移動は、ほとんどない)。しかし、それ以前は、駅はけっして住まいの近くにあるわけではなく、駅へ行って列車に乗るという行動は、年に数えるほどしかなかったから、少年期のわたしにとって、鉄道や駅舎が身近なものだったかといえば、そうではない。だからこそというべきか、鉄道や駅舎に対し、憧れのようなものを感じていたのは間違いない。
 遠く記憶を辿ってみれば、小学生高学年の頃から、なぜか、「地図」が好きだった。どんな契機で、「地図」好きになったのかは、もう覚えてはいないが、実際の「地図」を、自分なりにアレンジしながら写して「地図」を描いたり、架空の「地図」を描き上げたりしたものだった。だから、いまでも、「地図」帳は手元にあり、しばしば眺めることがある。自分のそうした嗜好は、たぶん、未知の場所へ想像力を掻き立てながら、イメージの旅をすることにあったのかもしれない。そういう意味でいえば、「地図」上の駅が、わたしにとって、最も身近な「駅(舎)」だったということになる。
 少年期、まだ見ぬ東京の駅で、関心を抱いていたのは、上野駅と両国駅だった。特に東北地方に在住しているものにとって、上野駅は最も親近な駅だったし、大相撲の東京場所で賑わっている両国駅は、なにか荘厳な佇まいをしているようで、いつかは訪れてみたいと思っていた。
 しかし、時間の経過は、駅のイメージを変容させてしまうものだ。上京して、何年も経ってから、たまたま両国駅を訪れた時、駅舎は立派だったが、ターミナル駅というイメージにはほど遠い、閑散とした駅だったことに驚いたものだった。かつては総武本線の発着駅として機能していたものが、総武線の電化や御茶ノ水駅や中野駅までの延伸、本線が錦糸町駅から東京駅へ直通したことによって、両国駅は、総武線(各駅停車)の単なる一停車駅になってしまったのだ。
 「関東大震災で焼け落ち、昭和四年(一九二九)に鉄筋コンクリートで再建された二代目駅舎は上野駅を小さくしたような、小ぶりながらもターミナル駅らしいスッキリとした姿だ。第二次大戦時の三月十日の下町大空襲にも奇跡的に消失をまぬがれ、周辺住民の避難場所になったという。ここまで八十数年を生き長らえてきた都内でも古株の駅舎である。/が、哀しいかな、もはやターミナル駅としての機能は果たしていない。」(長谷川裕・文、村上健・絵『怪しい駅懐かしい駅』)
 少年期のわたしとって、憧れの駅は、いまや哀しい存在として在り続けていることになる。
さて、わが上野駅はどうか。東京駅まで新幹線が開通する前では、東北地方の出身者たちにとっては、上京や帰省のため、必ず降り立ち出発する駅であった。駅の構造として、山手線や京浜東北線などが高架ホームだが、かつては、行き止まりの地平ホーム(13番線から18番まであったが、現在は17番までである)から、昼の特急や夜行列車が頻繁に発着していたのだ。いま、特急としては、「カシオペア」、「草津」、「あかぎ」、「ときわ」、「ひたち」の一部などだ。この地平ホームに直結している中央改札口の上部には、猪熊弦一郎の「自由」と題した壁画がある。上野駅をしばしば利用している時は、なんの関心も抱かなかったが、後に猪熊弦一郎を知り、あの上野駅の壁画の作者だったことが分かってからは、まだ、一度も見ていないほど、わたしにとって上野駅は遠い存在になってしまった(ただし、公園口改札は、しばしば利用しているから、上野駅には、年に数回は乗降している)。
 啄木の歌や、井沢八郎の歌に象徴されるように、わたしたちにとってみれば、上野駅は紛れもなく「終着駅(始発駅)」ということになる。だが、わたしは、もう少し、「終着駅(始発駅)」というイメージを拡張してみたいのだ。映画や地図を見てみれば、ロンドンやパリ、ローマといったヨーロッパの大都市は、鉄道が放射状になっていて、それぞれに起点となる駅があり、まさに、ターミナル駅としての「終着駅(始発駅)」という佇まいを持っている。しかし、わたしは、やはり、どこか寂しく哀しい雰囲気を持つ「終着駅」というものに、固執してみたくなる。たぶん、それは、現実的な「駅」というよりは、歌や映画から喚起された「駅」にある種の憧憬感を抱いているからだといえる。そのことを、わたし自身に詩的感性があるならば、少しは、情感あふれる言葉によって述べてみたいのだが、ここでは、そのまま歌詞を引用してみたい。

 落ち葉の舞い散る 停車場は
 悲しい女の吹きだまり
 だから今日もひとり 明日もひとり
 涙を捨てにくる

 真冬に裸足は 冷たかろう
 大きな荷物は 重たかろう
 なのに今日もひとり 明日もひとり
 過去から逃げてくる

 一度離したら 二度とつかめない
 愛という名の あたたかい心の鍵は

 最終列車が着く度に
 よく似た女が 降りてくる
 そして今日もひとり 明日もひとり
 過去から逃げてくる

 肩抱く夜風の なぐさめは
 忘れる努力の邪魔になる
 だから今日もひとり 明日もひとり
 過去から逃げてくる

 一度離したら 二度とつかめない
 愛という名の あたたかい心の鍵は

 最終列車が着く度に
 よく似た女が 降りてくる
 そして今日もひとり 明日もひとり
 過去から逃げてくる
 そして今日もひとり 明日もひとり
 過去から逃げてくる
  (『終着駅』―作詞・千家和也、作曲・浜圭介)

 71年、奥村チヨによって唄われた『終着駅』は、「今日もひとり 明日もひとり 過去から逃げてくる」という印象深い歌詞のリフレインによって、恋愛という関係性から離反した女性の心情と終着駅の哀愁感といったものが重ねられて、人々が多様に往還する場所としての「駅」を見事に表出させていた。初期の山口百恵の歌(73~76年)のほとんどの歌詞を手掛けていた千家和也にとっては、内山田洋とクールファイブの『そして神戸』(72年)とともに代表作といっていい作品でもある。
 わたしは、2012年、一青窈によってカヴァーされた歌(アルバム『歌窈曲』収録)を聞いて、この歌が持つ深い物語性に対し、あらためて感嘆したといっていい。一青窈の〈アジア的な声〉が、紺野紗衣の静謐なピアノにのりながら、ややポップな演歌風といった感じの歌唱によって、『終着駅』の詞世界を拡張させていったと思う。
 この歌に内在する物語性を、歌い出しの「落ち葉の舞い散る 停車場は/悲しい女の吹きだまり」という詞にすべて象徴化させているように思う。特に、「吹きだまり」という詞語からイメージされるものは、直喩すぎて、一瞬戸惑いを感じないわけにはいかないのだが、メロディーが付され、「声」が重なって、初めて「吹きだまり」という詞語が、屹立していくことがわかってくる。だから、この歌い出しを奥村チヨ、一青窈、そして中森明菜(『終着駅』は、三人の中で断然いい。94年発売のカヴァーアルバム『歌姫』に収録)で聴き比べてみると、それぞれ微妙に違う位相を表出していることがわかってくる。それはまた、この歌が有する豊饒さだといっていいと思う。さらにいえば、「吹きだまり」という詞語は、「涙を捨てにくる」や、「過去から逃げてくる」へと繋がっていくことによって、「駅」という共同性にまつわる物語がかたちづくられていき、わたしたちの感性へと直截に近接してくるといってみたくなる。
 わたしは、この歌が、暗い予兆を含みながらも、“女たち”を終着駅に降り立たせたことに共感したいのだ。そう、ここでは、終着駅は「吹きだまり」として在るのだが、しかし「吹きだまり」に辿り着いたからこそ、「あたたかい心の鍵」が、いつかまた、見つけることができるかもしれないという空隙を、“女たち”に持たせている。だからこそ、『終着駅』という歌の物語世界を、わたしたちは深く感受できるのだ。
 映画『駅 STATION』(81年・東宝、監督・降旗康男、脚本・倉本聰)にも、触れておくべきかもしれない。この作品は、賛否がまったく割れたことで知られている(「キネマ旬報」誌では、ベスト・テン第四位。「映画芸術」誌では、41位だが、ワースト・テン第一位だ)。それは、ひとえに倉本聰の物語の紡ぎ方の浅薄さに拠っている。わたしは、当時、封切りで見て、高倉健と倍賞千恵子の二人が飲み屋で紅白歌合戦から流れる八代亜紀の「舟唄」(作曲は浜圭介。浜は、1946年、旧満州の収容所で生まれている)を寂しく寄り添いながら聞く場面に感動したものだったし、撮影の木村大作による雪降る風景や俯瞰からとらえる駅舎に素直に共感したものだった。冒頭の高倉健演ずる主人公・英次と離婚することになった妻・直子(いしだあゆみ)とのわざとらしい別れの場面、過剰な演技を強いられた倍賞千恵子と、挙げれば、幾つも出てくる、演出を放棄しているかのような降旗の立ち位置と、皮相なる過剰さを表出する倉本の脚本との合奏によって、『駅』という映画作品をアンビバレンツな方位へと分裂させていったことは、確かなのだ。それでも、わたしが拘るのは、烏丸せつこの、ほとんどイノセントに振る舞っているのではないかと思わせてしまう演技とその存在感、そして増毛と上砂川という二つの終着駅の「像」だ(宇崎竜童の秀逸な音楽も加えておきたい)。
 警察官である英次の故郷は、直通する道路がなく陸の孤島のような雄冬という場所で、増毛から船でなければ行けないところであった。そして、連続通り魔殺人事件の犯人として手配されている吉松五郎(根津甚八)の妹・すず子(烏丸せつこ)が増毛駅前の風街食堂で働いていたため、吉松の行方を追って、英次たちは増毛の旅館で張り込みを続けることになる。だから、物語は、この留萌本線の終着駅(始発駅)でもある増毛駅を中心にして展開されていく。もう一つの駅、上砂川駅(現在は廃線・廃駅となっている)は、砂川駅からの支線の終着駅である。すず子が外出することになり、その後をつけていくと、やがて兄に会うために出かけたことがわかる。再会する場所は上砂川駅で、五郎はそこで英次たちに逮捕されてしまう。夕暮れから闇夜へ時間が経過していく上砂川の駅舎のロング・ショットは圧巻だ。
 すず子を利用して事件の終息を図ってしまったことに自責の念を抱く英次は、死刑判決を受けた五郎に、四年間、様々な差し入れをしていたという設定だ。刑執行の前に英次宛てに届いた五郎からの手紙に「暗闇の彼方に光る一点を 今駅舎(えき)の灯と信じつつ行く」という辞世の歌がしたためられていた。これは、五郎が上砂川駅で逮捕された時の情景を詠んだともいえるし、「駅舎」に対し、「死」を覚悟したうえで、あらためて「すず子」への思いのようなものを込めたともいえそうだ。この歌に倉本聰は作品全篇のモチーフを託したのかもしれないが、物語的には、うまく反映されたとはいいがたい。
 このように記しながら、わたしのなかで、この作品に対するアンビバレンツな思いが湧き上がってしまっていることを否定はしない。だから、断片化することによって、作品への感応を維持しようとしている自分がいることにも気づいている。なぜ、そうなのか。それは、やはり、「終着駅」というものに、無条件で魅せられてしまうからなのだ。じつは、ラストの場面をめぐって、脚本家・倉本聰を憤らせたというエピソードがある。英次が、増毛駅で退職願を破り、それをストーブに入れて燃やし、札幌行の夜行列車に乗り込もうとすると、すず子が目の前を通り過ぎ、駅員と言葉を交わしながら、食堂を辞めて札幌で働くことを告げて列車に乗り込んでいく。それを苦しげに悲しげに見つめる高倉健のアップをロングで捉え、そして列車が静かに発車していくところでエンドロールが始まり、この映画を閉じている。わたしは、このラストの場面によって、様々に織りなしてしまった不自然なストーリーを一気に払拭してくれたと感じ、この作品は、それほど駄目な映画ではなかったという見方をした覚えがある。そして、ここに至ってようやく、降旗による見事な演出だったことが、後に分かるのだ。倉本のシナリオでは、この増毛の場面から、札幌駅に降り立ち、英次が別れた妻・直子との再会を果たす場面まで描いて終わっているからだ。
 同じ、高倉健、倉本聰、降旗康男で78年に撮られた映画『冬の華』では、東映やくざ映画へのオマージュといったかたちで物語を成り立たせていて、しかも倉本の過剰な人物造型が抑制されていたため、わたしたちの間では、それなりに共感を得ていた。だが、『駅 STATION』は、抑制が解き放たれてしまったことで、散漫なストーリーと強引な物語をかたちづくってしまったといっていい。もし、倉本のシナリオ通りラストの場面が撮られていたら、無論、わたしは、このようにしてまで、作品へ論及をすることはなかったといい切れる。
 『駅 STATION』のラストの場面について、もう少し述べてみたいことがある。増毛駅は、この時、始発駅として描かれる。だが、暗い予兆を孕みながら列車は発って行くわけだから、やはり、終着駅という場所性の方が色濃くあるといっていい。「過去」を払拭したい男が退職願を持参して始発駅の列車に乗ろうとしたが、翻意して焼き捨てる。その時、目の前を、「過去から逃げ」るようにして、荒波が待ち受ける都会へ出ようとする女が通り過ぎてゆく。男は、「過去から逃げ」ることはできないと、あらためて思い、女の「過去」をも引き受ける思いで、佇むことになる。英次(高倉健)が佇む場所は、まぎれもなく終着駅という場所だ。どこへも逃げるところはないが、それでも、「駅」は、往きて還る場所であり、まぎれもなく現在という場所なのだ。そして、そこは、わたしたちにとって、ひとつの共同性の場所でもある。

(『塵風 第6号』15.10)

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2013年2月20日 (水)

記憶の風景、記憶の場所                           ――「つげ義春『写真』の世界」【解説】

 つげ義春の「写真」を初めて見たのは、『つげ義春流れ雲旅』(大崎紀夫・北井一夫との共著、朝日ソノラマ刊・71.6)に収められた五十六点ほどの作品であった。もちろん、わたしは、刊行と同時に手に取っている。あえて、作品といったのは、まさしくそうとしかいいようがなく、「写真」作品もまた、つげ義春的世界というものを燦然と放っていたからだ。「東北湯治場旅」と題された文章(本書の中で、つげが担当した唯一の文章でもある)と共に掲載している写真のなかで、見開きで載っている夏油温泉街(四十年後の視線から見れば、街というには、かなり抵抗感があるかもしれない)は、穏やかな温泉場という雰囲気を醸し出し、奥行きのある構図は、見るものを異世界へと誘うような力を湛えている。突き当りの場所に「夏油食堂」と並んで「食堂」という看板が写し取られているのだが、その文字が手書き風の感じで、実にいいのだ。つげが、食堂の看板を意識してそのような構図で撮ったのかどうかは、わからない。しかし、見たままを撮るといっても、撮影者の無意識な相が、視線のなかに反映されていくことは当然なことだと、わたしには思われる。
 「蒸の湯に湯治にきていたおばあさん」と、キャプションが付けられている、これも見開きの写真だが、やや俯瞰気味に、浴槽と窓、そしてひとりで桶を掴んでいるおばあさんを見事な構図で捉えている。お湯の表面に窓が反射して映り、しかもそれが、やや揺らいでいる様は、夢幻的だ。なによりも、おばあさんの俯き加減の表情がいい。どういうアングルで、どのタイミングでシャッターを押すのかという技術的なことを、わたしはいいたいわけではないが、写真に限らず、対象に自分の視線をどう射し入れるかということは、意識してもうまくできることではない。それでも、対象にある種の共感を抱くことができなければ、写真や絵、あるいは言語による表現も含めて、作品として成り立つことはできないと思われる。
 「北陸雪中旅」の章に収められている、「早朝の氷見漁港 漁船が漁からもどってくる前 重く暗い空の下で港は静まりかえっていた」という文章が付された見開きの写真は、浮き桟橋を中心に置き、港内の海面を広角に捉えている。波の湛える様は、まさしく静謐さを持って迫ってくるかのようだ。不思議なことだが、浮き桟橋が何かを語りかけているように感じてくるのだ。それこそが、写真の力だといっていいかもしれない。
 「四国おへんろ乱れ打ち」の章は、共著者・大崎紀夫の文章によっているが、香川県にある四国霊場第71番札所の弥谷寺の参道に俳句茶屋というのがあるそうだ。大崎は、次のように記していく。
 「そこでわたしたちも縁台に腰をかけ、アメ湯を飲んだりトコロテンを食ったりしながら、ひとひねりすることにした。そしてわたしたちがあれこればからしい句や歌を作っていると、茶屋の娘がケラケラ笑いながら、それでも墨と短冊をもってきてくれた。結局、こんなものを作ったのだった。

 野の仏錫杖もつ手に花一輪
            義春          」
 実は、つげ義春の俳句があったことを、わたしは失念していた。いまあらためて、この句を見ると、下五句の花一輪というのが、なんとも繊細な感じがしていいと思う。既に、「ねじ式」や「ゲンセンカン主人」を発表した後のことになることを思えば、なおさら、花一輪が際立ってくるといいたくなる。
 
つげ義春の写真をある意味、メインで編まれた本が、『つげ義春の温泉』(カタログハウス刊・03.2、文庫版は筑摩書房刊・12年6月)である。「温泉写真・イラスト」、「温泉漫画」、「温泉エッセイ」の三部構成で、「温泉写真」は、すべて未発表のものを七十点収載し、エッセイは、十篇中、三篇が未発表のものだ。カタログハウス版「あとがき」で、つげは、「作画にこだわらず、単に私が訪れた温泉の紹介として(一部にすぎないが)選んでみた。二、三十年前に写したものなので、現在このような景観を見ることはできないのではないだろうか。私の温泉離れも、みすぼらしい景観が少なくなったのが原因といえるかもしれない」と述べている。刊行されて十年近く経っているから、三、四十年前とさらなる時間を積み重ねたことになる。「温泉離れも、みすぼらしい景観が少なくなったのが原因」だと、いかにもつげらしいいい方だと思うが、つげが好んで訪れる山奥の温泉場、つまり湯治を主とした温泉旅館は、ほぼ木造の建物であるから、熱海や箱根、伊豆といった温泉地の景観との大いなる差異は、当然のことである。ところで、『つげ義春の温泉』収載の蒸ノ湯温泉には、『流れ雲旅』の「湯治にきていたおばあさん」が桶で体を流している写真を掲載している。なぜか、不思議な美しさを醸し出していることに驚く。

 北冬書房website「万力のある家」で、68年から75年にかけて撮られた「旅写真」が、エッセイと共に、「つげ義春旅写真」と題して、06年8月から09年12月にわたって掲載された(もちろん、現在もNet上で閲覧可能だ)。場所は、「篠栗霊場」、「瀬戸内」、「秋葉街道」、「善光寺街道」、「塩釜」、「下北半島」などである。「霊場」、「街道」、「漁港」といったモチーフは、つげらしいものとしてある。もう少し言い添えるならば、つげが、共感してやまない宮本常一の旅の足跡と共通のものが伺えるといってもいい。
 
 今回、発表された写真は、これまでの温泉場や街道といった場所と違い、東京という大都市(都会)を撮ったものである。撮影された時制に、ほぼリアルタイムで、わたしは地方から上京しているから、つげが撮った場所の雰囲気とでもいえるものを共有できるはずなのだが、身近なようでいて、東京ではないどこか遠くの場所のようにも気がしてしまうのだ。これが、四十年前の記憶を手繰り寄せるということなのかとも思うが、それにしても、わたし自身の、「記憶の風景、記憶の場所」は、あまりにも遠く彼方へと置き去りにしてしまったのかと、愕然となる。
 掲載された写真に、余計な注釈をつける必要はないことを承知の上で、あえて付言するならば、三点の都電の写真があることに注目してみたい。「ねじ式」には、蒸気機関車が登場しているわけだが、これは“夢世界”のことであり、現実的な場所に現われているのではない(ただし、「二岐渓谷」という作品にはワンカットだけ描かれている)。考えてみれば、つげ作品には、電車や汽車といった乗り物が、あまり描かれることがないといえる。都電(路面電車)に関していえば、「窓の手」(80年3月)と、「隣りの女」(84年12月)、「別離」(87年6~9月)という作品を挙げることができるだけだ。電車(ディーゼル車)は、他にもあるかもしれないが、「やなぎ屋主人」(70年2月)、「下宿の頃」(73年1月)、「枯野の宿」(74年7月)、「義男の青春」(74年7~11月)、「池袋百点会」(84年12月)、「やもり」(86年9月)といった作品に見られる。都電(路面電車としては私営の東急玉川線があったが、現在の世田谷線を残し69年に廃線となった)は、現在の荒川線を残して、72年に廃線となったから、わたしは、数年間、東京の路面電車に接したことになる(神保町から新宿まで乗ったことがある。ゆっくり座れたが、さすがにかなりの時間がかかったことを覚えている)。それにしても、車優先という考え方のなかで、都電は交通渋滞の元凶とされ、廃線に追いやられたのだが、結局、渋滞は、車に対する規制をかけない限り無理であって、渋滞緩和とはいかず、ますます渋滞に歯止めが効かなくなっていったのは、都市というものの「陥穽」であると見做すことができる。街の中を路面電車が走行する風景には、緩やかな時間が流れている。日々の暮らしもそうでありたいと、わたしは思う。だから、つげ義春と都電というマッチングは、「記憶の風景」として、これ以上ないものだといっておきたい。
 なお、「荒川区西尾久8丁目辺り」とキャプションが付いている写真は背景として、「隣りの女」のワンカットに使われている。
 東京生まれであるつげは、幼少時(伊豆大島)や学童疎開時(新潟・赤倉温泉)を除けば、葛飾区内に家族と住み続け、家を出てからは、高田馬場、錦糸町、大塚に住んだ後、66年から調布に住む。69年頃の新宿の写真があるのは、丁度、69年3月から一年ほど、新宿・十二社のアパートに住んでいたからだと思われる。70年3月にまた調布に戻り、途中一年ほど流山に転居するが、現在まで調布に在住している。足立、荒川、隅田といった場所は、つげにとって、かつて住んでいた「記憶の場所」を拡張した空間でもあるから、つげがいう東京とは、生まれ育った場所を意味していることになる。わたし自身、上京して四十年以上、いわゆる三多摩といわれた地域に住み続けている。たぶん、どこかで、自分の故郷との近接感を持って住み続けてきたかもしれない。調布も三多摩であり、つげが、葛飾近辺と調布という場所に共通のものを感じたとすれば、現在のような高層ビルを象徴とした大都市というイメージと無縁であるからだと思われる。わたしは、「墨田区大平町1丁目、大横川運河」(つげ自身かつて住んでいた場所とは近辺とのこと)と付された写真に、率直に共感したいと思う。この場所は、つげによれば、現在は埋めたれて公園となっているそうだ。偶然にも、わたしは、今年の春、大横川沿いの桜並木を初めて散策した。門前仲町界隈を流れる大横川で、やがて隅田川に合流する少し手前にあたる。桜は川沿いの両岸に綺麗に咲き誇り、人波もそれほど多くなく、ゆったりとした時間が流れることを感じることができた。その時のことを振り返りながら、つげ義春の漫画作品から読者(わたし)が、慰藉される不思議な感覚を持つのは、つげの、「記憶の風景・記憶の場所」から紡ぎだされるからだと、つげの東京写真群を見ながら、あらためて思ったことになる。

(『塵風 第5号』13.2)

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2011年12月20日 (火)

浮遊する方位――つげ義春漫画と〈酒〉的場所

 つげ義春の漫画に「西瓜酒」という作品がある。作品歴でいえば、初めて『ガロ』誌(つげ義春は、周知のように、それまでは貸本漫画を中心に仕事をしていた。『ガロ』に作品を掲載するようになってからも、しばらくは貸本漫画も並行して描いている)に発表したのが、「噂の武士」という作品で、六五年八月号であった。続いて同年十月号に掲載されたのが、「西瓜酒」であった。さらに、十二月号には「運命」が描かれているのだが、三作品とも、“時代物”である。つげ義春という作家の名を衝撃的に知らしめた記念碑的作品「沼」は、翌年の二月号誌上に掲載されたものだ(一月号には、やはり“時代物”で「不思議な絵」という作品を、三月号では「チーコ」、四月号に「初茸がり」と、この頃は、毎月のように作品を発表しているが、以後、一年近く新作は掲載されることはなかった)。
 「西瓜酒」は、浪人とおぼしき主人公の人物が、友人の住まいを訪れるところから始まる。「ケイキは/どうだ」という問い掛けに、「失業者に/ケイキも/ヘチマも/あるか」と応答するところは、時代物であるにもかかわらず、妙にリアルな描写となっている。持参した土産の西瓜を差し出すと、「おれんとこへ/来るときはな/一升ぶらさげ/て来るのが/礼儀って/もんだ」と友人はいう。それに対して、なぜ、西瓜を持ってきたのかを主人公の浪人は語りだす。夢の中で大儲けしてお金が手に入った余裕で、同じように友人の所に西瓜を持参したが、留守だったため、西瓜に儲けた小判を一枚刺して帰ったところで、夢から醒めたという。その不思議な夢を天啓として、西瓜酒を思いつき、これで大儲けができるはずだと考え、友人の下へと訪ねて来たという。そして、実際に持参した西瓜には、穴をくりぬいて、中に酒を仕込んであったのだ。これを作って売れば、大儲けできると二人は、大いに活気づき、持参した西瓜酒で、なぜか、“チャンチキおけさ”を歌いながら酔いしれていくという物語だ。ただし、最終頁の下段に、「その後の二人が/大金持ちになっ/たという話はき/かない……/なぜなら西瓜は/夏にしかとれな/いからだ」という作者のモノローグが付されている。
 後に、「西瓜酒」という作品を振りかえって、つげ義春は、「貧乏人のちょっとしたやり切れなさみたいな、やけっぱちな感じを出したかった」と述べながら、「ただふたりが騒いでいただけという作品、その方がなんか良かったと思うんですよ。あれだと、モノローグが入ったためにオチをつけたようなもんで、つまらないんですよね。あのオチがなかったら不思議なマンガになるはずだったんですけれども」(つげ義春・権藤晋共著『つげ義春漫画術・下』)と語っている。
 わたしは、「西瓜酒」という作品を前にして、かつて不思議な感慨を抱いたことを覚えている。それは、西瓜に穴を開けて、そこに酒を仕込んで、それを飲むということの、不可解さ、意外さを感じたからだ。何々酒とよく称されるものは確かにある。だが、理にかなった飲み方としてある程度、納得できるものが、ほとんどである。では、西瓜酒はどうだろうか。作中、「西瓜の/甘味と/香りが/まじって/るんだ」、「こ こんなに/うまい酒/はじめてだ」、「今度は/甘瓜を/クリ抜いて/作ってみよ/うと思う/んだ」と二人に語らせている。わたしは、『ガロ』を購読し始めたのは、高校生の時(六五年以降)であるが、「沼」には、強い印象が残っていても、「西瓜酒」という作品のことは、あまり記憶に残っていない。たぶん六八年に出た「つげ義春特集」の増刊号で、初めて接したことになったのだと思う。まだ、十八歳だったわたしが、〝酒〟のなんたるかを承知していたわけではないから、西瓜と酒のマッチングにただ不思議な感慨を抱いたとしても無理はない。もとより、漫画作品に限らず、生み出される作品が、リアルなことを基調とすべきだなどといいたいわけではないが、西瓜と酒を連結させることの意味を考えてみるならば、そこには、実体性から離れた、感覚的なイメージがより濃厚にあるのはいうまでもない。そうであれば、西瓜酒というある種荒唐無稽なイメージには、確かに、「やり切れなさ」と「やけっぱちな感じ」が、メタファーとして滲み出ていると、捉えることができるかもしれない。
 わたしが、「酒」という場所から、つげ義春漫画を遠望する時、真先に思い浮かべる作品は、「チーコ」と「もっきり屋の少女」(『ガロ』六八年八月号)である。
 「チーコ」は、漫画家の主人公と同居女性との関係性の襞を、飼っていた文鳥(チーコと名付けられている)の死を通して描出した作品だ。作中、同居女性が、酔って帰宅する場面は、二人の関係性の抜き差しならない暗渠を示して、深い印象を与えている。主人公の男が駅まで迎えに行くのだが、二時間以上待って、ついには終電の時間まで、彼女は帰って来なかった。心配しながら帰宅してみると、倒れたままの彼女がいる。男は、すかさず、女を問い詰めていく。
 「酔って/るのか」「まっ赤/じゃ/ないか」、「胸がドキ/ドキして/苦しい」「顔が/はれてる/みたいよ」、「なぜ/飲めも/しない/酒なんか」、「しかたない/わよお客/さんの/つき合いだ/もの」、「いつもは/絶対/飲まな/いくせに」、「今日は特別だっ/たのよはじめて/私を指名して/くれたお客/さんだもの」、「もの/好きな客も/いるものだ」、「その人テンデ/カッコいいんで/やんの/あんたと同い/年で車な/んか乗り/まわし/ちゃってさ…」、「それで/いままで/つき合ってたのか」、(略)「新宿へ出て/そこで飲まさ/れてそれから/少しドライブ/したのよ」、「どこ/まで」、「よく/わからない/道が暗かっ/たので」、(略)「へん/あやしい/もんだ」、「へんな/いいかた/しないで/ちょうだい」「そんなに私の/ことが気に/なるの/なら早く/お店を/やめさせ/てよ」「ほんの/一時しの/ぎと/いった/くせに」「アーッ/くやしい!」
 こうした遣り取りの後、女は布団に潜り、男は一人で食事をする。酒の勢いというものがあるに違いない。あるいは、酔ってつい本音が出るということもあるはずだ。しかし、二人のような齟齬は、嫉妬心や猜疑心を孕みながらも、対的な関係性においては、しばしば訪れるものだといっていい。齟齬を齟齬として時間性の只中に置きながら、関係は持続することもあれば、断絶することもある。ならば、酔うということは、何かを喚起してしまうことになるのかもしれない。さらにいえば、酔うということ、つまりどこかへと浮遊していく、そのことが、関係性を逸脱してしまうことの必然を内包してしまうのだといい換えてもいい。「チーコ」における二人の関係性が、ある種のシリアスさというものを潜在させているのは、酒を介在させることで、男女のエロス性をひとつのメタファーとして表出させているからだと、わたしには思われる。「いままで/つき合ってたのか」と問い詰めて、「あやしい/もんだ」という疑念を相手に突きつける。酔って帰ってきただけで、男女のエロス性を過剰に妄想して、疑心暗鬼となる男側の心性は、一方的なものであり、それは、男性自身の心的弱さの裏返しでもある。
 現在のところつげ義春作品で最も新しい「別離」(『COMICばく』八七年六月号、九月号)では、「チーコ」におけるモチーフをさらに発展させ、主人公の男の像を、徹底して内閉化へと向かわせている。家賃を滞納したため、アパートを出ることになり、二年間、「生活を共にした国子と」、別居するところから、物語は始まる。国子は、「ある会社の寮の/賄婦として/住み込むことに」なるわけだが、やがて、国子が他の男と関係したことを知り、衝撃を受け、男は自暴自棄になり自殺しようとする。睡眠薬と酒を併用すると効果があると知り、友人の馴染みの店で、コップ酒を飲ませてもらう。下宿に帰りプロバリンを八十錠ほど飲み、昏睡状態に陥る。心配した友人が、早めに発見したため、命に別状はなかったが、孤絶感は癒されることはなかった。この作品では、酒が放つ浮遊性を存在の断絶のために使われたことになる。
 「西瓜酒」のやり切れなさを漂わせる諧謔(ユーモア)、「チーコ」や「別離」のシリアスさといったものが、つげ義春漫画における〈酒〉的場所の象徴的な表象であるとしても、多くの作品で描出される〈酒〉に纏わる場面は、穏やかなイメージを喚起するものとなっている。
 「長八の宿」(『ガロ』六八年一月号)の旅館で飲む酒、「ほんやら洞のべんさん」(『同』六八年六月号)では、囲炉裏を前にして静かに酒を飲む“べんさん”、「庶民御宿」(『漫画サンデー』七五年四月十九日号)の何人かで飲むウイスキーといったことが、直ぐに想起される。また、「会津の釣り宿」(『カスタム・コミック』八〇年五月号)は、持ち込んだウイスキーを旅館の主人に飲まれてしまうというエピソードが、面白い。これらの作品は、“旅物”と呼ばれる系列の作品群であるが、空間的な拡がりによって、ある意味〈酒〉をめぐる挿話は、穏和な位相を有することになる。
 もうひとつ、つげ義春漫画において、構図的配置の〈酒〉というものがある。いずれも、作品中、極めて重要な場面として、それはあるといっていい。
 「ねじ式」(『ガロ』六八年六月臨時増刊号)では、少年が産婦人科の女医を探すため、彷徨いながら、「先生!」「シリツ/をして/下さい」というカットの次に、軍艦が発砲するという外の風景が見える部屋で、着物姿の女医は、テーブルの上に銚子と杯を起き、「ここは/男のくる所では/ありません/私は/婦人科医/ですもの」という場面がある。ここでは背景の軍艦とともに、前方にある銚子と杯の配置が、女医の存在性を際立たせていると解することができる。しかも、銚子と杯は、絵画における静物的なものとして存在化されているのだ。
 「窓の手」(『カスタム・コミック』八〇年三月号)は、主人公が上着のポケットに両手を入れながら、窓から燈台が見えるカウンターのような所に佇み、ビールかウイスキーの瓶とグラスが、「ねじ式」と同じように静物画的な置かれかたをしている。「窓の手」という作品が持つ、超現実的な基調を、このカットの中に、集約して示されているといえるはずだ。
 「蒸発」(『COMICばく』八六年十二月号)は、元越後長岡藩士ともいわれる流浪の俳人・井上井月の半生をモチーフとしている。伊那谷に流れ着いた井月が、もてなしを受けて、銚子を左手に持ち、右手の人差し指で杯を立てて、「千両/千両」という場面が、これもまた、構図的配置の〈酒〉といっていい。次のカットが、凄い。銚子を倒して酔いつぶれている井月を捉え、「だが/無類の/酒好きで/強酒では/なかったが/すぐ泥酔/し」「下痢/寝小便を/もらすことも/あった」というモノローグが付される。つげ義春が描出する井月と酒のシークエンスは、明も暗も超脱する虚無的な位相を湛えていると、わたしには思われてならない。一見、「千両/千両」と諧謔的に発する振舞いは、生と死の境界を無化する方位へと自らの感性を引き寄せていることを意味している。そして、この井月の諧謔的振舞いの描出は、辞世の句といわれている「何処やらに鶴の声きくかすみかな」の一句を見事に描出される後半部へと繋がっていくことになるのだ。
 「もっきり屋の少女」という作品の少女・コバヤシチヨジは、「沼」から始まり、「紅い花」へと至る、一連の少女像と連結している。そのことが、これまでこの作品に、多くの読者が魅了され続けてきた事由のひとつでもある。“もっきり屋”とは、一杯飲み屋といった意味あいがあるわけだが、この飲み屋をチヨジという少女が、一人で切り盛りしている健気な力強さのようなものによって、この作品を際立たせている。そして、不思議な話し方、あるいは方言が、つげ義春という作家の綺譚力によって、魅惑溢れる世界となって現出しているのだ。
「私は小さい頃に生国を離れて、耳に珍らしい他郷の言葉の中で育ったのみならず、学校や旅やまた都府の社交において、さまざまの人の物言いを比較するような機会を、誰よりも多くもっていた。単なる人生の切れ切れの知識として、これが何かの役に立つということに気づかぬ前から、方言はすでに私の一つの興味であった。」(柳田國男『方言覚書』)
 柳田の時代の「方言」は、標準語教育との確執の狭間にあった。しかし、方言とは、「さまざまの人の物言い」と捉えてみるならば、話し言葉を標準化・平準化することの意義は、「多様性」を否定していくことに他ならない。話し方、考え方は、ほんらい一人ひとりの個に由来すべきであると、わたしは思っている。もちろん、ひとつの共同性のなかに在る時、共通の言葉、共通の感性というものが内在するのは当然だとしても、言葉によるコミュニケーションとは、個から他者(たち)へと発生するものである以上、ひとそれぞれの「物言い」となるはずであり、そうであるべきなのだ。
 つげ義春は、自作を振り返りながら、作品の発露としては、方言への関心があったようだが、むしろ「言葉と意識の関係」についての思いがあったと述べている。
 「『もっきり屋の少女』は方言というより言葉についてということを考えていたんですよね。単純な言葉づかいする者の意識ですね。その事をちょっと頭において描いたんですよ。この少女が二、三度、『みじめです』、何聞いても『みじめです』っていうんです。そういう単純な言葉で自分の気持ちをあらわすということ、その辺の言葉と意識との関係みたいなことが頭にあったんですよ。(略)少女のヒントになった大多喜の宿屋の女の子なんですけど、(略)ぼくはどてらを着て寝ようとしたら、彼女がどてらを着て寝ると『切ない』って言ったんですよ。『切ない』という言葉は普通そういうところでは使わないですよ。どっちかというと哀しいニュアンスですよね。モコモコして寝苦しいという意味だったらしいのですが。/そういう言葉づかいをぼくは面白いと思うんだけれど、単純な言葉づかいですべてを表してしまうような意識、そういう言葉と意識の関係について、『もっきり屋の少女』ではわりと意識して描いたんですよね。」(『つげ義春漫画術・下』)
 ここでいう、「切ない」という発語は、言葉の持つ深い位相を象徴しているといっていい。言葉が感性(あるいは心性)を表すものだとしても、身体性と切り離しての発語はありえない。だから、古語的な世界、あるいは方言的世界というものが、言葉の発生・祖型を内包しているということを前提とするならば、この場合「寝苦しい」という意味を持つ身体的「切ない」が転じて、心的で“哀しいニュアンス”を持った「切ない」となったと考えた方がいい。そもそも、表現・伝達としての言葉とは、単純でシンプルなものであるはずだ。文字も言葉もないかたちでのコミュニケーションの方が長い時間性を有してきた人類史において、身体的表出が通交のための重要な手段であったはずだ。身体言語から表現言語への展開が、プリミティブな関係構築を徐々に解体していったと考えられる。つげがいうように、「単純な言葉で自分の気持ちをあらわす」ことこそ、むしろ、現在のような只中では切実なこととしてあるといっていいかもしれないのだ。
 「むげいの家の/お父っつあは/きぐしねくて/やんだおら」、「そんなに物の/道理がわからん/オヤジなのかね」、「きぐし/ねいです」
 旅人とチヨジとの遣り取りである。「きぐしね」とは、「気癖」の変形だろうか。気難しいとか、短気とか、ひがみっぽいといった資質を指すのかもしれないが、主人公の旅人は、物の道理がわからないことと理解していることを思えば、そういう意味なのかもしれない。物語のうえでは、「きぐしねい」父は、チヨジにとって義理の父を意味していて、実母は、“むげいの家(向かいの家)”で同居しているという設定のようだが、なぜか、もっきり屋をチヨジ一人に任せているということになる。チヨジは、そういう自分の身の上を、「私は/一銭五厘で/買われて来た/のであります」「皆んなが/そういうんで/あります」「私は/みじめな/少女です」といって旅人に語っている。もちろん、「一銭五厘で/買われ」たというのは、ひとつのメタファーだったとしても、かつて(戦前)、わが国の寒村では、頻繁にあったことなのだ。しかし、「みじめな/少女」チヨジは、健気なのだ。旅人にお酌して、「きみはなかなか/慣れた手つきを/しているね」といわせている。そして、旅人は、「コバヤシさん/一パイやり/ますか」といって少女・チヨジにお酌をする。チヨジの切り返しは、「母ちゃん/一パイ/やっか」「アハハハハ/面白い/ね」と快活だ。そして、黙って旅人の手を自分の胸へと誘っていく。吃驚する旅人は、「おいおいきみは/こんな真似をだれに/教えられたの/かね」といって怒ってしまう。チヨジは、ただ「怒った/ので/あり/ますか」と怪訝な顔をして答えるだけだ。そして「自分の/境遇を/なんとも/思っては/いないのか/ね」という問い掛けに、チヨジは「みじめ/です」という。このような応答は、どこか異郷の物語として、わたしたちに直截な共感性を迫ってきて、チヨジが住まう〝もっきり屋〟は、ひとつの理想郷のような場所に思えてくる。しかし、この作品へのつげ義春の視線は、かなり鋭角的なのだ。
 「(略)旅人として地方に出掛けて行ったとき、とても入れないんですよ。そういうことは自覚して描いていましたけれど。現実にこの少女はこの土地で生活しているわけですから。生活者ですから、『沼』とか『紅い花』の少女とちがいますよね。(略)『長八の宿』のジッさんとか『ほんやら洞のべんさん』とか、自然のままに生きている人への共感というのがあったわけですよね。『もっきり屋の少女』にきて、共感したところで所詮は自分は都会の人間であって、追い出されてしまう、入っていけないということを確認してしまったんですね。」(『同前』)
 わたしたちにとって、都合のいい理想郷のイメージは、解体されていいのだ。つげ義春は、この作品以後、一年半近く作品歴に空白をもたらしている。思えば六八年から六九年という時制に、それは照応していた。

(『塵風』第4号・11.12)

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2011年1月22日 (土)

わが「演歌」考―藤圭子から椎名林檎まで

 わたしにとって、「歌」といえば、なぜか「演歌」のことを、すぐに思い浮かべてしまうのだ。だからといって、洋楽やポップな歌が嫌いなわけではないし、特に、ジャンルに拘ってこれまで「歌」を聴いてきたわけでもない。たぶん、自分のなかでは、いわゆる既存の「演歌」というカテゴリーを想起しているのではなく、「演歌」的なるものに魅せられているのかもしれない。ならば、「演歌」と「演歌」的なるものは違うのかと問われそうだが、わたしのなかでは、それは、似て非なるものなのだ。暴論を承知でいえば、山口百恵(特に宇崎竜童の楽曲)や中島みゆきの歌をわたしは、「演歌」として、つまり「演歌」的なるものとして聴いてきたといってもいい。このわたし自身の拘りを幾らかでも、素描していくことが、本稿の試みであり、そのことによって、もしかしたら、「歌」に潜在しているはずの“何か”を採り出すことができるのではないかと思っている。
 わが国の歌謡曲史などというやや大げさな視線から述べてみれば、古賀政男による楽曲を古賀メロディーと称して「演歌」の原型のような捉え方をされてきた。そして古賀政男が、幼少期から青年期にかけて日本統治下にあった朝鮮半島で暮らしたことが、朝鮮の音曲の影響を受けたことを根拠に、「演歌」は、「怨歌」であるとか、「艶歌」といった言葉に置き換えて、解説されてきたように思う。わたしは、日本の文化や生活が、半島や大陸の影響を受けずに、独自のものとして構築してきたなどというつもりはないのだが、だからといって、その影響を強調するあまり、定型的な位相へと押し込めてしまうことを避けたいと考えている。例えば、美空ひばりが歌う『悲しい酒』(66年・作詞、石本美由紀)を古賀メロディーの代表曲として、さらには美空ひばりの代表的な「演歌」として称揚されているが、わたしには同意できない。古賀政男の楽曲としては、『悲しい酒』より、『酒は涙か溜息か』(31年・作詞、高橋掬太郎)の方が遥かに優れた作品だと思うし、ひばりの代表曲は、わたしなら『哀愁波止場』(60年・作詞、石本美由紀・作曲、船村徹)を無条件で挙げたい。しかし、ここで、わたしは古賀メロディーや美空ひばりを通して「演歌」や「演歌」的なるものを述べていきたいのではない。わたしの入り口は、古賀メロディーでも美空ひばりでもないということをとりあえず前提としていっておきたいだけなのだ。わたしが拘泥する「演歌」とは、コブシやビブラートを技法とする歌唱のことを意味しない。それは、次に挙げるふたつの楽曲によって、象徴させてみたい。

 「あれは二月の寒い夜 やっと十四になった頃/窓にちらちら雪が降り 部屋はひえびえ暗かった/愛と云うのじゃないけれど 私は抱かれてみたかった//あれは五月の雨の夜 今日で十五と云う時に/安い指輪を贈られて 花を一輪かざられて/愛と云うのじゃないけれど 私は捧げてみたかった//あれは八月暑い夜 すねて十九を越えた頃/細いナイフを光らせて にくい男を待っていた/愛と云うのじゃないけれど 私は捨てられつらかった//そしてこうして暗い夜 年も忘れた今日のこと/街にゆらゆら灯りつき みんな祈りをするときに/ざんげの値打ちもないけれど 私は話してみたかった」(『ざんげの値打ちもない』70年、唄・北原ミレイ、作詞・阿久悠、作曲・村井邦彦)

 「お酒はぬるめの 燗がいい/肴はあぶった イカでいい/女は無口な ひとがいい/灯りはぼんやり 灯りゃいい/しみじみ飲めば しみじみと/想い出だけが 行き過ぎる/涙がポロリと こぼれたら/歌い出すのさ 舟唄を/沖の鴎に 深酒させてヨ/いとしあの娘とヨ/朝寝する ダンチョネ/店には飾りが ないがいい/窓から港が 見えりゃいい/はやりの歌など なくていい/時々霧笛が 鳴ればいい/ほろほろ飲めば ほろほろと/心がすすり 泣いている/あの頃 あの娘を 思ったら/歌い出すのさ 舟唄を/ぽつぽつ飲めば ぽつぽつと/未練が胸に 舞い戻る/夜ふけてさびしく なったなら/歌い出すのさ 舟唄を/ルルル・・・・・・・」(『舟唄』79年、唄・八代亜紀、作詞・阿久悠、作曲・浜圭介)

 どちらの作品も、詞が阿久悠であることは、偶然に過ぎない。ペドロ&カプリシャスの『ジョニィへの伝言』(73年)の作詞で、わたしは、初めて阿久悠の詞に注目したのだが、詞のイメージとして、かなり違うものを漂わせている前記ふたつの歌は、阿久悠の優れた力量と多彩さを持った才能を思わずにはいられない。『ざんげの値打ちもない』は、物語性を持った詞が、感性を揺さぶる。村井邦彦の曲調も、語り言葉をうまくメロディーに乗せることに成功している。『舟唄』は、どうだろうか。「酒」、「涙」、「女(娘)」といった「演歌」の典型的な詞語を駆使しながらも、『ダンチョネ節』を織り込むことによって、ある種のフォークロア的世界を現出させている。これは、不思議に思うことなのだが、「演歌」に対する率直なイメージとして、「暗い」、「内閉的だ」といったことが、よくいわれてきた。『悲しい酒』はまさしくその典型といえそうだなのが、『ざんげの値打ちもない』も、『舟唄』も、一見、そのような雰囲気を漂わせていながら、どこかアクティヴな位相(生への無意識の発露)を、有しているとわたしには思えるのだ。例えば、八代亜紀の『舟唄』は、中島みゆきの『歌姫』(82年)に通底するものがある。悲哀感のなかにありながらも、自らの立ち位置を見定めようとする方位を内在させているといえばいいだろうか。つまり、「窓から港が 見えりゃいい/はやりの歌など なくていい/時々霧笛が 鳴ればいい」といった必ずしも内閉していかない発露が、そのように感受させている気がしてならない。
  「情念」という言葉があり、わたし自身、その言葉にかつてはいいようのない拘りを抱き続けたことがある。「演歌」的なるものと「情念」が響き合うことは否定しないが、どこかで、「情念」といういささか過剰な思いを昇華させたいということを考えるようになった。だから、『ざんげの値打ちもない』のモチーフを“女の情念”といった位相に押し込めたくないということになる。“独白”が二月に始まって、五月、八月となり、「そしてこうして暗い夜 年も忘れた今日のこと/街にゆらゆら灯りつき みんな祈りをするとき」というのは、十二月だということが分かる。これまで、わたしのなかには、歳時記的世界というものに、どこか馴染めないものがあった。クリスマスも正月も、少年期において、心躍ることはなかったといっていい。たぶん、風土的なことが影響しているのかもしれない。わたしが生まれ育った、東北の冬の季節は、雪の白さに象徴されるような美しいものではないからだ。冒頭の「窓にちらちら雪が降り 部屋はひえびえ暗かった」は、そういう意味でいえば、「街にゆらゆら灯りつき みんな祈りをするとき」と対称性をもたらして、「ゆらゆら灯り」がついている「街」に対する根源的な疑義を表出させていると、わたしなら見做してみたい。そう、ここでは、怨念や情念ではなく、怒りのようなものを潜在させているのだ。何に対しての怒りかといえば、どうしても感応せざるを得ない「愛と云う」男と女の関係性にである。しかし、この怒りは、いずれにしても解決、解消しえないものとしてあるのだ。わたし(たち)が、生きて在る限り、忌避できないものとしてそれはあるからだ。「私は話してみたかった」ということは、そのような男と女の関係性を引き受けていくことへの、かたちを変えた表明でもある。
 思い起こせば、わたしの「演歌」や「演歌」的なるものへの関心の起点は、六九年秋から冬にかけて、浪曲師の父と盲目の三味線弾きの母を持つ、ひとりの女性歌手の〈歌唱〉によってだった。この歌い手の独特の〈声〉に魅了されたことは、確かなのだが、〈新宿〉をモチーフにした、その歌は、わたしに、前年の一〇月二一日に〈新宿〉を中心に生起した大きな渦動からの一年という時間性に潜在してきた様々な様態を仮想させ、〈新宿〉という場所が持つ情況の暗渠を切開してくれたのだ。

 「私が男になれたなら/私は女を捨てないわ/ネオンぐらしの蝶々には/やさしい言葉がしみたのよ/バカだなバカだな/だまされちゃって/夜が冷たい新宿の女」(藤圭子『新宿の女』―69年9月、作詞・石坂まさを、作曲・みずの稔・石坂まさを)

 わたしが考える「演歌」的なるものの構造とは、場所性を照射することによって、時間性を遡行し、感性の根源とでもいうべき位相を析出することだと思っている。藤圭子が歌う『新宿の女』は、まさしくわたしに、「新宿」という街の騒乱のなかにある陰影の存在といったものを意識付けさせてくれたといえる。藤圭子の独特の〈歌唱〉と〈声〉は、「バカだなバカだな/だまされちゃって/夜が冷たい新宿の女」という三番までのリフレーンが、前年に生成した大きな波動に換起された“情念”を、一年にして醒めた感性へと拡張させてきたことへの否認のベクトルを内在していたと捉えてみたいのだ。そんな、虚妄のような思い込みは、お前だけのものに過ぎないという「声」が聞こえてきそうだ。確かにそうかもしれない。だが、わたしは、たぶん、この独特の〈歌唱〉と〈声〉に、なんの外連もなく慰藉されていたのだと思う。デヴュー作の『新宿の女』から、『女のブルース』(70年2月)、『圭子の夢は夜ひらく』(70年4月)、『命預けます』(70年7月)までの一年余り、〈藤圭子的情況〉を取り込みながら、わたしは、〈外在的情況〉とともにひたすら疾走したのである。

  「『無口』という茶店のところで/乃木坂は黄昏にあう/粒になった夕陽の肩に/髪の毛みたいに闇が流れ落ちる//うまく神話に触れてきた/ふるい村の話からはじまって ちょうど/いちばん辛い暗礁の日々まで/涙ぐむ祖母の肩を抱いて/もっとその奥にある/『無口』という茶店で/慰めている」「つくられた一語に色づいた/村の妹たちに触れてきた 乳房は/森のうしろ 双が丘になった/風に揺られた神話のなかでは/概念がエロスだった/永遠という旅の途次の字画よ/そのままで どうかそのままで/こわれた村の妹たちは 都会にでて 夜ごと/『新見附』という文字に抱かれている」(吉本隆明「演歌」―詩集『記号の森の伝説歌』)

 「演歌」と題されたこの詩篇には、「乃木坂」、「双が丘」、「新見附」という地名(場所)が現われる。いわば、母なるものの祖型(祖母・村の妹たち)をそれらの地名(場所)に象徴化させている。つまり、この詩篇もまた、場所性を照射することによって、時間性を遡行し、感性の根源(母型)とでもいうべき位相を湛えている。もちろん、この詩にメロディーを乗せて歌うことはできないかもしれないが、詩語の間隙から「村の妹たち」の「声」が聞こえてきそうだ。それは、神話(伝説)という物語をかたちづくっていくことを意味している。
 藤圭子から三十年ほどの時を経て、椎名林檎が、〈新宿・歌舞伎町〉を神話化して登場した。
 椎名林檎が、新宿・歌舞伎町を、軽快に、“歓楽街”と歌った時、一九六八年一〇月二一日の出来事も含め、七十年前後の事どもが、遠く古層のなかへと押し込められていったというべきである。もちろん、それはそれでいいのだが、その時、すでに新宿は、“若者の街”でもなんでもなくなっていたわけだから、椎名林檎は、別の位相で新宿を再生させようとした、つまり神話化したと捉えられなくもない。そして、それからまた、さらに十年以上経ったことになる。時間的にいえば椎名林檎は、現在に近い場所にあるが、むしろ、椎名林檎的場所からの方が、四十年以上前のことが、見えそうな気がするから、不思議な感慨が湧いてくる。

 「蝉の声を聞く度に/目に浮かぶ九十九里浜/皺々の祖母の手を離れ/独りで訪れた歓楽街/ママは此処の女王様/生き写しの酔うあたし/だれしもが手を伸べて/子供ながらに魅せられた歓楽街」

 東京近郊(この場合、千葉・九十九里浜沿岸ということになる)から、歌舞伎町へと出立する一人の若い女性は、「バカだなバカだな/だまされちゃって」と嘆くことなく、歓楽街でまさしくアクティヴに生きていくことになる。

 「十五に成ったあたしを/置いて女王は消えた/毎週金曜日に来ていた男と暮らすのだろう/『一度栄し者でも必ずや衰えゆく』/その意味を知る時を迎え足を踏み入れたは歓楽街/消えていった女を憎めど夏は今/女王という肩書きを誇らしげに掲げる//女に成ったあたしが売るのは自分だけで/同情を欲した時に全てを失うだろう/JR新宿駅の東口を出たら其処はあたしの庭大遊戯場歌舞伎町/今夜からは処の町で娘のあたしが女王」(椎名林檎『歌舞伎町の女王』―98年9月、作詞作曲・椎名林檎、編曲・亀田誠治)

 椎名林檎の『歌舞伎町の女王』は、わたしにとって鮮烈だった。「歌唱」と「声」は独特というよりは、苛烈だ。その苛烈さが、わたしに「演歌」的なるものの世界を鮮明化させてくれた。しかも、不思議なことに、詞の構造が、吉本詩「演歌」と奇妙に照応してしまうことに、驚いてしまう。ここから先、椎名林檎論を展開していきたい欲求を抑えながら、かつては、ある種アナーキー(雑多)な街だった〈新宿〉という場所に思いを巡らしてみる。「JR新宿駅の東口を出たら其処はあたしの庭大遊戯場歌舞伎町」といえる場所は、六十年代から七〇年代、〈新宿〉の中心であった。いまでは、新宿から歌舞伎町界隈を分断するかのように、最も戦後的場所を残存させていた駅南口側も再開発が進み、サザンテラスなどという名称とともに、高度消費社会を象徴するオフィス街とショッピング街にイメージを変貌させている。もちろん、これは新宿へ都庁が移転したことと関連づけられることなのだが、西口の高層ビル群は、首都東京の象徴といえるだけでなく、いまやアジアの列島国家の象徴存在となっているといっていい。それはつまり、わが列島の祖型を覆い隠し、北から南へとつらなる共同性の連結を分断させていくことを意味する。南(福岡)から、上京し、新宿・歌舞伎町を屹立させることで、都市の構造を透徹しようとした椎名林檎は、「女に成ったあたしが売るのは自分だけで/同情を欲した時に全てを失う」という意志によって、新宿・西口の高層ビル群を相対化していく。そのような思いを抱かせる、『歌舞伎町の女王』は、わたしに、「演歌」的なるものの相貌を突きつけたのだ。

 「あたしは絶対あなたの前じゃ さめざめ泣いたりしないでしょ/これはつまり常に自分がアナーキーなあなたに似合う為/現代のシド・ヴィシャスに手錠をかけられるのは只あたしだけ」(『ここでキスして。』・99年1月)

 「約束は 要らないわ/果たされないことなど 大嫌いなの/ずっと繋がれて 居たいわ/朝が来ない窓辺を 求めているの//どうして 歴史の上に言葉が生れたのか/太陽 酸素 海 風/もう充分だったはずでしょう」(『本能』・99年10月)

 藤圭子から椎名林檎までの「演歌」的なる場所は、いまだ、わたしのなかで、浮遊し続けている。

(『塵風』第3号・11.2)

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2009年6月16日 (火)

「無頼(やくざ)」映画・断想―『仁義の墓場』を中心に

 「無頼」というものを、「やくざ」と同義に捉えるのは、いささか強引な視線かもしれない。組織になじまず単独者として行動することを、「無頼」たるゆえんであるとするならば、「やくざ」者は、必ずしも単独者とは限らず、徒党を組んで振舞うといったイメージがあるからだ。
 六〇年代末から七〇年代中期にかけて、主に東映、日活で一連の任侠(やくざ)映画群といわれる作品が作られ、わたし(たち)を熱狂させたものだった。東映に関していえば、映画産業の衰退とともに、時代劇から、股旅映画へと推移し、そして明治・大正期を時代背景とした任侠映画、さらには『仁義なき戦い』シリーズを象徴とした現代やくざ映画(実録やくざ映画)なる括りで作られた作品を量産したのち、『仁義』シリーズの菅原文太を主演にして、東映の寅さんシリーズと揶揄された『トラック野郎』シリーズをもって、いわゆるヤクザ映画と訣別していった。
 やや堅苦しいいい方で述べてみれば、わたしが、一連のやくざ映画群に魅了されたのは、そこに「個」と「共同性」の確執を通した様々な難題(アポリア)を感受できたからであり、当時(もちろん、依然、現在までも)の情況的態様との往還の通路を模索しうる方位と見做しえたからであった。
 実録やくざ映画群のなかでも、一際、異彩を放っていた作品があった。75年に封切られた深作欣二監督、渡哲也主演の『仁義の墓場』(東映―脚本:鴨井達比古・松田寛夫・神波史男、撮影:仲沢半次郎、『映画芸術』誌75年度日本映画ベストテン・第四位、『キネマ旬報』誌同・第八位)である。津島利章の音楽による京琴の音色が、鮮烈な印象を与えながら、物語はひたすら救済のない破滅の先へと向かっていく。
 渡哲也演ずる石川力夫は、戦後の混乱期を疾走した実在の人物である。石川は、直情的で暴力的な若者として描出される。しかし、それは、ある意味、純粋で繊細な資質が反転したかたちで表れたものだ。敵対する組の人間が、自分たちの縄張りで大きな態度をしているのに我慢がならず、抗争に発展することも顧みず、その場で、暴力的な制裁を加え瀕死の重傷を負わせる。自分の組長(河田組組長・ハナ肇)や幹部(室田日出男)から、直情的な行動を叱責されてしまう石川は、組のことを思ってやったにもかかわらず、なぜ叱責されてしまうのか理解できないのだ。
 本来、やくざ組織という共同体は、組長という絶対的存在によって共同体の成員(組員)を完全統治下に配置させているものだ。天皇制の本源をどう解するかによって、対照化の構造は差異を含むことになるのだが、わたしは、天皇制とどこかで通底する位相をそれは内包していると考えている。ただし、絶対的な強固な支配円環構造を指示してのことではない(天皇制は、ひとつの社会構造だけに収斂させて存立しているわけではない。下部構造が非資本主義制を採っていても、それは成立すると思えるからだ)。それはつまり、垂直的な共同体は、いつでも横からの共同体の侵入によって、内的変換(転換)が可能となっていくことを意味している。映画で描出されるやくざ組織は、そのような内実を孕んでいる。だから、敵対も親交(親近)も、表裏性にあって、ぎりぎりの共同体的せめぎ合い(これは、いうなれば政治性の発露といっていいかもしれない)が、必要となってくる。
 石川にとって自分が属する共同体は、自己を充足させてくれる唯一のものとしてあるのだ。だから、そこでは、敵対する組も親交(親近)ある組も自分にとって異和なもの以外、なにものではないという反政治・非政治的な思い(情緒的、情念的な思いといい換えてもいい)が強く働くことになる。河田組組長の兄貴分にあたる野津組組長(安藤昇)に対する反意も同様である。腹いせに野津の車に放火したことを、河田に厳しく断罪され、石川は逆上して河田を刺してしまう。これは、後に、少年院で知り合い兄弟分として契りを交わした今井(梅宮辰夫)を殺してしまうことと同じ衝動によるものだ。親近性は、いつでも憎悪に転化しうることは、関係性が濃密になればなるほど、生起することである。家族間での生々しい事件が、頻出する現在、人間の精神の底部を問題視していくこともひとつの方途かもしれないが、わたしは、共同性の基層にある発露していくしかない感性の必然性のようなものを思わないではいられない。
 ありうべき共同性を希求していけば、いくほどに共同性との軋轢を発生していくアンビバレンスな様態を示す石川力夫の生き方と死に方は、「個」を「共同性」と同位させようとするイノセント性を表出しているといってもいい。
そのような象徴が、情婦・地恵子(多岐川裕美)との関係性であり、今井との齟齬を生んでしまう関係の有様だといえる。自分の親分を刺すというやくざ社会における絶対的な禁忌に抵触したことによって一年八ヶ月の懲役で出所後、十年間の関東所払いの処分を受けた石川を、様々に手を差し伸べてなければいけなかったはずの今井は、一家(組)を構えたことによってやくざ共同体社会に包括された一組長といった存在に転換していき、石川を大阪へ放置したまま、石川との距離を置くようになっていた。そのことを敏感に察知する石川が、自分の側へと引き寄せたいという感情の発露として今井と対峙してしまうのは、忌避できないものとしてあったといえる。
 今井を殺した後(二度も襲撃して止めを刺すという執拗さであった)、地恵子の身を粉にした犠牲によって、仮釈放となって戻ってきた石川は、さらに惨憺たる様態になっていた。
 地恵子との関係は、ほとんど言葉らしい言葉を交わすことなく、黙契と沈思する有様を示している。「個」と「共同性」のなかで、もがき苦しむ石川にあって、地恵子との有様だけが、心意的充足を得るものであった。
所払いで大阪に暮らしていた時に、知ったヘロインをうっている石川の傍らで地恵子が見詰めながら臥せっている。恍惚とした石川の表情のアップ、そして、窓外には赤い風船のショット。地恵子はそんな石川の姿を、寂びしけに見据えながら、やがて吐血する。朦朧とした状態で、血を拭ってやる石川に対して、「ありがとう」と言って泣き崩れる地恵子。画面はその後、手首を切って自死する地恵子を俯瞰で映し出す。ナレーションは、地恵子の自死の一週間前、石川の籍に入ったことを告げる。
 二人の関係を、ほとんど詳細に描写しているわけではないにもかかわらず、深作にしてはめずらしいほど、情緒的映像を二人の場所に対して採っているから、荒んだ破壊的な生き様が、奇妙に無垢で繊細なものとして映ってくる。地恵子と今井と自分の三人の墓石を作る費用を捻出するために、河田のもとを訪れ、骨壷から地恵子の骨を取り出して齧りながら、ただ、河田の前で黙している石川の像は鬼気迫るものがある。
 墓石には、“仁義”の文字を刻んだ。
 今井殺しの残りの刑期(懲役十年の判決に対する上告が棄却されたため)で再び収監された石川は、地恵子の死から三年後の同じ日に、刑務所の屋上から飛び降りて二十九年の生涯を閉じる。独房に、遺書にあたる文字が刻まれていた。

 大笑い 三十年の 馬鹿騒ぎ

 遺句といえば、そういえるかもしれない。五七五にしっかりと収まっているそれらの言葉を発したのが、狂気、凶暴な無頼者であることは、自虐的な悲しみを醸し出しているといってもよい。わたしは、当時、リアルタイムでこの作品を見たとき、石川の遺句にどうしても共感を抱くことができなかった。俳句という形式に妙な異和感があったからかもしれない。いくらか親しんでいた短歌ならよかったのだろうか。しかし、映画『駅』(81年、東宝、監督・降旗康男)で根津甚八演ずる殺人犯が、死刑執行時前にしたためた、恩義になった刑事役の高倉健へ宛てた手紙のなかで短歌が書きしるされていて、それをナレーションとなって詠み上げられた時、わたしは、気恥ずかしさしか沸いてこなかった。倉本聡の脚本の限界性を示す一例だと、今ならいえそうな気がするが、それならば短詩型は、映像的ではないのだろうか。
 だが、いまあらためて、『仁義の墓場』を見直して、余韻を持って、「大笑い 三十年の 馬鹿騒ぎ」を諳んじてみるならば、不思議なことに、いいようのない切実な気分が湧き上がってくることに気づいてしまうのだ。つまり、“三十年”を“五十年”とか“六十年”に置き換えてみると、実感して、時の重層性が了解されていくことになるからだ。それゆえ、石川力夫像は、当時、感じた以上に、そのイノセントさに、率直に共感する自分を確認していくことになってしまう。無垢と狂気・凶暴はいつでも、表裏にあることを、わたし(たち)は、いま一度、実感すべきことのように思える。
 この作品は、渡哲也、久しぶりの映画出演であり、東映初出演・主演映画でもあった。六十年代後半、日活でこの作品と同じ藤田五郎原作による『無頼』シリーズがあった渡は、さらに遡っていえば、傑作『東京流れ者』(66年、日活、監督・鈴木清順)という作品も持っている。しかし、この作品で、三十代に入った渡哲也は重厚で存在感溢れる見事な演技をしたといえる。『仁義の墓場』は、翌年に封切られた『やくざの墓場 くちなしの花』(監督・深作欣二)とともに、渡哲也の代表作となった。
 本来、「無頼」映画とか「やくざ」映画、あるいは「股旅」映画といったものが、屹立してあるわけではない。「無頼」映画と括られるすべての作品が、「無頼」の深層を切開して、鮮烈な劇性を提示していたわけではないし、「やくざ」映画といわれる作品ならすべてわたしたちが感応していたのかといえば、そうではない。結局は、一つ一つの作品を前にして、共感を得ることができるのかどうかだけが、わたし(たち)には、切実だったのだ。

(『塵風』創刊号・09.6)

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