2012年11月16日 (金)

中川右介 著『山口百恵――赤と青とイミテーション・ゴールドと』(朝日新聞出版刊・12.5.30)

 山口百恵が、引退して三十二年経ったことになるが、わたしにとっては、女優としても、歌手としても、いまだに燦然と輝く存在である。百恵以前も、以後も山口百恵以上の存在をわたしは認知することができないでいる。考えてみれば、本書の著者も指摘していることだが、これまで、山口百恵を論じた単著が、意外にも少ないことに不思議な思いがする。平岡正明の二冊の著書(『山口百恵は菩薩である』、『菩薩のリタイア』)と、四方田犬彦編著のもの(『女優山口百恵』)を入れて三冊のみなのだ。平岡の著書はリアルタイムで読み、それなりに首肯できるところもあり、いつもの平岡節も快調で、面白い分析ではあったが、どうしても、相容れない重要なファクターがあって百恵論としては、駄目だといわざるをえない。それは、美空ひばりを起点として百恵を論ずることの錯誤と、菩薩に昇華させようとするある種のオカルティズムといっていい。例えば、小林秀雄や丸山真男を起点として吉本隆明を論ずるようなもので、そもそも、視線が違っているのだ。むしろ、平岡やわたしより年少でもある本書の著者の方が、遙かに苛烈なアプローチをしている。著者の視線によれば、百恵は、「日本史上、ただひとり、その勝利がたとえ一瞬のものだったとはいえ、真に成功した革命家だった」となるのだ。何を持って、「革命家」と捉えたのかといえば、それは、「国家」に対峙したという意味であり、まさしく真っ当な解析だと思う。つまりこうである。78年5月に「プレイバックPart2」が、同年11月に「いい日旅立ち」が、シングル盤として発売された。同年12月31日、NHK「紅白歌合戦」で史上最年少(19歳。この記録はいまだに破られていない)で、紅組のトリとなる。「いい日旅立ち」は、周知のように旧国鉄のキャンペーンソングである。国鉄には予算がないから、「勝手に作ってくれ、それを国鉄が後追いするから」ということを当時の電通のプロデューサーの話を紹介しながら、国鉄からは、百恵側に一円も払わない代わりに国鉄のコマーシャルで「いい日旅立ち」の宣伝がなされることになり、百恵がTVで歌えば、国鉄の宣伝となるわけである。いわゆる、タイアップ曲ということで、あくまでも、「日本国家の国営企業にして、日本最大の巨大企業『国鉄』と山口百恵は対等の関係になった」のだと、著者は捉える。「プレイバックPart2」には、有名な「真紅なポルシェ」という歌詞がある。それまでNHKは、例え、「紅白歌合戦」でも、固有名詞が出ることを禁じてきたのだ。しかし、「全国民が注視するなか、山口百恵はしっかりと『真紅なポルシェ』と歌ったのである。普段は役所の言いなりになっても、祝祭の場ではそうはいかない。芸能が官僚主義を打ち破った瞬間だった」と著者は見做す。これが、「鉄道と電波を制圧するのが革命の条件だとする」著者が、百恵を「革命家」とする所以である。もう少し、付言するならば、著者は、このようにも記述していくのである。勿論、わたしには、異論のない捉え方だ。
 「ついにこのアルバム(註・『17才のテーマ』、この四カ月後に、他の三曲と共にアルバムに収録はずだったが、シングル盤として『横須賀ストーリー』が発売される)で歌謡曲の革命の担い手と出会った。阿木燿子と宇崎竜童である。以後、山口百恵は伝統と革命の両方を同時進行させるという日本芸能史の奇蹟に向かって邁進するのである。」
 しかし、本書の魅力は、百恵デビュー前史として、戦後の芸能プロダクション(ナベプロ以後)の流れとテレビメディアと音楽業界の関係を描写していくことによって、かつての遊行漂泊的下層民という芸能集団(現在もまったく、そういう相を払拭しているわけではない)から、ビジネス化(つまり消費資本主義化)した芸能の世界を「アイドル」に表象させて解析していくところにある。と同時に、様々な資料を駆使して「内」なる百恵も浮かび上がらせていくのだ。例えば、映画『伊豆の踊子』に出演した後に、共演者・三浦友和との映画雑誌での対談で、「身につまされちゃったの。だって、私たちだってあの〝かほる〟と大差のない仕事をしてるわけでしょう。歌手だとかタレントなどと呼ばれているけれど要は芸人なんですものね」という百恵の発言を引いている。映画では、著者も述べているように、「村の入り口に『物ごい旅芸人村に入るべからず』との立て札」がはっきりと映し出されているからだ。
 こうして本書は、山口百恵をめぐって「内」と「外」からの視線を重層的に射し入れることによって、デビューから引退までをドキュメントふうに綴りながら、鮮鋭に「総体としての山口百恵」像というものを際立たせているといってもいい。
 それにしてもと、思う。本書で引かれている様々な媒体で発言している百恵の言葉にただ納得する自分がいることに気がつくのだ。『蒼い時』は、残間里江子の聞き書き説もあったのだが、著者は、百恵自らが書いたことを丹念に傍証している。わたしは、知らなかったが、引退の日(80年10月15日)の「記者会見で、山口百恵は歌と映画のそれぞれで一番好きなものとして〈横須賀ストーリー〉と『伊豆の踊子』を挙げた」という。
 やはり、山口百恵は屹立した存在である。
 最後に、わたしの百恵の〈歌〉ベスト3(アルバムなら『百恵白書』を挙げる)と〈映画〉ベスト3を挙げておきたい。「夜へ」、「曼珠沙華」、「歌い継がれてゆく歌のように」、『天使を誘惑』、『伊豆の踊子』、『霧の旗』(三本目は、時に『春琴抄』や『潮騒』に入れ替わる時がある。ちなみにワーストは『古都』)である。著者も捉えるように、百恵にとって大きな転換点となった「横須賀ストーリー」を初めて聞いた時の衝撃は忘れたことはない。

(『図書新聞』12.11.24号)

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2012年10月 5日 (金)

佐藤裕史 著『精神現象の宇宙へ               ――〈こころ〉への知的探索の旅[慶応義塾大学講義]』      (金剛出版刊・12.7.30)

 本書は、「二〇一〇年秋から半年間、慶応義塾大学文学部人文社会学科二年生を主な対象とする『人間科学諸領域Ⅰ』」(「おわりに」)の講義を基にして編まれたものだ。精神科医の著者であればこそ、「精神への学際的接近」と副題にして、「『精神』と私たちが総称している多用(ママ)で多彩な精神現象のいろいろな側面に、さまざまな角度から光を当てて、精神現象の多様性をとらえること。そして精神のさまざまな側面に接近し理解を少しでも進める方法やその限界をみてみる。そうした試みを、学際的に、専門領域を横断しておおづかみにしてみること」(「第2講 序論『自己・精神・脳』」、ママ表記は、評者)を目指したものとなっている。著者は、書名にもある通り、本書でしばしば、「こころ」という表現をキ―ワードにして論を展開している。これは、「『こころ』=精神現象」と見做しているからであり、「『こころ』という表現が頻りに使われ」るようになったのは、「脳科学なるもので取り沙汰される明快なものの見方」への「反発があって、釣り合いをとるために『こころ』という表現が多用されるのではないか」(「第3講 近代自然科学における『こころ』」)と考えているからでもある。わたしなら、真っ先に、吉本隆明の『心的現象論』を想起して、「心的現象」としたいところだが、残念ながら本書は、吉本最大の仕事とクロスは、していない。しかし、「学際的に、専門領域を横断して」把握していく方法論は、共通のものがあったと、読後、感じたことだ。本書では文学や音楽、絵画といった領域へも横断させながら、精神現象を捉えていくのだが、土居健郎の『漱石の心的世界』を援用しながら、次のような論及していくところは、「〈こころ〉への知的探索の旅」の白眉だといってみたくなる。
  「漱石の作品を、新たな角度から、精神分析という視点で切ってみたら、それまではっきり見えなかったものが見え、作品の理解が深まる。だから精神分析は理解を深める道具、一視座の提供法であって、(略)当てものじみたことを言うのではない。(略)漱石の作品を精神分析という日本刀で切って、作者である漱石自身の相当な精神病理も見えてくるけれども、それだけなら野次馬根性の冷やかしにすぎない。漱石が自分の創作活動を通じて自分の精神的な闇に向き合って立ち直っていく様子も理解できる。(略)だからこの本(評者註=土居健郎『漱石の心的世界』)を読むと、漱石の作品の理解が深まり、漱石自身に対する敬意も深まり、精神を理解する方法としての精神分析の理解も深まる。」(「第4講 精神の研究」)
 このように、誘われていくことによって、精神という不可思議な領域が、親近なるものに思えてくるはずだ。つまり精神とは、「実体のない架空の想念や幻影で構成される仮象にすぎない」(「はじめに」)からだ。
 だが、精神科医としては抑制的で、「病気」に関して触れているのは、二か所だけである。ひとつは、「うつ病」。「うつ」のスペクトラムというのがあって、中心に「うつ病」があり、外周に、「抑うつ状態」、そしてさらに、「日常的な落ち込み」があるとする。医学的治療が必要なのは、核にある「うつ病」であるにもかかわらず、外周にある「抑うつ状態」や「日常的な落ち込み」にまで、拡大させて薬物投与の対象にしている市場経済論理を裁断していく。また、もうひとつの「発達障害」では、社会性との関連で、関係性を連結できないことへの過度な評価の陥穽を衝く。誰にでも得手・不得手というものがあるものだ。しかし、不得手なものが、社会的関係性のなかで、欠陥として露出したとき、他者は、そのような人(たち)を差異化していくことになる。
 考えてみれば、精神的現象でも、心的現象でもいいが、それは、関係性というものから生起するものである。著者によれば、サリヴァンという精神科医が、かつて、「自己とは他者の評価の集合である」といったそうだ。まさしく、これこそが、仮象の淵源であるといえそうだ。「第6講 『こころ』と文化」のなかで、「言語と非言語、メタ言語」という項目がある。そこで著者は、「言語的コミュニケーションを規定するのは非言語的コミュニケーション」だと述べている。つまり、「ことばの内容ではなくその言い方、タイミング、音調などのコミュニケーションの質」を重視することを、それは、意味している。吉本隆明は、「言葉はコミュニケーションの手段や機能ではない。それは枝葉の問題であって、根幹は沈黙だよ」(「『蟹工船』と新貧困社会」)と、述べていたことを、いま、思い出す。飛躍していえば、「うつ」も「発達障害」も他者が評価したものに過ぎず、それは、所詮、仮象なんだといいたくなることを、わたしは、抑えることができない。

(『図書新聞』12.10.13号)

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2012年9月14日 (金)

内村剛介 著、陶山郁朗 編集・構成                『内村剛介著作集 第6巻 日本という異郷』            (恵雅堂出版刊・12.3.30)

 全七巻の著作集もようやく第六巻へと到達した。日本をめぐる情況論(1960~1989年)と日本の思想家、作家に触れた文章群で構成されている。内村剛介にとって、日本という「国」は、相対化した視線を射し入れることによって、しばしばジャパンと見做されるものであった。  
 衝撃的な著書『生き急ぐ』で、ことさら、十一年間にわたる“スターリン獄の日本人”として内村を捉えがちだが、1934年、高等小学校卒業後、十四歳で生地・栃木県那須郡境村を離れ、姉夫婦が居住する満州へと向かい、以後、56年の帰国まで、二十二年間、わが日本国を不在にしていたことになる。ラ―ゲリーでは「国家」と否応なく対峙し、帰国してからは、「くに」、「国」、「クニ」といったことどもの狭間で、複層的に絡み合いながら、異和なる故郷と対峙していかなければならなかったといっていい。
 中野重治についての文章を引用してみる。
 「『くに』を中野に見ると心が和む。『くにへ帰る。帰省する』というときの『くに』は中野の身についている。その中野が『国』を語るのを見ると、こんどは、そぐわないものを感じてしまう。国民とか国家という語にはめこまれている『国』はコムニスト中野がすなおに口にすべきものではないといった考えがわたしにはあるからだろう。(略)コムニスト中野は『クニ』をイメージしていないと『国』も『くに』もさまにならない。」
 ここで、例示される「クニ」は、内村がいうところの「ジャパン」に通底いくものだ。そして「くに」と、「国」を串刺しにするかのような「クニ」という視線は、内村にあっては、「国家」をも異化させていくことになる。
 五木寛之に対して、内村は率直な共感を表明する。五木は、1932年福岡県で生まれ、直ぐに朝鮮半島へと移住し、終戦後、平壌から福岡へと引き揚げるという体験を持っている。平壌で妻と離別し、やがて北朝鮮の新政権によって拘束・逮捕され、収容所を転々とした内村が、五木に共感を寄せるのは必然的なことだといえる。
 「五木少年にとって『日本』はダブルトーキングとしてあらわれる。純粋にイデオロギーとしての『日本』、つまり日本国家がそのひとつ。ステートとしての日本がそれだ。次には半ば実存的、半ばイデオロギー的なものとしての『日本』。これはカントリーとしての『日本』だ。ところがこのカントリーとしての『日本』も彼自身にとってカントリーである朝鮮を前にして色あせる。(略)戦争に日本が敗れて多くの日本人が引き揚げてきた。日本イデオロギーの強さと、それに見合う日本人の実存の弱さを示すものがこの『引き揚げ』である。戦争の一つや二つに負けたくらいでは引き揚げたりしないのが大陸の諸民族である。彼らはステートの敗亡におつきあいはしない。彼らは自己のカントリーにロイヤリティを示す。(略)みずから帰ってきた故郷ではないのだ、日本は。したがって五木は“故郷”のあしらいをことさら冷たいとも思わない。泣きごとを言わないのではない。泣きごとが出てこないのである。みじめな単細胞ジャパンがそこにあえいでいたからだ。だがこのあえぎはやがてなくなる。日本は朝鮮戦争をクッションにして回生する。ほかならぬ朝鮮。五木の実存的故郷。(略)五木は世界に向けて流れ出す。(略)五木はコロンである。コロンであることを自覚せざるをえない。(略)コロンの眼は割かれた者の眼であるが、そしてそれだけに哀愁をたたえた眼であるが、弱くはない。ジャパンにとってそれはむしろ勁い眼であろう。」
 長々と引いてみたが、これは、五木少年に仮託して、わが内村の心情を吐露したものだとわたしには思える。いわゆる引き揚げ者、つまり外地で育ったものを、植民地への入植者の意味を持つコロン (仏・colon)として捉えていく内村の思いは、鋭角的だ。それは、「くに」や「国」を「コロン」によって相対化し、ステートとカントリーの狭間を往還するジャパンの実相を炙り出していくことだといえばいいだろうか。
 「白鳥においては、美ではなくてまず理が問題なのだ。あえて言うなら、美しくない生は生きるに値しないなどということは白鳥の目にはまやかしである」と正宗白鳥を捉える内村は、埴谷雄高に対しては、次のように述べていく。
 「埴谷は幻想発生の一点を押えようとはしない。彼は有限であるべき(略)闇を無限大に拡げ、この闇の中へ足元を見せずに消えて行く。彼を導くものは形而上の美であって、ぼくらのあさましい実存ではない。」
「形而上の美」や「美しくない生は生きるに値しない」というのは、「まやかしである」ということへの論拠は、ぼくらの「実存」が“あさましい”からだともいえる。
 「コロン」や「クニ」がそうであるように、「ぼくらのあさましい実存」こそが、ステートとカントリーを擬装する「国家」や、「ジャパン」とは、けっして同化せずに、それらを無為なものと見做していく手立てなのだという強い思いを、内村剛介は、たえず抱いていたはずである。

(『図書新聞』12.9.22号)

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2012年9月 7日 (金)

石井輝男・福間健二 著『完本 石井輝男映画魂』        (ワイズ出版刊・12.5.1)

 石井輝男(1924~2005)は、わたし(たち)にとって、『網走番外地』シリーズ(65年から67年にかけての10作品があり、65年の第三作『望郷篇』は、シリーズ最高傑作と誰もが認めるところだ。口笛を吹きながら登場する杉浦直樹がじつにいい)や、その後の、いわゆる異常性愛路線ものといわれる『徳川女刑罰史』(68年)、『徳川いれずみ師 責め地獄』(69年)、そして、『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』(69年)といった作品世界を描出した映画監督ということになる。わたしは、さらに、『緋ぢりめん博徒』(72年)や『ポルノ時代劇 忘八武士道』(73年)も付け加えておきたいし、先行する世代にとっては、新東宝における『黒線地帯』(60年)や『黄線地帯』(60年)といったラインシリーズということになるはずだ。本書の元版(92年1月)が刊行されたのは、ちょうど、二十年前になる。当時、石井輝男のインタビュー集が一冊になって出たこと自体、わたしにとっては、ほとんど、“事件”といってよかった。そして、なによりもこの中で、「つげさんの作品はほとんど読んでいます」、「つげさんの作品をすごく哲学的に解釈するとか、むずかしい批評があるでしょう。でも、つげさんの書いたものを読むと、ご本人はそういう意識じゃなくて、これは私の頭の中にあったモヤモヤを描いただけだと、そう言っているところで、つげさんがスッと近づいてくるんですね。きっとそうだな、嘘じゃないなというような気がするんですね」、「いつか死ぬまでに、つげさんで一本撮ってみたいなって」、「『ゲンセンカン主人』を、つげさん自身を主人公にしてやりたいなあって思ってるんです」と石井輝男がつげ義春に対して熱く語ったことによって、わたし自身、石井輝男と近接していく関係になったことは、いま思い返してみれば、奇跡のような機縁だったといっていい。
 本書の元版が刊行後、石井輝男にとって十四年ぶりの劇場公開作品となる映画『ゲンセンカン主人』(93年)が実現する。本書は、その作品についてのインタビューが第六章として新たに配置され、フィルモグラフィーのコンプリート版が増補されたことによって、完本とする所以である。
 『ゲンセンカン主人』以後、つげ義春の弟・つげ忠男の原作でワイズ出版が制作した『無頼平野』(95年)を、続いて念願の『ねじ式』(98年)を石井プロダクションの制作として撮り、オウムやMによる幼女殺害事件、和歌山カレー事件などをモチーフにした『地獄』(99年)に続いて撮った『盲獣VS一寸法師』(01年、一般公開は04年)が監督作品として八十四本目にあたり、それが最後の作品となってしまった。七十歳近くになってから、九年ほどの間に五本の作品を創り上げた映画的膂力は、まさしく映画魂と称するにふさわしいといえる。
 本書の映画『地獄』の解説文の中で、「心情右翼の石井監督」と記されているが、わたしは、その冠し方は、あまりに安直過ぎて首肯できない。戦時中、航空隊の写真班として召集された石井は、聞き手の「戦争はどうだったんですか」という問い掛けに対して、半年間のことだったようだが、「僕が見てきたかぎりでは、もうひどいもんだったですね」と答えている。どうひどかったのかといえば、こうである。
 「飛行機はどんどん逃げて本土へ帰りましたね。ヤマトダマシイもくそもありゃしないんですね。」「キレイゴト書いているのとはまったく違うところを見ましたからね。軍人に対する不信感はありますね。でも、深刻な感じじゃなかったです。いくら軍国主義教育受けていても、あの現実の中に入ったら、みんな転向してますよ。」「戦争から戻って、東京の焼け野原に立っても、あんまり心配しなかったですね。ええ、力まなかったですね(笑)。しかたがないと、なるようにしかなんないと思ってました。」(「序章」)
 わたしは、こう述べていく石井輝男の心情を、「明るいニヒリズム」と捉えてみたい気がする。同時期の太宰治もそうだったが、現状に対して否定的な思いを持ちながらも、視線は、とりあえず前へと向かう、そのことは、培われてきたリベラルな感性と、イノセントな倫理性のようなものから来ているのだと見做してみたい。例えば、「政治的なことはもう最初から切って、やってる」(「第二章」)とか、「虚構と現実をすぐ直結して見られるのはちょっとかなわないな」(「第四章」)という考え方は、偽善的なもの(特に擬制左翼)、キレイゴト的なものに対する、センシブルな憤怒だといえる。オウムからシンパシーを寄せられた(本人から聞いたことだが、機関紙誌類が頻繁に送られてきたらしい)にもかかわらず、『地獄』で、徹底的に否定しようとしたことは、ある意味、象徴的でもある。際物的とでもいえるモチーフの採り方を“新東宝的手法”と見られがちかもしれないが、〈戦争〉を通過した世代の独特な感性(あえてそれをイノセントな倫理性と見做す)が、現実における際物的世界を虚構化させながら解体したいという美意識の発露へと結実していったのだといいたい。
 そういう意味でいえば、「つげさんがスッと近づいてくるんですね。きっとそうだな、嘘じゃないなというような気がする」と石井輝男が率直に共感を表明して、つげ義春の世界を石井輝男の映画世界として構築していった『ゲンセンカン主人』から『無頼平野』、そして『ねじ式』へと至る階梯は、最も濃密に映画魂が発揮された場所であったことになる。

(『図書新聞』12.9.15号)

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2012年5月26日 (土)

西川徹真 著『弥陀久遠義の研究』                (黎明学舎刊、茜屋書店発売・11.12.25)

 親鸞が提示した教理的理念(浄土教理)を、「偉大なアジア的な思想」(吉本隆明)として捉えるならば、深淵なる世界を見通したいという欲求をわたしなら抑えることができない。もとより、わたしの親鸞への入り口は、吉本隆明の『最後の親鸞』(76年刊)によってだが、生家が浄土真宗だったという機縁もある。無宗教であることを自認していても、「死」をめぐる想念、いうなれば、死と生の往還を内在化させようとする人間の感性とは何かということもまた、わたしにとって、関心の対象としてあることを、その理由に添えてもいい。
 極北の地で屹立した俳句による詩世界を創出し続けてきた西川徹郎は、本名の徹真として浄土真宗本願寺派正信寺の住職を荷い、本願寺派輔教でもある。八歳の時に、病気のため四ヶ月間、自宅で療養したという。その時、「病室に当てられた(略)部屋には」、正信寺住職であった「祖父證信の太くて強い毛筆で、芭蕉や一茶等の発句や親鸞の主著『教行信証』の正信念佛偈や『信巻』の一二嘆名之文が襖や枕元の屏風に揮毫され」いたの「を暗誦しつつ幼年の日々を過ごした」(斎藤冬海編「西川徹郎年譜」―『西川徹郎全句集』)とされている。既に、この時、西川にとって親鸞の言葉は、滲み入るように深奥へと感受していったに違いない。西川は、表現者としては、『銀河系通信』(『銀河系つうしん』という誌名で84年に創刊、現誌名に変えて、19号まで刊行)を、その拠って立つ場所としてきたが、もうひとつの場所として、01年に創刊した、『教行信証研究』という雑誌がある。現在、三号(09年刊)まで刊行しているが、例えば西川は、「『正信念佛偈』造偈の所由」と題した論文を三号に掲載している。この研究誌での所論は、「特別に師もなく独学で」、三十五年間、親鸞の主著『教行信証』を通して真宗学の研鑚をしてきたことの結実であり、さらには今冬、「浄土真宗本願寺派の司教請求論文」として「総局へ提出した論文」を、「一般の読者の為に可能な限り読み易くするべく、(略)四五〇枚の論文に改編し」(「後記」)て刊行されたのが本書である。
 弥陀久遠義とは、「浄土真宗の本尊阿弥陀如来に就いての佛心論であり、浄土真宗の立教開宗に於ける高祖の如来観と経教観の確立に関わる根本教説の一つである」(「序章 本研究の目的と主旨」)という。わたしは、もちろん真宗学徒ではないし、信心から遠くありながらも親鸞の思想世界に共感を持つ立場でしかないから、西川渾身の著作を訳知り顔で論評するわけにはいかない。それでも、接近できる方途としては、吉本による概念を援用するならば、西川にとっての「信の構造」における「詩性」あるいは、「詩精神」(小笠原賢二)の核心に出来るだけ視線を射し入れて、読解していくことに尽きるように思う。とすれば、ここでモチーフとなっている「久遠」という概念に、自分なりの思いを持っていかに近接しうるかということになる。
 「久遠とは但に久しく遠い古佛をいう言語ではなく、(略)大涅槃・真如法性の大悲の力用により出現した佛身であり、真如を体と為す法身であることを顕す」(「同前」)というのであれば、存在性と時間性をある意味、転倒させた概念として考えていい。西川は、「久遠の弥陀が相対的概念的存在ではなく、相対的時間的存在の概念を超越した絶対的存在である」としながら、次のように論述していく。
 「佛教に於いては、絶対的存在と相対的存在の関係性は単に対立概念として存在するのではなく、絶対は相対に対して常に超越的包攝的存在であるというべきである。それは喩えば水波の如き関係性である。(略)海水のその儘が波濤となる故に海水即波濤であり、波濤のその儘が体に帰すれば波濤即海水である。しかもその波濤の一濤一滴はその儘が海の全体を顕す故に当体全是である。しかし如何なる波濤も海全体を超えることは出来ない。(略)故に海水は絶対、波濤は相対の譬えである。(略)すなわち(略)久遠の弥陀とは、(略)苦者救済の活動体となって用く如来大悲の源泉にして源流とも名付けることが出来るだろう。」(「第二章 弥陀久遠義の必然的根拠」)
 「第三章 『教文類』の『述文賛』引文の根本的理由」で「『即如来ノ之徳ナリ』―『ノ』の一字加点の意味」という項目がある。『教文類』のなかに掲出されている憬興師の「三句の釈」のうちの一つ、「即如来徳」を親鸞が、「即如来ノ之徳ナリ」と「ノ」と「之」を入れていることに、西川は着眼している。白川静の『字訓』を援用して、「『之』は『至』であると解説し、類語として『久』を挙げ」ていることから、「ノ」の一字加点と「之」の字を加えた理由を「『之徳』の義が、『至徳』にして名号大悲の独用の相が『无能遏絶』であり、遙遠なる久遠の彼方より大河の流れの如く大海の津波の如く至り来たった如来大悲の抑止難き『无能遏絶』の力用の相が名号であり阿弥陀如来の久遠實成義を顕彰するものであったことが爰に暁説される」と述べていく。
 ここに至って、わたしは、「如何なる波濤も海全体を超えることは出来ない」ということ、「遙遠なる久遠の彼方より大河の流れの如く大海の津波の如く至り来たった」こと、これらの言葉群に、一年前の事態を想起しながら、「詩性」なるものが発する深淵な感性を見ないわけにはいかない。そして、もちろんこの「久遠」という概念が深い思念を湛えた「詩」的イメージを内包していることによって、わたしたちは、親鸞が切開した浄土理念の通路へとさらに誘われていくことになるのだ。

(『図書新聞』12.6.2号)

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2012年4月21日 (土)

田辺聖子 大島渚 北杜夫 吉本隆明 城山三郎(掲載順)たち73人・著、撮影 首藤幹夫『いつもそばに本が』(ワイズ出版刊・12.1.5)

 わたしは、書物(本)にまったく縁のない人がいてもいいと思っている。本が側に置いていなくても、あるいは読まなくても、生活していくうえで、困ることはないからだ。学校という場所は、教科書という、つまらない本を読むこと以外は楽しい空間だと思ってきた人も多いだろうし、本の話題より、映画やテレビドラマやファッションの方が盛り上がるに決まっている。それでも、書物(本)となんらかのかたちで繋がっていることは、必ずしも無駄なことではないと、いいたい気がする。わたし自身はどうだったろかと振り返ってみるならば、本格的に活字本を読むようになったのは、中学生からだったが、それでも、まだ漫画本が中心だったように思う。既に何度か書いてきたことだが、わたしが最初に衝撃を受けて、以降、思考の道筋のようなものを決定づけられたのは、中学生時代、貸本屋で借りて読んだ白土三平の『忍者武芸帳 影丸伝』である。白土漫画を通して、やがて、漫画雑誌「ガロ」を知り、つげ義春、つげ忠男、林静一らの作品世界に接していったことになる。けっして大げさにいうわけではないが、わたしにとって、『忍者武芸帳 影丸伝』や『カムイ伝』、『カムイ外伝』の方が、マルクスの『資本論』より、はるかに重要な書物(本)であった。だからこそ、誰もが青春期になんらかの書物(本)に接して、共感を持った経験というものがあるはずだ。それは、例え、教科書に載っている断片でもいい。わたしのように、漫画本でもいいのだ。
 本書は、表記者以外でいえば、鶴見俊輔、髙村薫、大西巨人、古井由吉、種村季弘、高橋たか子、秋山俊、荒川洋治、上野千鶴子、中沢新一、養老孟司といった錚々たる執筆者たちが、青春期に出会った本に関して書いた文章を一冊にまとめたものである。収められた73人の文章群は、執筆者たちのポートレイト(様々な角度から撮っていて、執筆者たちが実にいい表情をしているのが印象的だ)を担当した首藤幹夫によれば、99年9月から04年3月まで、「朝日新聞」読書面に毎週日曜日、掲載されたものだという。「連載の最初(略)から、すでに十二年が経った。(略)朝日新聞の中でも(略)比較的長寿な企画であったし、大御所の作家達が軒並みその文章を披歴していることから、すぐにでも出版されるだろうと、何となく思っていたところがそううまくはいかず、大量のフィルムは、切り抜いた掲載記事とともに私の抽き出しの中で眠り続けてい」(「『いつもそばに本が』撮影記」)たところを、ようやく出版へと至ったと述べている。執筆者を望見すれば、まさしく歳月茫々である。73人中、鬼籍に入られた人は12人になる。本書で綴られている、何人かの青春期の記憶としての書物に視線を射し入れてみれば、記憶の襞の奥深くに潜在する清冽さを持った感性を見てとれる。例えば、吉本隆明は、宮沢賢治、高村光太郎『道程』、太宰治『富嶽百景』を挙げながら、「まだ十代であったわたしはおなじ化学生徒だったから、じぶんも宮沢賢治のようになれるかもしれないと錯覚していた。その夢を破るために、わたしはそのあとの生活を送ってきたような気がしないでもない」と記されている。「夢を破る」といっても、それは、けっして悔恨を意味はしていない。むしろ青春期の思いの清冽さに痛みのようなものを感じ取る現在のわたしを直視しているのだ。
 ソレルスの『公園』を挙げている松浦理英子は、「食べることへの愛着が薄くて、普段食べるご飯などは『餌』だとしか思っていな」し、「ことばを欠いた単なる実感だけの経験を物足りなく思う」から、「本が絶対に必要である」と述べる。「お前は、この家の子ではない。橋の下から拾ってきた子だ」と子供の頃、「悪さをする度に母親にそう言って叱られ」ては、外に出て、「親なんかいなくたっていいやと呟きながら」泣いていたという佐伯一麦は、「そんな頃、出会った本が、浜田広介の童話全集だった」という。佐伯にとっては、「はじめて自分に買ってもらった本」であった。「毎月、小学校の前にある文房具店を兼ねた小さな書店に、一冊ずつ本が入荷されるのを心待ちにしていた」という記述に、誰もが遠い記憶を呼び戻されてくるはずだ。
 中沢新一の文章は、04年の1月から2月に掲載されている。いまから八年前ということになる。あたかも、一年前の3.11から現在までの情況にコミットしていくうえでの、スタンスが語られているようだ。
 「人生には星回りというものがある。私の場合、一九六八年が高校生にあたっていた。そのことは後々まで、自分の人生に何がしかの意味をもつことになった。(略)大学では生物学の研究に開かれているコースを選んだ、純粋科学と人間についての学問のあいだで揺れ動いていた私は、そのあいだをつなぐ生命についての科学に居場所を見つけようとしたわけである。(略)私の中に育っていたアナーキズムの精神が、生命を単純なものに還元することで支配して、情報や商品に変えてしまう学問的知性に対して、猛烈な反発をしていた。そういうときである。私の前にレヴィ=ストロースの仕事が、大きく浮上してきたのだった。(略)このような思想を知ったとき、(略)知的な権力に変貌しようとしていた生物学を捨てたのである。」
 こうして、わたしたちは、人との関係、書物(本)、出来事など、何らかのもの(事)を通したアドレッセンスの記憶というものを胚胎させながら生きてきたことになる。そして、それは、現在と対峙していくための膂力となっていくものであることを、確認できるのだ。

(『図書新聞』12.4.28号)

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2012年3月23日 (金)

クリストファー・レイン 著 奥山真司 訳                 『幻想の平和―1940年から現在までのアメリカの大戦略』      (五月書房刊・11.8.31)

 「幻想の平和(The Peace of Illusions)」という表題に、様々なイメージが喚起される。本書の著者の分析に共感しながらいえば、第二次大戦下から今日までアメリカ国家(政府)が採り続けてきた地域外への覇権(支配)戦略は、まさしくここかしこに、幻想の平和を喧伝し続けてきたということになる。わたしは、平和という言葉にいつも胡散臭さのようなものを感じてきた。つまり、平和と戦争はコインの裏表のようなものだとわたしには思われるからだ。平和的世界を構築するというレトリックを要して、地域外国家の政府権力を解体するために侵略戦争を行ってきたのは、世界に冠たる民主国家を自認するアメリカではなかったのかといいたいからだ。本書の著者、クリストファー・レイン(1949~)は国際政治をテーマとするネオクラシカル・リアリズム学派に属するテキサスA&M大学の教授であり、本書が初めての単著であるという。「リベラリズム」と「大議論」を展開してきた、いうなれば保守的立場にある学派と見做せるようなのだが、「マルクス系や修正史観主義者、それにリベラル系などの学者・歴史家たちの理論を加えて、アメリカの帝国主義的な大戦略のメカニズム」(「訳者解説・あとがき」)を解析しているところに、本書を特異なものにしている。原著の刊行は2006年であるが、その後に生起したサブプライムローンによる経済危機を予見しているかのような情況分析と辛辣な批判を帝国アメリカに対して行っている。
 著者のアメリカの覇権戦略批判は、極めて明快だ。アメリカ外交は、他国に対して推し進めた「門戸開放政策による経済拡大策は、アメリカ軍を海外に派遣しても守らなければならないような新たな国益を生み出した」(「イントロダクション」)とする。アメリカが母国イギリスの凋落に代わって世界国家として台頭し、やがてソ連との対峙という、いわゆる冷戦構造が形成される契機を著者は、「ソ連を『脅威』として見るようになったわけではなく、(略)アメリカの政策家たちは単純に『ソ連の弱さ、節度、そして用心深さを表すサインを無視した』のだ」(「第3章 アメリカの大戦略とソ連」)と捉えていく。なるほど、「ソ連」を「北朝鮮」と置き換えれば、そのまま現在の東アジアにおけるアメリカの軍事政策に通底するといっていいだろう。そして、戦後のドイツに対しては、再統一によって巨大化することを危険と見做し、結果、分断政策をとったのは、ソ連ではなくアメリカの方だったとする。この冷戦構造分析は、本書の白眉といっていいだろう。
 ところで、国家というものは、絶えず国家間の軋轢関係を内包するものだろうか。国家がある限り、国家間戦争は生起する必然を有するものなのだろうか。このようなシンプルな問い掛けを発してしまうのは、本書のような国際関係論的視点によるアメリカの覇権戦略に対する批判をほとんど首肯しながら読み進めながらも、最後の「オフショア・バランシング」戦略を提起したところで、著者の本意は一体どこにあるのかと戸惑ってしまったからだ。精緻で見事な覇権戦略批判を展開していながら、東アジア(日本、中国、韓国、北朝鮮)に対して、些か巨視的過ぎるように思わざるをえないのだ。
 「(略)今日ではアメリカが他国の直接的に攻撃されるコストやリスクを背負ったり、彼らの海外の権益を地域的な混乱からわざわざ守るべき理由はどこにもないのだ。西ヨーロッパ、日本。そして韓国などは、自分たちの安全を自分たちだけで担うだけの経済・テクノロジー面での力を持っている。(略)『オフショア・バランシング』というのは、国防面でのすべての責任を同盟国たちに委譲することによって、自らの地政戦略的な優位を活用するものだ。(略)現在のアメリカの大戦略の推進者たちは、『アメリカが安全保障の傘をたたんでしまえば、ユーラシアに安全保障の真空地帯ができてしまい、これが〝再国家化〟を引き起こし、不安定な多極状態の復活につながる』と言って反対するはずだ。ところが皮肉なことに、アメリカの覇権的な大戦略はすでにこの面で失敗しているのだ。その理由は、アメリカが『地域安定装置』として行動しているにもかかわらず、『再国家化』は徐々に始まっているからだ。」(第8章「オフショア・バランシングという戦略」)
 ここでいう「再国家化」の国家とは、軍事的な自立国家を意味している。著者は、オフショア・バランシング戦略の先に日本の核国家化をも見据えているといえなくもない。そもそも、他国から攻撃をされるということの考え方のなかには、国家間戦争は、常に発生しうるものだという妄想の上に立っているといわざるをえないし、「核」が国際間における抑止力となっていると、現在ではいい切れないものがあるはずだ。そのことは当然、米軍の極東配置が、必ずしも「地域安定装置」として働いていないということを意味する。著者は、「アルカイダのようなテロ集団やイスラム原理主義たちの熱狂的な支持者たちを煽ったのはアメリカの『覇権』なのであり、これはアメリカ優越状態と世界的な役割に対する、一種の『ブローバック』(反動)なのだ」(「同前」)と述べているわけだから、国防や安全保障という概念自体が、そもそも幻想の所産でしかないし、軍事力の肥大が強国の存在証明とはならない時代に入ったと見做すべきなのだ。アメリカという大国を保守するために、「覇権」ではなく「自己抑制的な政策を追及しなければならない」と著者は結語していくが、9.11以後を俯瞰してみれば、既に「覇権」や「大国」という言葉は空語化してきていると、わたしならいいたい気がする。

(『図書新聞』12.3.31号)

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2012年3月 9日 (金)

保阪正康 著『農村青年社事件                 ――昭和アナキストの見た幻』(筑摩書房刊・11.12.15)

 「農村青年社事件」と聞いても、おそらく、多くの人にとっては、未知のことに違いない。アナキズム運動史に関心を持ったとしても、「農村青年社事件」に対して深く視線を這わせることは、あまりないように思える。わたし自身が、そうだった。それは、大杉栄の虐殺、そのことへの叛撃として決起されたギロチン社事件を経て、アナキストたちの反抗のムーブメントは退潮期へと入っていったからだ。もちろん、それは、時代が昭和期となってナショナリズムの台頭と戦争の影が勃興し出したことと、無関係ではない。労働者組織による運動にも限界が見えてきた時に、都市部からの決起を企図した無政府共産党と、疲弊しつつある農村部を救済することを希求して結成された農村青年社は、ある意味、わが国におけるアナキズム思想の未成熟さからくる矛盾を象徴していたと、わたしは考えている。例えば、マルクス主義陣営の講座派と労農派の対立と同じ様に、西欧型革命理念を移入したことによる、アジア的な構造との溶接の困難さを払拭しえないまま、行動理念としたことによる破綻といいかえてもいい。わたし自身、権藤成卿の農本主義的な思想の基層にアジア的なアナキズムとでもいえるものを抽出しようとした経験からいえば、バクーニンやクロポトキンの思想と権藤的農本主義を繋げていくことは、戦後的時空の位相を組み入れることによって、どうにかその端緒へと至るといったプロセスを経なければならなかった。本書の著者が、農青社のメンバーは、意識的に天皇制の問題との対峙を回避していたと好意的に解しているが、わたしは、そうは思わない。石川三四郎や岩佐作太郎がそうだったように、西欧的理念を日本型革命理念として移植していくには、対権力という現実的なことではなく、理念として天皇制の問題を迂回(ということは、無意識のうちに組み込まれていくことを意味する)せざるをえなかったと思われる。それは、北一輝が直面したことと、パラレルな関係といえなくもない。
 さて本書は著者が長年、構想を温めていたものを、三十年近い時間を経て、ようやく結実させた渾身の仕事である。農青社の主要メンバーの四人のうち三人への丹念な取材・インタビューは、著者であったからこそ、彼ら彼女らが胸襟を開いて応答したものだといい切れる。「農村青年社事件を最後として、戦前のアナキズム活動は終熄してしまった。(略)無政府共産党事件、農村青年社事件等の人々もその多くは戦後のアナキズム運動とは無縁に終わってい」(秋山清『日本の反逆思想』)ったことを考えてみれば、著者の取材に応じた宮崎晃、八木秋子、事件の資料集編纂に膂力を込めた星野凖二の三人の「農村青年社事件」以後の時間性に対して、不思議な感慨を覚える(もう一人理論的な支柱だった鈴木靖之は、著者が取材を始めた時点で亡くなっている)。
 事件を本書では、第一幕と第二幕というように分断させて、著者は捉えていく。確かに、劇における幕間のようなものが、事件には横断しているからだ。
昭和六(1931)年に農青社は結成される。そして翌年、運動資金獲得のための窃盗行為が発覚して、刑事事件として処理され、そこで「実質的にその活動は停止」したことになる。ここまでが第一幕である。やがて、無政府共産党事件(農青社のメンバーとは何人かが繋がりを持ってはいたが、まったく別の運動体として、昭和九年に設立)を発端として、昭和十一(1936)年、「功名心に逸る検事」によって、「長野県下で検挙が始まり、設立メンバー四人も検挙され、彼らに同調していたとして全国規模で三五〇人が検挙され」、アナキストに対して初めて治安維持法が適用され、三〇余名が起訴されたのが、第二幕としての事件劇ということになる。まさしく、それは、当事者たちも予想できなかった第二幕劇であった。だからこそ、著者の眼は、当然ながら辛辣になる。
 「確かに農村青年社事件は検事団の功名心によってフレームアップされたとはいえ、逆にいえばそのことによって宮崎は戦後になって『治安維持法の網にかかったアナキスト』という勲章を手にいれたのではなかったか。」
 「全体に指摘できるのだが、農村青年社の法廷は思想犯を裁く、あるいは国事犯を裁くという緊張感に欠けているように思える。(略)確かに信州で何らかの行動(それを地理区画運動と称したのだが)を起したいとの願望をもっていた。(略)しかしだからといって彼らにはそのための行動計画があったわけではなかった。」
 これらの指摘に、わたしもほぼ同意したいと思う。フレームアップされたアナキスト弾圧といえば、幸徳秋水らの大逆事件を真っ先に例示できるが、だからといって、その思想性が軽視されていいわけではない。権力側の犯罪捏造(それは、現在においても依然、連綿として続いている)を徹底的に断罪すると同時に、権力側に危機感を抱かせた思想の根拠を再度、分析して再構築していくことも、後代のわたしたちに課せられた仕事だと思う。
 とすれば、近代天皇制生成時の大逆事件と、戦争の時代を予兆させる昭和十年代初期の農村青年社事件には、権力犯罪という共通項はあっても、おおきな差異の位相を見てとれるはずだ。「ごく平凡な、そして生真面目な青年たちのその運動の中に当時の社会環境や生活模様がすべて凝縮されていた」わけだから、著者も述べるように、「昭和史の中でどのように語り継ぐべき」かということが、切実なものになっていくといっていい。

(『図書新聞』12.3.17号)

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2012年2月10日 (金)

うらたじゅん・山田勇男・斎藤種魚他 著『幻 燈 12』           (北冬書房刊・11.11.14)

 一年ぶりに刊行された漫画・劇画作品のアンソロジー集『幻燈』の第12集は、当然のごとく、3.11の大震災によって惹き起こされた福島原発事故を投射している。福島在住の作家・斎藤種魚の新作「重力」と、唯一の文章掲載となった大麦ジョージ、大麦ロコモコの反原発デモによって違法逮捕された後、留置場に拘留された経緯を記した「5.7反原発デモ逮捕・拘留記」が、その象徴的作品だといっていい。
  「重力」は、“扉”から作者の思いを充満させた画像となっている。傾いた家の前で少女が手に〝何か〟を持って佇んでいる。月夜の上空には、ロケット弾に乗った異邦の女性を捉えている。この扉画から喚起されたのは、こういうことになる。原発とは何かを根底的に見定めない限り、事故のことも、反原発のことも、捉え切れずに霧散する可能性がある。事故が起きたから原発が駄目なのではない。原発とは核開発の擬装だったのだ。だから、異邦の女性は、戦後、核保有を先導していった欧米国家の表象ともいえる。核(原発)を保有することは、国家が怪物化していくことである。怪物とは、ひたすら強大な権力を集中しようという「神」のようなものだ。「重力」という作品に接しながら、人間が神になろうとすることを、もう一つの戦争と呼びたいと思った。斎藤は作品の最後で、「三人の神は/子どもらを/削除して/大人をすべて/神にした」と記す。
  「5.7反原発デモ逮捕・拘留記」は、詳細に述べられているだけに、警察の取り調べの空疎な実態が明らかにされていく。公務執行妨害で逮捕された二人だが、そもそもそのような理由で逮捕したところで、起訴にはできないことは、警察の方もわかっているのだ。だから、9.11デモの時の大量逮捕といい、一般市民が反原発デモに参加すれば逮捕される危険性があるという見せしめにするつもりで、横暴な行為に出るのだ。これでは、逮捕拘留されるのは、憤りに耐えないということになる。なお、二人の手記のダイジェスト版が、『アナキズム 14号』にも掲載されている。
 安部慎一・原作/西野空男・漫画「雪中記」は、『月刊架空』誌で試みられてきた共作の最新作である。現在、あと2号を予定しながら休刊状態にあるため、『幻燈』での発表となったものだ。安倍慎一の世界を西野空男の絵によって再構築されていく醍醐味を、たぶん、作り手以上に、読み手の方が感受することになるといいたい気がする。ところで、西野空男の本格的な作品集『幼年クラブ』(A5判224P・本体1400円)とともに、安部と西野のコラボレーション作品集『気分』(A5判176P・本体1200円)がワイズ出版から同時発売されたことを付記しておきたい。
 藤宮史の木版漫画は、「或る押し入れ頭男の話・公園」と「わたしのいない世界・温水池」の二作品を掲載。特に、頭男シリーズは、独特のモノローグとともに、他の追随を許さない屹立した位相を表出している。
 おんちみどり「階段町の人々・風」、山田勇男「私ノ青ヒ塔ノ中ニ誰ガイルノ」、木下竜一「胡桃だより」、甲野酉「仕掛りの家」、海老原健悟「夏至」といった『幻燈』常連作家たちの作品について個別に触れたいが、紙数の都合で、角南誠の作品「雨に濡れた慕情」に対して少しだけ言葉を添えたい。従来の作風から幾らか変換を加え、抽象度を深化させた作品となっている。たぶん、これは角南自身、無意識のうちに3.11を作品内部に包含させたことからくる転換だといえなくもない。このことが、今後の作品の新たな展開の契機となっていくことを期待したいと思う。初登場の川勝徳重の「福助小噺」という作品は、福助人形をめぐって日常の風景をさりげなく活写していく。やや丸みを帯びた描線とともに、どこか穏やかな気持ちとなって、それが、どこかで3.11への鎮魂になってくるという不思議な感慨を抑えることができない。意外にも菅野修の作品が掲載されていないが、うらたじゅんは健在だ。
 巻頭に配置された最新作「おつかい」は、病に臥した実直な父の像を前半部に置きながら、少女と父、少女と少年の峡間を交差させながら、少女が慰藉されていく様を、少女・少年期における異性間の通交として鮮やかに描いてみせる。モチーフがともすれば、自己模倣的なものになるところを、最後のカットによって、うらたじゅんでなければ描出できない秀逸な作品として提示している。長引く父の病に落ち込んでいる少女に対して、別れ際に「げんきだせよ」と懸命に、励ます言葉を発しながら、もし振り向いてくれなければどうしようといった戸惑いの表情を浮かべる少年のカットから、最後の、少女の「うん」といって力強く振り向いた表情が、この作品のすべてを包み込んでいくかのようだ。これはまさしく、柳田國男の〈妹の力〉ではないか、とわたしは思い、素直に感嘆したといっていい。

(『図書新聞』12.2.14号)

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2012年2月 4日 (土)

渡辺京二 著『未踏の野を過ぎて』(弦書房刊・11.11.25)

 このところ、渡辺京二は八十歳を超えながらも、『黒船前夜』(10年刊、大佛次郎賞受賞)以降、『渡辺京二コレクション』(全二巻)、『渡辺京二傑作選』(全三巻)をはさみながら、共著も含め三冊の新著というように著作の刊行が続いている。本書はそのなかの一著であるが、「主として世相を論じた文章を集めた」(「あとがきに替えて」)ものとなっている。3.11以後の世相に斬り込んだ書下ろし論稿を巻頭に配置し、79年から11年までに発表された文章で構成されている。およそ、渡辺京二にあって精力的な著作活動などという形容は不似合いなのだが、七十年代、わたしなども含め、熱烈な共感を表明した時期と照応させてみる時、なにがしかの感慨を抑えられずにはいられない。わたしたちもまた、それなりに年齢を重ね、世情・世相もそれなりに変容してきたことを考えてみれば、情況と相渉ることの困難さは、身に沁みてわかるつもりだ。しかし、渡辺の視線は、厳しく、一貫して揺るぎないものとしてある。
 「人間は本来、肩書きのない一個の生きものなのである。それぞれに肩書きがついて、それによって自分が何者かであるかに思いこむのは、人間社会という仕組みに組みこまざるをえないことからくる仮象であり、錯覚なのだ。老後とはその錯覚からさめるときである。(略)威張る必要もない。他人と競う必要もない。ただ自分が自分でありさえすればよく、その妨げとなるものは振り捨てればよい。自分が自分であるとは、何が自分にとってほんとうによろこびなのか、見極めがつくということだ。かくて、生きる方針はシンプルになる。格好をつける要はなく、ただ自分を正直にさらせばよいのだから。」(「老いとは自分になれるということだ」)
 「人間社会という仕組みに組みこまざるをえない」とは、かつて、「人間の共同社会があい争う利害の体系であり、その体系は契約による権利と義務により実体化され、その利害対立を判決するのは一種のゲームのルールとしての成文法であ」(「近代天皇制の神話」―『小さきものの死』所収)ったと述べていたことに通底する。「肩書きのない一個の生きもの」である限り、当然のことながら、「威張る必要もない。他人と競う必要もない。ただ自分が自分でありさえすれば」いいということになる。ともすれば、「肩書き」によって自分を表明することに比べれば、ただ「自分が自分である」ことを表明することは、大きな懸隔があり、至難に満ちているように思い勝ちかもしれない。だが、「肩書き」もまた、虚飾であり、「仮象」である以上、結局は、「自分が自分である」ことを露出していくことでしか、わたしたちの「生」は、持続せざるをえないのは自明なことなのだ。勿論、このことは、若年世代であっても、同じことだとわたしなら、付加しておきたい。
 「考えあって、私は天下国家について論じることを避けた。かわりに、街路樹や、いまの人間の表情やもの言いについて書いた。天下国家に関することよりも、その方がもっと本質的であり大事だと思うからである。このことをもって私が韜晦したり、しんどい論題を避けたりしたと思ったら大間違いだ。旧態依然たる思考枠で、左翼くずれ的情勢論を垂れ流している連中こそ犯罪的なのだ。木々が切り倒され、人びとの表情や言葉が劣性化していることは、まさにわれわれが対峙すべき時代の本質なのである。」(「未踏の野を過ぎて」)
 たぶん、渡辺は、わたしたちのような、六十年代末に生起した対抗的な運動の担い手たちに独特の視線を射し入れているはずだ。「左翼くずれ」という叙述にそのことが表れているし、次のような批判的言辞にもいえる。
 「全共闘という変種も含めて、戦後左翼の言説が八〇年代に入って失効し、影をひそめるにいたった経緯はみなさまよくご存知の通りだ。(略)戦後左翼とは、敗戦以前の日本の単純な全否定、自由・平等、民主という近代的強迫観念のやみくもな神聖化、国家・支配・権力に対する反感という点で、戦後市民主義のラジカルな一形態に過ぎない。」(「同前」)
 辛口であることは、ある種の心地よさを誘うものだ。だが、全共闘運動が左翼運動であったかというと、厳密な意味でいえば、そうではないといいたい気がする。つまり、「敗戦以前の日本の単純な全否定」をする戦後左翼とは、一線を画していたと思う。むしろ、戦後過程そのものが、戦前を隠蔽する欺瞞に満ちたものだったという捉え方をしていたと声高にいっておきたい。このことだけは、渡辺に誤解して欲しくないところだ。ましてや、「街路樹や、いまの人間の表情やもの言い」の方が、「天下国家に関することより」は、はるかに「本質的であり大事だと思う」のは、仮に「全共闘くずれ」や「左翼くずれ」であったとしても、同じ思いを抱いているはずだ。わたしたちも、六十代を超え、昔風にいえば間違いなく老後の段階へと入っているのだから。

(『図書新聞』12.2.11号)

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