2010年11月10日 (水)

書物の海へ                                 【狂気の母型――『ポル・ポト――ある悪夢の歴史』】

 記憶の中にある断片は、当然のように時間の経過によって、変質していったり、薄らいでいくものだ。自分自身の体験に根ざした記憶ではなく、なんらかのかたちで得た知識や情報ということであれば、なおさら記憶は曖昧な領域へと押し込められていくことになる。七十年代中頃に生起したカンボジアでのクメール・ルージュ(カンボジア共産党)による政権奪取によって、多くの都市生活者が過酷な農業従事者として地方へと強制移住させられるということが、行なわれた。その後、よく知られているように二百万近い人々が死亡させられる(“虐殺”といいかえてもいい)ということが判明し、スターリン主義や毛沢東主義の変種として、ポル・ポト(1925~98、本名はサロト・サル)によって主導された擬似革命は徹底的に断罪されたわけだが、では、なぜ、そのようなことに至ったのか、そもそも、ポル・ポトとは何者なのかといったことが、未明のまま、いつしか、それらのことは、わたしたちの記憶の奥底へと沈潜していったといえる。一年ほど前、わたしは、ロン・ノル政権下の技術官僚だった著者(ピン・ヤータイ)が、クメール・ルージュによって二年間の苦闘に満ちた生活を強いられた後、タイへ脱出するまでを記述した本(『息子よ、生き延びよ――カンボジア・悲劇の証人』。原書は、七九年フランスで刊行)を読む機会があった。強制移住させられただけでなく、家族と切り離されて、居住する場所を転々とさせられながら過酷な労働を強いられるという、壮絶な内容を持ったものだった。しかし、この本は、あくまでも、体験記であって、クメール・ルージュの組織的実態を解析しようとしたものではない。もちろん、断片的なことは窺い知れるとしてもだ。数ヶ月前、元BBCのジャーナリストだったという伝記作家フィリップ・ショートの『毛沢東』が、翻訳刊行されたのを知った。ユン・チアンの『マオ――誰も知らなかった毛沢東』と比較してどうだろうかと逡巡していたところ、同じ著者によるポル・ポトの評伝があったので、まず、先にそれを読んでみようと思っていた時に、偶然にも、新聞紙面の「元最高幹部4人を起訴―ポル・ポト派虐殺特別法廷」という見出しの記事が、目に入ってきた。

 「カンボジアの旧ポル・ポト政権(1975~79年)時代の大量虐殺を裁く特別法廷は16日、ポト派ナンバー2だったヌオン・チア元人民代表議会議長(84)ら、同派の最高幹部だった4人を大量虐殺や戦争犯罪、人道に対する罪などで起訴したと発表した。(略)ポト派政権支配で、政権中枢にいた4人に初めて、法の裁きが下されることになった。」(「毎日新聞」・9月17日付朝刊)

 続けて記事では、「政権トップ抜きで」、しかも、「無罪を主張して協力を拒んでいる」とされる「4被告(引用者註=他に、イエン・サリ、キュー・サムファン、イエン・チリト)の役割や責任をどう認定するのか」、「検察側はより困難な立証を迫られる」だけでなく、「被告はいずれも高齢で、審理は時間との闘いとなる」としている。さらに、わたしもそう思うのだが、「多数の理不尽な死へのポト派政権誕生のきっかけをつくり、さらに同派を延命させた国際社会の責任は、問われることはないままだ」と記事は最後をそう結んでいる。例え、一国内のこととはいえ、一部の狂信的な政治家や思想家にだけ、その責務を負わせるのは、確かに間違いだ。カンボジアの地理的歴史的経緯やアメリカ、フランス、中国、ベトナム、タイといった国家群の覇権主義による政策的責任(特に、中国共産党、ベトナム共産党とは、トライアングル的な関係で、この二つの強国の共産党の思惑にクメール・ルージュが翻弄されたのは確かである)、そして、なんといっても鵺的政治でカンボジアを迷走させ続けてきた国王(国家元首)シアヌークの存在も、問題視しなければ、ポル・ポト派による大虐殺という大罪は、ほんとうの意味で裁くことはできないといえる。そのようなことを考えながら、フィリップ・ショートによる評伝を読んでみた。個人評伝というよりは、ポル・ポトを基軸としたフランス統治下からの独立以後、クメール・ルージュ崩壊までを詳細に描出したドキュメント・カンボジア史といった内容を持ったものだといっていい。1950年代前半、ポル・ポト、イエン・サリ、キュー・サムファンら後に、クメール・ルージュを領導していくことになる若者たちは、フランス留学時代にマルクス・レーニン主義の洗礼を受けて帰国した。著者は、「サルと仲間たちがのちにクメール・ルージュの悪夢のもととなる思想の基礎を築いたのはモスクワでも北京でもなく」(『本書』・七五頁)、パリだったと述べる。それでも、若きポル・ポトは、最初の「二年間、目立たずに控えてい」て、「自分の立ち位置を見いだして」おらず、「自分は何もせずに、自信たっぷりの活動的な仲間たちにただ流されていただけだ」(100~101頁)ったようだ。その後、マルクス主義理論ではなくスターリン主義と出会ったことが、大きな転機になったという。また、ロシアのアナキスト、クロポトキンの著書『フランス大革命』(「ルイ十六世に対抗した一七八九年の革命」について論じられたもの)が、若きポル・ポトに感銘を与えたというのは、皮肉なエピソードだともいえる。著者は、「封建的な王国」、つまりカンボジアで革命を起こすためのテクストとして捉えていたと見ている。理論的な破綻は、後々にまで継承されたとしても、誰もが、青春期というものは、大きな意味を持つことになる。ポル・ポトにとっても、フランス留学時代、最も、清冽な時期だったといえるだろう。そして、六十年代、ポル・ポトは、共産党のなかで主要な地位を獲得していく。その中心的な理念は、次のようなものであった。

 「サロト・サルは毛沢東と同じく、革命の真実は『人民から人民に』もたらされると考えていた。そして二人とも農民階級をロマン主義的に美化していた。(略)だが毛沢東の革命的ロマン主義は現実を認識することによって、少なくとも理論上は緩和された。(略)サロト・サルと仲間たちは、こんなことはまったく考えなかった。かれらにとって重要なのはビジョンでありひらめきだった。毛沢東が、高度に発達した哲学的議論の伝統をうけつぐ非常に論理的な文字社会の申し子であるのに対して、サルの文化遺産は、超越的な上座仏教と、分析ではなく啓示から真実を得るク・ルー(精霊使い)に導かれた非論理的な口承伝統だった。」(220~221頁)

 ポル・ポトの理念の基層には、「超越的な上座仏教」と「非論理的な口承伝統」があると指摘する著者の見方は、その後の急進的な農本的共同体主義革命に通底していくものがある。内閉した統治形態と、錯綜させた指導システムは、例えば、強制移住させられた人々に対して、しばしば「アンカ」(組織という意味のようだ)からの指示だといって、ある種の「超越的な」命令を兵士たちが下すことをピン・ヤータイの著書では明らかにしているように、啓示的なコントロールというものを巧みに導入していたといえる。しかし、そもそも資本主義分析に対するマルクスの哲学的理論をエンゲルスやレーニンが革命理念に変質させて、さらには権力論を不問にしてしまったことからくる、錯誤というものが今日のいわゆるマルクス主義の破綻があるとわたしは思っている。また、プロレタリア階級とか労働者階級という概念が措定されるためには、ある程度の工業化社会が成立した段階でなければ、有用性を持ちえないにもかかわらず、ロシアにしても、中国にしても、そしてもちろん、カンボジアも、農業主体の産業構造のなかで、急激な社会主義革命を実践しようとしたところに、理想とは程遠い専制政治を生み出すことになったといっていい。
 それにしても、フィリップ・ショートの『ポル・ポト』は、詳細で緻密であればあるほどに、やや不満な部分が残ってくる。政権周辺への取材や調査、分析は、かなり徹底的に行なわれているのだが、ピン・ヤータイ(彼の記述が、どこまで詳細に、かつ確かなものとして伝えられているのかは判断できないとしても)のような経験をした人たちからの、発言がほとんど採集されていないからだ。評伝というものは、双方向の記述があって初めて、その対象となるべき人物像が、浮かび上がってくるはずだ。例えば、「クメール・ルージュ政権によるのちの行き過ぎた行為のほとんどをさかのぼると、その原因の一部となっているのは、カンボジア人の本質的な欠陥を克服するには、非常に厳しい包括的な全体主義的専制しかないという発想だ」(333頁)というのは、あまりに、粗雑な論及に思える。これは、後に発生する政権内部の粛清に対しても述べていることなのだが、権力を掌握していくプロセスというものは、いかなる場合においても、「包括的な全体主義的専制」にならざるをえないのは、自明なことだし、恐怖権力行使の前では、誰もが主体性を抑制せざるえないものだ。「本質的な欠陥」に、収斂させていくのは、あまりにも皮相すぎる。

 「ポル・ポトたちがその(引用者註=75年)春に承認したのは、現代初の奴隷国家だった。(略)ポル・ポトは、難民らがのちに『壁のない牢獄』と読んだ社会的および政治的な構造にカンボジアの国民を幽閉し、国民を文字通り奴隷化した。人々は幹部に命じた作業をどんな内容でも報酬なしで遂行させられ、失敗した場合には配給の差し止めから死刑におよぶ罰を受けるおそれがあった。食糧と衣服は理屈の上では国家から支給された。しかし賃金は存在しなかった。(略)新体制の受け止められ方は地域や地区、村によって大きく異なったのも事実だ。一部の地区の幹部は寛大だったが、厳しい地区もあった。だがいずれにせよ、人民――奴隷――に口を挟む余地はなかった。『上層部』が決めたことであれば、どんな寛大さや厳しさにも耐えるしかなかったのだ。」(444~445頁)
 「ポル・ポトが気にかけたのは人々の苦しみではなく、食糧の欠乏がかれらの労働力を落としかねないという事実だった。」(469頁)
 「ポル・ポトの革命の特異性は、クメールの根元にあった。/『物質的・精神的私有財産』の破壊は、革命の衣をまとった仏教的な超越だった。人格破壊とは非現実の達成だった。『唯一の真の自由』について、研究書類には次のように書かれている。『それはアンカの指示――その記す内容やおこないに従うことにある』。ブッタと同じく、アンカはつねに正しかった。その叡智を疑うことはつねに誤りだったのだ。」(484頁)

 私有財産の否定、貨幣の廃止、家族性すらも解体させていくという“革命”戦略は、あまりに拙速過ぎたといえる。しかも、強制移住というまさしく奴隷のような扱いをする強引さも含めて、あまりに稚拙で粗雑な理念の実行だ。いずれ破綻するのは目に見えていたといえる。著者が、「革命の衣をまとった仏教的な超越」と指摘するように、パラドックスとしていえば、シアヌークという存在が、鵺のように在り続けてこられたのは、共同的敬意の対象としての超越的な王だったからに他ならない。クメール・ルージュだけでなく、フランスも、独立後の諸政権も、絶えずシアヌークを象徴権威として利用し、自分たちの権力行使の補完力としてきたといえる。時に、シアヌークが、象徴ではなく実体的権威を求めすぎて時々の政権と確執を生み、それが、政治の不安定さを生起させ、必然的に、カンボジア民衆に圧制を強いていくことになっていっても、そのことは続いていった。

 「もっとも不気味だったのはポル・ポトの沈黙だ。かれが、『静かに座ったまま返事をしない』場合、それは政治的失墜の前兆だった。ポル・ポトが信頼する人間に対しては、許容範囲が珍しく広げられた。だがいったんポル・ポトの心に疑惑の種が根づいてしまうと、それを止める手だてはなかった。」(514頁)
 「クメール・ルージュの政策は、最後までまったく変わらなかった。シアヌークの安全の確保や、ポル・ポトをはじめとする指導者らの保護の優先は、数ヶ月前にヌオン・チェア(引用者註=「毎日」の表記ではチア)が説明した方針の実践に過ぎなかった――『メンバーを失っても指導部を維持すれば、引き続き勝利をおさめることができる』。(略)それでも1979年の1月に民主カンプチアを崩壊させた最大の理由を一つだけ挙げるとすれば、それは指導部が秘密主義にこだわったことだ。」(602~603頁)

 クメール・ルージュが、政権を掌握する過程で、指導部として前面に出ていたのは、イエン・サリやキュー・サムファンであった。ポル・ポトやヌオン・チェアは、後方にいてその存在すら明らかにしていなかった。秘密主義というならば、ポル・ポトの存在自体が、そうだったということになる。権力集中(個人であれ、一部の集団であれ)主義というのは、自分たち以外の存在は、すべて敵ということにならざるをえない。つまり、政治における権力の源泉は、《やつは敵だ。やつを殺せ。》という埴谷雄高の言説に尽きる。
 カンボジア民衆に家族の靭帯性の忌避を強いておきながら、自らは、85年に六十歳にして三七歳年下のメアスと再婚する。そして翌年、娘・シットが誕生している。指導部はプノンペンから敗走し、山岳部の拠点を移すも、政権再奪取の道筋が見えないまま、ポル・ポトは、97年7月、フン・セン新政権の意向に沿った大衆集会に連行され、終身刑を宣告される。心不全で死に至ったのは98年4月15日だった。「遺体はごみと車のタイヤの上で火葬に付された」という。「イエン・サリのようにポル・ポトと決別した人間でさえ、その最後のみすぼらしさに衝撃を受けた。だがこれはポル・ポトの統治の犠牲になった百五十万のカンボジア人にもたらされた死と比較すれば、はるかに穏やかな死に方だった」(668頁)と、著者は述べて、この評伝を閉じている。

※フィリップ・ショート著、山形浩生・訳『ポル・ポト――ある悪夢の歴史』(白水社刊・08年2月10日、四六判・896頁、原書・04年刊)

(『風の森 第14号』10.11.10)

| | コメント (0)

書物の海へ                                 【はじまりのフーコー――『カントの人間学』】

 フーコー(1926~84)は、初期の代表作として知られる『狂気の歴史』(61年刊)を最初の著作としているのだが、これは、ソルボンヌ大学の文学博士号取得のための主論文(論文名は『狂気と非理性』)であった。この時(61年)、主論文の他に、副論文の提出も義務付けられていたのだ。フーコーが提出した副論文は、カント(1724~1804)の『実用的見地における人間学』(1978年刊)の「翻訳、序論、及び注記」であった(フーコーは64年に、『人間学』の仏訳を出版しているが、「序論」は著作として出版していなかった)。本書は、その中の「序論」にあたる、原題「カント『人間学』への序論」の翻訳である。例えば、晩年の代表作『性の歴史Ⅰ 知への意志』(76年刊)では、ニーチェからの影響を強く受けていることが窺い知れるのだが、フーコーにとって、意外なテクストと思われるカントに対しては、やはり、ニーチェに導かれるようにして関心を向けてきたようだ。訳者の王寺賢太は、フーコーは、『狂気の歴史』以後、「怒涛の勢いで、私たちには周知の数多くの著作を発表していった。起伏の激しいその行程が、『知』から『権力』へ、そして『自己』へ、という断続的な問題設定の変更を伴うものであったことも、比較的よく知られているだろう。(略)『カントの人間学』を読む者には、それらフーコーの試みのすべてが、この小さな書物にあらかじめ孕まれていたように映るかもしれない。(略)だとすれば本書は、カントの『人間学』への、あるいはカント哲学一般への特異な序論であるばかりか、フーコーがその後とりくむ膨大な仕事への序論であり、プログラムなのである」(「訳者解説」)と記している。
 確かに、カントの『実用的見地における人間学』への微細な解読を基軸としながらも、フーコーが表出する言葉、思惟、理念といったものは、後年の仕事の源泉が潜在していると見做せる場所が、多位相に渉ってあるといっていいかもしれない。

 「哲学は普遍性の境位にあり、それに対して医学の次元はつねに特殊性として位置づけられる。哲学は医学にとって不可欠で、指示を与えることのできない地平をなしていて、健康と病の諸関係の全体はそのなかに包摂されるのである。たしかにこの優先権は、人間の直接的な願望の序列を問うときには隠されてしまう。(略)無条件な願望も生の次元においては二次的である。健康な状態で起こる自然死など存在しない。それを感じずにいたとしても、病はそこにある。病とはなしにすますことのできない『死の種子』なのだ。」(『カントの人間学』・51~52頁)

 哲学と医学を連結させて論及するここでは、『臨床医学の誕生』(63年刊)を想起しうるような言説を展開していると捉えることができる。「死の種子」とは、『人間学』とは別の場所で提示した、カント晩年の概念であるが、フーコー的概念に転換されたかのようなイメージを、わたしたちは抱くことになる。死というものの不可避性を、どう乗り越えることができるのかという命題は、しかし、老いや病(必ずしも密接な関係ではないとしても)という現象とそれにともなう時間性を逸脱してまで解析しうることではない。フーコーは続けていう。「老いとはその(引用者註=統御しえないことの)しるしであり」、「身動きもままならなくなることを示している」(55頁)と。不可避性は、不可避性としてそのままのかたちで受容することによってしか、死と向き合うことはできないのかもしれない。

 「人間学とは、意味がはっきりしていたりいなかったりするこの出来合いの言語の解明である。その出来合いの言語によって、人間は事物の上に、また人間同士のあいだに、交換と相互性と物言わぬ理解からなる網を広げる。この網を通してかたちをとるのは、精神の共同体(シテ)でも自然全体の所有でもなく、世界のなかにある人間のあの普遍的な住処なのである。」(123~124頁)
 「人間学の観点からすると、モデルとなる集団は家族でもなく国家でもなく、『食卓を囲む集いTischgesellschaft』なのである。実際、この『食卓を囲む集い』は、それ独自の規則を守っている時には、普遍性の個別的イメージのようなものではないだろうか。誰も自分が特権的だとか孤独だとか感じることはなく、話をする者もしない者もみな語られる言葉の主権に共通にあずかるのである。(略)言語の地平では、諸個人が力や権威の介入も、断念や譲渡もなしに複数の自由を分節化し、ひとつの全体を形成する可能性が成立する。『一緒に食事をする者 convivium』の共同体では、話すことによって彼らの自由が互いに出会い、おのずから普遍的なものとなる。各人は自由でありながら、全体性の形式のなかにある。」(129~130頁)

 カント晩年の哲学的理念をこのようにフーコー流に解読されていくと、まさしく、「はじまりのフーコー」が、スリリングに現れてくるかのようだ。そして、『人間学』に啓発されて、フーコーの関係性(共同性)をめぐる認識展開が、このようになされていることに、注視せざるをえない。「人間は事物の上に、また人間同士のあいだに、交換と相互性と物言わぬ理解からなる網を広げる」という位相から、「言語の地平では、諸個人が力や権威の介入も、断念や譲渡もなしに複数の自由を分節化し、ひとつの全体を形成する」という位相へと繋がる思考のプロセスは、言葉の持つ可能性を関係性(共同性)のなかに見ていることが、鮮烈な印象を与える。後年、もう少し錯綜化させ、深化させた幾つかの層へと分散する方法へと展開されていくことを思えば、ここでは、意外なほどに明快に論じていることが、そのような感受とならざるをえないのだ。特に、「家族でもなく国家でもな」い「『一緒に食事をする者 convivium』の共同体」という概念は、これまでのフーコーからは、遠い表象である。だからこそ、ある種、プリミティブなイメージともいえる、ここでの関係性(共同性)の展開は、フーコーにあっては、その後、再構築して思考されねばならないエレメントのひとつになっていったのは、当然のことだったといっていい。

 「ニーチェの企ては、人間についての問いかけの増殖について終止符を打ったものとして理解しうるだろう。(略)『人間とは何か』という問いが哲学の領野のなかで辿った軌跡は、その問いを退け、無力にする、ひとつの答えにおいて完結する。すなわち、超人。」(161頁)

 こうして、結語は、ニーチェに誘われながら、「超人」へと至っていき、フーコーの仕事は、この後、過激に、大著『言葉と物』(六六年刊)へと加速化していったのだ。

※ミシェル・フーコー著、王寺賢太・訳『カントの人間学』(新潮社刊・10年3月25日、四六判・232頁、原書・08年刊)

(『風の森 第14号』10.11.10)

| | コメント (0)

書物の海へ                                 【〈ロシア的〉な愛という沈黙――『物語』】

 パステルナーク(1890~1960)の散文小説『物語』を前にして、様々なことどもが想起されてくる。これもまた、記憶の断片をひとつずつ採り出しながら、述べていくことになる。三十六年前(そんなにも、時間は経過したのかと思う)、本書の翻訳者・工藤正廣から送られてきた私家版『ドクトル・ジヴァゴ(第一部・一章)』の冒頭の数行に接して、わたしは鮮烈な印象を受けたことを未だ忘れずにいる。それはこんな言葉たちで綴られていく。

 「すすみ行きすすみ行き、そして〈永遠の記憶〉を歌い、そして立ち止まると、その野辺送りの歌を足たちが馬たちが、さっと吹く風たちが、惰性のままに歌い続けているようだった。通行人は行列に道をあけ、花輪をかぞえ、十字を切った。」

 この私家版が出された時、一人の翻訳家によって、既に『ジバゴ』は刊行されていた。この後、別の翻訳者によって新訳版が出た。しかし、冒頭の部分を比較しただけでも、工藤版がいかにパステルナークの詩的物語世界を見事に表現しきっているのか、わかるというものだ。わたしは、何度、「すすみ行きすすみ行き、そして〈永遠の記憶〉を歌い」という詩句を諳んじたことか、さらには、ロシア的大地を思い、ナロードについて思念を巡らしたことか、といま思い出されてくる。
 私家版『ジヴァゴ』をわたしたちに示した時点で、既に工藤は、『わが妹人生 1917年夏』(72年・鹿砦社刊)を翻訳刊行していた。以来、四〇年近くに渡って、パステルナークのほとんどの作品(詩・小説)を翻訳してきたのだ。その膂力に、ただただ脱帽するしかない。そして、いま、『ジバゴ』に先行すること三十年近く前、1929年に書かれた『物語』が、初めて訳出された。本書には訳者自身による詳細な解説が付されているから、いまさら、わたしのようなものが、貧弱な想像力で言葉を重ねることは、避けるべきかもしれない。とはいえ、この中篇作品が持っている濃密な世界の一端でも伝えることができればと思い、叙述していくつもりだ。作品の時制は、ふたつ。1916年(ロシア革命の前年)と1914年(第一次World War開戦の年)だ。16年の初め、主人公のセリョージャが、ウラルのソリカームスクにいる姉のナターシャの元へ訪れたところから、“物語”は、始まる。やがて、セリョージャは夕食前に仮眠する。夢うつつに過去の記憶が蘇るかのように、章を改め14年の時制が描かれていく。モスクワの大学の最終試験に合格したセリョージャは、「息抜き」と「自分をちがった状態に置くことに」(『物語』・27P)するために、フレステレン家で家庭教師をすることになった。そこで、侍女をしている牧師だった夫を一年前に亡くしたばかりのデンマーク人女性・アリルドに出会うことになる。年長とはいえ知的なアリルドに、セリョージャは直ぐに好意を寄せていく。やがて、夏の暑さを避けるためソコーリニキ公園に、二人は出かける。

 「そのうちに日が暮れた。アリルドはさかんに英語で喋りまくり、その英語に答えるセリョージャだったが、それもぜんぶうまい具合にいった。(略)二人は他の散策者たちとは瞭っきり違っていた。木立の中に群れていたすべてのカップルの中で、このカップルは夜の到来になによりも不安そうに対応し、あたかも夜が踵を接して追いかけて来たとでもいうように、その夜から逃れようと突き進んでいた。彼らが振り返ったときは、まるで夜の追跡の速度に合わせようとしているかのようだった。行く手に、二人が踏み込んだすべての小道の上に、何やらもっとも年古りたものの存在が松林全体になって伸びていた。これが二人を子供に変えた。二人はときには互いに手と手をとりあい、またときには困惑して手を離した。時々、自分自身の声を確かめて彼らは立ち止まった。」(46~47頁)

 このシークエンスは、「二人はときには互いに手と手をとりあい、またときには困惑して手を離した」といった、瑞々しさと清冽さが溢れる男女のイノセントな通交を描写しているといってもいいのだが、むしろ二人に潜在する心的な揺らぎを見事に風景化して描出しているといった方がいいかもしれない。牧師の妻だったアリルドは、同じようにセリョージャに対して好感を持っていたとしても、「愛」というかたちへは抑制せざるをえないのだ。一方、セリョージャは、アリルドに対して、どのように「愛」へと自分の思いを連結すればいいのか分からないでいる。ソコーリニキ公園の「夜」は、二人の「愛」をめぐる心的象徴として描かれているのだ。だが、セリョージャは、このソコーリニキ公園の「夜」の出来事を思いに秘めながらも、トヴェルスカヤの御者街(いわゆる娼婦街)に通い詰めてしまう。そして、アリルドや娼婦をしている女性たちを救わなければならないと、確信していく。変革の意志は、「愛」によってなされるべきだという、イノセントな情念とでもいっていいものが、ボルシェヴィキ革命以前には、ありえたのだというように、セリョージャの思いが描かれているとわたしは捉えてみたい。そして、ついに、セリョージャはアリルドに直接的な「愛」を告白する。しかし、アリルドは、冷静に対応する。彼女は、フレステレン家を辞めて、別の家庭に職を見つけたために、出発しなければならなったのだ。一時的に友人の所に身を寄せたアリルドを必死になって、セリョージャは探し当てる。

 「彼(引用者註=セリョージャ)は、アンナ(引用者註=アリルド)が都市の朝であることが、どんなに辛く困難かを見ていた。つまり、自然がもつ超自然的な尊厳は彼女にどんなに高くつくかということだった。自然は沈黙のまま彼のいる前で美しく見え、彼に助けを呼び求めていなかった。」(101頁)

 自然の沈黙は美しい、いや、沈黙ということが自然の美しさを引き寄せるといっていいかもしれない。セリョージャのアリルドに対する愛は、まさしく〈ロシア的〉、つまりは〈ナロード的〉だといえる。例え、二人の〈愛〉が結実しなかったとしてもだ。

※ボリース・パステルナーク著、工藤正廣・訳『物語』(未知谷刊・10年8月20日、四六判・192頁、原書・01年刊)

(『風の森 第14号』10.11.10)

| | コメント (0)