2012年7月20日 (金)

「情況」的場所へ(12)―共同幻想としての3.11―

 3月11日、午後2時46分に起きた巨大地震(マグニチュード9.0、最大震度7)とその後に派生した様々な出来事を、いったいどのような言葉で表したらいいのかと、いまだに逡巡している。メディアは、菅が宣した名称に準じて、東日本大震災と称しているが、そのような括りで、この間のことを包括して捉えられるわけではない。ただ、こういうことはいえるはずだ。多くの人たちの生命が失われ、いまだ多くの行方不明者がいて、十万人以上の人たちが生活を簒奪され、困苦的避難状態を強いられている。にもかかわらず、わたしたちは、福島第一原子力発電所事故がもたらした放射能汚染とさらなる余震に怯え、パニック状態に陥り、食料品や生活必需品を大量に買占めるというおぞましい光景を目にすることになる。一方で、菅政権と勝俣を筆頭とした東京電力幹部たちが政権延命と責任回避に奔走した結果、事故収束に向けての方策が、後手、後手になるといった大失態を演じている。いまとなっては、唐突な計画停電と海江田に大停電になると警告させたことは、原発事故への視線を逸らす意図(原発の必要性を誇張する意図もそこには、当然、含まれる)があったといわねばならない。そして、復旧、復興に向けて、“がんばれ、ニッポン”などという空疎なスローガンでナショナルなエモーションを喚起しようと連日、東電の謝罪広告(膨大な広告費を使ってメディアからの批判を封じ込めようとしているのだ。福島の地元紙は、東電の謝罪広告を拒否するという毅然とした態度を表明している)とともに、メディアを席巻する。原発事故の収束がいまだ不分明な状態にも拘らず、東芝、日立やフランス、アメリカの原発関連企業が、廃炉事業利権に群がっていく。これらの皮相なる事態を露出させたことの意味は確かに大きいといわざるをえない。被爆国でありながら国策として原発建設を推し進めてきた、わが国の政官業癒着構造に楔を打ち、原発廃絶(それは、核廃絶と同義でもある)への道筋をつけられるかは、圧倒的大多数の人たち(つまり、わたしたち)の覚醒(CO2を排出しないクリーンエネルギーであるというレトリックや、原発がなければ、電力供給量が補えないとするデマゴギーを見通すこと)なくしてはありえない。大きな代償といえるが、そういう意味でいえば、今回の原発事故を奇禍とすべきなのである。しかし、わたしは、いいようのないもどかしさを払拭できないでいる。それは、精神的被爆現象とでもいえる情況が、共同幻想のように覆いつくしているからだ。わたしは、原発危機に対する視線と被災地で困苦的状態を強いられている人たちへの視線は、等価でなければならないし、パラレルな関係だと思っている。菅政権に象徴されるように、軸足は原発に傾斜し過ぎて、救援・救済対策は、明らかな遅滞状態を呈していることは、許されないことなのだ。メディアは、被災地の情況を、辛抱強く頑張っているなどと捉え、美談のように報じているが、それは、表層的なことでしかないのは明らかだ。従来からの反原発論者たちは、鬼の首を取ったように、放射能による人体への影響を強調してみせる。二十年、三十年先に発ガンの可能性がありますよと煽る(政府や保安院、東電が繰り返す、ただちに人体に影響はないという言い方と、それもまたパラレルな言説といえそうだ)。確かに、そのような論調に異を唱えるつもりはないが、現実に十万人以上の人たちが、明日の生活の展望も開けないでいる事実を考えてみれば、住食が保障されながら、放射能汚染の危機感にパニックになっている場合だろうかと疑念を抑えることができない。
 津波に流されて瓦礫化した街々の映像を見て、終戦直後の情況と同じだと感想を述べる人たちが多くいたように思う。しかし、それは、まったく違う情況認識だといっていい。45年8月6日や9日のヒロシマ・ナガサキ、さらには15日も含めて、それらと2011年3月11日は、まったく別次元の事象として捉えるべきである。むしろ、95年1月17日に起きた阪神・淡路大震災と、二ヵ月後の3月20日、オウム真理教による地下鉄サリン事件に照応していくと見做した方がいい。地下鉄サリン事件と福島原発事故は、確信犯的事件・事故とでもいうべきものであり、どんな事由にせよ、電源が遮断されるという事態が、電気ガス業界のなかで突出して第一位の売上高を誇る電力会社の現場で起きることは、あってはならないことなのだ。それは、電力会社としての存立性そのものを問われるほどの根源的欠陥である。“想定外”の大規模な地震や津波だったなどということは、当然、理由にはならない。利益追求に走る東電経営者の確信犯的な保守機能整備の怠慢といえる今回の事故(昨年6月にも電源トラブルの事故を起こしている)は、むしろ事件と称すべきものであり、東電による福島住民に対する無差別放射能テロである。その限りにおいて、東電とオウムは同じ位相にあることを示しているのだ。
 しかし、いま、わたし(たち)が、無能無策な菅政権や東電、原発関連会社に対する憤怒を発し続けたところで、事態が穏当に収束されていくわけではない。まず、恐怖、狂乱の共同幻想から、個々の観念を解き放ち、はやくリアルな現在という場所に立たなければならない。そのうえで、冷静に見据えるべきことを定めていくのだ。この混乱する情況が、どのような着地点となるのか、つまり、さらなる格差拡大を助長していくことになるのか、被災地が相互扶助的なコミューンとして再生していくのかを、見通すべきだと思う。
 TBSの報道キャスター、金平茂紀は、いち早く、被災地に入り、現状を次の様にリアルに報告していた。
 「取材で入った宮城県南三陸町で見た風景。山間部にまで何隻もの漁船がすさまじい津波によって打ち上げられていた。津波によって押し上げられた瓦礫は、漁船の網やウキ、昆布、ブラジャー、蛸の死体、アルバム、茶碗、材木、泥を巨大な渦のなかで撹拌したように、あり得ない無秩序な塊となって、堆積していた。人の姿がみえない。1万7千余の町の人口の半分の安否がわかっていないのだという。津波によって町は壊滅していた。(略)気象庁の大津波警報の第一報の記録が残っている。岩手3メートル、宮城6メートル、福島3メートルとある。実際の津波はそれをはるかに超える大津波で、町の設営した防波堤、防潮堤、水門を破壊して突き進み町を飲み込んだ。気象庁の予知には限界があった。結果的に言えば、自然を甘く見ていたと言わざるを得ない。だが、『想定外』という言葉は何の説明にもなっていない。(略)福島第一原発の事故はこれまで世界で起きた原発事故のなかでも最悪級に近い様相を呈している。原子力工学とか原炉設計とか、『原発に詳しい』専門家、学者たちが僕らのテレビ局のスタジオにやってきた。(略)危機が深刻化し、発電所近辺で放射線量が基準を超えるような事態になったあとも、それらの人々は『ただちに健康に害を及ぼすような量ではない』『全く健康には問題がない』などと繰り返していた。彼らにも家族がいるだろうに。(略)『御用学者』『御用マスコミ』をつくりだしたのは僕ら自身だ。原発の安全性については長く異議申し立てが行われていた事実が厳然としてある。(略)何人かのメディア学者や小説家がパニックに陥り、関西地方に家族ともども避難した。(略)16日からの来日公演ステージをやりとげたシンディ・ローパーの方がよほど偉い。(略)この事態に誰が何を言い、どのような行動をとるか、僕らはしっかりと見よう。誰が本物で誰が偽物かを凝視しよう。」(「私たちは大震災と原発惨事のさなかで何を考えるべきなのか?」―『THE JOURNAL』11.3.21)
 金平の思いを援用していうならば、わたしたちは、あらためて、何が本当のことなのか、何が虚妄なことなのかをしっかり、見据えることだ。
 果たして、この先、わたしたちに3・11以後の世界を、リアルなものとして掴みえるだろうか。いや、掴んでいかなければならないのだ。        (11.4.20・記)

(※本稿は、『月刊架空』11年2月号(通巻13号)掲載のために上記日付に執筆したものだ。3.11直後に記したわたし自身の考え方を込めたものになる。『月刊架空』11年2月号(通巻13号)は、一年以上の空白を経て、先ごろ発刊されたが、なんの連絡もないまま、本稿は掲載されなかった。編集発行人は長すぎる時間の幅を勘案して掲載しなかったと思われるが、わたし自身、時間の経過に耐えうるものと考え、ここに掲載する)

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2011年4月15日 (金)

「情況」的場所へ(11)―浮遊する〈かくめい〉―

 永田洋子の〈死〉が、伝えられた。享年65ということになる。長らく闘病していたことを知っていただけに、とくに衝撃を受けるようなことはない。むしろ、連合赤軍の最高幹部の二人の〈死〉の間に、三八年という時間性が横たわっていることが、少なからず感慨を覚える。思えば、わたしにとって、森恒夫の〈死〉は、鮮烈な印象とともにあった。73年一月一日の夜のことだった。わたしはテレビで、『緋牡丹博徒・お竜参上』(70年・東映、監督・加藤泰)が放映されていたのを見ていた。当時は、もちろん、DVDやVIDEOが、一般家庭で普及している時代ではない。映画館での再上映も、限られたものでしかなかったから、好感を抱いた映画作品がテレビ放映されて再見できることは、またとない機会だった。この映画作品には、お竜(藤純子)と青山(菅原文太)の今戸橋での別れという印象深い場面があるのだが、その場面になった時、突然、ニュース・テロップが流れたのだ。それは、森恒夫の獄中での自死(享年28)を伝えるものだった。まさしく「死という別れ」ということになる。一連の連合赤軍事件というものの残滓が、まだ、生々しく、漂っていた時だったから、わたし(たち)の衝撃は、大きかった。それにしても、この局のテレビ・プロデューサーは、なぜ、あえて、この抒情性が溢れる場面で、森の自死のニュース・テロップを流したのかと、思ったものだった。幾らか、強引にわたしなりの感慨を述べてみるならば、加藤泰の描く「橋」が、一人の若者の自死を情況の深奥へと架橋させて欲しいという思いを込めたのだといっていいような気がする。
 その時間帯、別番組を見て、森恒夫の〈死〉を知った人も、当然多くいる。歌謡番組のなかで、そのことが報じられたのを見た時のことを、吉本隆明は、次のように記している。
 「年頭、テレビの歌謡番組を視かかっているとき、連合赤軍の森恒夫が独房で自殺したことが報じられた。司会の前田武彦は、芸能アナウンサーが紙片をみながら、それを知らせ終わったとき、〈この連中は死ぬときまで嫌味だねえ〉と口走った。一瞬、時間が尖り、そして次の瞬間には、新年歌謡番組おあつらえの雰囲気にかえった。しかし、前田のような男に、一瞬、〈私怨〉を想起させ、芸能界の寄生虫である分限を忘れさせた、だけでも森恒夫の死は〈嫌味〉ではない。人間は他者を、党派は、別の党派の、思想にたいして拒絶反応を示す自由をもっている。(略)芸能ガキを相手にタクトを振るのを商売にしている前田武彦にも、森恒夫の、新年おめでた最中の自殺を、〈嫌味だ〉という権利が、絶対的にある。しかし、この権利は、商売自体が〈嫌味〉である前田武彦の存在を、正当化しはしないのである。/森恒夫が、首を吊って死んだ。この〈事実〉だけが重要なのだ。決して〈死〉が重要なのではない。」(「情況への発言(一九七三年六月)」―『「情況への全発言」全集成1』所収)
 わたしは、マエタケのつまらない司会による番組を見なかったことがつくづくよかったと思う。吉本は、他者に対して「拒絶反応を示す自由を」誰もが有するという前提で、「前田武彦にも、森恒夫の」「自殺を、〈嫌味だ〉という権利が、絶対的にある」と見做しているが、わたしには、マエタケの「嫌味だねえ」という語感に含まれているものは、たんなる拒絶反応を超えたものが感じられてならないのだ。明らかに、彼ら(森や永田)の壮絶な内部抗争に対する表層的な嫌悪感が、そこにはある以上、その表層性を剥ぎ取りたい欲求をわたしは抑えることができないのだ。
 「永田死刑囚は84年7月に脳腫瘍と診断され手術を受けた。06年3月には再手術を受けたが昏睡状態となり、同年5月に八王子医療刑務所に移された。約1年後に東京拘置所に戻されたが、脳萎縮の状態だった。今年1月下旬に多量の嘔吐とともに血圧や心拍数が低下。酸素吸入などをしていたが、今月5日午後に心停止状態になり、夜に死亡が確認された。」(「毎日新聞」11年2月7日付・朝刊)
 永田洋子の〈死〉もまた、ひとつの〈事実〉に過ぎないとしても、この五年ほどの時間性は、どんな断面を切り取ることができるのだろうかと考えてみる。「脳萎縮の状態」は、他者の視線から推察しうる問題ではないし、例えそのような状態の人と対峙したとしても、言葉を繕うことは困難なことだ。面会に行った元メンバーの板東國男は、「脳腫瘍の悪化で、面会しても誰が来たのか分らないほどだった」が、意識がある時は、「連合赤軍の問題の総括は、まだまだ終っていない。もっといろいろな問題を考えなければならない」といっていたという(「東京新聞」同日付・朝刊)。しかし、彼らの革命運動の総括は、彼ら自身によってなされるためには、余りの時間性が経過しすぎている。いささか、諧謔的にいうならば、〈革命〉は、既に〈かくめい〉となって浮遊していることを自覚すべきなのだ。ところで、わたしは、永田個人への関心をこれまでほとんど向けることはなかった(だから、永田の獄中での手記『十六歳の墓標』や、『続十六歳の墓標』は、まったく読んでいない)。だが、彼女が獄中で描いていたイラストを“乙女チック”であることに、着目して、永田の心奥に切迫していった大塚英志の著作『「彼女たち」の連合赤軍』(96年刊)を後発世代からの〈総括〉として、率直に評価しながら受け取ったといってもいいのだが、そこで述べられていることで、わたしなりに、喚起させられたことは、高校時代に『源氏物語』の読者会をしていたことと、そのためだったのか、獄中で永田は大和和紀の『あさきゆめみし』から模写していたということだった。だからといって、わたしは、大塚のように女性性の問題へ分け入っていくことはしたくないのだ。むしろ、『源氏』と永田との意外な邂逅にこそ、関心を抱いてしまうといっていい。正直にいえば、わたしは『源氏』を活字(原文はもとより訳文も含め)で読むことに頓挫した方だ。結局、旧知の源氏学者・藤井貞和が推奨する『あさきゆめみし』(全13巻)を読んで、『源氏』を理解したつもりでいたし、漫画作品としても、『あさきゆめみし』が湛えている豊穣さに圧倒されたことは確かであった。いま、ここで『源氏』論をする余裕はないが、例えば、山岳アジトでの女性活動家たちへの「性」をめぐる追求と、『源氏』に共感していた永田というように、短絡的に繋げて、訳知り顔で分析することもしたくはない。ただ、永田洋子が『源氏』に関心を抱いていたということだけに、ひとつの類推を収斂させたいだけなのだ。それは、太宰がいうような、〈革命〉と、〈かくめい〉の差異から生ずる空隙とでもいうべきことの問題に関わっていくことでもある。
 「じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても、他におこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。」(太宰治「かくめい」)
 チュニジアやエジプトで、市民による反政府デモによって、二十年、三十年という長期独裁政権が崩壊したことを、メディアは革命と称して報道している。思い起こせば、一昨年のわが国の政権交代を革命とする錯誤した言説が、メディアなどに流れたものだった。わたしは、チュニジアやエジプトの叛乱の実態を、メディア媒体でしか知らない。だから、エジプトに関していえば、アメリカが素早くムバラクに引導を渡したこと、軍部中枢が暫定的とはいえ権力を掌握したことなどから、これは、革命でもなんでもなく、ただの政変ではないのかといいたくなるのだ。かつて、といっても四十年以上前、内村剛介は、「革命の名に値する革命をわれわれはまだ持っていない」と述べたことがある。それは、いまでも、同じだなとわたしは思っている。せめて、革命ではなく、〈かくめい〉という場所へ、到達できないものなのかと、夢想する自分がいる。

(『月刊架空』11年1月号)

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2011年2月12日 (土)

「情況」的場所へ(10)―網の目のシステム―

 〈アジア〉の東、列島及び半島において、ここ数ヶ月の間、不穏な事件と衝撃的な事象が、生起し続けている。尖閣諸島における中国魚船衝突事件によって引き起こされた波動が、収束する気配がないなかで(11月末現在)、米韓軍事演習に対する報復攻撃が「北」によってなされ、多くの犠牲者が出た。尖閣ビデオ映像流出問題で不安定さを露呈した菅・仙谷政権は、「北」の攻撃の第一報に対する初動対応の杜撰さによって、政権内部の皮相さをさらに増幅させて、わたしたちの眼前にさらけ出してしまったといえる。
 わたしは、この間の「東アジア情勢」をしたり顔で、解説するつもりはない。米韓の思惑、「北」や中国胡錦濤政権の戦略を分析することによって、見えてくる地平に対して、わたしは関心がないのだ。折に触れて、大陸中国の覇権主義には批判の言説を提示してきたし、「北」の権力構成の有様や核疑惑に一喜一憂するような、ある種「北」への過剰評価は、ひとつの陥穽へ入ってしまうことになるからだ。もとより、拉致問題は、戦前の朝鮮人強制連行とパラレルに論じなければならないという前提にわたしは立っているということだけは、付言しておきたい。
 むしろ、菅・仙谷政権が非公開とした海上保安庁が撮った衝突時のビデオ映像が、Net上に流出したことによって起きた多様な反応のなかに、どうしても見過ごすことができない言説があったことの方へ、わたしの関心は向かざるをえない。優れた昭和史論を展開してきた保阪正康が、「東京新聞」11月21日付朝刊紙上の「尖閣諸島沖で起きた中国魚船衝突事件は、一人の海上保安官(四三)による『独断』が濃厚になった。流出事件と、政府の対応をどうみるか。三人の識者(引用者註=他に吉岡忍、若狭勝)に聞いた」というリード文で始まる「核心」という欄で、次のように述べていることに、この流出問題の不分明性を象徴していると、わたしなら考える。
 「『下克上』『大善小善』という言葉を思い出した。昭和初期、軍将校が命令を聞かず満州事変(一九三一年)などを起こした。犬養毅首相を暗殺した五・一五事件(三二年)は、恐慌の最中に汚職ばかりの政治に怒った青年将校たちが正義感から起こした。だが、裁判では軽い刑になった。『下克上』に目をつぶったせいで、彼らは何をやってもいいんだと錯覚した。(略)海上保安庁は、武器を持つ準軍事組織。普通の官僚と違う規律や統制が必要だが、流出させた保安官はそれを自覚していたのか。『国民に知ってほしい』との動機は『大善小善』と同じ。『情報テロ』まがいの犯罪だ。義憤があるならまず上官に言うべきだった。/昭和はわずか七、八年の間に軍人が肩で風切る時代に変わった。今もエキセントリックな世論はある。小石のような事件だが、処理を誤れば拡大する。シビリアンコントロールを明確にすべきだ。」
 五・一五事件に決起した青年将校たちは海軍出身者が中心であったから、今度の流出事件に絡めて保阪は、想起したに違いない。しかし、安易に昭和期の基層を現在へと類推させる思考は、事の本源を見通せなくなる危険性を孕んでいるとわたしには思われる。現在、精力的な執筆活動と積極的な発言をしている元外交官の佐藤優もまた、小沢問題などで揺れる特捜部を青年将校化していると見做している。誤った正義、錯誤した義憤といったことを根拠に、昭和期の軍事クーデター事件、テロ事件を保阪や佐藤は、例示したいのだと思うが、それは、明らかな次元の違う見方だといいたい。もうひとつ、卑近な発言を引いておく。反小沢派で知られる安住淳防衛副大臣は、11月11日付「報知新聞」の取材記事で、「義憤に駆られてやったと擁護する人もいるが、それでは組織が持たない。国家としてあってはならないこと。海保は『海猿』で人気が出てきたのに残念」だとしながら、「事件そのものは(流出させた)個人の問題だよね。理由のいかんにかかわらず、海保で働く資格のない男だね」と、能天気に語っている。ここで、『海猿』と述べているのは、いまは休刊してしまった「週刊ヤングサンデー」誌上で連載されて人気を博し、その後、映画化やテレビドラマ化された漫画作品『海猿』(佐藤秀峰、原案は、漱石研究者とは別人の小森陽一。連載期間は99年から01年まで)を指すものと思われる。わたしは、医療問題をテーマにした佐藤の意欲的な作品『ブラックジャックによろしく』、『新ブラックジャックによろしく』を全編(出版社側との軋轢によって、連載誌が変更したために新となっているが、一連の物語である)に渡って通読していたから(残念ながら最終巻は、それまでの作品の水位とは、明らかに異質なものとなっていった)、後に遡って『海猿』を見たのだが、その時の印象は、作品全体に漂う過剰な生命倫理観に対する疑念だった。確かに、海難救助を主たる任務として主人公像を描き、その成長していく過程を物語化していけば、そうなるに違いない。だが、保阪が指摘するように、「海上保安庁は、武器を持つ準軍事組織」なのだから、自衛隊とは幾らか違った意味で「暴力装置」的実相を持っているのだ。「海保」が幾ら人命救助という美名を弄したとしても、そこには、紛れもなく軍隊的規律と軍隊的実質が拭いがたく潜在していることになる。保阪は、「流出させた保安官はそれを自覚していたのか」、「義憤があるならまず上官に言うべきだった」といい、安住にいたっては、「個人の問題だよね。理由のいかんにかかわらず、海保で働く資格のない男だ」と皮相に断じているわけだが、いずれにしても個人の考えで流出事件が起きたことに還元してしまっていることへ、わたしは疑義を呈したいのだ。
 わたしの考えはこうだ。『海猿』に共感して海保に入った年代(実際に、そうした保安官がいるのかは分からないが)ではない、四十代の保安官が、「普通の官僚と違う規律や統制」に無頓着だったとは、思えないし、個人的な義憤からだったとも、どうしても思えない。仙谷裁定や、この間の民主党政権に不満を持った海保と検察による謀議とした方が、分かりやすいし、メディアをも巻き込んだ政権への官報クーデターといった方が不分明性は解消できるはずだ。映像流出者に対して、仙谷の断じて法的処分にすべきだという発言を不問にするかのように、逮捕しなかったのは、政権自体の権力基盤が揺らいでいることの証左でしかない。党内部の主導権争いに腐心し、宿敵・小沢を検察権力に差し出して、菅や仙谷は安泰のつもりでいたとしても、網の目のような権力は、菅や仙谷が考える以上に膨張化しているのだ。フーコーに倣って、社会全体のあらゆる場所で、権力が網の目のように絡み合っているとするならば、小沢、鳩山の政治資金問題から、普天間問題や、尖閣問題にいたるまで、司法権力、メディア権力といった官報複合システムが鵺のように蠢いているというべきなのだ。
 「『権力』の過剰。必要以上の力がいたるところで行使されているということ。この問題は、統治体制がいかなるものであれ、つまり資本主義的社会や社会主義的――自称社会主義的な社会においても、国家機構という点からにしろ官僚体制という点からにしろ、あるいは個人対個人という関係においても、十九世紀において貧困が演じたのにおとらぬ、おそらくはそれ以上に重要な役割を演じているのです。(略)今日ではこの『権力』の過剰という現象が、耐えがたい現実としてわれわれに迫ってくるのです。(略)こうした個体的、局部的な相互の抗争関係として『権力』をとらえることによって、人はどこにどのようなかたちでの抵抗が可能となるのかをその瞬間その瞬間に具体的に知ることができるのです。」(フーコー「権力と知」)
 軍的機関に対する文民統制といった位相の問題が、切実なのではない。遍在した権力の在り処を、いまこそわたしたちは明確に掴むべきなのだ。

(『月刊架空』10年12月号)

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2011年1月 7日 (金)

「情況」的場所へ(9)―無主ということの方位―

 わたしは、九月の初めに発生した尖閣諸島での中国魚船衝突事件による様々な波動を目の前にして、奇妙な感慨を抱き続けてきたといってもいい。いまだ未詳の部分が残存している事件とはいえ、空虚なる国会という場で皮相な論議が続いていることに対して、たんなる茶番劇であるというしかないし、わが国政府や海上保安庁、検察庁の不信感漂う対応や、中国(北京政府)の高圧的な態度に対しても、わたしの関心の在り処はない。もとより、北京政府権力にコントロールされた中国国内での反日デモに関しては、論評するに価しないし、あまり重視すべきではないと思う(国内政府批判に転ずる可能性もあるといった報道には惑わされない方がいい)。現在、わが国政府の公式見解は、尖閣諸島に関して領有権問題は存在しない、つまり、わが国固有の領土だというものだ。一方、中国や台湾は、いずれも、自国の領土だとして積極的に領有権を主張しているが、ここで、極めて、アイロニカルな主張があることを、例示してみたい。中国共産党政権が領有権を主張しているからといって、わが国の共産党までもが、尖閣諸島は日本の領有が正当なのだと応酬するとは、思わなかったのだが、Net配信された記事を読むと、まさしく、そうなのだ。そしてその主張は、極めてレトリックに満ちたものだといっていい。
 「尖閣諸島(略)は、(略)いずれの国の住民も定住したことのない無人島でした。(略)1884年に日本人の古賀辰四郎が、尖閣諸島をはじめて探検し、翌85年に日本政府に対して同島の貸与願いを申請していました。日本政府は、沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで1895年1月14日の閣議決定によって日本領に編入しました。(略)所有者のいない無主(むしゅ)の地にたいしては国際法上、最初に占有した『先占(せんせん)』にもとづく取得および実効支配が認められています。日本の領有にたいし、1970年代にいたる75年間、外国から異議をとなえられたことは一度もありません。日本の領有は、『主権の継続的で平和的な発現』という『先占』の要件に十分に合致しており、国際法上も正当なものです。」(「しんぶん赤旗」10.9.20付・傍線は引用者)
 「所有者のいない無主(むしゅ)の地」を、「最初に占有した」ものが、「取得および実効支配が認められ」るのだとしたら、誰でも先に収奪した場所が専制支配できるということを意味する。これは、「力」あるものが、「力」なきものを制圧しうる覇権の論理と照応していくものだ。陸地ではなく、島嶼であるからこそ、これまで、継続的に表立った軋轢が起きなかったといえるかもしれないが、陸地に跨る国境問題を考えてみればいい。最も卑近な例をいえば、中国・インド間の国境紛争だ。ヒマラヤ山脈という高地帯は、ほんらいなら、「所有者のいない無主(むしゅ)の地」であるといってもいいはずだ。にもかかわらず、いまだ、停戦状態のまま国境は画定されずにいるというのが、現状だ。
 「赤旗」の見解は、そもそも、「無主」という概念を履き違えているのだ。尖閣諸島は無人島だから無主の地であるということにはならない、むしろ、誰のものであってもいい場所であるということを前提とすべきである。わたしが、この間、抱いた奇妙な感慨とは、いわゆる領土ということへの疑念であり、その根拠となるべきことの無意味性に対してである。もう少し、直截にいうならば、わたしたちが、日々生活している場所を、わたしは、日本国の領土などと思ったことは、一度もない。たぶん多くの人々も、そうに違いない。つまり、領土問題というものがリアルなこととして生起するのは、国境という位相を契機とするからである。そして間違いなく、国境というものは恣意的なものであり、さらにいえば国際法を逸脱した国家間の「力関係」を反映したものでしかない(パレスチナ自治区の境界問題を考えてみればいい。イスラエルは、「力」によって、和解へのロードマップを無視して支配域を拡大し続けている)。
 さてここからは、「赤旗」の転倒した見解を解体していかなければならない。「無主」を「無縁」とともに、歴史的概念として、鮮烈に確定させて見せたのは、網野善彦であった。
 「農業民と非農業民の区別は、ごく自然に考えただけでも明らかといえるが、この両者の差異はより根本的には、山野河海、市・津・泊、道等々の場に対する関わり方の違いに求めるべきである、と私は考える。(略)当然、両者の利害はしばしば鋭く対立した。(略)それはまた『有主』と『無主』の対立の一面ももっていた。文字通り『無主』の山野河海が前近代には、まだまだ広大であったことは認められてよかろう。本来、耕地のひらかれた大地についてもいえることであるが、『山や川はだれのものでもない』という見方は、庶民の中に深く根づいた思想とみなくてはならない。そして市・津・泊や道・辻も、割り意識的に『無主』『無縁』と性格づけられた場であった。もちろん非農業民がそうした境界領域ともいうべき場所で生活し、生業を営むためには、そこをなんらかの形で管理、領有しなくてはならないので、これを『所有』の一形態とみることもできるが、それは否応なしに自然そのものの『論理』にできるだけそったものとならざるをえないのであり、田畠などの耕地の私有とは全く次元の異なる『所有形態』というべきであろう(略)。この意味で非農業民は、山野河海、『無主』の場の論理の代言人であった。」(『中世の非農業民と天皇』)
 最近、NHKテレビの「無縁社会」をテーマにしたドキュメンタリー番組が評判を呼んでいるようだ。そこでの「無縁」は、いわゆる格差社会から孤立化していくことの不安感を指していて(わたしなら、格差社会のなかでどうにか充足していくよりも、貧窮に向うことになったとしても、逸脱した生き方を選びたい)、負の意味を付加しているのだが、網野のいう「無縁」は、そうではない。格差社会という措定の仕方を、いまここで厳密にすることはしないが、国家や社会の構造・システムというものは、基層においては連続性・時間性を潜在させているものだ。わが国においては、天皇制的なるものが、制度としては空白化しているとしても、網の目のような瀰漫の仕方で、共同的形態に表象され続けてきたといえる。網野が思考する非農業民における「無主・無縁」ということの方位には、農業民(定住民)つまり、農耕的なるものを基層とする天皇制の様態を相対化することにあった。中世という時空間のなかで、支配体系の円環が及ばない領域、生活圏というものを措定することによって、自存していくことの位相を見通していこうとする網野の歴史性に向けた視線は、鮮烈だ。
 わたしは、片桐慎治の作品「犬になる」(『幻燈No.8』)に、接した時、いいようのない衝撃を受けた。「黒い犬」をめぐって発せられるモノローグには、「無主・無縁」を潜在させる契機があると見做したからだ。故郷を離れること(非定住者になること)によって、自らを「無主・無縁」の場所へと流離させながらも、現在という時空間のなかでは、郷愁へと反転していく不安定さを払拭できずに、見知らぬ場所を彷徨う。
 「名も知らぬ/人たちに/私は…/長いこと/手紙を届けた」「帰るのか…/もう知る人もない/海辺の町に/戻ろうか」「一度会うべき神とは/誰だろうか……」
 〈黒い犬〉は、「無主・無縁」の表象であり、〈神〉は、そのことの反照として立ちはだかっている。〈神〉を「無主・無縁」の場所へと引き寄せることはできるのだろうか。
 ふたたび、網野の言説に立ち返るならば「『山や川はだれのものでもない』という見方は、庶民の中に深く根づいた思想」であるという位相が、わたしには、普遍性を持って迫ってくる。この言説をアクチュアルなものへと揚棄すべく、わたしたちは、現在的視野を汲み入れながら、網野の思考に向き合うべきだと思う。その時〈神〉は〈無主〉となるのだ。

(『月刊架空』10年11月号)  

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2010年11月 5日 (金)

「情況」的場所へ(8)―排除の暴力―

 東京・渋谷駅近くのJR山手線沿いに渋谷区立宮下公園がある。七十年前後、ここは、新左翼諸派の集会によく使われていた。以後、近年まで様々な運動系の集会が開かれている。わたしのような、都心の公園を散策するといった機会を持たないものにとって、宮下公園とはそんなイメージとしてあるのだが、もちろん、公園である以上、憩いの場所であることには変わりはなく、例え、野宿者(ホームレス)が棲みつくようになったからといって、いわゆる公共の場所であることは、確かなのだ。ところが、公園の老朽化ということで、渋谷区によって改修計画が起きたのはいいのだが、財源のないことを理由に、グローバル企業のNIKEに、「命名権の売却」という転倒した施策を決定して、「宮下NIKEパーク」という有料施設のある公園を開設することになった。このことは、どう考えても公共の空間を、「命名権」というレトリックを使って一私企業に「売却」したに過ぎないことを意味する。いまここで、詳細に述べることはしないが、区並びに区議会が不透明なプロセスで、そのことを決定したことが、最も重大な問題だといわねばならない。もちろん、そのプロセスの基層には、野宿者を公園から排除したいという判断があることは間違いないのだ。しかも、これまでそのプロセスをまったくといっていいほど、マス・メディアで報道されることがなかった宮下公園の〈NIKEパーク化計画〉は、渋谷区による行政代執行を強行した日の9月24日当日、テレビ、新聞でいっせいにアリバイ的な報道をし出した。もちろん、ほとんどの論調は、反対派の根拠が分からないといった皮相な前提で、しかも、これで野宿者(ホームレス)が棲みついていたため行きづらかった公園に、家族連れで行けることが可能になったなどと、排除の論理を露呈したものであった。そして、もっとも許されざることは、当日の新聞記事に載っていた渋谷区長の談話である。以下、記事とともに引いてみる。
 「大手スポーツ用品メーカー『ナイキジャパン』による(略)整備計画に反対運動が起きて着工が遅れている問題で、渋谷区は二十四日、反対する団体が公園を違法に占拠しているとして、団体が設置したテントなどを強制撤去する行政代執行を実施した。(略)区は昨年八月、ナイキジャパンに、通称『宮下NIKE(ナイキ)パーク』とする命名権を十年間にわたって年間千七百万円で売却。同社が数億円かけてスケートボード場などを備えたスポーツ向け公園に改修整備する契約を同社と結んだ。(略)これに対し、同会(引用者註=『みんなの宮下公園をナイキ化計画から守る会』)が『公共空間の企業化』『野宿生活者の排除』などと訴え、公園内にテントを張って監視を始めたため着工を見合わせてきた。(略)区によると、公園内には行政代執行の対象からは除外している同会以外の路上生活者が四人いるため、全員の退去が決まり次第、着工する見込み。/桑原区長は行政代執行について『けじめをつけるのが私の仕事。区関係者以外の人が集まってきて、「われらの公園だ」というのは筋違い。区民が使える公園にしなくてはならない』と説明している。」(「東京新聞」9月24日付夕刊)
 「区関係者以外の人が集まってきて、『われらの公園だ』というのは筋違い。区民が使える公園にしなくてはならない」と述べる渋谷区長は、明らかな矛盾に陥っている。ここでは区立公園だから、区民以外、公園を使ってはいけないということを明言しているのも同然なのだ。さらにいえば、反対派の人たちの中にあたかも区民が参加していないごとく断定して喧伝するのもおかしい。また、記事中にある、「路上生活者が四人いるため、全員の退去が決まり次第」ということは、どういうことを意味するのだろうか。明らかに強制退去以外、ありえないではないか。また、「数億円かけてスケートボード場などを備えたスポーツ向け公園」とはどんなものなのかは、すぐにでも、想像できることだ。それは、緑生い茂る公園とは、かけ離れたものになるのは、明白だ。公園自体は、無料で入れるなどとテレビのコメンテーターは、当日の放送で、詭弁を弄して発言していたが、施設自体、有料ならば、「区民」に開放されて「使える公園」とは、程遠いものだというしかないだろう。周知のように、NIKEは、スポーツシューズを中心にした売上で、急成長したグローバル企業だ。急成長した事由には帝国化した簒奪方法があったといっていい。商品デザインに関しては自社でするが、生産に関しては自社工場を持たず外部工場に委託するという方法をとっている。特に、東南アジアなどの海外工場に関しては、まるで植民地支配(だからこそ、わたしは帝国化と称したいのだ)のごとく劣悪な労働環境を強いているのだ。帝国化した企業(グローバル企業)であるNIKEが目論む宮下公園の〈NIKEパーク化計画〉は、公園の公共性を考えているわけではなく、企業利潤を追求しているに過ぎないことは、誰の眼にも明らかなはずだ。これは、野宿者排除という渋谷区の目論見と、NIKEの目論見が合致したことを意味する。渋谷区長があからさまに「区民が使える公園」といった時、そこに棲む野宿者排除を意識下に置いたものだといっていい。しかし、それは、同時に、公園というものに付帯する、開かれた共同性(公共性をもっと拡張していえば、そうなる)ということを地域行政責任者自らが否定したことにもなるのだ。いったい、排除という論理、論拠はどこからやってくるものなのだろうかと、この渋谷区長の発言から考えてみるならば、明快に権力意識の発露だといっていいと思う。それは、かつての成田新空港建設をめぐっての三里塚闘争を想起してみるならば、行政代執行という排除の暴力は、まさしく、権力による暴力というしかないことが自明のことのように浮き上がってくるはずだ。
 「暴力における私の定義は、権力と権力を守る合法主義、それが暴力の根源である、ということに帰着する。」
「暴力とは、法に守られた権力者が民衆に向かって敢えて加える圧迫の手段そのことである。」(秋山清「『暴力』考」―『反逆の信條』所収、北冬書房刊・73年)
 これは、行政代執行という排除の暴力を的確に捉えるための視線だといっていい。もとより、秋山清のこの論旨は、国家や権力に潜在する暴力の位相を切開するためのものであり、国家や権力に対する民衆の抵抗が、仮に暴力的表象を発生させたとしても、それを暴力とは呼ばないという、極めて先鋭的な視角をもったものなのだ。そこで、わたしは、排除の暴力と抵抗の暴力というものをめぐって想いを巡らしたくなった。そのためのテクストは、白土三平の代表作『カムイ外伝(第一部)』である。集中「下人」という作品がある。追手との死闘によって、目が見えなくなった抜け忍・カムイは、とある村落の住人に行き倒れのなか、助けられる。子供たちは、新しい家族が出来たと喜んだのも束の間、親たちにとっては、労働力の担い手としてしか扱うつもりはないのだ。だが、村落の他の住人たちは、カムイが貴重な労働力であることを知って、各家を順番に下人として働かせることにする。過酷な環境に置かれたカムイだが、追手から逃れながら生き続けていくことよりも、下人として定住することの方がまだ、納得しうることだと考える。だが、やがてそうした転倒の安住は瓦解することになる。弱者としての下人だったカムイが強者であることが分かると村人たちは、村落の救済者であるにもかかわらず、恐れおののいてしまうのだ。わたしなら、村落民から下人のように扱われるカムイを、現在の野宿者像に敷衍させたくなってくる。ここでは、排除の暴力と抵抗の暴力をめぐってアンビバレンスな世界を露出させている。排除という行為にあるものは、間違いなく暴力ではあるが、抵抗の中にあるのは、存在の哀しみという感情的暴力なのだということを、『カムイ外伝』の中の一篇「下人」は指し示していることになるのだ。

(『月刊架空』10年10月号)

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2010年9月30日 (木)

「情況」的場所へ(7)―空白化する〈終戦〉―

 八月という時期は、いつでもわたしを陰鬱にさせる。今年は特に、猛暑続きだったため、そこに不快感が重なって、なおさら陰鬱さは過重になっていった。
 いまから、六十五年前の1945年八月十五日、天皇ヒロヒトはRADIO放送を通して、終戦の詔勅を発した。この時、国民の多くが、〈天皇の肉声〉を初めて聞いたことになる。わたしは、台湾映画『悲情城市』(侯孝賢・監督、89年)の冒頭シーンで延々流れた天皇の声に大きな衝撃を受けたことなどを記したことがあるが(『夜行17号』)、終戦の詔勅なるものが、いかようにも、終戦もしくは敗戦というものを決定付けたと理解したことは一度もない。世代間の違いといえば、そういうことになるかもしれないが、45年八月十五日を過ぎた後でもなお、“戦争状態”は依然続いていたことを忘れてはならないからだ。南方での孤立化した抗戦や、満州や北方において、スターリン国家ソ連の侵攻で占領状態になるという、およそ終戦とはいえない情況が続いたのは事実であったことを思えば、ヒロヒトの詔勅になんの意味もないことがわかる。また、こうもいえるはずだ。戦争による犠牲者(戦死者)を哀悼するというのであれば、なにも、八月十五日だけに限定すべきではない。戦死者や犠牲者にとって、八月十五日以前はもちろんのこと、以後にも多くの様々な〈死〉を刻んだ日があったのだ。それぞれに個々の亡くなった(であろう)すべての日に、天皇は哀悼すべきであり、国家(あるいは天皇)の名の下において死を強いておきながら、死後もなお、遺族から個々の哀悼の気持ちを簒奪し、遅きに失したといえる天皇が詔勅を発した日に収斂させ、統率して行おうとすることを、わたしは認めない。このことは、戦没者慰霊が靖国に祀られるべきかどうかということを論ずることよりも、遥かに重要なことだと、わたしなら思わざるをえない。
 結局、“終戦”記念日なるものは、国家や天皇の責任を回避するだけのたんなるセレモニーに過ぎないことをこの六十五年間、露呈してきたことになるといっていいはずだ。
 「天皇制の崩壊は、八月十五日の勅諭を聞いた時の、日本人の態度いかんにかかっていたのだと考えつづけていた。あの時に、おれたちが一斉に嫌だと叫んでおれば、天皇の権威はたちまち崩壊していたはずだった。どうせ敗けることは解っていた。しかし、三日間でもいい、抵抗を続け、戦争をはじめた勢力とは別の組織が、戦争の責任をとり戦後処理を担当すべきだったのだ。(略)しかし、そうした怒りも風化してしまっていた。」(高橋和巳『散華』、67年刊・63年初出)
 人間魚雷の生き残り兵であった主人公・大家の独白である。この作品は戦後十七年経った時制での物語であるが、戦争で死を目前にして生き残ったものが有する終戦(敗戦)に対するイメージを鋭利に描出しているといってもいい。ただ、天皇の肉声にうな垂れて悲しみにくれるといったわが国の民衆の有様を、教科書的な認識とするには、余りに多くの人たちの様々な思いというものが、終戦時にはあったということだ。「三日間でもいい、抵抗を続け、戦争をはじめた勢力とは別の組織が、戦争の責任をとり戦後処理を担当すべきだったのだ」という夢想を高橋和巳は、その後、『邪宗門』の世界において、さらに深く描出していったといえる。高橋和巳と同世代でもある磯田光一は、その著『戦後史の空間』に収載されている「敗戦のイメージ」という一文のなかで、終戦から戦後にかけての時空において思想家・保田與重郎がとった態度を次のように述べている。
 「敗戦を境に時代の価値意識が逆転したとき、いやおうなしに新時代から身を退けざるをえなかった人として、ここで保田與重郎の声に耳を傾けなければならない。(略)保田は、時代の動向がどうなろうと、思想だけは少しも変えなかったのである。窮して志を述べるのが文学ならば、保田の『日本に祈る』(昭和二十五年・祖国社)の序文は、その思想のヴェクトルがどうであろうと、占領下に発表されたすべての文章のうちで、最もなまなましい痛憤にみちたものの一つである。(略)保田の夢を裏切ることによってしか、『戦後』はありえず、歴史は『戦後』を獲得したがゆえに保田の夢想はほうむられなければならなかった。この二重構造のうちに、敗戦をはさむ歴史そのもののイロニーがある。それならば保田のいう『過ギシモノ、カクモ切ナキヤ』という感慨は、永久に日本の『戦後』と交差することはないのであろうか。」
 「なまなましい痛憤」といい、「『過ギシモノ、カクモ切ナキヤ』という感慨」といい、保田與重郎を捉える磯田の視線は、終戦から戦後へ至る過程の欺瞞性とでもいうべき位相を切開していく。その保田に思いを重ねていた一人の作家がいる。『死の棘』で知られる島尾敏雄である。島尾は、海軍特攻の震洋隊隊長として奄美群島加計呂麻島に着任しながら出撃することなく終戦を迎えた。その終戦後日記(『島尾敏雄日記』)に次のような箇所があった。
 「夕方六甲道駅前デ保田與重郎『文明一新論』ヲ買ツタ。彼ハ現在何ヲ考ヘテヰルカ、昭和十八年後半、私ハ旺ニ彼ノ書ク物ヲ読ンデソレニ傾イタ。(略)私ハ太宰治ト保田與重郎氏ヲ見ツメル、同世代ヲ歩ム縁ニヨツテ。」(昭和20年・十月二十三日)
 「余は昨年八月十五日に既にくだらぬものとして生き残つた。余が生きてゐるのはミホへのみれんだ。(略)だが俺は信ずる。俺の世界、立派に世間的に通用はしないやうな世界だが、余はそこに住む以外は生きて行けぬ。」(昭和21年・一月二十六日)
 “終戦”から、二ヵ月後、「彼ハ現在何ヲ考ヘテヰルカ」、「私ハ旺ニ彼ノ書ク物ヲ読ンデソレニ傾イタ」と、保田與重郎に思いを馳せる島尾の心情は、戦争(それは、島尾にとって絶えず死というものを孕んだものだ)が持つ非情さにどう対峙すべきなのかということへの“痛憤”としてあるといっていい。だからこそ、年明けの一月に、「余は昨年八月十五日に既にくだらぬものとして生き残つた」と独白していくことになる。
 つげ忠男の『屑の市』(72年)は、終戦以後ということについて、濃密に問い掛けてくる作品である。血液銀行に売血しにくる者たちの有様を描いた作品だが、一際、饒舌に明るく振舞っている中年の男がいる。元海軍中尉と噂されるその男は、どこか陰影を持って描写されていく。そこに、売血しにきた男たちに体を売ろうとする一人の女が登場し、元海軍中尉の男と仲間の前で抱かれることを強要される。女は仕方無く、着ているものを脱ごうとすると、肩から胸にかけてケロイド状態が露になる。それを見た元海軍中尉の男は、女を抱きしめ、ケロイドの場所に口づけをし、やがて二人は、雨が降るなかを肩を寄せ合いながら歩き去って行き、物語は閉じていくことになる。女のケロイドが戦火によるものであることは、類推に過ぎない。しかし、この元海軍中尉の男が女に寄せる感情は、「余は昨年八月十五日に既にくだらぬものとして生き残つた。余が生きてゐるのはミホへのみれんだ」という島尾の思いに通底するし、磯田が指摘する「保田のいう『過ギシモノ、カクモ切ナキヤ』という感慨」にも通底するものであると、わたしなら捉えてみたい。戦後の民主化(アメリカ化)といった“価値意識の逆転”は、“過ギシモノ”を無かったことにする意識を醸成させていき、終戦も戦後も空白化した時空を漂わせていくことになる。そこでは、戦争責任(軍部というよりも、外務官僚に対して)も国家の問題も、天皇制の問題も、なにも解き明かすことなく、“終戦記念日”というセレモニーと、“戦後”という目覚しい経済復興によって獲得されたとする平和という欺瞞性に充足しようとする人たちがいることになる。八月六日、広島で、皮相にも、核の抑止力を肯定する発言をしたわが国の首相の有様は、そのことをさらに象徴化しているといっていいはずだ。

(『月刊架空』10年9月号)

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「情況」的場所へ(6)―時空の彷徨―

 七月十七日付新聞紙上に「重信被告 有罪確定へ」の見出しの記事が載っていた。それによれば、「オランダ・ハーグの仏大使館占拠事件(ハーグ事件、74年)で殺人未遂などに問われた元日本赤軍最高幹部、重信房子被告(64)の上告審、最高裁(略)は15日付で被告の上告を棄却する決定を出した。懲役20年とした、1審、2審判決が確定する」(「毎日新聞」)と報じられていた。わたしは、重信房子の個人史(唯一、関心を惹くのは、父親が血盟団の一員だったことだ)や、行動理念に、これまで関心や共感を抱いてきたわけではない。一昨年に観た、若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』の物語の始まりが、明大Bund仲間だった重信房子と遠山美枝子の二人がデモをしている場面であったことからくる、ある種の感慨のようなものを思い出したから、記事に惹きつけられたといっていいかもしれない。その後の二人は、ともに赤軍派へ参加、やがて重信はパレスチナ解放闘争参画のため西アジアへと渡り、遠山は連合赤軍に合流し、山岳ベースで虐殺死する。重信が、度々、帰国していたのは、わたしですら知っていた。記事には、97年から00年までに16回の出入国を繰り返していたとあったが、少なくとも、それ以前から帰国していたはずだ。00年11月に大阪で逮捕された時、わたし自身は、特に驚きはしなかった。出入国の繰り返しは、公安の網の目の中で踊らされていただけだったに過ぎないからだ。現在、イスラエル=パレスチナ問題は依然、暗礁に乗り上げたまま、イスラエルの強大な軍事力によるパレスチナ民衆への弾圧が、ガザ地区を中心に続けられている。重信・赤軍派が、既にどんな革命的使命をも胚胎することができなくなった時、彷徨が始まったということになる。遠山の理不尽な死と、重信の彷徨する生に対して、その時空間を横断させてみれば、なにを見通すことができるのだろうかということが、さしあたって、わたしの現在の関心事ということになる。
 69年秋、「ブルジョワジー諸君!我々は君たちを世界中で革命戦争の場に叩き込んで一掃するために、ここに公然と宣戦を布告するものである」と「世界革命戦争」を宣し、共産同赤軍派が結成された。荒唐無稽、誇大妄想の誹りを受けながらも、新左翼諸派の中でも突出した武力闘争を進んでいったのは確かであったが、それは当然、公安権力のすさまじい弾圧を招来することになる。赤軍派への弾圧は、九十年代中盤期におけるオウム弾圧の比ではなかった。やがて閉塞していく運動情況のなかで、周知のように、路線や組織形成がまったく違う、京浜安保共闘(革命左派)と連携し、連合赤軍が結成される。群馬山中に革命根拠地と称して、山岳ベースを作るも、そこで行われたのは、十二人の粛清死だけだった。そして、公安の追尾を振り切った五人のメンバーによって喚起された「あさま山荘銃撃事件」(72年2月)で、連合赤軍は運動的、組織的解体を迎える。一方、重信・赤軍派は、重信の戸籍上の夫・奥平剛士ら三人による「テルアビブ空港乱射事件」(72年5月)によって、衝撃と困惑を、わたし(たち)に与えた。
 田宮高麿たちの「よど号ハイジャック事件」(70年3月)は、乗客乗員が一切殺傷を受けることもなく、ある種、見事な快挙といえるものだった。しかし、テルアビブ空港での無差別乱射は、例え、そこがイスラエル国内の主要空港とはいえ、無辜の市民たちへの殺傷である以上、革命運動からは大きく逸脱するものだというしかない(9.11テロとは位相が違うことを敢えて付言しておく)。昨年、わたしは、ドイツ赤軍をモチーフにした映画『バーダー・マインホフ/理想の果てに』(監督 ウーリー・エデル)を観た。政財界・司法関係の要人を次々と誘拐し暗殺するという行動の苛烈さは、内閉していくわが国の赤軍派や連合赤軍の運動と明らかな差異を示していて、赤軍派らの錯誤に満ちた武力闘争なるものを想起して暗澹たる思いになったといっていい。ドイツ赤軍は、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)の軍事訓練を受けたものの、当然のことながら全面的に共闘していくかたちを採っていかなかった。そこが、PFLPの傘下となって行動することを主軸とした重信・赤軍派との大きな違いだ。というよりは、それが、重信・赤軍派における明らかな錯誤と陥穽であるといわねばならない。
 内閉した粛清死と無差別乱射の間に横たわる構造は、“ブルジョワジー”という言葉に象徴される権力の時空を見誤り、国家と共同性の間隙を見通すことができなかったことを指し示している。
 ところで、かつて森山塔名義で『とらわれペンギン』や『ペギミンH』などの成年向けコミックで独特の倦怠感溢れるエロスの世界を描出していた山本直樹は、現在、連合赤軍をモチーフにした『レッド Red』(「イブニング」06年21号より隔号連載、現在まで単行本は四巻まで刊行中)という意欲的な作品を発表し続けている。若松版映画と違い、69年から72年の情況を歴史記述的に描出しようなどという思惑は一切なく、ただ、その時の情況の只中にいた若者たちの群像を丹念に物語化しようとする率直な思いが伝わってくる。
 山本の描く物語は、革命者連盟(京浜安保共闘をテクストとしている)を中心に進められているのが、印象的だ。関西派Bundの流れを持つ赤軍派の主要幹部は塩見孝也をはじめとして京大出身者(板東國男もそうだ)が多い。また連合赤軍に参加したメンバーの多くは学生活動家のまま運動を継続していた。しかし京浜安保共闘の永田洋子や坂口弘は、労働者としての立ち位置で運動に関わっていた。経験的様態において、赤軍派メンバーとは明らかに差異性を有していたのだ。
 山本はけっして既知の人物像にとらわれることなく、作中の群像を活写している。革命者連盟の赤城(作中人物名は山岳名から採っている)を、この作品の中心に据えているのだが、永田をモデルにしているとはいえ、忠実に描出しようとしているわけではない。山本漫画の一登場人物として自在に、ある意味、魅惑ある造型が表現されている。一方、赤軍派は、赤色軍という名称にして、岩木(植垣に相当)を軸に描かれていく。森は北(北岳に由来するとはいえ、わたしは北一輝を想起したくなる)、板東は、志賀という人物に擬似化させているが、もとより、他の登場人物にしても、遠山美枝子を特定できないように、実在のメンバーに合致させるような描き方はしていない。ただし、登場人物のうち十五人のメンバーの顔の上方に、①、②というように、ナンバーを付して、幾度となく描出している。これは、亡くなっていく順番を示しているのだ。①の赤石は、交番襲撃で射殺死、②と③の空木、五竜は、赤色軍との合流以前、革命者連盟が行った粛清によって殺される。④伊吹以下、⑮霧島までは、山岳ベースで総括によって亡くなっていく者たちということになる。そして、さらにいえば、岩木の場面では、「この時20歳/長野県の駅(駅名は黒ベタにしている)構内で/逮捕されるまで あと約950日/懲役20年確定まであと約8600日」(第1巻・11P)というキャプションが付されていて、後段になれば、その日数が減少していくことが分かる。赤城の場合は、「このとき24歳/群馬県山中で/逮捕されるまで/あと898日/死刑確定まであと/8569日」(同・30P)となり、北は、「この時26歳赤城とともに/群馬県山中で逮捕されるまであと413日/拘置所内で自殺するまであと732日」(同・165P)と記されていく。番号といい、あと何日という表記といい、見るものは、やがて、悲惨な事態に彼ら彼女らが遭遇することを否応なしに突きつけられる。そして、第4巻では、空木と五竜の死を、衝撃的に描出される。死に向かう時の空木と五竜のいいようのない表情は、痛切である。やがて、多くの無用な死の始まりとしてそれは示されているのだ。山本のこの作品は、個々の「生」に向き合うことによって、情況を越えていく。

(『月刊架空』10年9月号)

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2010年8月10日 (火)

「情況」的場所へ(5)―狂走の狭間で―

 いったい、この国のマス・メディアにおける一つの事へ集中した、あるいは特化させた、横並びの狂奔的報道はどうなっているのだろうかと思わざるをえない。鳩山、小沢の政治資金問題から、普天間問題までの政局報道の皮相さ、空虚さを露呈したのも束の間、今度はワールドカップ・サッカーだ。南アフリカという、長らく白人による強圧的な黒人支配を続けるという人種差別の象徴だった国家が、あたかも過去の行為が贖罪されたごとく、祭典に狂奔している。わが国のマス・メディアは、南アの過去から現在に至る時間性に対して、いっさい触れることなく、ただただ祭りに便乗し、狂奔している。しかし、現実には、さらなる差別の構造が南アでは露出しているのだ。利益を多大に得るのはFIFAに群がる利権集団(企業)だけで、現地の黒人住民(貧困層)に富が還元されることはない。スタジアムで、戦意を喪失させるかのように、奇妙な音響を鳴り響かせている楽器(ヴヴゼーラ)の八割までが、アフリカを経済的植民地化しようと目論む中国で生産されたものだ。さらには、ワールドカップ関連商品も、FIFAの認証なくしては販売することすら許されない経済統制下に置かれている。
 「政府は南アフリカの厳しい現実を覆い隠そうと努め、(略)ヨハネスブルグだけでも、住む家の無い一万五千人以上の人々とストリート・チルドレンをかき集めてシェルターに放り込み、ケープタウン市では地方自治体が、ワールドカップの虚飾事業の一部として、貧困地区とスクウォッターのキャンプから何千人もの人々を追い出した。(略)FIFAはワールドカップというブランドと、そこから生み出される商品の所有者であり、それらの商品が無認可で売られていないか国中を探し回ったり、ブランドの市場調査をしたりするために、およそ100人からなる法律家のチームを有してもいる。南アフリカやアフリカ大陸の大部分の人々は、非公式な取り引きを通して商品を購入するということや、チームのTシャツや他のスポーツ用品を得るために、400ランドを費やせる者はほとんどいないという事実にも関わらず、商品は没収されて売り手は逮捕される。ジャーナリストたちは認可条項によって効果的に口封じされ、報道機関はFIFAが不評を買うような報道ができず、言論の自由は明らかに損なわれている。/実に皮肉なのは、サッカーは元来、確かに労働者階級のものだったということである。経営者や国家に踏みにじられる生活や、日々の嫌な労働を忘れさせてくれる90分間を求める人々は、競技場で直に、安い値段で手軽に試合を見ることができた。今日の商業化されたサッカーとワールドカップは、世界および国内の小さな陰謀集団(略)に法外な利益をもたらす。」(「全ては美しい利益の名のもとに/南アフリカでの2010年のサッカーのワールドカップに関するZACF(ザバラザ・アナキスト・コミュニスト戦線)の声明」―10.6.17付『ONLINEアナキズム』掲載、訳者・I)
 わが、ジャパン・チームは、ベスト・4を目指すなどという誇大妄想を抱きながら、その前哨戦は惨敗続きで、多くの支持を失い、放送権料の還元にいそしむマス・メディアだけが勝手に盛り上がっていた。もはや誰も岡田は監督の任にあらずと思っていたにもかかわらず、苦し紛れの奇策(俊輔外しと本田のワントップ起用)があたり、決勝トーナメントへ進み、わが国は、一気に大政翼賛会状態になってしまった。
 だが、新聞報道は二、三日で終息し、テレビの報道番組でも、ほとんど取り上げられることがなかったが、わたしたちは、この間、衝撃的な事件が起きたことを忘れてはならない。
 事件をデッサンすればこうなる。6月22日午前7時40分頃、広島市にある「マツダ本社工場の東正門前で、乗用車が通勤途中の従業員2人をはね、さらに正門から侵入して9人を次々とはね」て、男性一人が死亡、一人が重体、他は軽傷だった。容疑者の男性(42歳)は、「2カ月前にマツダを解雇され、うらみがあった」(「毎日新聞」10年6月22日付・夕刊)と動機を供述していると、記事には記されていた。続報(「同前」23日付・夕刊)では、「『秋葉原のような事件を起こそうと思った』と供述していることが、捜査関係者への取材で分かった」とし、「長年にわたり派遣などの非正規雇用で職場を転々とし、2年前には自己破産するなど不安定な生活が続いていたことも新たに判明」したとしている。わたしは、事件の第一報を知った時、確かに二年前の秋葉原での無差別殺傷事件を直ぐに想起した。だが、続報によって容疑者がそのことを模倣したような発言をしたことを知って、事件が類型化していくことの危惧感を、わたしは率直に抱いたといっていい。どんな事件であっても、それぞれは個別的なものだ。類型化することによって、契機となるべき根拠が覆い隠されしまうことが、この種の事件では多々あることを知るべきである。やはり、二年ほど前に起きた元厚生官僚連続殺傷事件でも、容疑者の動機が、あまりにも空疎な事由であることが伝えられて、不可思議としかいいようがない思いをしたものだった。マツダを襲った容疑者が、僅かな期間を働いただけの勤務先にどのような怨みを抱いたのかを知るのは、困難なことだ。漠然とした《外なる世界》への不満や憤怒といったことが個々それぞれの契機となったとしても、それを狂気、狂走の結果と見做す偏見と画一的な視線をわたしたちは、排すべきである。
 「狂気が科学の対象となったのは、狂気が古来から持っていた権力を奪われたからこそなのだということなのです……。狂気それ自体の擁護弁明をするなどということではないのです。それに、結局、それぞれの文化は、それに似つかわしい狂気を持つことになるのです。」(M・フーコー「狂気は社会のなかでしか存在しない」―『思考集成Ⅰ』所収)
 狂気や狂走の契機を辛酸な境遇に求めたり、心的不安感といったことに起因すると捉えることに、わたしは与しない。例えば、フーコーの言説をわたしなりに、敷衍するならば、わたしたちは、社会という共同性の遺伝子を否応なしに共通のものとして包有している。そして、その遺伝子による行為の表出は、なにかの契機によって顕在化したり、潜在したままの様態にあるというように、それは絶えず多様性を示している。平穏な日々を送っているつもりでも、なにか理不尽な契機で、マツダの工場を襲った容疑者のような行為を表出させることは、いつでも、誰でもがありうることを、自分たちの思惟のなかに入れ込むべきだと、わたしは考える。狂気、狂走的な出来事は、対岸の事態ではない、わたしたち自身のなかに、狂気性は絶えず潜在していると思うべきである。だからその限りでは、狂気、狂走というものは、《外部》と《内部》との軋轢(関係性の不在)の表象であり、関係性を本源的に希求していくというパラドキシカルな狭間にあるものだといえるはずだ。ここで、わたしは、菅野修の近作「性と生活」(『幻燈 10』掲載)に接して、あらためて狂気、狂走の不断性を感じずにいられなかったといっていい。苛烈な言葉と先鋭な画像を重層させて展開していく、この作品では、「狂気が古来から持っていた」本源的な《力》のようなものを感受できる。主人公の男が、言葉としての会話(関係性を取り結ぶはずの契機)をめぐって独白する「会話とは/なんであるのか……」「言葉による/伝達をいう/のだろうか」「しかし言葉によって/正しく伝えられた/ことがあっただろうか」「言葉は貨幣よりも/曖昧ではないだろうか」には、言葉が、ほんらいディス・コミュニケーションとしての位相を持っていることを鮮烈に指し示している。言葉(行為)があればすべてのことが、通じ合えるというのは幻想でしかない。それは妻との性愛の只中で、シャネルのバックを懇願する妻に対して、「本当に必要な/生活必需品なのか」と罵倒することにおいても、同じことを示している。男にとって狂気、狂走は内向化しながら潜在していくことになる。

(『月刊架空』10年8月号)

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2010年7月15日 (木)

「情況」的場所へ(4) ―南島からの放射―

 民俗学者・柳田國男(1875~1962)、最晩年の代表作『海上の道』(61年刊)は、日本人の起源を遡及した雄大な論考として知られている。はるか南方から中国大陸、沖縄の島々を通り本土へと至る〈海上の道〉を措定したものだが、画期的な南島研究ともいえるこの著書に収められた論稿のほとんどは、沖縄が占領下にあった50年から55年までに執筆されたものだった。柳田自身、沖縄への訪問は意外にも、20年の年末から21年二月まで滞在した一度だけであった。その時の紀行文が南島研究の端緒となったといわれる『海南小記』(25年刊)である。民俗学者の本領として、日本人の起源を遡及しようとしたことは、必然だったとしても、それが、当時、占領下にあった南島・沖縄へと視線を向けていったのは、大和(王権)国家から大日本帝国へ至る歴史過程を相対化しようと無意識のうちに働いた結果ではなかったのかと、わたしなどは、類推したくなってくる。そして、当然といえばそうなのだが、柳田の南島研究のモチーフは、日本本土の文化・民俗より遥かに古層性を持ったものが南島には残存しているということだった。だからこそ柳田の思考は、辺境と見做されていた南島という場所から、列島国家の歴史的時間の虚構性を相対化するものだったといえるのだ。そのことを、さらに苛烈に推し進めていったのが吉本隆明だといっていい。『共同幻想論』(1968年刊)提示後、さらなる国家の基層性を論及していった吉本は、折からの沖縄奪還解放闘争の渦動のなかで、一連の「南島論」といわれる講演を幾つか行っている。その起点となった「南島論―家族・親族・国家の論理」(『展望』70年12月号収載)は、現在でも依然、アクチュアリティを持っているとわたしは捉えている。ここで吉本は、南島の問題を辺境といった地域的な後進性で捉えるのではなく、世界の歴史的現在性として汲みいれて論及するという立場を鮮明にしている。
 わが国の天皇制における王権継承祭儀(大嘗祭)と南島におけるノロの継承儀礼、琉球王朝が制度化した聞得大君(キコエノオオキミ)という最高の巫女の継承儀式を比較し、多くの共通性を取り出しながら、聞得大君やノロの継承祭儀の方が、大嘗祭よりはるかに“古形を保存”していると捉えて、次のように述べていく。
 「(略)天皇制統一国家に対して、それより古形を保存している風俗習慣、あるいは〈威力〉継承の仕方があるという意味で、〈南島〉の問題が重要さを増してくるだけでなく、それ以前の古形、つまり弥生式国家、あるいは天皇制統一国家を根底的に疎外してしまうような問題の根拠を発見できるかどうか、それはまさに今後の追求にかかっているのです。(略)それなしには、〈南島〉の問題は、たんに地域的辺境の問題として軽くあしらわれるにすぎないでしょう。つまり、現在の問題に限っても、日本の資本制社会の下積みのところで、琉球沖縄の問題はいなされてしまうことは確実です。」
 沖縄が核密約のもと日本国家へと返還されて三十六年、何も変わっていないことに、わたしたちは愕然とするはずだ。念願の本土復帰以後も、結局は、「日本の資本制社会の下積みのところで、琉球沖縄の問題はいなされ」続けてきたといっていい。それでも、もしかしたらと、淡い期待を抱いたのは沖縄の人たちだけではなかったはずだ。昨夏の劇的な政権交代によって誕生した鳩山政権(鳩山由紀夫自身、従来からの九条改憲論者のスタンスを封印した)は、対等な日米関係の構築と在日米軍の見直しを宣し、十数年、自公政権によって暗礁に乗り上げたままになっていた沖縄普天間基地移設問題を国外・県外移転という方針へと明確に打ち出したからだ(鳩山は、今頃になって、あの公約は党代表のもので、政府の方針ではなかったなどと詭弁を弄する始末だ)。しかし、この間の時間的推移を見てみれば、自公政権時は、普天間問題をまったく俎上に乗せることもなかったマス・メディアは、鳩山と小沢に対する執拗な政治資金問題の狂騒的な報道が終息した途端、今度は基地移設問題を執拗に報道し続け、五月期限を踏み絵のように鳩山政権に迫るファシズム的批判報道を繰り返してきたといえる。沖縄や徳之島の住民の声だけを集中的に拾い上げ、これほど反対の声を上げているにもかかわらず、どう判断するのだといったアリバイ的報道操作をやっているに過ぎない。大半のマス・メディアは、日米安保体制堅持、在沖縄米軍基地はそのまま存続というスタンスにもかかわらずだ。その証左に東京や大阪といった大都市圏の人々の在沖縄米軍基地に対する反対の声を一切拾うことなく、現地の声だけに集約するという欺瞞に満ちた報道を続けてきた。「毎日新聞」5月31日付朝刊に掲載された世論調査での基地関係の設問は、「普天間問題で鳩山首相は、退陣すべきか、退陣する必要はないか」という二択と、「普天間飛行場の辺野古移設には、賛成か、反対か」という二択の二つだけである。沖縄に米軍基地は必要かどうかという最も重大な設問を見事に忌避しているのだ。全うなジャーナリズムなら、むしろこの機に、米軍基地の存否をわたしたちに問うべきではないのか。マス・メディアの巧妙な世論誘導に、わたしたちは惑わされてはならない。さて、ここからは鳩山政権における弱体性の抽出だ。端的にいえば、結局はアメリカ追随主義の外務省官僚・防衛省官僚のコントロール下に入ってしまったということになる。岡田は元々核保有論者の親米派であり、北沢は、なにも見識を持っていない、ただ長い議員歴で大臣になったようなものだ。これでは、自公政権下で微温湯に浸り続けてきた官僚にとって、政権交代は、なんら危機感を抱く必要のないことになったわけだ。所詮、政治主導は空語でしかなかったのだ。極めつけは鳩山だ。沖縄の負担軽減といいながら、聞いてきたような抑止力といったことを前面に出し、実効性の欠ける現行案を踏襲して、「地域的辺境の問題として軽くあしら」った権力的視線を露呈したといえる。
 うらたじゅんの「浮浪漫歩」シリーズの「シーサイドホテル」(『幻燈3号』・01年)と「渡難」(『幻燈5号』・04年)の二篇は、現在版『海南小記』といえる作品だ。「シーサイドホテル」は、沖縄返還(72年5月)後の74年秋、家出するようなかたちで一人旅に出て、石垣島へ渡り“シーサイドホテル”と呼ばれる石垣港の離島航路波止場に並ぶ十数個のベンチで寝泊りする若い旅人たちとアキコとの通交の始まりを描出していく。続く「渡難」では、“シーサイドホテル”で知り合ったナナに誘われて、与那国島に渡りキビ刈りの仕事をして暮らす日々を描いていく。
 柳田の『海南小記』には、こんな記述がある。
 「与那国の女たちは、ほんの無邪気な心持ちで、島の話をしたのである。静かに聴いているといくらでも悲しくなる。生きるということはまったく大事業だ。あらゆる物がこのために犠牲に供せられる。しかも人には美しく生きようとする願いが常にある。苦悩せざるをえないのではないか。」
 この記述には、「なかなか楽ではない島の生活」ということが前提にある。それでも、「美しく生きようとする願い」を込めて与那国の女たちは、生きていくという〝大事業〟に向かっていくのだ。うらたじゅんの「渡難」では、「キビを刈る女たちの力強い明るさ」を淡々とした筆致で描出していく。やがて、キビ刈りの重労働が祟りアキコは高熱を出して夢うつつの状態になる。そして、木々のなかから「ネエネエ/がんばれよ!/死んじゃダメさ/命ど宝」の声が聞こえてくる終景は、秀逸だ。
 米軍基地によって経済的恩恵を受けているといった表層的なデマゴギーに満ちた支配の論理からの視線をわたしは解体したい。それは、理念やイデオロギーの問題ではない。いま、南島からは、絶えずわたしたちに向かって「美しく生きようとする」熱い思いを放射され続けていることを率直に受け止めるべきなのである。

(『月刊架空』10年7月号)

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2010年5月20日 (木)

「情況」的場所へ(3) ―〈核〉という迷妄―

 いままた、〈核〉をめぐる喧騒がわきあがっている。冷戦構造下における時代は、〈核〉保有こそが世界の覇権というものを実質的に象徴していた。1945年のアメリカによるヒロシマ、ナガサキへの原爆投下の目的は、なかなか敗北を認めない日本帝国への駄目押し的な報復ではなく、来たるべき戦後支配を見据え、ソ連を牽制するものだったことは、いまや定説化しつつあるといっていい。つまりそれは、〈核〉が、ミリタリーバランスをコントロールしていくものとしてあったと同時に、〈国家〉を肥大化・強大化させていく根拠にもなっていたことを意味する。確かに、冷戦下は、いつでも、米ソによる〈核戦争〉が生起する危機が、内在していたといえる。だが、それは、けっして、外在化することはありえないということを含むものであった。だから、〈核〉というものは、けっして使用されることはないという意味において、〈幻想の所産物〉といってよかった。現実的な軍事戦略としては、〈核〉を搭載するか否かに関わらず、高性能のミサイル開発(宇宙開発とリンクしているのはいうまでもない)の方が、急務であり切実なものだったといっていい。冷戦構造が崩れ、アメリカ帝国一国支配がグローバル資本主義を推進していくなかで、〈核〉を保有することそのものは無価値化になっていったといえる。ただし、〈核〉を頂点とする軍事的なるものが、産業構造を最も下支えするものであることは当然のことであった。そして、行使されざる〈核〉ということは、ある意味、逆説的な〈核なき世界〉を現出させたともいえる。
 だからこそというべきか、他国や他集団の核開発疑惑、核使用疑惑を言挙げて指弾するアメリカの帝国主義的発言は、〈核なき〉軍事攻撃を正当化するためのものでしかない。
 バラク・オバマが、これまでの政権との違いを鮮明にして、核廃絶へのアプローチを表明(プラハ演説)したのは、昨年の4月のことだった。しかし、一方でアフガニスタンへの米軍増派を決定している。このアンビバレンスな施策は、そもそも「核なき世界」を謳えば、なにをしてもいいという帝国主義的表象でしかない。イラクは、核武装を目論むフセイン独裁国家だから、民主化しなければならないとして無差別的な軍事攻撃をし、多くの無辜なるイラクの民衆の死を招いたブッシュJr前政権と同じ位相をそのことは示している。そして、凝りもせずというか、先の「核安全保障サミット」では、〈核テロ〉の危機を表明し、アルカイダをスケープゴートにして、既視感を覚えるような対テロ戦を宣し、さらにはフセイン・イラクの次は、同じような手法で核開発疑惑をイランに向けて、挑発している。
 オバマが主導する「核なき世界」というのは、一国核保有主義であって、「戦争のない世界」ではない。わたしたちは、直截に、「核=戦争」であり、「非核(反核)=平和」と考えてしまいがちだ。〈核〉が不使用でも、これまで、何十年間も戦争が途絶えたことがなかったし、戦争が捏造されてきたことをもう一度、想起すべきなのだ。
 かつて、『風狂えれじい』や、『血染めの紋章』、『唐獅子警察』といった傑作群でわたし(たち)を魅了したかわぐちかいじは、近年、『沈黙の艦隊』、『ジパング』といった作品を発表してきた。古くからの読者は、その“右傾的”モチーフに反発を感じ距離を置き始めていったといえる。この二作品に共通するのは、〈核〉という位相を通じて、自衛隊を明確に「国軍」であることを露出させ、そのことによってどんな事態を招来させることになるのかを問うことであったと思う。つまり、国家とは何か、九条理念は現実的に有効なのかどうかということであったといっていい。『沈黙の艦隊』は、日米共同で、計画され建設された原潜をめぐって起きる、まさしく〈核テロ〉の問題である。核ミサイルを搭載した原潜を日本人乗員が「独立戦闘国家」と宣言して米ソへ対峙していくという物語だった。『ジパング』では、高性能ミサイルを搭載した自衛隊艦が、海外派遣の途上、嵐に巻き込まれ、1942年という戦時下の時制にタイム・スリップしたことによって、戦時下の物語が書き換えられていくというものだ。そこでは、核が使用されることなく戦争が終結していくというように描かれていく。作品連載途上、ソ連邦崩壊を現実の事象として受け入れざるを得なかった『沈黙の艦隊』は、ある意味、リアルなことを作品化する必要が迫られたといえる。いま、詳細な検証をしないで、述べていくならば、作品におけるアクチュアリティと、現実との間隙は、読者をいかなる地平へと誘うことになったのだろうかと思う。かわぐちは〈核〉を抑止力といった曖昧な〈幻想の所産物〉から、〈現実の軍事権力〉へと作品中に露呈させて、そのことによって〈核〉を実体あるものとしてわたしたちに答えを出させようとしたことは、確かなような気がする。わたしは、“右傾的”モチーフが内在しているからといって、かわぐちの近作を退けたりはしない。むしろ、意欲的な試みとして評価したい思いはある。だが、例えば、『ジパング』における、歴史的事象を書き換えることによって起きる物語世界は、『沈黙の艦隊』からのモチーフをうまく継承しえたであろうかといえば、それは、否といわざるをえない。むしろ、九条の現実的な脆弱性への積極的な問い掛けから、後退して、オーソドックスなリベラル的な立ち位置へと収斂してしまったと捉えることができる。そして、そこに見える〈核〉へのアプローチは、バラク・オバマの放つ擬似的な〈核〉理想論とあまり違いがない位相を現出しているといえるのだ。〈核なき世界〉を実行するためには、すべての国家や民族体において軍事力すべてを無価値化していかない限り、ありえないことなのだ。唯一の被爆国ということを御旗のようにして、オバマにただ追従するだけで、核廃絶(並びに九条理念)をなんら、世界に向けて有効ある主張としてこなかったわが国政府(一方で、いまだ、原発推進を明言している)は、〈核なき世界〉こそが、平和への道だと短絡的に喧伝しながら、いち早く、「核テロ防止の拠点作り」を表明している。
 わたしが、『ジパング』に対して未消化な気分を払拭できずにいた時、『ジパング』と同じような方法で、つまり歴史的事象に想像力としての物語を対置したかわぐちかいじのもうひとつの作品を想起した。『テロルの系譜』(立風書房・80年刊)という作品だ。それは、明治時代の大久保利通暗殺から、東条英機自決未遂を暗殺未遂とした一篇まで、九篇から構成された作品集である。わたしが、『ジパング』に対して、不満に感じたのは、〈核〉に対する書き換えだけではない。石原莞爾の像型に対する異和もあるのだ。丸みを帯びた貌は、実像に近い描き方かもしれない。しかし、わたしが、石原莞爾に対するラディカルなイメージは、見事に裏切られ、穏やかなリベラリストになってしまっていることが問題なのだ。『テロルの系譜』には、そのようなことがない。例えば、大杉栄虐殺事件と難波大助事件の二篇についていえば、惨殺者・甘粕大尉と大杉栄の対峙する場面は実にスリリングである。いわゆる虎ノ門事件(難波大助による当時の皇太子・昭和天皇暗殺未遂)の一篇では、難波大助本人は登場せず、大助の学生時代の同志たち三人を描出していく。その一人、北海清次は魅惑溢れる像型となっていて、大助に対する悔恨を抱きながら死んでいく。「テロ」という事象を通して、一人一人の必死な生き様を活写しているのだ。テロというものに思い巡らしてみるならば、〈核テロ〉というものは存在しえない。あるとすれば、国家的〈核戦争〉でしかない。その基層となるのは、必ず国家、民族体レベルである。イスラエル軍は、パレスチナ民衆へ核攻撃をいつでも行うことができるが、パレスチナ民衆は、自爆テロで対峙するしかないということになる。〈核テロ〉の危機を煽って、抵抗者たちの弾圧を画策する限り、〈核なき世界〉は、たんなる妄言であり、迷妄なることでしかないといっておきたい。

(『月刊架空』10年6月号)

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