2009年11月 6日 (金)

安藤 宏 編著『展望 太宰治』(ぎょうせい刊・09.6.19)

 今年が太宰治生誕百年ということで、出版界では、リニューアル、再編集された作品集(初期作品を纏まったかたちで読める新潮文庫版『地図』を、わたしなら推奨したい)が数多く刊行され、また根岸吉太郎監督作品『ヴィヨンの妻』をはじめとして、今後、映画化作品も数編上映されていく予定にある。当然、本書のような、太宰研究論考集のようなかたちのものも、幾種類か刊行され、活況を呈している。
 太宰に関していえば、“生誕百年”といったモニュメントに便乗しなくても、戦後からいまなお、多くの読者に支えられてきている。その意味でいえば、太宰治という作家は、時代や世代を越えて読み継がれてきた数少ない文学者の一人であるといっていい。わたしもまた、少年期から青年期にかけて、太宰の小説群に魅了された一人であり、特に、戦時下そして戦後の混乱期を独自のスタンスで、作家活動を遂行したことに対して瞠目すべき存在として捉えてきた。
 本書の書名に冠した「展望」とは、これまでの太宰研究を踏まえつつ、新たな地平へと太宰作品の世界を切り開いていこうとする論者たちの意図の表明だといえる。「時代(性)」、「表現機構」、「さまざまな視点」、「享受史」、「研究案内」といったキーワードを持った全六部の構成の立て方にそのことは、よく表れている。「第Ⅰ部 太宰治の時代」は、旧制青森中学在学時の大正12(1923)年から自死した昭和23(1948)年までを、世相や伝記的な記述とともに、太宰の作品や書簡から、その時代に言及している箇所を引いて配列するという重層的な年譜をかたちづくっている。このような年譜構成に連携するかのように、「第Ⅱ部 表現の時代性」は、本書の白眉をなす論考が並んでいる。
 太宰は戦前、左翼思想への傾斜を示しながらも、その後は、日本浪漫派の人脈へと関係性を連結していくわけだが、だからといって、プロレタリア文学に見られる主題主義的な作品を書くことはなかったし、戦時下においても露骨な戦争賛美を作品化したわけではない。戦後にいたっては、いささかシニカルな視線で、終戦時の様態を描出するというように、作家的スタンスにおいては、他の作家より遥かに際立った光彩を放っていたことになる。それは、時代情況を確実に意識しそれとの独特の距離感のようなものを自己の内部に醸成しえたからだと、わたしには思われる。その限りでいえば、太宰と時代性の関係構造は、重要なモチーフを持っているといっていいはずだ。
 「そもそも作者を思わせる、語り手の身辺を題材にした多くの作品を発表していたこの時期の太宰は、戦時下の状況に直接的に対応した小説を執筆していないわけだが、無名の一女性を語り手として、自らを取り巻く戦時下日本などの大状況ではなく、自身の生活や感情、あるいは夫や家族との関係といった、ごく身近なものについて語る〈女語り〉の作品は、同時代の女性作家の表象に支えられつつ、戦争小説などの戦時体制に呼応した文学状況を相対化し得る位置にあったのである。」(若松伸哉「不安と再生の昭和十年代――太宰治と同時代瞥見」)
 『女生徒』に代表される一連の〈女語り〉の作品は、時代との拮抗のなかで独自方法のスタイルとなっていったといえるかもしれない。「第Ⅲ部 太宰治の表現機構」に配置された、根岸泰子「女性独白体テクストの表現機制」でも、「太宰の女性(一人称)独白体テクストの多くは、日中戦争下の昭和十三年以降に生み出されている」という指摘にあるように、「女性」を通して「生活者」へと視線を馳せることを自らの表現意識としたわけだが、それはまた、パラドキシカルなものを太宰が抱え持つことを意味している。
 「太宰の描く生活者はリアリズムに基づいていない。危うい均衡の上に思い描かれた太宰の生活者への寄り添いは、逆説的ではあるが、戦時という非常事ゆえにかろうじて存続しえた種類のものだったと思われる。敗戦を機として、生活者の実情をいやでも目の当りにしなければならなくなった太宰は、直ちにそれまでの生活者への夢を喪失することになる。」(片山倫太郎「日米開戦時の小品における生活者へのロマンティシズム」)
 それにもかかわらず、わたしたちが、太宰作品に魅せられていくのは、終戦時前後における作家表現の屹立性にある。
 安藤宏は「『八月十五日』と疎開文学」のなかで、終戦時前後、故郷に疎開をしながら発表されていく太宰作品を「疎開文学」の系譜と位置づけながら、そこに「農耕的」、「農本主義的」なるものの理想のかたちを見ていく。戦後、発表された戯曲「冬の花火」のなかのよく知られた台詞、「アナーキーつてどんな事なの?あたしは、それは、支那の桃源郷みたいなものを作つてみる事ぢやないかと思ふの」を例示しながら、「〈津軽の百姓〉としてのアイデンティティと『疎開文学』のテーマである農本主義とを結合すべく、結果的に太宰は〈私はいま夢想する境涯は、フランスのモラリスたちの感覚を基調とし、その倫理の儀表を天皇に置き、我等の生活は自給自足のアナキズム風の桃源である。〉(「苦悩の年鑑」)というテーゼを掲げることになるのである」と安藤は述べていく。
 そして、「『疎開』が発見した“農耕の論理”には戦時の日本を支えていた強固な共同体的感性が貫かれており、これに言葉をもって“対決”すること抜きに戦争の総括はあり得なかったはずなのだ」とし、昭和十年代の論理の未解明性を指摘していることに、わたしもまた同意する思いだ。
 さて、太宰が戦後、発表した終戦時のことを描出した「トカトントン」という作品がある。この作品が、GHQの検閲を受けていたとする天野知幸の「何を語るべきか/何を語ることができるのか――検閲制度と『トカトントン』、『群像』」(「第Ⅳ部 さまざまな視点から」に配置)では、「監視の視線が言説そのものに向けられていた」ため、「過去の再現的な語り」を「軍国主義の徹底的な根絶を目指す検閲制度において危険視されるべきもの」となったと捉えていく。しかし、太宰のこの作品に記述されている「過去の再現的な語り」は、戦争行為を是認したいためになされていたわけではないにもかかわらず、検閲対象となったのは、いかにも逆説に満ちているといわざるをえない。「検閲によって削除されたこの作品は、一見、検閲制度から『逸脱』する言説に抵触しているように思われるが、同時に、それは周到に避けられてもいる」とし、「戦中から戦後へと至る過程で生じた言論環境の変節にも、太宰は巧みに同調しているように見える。それはイデオロギー的な変容がなかったからというよりも、極めて巧妙にかつ複雑な方法でメディアや検閲と同調/非同調し続けることを止めなかったからであろう」と天野は述べている。
 「極めて巧妙にかつ複雑な方法でメディアや検閲と同調/非同調し続ける」ということは、時代性との鋭角的な距離感の巧みさといえるし、それはまた、太宰の天性の作家としての膂力なのだとわたしなら思う。だからこそ、戦前から戦後と紡いできた太宰治の作品群は、時間性を越えて、いまだに、現在の地平へと降り立たせる言葉たちを内在させているのだというべきかもしれない。
(『図書新聞』09.11.14号)

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2009年10月23日 (金)

藤沼 貴 著『トルストイ』(第三文明社刊・09.7.7)

 ドストエフスキーと並んで、ロシア文学最高峰の作品を生み出したトルストイの、壮大なる八十二年(1828~1910)の生涯をフォーカスした大著である。
 わたしたちは、トルストイにどんな予見を持ってきただろうか。『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』といった長大な物語を創造した偉大なる作家、トルストイ主義といった表象に見られる反戦平和への強い思い、さらには、徹底して権力(国家権力や教会的宗教権力)を否定するアナキズム的思考といったことなどが、挙げられることができそうだ。もちろん、これらのことが、本書では、丹念に触れられているのは当然としても、著者は必ずしも、それらが、ひとつの線で切断することなく繋がっていたとは、見なしていない。偉大なるトルストイですら、紆余曲折、停滞、挫折を繰り返しているからだ。
 そもそも小説家を目指して作品を書きはじめたわけではないとする、初期トルストイ像の活写に、わたしはまずは喚起されたといっていい。
 「トルストイは言うまでもなく稀有の文学的天才だった。(略)しかし、二十歳をすぎるまで、トルストイ自身も身近にいる者も、彼の文学的天才に気づかなかった。(略)かれが二十歳すぎまでに書き残した文章のほとんどすべてが理屈っぽい哲学的なものである。(略)小説のようなものに手に染めることになったのには、特別の原因があったわけではない。迷走と模索の時期に、理論的分析、官庁勤務、軍務、学士候補試験、領地経営、ビジネス、音楽、スポーツ、ギャンブル、結婚など、いろいろ試みた末、最後にやっと文学にも手を出してみたのだった。」(124~125P)
 かなりの広大な土地を持つ名門貴族の出身であればこその、「迷走と模索」の過ごした方をした初期のトルストイが、やがて、「文学にも手を出してみた」というのは、この評伝を読むかぎりでは、ひとつの必然だったといえそうな気がする。それは、「理屈っぽい哲学的なもの」から、「文学」へと開かれていく道筋というものが、たんに「文学的天才」ゆえに「文学」へと突き進んでいくことよりも、後年の非暴力・反権力志向のスタンスと見合ったものだと思えるからだ。
 軍務にも服していたが、数年で退役したのは、戦争に対して懐疑的になったからだ。結婚願望とその挫折は異性間との距離感を持ちえない無垢性と不器用さが垣間見える。そもそもそういう資質では、ギャンブルで収益を獲得するのは、無理なことなのだ。貧困のなかで生活することはなかったトルストイにとって、それは、弱点であると同時に、美点でもあるというアンビバレンツな位相を抱えもってしまったといわざるをえないだろう。だからこそ、「生きていくこと」、「生活していくこと」に誠実であろうとすればするほどに、文学的なものは、哲学的な思索に比較すれば、枝葉なことにすぎないという思いが初期のトルストイにはあったはずだといいたくなる。例えば、著者もまた、「トルストイの創作は出発の時点からすでに、生活者トルストイと芸術家トルストイとの矛盾や相克のなかでいとなまれていた」(135P)とするが、むしろ、農奴制に立脚した貴族生活のなかにいる自身のアイデンティティこそが、「矛盾や相克」の最たるものだったはずだ。
 「トルストイは結局、個人では自分の農民を完全に解放することはできず、六一年以降の政府による全面的な農奴制廃止に沿って解放をし、農民の買いもどし金を受け取り、法律どおり地主の特権も保存した。だからといって、この数年のトルストイの農奴解放や農業改革の試みが無意味だったとか、失敗だったと結論することはできない。トルストイの試みはほかの地主たちを敵にまわすほど先端的なもので、数年後に施行された改革を先取りしていた。」(232~233P)
 農奴制の解放、農民の子どもたちのための学校教育への着手といった試みは、わたしたちがよく知る後年のトルストイ像の初源のかたちといっていいかもしれない。
 ところで、七四、五年(作品でいえば、『アンナ・カレーニナ』を書き始めた頃)から八四年までを著者は、トルストイの展開期と捉えている。区分表記としては、七四、五年から七九年までを「危機の時期(生の停止~死からの脱出)」、七九年から八四年までを「信仰確立の時期(協会との対決~独自の信仰形成)」としている。その後を「トルストイ主義構築」期として、この評伝は、後期トルストイ像を俯瞰していく。作品としては、『生命論(邦題としては、「人生論」として流通している)』、『イワン・イリイッチの死』、『クロイツェル・ソナタ』、『神の国はあなたのなかにある』を経て『復活』へと至る時期を指している。そしてこの時期のトルストイにとって最大のモチーフは、権力との心の格闘ということになる。
 「トルストイの愛の主張と暴力否定にとって、最大の敵は戦争と国家権力だった。(略)国家を暴力と体刑を基盤とする圧政的な支配機構だと考え、国家体制に強く反発した。(略)トルストイはすべての国家機構を否定したのだから、無政府主義者のカテゴリーに入れることはできる。しかし、トルストイの無政府主義は典型的なものとは違う特徴をもっていた。(略)トルストイの場合、非暴力主義が先で、アナーキズムはそこから派生したものである。(略)暴力を使わないトルストイ的なアナーキズムは今も生き残っている。現在、反権力運動の大半は暴力を使っておらず、非暴力主義がますます広まり、強まっている。これは議論の余地のない事実である。」(467~469P)
 著者の巧みな分析と論旨展開に、些か逡巡と同意の思いを混在させている自分に気づくことになる。逡巡の方からいえば、典型的な無政府主義とはなにかということになる。これは、典型的なマルクス主義は、スターリン主義だということとは、違う観点を孕んでいる。また、「非暴力主義が先で、アナーキズムはそこから派生したもの」だから、典型的とはいえないということでもないはずだ。そもそも、暴力とはなにかということを精緻に見なければならないとわしは思う。トルストイやガンジーに象徴される非暴力主義を示威行動的なことをしない穏健な主張や行為を指すことだといっては、暴力という概念を転倒しかねないことになる。国家権力の暴力とそれに対峙、抵抗するための暴力はまったく位相の違うものだという前提に立つべきなのだ。
 トルストイは、第一次ロシア革命を見て未知の未来に理想の共同体を思い描いていく。 
 「まもなく大変革が起こり、資本主義は消滅し、社会主義社会も生じない。人々は権力のない相互扶助の平和な共同体で農耕をいそしむ。これがトルストイの考えだった。」(579P)
 結局、トルストイは、幸運にもボルシェビキ政権による第二次ロシア革命に接見することなく、妻との長年の相克に疲れて出奔し、客死した。
 こうして、著者によって誘われたトルストイへの旅は、万感の思い抱かせて、重厚な頁を閉じることになる。
(『図書新聞』09.10.31号)

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2009年10月16日 (金)

奥 保喜 著『冷戦時代世界史』(つげ書房新社刊・09.4.30)

 記述化された歴史というものは、絶えず、現在という基点からの見直しを強いられるといっていい。それは歴史教科書が、政治的な思惑に晒されることと同じことを意味している。近現代史を包括的に捉えていくことの難しさは、歴史段階の読み違えと、政治的価値観の過剰な意義付けを忌避できないからだと、わたしは考えている。戦後世界史を通観することは、当然、現在というものへ直截に透徹した視線を醸成することに通じていく。この戦後六十数年の渦動は、西欧の産業革命勃興期から、第一次、二次世界大戦終結時までの二百年という時間性を超え出る激変期であったと考えてみるならば、現在という場所を、過去へと幾らか重層させて捉えていくことは、極めて切実なことになるはずだと思われる。
 本書は、一九四五年から九一年までの期間を「冷戦時代」として詳述する。このことに対し、わたしは、あらためて歴史認識の方法を確立することの困難さを戒めのように感じたといっていい。著者は、一貫して、単独で書き表わす歴史記述というものを、あえて私見からは遠い位相に置こうと試みている。それは、並大抵の膂力では達成できないことだと思う。つまり、「人はイデオロギーをもち、歴史的事実のなかの何を重視するかによって歴史叙述をおこなう者の観点は自ずと表明されはするが、筆者は叙述を客観的なものにしようと努めた。(略)できごとの解釈、歴史に対する見解を示すことを直接の主要な目的とはしない。研究者の歴史解釈を紹介し、ときには筆者の意義づけを記しはするが、その場合は段落を変えたり出典を示すなどして、なるべくできごと自体の叙述と切り離すようにした。本書の主たる目的は、冷戦時代の世界の動向に関する知識を一冊の本にまとめて提供すること」にあると著者は、「まえがき」で述べているからだ。確かに、膨大な戦後世界の情勢を、六百頁ほどの分量に纏めて著すことが、どれほど難渋を強いられたことだろうと、類推できる。結果、画期的な、「冷戦時代の世界の動向に関する」、包括性をもった「認識」を集積した一冊が、提出されたといえる。著者は、「あとがき」で、「世界史の構成」に腐心したと述べているのだが、なるほど、「構成」という包括的視線が、本書の基層を成していることは、充分に了解できる。そして、欧米、ソ連、東アジア、南アジア、中東アジア、アフリカ、中南米といった空間を横断していく視線と、三期(「一九四五~五五年」、「一九五六~七五年」、「一九七五~九一年」)に区切った時間性との連結が、戦後世界像を明確に立ち上がらせているのだ。
 冷戦時代あるいは、冷戦構造といわれるものは、米ソ対立に象徴される時代相・情況の言辞だとしても、すべてその二大帝国の対峙性に帰することではない。あるいは、また、資本主義体制対社会主義体制といったイデオロギー対立を、指し示すことでもないと、わたしは考えている。「冷戦時代」を集約的に言説として採りだすとするならば、それは絶対的「権力」主義の時代ということになる。ここでいう絶対的「権力」というのは、可視的なものであって、フーコー流の遍在せる権力のことではない。本書を通読しながら思ったことは、「冷戦時代」の国家群の「権力」の有様は、戦前の対ファシズム戦争をなんら教訓としない現れ方をしていることだ。つまり、資本主義体制であれ、社会主義体制であれ、専制権力体制(あるいは軍事政権体制)の国家が顕在していったということになる。特に、アジアではそのことは、顕著に現れている。分断国家という現実によって、そうせざるをえなかったとしても、韓国、台湾とも長らく戒厳令下にあった。東南アジア、中東においても、社会主義体制なのか、たんなる専制国家なのか混在したかたちとして現れている。
 「一九七〇年代以降。アラブ・ナショナリズムの退潮とときを同じくしてイスラム原理主義が人びとの心をとらえ、勢力を強めた。それは一九七九年のイラン革命において劇的な形で現れて世界の注目を集めた。イスラム原理主義運動は多くのアラブ諸国で強力な反体制勢力となる。」(483P)
「共産党支配の崩壊、そして民主化という、東欧で、そしてソ連でも起きたことが中国では起きなかった。同じ共産主義国家であったとはいえ、冷戦時代最後の東欧・ソ連と中国でのできごと(引用者註=「天安門事件」を指す)の相違は、両地域の世界史上の相違、文明上の位相の違いともいうべきものを示したといえよう。」(591P)
冷戦終結以後の時代は、民族・宗教対立による、あらたなる戦争の時代に突入しているといってもいい。経済システムは資本主義ロジックで貫徹しながらも、政治体制は社会主義体制をいまだ標榜しながら、周辺民族を弾圧し続けている中国の強大化(帝国化)も、冷戦終結以後の時代を象徴するものだ。本書、『冷戦時代世界史』を読み通した後、現在に視線を振り向けていけば、それは、これからの「アジア」の混沌とした時代を照らし出しているように思えてならなかった。
(『図書新聞』09.10.24号)

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2009年10月 2日 (金)

今関敏子 編『涙の文化学――人はなぜ泣くのか』       (青簡舎刊・09.2.25)

 「涙」をめぐって、多様な文化的側面からアプローチした画期的な論考集である。編者、今関敏子と執筆者の一人、安井信子との巻頭に配置された「Ⅰ[対談]涙と文化」のなかでも触れられているが、「笑(い)」は、テクストとして、しばしば採り上げられることが多い。だが、「涙」や「泣く(こと)」は、負の要素が忌避されてしまうのか、本書のようなかたちで、本格的に論じられることは、あまりないような気がする。本書所収の安井論文「アメリカ文学と涙――へミングウェイはなぜ泣かなかったか」で、論じられているように、「母性が発達しにくい文化」を持つアメリカ的強い男の象徴として、男は涙を流すものではないという思考方法が、わが国にも少なからず、大きな影響を与えてきたように思える。
 涙を流すこと、あるいは泣くことは、男にとって女々しい行為だと思われるから、男たるもの涙は流さないものだなどといった転倒した考え方が、わが国においては明治期以降より顕在化し、十五年戦争下において、その最たる象徴期になったともいえる。そもそも、安井が指摘する「自立した個人」を強調するあまり「涙を否定し弱者を否定する」、「強者の論理」を推し進めようとするアメリカとは違い、わが国は、「Ⅳ 文学にみる涙の表象」に収められた中世文学作品に論及した諸論考で切開しているように、男性も人目をはばからずに涙することが、むしろ当然の美意識のようなものをもっていたというべきなのだ。
 しかし、考えてみれば、涙を流す、泣くということは、最も人間の感性を直截に表象しているといってもいいはずだ。山本志乃の「涙のフォークロア」(「Ⅱ 涙と文化」所載)では、柳田國男の「涕泣史談」(1940年、国民学術協会公開講座「現代文化の問題」における講演―後に46年刊『不幸なる芸術』に所収)を援用しながら、「(柳田はいう。)日本人は本来、言語以外の表現方法、たとえば眼や顔の動きで、微細な心のうちを表出する能力を具えていると思われるのに、まるで言語が表現のただひとつの手段であるかのように、これを過信していると危惧し」ながら、「『泣く』という行為は、言語よりも簡明に、しかも適切に感情を表出する。そしてその感情とは、言葉でとうてい表現できるものではないというのである」と述べている。泣くことが子どもや女性の代名詞のように語られることに対して、山本は、論考の最後を次の様に述べながら、「人間の素直な感情表現としての『涙』の復権」を提起して、締め括っている。
 「いつしか、子どもや女性は社会的な弱者となり、泣くことも涙も、女々しく、弱々しいことの象徴になってしまった。しかし、本来は、強い霊性をもった子どもや女性だからこそ可能であった魂の交信なのであり、言葉以上に強靭な呪力をもつ表現方法だったはずである。」
 確かにそうだ。泣くということは、泣くことの契機との交換行為なのだと、わたしは、山本の論考に刺激されて思い起こすことが、幾らでもあることに気づいたといえる。例えば、学生時代だった、六〇年代末から七〇年代初頭にかけて、わたしもまた、いわゆる東映仁侠(あるいは股旅)映画群に、熱狂したものだった。なぜか、それらの映画作品を見ながら、思わず泣いてしまう自分に気づいて驚いたと同時に、他者にはそのことを知られたくないと卑屈になったものだった。当時、『シネマ』という映画雑誌があり、そこで、高橋和巳もまた、映画『関の弥太っぺ』(監督・山下耕作、63年封切、後、何度も再上映される)を見て、泣けて泣けて涙が止らなかったというエピソードが書かれてあった。『邪宗門』、『憂鬱なる党派』、『悲の器』などの小説作品で、わたしに多大な影響を与えた高橋和巳が、わたしも涙して止らなかった映画を見て同じように感応したのかということを知って、以降、映画やテレビドラマや本を読んでも、なにも気にせずに涙を流すことにしたのだ。他愛もない話しだといえば、そうだとしかいいようがない。
 だからこそ、相手の率直な涙を見て、言語による伝達よりも濃密に伝わってくるものを理解するのが、関係性、共同性の有様なのだという考え方を、わたしは抱いている。現在は、過剰な携帯のメール伝達により、発語する関係性すら薄らいでいるというべきである。それゆえ、なおさら「眼や顔の動きで、微細な心のうちを」感知することこそ、「言語以外」によるコミュニケーションの機微でありうることを知るべきである。
 「文化」とは、結局、人間の生の営みの集積なのだから、安井が巻頭の対談で述べているように、「泣くというのは、感情と心の底に直結しているから。泣くっていうのは、生きている眼に見える証しみたいなもの」だということに尽きるといってもいいであろう。
(『図書新聞』09.10.10号)

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2009年7月24日 (金)

陶山幾朗 編集・構成                     『内村剛介著作集第2巻』(恵雅堂出版刊・09.3.30)

 昨年の八月に刊行開始された著作集(全七巻)の二回目の配本となる。この間、内村自身の「死」が、挟まっている(09年1月30日逝去、享年88)。
 わたしが、内村剛介の著作に初めて接したのは、六十年代末の全国的な学園闘争渦動期だった。『生き急ぐ』(67年)であり、『呪縛の構造』(66年)であり、『わが思念を去らぬもの』(69年)ということになる。そして、さらにあと一冊、翻訳書を加えれば、『エセーニン詩集』(68年)だ。どれも、繰り返し読んで、わたし自身多大な刺激を受けたことをいまだに鮮明な記憶として残っている。『わが思念を去らぬもの』のカヴァー挿画、『生き急ぐ』に収められた多数の挿画で、香月泰男を知ったことも、大きい。『試行』誌上の、吉本隆明との往復書簡形式の論稿で、中国の文化大革命やわが国の学生運動に対して、厳しい視線を向けていたのを、驚きと異和感とともに読んだものだ。『わが思念を去らぬもの』の「あとがき」では、通常、謝辞を述べるところを、担当編集者に対して厳しい言葉を投げ掛けていた。なにかに、苛立っていると感じさせた内村のそうした言辞に対する戸惑いは、『わが思念を去らぬもの』に収録された諸論稿を丹念に読み通していくうちに、わたしのなかでそれは氷解していったような気がする。
 わたしのなかで、当時、拘泥していた国家と権力の問題は、ロシア十月革命後が辿っていくナロードを圧制し続けていったレーニン・スターリン主義の切開にあった。スターリニズムをマルクス主義から逸脱したイデオロギーとして捉えるのではなく、ロシアという相貌のなかに見立てながら、その対極なものとしてアナーキーなナロードという存在性を見据えていく内村の思考の方位は、なによりもわたしを喚起してくれるものであった。いままた、あらためて本巻収録の論稿(初見となる未収録稿も多数ある)を読み直してみても、そのことの思いは変わらない。
 「国家は本来暴力機構である。その暴力を権力といい、そのむくつけき権力に法の名が冠してある。法はそのぎりぎりの本性において国家が市民に向けるところのものである。(略)革命の名に値する革命をわれわれはまだ持っていない。市民が市民みずからを管理する情況を継続的に恒常的にもたらすような変革、それだけが革命の名に値するのだが、われわれは今までのところ一つの権力が他の権力へと交替し、その権力が『人民の国家』を僭称する図を見せられるばかりだ。つまり、われわれは『人民の国家』において『人民に対峙する国家の犯罪』を見るばかりである。ロシアにおいても中国においても、情況はわれわれにもはや何のイリュージョンも許さない。」(122~123P)
 もとより、それは、スターリン主義国家だけの問題ではない。暴力機構であるところの国家の抑圧性が、寡少に感じられたとしても本質的には、欧米国家群(もちろんわが国も)とて同じことだ。
 「みずからを生んだ『くに』に在って個体が、その『くに』が『くに』の上へ積み上げた権力を『国家』として自覚的に対象化するのは日本ではむずかしい、と私は書いた。ロシアでは(それはロシアの幸運であり不幸でもあるのだが)『国家』は『くに』のなかにあってつねに抑圧の暴力機関として人の目に明らかであった。ロシアのマルクシストが、とりわけレーニンらボリシェヴィキが、国家を抑圧的暴力機構として受けとるのは、いうなれば、“あと知恵”というものである。レーニンらはみずから生得的に得ている知識を後日マルクスの国家論で“科学的”にコンファームしたにすぎぬからである。(略)ロシア・マルクシストにとっては国家の実体はむき出しの暴力機関ということなのであって、そこには多少理性に衣をまとった形で現われるところの西欧近代風の国家像はなかった。だから幻想形態の破摧などという“たわごと”にかまける以前に、暴力の実体としての権力機関の破摧がストレートに問題になっていたのである。(略)そしてこの破摧は世のデモクラートに歓呼して迎えられた。だが人はそのとき、むき出しの国家権力を破摧するには別種のむき出しの権力を必要とし、そのようなものがロシアではロシア風に用意されてあったのだということを忘れがちである。ロシア社会主義革命の名誉(成功)と汚辱(堕落)はじつにシャム双生児であったと知る。」(160~161P)
 スターリン主義という呪縛の構造の問題は、スターリン個人の行状や志向、狂信性にだけ求めて批判しても、それは超克・解体したことにはならない。当然ながらスターリン主義が突然変異的に生起したわけではないからだ。淵源は、多くのロシア・マルクシストを輩出することになったロシアという西欧性とアジア性が混在した場所性に求めるべきのように、わたしには思われる。
 本巻は、各著作をいったん解体してテーマ別に編んでいる。そして1958年から92年までの論稿を時系列に配し、「『ソ連』から『ロシア』へとなし崩し的に移行してゆく全情況が活き活きと考察され」(「解題」)ていくことになる。フルシチョフのスターリン批判演説に関して、「本質的にはスターリンのコピーであることに変わりはな」いとフルシチョフを断じながら、「スターリンとながく同時代をすごした彼は(略)スターリン主義清算の旗を捧げ持つことがそもそも無理だったのである」(79P)と述べていく。“ペレストロイカ”、“グラスノスチ”といった言葉が、謳い上げられ冷戦時代終焉の幕開けと喧伝されたゴルバチョフ政権に対しては、さらに厳しい視線が向けられていく。「断じて権力を手放さないのがレーニン主義」であり、「このレーニン主義はスターリンに忠実に受け継がれ、いまゴルバチョフの手中にある。ゴルバチョフのヴォキャブラリーがいかにスターリンのそれの焼きなおしであるかを見ればそのことはさらによく納得できる」(335P)と捉えていく。内村が見据えるのは、「ロシアの素朴なアナーキズム」(377P)にあるといっていい。
 「ソ連社会の底辺に動く『マグマ』はまだメディアを通じては見えてない。これはすべての権力、さまざまな『イズム』を吹き飛ばす原初でアナーキーなプリミチズム。これに対して本質上反動であるゴルバチョフやエリツィンといった『小人たち』がプリミチズムな対応で右往左往している」(383P)という鮮烈なる情況分析は、いまもってわたしになによりも強い喚起を与えてくれるのだ。
(『図書新聞』09.8.1号)

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2009年7月17日 (金)

菊地信義 著『装幀思案』(角川学芸出版刊・角川グループパブリッシング発売・09.3.15)

 「装幀とは、物でなす作品への批評である」と述べる装幀家・菊地信義が、雑誌『本の旅人』(角川書店刊)に五年間連載した「装幀雑記」を中心に纏めたものが本書である。著者は、連載の主旨を「自分の求める装幀を人様の仕事に探ること」や、「来るべき装幀表現を探ること」だと記している。それは、装幀を仕事として意識したいい方ということになるわけだが、「雑記」の文章のひとつひとつに接してみれば、むしろ書店の平台で見つけ、心惹かれた本に対して、丁寧に、しかもあたたかく、言葉を重ねていく読者の視線のようなものを、わたしたちは、感ずることになる。このあたたかさは、なによりも、本というものをセンシブルな思いで読んできたことを率直に表明していることの証しでもあるといっていい。一冊一冊に込められた菊地の言葉たちはなによりもその本の装幀家たちだけにではなく、編集者そしてもちろん本の著者に対してもしっかりと向けられていて、その本に対して際立った批評としても成り立っていることがわかってくる。
 例えば、片岡義男の『文房具を買いに』について、次のように述べる。
 「本は人の心を作る道具。本に盛られた作品は読者を得、読む人の心に意味や印象を結ぶ。読んだ人の心の数だけ作品が生まれる。文芸であろうと実用の書であろうと、文を綴る言葉の真の役割(読むという行為を得て意味や印象を生む)に誠実であれば、本を作る側(著書・編集者・装幀者……)は本のあと半分の作り手である読者に己を提示するに謙虚でなくてはならない。(略)本書は、著者気に入りのノートやペン、消しゴムに定規、押しピンから輪ゴム等々。著者みずから構成し、撮影した写真とそれぞれに紡いだ上等の文で編まれる。文は紹介にとどまらない。道具を具体的に記す言葉が見事なデザイン論、いや文化論としての深みをたたえる。」(「装幀の慎み」)
 言葉というものは、一方通行的なものではない。伝達つまりコミュニケートする、あるいは、されるものだ。「読んだ人の心の数だけ作品が生まれる」といった見方や、「本のあと半分の作り手である読者」といった捉え方ができる著者だからこそ、「文字は言葉の姿かたち。いずれも意味と印象をになっている」(「文字の役目」)といえるのであり、文字を独特に配置した菊地信義の装幀世界を表現できるのだと、思う。
 わたしが、菊地信義の装幀をいつ頃から意識して見るようになったのかは、もう覚えていない。たぶん、八十年代前半だったはずだ。『相対幻論』の本の仕様書のような装幀、『マスイメージ論』の著者名の印鑑も配置して文字への拘りに徹した装幀、いずれも本の内部を見事に醸し出して鮮烈な印象を持った装幀だったといっていい。もちろん、わが「図書新聞」のデザインフォーマットも、菊地によっていることを加えておくべきかもしれない。
 菊地が、本書のなかで述べている本のこと、あるいは本の装幀のことは、当然、自身のこれまでの仕事から裏打ちされたものであるとしても、あくまでも読者としてこれまでに長い時を経て出会ってきた本たちのことを率直に語っていることになるのだ。装幀というものは、確かに、その人のセンスや技量といったものが問われる仕事かもしれない。しかし、それ以上に、自分がこれまで、外部はもちろん内部も含めてどれだけ本たちから影響を受けてきたかということが、大事な根源となって、初めて装幀というかたちにいかされていくはずだと、わたしならそう考えたい。
 「司修の名を知ったのは三十数年前。初めは『杳子 妻隠』の装幀。読後、装画の女人が心に染みて、目次裏、装幀司修の文字を心に刻むように見つめていた。(略)司さんの仕事から装幀の種が心に落ちた。(略)それから八年後、一人の作家を介し、手練の編集者と出会い、その人の導きで装幀の道を歩み出すことになる。」(「装幀の種」)
 「心に染み」る、「心に刻む」、「心に落ち」るといった言葉を重ねて、自らの装幀家としての「初期」を語っていることに、わたしたちは、菊地信義の紛れもない立ち位置を知ることになる。だからこそ、菊地は、書店の「平台で装幀と出会う」ことを「一瞬の劇を楽し」むことだと、述べることができるのだ(「取り寄せ」)。取り寄せして出会う本は、「一瞬の劇」を楽しむことができないとしながらも、採りあげている本が、うらたじゅんの漫画作品集『嵐RANDEN電』であることが、わたしにとって親近なる作家とその著作なだけに、なんとも「心に落ちた」といえる。
 本書の装幀は、もちろん著者自ら施したものだ。三分の二以上を占める赤地の帯の右側に「来るべき装幀を探る。」と、題字や著者名よりも大きな活字で配している。左側上にやや小さめに「装幀思案 菊地信義」とある。著者名は帯にも印字している。帯をはずして見れば、白地に、「装幀思案 菊地信義」がそのまま配置していて、右下隅に小さな文字で版元名が記されている。大きな空白が、全体を占めていることになる。それがなんとも、「来るべき装幀表現を探」ろうと思案げにしている著者の貌を想像したくなるのは、わたしばかりではないはずだ。

(『図書新聞』09.7.25号)

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2009年6月19日 (金)

高野清弘 著『政治と宗教のはざまで  ホッブス、アーレント、丸山眞男、フッカー』(行路社刊・09.2.25)

 「キリスト教と政治との関係ということ自体は、およそ西洋政治思想を学ぶ者にとって避けることのできない問題」(39P)であるとする著者は、「宗教」と「政治」の基層を往還させながら、その空隙の位相へと深く視角を射し込んで、フッカー、アーレント、ホッブス、丸山眞男らを論じている。著者が本書のなかでモチーフとする「政治」は、国家や政府による統治の有様を指すだけはなく、公的世界、あるいは共同体社会といった拡張させた概念をも視野に入れている。もとより、中世・近代の時間軸から社会の発展段階を捉えようとするならば、必然的に西欧世界を鏡として措定せざるをえなくなる。それは同時に、宗教つまりはキリスト教世界と政治が深く繋がっている時代を透徹していくことにもなるのだ。神学が政治学・統治学として機能していた時代といえば、もっと明確化していえそうな気がする。
 それでは、著者は政治と宗教の同一化を指向しているのだろうか。ホッブスに関する単著を持ち、フッカーをこれから本格的に論究していこうと表明する著者にあっては、そのような表層的な方位を想起しているわけではない。「はざま」であり、わたしなりのいい方では「空隙の位相」ということになるそのことこそが、問題の所在の深遠さを指し示していることになるからだ。
 そもそも、「政治」も「宗教」も、人間の観念が創出したものだとわたしは考えている。「宗教」者にとって「神(あるいは仏)」は人間が生まれる以前にあって、人間は「神(あるいは仏)」が創造されたものだというだろう。しかし、そこには「神(あるいは仏)」を「神(あるいは仏)」として認知すべきものが介在していなければならず、ではあれば人間が認知・認識しないかぎり「神(あるいは仏)」が存在しないものになってしまうというアンビバレンツな様態を示すことになる。だからといって、わたしは、「神(あるいは仏)」を信ずる人たちの存在や、信仰心というものを否定したいのではない。「政治」も「宗教」も、中世・近代を経て、現在に至り、「人間」という存在性を置き去りにしてきたのではないかといいたいだけなのである。だから、「はざま」や「空隙の位相」へ視角を入れることは、「人間」という存在性へ視野を射し込むということを意味しているのだとわたしは理解したいのである。それは、「宗教的なるもの」も、「政治的なるもの」も、ますます「人間的なるもの」から離反していこうとしているのが現在なのだ、といい換えてもいいかもしれない。
 幾分、敷衍したいい方になってきたが、本書の核心へと分け入っていきたい。集中、丸山眞男に対する批判、「私の丸山眞男体験」の論稿の結語に著者が置くアーレントの言説はこうだ。
 「アーレントは、『精神の生活』において、後期ハイデガーは、『思考(thinking,Denken)は感謝(thanking,Danken)と同じで(語源上の理由からだけではない)ある』と結論づけていたと語っている。そして、次のようにも述べている。『自己はいまや「裸の事実」が少しでも与えられていることへの感謝を表現する思考にたちもどる。存在に直面して人間の態度は感謝であるべきだ』(略)『思考は感謝である』。この言葉を私が『贋ものの自我』から脱却するよすがとしたい。そしていつしかは、私も『存在』に『安住する』ことをえたい。」(128P)
 「リチャード・フッカーの思想的出立」という論稿での、フッカーへの著者の共感の表明はこうである。
 「(略)フッカーにおいては人間はいわば全宇宙に対して責任を負う存在として把えられる。このような人間理解にもとづいて、フッカーは人間の尊厳の神学の確立へと向かう。その努力の結実としての『教会政治理法論』は神が平和と秩序の神であることを強調し、ピューリタンに対して、『あなたがたも人間だということを考えよ』と訴える序文によって開始されるのである。」(211~212P)
 これらにある著者の真意は、自身の「宗教的なるもの」への揺らぎをなにか無意識のうちに表明しているかのようにも思えるのは、「神(あるいは仏)」を人間が認知・認識するものなのだと考えるわたしだけの思い込みだろうか。そうではないような気がする。まったく異論の差し挟むことのない著者による丸山眞男批判が、丸山信仰からの自身の脱却であるとするならば、もうひとつの信仰者としての著者はどうなのだろうかと、どうしても関心が向かわざるをえないのだ。
 ならば、わたしの関心は、アーレントの言説に添いながら、西欧近現代の全体主義が、「キリスト教」も「一つの不可欠な要因として成立したことになる」(53P)と著者が述べていく時、「あなたがたも人間だということを考えよ」と訴えたフッカーが指向する「人間の尊厳の神学の確立」の行く立ては、可能なのかどうか、著者のフッカー論の今後を見てみたいという思いに向かうことになる。

(『図書新聞』09.6.27号)

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2009年6月12日 (金)

塚本邦雄 著『歌集 水葬物語(復刻版)』            (書肆稲妻屋刊・09.1.23)

 戦後短歌史において、岡井隆とともに多大な影響力を及ぼした塚本邦雄(1920~2005年)の衝撃的で記念すべき第一歌集の復刻版が刊行された。

  革命歌作詞家に凭りかかられてすこしずつ液化してゆくピアノ

 鮮烈な一首で開巻される歌集『水葬物語』は、いわば幻の歌集、あるいは伝説的な歌集といってよく、例えば、『現代歌人文庫 塚本邦雄歌集』(国文社・88年9月刊)や、『現代短歌大系7 塚本邦雄・岡井隆・葛原妙子』(三一書房・72年10月刊)などには、抄録としてそれぞれ20首、105首収められているだけだった(どちらにも、開巻の一首はない)。わたしは未見だが、書肆季節社から75年2月に、新装版歌集として刊行されたようだが、かなりの高額本だったと記憶している。他には『塚本邦雄全集 第一巻』(ゆまに書房・98年11月刊)に収載されているが、出版時の雰囲気を精緻に伝える本書は、見事な活版印刷と「袋綴じ一丁一丁へ入紙をほどこす」という和装仕立てを再現したことで、ひとつの“事件”だといいたくなるほどの出来栄えとなっている。
 原本は、51年8月の発行で、印刷者は、俳人高柳重信の十一歳年下の弟高柳年雄である。重信の第一句集『蕗子』(1950.8刊)とまったく同じ装幀、和装本で、百二十部限定版であった。発行所名は、伝説の同人誌『メトード』と同じメトード社となっている。扉には、「亡き友 杉原一司に獻ず」とある。『現代短歌大系11 新人作品・夭折歌人集・現代新鋭集』(三一書房・73年6月刊)に収載している杉原一司の略歴には、「一九二六年鳥取県(略)に生れ(略)歌誌『オレンジ』を経て(略)のち塚本邦雄ら、ごく限定されたる同志と『メトード』に拠り、鮮烈な方法論を展開したが、病のため一九五〇年初夏生地に夭折した。唯一の追悼文は塚本邦雄によって書かれた『定型幻視論』に収録」と記されている。
 寺山修司によれば、塚本と杉原の間で数多く交わされたであろう「文章体の書簡」に、初発の「方法論」が模索されていて、その結果、「言葉の錬金術師としての面を強調していた一詩人の出発」がこの第一歌集に表出されていると見ている。作家(表現者)にとって、〈初期〉の持つ意味は、大きい。その作家における〈初期〉性は、その後に展開されていく、表現水位を敷衍させる内実を持っているからだ。どんなに、大きな変遷を辿ったとしても、必ず、その〈初期〉へと視線を向けてみれば、到達したものとの繋がりが胚胎していることがわかるはずだ。
 そして、さらにいえば、『水葬物語』が、たんに第一歌集と括ること以上のものを有しているのは明らかである。以後の塚本邦雄の世界をみていくうえで重要な作品性が内在しているからだ。
 塚本邦雄については、例えば、次のような捉えかたが、最も象徴的であるとわたしには思える。
 「比喩や音数律をはるかに自在に操れることによって、短歌表現を近代の歌人たちが考えていたものより一段高次な次元に高めた。」「浪曼派の短歌から情緒的なところを排除して、それを技術的にとても高度なイメージの短歌にまで高めた。」(吉本隆明『現代日本の詩歌』)
 「彼が戦争時に信じていた一つの神話の崩壊は、同時にはじまった『戦後』という新しい状況にも易すくはまきこまれまいと身構えざるを得なかった……という自明の理の大前提にならねばならない。/一つの眠りから覚めるように醒めようとするあまり、べつの眠りに易すくおちこんでいく人たちを身近に見ながら、彼は『反抗者』の列に加わったのである。」(寺山修司「塚本邦雄論」)
 「未來史」という聯題のもと、「平和について」と題して始まる、巻頭の一首や、「墓碑に今、花環はすがれ戰ひをにくみゐしことばすべて微けく」という歌は、まさしく「『戦後』という新しい状況にも易すくはまきこまれまい」とする強い意志が込められているといっていい。師の前川佐美雄は、プロレタリア歌人として出発し、やがて保田與重郎らと親交を深め、日本浪漫派へと傾斜していき、戦争賛歌の作品を発表していった。終戦時、二十三歳の塚本が、「易すくおちこ」むまいとしたのは、当然であろうし、そのことの方法論として、吉本が述べているように、「浪曼派の短歌から情緒的なところを排除し」、「高度なイメージの短歌」を作り上げていったことは、この第一歌集から充分に、窺い知ることができる。

  黑き旗・旗 はためける荒地より深き睡りを欲りて巷へ(「鎭魂曲」)

  炎天の河口にながれくるものを待つ晴朗な僞ハムレット(「水葬物語」)

  ひとでらは昔抱きし軍艦のかの黑き腹戀ひつつ今日も(「寄港地」)

  割禮の前夜、霧ふる無花果の杜で少年同志ほほよせ(「LES POEMES
  DROLATIQUE」)

  夕映の圓塔からあとつけて來た少女を見失ふ環状路(「環状路」)

 巻末の自身による「跋」文で「この『水葬物語』九聯二百四十五首は、彼(引用者註=杉原一司のこと)が發見した種々の方程式による、僕のまづしい實驗の結果の一部にすぎない」と述べている。しかし、「まづしい實驗の結果」が、戦後短歌史に屹立する歌集になったことはいうまでもないだろう。

(「図書新聞」09.6.20号)

【書肆稲妻屋(リンク先参照)・定価4200円(税込)、梱包送料代300円】

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2009年3月27日 (金)

『思想の科学』五十年史の会 編                  『「思想の科学」ダイジェスト1946~1996』          (思想の科学社刊・09.1.30)

 『思想の科学』という雑誌は、四六年に鶴見俊輔、丸山眞男、都留重人、武谷三男らによって創刊された。戦時下の抑圧された言論統制から解き放れた人たちにとって、ある意味、自由な思想表現活動への闊達化は、必然的なものだった。最も、精力的な活動に決起したのは、〈左翼的〉勢力と称される一群だった。しかし〈左翼的〉と称される人たちのほとんどは、戦時下において体制へ順応した自らの思想と行動を、まったく糊塗して、何事もなかったかのように切断し、論壇に登場している。やがて党派性を露にし、党的コントロールのもと変種の言論統治を推し進めていったということになる。そして、スターリン批判に始まって、六〇年反安保闘争を経て、ようやく党的神話の呪縛から解き離れていくようになっていくのだ。
 一方、党派性に与しないリベラル(リベラルという概念ほど、曖昧模糊としたものはない。とりあえずここでは、戦前の戦争遂行に対し一貫して自省する立場を持っているという意味で、便宜的に総称しておく)な表現者たちが結集する動きもあった。『思想の科学』に結集した人たちは、そのひとつと捉えられていい(厳密にいえば、党シンパの面々も混淆していた)。
 本書に収録されている「創刊の趣旨」には、「本誌は、思索と実践の各分野に、論理実験的方法を採り入れる事を、主な目標とし、之に伴う方法論的諸問題を検討したい」と明言しながら、「本誌は、読者よりの寄稿批評と、これに対する執筆者の応答との為の欄を設ける。かくして、読者と執筆者との活発なる論議に依り、本誌の代表する思想が、漸次敷衍され進化して行くことを希望する」とも付言している。読者(寄稿者)に対して雑誌が、“開かれている”ということが、ここでは重要なことである。執筆者にしても、編集委員のうち一人でも推挙したものは、掲載するという「多元主義」を採っていたと、巻末に収載されている「『思想の科学』六十年を振り返って」(聞き手・黒川創)で、鶴見俊輔は述べている。いうなれば、鶴見俊輔という存在があったからこそ、『思想の科学』は創刊できたし、五十年という長きに渡って続けられてきたといっていい。鶴見が、『思想の科学』誌の中心にいたのは確かではあるが、だからといって、鶴見が単独で編集権を振るっていたわけではない。執筆者たちを望見してみれば、緩やかに誌面は開かれていたことが了解できる。そこが、自身を「私はマルクス主義と関係ない。アナキストなんだから」と語る鶴見らしさといえるのかもしれない。
 ただし、わたしの『思想の科学』への接し方は、幾らか距離感があるものだった。それでも、関心の方位はそれなりにあったつもりである。リアルタイムで知ったわけではなかったが、「天皇制特集」問題(中央公論社版が断裁され、思想の科学社を興して、六二年四月に再発刊する)がそうであり、六〇年代末から七〇年代初頭にかけてのべ平連運動との連関性に注視してもいた。また、「思想の科学研究会」を象徴する大きな達成として『共同研究・転向(全三巻)』(59~62年刊)を真っ先にあげることができる。
 本書は、四六年五月創刊号から、九六年五月号の終刊号(正確に記せば、第八次終刊号であり、以降休刊というかたちになっている)までの全五三九冊のうちから、約二〇〇〇件の論文・記事を抄録したものだ。膨大な抄録を望見してみれば、分かることだが、実に多様、多彩な執筆陣がいた。埴谷雄高、吉本隆明、谷川雁、網野善彦、中上健次、高橋和巳、寺山修司、つげ忠男、林静一と、恣意的に数人挙げただけでも、“開かれた”思想雑誌としてあり続けたことが傍証できるはずだ。
 なによりも、創刊号の巻頭論文が、武谷三男の「哲学は如何にして有効さを取戻しうるか」と題した西田幾多郎批判であったことは、『思想の科学』誌を象徴している。西田哲学として戦後、称揚されていく過程を苦々しく感じていたわたしにしてみれば、いち早く、大東亜宣言の理念的支柱となった西田の国家観を俎上に乗せていたことは、瞠目する思いだ。さらに見ていけば、五三年六・七月合併号(誌名は『芽』であった。第二次にあたる五三年一月号から五四年五月号までの期間が、その誌名で通している)でも、竹内良知が詳細な批判をしているようだ。
 六〇年反安保闘争のさなか、六月号に、竹内好による農本主義者・橘孝三郎へのインタビューが、掲載されているのに目を引かれた。また、六八年九月号には、鈴木志郎康の「つげ義春の魔術」が掲載されている。これは、つげ義春周辺(雑誌『漫画主義』に集う批評家)以外での、最初のつげ義春評価ではないかと思われる。抄録によれば、こうだ。
 「詩人である鈴木志郎康は、つげ義春の語りくちを『読んでいる私らを意識としての存在に限定し、さらに言葉の様相を通過させて、最後に実在的な自覚へと導いて行く』ものだと定義する。」(141P)
 つげ作品の「語相」に着目したのは、実に卓見だと思う。
 さて、わたしが、『思想の科学』誌を最後に手に取ったのは、終刊の前年、九五年七月号であった。吉本隆明、加藤典洋、竹田青嗣、橋爪大三郎による座談会「半世紀の憲法」(本書・420Pに抄録掲載)を読むためだった。吉本は、九条に込められた理念を敷衍させながら、「国家を絶対化しない」という意味において、「国家として軍隊をもたない」ことで「国家を開く」ということを主張していく。それに対して、竹田や橋爪は、軍隊を有することを念頭に置いて発言し、加藤は、その間を右往左往するといった様相を露呈していた。わたしは、ほぼ同世代に近い彼ら(加藤、竹田、橋爪)に、些か幻滅を感じてしまったことを覚えている。
 この吉本との座談会が、象徴しているように、時代情況は混迷を深めた段階に差し掛かっていたというべきかもしれない。たかだか十数年前とはいえ、現在に引き寄せて思えば、思想雑誌というものの立ち位置の困難さは、既に、その頃から始まっていたということになる。

(『図書新聞』09.4.4号)

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2009年3月21日 (土)

笠原伸夫 著『銀河と地獄―西川徹郎論』           (茜屋書店刊・09.1.15)

 西川徹郎に対し、よく冠せられることとして、異端の俳人とか、俳壇の異端者という言辞がある。わたしには、西川の場合、異端という称揚は、何か似つかわしくなく、釈然としない思いがしてならなかった(この場合、異端を前衛と置き換えても同じ感慨を、わたしは持つ)。確かに、俳句的世界、あるいは俳壇というものを前提に捉えれば、西川に対して異端の俳人とか俳壇の異端者と称することは、まったく見当違いのことではないと思うのだが、そういう視線には、必ず正統な俳人(俳句)というものに対する異端、あるいは俳壇という確固たる体制に対してのアウトロー的に位置しているといった考え方が潜在していて、ほんらい異端性が有しているはずの思想(表現という言葉と置き換えてもよい)の深度というものを度外視しているように感じられてならないのだ。
 かつて吉本隆明に『異端と正系』(1960年刊)という評論集があった。この場合の“と”は、対立軸としての“と”ではないのだ。吉本は、このように述べている。
 「わたしが(略)もっとも格闘したのは、異端と正系という問題であった。そして、ついに到達したのは、正系なくして異端もなく、異端なくして正系もないということ、また、アプリオリな正系も異端もなく、両者は、一つの契機があれば相互転換する相対的なものに外ならないということであった。」
 この吉本の言説にならっていえば、西川を異端と称するのは、けっして称揚したことにはならないということになる。当然、そのことを一番、了解しているのは西川自身であるはずだ。俳壇の異端者とか、異端の俳人といった狭量な位相に、自らの表現領域を押し込めているわけではないはずだ。異端も正系も相対化し、それらを俯瞰した地平からの自己表出だけが、確たる表現水位なのだという、切実たる思いを根拠としていると、わたしは西川俳句を捉えている。だからこそ西川は、どんな集団的背景をも拠所とせず、単独で〈存在性〉を基層に〈世界文学としての俳句〉を指向しようとしてきたわけだし、してきたのだといっていい。
 本書の著者は、そのような西川徹郎の屹立した作品世界の相貌を、第十三句集『銀河小學校』を中心に据えながら、その他の既刊句集とともに、「抒情的清冽さ」、「映像喚起力」といった角度で渉猟し、多彩なキーワードに収斂させながら縦横に論じている。
 ところで本書は、単著としての『西川徹郎論』としては五冊目にあたる。そのことが、多いのか、少ないのかといったことにわたしの関心はない。全冊を詳細に望見したわけではないが、「暮色の定型」、「虚構の現実」、「世界詩としての俳句」、「極北の詩精神」、そして本書は「銀河と地獄」というように、それぞれが多様なテーマを持って論及している。それはつまり、いかに西川俳句における作品の奥深さがあるのかを指し示しているということになるといってもいい。
 わたしが、考える本書の核心部分は、次に引く箇所になる。もとよりこれは、西川俳句の基層となるべき場所を真っ芯に照射していることにもなるのだ。
 「すくなくとも西川徹郎が人間存在の根底に視座を据え、〈自己〉の究明に的を絞って〈俳句〉の製作を推し進めてきたことに変わりはなく、それを自ら〈実存俳句〉と呼んだとしてもなんの問題もないはずだ。/彼は早くから〈口語〉を用いてきたし、〈定型〉の意味も問いつづけてきた。有季定型か、無季非定型か、といった単純な二者択一ではない。かれは〈反定型〉であっても〈非定型〉とはいわないのである。(略)〈反〉とは〈正〉があっての〈反〉であって、〈非〉は〈正〉との確執、葛藤ではなく、あくまで無関係、無関心なのである。(略)しかし〈反〉というかぎりつねに〈正〉への激しい叛意が内在する。西川徹郎の立場は定型を選びつつ反定型を主張し実行する。〈反定型の定型詩〉というわけだ。」(83P)
 著者の捉えかたに対して、わたしもまたほとんど同意したい思いだ。だが、わたしが、どうしても拘りたいのは、異端や前衛、そしてここで論及されている〈反〉という措定のしかたに対する理解の有様にだ。確かに、初発の西川俳句は、そのような理解の地平にあったといっていい。だが、現在、あるいは、著者も引いている雑誌「國文學」に、「反俳句の視座―実存俳句を書く」を西川が発表した時(2001年)は、遥か彼方の地平へと超え出ていこうとする宣明だったと思う。個人編集誌『銀河系つうしん』(現在は「銀河系通信」に改題)を創刊したのが、1984年のことだ。〈銀河〉というのはそういう意味でいえば、西川にとって最も核心的な詩語であったことは、間違いない。その〈銀河〉を句集名に冠したのは、ようやくにして第十三句集『銀河小學校』(2002年刊)においてだった。このことは、西川の現在を捉えることにおいて、非常に重要なことだという気がする。
 西川が〈銀河〉や〈反〉に込めたものは、親鸞が提示した〈横超〉に近いものだと、わたしなら考える。〈反〉は、たんに〈正(実は擬似なるもの)〉に対峙するものではない、“超えゆく”ものでなければならないのだ。〈銀河〉とは、まさしくそのことの代象であるといっていいのではないかと思う。

(『図書新聞』09.3.28号)

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2009年2月13日 (金)

小林善彦 著                           『「知」の革命家ヴォルテール 卑劣なやつを叩きつぶせ』        (つげ書房新社刊・08.11.20)

 ヴォルテール(1694~1778)は、十八世紀を代表するフランスの啓蒙思想家である。しかし、名前は、よく知られているのだが(本書によれば明治期の教科書に、その名は既に登場し、紹介もされているようだ)、同時代人のルソー(1712~78)に比べてみれば、わが国において、それほど深く受容されてきたとはいい難い。小説、詩、戯曲、哲学、歴史書といったように、その著作活動は多岐にわたって、しかも膨大な量となっていることもあり、フォーカスして紹介するといったことが困難だったからかもしれない。
 ラテン・アメリカ文学の代表的作家ボルヘスは、自ら編纂した幻想文学全集『バベルの図書館』(邦訳は国書刊行会より発売)のなかの一冊にヴォルテールの『ミクロメガス』を入れている。ボルヘスとヴォルテールという組み合わせに、やや意外な思いを抱くのは、わたしだけではないはずだ。ボルヘスがリスペクトするヴォルテールということだけでも、ヴォルテールという思想家像が、なにか魅力溢れるものを湛えているように思えてくるのだが、本書は、まさしく「八十四年の生涯を精一杯、思う存分に」疾走したヴォルテールの評伝として、わたしたちに十八世紀の革命前夜におけるフランスの啓蒙思想家像を明らかにしてくれる。
 著者はまた、ルソーに関した著作・翻訳書を多く持っている。それゆえに、当然のことながら、ルソーとの対比を処々に叙述していて、闊達なヴォルテール像をさらに際立たせてもいる。
 「ヴォルテールがその生涯をかけて主張し、戦ったさまざまな価値、自由、人間の誇り、平和は確保されて、ヴォルテールは歴史の伝説となる時代になったかと思われた。しかしながら、戦後半世紀以上を経たいま、近年の動きを見ると、いわゆる戦後民主主義が実現した価値は、徐々に後退しつつあるように思われる。」
 著者が、「はじめに」で、このように述べながら、「ヴォルテールが必要な時代に戻ったように思われる」として本書執筆の事由を記している。
 1789年のフランス革命によって、旧王朝体制(アンシャン・レジーム)を廃止し、最初の共和制が成立したわけだが、その基層には、ヴォルテールやルソーら啓蒙思想家たちの大きな影響力があったことは周知のことである。王権力とその基盤を確証させる宗教(カトリック派一教支配)権力が、専制政治としてのアンシャン・レジームを形成していたのだが、ヴォルテールとルソーは、「動」と「静」といった対照的なかたちで、旧体制に対峙していったのだ。各々の時代比較は、それ自体、あまり意味がない。いまでは、当たり前の主張も、時代を遡れば、過激な反体制的言説として弾圧されるのだ。ヴォルテールたちが疾走した時代は、まさしくそうだった。
 ヴォルテールが反骨の“「知」の革命家”にしては、幾らか異彩さを放っていたのは、決してアンダーグラウンドの場所から発信しようとしなかったことにある。つまり、アンシャン・レジームという円環のなかにいながら、反抗と抵抗を表明し続けたのである。もうひとつ、通例の“革命家”像とは異なる像を持っていた。それは、類まれな錬金術によって豊富な資産を有していたことだ。そのことは、度かさなる国外追放や収監の経験がありながらも、自身の主張を後退させることをしなかったことの根拠でもあった。豊かな生活に裏打ちされた著述が、すべからく体制的になっていくとは限らないのだ。著者は、現実主義的で合理主義の面があることを指摘しているが、むしろ安定した生活の場所からでなければ、頑強な旧体制とは対峙できないという絶対王政の時代であったことの証左でもあるような気がする。富を蓄積していっても、一貫して宮廷や教会の擁護者にならなかったところが、“「知」の革命家”たる所以なのかもしれない。
 そして、決定的な出来事が、ヴォルテールに生起する。自身の名声を得ることにもなったカラス事件である。権力的な宗教支配によって捏造されたこの事件は、ヴォルテールによって刑死したジャン・カラスの名誉を回復させるという衝撃的なものであった。
 「この世にはあまりに多くの不幸と、悲惨と、苦しみがありすぎる。それを観察し、経験し、思いめぐらすに、楽天主義的な予定調和説では、とても説明できないとヴォルテールは考える。むしろ問題は、そのような説を単純素朴に信じこむ無知と、偏見と、狂信とにあるのではないか。『ガンディード』(引用者註=ヴォルテールの小説作品)の結論は『われわれの庭を耕さなければならない』であるが、やがてヴォルテールはそれをさらに超えて、世の無知と狂信とに対して、積極的に戦いを挑むようになるのである。」(128P)
 六十代から最晩年まで、さらに旺盛な著述活動をしていったヴォルテールは、1778年5月30日、八十三歳の生涯を閉じる。だが、パリの教会に反抗して、パリで埋葬されることは許されず、「パリの東百七十キロほどのトロワ近くの」、「荒れ果てた教会の中に埋葬された」そうだ。
 やがて、フランス革命中の1791年にパリのパンテオンに棺は移送されている。

(『図書新聞』09.2.21号)

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2009年1月30日 (金)

日本カント協会 編『日本カント研究9 カントと悪の問題』(理想社刊・08.9.30)

 わたしたちが、「悪」という問題を考える時、当然のことながら、そこでは対峙する概念として「善」という問題が生起してくる。だが果たして、「善」と「悪」は、二項対立、あるいはカント的にいうならばアンチノミー(二律背反)といった相反する概念として定立させることができるものなのだろうかという疑問を、わたしなら抑えることができない。
 ここ数年の加速化された欧米を軸としたグローバリズムの拡張は、先進社会を「善」、後進社会を「悪」とする転倒した二元論を瀰漫させている。“後進社会”とは、いうまでもなく、欧米的キリスト教圏域(ユダヤ的世界も包含させていい)と絶え間なく衝突を繰り返しているアラブ・イスラム文化圏域を主に指し、先進社会的「善」を絶対値として、疎外と圧制を、欧米諸国は教唆している。このことは、まさしく「善」と「悪」が、渾然とした情況を露出していることを示しているといっていいように思う。その限りでは、もはや「善」も「悪」もないということになる。
 本書は、日本カント協会の年一回刊行の機関誌である。第9集の主題は、「悪の問題」であるが、もちろん、これはあくまでも、カント研究ということが主眼であって、現況を視野に入れた論稿というわけではないが、論者の意識するしないにかかわらず、現況に対する多くの示唆を含んだ力論が掲載されていると、わたしは受け取ることができた。
 巻頭の三論稿、北岡武司「意志の原理とされた自己愛―カントにおける悪の問題―」、保呂篤彦「根本悪の克服―個人における、また人類における―」、石川文康「根本悪をめぐるカントの思考」のそれぞれが、主題「カントと悪の問題」に沿ったものとなっている。
 北岡の論稿は、道徳的善悪を軸に展開させていき、「心ね」という人格、理念、性格に連動する領域へと視線を這わせながら、「自己愛」を基準にした善悪の概念を切開している。
 保呂と石川の論稿とも、「根本悪」をモチーフに、その克服する方位を論及している。カントによる「根本悪」とは、「道徳法則に反する動機を道徳法則への尊厳という動機に優先するものとして『格率〈Maxime〉』のうちに採用してしまう『性癖〈Hang〉』であって、これが人間の『心術〈Gesinnung〉』の根底にある」ということだと、保呂は述べていく。とすれば、これはそもそも克服・超克不可能性を内在していることになるのだが、保呂は宗教的な「恩寵」概念をもって、不可能性を可能性へと道程付けしていく。
 石川は、「いわゆる悪への性癖は根絶不可能ではあるが、しかし克服可能とされる場合(略)、その克服努力こそ道徳なのである。このことは、カント哲学全体が根絶不可能なものに対する克服の努力とその可能性を開拓する試みだったということを、よく反映している」と叙述する。この示唆は、様々なことを包含している。わしの関心事からいえば、ニーチェの「善悪の彼岸」との関連で考究していく素地を残しているような気がする。
 主題に沿った三論稿に続くものが、哲学翻訳の問題性を指摘した注目すべき提言がなされている鈴木直「カントの翻訳と『輸入学問の功罪』」だ。本集の主題と関連したものではないが、鈴木の提言に反論するかたちでなされた押田連「翻訳出版における編集者の役割」と牧野英二「カント研究と翻訳者の使命」とともに、わたしにとって刺激に満ちたものとなっている。本集の評をしながら、いささか矛盾した言説を述べることになるかもしれない。特に、本集のような哲学的分野において顕著なことなのだが、なぜ、学際論文というものは、解読しにくい文体(難解という意味ではない、極端にいえば、日本語の文脈として破綻しているということに近い)で展開しているのだろうかという疑念が、わたしには常日頃ある。これは、鈴木が提示している哲学翻訳の問題とも通底していることだといっていい。鈴木は、「いまだに逐語訳的拘束のために不必要に難解になっている訳文が散見されることを」問題視し、「わずかな工夫を妨げている原因は、個々の訳者の力量不足ではなく、むしろ『哲学の訳文はかくあるべし』と信じ、あるいは信じさせられ」ている「制度」にあると述べていく。わたしは、この鈴木の指摘をほとんど同意する思いで、受けとめていった。「逐語訳」の是非を、ここでは留保しておくとして、「哲学の訳文はかくあるべし」という制度は、そのまま、「(哲学的)学際論文はかくあるべし」というもう一つの制度へとリンクしていくような気がする。哲学的言説も論理的言説も、一人の論者によってなされる時、それは、その論者の自己表現であるというのが、わたしの基底的な考えである。例え、テクスト解読という主題があるとしても、解読それ自体の内実が自己表現を含まないものは、解読したことへ到達したことにはならないと思うからだ。ただ、テクストをなぞっただけのものを解読とはいわないはずだ。
 もちろん、本集がそうだといっているのではない。絶えず、そういうことの陥穽を引き寄せてしまう可能性が、研究誌(紀要、学会誌)論稿というものにはあるということを、念頭に入れておくべきではないかと、指摘したいだけである。
 さて、本集は他に、市毛幹彦「カントの超論的自由」、佐藤慶太「『区別(Unterscheidung)』と『混同(Verwechselung)』」、千葉清史「『純粋理性批判』諸アンチノミー導出の統一的構造」、田原彰太郎「行為の道徳的判定の基準」、宮本敬子「『後見人』批判としての『理性の公共的使用』」の諸論稿と書評、海外学会報告などが収載されていることを、最後に付言しておきたい。

(『図書新聞』09.2.7号)

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2009年1月23日 (金)

つげ義春 著                            『生きていた幽霊』(小学館クリエイティブ 刊・08.7.29)   『四つの犯罪』(9.29)『恐怖の灯台』(11.29)

 新作の発表のない状態が二十年以上続いているにもかかわらず、08年に入ってから、つげ義春のヴァリアント本が、相次いで刊行されている。93~94年に出版された『つげ義春全集(全八巻・別巻一)』の文庫版『つげ義春コレクション(全九冊)』(筑摩書房)、03~04年に出版された『つげ義春初期傑作短編集(全四巻)』、『つげ義春初期傑作長編集(全四巻)』の文庫版・全八冊(講談社)、そして本書の初期貸本漫画時代の単行本の完全復刻本(全三冊)である。『全集』刊行時、初期貸本漫画作品の多くを収録しなかった理由として、つげは「稚拙で未熟な過去を晒すのは気がすすまぬ」とし「粗末な作であるのは生活苦による乱作のためばかりではなく、マンガ全般のレベルが低かった時代」だったからだとなんの衒いもなく述べているが、わたしたちは、そのようには見ていない。わたし自身、つげ義春の一群の〈初期〉作品を、まさしくつげ義春という作家的膂力の源泉として捉えている。どんな事情や時代背景があろうとも、作家の作品歴は地続きなものであり、〈初期〉を抜きにしては、その作家の世界像を語ったことにはならないからだ。
 あらためて、本書全三冊を読み返してみて、その思いをさらに強くしている。既に、この三冊に収められた作品は、「選集」(77年、81年)や文庫(76年)で刊行されているのだが、完全復刻版となれば、当時の息吹きが伝わり、作品に対する視線も幾らか心新たなものになってくるといっていい(それぞれに「著者4年ぶりの肉声を伝える」、権藤晋によるロングインタビューが挟み込みとして付いており、つげ自身が語る〈初期〉を知ることができる)。
 よく知られているように、つげ義春の漫画家としての出立は、十七歳の時、メッキ工場で働きながら投稿し続けて採用され、雑誌「痛快ブック」に掲載された四コママンガであった。本格的なデビューは、十八歳の時で、一二八頁の貸本漫画単行本『白面夜叉』(55年5月)である。その後、七冊の貸本漫画単行本を刊行し、「痛快ブック」や「冒険王・増刊」などに次々と作品を発表していく。そして復刻版化された三冊は、十九歳から二十一歳にかけて発表されたものだ。
 『生きていた幽霊』(56年11月―以下、すべて若木書房刊)は、それまで発表されたものとは一転してシリアスな作品となっている。「探偵漫画シリーズ」と銘うたれたもので、  当時、江戸川乱歩が関わっていたこともあり、評判になっていた探偵小説雑誌「宝石」の影響下による企画と思われる。
 『つげ義春漫画術』(上・下巻、93年刊―ワイズ出版)のなかで、聞き手の権藤晋が、『生きていた幽霊』では、「絵柄がガラッと変わ」ったと指摘している。それに対して、つげは、「手塚治虫から脱皮したい気持ちが出ていた」からだと応答しているが、十七歳から描き出して、十九歳となっていたつげにとって「子供向きであきたらなかった気持ちがあ」り、「自分の年齢のレベルのものを描きたくなった」(挟み込みインタビュー)という思いが、作品形成に大きく、影響しているとみていいし、そのことこそが、“作家性”の発露であり、作家における初期世界の重要性を意味していることになるのだ。
 『生きていた幽霊』は、五つの短編によって構成されている。冒頭の「に来た男」では、温泉地を舞台としている。そのことだけを見ても、つげ的世界の初源性といったことが、いえそうだ。またシリアスな推理劇のなかにも、どこかユーモア性を湛えていることにも、そのことはいえる。
 集中、「罪と罰」は、ある意味オーソドクスな復讐譚である「に来た男」に比べて、悲哀に満ちた復讐劇となっている。交際に反対されていたとはいえ、恋人に父を殺された娘が、同じ方法で恋人を殺すという暗い終わり方は、人間存在の悲しみが率直に描出されている。それは物語を構成する膂力が、既に萌芽していたということでもある。そしてまた、どの作品もまったく異なったシークエンスによって展開している多彩さは、十九歳にして、溢れる才能を持って表現していることの証左だといえる気がする。
 『四つの犯罪』(57年6月)は、同じ「探偵漫画シリーズ」の一冊であるが、その間、共著として単行本が一冊と、雑誌作品三編という、少なさである。さらに、その後は、雑誌の仕事は途切れなくしているのだが、若木書房の仕事は、『恐怖の灯台』(58年3月)までしていない。その間のことを、履歴的に視線を向けてみれば、青春期における必然的な私生活の変容と無縁ではなかったようだ。
 『恐怖の灯台』は、簡略化した顔の描写に象徴されるように、全体的に絵柄のタッチにやや拙速さが感じられる。「これはひどかった。絵も荒れちゃっているし、めっちゃくちゃ描き飛ばしている」(前出『つげ義春漫画術』)と、つげは回顧しているが、それでも、〝六さん〟の像型、海中の場面などは、やはり出色なものがある。
 『四つの犯罪』は、構成力、画像の濃密度、どれをとっても、この時期のつげ作品のなかでは、傑出したものとなっている。後年の旅もの作品のなかにしばしば見られる、主人公(作者自身と思わせる人物)のモノローグによって物語を進めていく手法が、既にこの作品には表れているのだ。
 「のぞき見奇談」という挿話では、主人公の柘植(挿話中では辻)が、漫画家仲間の円戸(遠藤政治)と、漫画論議をする場面がある。
 円戸「辻君きみはあいかわらず芸術だのなんだのといってるのかい」「くだらん くだらん」「それよかうんと売れるやつをかいて人気をとる事だ」
 辻「きみは出版社のまわしものかっ 売らんかな主義は大きらいだ」「人気がなんだ」「ボクはいいものさえかいてりゃそれでいいんだ」
 おそらく実際に、これ近い遣り取りを、四歳年上の遠藤と、やっていたのかもしれないとしても、この場面の前段で、辻が、ひとりで、「おれの漫画はそこらにころがってるオモチャ漫画とちがって芸術なんだ」「漫画文学なんだぞ」と高らかに宣言していることの方に、わたしたちの関心は向いていかざるをえない。「漫画術』のなかで、「『芸術』だとか『文学』だとか言ってごましていたのかもしれない」とか、「カッコつけて逆らっていただけかもしれない」とつげ自身は、述べているのだが、作品に潜在するモチーフからいえば、強い作家意識の表れと見るべきであるし、当然、この時期のつげは、クラシック音楽にも関心を向け(作品中にも名曲喫茶「らんぶる」が登場している)、小説にも無関心ではいられなかったはずだ。だから、「漫画文学」とは、けだし名言というべきである。わたし(たち)が、後年の「ガロ」掲載作品群を、その深層において、なんの矛盾もなく文学性を持った作品として捉えていったこととそれは、通底していく。
 こうして、作家の〈初期〉作品を辿ることによって、その作家の世界像が露わになるということは、まぎれもなく、それが、つげ義春の作品世界だからだといっていい。

(『図書新聞』09.1.31号)

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2009年1月16日 (金)

寺田俊郎・舟場保之 編著                   『グローバル・エシックスを考える―「九・一一」後の世界と倫理』(梓出版社刊・08.10.20)

 〇一年の九・一一アメリカ同時多発テロ後の世界は、テロとの戦いと称して巨大軍事力を駆使したアメリカ一国覇権主義の拡張をみることとなった。その結果、グローバル世界という言葉は、そのままアメリカ的支配と読んでもいい情況を生起し、現在に至っている。
 本書は、「『九・一一』の後間もなく(略)報復戦争を行」ったアメリカに対して「異議申し立てをすべきだ」という考えによって、呼びかけられ参集し、「『九・一一』がわれわれに突きつける問いをめぐって議論するために開いた(略)『〈九・一一〉を多角的に考える哲学フォーラム』」の「研究成果の一部」(寺田俊郎「あとがき」)を纏めたものである。
 書名に付された「エシックス(ethics)」とは、規範とか倫理、道義といった意味があり、編者たちは、二〇〇年ほど前、カントが『永遠平和のために』のなかで提示した「世界市民」概念に啓発されて、グローバリズムにおける本源的な意味を考究するために、「グローバル・エシックス」を提言している。それは、編者の一人寺田が述べているように、「さまざまな社会的相互作用が国民国家の枠を超えて地球規模で活性化した時代において、正義にかなった世界のあり方を規定すべき規範、およびその規範を明らかにしその根拠を批判的に問う哲学的探究」(23P)ということになる。本書を瞥見すれば、多角的な視野からそのことを論及していることが分かる。そして「人権」、「普遍主義と個別主義」、「道徳」、「国家」、「ジェンダー」、「環境」などといった様々な主題が採り上げられ、多岐に亘った専門分野をもった十五人の執筆者たちの論稿によって全十五章として構成されている。
 伊藤博美が、「第十三章 『九・一一』その後の〈語り〉」のなかでも詳細に論じているのだが、「九・一一」の犠牲者たちの遺族の集まりで、「平和な明日を求める〈九・一一〉家族会」(「ピースフル・トゥモロウズ」)という団体があって、彼らは、積極的にブッシュ政権の「力こそ正義」に否を唱えていたことを、わたしは、本書で初めて知った。九・一一テロの二年後に世界貿易センター跡地を訪れた寺田は、そこにあるモニュメントの解説文言に、「犠牲者の死を悼む気持ちが微塵も感じられ」ず、「人々の死を国家の都合にあわせた虚偽で塗り固めて、愛国心を煽り、不正な戦争を正当化し」ていることに「憤りすら覚えた」(6P)と、「第一章 グローバル・エシックスとは何か」のなかで率直に述べながら、やがて、寺田は、「家族たちの消えることのない悲しみ、支えてくれる人びとにたいする感謝、爆撃で甚大な被害を蒙ったアフガニスタンを救援する活動の要請、イラク攻撃計画への反対などとともに、(略)テロリズムは、貧困、人種差別、無知、不平等、絶望、怒りなどから生じる兆候であり、その背景を理解することがテロリズムを防ぐために重要であること」(8P)を一周忌にあたって表明した「ピースフル・トゥモロウズ」の存在を知り、「まっとうな倫理感覚を保ち」行動する合衆国市民がいたことに、「驚嘆し、安堵するとともに、勇気づけられた」と記している。
 確かに、「ピースフル・トゥモロウズ」の「倫理」は、加害者と被害者を往還し架橋しうる普遍的な位相をもっているといえる。わたしは、かつて九・一一テロ後、吉本隆明が、加藤典洋との対談で、「存在倫理」という印象深い概念を提起していたことを、すぐさま想起した。それは、次のような発言のなかにあったものだ。
 「社会倫理でもいいし、個人倫理でもいいし、国家的なものの倫理でも、民族的な倫理でも、何でもいいんですけれども、そういうもののほかに、人間が存在すること自体が倫理を喚起するものなんだよ、という意味合いの倫理、『存在倫理』という言葉を使うとすれば、そういうのがまた全然別にあると考えます。それを考慮しないと、この手前味噌な言い方とやり方(引用者註=ブッシュ政権とイスラム原理主義者たち両方の行為を指す)は理解できないんじゃないかという感じ方になっちゃうのです。『存在倫理』という倫理の設定の仕方をすると、つまりそこに『いる』ということは、『いる』ということに影響を与えるといいましょうか、生まれてそこに『いる』こと自体が、『いる』ということに対して倫理性を喚起するものなんだ。そういう意味合いの倫理を設定すると、両者に対する具体的な批判みたいなのができる気がします。」(対談「存在倫理について」―「群像」02年1月号)
 「生まれてそこに『いる』という」そのこと自体が、「『いる』ということ」に対して「倫理性」を喚起するという論旨は、そのまま、「絶望、怒りなどから生じる兆候」の「背景を理解する」という存在していることへの視線に繋がっていく捉え方だと、いっていいと思う。人権や生命といった位相で倫理を語ることも当然のことだが、「存在倫理」というように、もう少し普遍視線のようなものを考えていくならば、テロと戦争を超える方途へと   到達できるような気がしてならない。
 集中、小野原雅夫は、「第十章 カントとテロリズム」のなかで次のように論述して、グローバルな国家テロとでもいうべき現況を鋭く批判しているのが、印象的だ。
 「『九・一一』以降、『テロとの戦い』という言説が政治の世界を支配するようになり、民主主義を標榜していた先進諸国がこぞって恐怖政治の体制を敷くようになっている。テロ対策の名の下、(略)盗聴、拘禁、拷問といった『効率的手段』が多用され、(略)侵略戦争まで簡単に行えるようになってきている。これこそ『テロリズムの時代の幕開け』にほかならず、これまで巧妙に隠蔽されて行使されてきた外向きの構造的暴力が、内外への露骨な恐怖政治に取って代わられることになったのである。」(204P)
 現在のグローバル世界は、ますます「存在倫理」や「エシックス」とは、ほど遠い只中へと瀰漫させている。それでも、どこかを入り口にして、それを切開する通路を開いていかなければならないことだけは、明白なことなのである。

(『図書新聞』09.1.24号)

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