2009年9月13日 (日)

つげ義春「窓の手」について

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 〈戦後〉という言葉をある文脈のなかで配置した時、わたしたちはどんなイメージを抱くことになるのだろうか。世代間での差異があるのは、当然だとしても、イメージは、どのようにでも可能なのだ。まだ生々しく実感する世代から、遠い古代史のような想いを抱く世代まで、いずれにしても、それは時間概念として感受される場合が多いかもしれない。十五年戦争、あるいはアジア太平洋戦争が終結して六十年以上の時間の経過は、戦争期の記憶それ自体をも必然的に風化させていくことになる。確かに、時間概念としては、そうなのだが、それでも、なおリアルな実態性を喚起させ、〈戦後〉ということの実相を掘り起こすことは、現在を見据える意味において、極めて重大なことだとわたしは考え続けている。なぜなら、〈戦争〉の後ということを示唆する〈戦後〉は、いまなお、浮遊する言葉としてあるといっていいからだ。あるいは、〈戦後〉という時空間は、変容し、ある意味では風化していくとしても、内在する位相それ自体から、普遍視線を取り出すことができるといいかえてもいい。つまりこういうことだ。〈戦争〉は、なにも十五年戦争、あるいはアジア太平洋戦争だけが、〈戦争〉ではない。世界規模に拡大した〈戦争〉は、この六十年以上、生起していないとしても、〈戦争〉は、依然、連続して世界域で起きているし、それは、終わりのない〈戦争〉としてあり続けている。そして、〈戦後〉というものは、そういう意味でいえば、終わることのないものとしてあるのだ。
 例えば、格差社会といわれ、現代の貧困といわれる現在を、吉本隆明は、「第二の敗戦期」と捉えている。
 「この四、五年で、日本の『戦後』が終わり、新しく『第二の敗戦期』とも呼ぶべき段階に入ったのではないか――僕はそんなふうに捉えています。」「戦中派である僕らの世代は、本当の飢えを知っています。」「働いてもプアだということはあるにしても、まだ比喩的な要素が強く、文字通り飢えたという実感を持つ若い世代はそれほど多くはない。本当の意味で貧しい育ち方をしてきたわけじゃないから、本当の問題は貧困というより、何か人間の精神的な抵抗力が弱くなってしまったことにあるかもしれません。」(「『蟹工船』と新貧困社会」―『貧困と思想』〇八年十二月刊、所収)
 ここで、吉本が述べている言説に敷衍していうならば、〈戦争〉、〈戦後〉概念を大きく拡張していることに注視すべきである。〈戦争〉というものは、国家間、あるいは民族間だけで生起するものではない。社会内、共同性内、親近なる関係性内であっても、〈戦争〉というものは露出しうるし、それは幻視できるものなのである。そして、わたしの考えでは、〈戦争〉と〈戦後〉は、時間軸として分断しうるものではなく、連結したものと見做すべきなのだ。それは、戦争終結直後期だけが、〈戦後〉を意味することではないということにもなる。だから、〈戦後〉というものには、絶えず、〈戦争〉が胚胎していると考慮しながら、変容を強いられる〈戦後〉という時空間を、幾つかの断面に割って、見通すという視座が必要である。そのうえで、〈現在〉ということを、切実な地平へと押し出していくべきなのである。吉本がいう、「第二の敗戦期」という言葉の深奥には、そのようなことが、含まれていると、いっていいはずだ。

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 一九八〇年、『カスタムコミック』三月号に発表された、つげ義春の「窓の手」という作品は、一連の夢作品といわれるものとは、異質な光彩を放っていた。それは、つげ作品にあっては、めずらしく〈戦後〉ということが、作品モチーフとなっていたからである。
 銀行とおぼしき建物のなかで、何人かの男たちが働いている。開けた窓から風が入ってきたので、閉めようとしたら、窓枠の下方に手袋のようなものが二個、置いてあるのを見つける。しかし、それは、手袋ではなく、まぎれもなく人の手だった。行員たちは「窓から手が生えている」といって驚くものの、なぜか、極めて冷静に行動するのだ。色白の女性の手だと観察したり、窓の下の壁を破って、中を調べ、何もないのを確認したりする。そして、入れ歯を一個、見つける。やがて、復員服のようなものを着た男が、訪ねてくる。“窓の手”を見て、「白人人種のものではないか」といい、落ちていたという入れ歯を見せてもらい、それを受け取ると、自分の歯のなかに嵌めこんでしまうのだった。そして、男はいう。
 「この手は/グロリアだ」「グロリアに/ちがい/ない」「ああ/懐かしいなァ/………」
 その後、男は行員に「戦後まもない」頃のことを語って聞かせていく。この男は、当時、銀行の向かいに建っていたビルのなかにあった貿易会社の社員であった。やがて「上陸してきたアメリカ軍」が、そのビルをスパイ活動のための極東本部にして、同時に、貿易会社の社員たちも、「スパイに仕立てられて」いったという。なぜか、「スパイになる手続きとして指紋と歯型をとられ」る。だが、「スパイ活動は一度も指令されず」に、三年間が過ぎ、歯型を採取した上司のイギリス人・サンダーソン中尉は、本国へ帰国する。入れ代わりに配属されてきたのが、同じイギリス人女性のグロリアだった。グロリアは、重い病気に患っているようで、ビルの一室に隔離されたままだった。男は、「孤独なグロリアが気の毒に思え」て、部屋を訪ねていく。男は、グロリアの奥歯が入れ歯であることを聞いて、その入れ歯を自分の奥歯の位置にはめ込んでみると、ピタリとおさまったのだ。グロリアから入れ歯を借りて、入れたまま二、三日過ごしていると、サンダースが戻ってきて、グロリアの入れ歯をしているのを見咎める。「敗戦国民の/くせに/なれなれしい/まねするな」の罵られながらも、男は、歯型が自分のものだから、入れ歯も自分のものだと主張するが、「本国に」問い合わせて、「回答があるまで」グロリアに返しておくように命ずる。その後、グロリアは、行方不明となる。銀行に入っていった後姿が、男の見たグロリアの最後だった。こうして回想が終わり、男は銀行員にいう。
 「人目を/さけて/こっそり死んだ/のでしょう」「しかし/遠い異郷での/さみしさに/たえられず」「それで窓から/出ようとしたの/ではないで/しょうか」
 そして、男は、「戦後三十年/私の戦後は まだ/終わっていない/のです」といいながら、“窓の手”のグロリアに別れを告げて去っていく。
 〈戦後〉というモチーフとともに、超現実的なストーリーながらもリアルで重厚な画像によって描出されたこの作品について、後年、つげ自身、幾つかのことを語っていて、興味深い。
聞き手・権藤晋に「『窓の手』以前の夢ものと絵柄」の違いを聞かれ、つげは、「夢の中でも荒唐無稽が少なくわりとシリアスだった、戦後風景なので重厚にきっちりと描く方がふさわしいと思った」(『つげ義春漫画術・下巻』)と述べている。そして、次の様に率直に語っている。
 「夢にしてもまったく不思議で、なぜこんな夢を見たのか理解できないことですけど、戦争や戦後がぼくの深層におよぼした影響が出て来たのかね。(略)ぼくは戦争批判を表層的にとらえるのは嫌いです。政治意識や知性のない庶民は深層で何か深い傷を負っているのではないかという気がするんですが。」
 つげがこのように自らの体験を、戦争や戦後ということに絡めて語るのは、極めて稀有なことだといえる。それは、この作品が、いかにつげにとっても重要な作品であったのかということを示唆するものだといえるような気がしてならない。「戦争批判を表層的にとらえるのは嫌い」であると述べながらも、「敗戦国民の/くせに/なれなれしい/まねするな」と、サンダースにいわせ、「戦後三十年/私の戦後は まだ/終わっていない/のです」と男に吐露させるのは、つげ作品のなかでもめずらしい直截ないい方でもある。終戦時、八歳であったつげは、世代的にいえば、自ら語るように、戦争や戦後が、自身の深層に深い影響を与えたことは、確かである。
 それまでの夢作品では、必ずといっていいほど描かれる直截的なエロス性が、この作品にないことも、異彩をもたらしている、もうひとつの事由だといえそうだ。
 「主人公とグロリアの入れ歯が合致する」ということが、つげ自身によれば、エロス性の象徴ということになるようだが、わたしは、むしろ、終景の〝窓の手〟の別れを惜しむ手の動きの方に、哀切感とともに、奇妙なエロス性を感受したと記憶している。それは、かなり意識的に書き込まれたシークエンスだったといっていい。
 だからこそ、二人を、「もっと深い男女の関係のような気もして、哀切に描きたかったですね」と、つげ自身は述べているのだ。

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 わたしが、「窓の手」という作品に、リアルタイムで接した時、当然のことながら、大きな衝撃を受けたといっていい。例えば、つげ忠男の「屑の市」(『夜行 第一集』七二年四月刊、所収)に接した時の衝撃とそれは近似していた。一九八〇年という時制は、まだ、「窓の手」や「屑の市」に潜在しているモチーフを切実なるものとして、感受できる情況にあったからだといえる。そして、さらに三十年近く時間が経過し、いまあらためて、「窓の手」という作品に、向き合った時、わたしは、不思議な感慨が沸きあがってくるのを抑えることはできなかった。真っ先に感じたことは、この作品の時制は、いったいいつなのかということだ。主人公の男に、「戦後三十年」といわせていることから、作品上では七五年ということになるわけだが、それにしても、いかにも、「戦後まもない」頃といった雰囲気を描出しているといえる。もちろん、夢を素材にした作品であることを承知の上で、そのことを捉えようとしているのだが、この時間性と空間性の齟齬が、〈戦後〉という問題の迷宮性をあえて露出させているとわたしには思えてならないのだ。あるいは、風化しきれないままの〈戦後〉の浮遊性といってもいいかもしれない。
 現実的な場所では、例えば、「戦後は終わった」、「戦後政治の総決算」、「戦後レジームからの脱却」といった妄言を発しながら、〈戦争〉と〈戦後〉を風化ではなく無化しようとした、時の執権者たちがいた。なぜ、〈戦争〉、〈戦後〉、そして〈現在〉へと連結しているはずの時空間というものを措定することなく、ただ分断して〈戦後〉という所在を否定しようとするのだろうか。もちろん、それは、〈戦争〉によって帰結した〈敗戦国(民)〉という汚名を拭い去りたいからであろうし、廃墟での混乱、悲惨、飢餓といったことから、物質的な豊かさを獲得したことによって脱却したと単純に判断したいからだともいえる。だが、どんなに時間が経過しようとも、戦前の生活より、現在の生活が上位にあると考えようとも、〈戦後〉というものは、わたしたちの精神の内部にあっては、拭いがたく在り続ける〈痛痒なる襞〉のようなものなのだといいたい。
 三十年後であるにもかかわらず、「戦後まもない」頃の風景に置かれた「窓の手」の主人公に、つげは、「私の戦後は まだ/終わっていない/のです」と語らせているわけだが、実は、二重にそのことを告知している構造を、この作品は採っていると、捉えてみたいのだ。つまり、男が、〝窓の手〟になったグロリアに、入れ歯をはめながら、別れの言葉を告げて去っていく。それに対して、〝窓の手〟は、涙を流しながら、手で男が去っていくのを引き止めようとしているかのように、描かれている。入れ歯は、二人のエロス性の象徴であるかもしれないが、もうひとつ別様にもいえる気がする。それは、〈戦後〉の表層的な豊かさを表象しているものとしてあるというように。だから、入れ歯を再び手に入れて去っていく男は、〈戦後〉を終えようとしているのだ。だが、“窓の手”だけは、終わらない〈戦後〉というものを受苦していくことになるのだと、この作品の終景を通して、わたしは、あらためて読み込むことになったといっておきたい。

(『走馬燈 第3号』09.9)

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2009年6月16日 (火)

「無頼(やくざ)」映画・断想―『仁義の墓場』を中心に

 「無頼」というものを、「やくざ」と同義に捉えるのは、いささか強引な視線かもしれない。組織になじまず単独者として行動することを、「無頼」たるゆえんであるとするならば、「やくざ」者は、必ずしも単独者とは限らず、徒党を組んで振舞うといったイメージがあるからだ。
 六〇年代末から七〇年代中期にかけて、主に東映、日活で一連の任侠(やくざ)映画群といわれる作品が作られ、わたし(たち)を熱狂させたものだった。東映に関していえば、映画産業の衰退とともに、時代劇から、股旅映画へと推移し、そして明治・大正期を時代背景とした任侠映画、さらには『仁義なき戦い』シリーズを象徴とした現代やくざ映画(実録やくざ映画)なる括りで作られた作品を量産したのち、『仁義』シリーズの菅原文太を主演にして、東映の寅さんシリーズと揶揄された『トラック野郎』シリーズをもって、いわゆるヤクザ映画と訣別していった。
 やや堅苦しいいい方で述べてみれば、わたしが、一連のやくざ映画群に魅了されたのは、そこに「個」と「共同性」の確執を通した様々な難題(アポリア)を感受できたからであり、当時(もちろん、依然、現在までも)の情況的態様との往還の通路を模索しうる方位と見做しえたからであった。
 実録やくざ映画群のなかでも、一際、異彩を放っていた作品があった。75年に封切られた深作欣二監督、渡哲也主演の『仁義の墓場』(東映―脚本:鴨井達比古・松田寛夫・神波史男、撮影:仲沢半次郎、『映画芸術』誌75年度日本映画ベストテン・第四位、『キネマ旬報』誌同・第八位)である。津島利章の音楽による京琴の音色が、鮮烈な印象を与えながら、物語はひたすら救済のない破滅の先へと向かっていく。
 渡哲也演ずる石川力夫は、戦後の混乱期を疾走した実在の人物である。石川は、直情的で暴力的な若者として描出される。しかし、それは、ある意味、純粋で繊細な資質が反転したかたちで表れたものだ。敵対する組の人間が、自分たちの縄張りで大きな態度をしているのに我慢がならず、抗争に発展することも顧みず、その場で、暴力的な制裁を加え瀕死の重傷を負わせる。自分の組長(河田組組長・ハナ肇)や幹部(室田日出男)から、直情的な行動を叱責されてしまう石川は、組のことを思ってやったにもかかわらず、なぜ叱責されてしまうのか理解できないのだ。
 本来、やくざ組織という共同体は、組長という絶対的存在によって共同体の成員(組員)を完全統治下に配置させているものだ。天皇制の本源をどう解するかによって、対照化の構造は差異を含むことになるのだが、わたしは、天皇制とどこかで通底する位相をそれは内包していると考えている。ただし、絶対的な強固な支配円環構造を指示してのことではない(天皇制は、ひとつの社会構造だけに収斂させて存立しているわけではない。下部構造が非資本主義制を採っていても、それは成立すると思えるからだ)。それはつまり、垂直的な共同体は、いつでも横からの共同体の侵入によって、内的変換(転換)が可能となっていくことを意味している。映画で描出されるやくざ組織は、そのような内実を孕んでいる。だから、敵対も親交(親近)も、表裏性にあって、ぎりぎりの共同体的せめぎ合い(これは、いうなれば政治性の発露といっていいかもしれない)が、必要となってくる。
 石川にとって自分が属する共同体は、自己を充足させてくれる唯一のものとしてあるのだ。だから、そこでは、敵対する組も親交(親近)ある組も自分にとって異和なもの以外、なにものではないという反政治・非政治的な思い(情緒的、情念的な思いといい換えてもいい)が強く働くことになる。河田組組長の兄貴分にあたる野津組組長(安藤昇)に対する反意も同様である。腹いせに野津の車に放火したことを、河田に厳しく断罪され、石川は逆上して河田を刺してしまう。これは、後に、少年院で知り合い兄弟分として契りを交わした今井(梅宮辰夫)を殺してしまうことと同じ衝動によるものだ。親近性は、いつでも憎悪に転化しうることは、関係性が濃密になればなるほど、生起することである。家族間での生々しい事件が、頻出する現在、人間の精神の底部を問題視していくこともひとつの方途かもしれないが、わたしは、共同性の基層にある発露していくしかない感性の必然性のようなものを思わないではいられない。
 ありうべき共同性を希求していけば、いくほどに共同性との軋轢を発生していくアンビバレンスな様態を示す石川力夫の生き方と死に方は、「個」を「共同性」と同位させようとするイノセント性を表出しているといってもいい。
そのような象徴が、情婦・地恵子(多岐川裕美)との関係性であり、今井との齟齬を生んでしまう関係の有様だといえる。自分の親分を刺すというやくざ社会における絶対的な禁忌に抵触したことによって一年八ヶ月の懲役で出所後、十年間の関東所払いの処分を受けた石川を、様々に手を差し伸べてなければいけなかったはずの今井は、一家(組)を構えたことによってやくざ共同体社会に包括された一組長といった存在に転換していき、石川を大阪へ放置したまま、石川との距離を置くようになっていた。そのことを敏感に察知する石川が、自分の側へと引き寄せたいという感情の発露として今井と対峙してしまうのは、忌避できないものとしてあったといえる。
 今井を殺した後(二度も襲撃して止めを刺すという執拗さであった)、地恵子の身を粉にした犠牲によって、仮釈放となって戻ってきた石川は、さらに惨憺たる様態になっていた。
 地恵子との関係は、ほとんど言葉らしい言葉を交わすことなく、黙契と沈思する有様を示している。「個」と「共同性」のなかで、もがき苦しむ石川にあって、地恵子との有様だけが、心意的充足を得るものであった。
所払いで大阪に暮らしていた時に、知ったヘロインをうっている石川の傍らで地恵子が見詰めながら臥せっている。恍惚とした石川の表情のアップ、そして、窓外には赤い風船のショット。地恵子はそんな石川の姿を、寂びしけに見据えながら、やがて吐血する。朦朧とした状態で、血を拭ってやる石川に対して、「ありがとう」と言って泣き崩れる地恵子。画面はその後、手首を切って自死する地恵子を俯瞰で映し出す。ナレーションは、地恵子の自死の一週間前、石川の籍に入ったことを告げる。
 二人の関係を、ほとんど詳細に描写しているわけではないにもかかわらず、深作にしてはめずらしいほど、情緒的映像を二人の場所に対して採っているから、荒んだ破壊的な生き様が、奇妙に無垢で繊細なものとして映ってくる。地恵子と今井と自分の三人の墓石を作る費用を捻出するために、河田のもとを訪れ、骨壷から地恵子の骨を取り出して齧りながら、ただ、河田の前で黙している石川の像は鬼気迫るものがある。
 墓石には、“仁義”の文字を刻んだ。
 今井殺しの残りの刑期(懲役十年の判決に対する上告が棄却されたため)で再び収監された石川は、地恵子の死から三年後の同じ日に、刑務所の屋上から飛び降りて二十九年の生涯を閉じる。独房に、遺書にあたる文字が刻まれていた。

 大笑い 三十年の 馬鹿騒ぎ

 遺句といえば、そういえるかもしれない。五七五にしっかりと収まっているそれらの言葉を発したのが、狂気、凶暴な無頼者であることは、自虐的な悲しみを醸し出しているといってもよい。わたしは、当時、リアルタイムでこの作品を見たとき、石川の遺句にどうしても共感を抱くことができなかった。俳句という形式に妙な異和感があったからかもしれない。いくらか親しんでいた短歌ならよかったのだろうか。しかし、映画『駅』(81年、東宝、監督・降旗康男)で根津甚八演ずる殺人犯が、死刑執行時前にしたためた、恩義になった刑事役の高倉健へ宛てた手紙のなかで短歌が書きしるされていて、それをナレーションとなって詠み上げられた時、わたしは、気恥ずかしさしか沸いてこなかった。倉本聡の脚本の限界性を示す一例だと、今ならいえそうな気がするが、それならば短詩型は、映像的ではないのだろうか。
 だが、いまあらためて、『仁義の墓場』を見直して、余韻を持って、「大笑い 三十年の 馬鹿騒ぎ」を諳んじてみるならば、不思議なことに、いいようのない切実な気分が湧き上がってくることに気づいてしまうのだ。つまり、“三十年”を“五十年”とか“六十年”に置き換えてみると、実感して、時の重層性が了解されていくことになるからだ。それゆえ、石川力夫像は、当時、感じた以上に、そのイノセントさに、率直に共感する自分を確認していくことになってしまう。無垢と狂気・凶暴はいつでも、表裏にあることを、わたし(たち)は、いま一度、実感すべきことのように思える。
 この作品は、渡哲也、久しぶりの映画出演であり、東映初出演・主演映画でもあった。六十年代後半、日活でこの作品と同じ藤田五郎原作による『無頼』シリーズがあった渡は、さらに遡っていえば、傑作『東京流れ者』(66年、日活、監督・鈴木清順)という作品も持っている。しかし、この作品で、三十代に入った渡哲也は重厚で存在感溢れる見事な演技をしたといえる。『仁義の墓場』は、翌年に封切られた『やくざの墓場 くちなしの花』(監督・深作欣二)とともに、渡哲也の代表作となった。
 本来、「無頼」映画とか「やくざ」映画、あるいは「股旅」映画といったものが、屹立してあるわけではない。「無頼」映画と括られるすべての作品が、「無頼」の深層を切開して、鮮烈な劇性を提示していたわけではないし、「やくざ」映画といわれる作品ならすべてわたしたちが感応していたのかといえば、そうではない。結局は、一つ一つの作品を前にして、共感を得ることができるのかどうかだけが、わたし(たち)には、切実だったのだ。

(『塵風』創刊号・09.6)

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2009年3月15日 (日)

彷徨する思惟

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 「あなたはどんな方ですか、と問われるのはうんざりだと、何度も言っておられますね」と聞き手は、述べる。そして、「それでも敢えてお尋ねします。あなたは歴史家と呼ばれるのをお望みですか」と問い掛けていく。それに対して、歴史家の仕事には関心はあるが、自分がやろうとしていることは、もっと別のことだと応答するのは、ミシェル・フーコーである。聞き手は続けて、哲学者と呼ぶべきでしょうかと、重ねて問うと、自分がやっていることは、いかなる意味でも哲学ではないと答える。たまらず、聞き手は、ではどう呼べばいいのでしょうかと、執拗に問い掛けていく。フーコーは、こう答えていく。

  「わたしはいわば花火師(アルティフィシェ)です。」

 フーコーが発語する思惟の断片は、鮮やかだ。歴史家でも哲学者でもなく、自分は「花火師」であるという時、凡百の、あるいはわたしたちなどが、気取って職人気質を称揚していう場合とは違う断面を切り取って見せている。フーコーが、ここでいう「花火師」というのは、「私のディスクールは一つの武器のようなものなのです。あるいは火薬の詰まった袋のようなもの、火炎瓶のようなものです」という思いを込めた「爆破技師」に近いのだ。夜空に上がる煌びやかな「花火」をイメージしてはいけないのだろうか。もちろん、イメージしてもいいのだが、花火を「打ち上げる」ということは、煌びやかなものとは反転したものを実は内在しているのだということを了解すべきなのだ。つまり、ただひたすら「火薬」を仕掛けるということであり、それは、戦争で武器を発火することと大差はないといえることなのだ。パラドキシカルなアルティフィシェというタームは、フーコーらしい言説の立て方であり、フーコーが「花火師」もしくは、「爆破技師」と自分をなぞらえるとしたならば、それは、既存の言説を無化して、いわば、煽動家として立ち振る舞うことを潔よしとすることであるに違いないと思っている。

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 権力を網の目のように遍在するものとして捉えたのはフーコーだが、わたしは、このことを、権力論を超えた権力論だと思っている。マルクス主義者からアナキストまで、あるいはブルジョワ権力から反権力まで、権力の可否を問う喧しい論議は果てることなく続いてきた。わたしは、どれも駄目、これも駄目と思い続けてきた。一見、解答不能、絶望的認識に近い、フーコーの権力論だが、わたしには、そうは思わない。「『権力は必要なのか、それとも不要なのか』と問うべきではないと思います」とフーコーはいう。「権力は非常に遠いところまで及ぶものであり、きわめて深い場所にまではいりこむものです。権力は毛細血管のようなごく細い管で構成されたきわめて密なネットワークで運ばれるものなので、権力のない場所などあるだろうかと問いたくなるものです」と述べていく時、権力なるものへの透徹した認識をそこにみることができるのだ。なぜなら、フーコーの権力分析は、そこに知への反措定というべきことを意思表示しているからだ。わたしが、フーコーの権力論に論拠を得たいと思うのは、「知」を「権力」と同位相として括って、そこに権力の本源があると見做していることにある。わたしたちは、何かを他者に対して指向しようとする時、例え善意という意識をもってしたとしても、それはいつでも悪意に転位することがあることを知るべきなのだ。他者に何かを強いるということは、無意識下においてもありうることであり、人と人との関係性というものは、対峙した段階においてある種の権力関係が生起することを了解すべきなのである。そして、そのことの了解領域からしか、権力関係を切開し、無化していく方途はないのだという思いを、わたしは抱き続けている。

      ★

 木村カエラの歌『どこ』を聴いた。何か懐かしさを喚起するメロディーに乗って、刺激的な詞(ことば)(作詞・渡邊忍)が響いてきた。「感情」、「恋情」、「実情」、「温情」。これらが、断続的に、いい切りで唄われる。特に、「レンジョウ」と「オンジョウ」には、不思議な響きを湛えていた。いったい、この混沌とした「情」とは何だろうかと聴きながら思った。「感情」と「恋情」は、詞(ことば)としてはそれほど奇異ではない。だが、「実情」と「温情」となれば、幾らか違うイメージが付加されてくる。それは、わたしたちを取り巻く現況において、最も遠い言葉のような気がするのだ。「実情」とはなにか。弁明される現実なのだろうか。あるいは、現在を糊塗するための言い訳なのか。「温情」とはなにか。容赦することの善意か。そんなのは、もうないといい切れない何かを喚起するための方便か。わたしは、カエラの声に聴き入りながら、何処か彷徨する気分でいることに気づいていた。そして、彷徨いながらも思惟の底に貼り付いたカエラが発する言葉を転倒させたらどうなるかと思いついたのだ。「感情」を「情感」に、「恋情」を「情恋」に、「実情」を「情実」に、「温情」を「情温」と反転させた時、奇妙な語感がやってくることに気づき、戸惑ってしまった。そしてやがて、「情恋」と「情温」の狭間に何かが、あるかもしれないと、思い起こしたのは、この思惟の断片を刻む直前のことである。

(『走馬燈 Φ2』09.3)

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2008年10月25日 (土)

作家的膂力への照射――――                齋藤愼爾 著『寂聴伝 良夜玲瓏』(白水社刊・08.7.25)

 希代の伝記作家・瀬戸内寂聴(晴美)の評伝を俳人の齋藤愼爾が著した。わたしは、これまで多くを読んできたわけではないが、評伝、伝記といったものに、あまり好感を持ったことはない。だが、そのなかでも最も印象深く残っているのは、著者も「あとがき」のなかで参考評伝のひとつとして挙げていたエリボンの『ミシェル・フーコー伝』(91年刊)であった。読み進めながら、『フーコー伝』を想起し、たちまち惹きつけられ、いっきに寂聴(晴美)の世界を疾走した。評伝というものは、どうしても私的領域を侵食していくという好奇な視線(エイズ死したフーコー、男性遍歴を過剰に喧伝された晴美というように格好の対象がどちらにも内在している)を持っている。『フーコー伝』はそうではない。フーコーの思想的足跡を丹念に辿った刺激的な評伝だった。同じように、本書もまた、寂聴(晴美)の作品や著作を丹念に読み解き、作品成立史といった観点を基軸に、そこからその作家の履歴を照射するという方法を著者は採っている。そのことは、評伝という枠を超えて、ひとつの作家(思想家)論といった相貌を獲得していくことになるといってもいい。
 また、吉本(隆明)親鸞論を敷衍しているかのような本書の章立てにも、わたしの関心は惹きつけられた。つまり「方位」、「未生」、「出立」、「啓示」といった章とともに、「往相」と「還相」という章が配置されていて、「往相」から最終章「還相」に至る時間性は、晴美から寂聴への転換を指し示していて本書の重要なモチーフを展開している。
 寂聴(晴美)は、本格デヴュー以前の少女小説や童話群を別とすれば、文学上の師でもあった小田仁二郎との関わりをもった私的小説群を出発点とした。作家の初期ということを問題にする時、そのことに多くの視線は注がれるのだが、わたしは、むしろ、初期作品が生み出された場所や原郷(出自)の場所よりも、最初の結婚による北京での体験が、寂聴(晴美)の内的深部に沈潜していたから、後年の作家的膂力が醸成されたはずだと考える。敗戦を契機に、日本に引き揚げてから、夫や子供と離別し、出奔していくことも含め、そこには、「敗戦期」ということが棘のように刺さったままの様態で、生きざるをえなかった宿運をみることができるように思う。
 「国家とか民族といった『神話』に呪縛された戦中派は敗戦の時点で、日本にいながら、一度は国家を外側(世外)から日本を凝視した世代だといえる。晴美がその典型で、(略)国家の無意味性を見つめた目が、国家と対立するのは必然であった。」
 だから、寂聴(晴美)が、「因習の厚い壁に向かって、身を以て孤独な戦いを挑み、純粋な生命の燃焼をとげようとした新しい女性たちの環につらなろうとし」て、他を寄せつけない評伝文学を屹立させることができたのだ。それは、岡本かの子、伊藤野枝、管野須賀子、金子文子、高群逸枝といった「社会の矛盾、理不尽な因習に抗う自由の渇望者たち」の生き方に自らの生と思念を重ね合わせることで、達成できた場所だったともいえる。

(『現代詩手帖』08年11月号)

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2007年4月30日 (月)

『秋山清著作集』をめぐって

 秋山清(1904~88年)は、戦時下に書かれた一連の詩篇「白い花」が、後に、“詩的抵抗の最高の達成”として吉本隆明に評価されたアナキスト詩人である。戦前から、アナキズム運動に深く関わっていて、46年6月、日本アナキスト連盟の結成に尽力し、機関紙『クロハタ』(後に『自由連合』と改題)には、68年末の解散時まで絶え間なく健筆を振った。また、あらたな民主主義文学の創造を旗印に創刊された雑誌『新日本文学』(45年12月)に翌春から参加するも、そこでの党派主義的運営に疑義を呈して、政治と文学の対立をめぐる位相を見事に切開した著書『文学の自己批判』(56年10月刊、秋山清名義としての最初の著書である)は刊行時、多くの共感を得た。46年5月、金子光晴、小野十三郎らとともに同人詩誌『コスモス』を創刊する。創刊同人のうちただ一人秋山だけが、最後まで『コスモス』に関わっていき、終刊号となった通巻101号(89年10月)は、「秋山清追悼特集」であった。これら、アナ連、新日文、コスモスが、秋山のいわば表舞台としての活動の場であったわけだが、もとより、秋山の営為は、その交流の幅とともに、より拡張された方位を獲得していくこととなる。60年安保闘争時、吉本隆明、埴谷雄高らとともに六月行動委員会に参加し、闘う。66年、ベトナム反戦直接行動委員会のメンバーによる軍需工場襲撃事件への支援は特筆すべきことだ。裁判支援のため、戦時下の作品が初めて詩集『白い花』(解説・吉本隆明「抵抗詩」)として編まれて刊行(自身二冊目の詩集にあたる)。ベ反委の衝撃的な行動は、その後の新左翼諸派の反体制運動、全共闘運動へと連繋していくものであった。そして、60年代末から70年代初頭にかけての反権力・反体制の大いなる渦動の中で、秋山清は、より多くの新しい読者を引き寄せていった。著作でいえば、幸徳、大杉以後の退行する戦前のアナキズム運動までも深く射程に入れて論じた『日本の反逆思想』(60年11月刊、68年4月新版刊)であり、大正期の労働運動社やギロチン社に集う人々の思考と方向の確かな反攻と抵抗のモニュメントを活写した『ニヒルとテロル』(68年6月刊)であり、そして漂流する抒情画家の評伝『竹久夢二』(68年8月刊)である。これらは、秋山の思想と表現の基層をなすものであり、さらにいえばわが国における自存する闘いの方途へと敷衍させてくれる重要な著作群だともいえる。だが、長らく、秋山清の著作は詩集を除けば、品切れ絶版状態にあった。
 わたし(たち)は、徐々に内閉しつつある現況に対して、すこしでも、通路を切開していくためにこそ、秋山の著作の数々を提示する必然に思い至ったのである。過去の著作をただ遺産のような想いで刊行するといった考えは、初めからわたし(たち)にはない。未知の読者が手にとって、そこに記されている秋山のセンシブルな言葉、文章が、現在においても際立って切迫してくるはずたという確信をもっていたからこそ、著作集の刊行を企図したのだといってもいい。
 いま、全巻完結して、わたし(たち)は、安逸な想いに浸ってはいない。これから、秋山の仕事を、現在という場所から、あためて評価するという大事な作業が眼前にあるからだ。

(「日本の古本屋メールマガジン・54号」07.4.25)

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2007年3月25日 (日)

若林圭子の〈声〉が聴こえる場所               ― 10周遅れのファンとして

 誰もがそうかもしれないが、わたしは音楽を、ジャンルに関係なく聴いてきたつもりだ。ジャズやクラシック、洋楽、さらにはアイドルものから、演歌までと、とりあえずは、自分なりのこだわりをもって接してきた。もちろん、シャンソンも、断続的にではあったが、それなりに聴いてきた。といっても、積極的に、奥深く聴き入っていこうという姿勢ではなく、なんとなく受身的なものだったような気がする。山口百恵が、ライブを聴いて感動したと知って、銀巴里に金子由香利を聴きに出掛けたり、友人が公演に関わっていたこともあり、バルバラを聴きに行ったり、また、トリュフォーの映画『突然炎のごとく』が好きで、その中のジャンヌ・モローが唄う「つむじ風」が気に入り、わざわざ、その一曲のためにCDを購入したりといった程度のものだった。旧知の人たちが、レオ・フェレの歌を中心に活動しているシャンソン歌手・若林圭子を支持していると知った時、レオ・フェレに関してほとんど理解していなかったこともあり、彼らとシャンソンとの結びつきにやや意外な感じを抱いたものだった(後に、「ミラボー橋」や「パリ野郎」の作者だとすぐに知ったのだが)。それは、たぶん、シャンソンというものに対して、どこか衒いのようなものを、感じていたからかもしれない。
 やがて、知人たちの誘いを受けて、初めて若林圭子の歌に接っすることになる。西荻窪の小さなライブハウスだった。プログラムは、レオ・フェレの歌は半分ほどで、ファドあり、「朝日のあたる家」がありと、わたしにとって思いがけない構成であった。そういえば、バルバラの「ナントの街に雨が降る」もあった。
 若林圭子の〈声〉が発する場所は、これまでのシャンソンに対するわたしのイメージを大きく揺さぶるものであった。たんに、わたしの狭い知見でしかないかもしれないが、〈男‐女〉の出会いや別れ、あるいは人生へ切々たる視線を向けて、哀感を湛えながら、歌い上げ、時には熱唱するというものが、シャンソンというものへのひとつのイメージだったからだ。そういうイメージを払拭するかのように、若林圭子の歌う身体は、まるごと自分自身のいま在ることの思いを訴えかけてくるのだ。〈歌姫〉といういい方があるように、どこか〈女性性〉をひとつの表象にして歌うことが、シャンソンの世界を魅惑的にしているようにも思うのだが、いい意味で、そのことを見事に解体しきっていた。
 わが国のシャンソンが、〈女性性〉をひとつの表象としているということは、幾分、外来思想が、わが国の知識人を主体性なく魅了させてしまっている悪しき現象に通じることでもあるかもしれない。海外では、レェオ・フェレやイブ・モンタン、アズナブール、あるいはアダモ(そういえば、わたしもご多分にもれず、七〇年前後、アダモに魅せられた一人だ)と、男性のシャンソン歌手をすぐに列挙することができるが、わが国の場合は、圧倒的に女性歌手が多いことに気がつく。丸山明宏(現、美輪明宏)や高英男といった男性歌手にしても、どちらかといえば〈女性性〉への傾斜を積極的に押し出して活動していた。いったい、それはどういうことを意味しているのだろうか。わたしは、ここで訳知り顔のようにフェミニズムや性差について語りたいのではない。ドゥルーズ=ガタリの言を借りていうならば、わたしたちの世界は、ほんらいn個の人間がいれば、そこにn個の性があるだけなのだ。男性であるとか、女性であるとか、何々人である前に、わたしたちは一人一人の個体性をもった存在なのだということを、これまで、自分の考えの支柱に置いてきたつもりだ。そういうことを踏まえない限り、どこか視線を誤って、好奇な捉え方をしかねない。
 わが国のシャンソン業界というものを、もちろんわたしは、熟知しているわけではないが、若林圭子が、安逸にいたはずがないと、その歌う姿と歌う曲目の世界を目の当たりにすれば、よく分る。なによりも、若林は、シャンソンが持っている豊饒な詩的世界に感動したからこそ、自由に飛翔するがごとく、様々に表現していこうとしたはずだ。しかし、なにごとも、ひとつのカテゴリーに収斂されていく共同性というものは、集団や組織として拡張していけば、いくほど、閉じられていく必然にある。だから、若林は、シャンソン業界というひとつの閉じられた共同性のなかに、漫然と居続ける歌手では、なかった。レオ・フェレに魅せられ、レオ・フェレの世界を歌うことは、閉じていく共同性を、開いていかざるをえなかったことだといってもいい。もしかしたら、これは、わたしの勝手な類推でしかないが、若林自身のそれまでの生きてきた軌跡とそれは関連付けて、捉えてみてもいいことかもしれないが、それはまたいずれ、機会があればと思っている。
 正直なところ、わたしは、レオ・フェレの歌を中心に活動しているシャンソン歌手・若林圭子というかたちに、それほど拘ってはいない。何しろ、知人たちに教えられて知ったとき、トラック競争に例えるなら、彼らより1周や2周どころではない、遥か10周以上の遅れで、聴いていることに等しいからだ。しかし、負け惜しみではなく、むしろそのことが、よかったと思っているのだ。たぶん、ここ数年といっても、銀座博品館劇場でのリサイタルを始めて四年になるわけだが、若林圭子にとって、いい意味での転回点にさしかかっている時期に知ったからだ。
 往き路と帰り路ということ(往きの視線と帰りの視線といってもいい)をいつもわたしは考えるようにしている。吉本隆明の代表的な著作『最後の親鸞』から得た思考方法であるが、こういうことだ。なにかを極める(なにかを知る、行うといったことへも敷衍してもいい)ということは、ただ、あらゆるものを吸収し、そして鍛錬して、熟達していくだけでは、なかなか難しいことである。つまり、往き路(往きの視線)だけでは、けっして内部にあるものは熟成しないのだ。もう一度、自分の軌跡を往還する、帰り路(帰りの視線)を措定することで、さらなる地平に到達しうる道筋が開かれていくはずだといえる。もう少し、別様にいってみれば、往きの視線だけでは、やがて、閉鎖的になって、閉じていかざるをえなくなってくる(学問の世界に身を置いている人たちを揶揄して、センモンナントカというのが、そういうことだといっていい)。帰りの視線をもつことによって、開かれた可能性を見通すことが、誰にとっても必然的なような気がする。
 自らの創作訳詩で、レオ・フェレの世界を、若林圭子の世界そのものとして構築した、一人のシャンソン歌手が、いま、帰りの視線をもって、また、あらたな壮大な開かれた世界を、わたし(たち)に見せてくれようとしている。わたしは、そう思っている。それは、10周遅れだったからこそ、立ち会えることのできる、わたしにとって僥倖なひと時でもあるといっていい。

(『若林圭子~レオ・フェレを唄う~』・07.3.25)

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2006年12月25日 (月)

「〈像〉としてのフィクション―最近、見た映画作品をめぐって」

 最近、見た映画作品(今年度封切作品に限定)に思いを巡らしてみると奇妙な符合があることに気が付いた。ただの偶然にすぎないが、実在した(あるいはしている)人物をその主人公としていることだ。作品名を列記するればこうなる。
 『バッシング』(監督=小林政広)
 『太陽』(監督=アレクサンドル・ソクーロフ)
 『力道山』(監督=ソン・へソン、註・ただしDVDレンタルで見た)
 『バッシング』は、小泉の「自己責任」発言によってイラク人質事件の被害者から、一転、メディア主導でバッシングの対象となった女性を主人公としている。いまあの時のことをここで詳細には述べないとしても、巧みなメディア操作で延命してきた小泉政権の象徴的な出来事だったことだけは強調しておいてもいいだろう。映画は、故郷で蟄居に似た生活を送るもまたイラクへ旅立っていくというものだ。実在の人物と同じ、北海道をその故郷の地としていて、風景描写が、この作品のモチーフであるかのように繊細に繰り返されていく。その分、いくらか人物の造型に薄さを感じないわけにはいかなかったし、物語の展開は、あたかもそうなるであろうと観客が類推することと見事に符合させるかたちになってしまっている。結婚もし子供もいる主人公の同級生だった女性たちの好奇な視線。恋人だった男性の主人公に向けた悪罵。実の父や後妻との確執。そして一人苛立つ主人公像。どれもこれも、予定調和的に物語は進んでいくといっていい。バッシングの対象がその家族に向けられて、悲惨な事態になることはしばしばある。連合赤軍や反日武装戦線のメンバーの家族に悪辣な攻撃を向け、家族を自死に追いやったということをわたしたちは忘れてはいない。このイラク人質事件の被害者女性の家族はどうだったのかは知るよしもないが、映画では、職も追われ酒びたりになって自死する父として描出される。その後の後妻との奇妙な和解という関係をこそ、この監督はもしかしたら描きたかったのではないかと思われるが、わたしには、なんとも白々しさにしか映らなかった。後妻役の大塚寧々が唯一のメジャー俳優(他に僅かなシーンに香川照之が登場しているくらいだ)であることを割り引いても、どこかぎこちなさを登場人物たちに感じないわけにはいかなかった。わたしは、この作品に厳しい視線を向けすぎているだろうか。もう少し寛容になって言葉をかけるべきだろうか。そうではない、現実的な社会性をもったテーマを作品の骨子にしているから、それを評価すべきだなどという、とうの昔に破綻した社会主義リアリズム的解釈は駄目なのだ。やはり、フィクションとしての映像力、もっと簡潔にいえば映像としての物語力(あるいは劇性)が感じられない作品は、停滞感しか与えないものなのだといいたい。主人公が家族とともに住んでいる団地のような自宅の階段を駆け上がるシーンを執拗に何度も描写したり、コンビニにおでんを買いに行き、偏執的に店員と遣り取りするというシーンをこれまた何度も描き、いったいこれらのシーンの積み重ねに監督はなにを込めようとしているのか、わたしには時間が経ってもついに理解することができなかった。大久保賢一という、わたしがそれなりに評価してきてきたつもりだった映画評論家は、「言葉と身体」の“強いリアル”のあらわれがあり、「現実に拮抗する映画」であると絶賛している。苦笑するしかない。この作品の監督が、もし、現実の人質となった女性を救済しようとしてこの映画を撮ったのだとしたら、それは傲慢さのなにものでもないといっておきたい。現実的な事件、事態からもっと遠くへ離れた場所から、この鬱屈した一人の女性を徹底的に対象化して描くべきだったのだ。たとえ、この女性を主人公として撮るべき社会的モチーフが薄らいでいくことになったとしてもだ。
 『太陽』は、不思議な作品だ。不思議なというのは、捉えどころがないという意味ではない。この作品は、むしろ極めて明快な映画だといってもいい。なにせ、わが国で最も知られている人物(戦前は“神”であった)をそのモデルとしているわけだから。敗色濃い戦時下から、天皇の人間宣言までの時間を、ひたすらヒロヒトに視線を這わせ描ききったものだ。ヒロヒト役のイッセー尾形と、侍従長役の佐野史郎のふたりが、全篇を通じて登場する、ほとんどこれといった劇性(玉音放送も人間宣言も描かれていない)のない不思議な映画ということになる。わたしは、評判のイッセー尾形の「一人芝居」というものを一度も見たことがないし(テレビで放映していた時、断片的には見たことがあるが、熱心に見たいと思う気持ちにはなれなかった)、当人の出演していた映画・テレビドラマに関してもほとんど関心を向けたことがなかった。
 しかし、このヒロヒト役には改めて、感嘆した。『ドルチェ、優しく』で島尾敏雄夫人のミホを映像化の対象としたソクーロフ監督ならではの演出力と尾形の表現性との往還による妙ということになるのだろうか、尾形天皇は、まさしく〈空虚な王〉を見事に演じきっていたといっていい。ロラン・バルトはわが国の首都・東京にある皇居を指して、〈いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である〉と看破したように、また、〈象徴天皇制こそ最高形態である〉といった菅孝行の慧眼に連なるように、わたしは、戦後の象徴天皇制の実態そのものが〈空虚性〉にあるからこそ、〈恐怖の共同性〉を温存できたのだといってみたくなる。「あっ、そう」を連発するヒロヒト・尾形は、終景、人間宣言を担当した録音技師が自死したことに対しても感性を表出することなく立ち去っていく。マッカサーを前にして、ワインを飲みながら、饒舌に英語で会話し、戦争責任を回避するような発言をする場面を史実と違うとくさす保守論客や、その〈空虚性〉を善人性と解釈して、これは昭和天皇救済映画だとヒステリックに叫ぶ左翼気取りの論客も、読み違えしていることを、分かっていないのだ。この『太陽』は、フィクションである。ヒロヒトという〈像〉がどう描出されていようと、それを見るわたしたちは、天皇及び天皇制をどう捉えるのかということを問われているわけではない。だが、しかし、といっておこう。これまで、どういうかたちにしろ冒頭から最後までヒロヒトを実在とする映画・ドラマを誰一人として撮ってこなかった、あるいは撮れなかったことを考えれば、それだけでわたしは、フィクションがもつ力は、現実を超えうるものだといま思っている。
 映画『力道山』は、韓日合作映画ではあるが、ほぼ韓国映画だと見做してもいい。ここ数年、活気ある韓国映画(誤解のないようにいっておけば、軟弱な悲恋ドラマ的作品は念頭にない)は、わが国、戦後最大のスポーツ・ヒーローをディスコントラクションしてしまった。朝鮮半島から強制連行された悲運のヒーローでもないし、半島の血を滾らせる悲痛な実在として描くわけでもなく、ただやるせない、凶暴性のまま生きて死んでいった哀しみに満ちたアイロニカルなヒーロー像として描出している。ひたすら朝鮮人であることを隠し、大相撲の横綱・大関を邁進していくために必要なタニマチ・スポンサー(藤竜也)を前にして、軍歌を歌って興を買おうとする場面は、まぎれもなく哀しみややるせなさに満ちている。プロレスに転向してからも、強さだけを前面にだし、さらにそのことを背景に拡大化ビジネス路線を直走る。実際に何人かいた、妻や愛人、あるいは子供たちはまったく描かれておらず、元はタニマチの愛人だった芸者の綾(中谷美紀)が糟糠の妻のごとく最後まで力道山(ソル・ギョング)のそば近くにい続けているだけで、孤独性だけが際立っている。ここでは、フィクションと事実の差異をあげつらっても意味はない。事実は、表層的なものでしかないからだ。例え巷間伝えられる「神話性」が強烈であったとしても、それは映画というフィクションとなんの関連性もないといっていいのだ。
 以前の韓国映画であれば、半島の悲痛な歴史性を通した反日性を露出させ悲運のヒーロー像として力道山を描いたに違いない。しかし、この作品はヒーローであることの〈像〉を徹底的に解体して、ひとりの孤独な凶暴な〈像〉にしているのだ。このことは韓国映画の成熟度を示すものだといえる。たぶん、いまだに、力道山は日本人だと思っている人々は大勢いると思う。その人たちがこの映画を見れば、ある種の驚愕を覚えるかもしれないが、わたしたちのように既に周知のことであれば、むしろこの作品が、ショービジネスと幻想の純粋スポーツ性とのぎりぎりの境界線にいてせめぎあいながらも生き抜いた力道山という類い稀な存在としての〈像〉を描出していることにおいて、作品的に傑出していることが理解できるはずだ。歴史性やリアルであることの幻想性はこうして相対化され、超えられていくことになるのだ。

(『月と犬』復刊1号・07.1)

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2006年10月18日 (水)

高橋哲哉 斎藤貴男 編・著 『憲法が変わっても戦争にならないと思っている人のための本』(日本評論社刊・06.7.15)

 わが国の首相が、堂々と憲法改正を具体的に提唱するという時代に入ってきた。五、六年前までは考えられない箍が緩んだ情況になったともいえる。日米安保体制下にあっても憲法九条が、それなりに“足枷”になっていて准軍隊の自衛隊ですら海外派兵はありえなかった。だがポスト冷戦構造が、アメリカ一国支配のグローバリゼーションの拡張によりいま、偏狭的な戦争状態を喚起させながら、国家という幻想体系を変容させている。わたしたちがいま在る社会という位相(生活の実相)はそれ自体としては国家の政治性に直結はしない。個々の市民大衆といった相を確立したものとして見做したうえで、政治的権力を規制する〈法体系〉が機能していればである。語ほんらいの〈民主的〉社会とはそういうものなのだが、政府執権者たちが“小さな政府”といいながら国家の政治的権力を肥大化させて、〈法〉機能を逸脱していけば、社会(生活の実相)は、まるごと国家の配置に呑み込まれ、ついには個々の在るべきかたちを喪失していくことになる。それはあたかも、十五年戦争時のわが国の相貌を敷衍しているかのような情況だといってもいい。
 「憲法とは、国家権力の行きすぎを防ぎ、国民の自由や権利を守る『歯止め』です。いいかえれば、国民が国家権力に向かって『これをしてはダメ』と命令するものなのです。」(豊秀一・本書194P)
 だが大多数の国会議員たちは、憲法は“国のかたち”を表すものだから、現行憲法を見直すべきだと声だかに主張しだし、憲法調査会なるものを超党派で立ち上げ、国民投票法案を実行して改憲を実現しようと目論んでいる。国民から付託を受けたにすぎない国会議員たちは、まるで自分たちが、公権力の施行者であると勘違いして、アナクロ的な物語をわたしたちに押しつけようとしているのだ。
 誰でもが、理解できるように、彼らは六〇年経った憲法は時節にあわなくなってきたから変えるなどと甘言を弄しているが、国家(国体)をめぐって憂えるのが仕事なのだとたんに酔いしれているすぎない(もちろん、そのバックアップには、昔なら日米独占資本となるところ、いまは日米グローバル企業群が控えている)。もしかしたら、“憲法が変わっても戦争にならない”と真剣に(あるいは脳天気に)思っているのかもしれない。
 戦後世代が主流を成してきた国会議員たちは、〈戦争〉というものは、リアルなものではなく、バーチャルなものだと勘違いしているともいえる。だが、しかし、その程度の勘違いで、わたしたちが〈戦争〉的情況の只中へと押し出されるとしたら、徹底的に抵抗し反攻するしかない。
 本書は、憲法改憲の動きが瀰漫しているなか、憲法九条の実際的な膂力を明快に提示していることにおいて、類書のなかでも傑出している。“明快”だといえるのは、九条をめぐる周縁情況を多様な視線から詳細に検証・分析しているからだ。さらにいえば、分かりやすいQ&A形式の応答も含め、力感溢れる論稿・談話が多彩な執筆者によってバランスよく構成されている。憲法の基本概念や、戦争・靖国をめぐっての論証、〈戦争〉的情況を派生させる背景の詳細な経済分析を含めた言及、個人の自由度への侵食情況とナショナルアイデンティティの奇妙な拡散への警告と、網の目のような改憲・愛国的動態を見事に解析している。
 「理想と現実は違う、自衛隊があるんだから憲法を現実に合わせなければ違憲じゃないかと言うけれど、違憲ならば自衛隊をなくす方向に持っていけばいい。現実を変えないで観念を変えようとする、それは本末転倒です。みんな理想のために生きているんだから、それで現実を育めばいい。外交すればいいんですよ。」(井筒和幸・本書32P)
 わたしたちの世代は、終戦直前のポツダム宣言は米ソを中心とした資本主義帝国群と社会主義帝国群が対峙する戦後体制の確立を意味していると捉えてきた。だから、戦後のわが国のいわゆるアメリカ的デモクラシーに支えられたものは、所詮、ポツダム憲法・ポツダム民主主義でしかないといった認識をもっていた。そのこと自体、ポスト冷戦構造の現在においても、それほど修正を加える必要はないと思っている。憲法第一条の天皇制護持の条文が非戦を提唱する九条と、実質的にどう折り合いをつけるのかという問題は依然避けて通ることはできないものとして残っている。だが、〈法的〉条文だからこれを堅持するというのではなく、〈法的〉条文という位相を超えて、九条の〈理念〉は、いまこそ評価・支持し続けていくべきことのように思う。「理想」というものは、井筒がいうように、現実への指針となるべきものである。
 民族対立や宗教対立は長い憎悪の哲学の時間性を抱えもってしまったことによる表出だ(もちろん、その背後では、大国の小国への植民地支配や軍事介入がある)。だからといって“やつは敵である。敵を殺せ”という戦争とテロの論理が、正義となることをわたしたちは拒絶しなければならない。九条に込められた〈理念〉には、わたしたちをめぐるすべての関係性のなかに理想の共同性を求めていくことが潜在しているからだ。

(『季刊 軍縮地球市民』6号・06.10.1)

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2006年7月29日 (土)

「つげ義春的風景」

 かつては、温泉地を中心にかなりよく出かけていたものだったが、近頃は、旅行に出かけることが極端に少なくなってしまった。もともと賑やかな所よりは、関心のある社寺や宿場跡といった静かな場所を好んでいたし、仕事(二年前まで小さな書店を営んでいた)の関係で、長い休みが取れないため、北関東や信州、伊豆といった比較的近い場所を選ぶしかなく、だんだん行ける場所が限られてきたからだと思う。また、年齢を重ねるとともに、そういった関心が拡散してきたということもあるかもしれない。いまはむしろ、近辺を“散歩”するということで、旅に代わる未知の発見に出会う体験をしている。もともと、旅行では、目的地を観光するということよりは、“周辺”を散策して、新たな発見を期待するということの方が多かった。遠く、未知の場所に辿り着きながらも、なぜか、なんでもない家並み、路地、食堂、雑貨屋など、観光場所とは違うその町の日常的な暮らし場所とその土地の人たちとのわずかばかりの接近を通して、穏やかな気分とともに、落ち着いた気持ちになり、それで旅の目的が達せられたように思ったものだった。
 後になって、わたしは、このような気分にさせてくれた“風景”を、いつのまにか、「つげ義春的風景」と呼んでいた。漫画家・つげ義春には、いわゆる旅作品といわれる系列のものが多くある。そこで描かれている場所は、山奥の温泉場であったり、湯治場であったり、いわゆる鄙の場所がほとんどだ。それでも、登場する人物たちのユーモラスな振るまいは、なにか心豊かな生活力をもっているように感じさせてくれて、わたしを心地よい気分にさせてくれる。だから、旅先で出会う安穏な場所はいつも、つげ作品に出てくる場所のように思えてならないのだ。
 二十年以上前、信州・別所温泉に行った時のことだが、北向観音を見た後、遅めの昼食をとろうと、向かい側の階段を降りていった。途中に、不思議な佇まいの食堂があったので、入ることにした。客はもとより誰もいない。何度か呼んで、ようやく昼寝をしていたらしい年配の男性が出て来て、注文を受けてくれた。肉うどんをすすりながら、ビールを飲んでいたら、孫のような女の子が一人、楽しそうに座敷を駆けずり回って遊んでいた。他人の家に上がりこんでしまった招かざる客のような気分になったのだが、それでもなぜか、ほのぼのとした感じを抱いたことを、忘れられない思い出として、今も残っている。

(『Tsuchiつち』06・8月号)

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2006年7月28日 (金)

「つげ義春の初期(2)」

 「短編集」に続いて、「初期傑作長編集」が現在、講談社から刊行中だ。最新刊の第三巻にふれてみたい。忍者漫画を中心に編まれたこの作品集は、白土三平の絵柄に近似しているものの(『忍者武芸帳』の評判にあやかって、貸本漫画の版元が依頼する以上、白土的にならざるをえないと思われる)、やはりつげ義春ならではの作品群だ。「忍びの城」の影武者の悲痛な結末。「流刑人別帳」の救済のない物語。「上忍下忍」の功名の先の奈落。しかし、三作品に共通していえることがある。それはどれも復讐譚であるということだ。「忍び」と「流刑」では、一応それが果たされたというかたちをとっているが、「上忍」では未遂というかたちで終わっている。つげが、時代物(忍者物)にありがちな、復讐譚を物語としたことを、わたしはやや意外な感じで、読後、受けとめたといっていい。だが、ここからはわたしのやや強引な論述になるかもしれない。わたしたちにとって、ありがちな復讐譚を、つげ作品の物語展開では、巧みに挿入されることによって、ある種の衝撃性をもたらすのだ。語りつくされた類似性から脱却して、そこには、忌避できない〈事実〉性といったものを表出させている。忍者が表の顔と裏の顔をもつというモチーフをつげ作品にあっては、言いようのない〈悲痛さ〉をもたらす結果として描写しているのが、つげ忍者漫画の特色だといっていい。

「新都市新聞社(清水昶の新俳句航海日誌)・掲示板」04.1.29掲載

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2006年7月27日 (木)

「つげ義春の初期(1)」

 講談社から『つげ義春初期傑作短編集』(全四巻)が刊行された。なぜか、池上遼一(通交にまつわる文章だ)を別にすれば他の解説文、そして一、二面を割いて特集をしていた「週刊読書人」の文章も、〈初期〉の作品に戸惑っている、あるいは自分たちが認知しているつげ作品とは、別物だといった感想で占められているといってもいい。十七歳の時に、メッキ工という過酷な仕事からの離脱を夢想して4コマ、一コマ漫画の投稿から始まったつげ漫画の軌跡を、丸みを帯びた描線と類似した画風があるからといって〈初期〉を軽視していいとは、わたしは思わない。もちろん、筑摩書房版全集、刊行の際、初期の貸本漫画作品の多くを収録しなかった理由として、つげは「稚拙で未熟な過去を晒すのは気がすすまぬ」とし「粗末な作であるのは生活苦による乱作のためばかりではなく、マンガ全般のレベルが低かった時代」だったからと述べている。では、なぜ今、全四巻で刊行することになったのかと、非難の声が聞こえてきそうだ。しかし、少部数(千部ほど)とはいえ、すでに、69年に一度、77年から81年までは全10巻、初期作品集が出ているから(それ以外に、復刻版も出ている)、全集刊行時のつげ発言は、彼独特の一種、衒いをもったものだと理解すべきだとわたしは思う。
 わたしは、今、改めて、〈初期〉ということを考えてみたくなった。もちろん、つげ義春という作家の〈初期〉というだけではなく、表現者にとっての〈初期〉という問題をである。

● 『つげ義春初期傑作短編集』の第三巻に収載されている文章の一部分を引いてみる(わたしは、初出時に読んでいる)。「赤塚不二夫、長谷邦夫に会ったのも三十年(註=昭和、つげ、十八歳の時)だったように記憶している。赤塚は小松川の化学工場に住込みで働いていた。彼に近づいたのは、近くにマンガ仲間がいなくてさみしかったせいであった。(略)そこへ長谷が現れ紹介された。ぼくは、彼ら(註=石森章太郎もいれた三人を指す)を若木書房に紹介する話をもちだすと、低俗な貸本マンガを軽視しているかのふうで、彼らはのってこなかった。」(「デビューの頃」)
● 久しぶりに、現代詩文庫『清水昶詩集』を取り出して見ていたら、後半の文章群のなかに次のような箇所があった。「先日、つげ義春の漫画集を読んで感慨深かった。奥深い村落の人たちの考えかたや風景が実に素朴なリアリティを持って表現されていて、わたしの少年体験を非常になつかしく呼び醒ましてくれた。」(70年5月)

「新都市新聞社(清水昶の新俳句航海日誌)・掲示板」03.8.28掲載

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2006年6月23日 (金)

「抒情の詩―清水径子讃」

 わたしは、かつて、四季派の詩人たちのような自然や草花をモチーフとした作品は苦手であった。なにか、生きていることから遠くへ離反していくかのような立ち位置に思えてならなかったからだが、そのことは、わたしの皮相な感受の仕方と捉え方に過ぎなかったと気づきはじめた時、早世した四季派の詩人たちと近い年齢に、わたしはなっていた。自然や自然の景物へ視線をめぐらせることは、実際に、“生きて在る”ことへの反照でなければならないと思い始めたのは、一人の詩人の詩篇に出会ったからであり、さらにそのことに、強く確信した思いを抱くことになったのは、清水径子の俳句作品に接してからである。
 「白い花」という一篇の詩がある。アナキスト詩人・秋山清が十五年戦争時に書いた詩である。後年、吉本隆明が、「日本の詩的抵抗の最高の達成」と評している詩だ。北寒のアッツ島に咲くヒメエゾコザクラという白い花を通して戦争というものへ抵抗の想いをそそぐ、静謐な詩篇である。声だかに反戦を主張することができない時代に、唯一の詩法として草花に託し、秋山はこの一篇を書いたといってもいい。もちろん、秋山にとって草花はなによりも愛しい存在であったからこそできたことだったのだ。
 そして、清水径子という詩人は、自然や草花に自分の“生きて在る”ことのすべてを込め、それを俳句形式に託して、「表現」してきた人だと、わたしは思っている。自然の景物を前にして、ただ立ち尽くすのではなく、それを自分の側に引き寄せ、自らの感応を通してまた、あちら側へ返すという膂力の様を、径子俳句は見せてくれているのだとわたしは思う。その時、自然や草花が生きている証しとなって屹立していくのだ。

 慟哭のすべてを螢草といふ(『夢殻』)
 転生の直後水色野菊かな(『雨の樹』)

 「慟哭」や「転生」という詩語を、わたしは衝撃をもって受けとめたことを、忘れることができない。それが、「螢草」や「野菊」という草花と連結されることで、硬質な抒情性を詠むものに感知させる。俳句がこんなにも、強い抒情を湛えることを、わたしは知らなかった。

 知つてしまふ事の淋しさ花野とは(『雨の樹』以後)

 老いや死は、誰にでも訪れることだ。しかし、実際にそのことを身を持って思い知る時、人はどのようにそれを感受していくことになるのだろうか。俳句という詩型への渇望をたえず持ち続けていた清水径子にあって、“淋しさ”とは、すべてへの鎮魂の思いを込めたものであると、わたしなら捉えてみたい気がする。

(『らん』32号・06.2.21)

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