2016年8月20日 (土)

夢幻なる場所―水木しげる作品私論

 水木しげるの作品との、最初の出会いが、『ガロ』誌だったのか、少年誌だったのかは、よく覚えていない。貸本誌での作品は、見ていたかもしれないが、作者名を記憶することはなかったから、断定はできない。白土三平やつげ義春の作品との出会いは、明快に覚えているのに、水木作品との邂逅が、判然としないのは、たぶん、『悪魔くん』などのテレビドラマ化された作品との契機があったからだといえるかもしれない。
 水木作品との出会いが判然としないことに落胆はしない。手塚作品に、共感することなく少年期を過ごしていたわたしが、どういうかたちであれ、手塚的画風とは無縁の水木作品を親近なものとして感受したのは、必然的なことだったと、いま、思っている。ただし、これまで、水木作品を系統だって読んだり考えたりしたことがなかったことに、不思議な感慨を抱いている。だからといって、けっして、作品性を疎かに見てきたわけではない。NHKテレビの朝ドラと大河ドラマを熱心に観てきたわけではないが、『ゲゲゲの女房』(2010年放送・脚本、山本むつみ・演出、渡邊良雄他)は、ほとんど、欠かさず毎日観ていたから、わたしのなかで、水木しげるという表現者は、大きな存在としてあったということになるはずだ(詳細は、省くが、生前、一度だけ、たまたま、電話で応答したことがある。いまから、四十年以上前のことである。だから、面前で、会話したことは、まったくない)。
 同じ作品名でも様々なヴァリエーションがあるから、研究者のような視点で論述することはできないのだが、膨大な水木作品のなかから、愛読者の一人として共感を抱いてきた作品を挙げるとすれば、『悪魔くん』と『鬼太郎』のシリーズということになる。他に『河童の三平』や、『ガロ』誌掲載作品を中心に、幾つか作品を挙げることは可能であるが、ささやかな追悼の想いを込めての作品論としては、『悪魔くん』(東考社版)と、『悪魔くん千年王国』、『鬼太郎夜話』(『ガロ』連載版)、そして初期作品の『怪奇猫娘』をめぐってのものとしたい。
 『悪魔くん』(復刻版は、全一巻で73年、北冬書房より刊行)が、東考社から貸本マンガとして刊行されたのは、63~64年にかけてであり、当初の予定では全五巻であったが、売れ行きが悪く全三巻で完結となったようだ。白土三平の『忍者武芸帳 影丸伝』を意識して構想されたという説もあるようだが、わたしは、その説を留保する。水木作品で最もわたしを刺激してやまないのは、悪魔くんや鬼太郎、ねずみ男に象徴される、登場人物(妖怪たちを人物として括るのは無理があるかもしれないが)たちの異貌なる像型である。しかも、異貌、異様であるにもかかわらず、どこかユーモラスな雰囲気を滲み出しているから、作品世界へなんの抵抗もなく誘われていったともいえる。
 『悪魔くん千年王国』は、東考社版『悪魔くん』を改稿して、70年3月から10月まで「週刊少年ジャンプ」に連載したものだ。六十年代後半に生起した苛烈な反抗・対抗的渦動は、70年になってからも、依然、列島を横断していた。表題を、『悪魔くん』から『悪魔くん千年王国』としたのは、ある意味、理想社会を希求していたといっていい70前後の渦動を意識したと思える。
 「ぼくの力で/この世界に/戦争も貧乏も/たいくつも/ない/千年/王国を/つくる/ために…」「人類の/だれもが ねがい/だれもが/はたしえな/かった/万人が/しあわせに/なれる/王国を/いま つくるときが/きたのだ」「きたるべき時代に 神童があらわれ 悪魔を呼びだし その力で世界国家をつくる!/そして 世界の善意をもった賢者たちが 人類のしあわせのために団結し 万人が兄弟となる王国があらわれる…『現世は夢となり 夢は現世となる』といった!」(ちくま文庫版『悪魔くん千年王国』88年刊)
 「千年王国」というものが、アジア的な理想社会(夢幻なる場所とでもいうべき「社稷」や「桃源郷」という考え方もある)をイメージされたものだとするならば、西欧的なイメージとしては、「ユートピア」に敷衍することができる。
 いずれにしても、未知の未来へ希望を託す感性というものを、わたしは、皮相なことだと安易に断ずるつもりはない。だが、例えば、「国境も/考えて/みりゃあ/人間にとって/公害の/ひとつかも/しれない」「これから/世界を/あいてに/戦わなければ/ならない」という悪魔くんの言葉を引き継ぐかたちで、物語の最後で蛙男に次のように語らせていくことに対し、逡巡する思いを抑えることができない。
 「むかしから/心ある人びとは/病気の/人や 老人や/さまざまな/不幸な人びとも/おなじように/生活できる世界を/つくろうと/した……」「世界が/ひとつになり/貧乏人や/不幸のない/世界を/つくる/ことは……/おそかれ/はやかれ/だれかが/手をつけ/なければ/ならない/人類の/宿題では/ないのか/………」「不浄にみちた/悪魔の支配する/世界を/フンサイ/するために/戦うのだ」(『同前』)
 逡巡する思いとは、いうなれば、気恥ずかしさのような感覚ともいえる。七十年前後の渦動のなかから発語された幾つかのスローガンに、「世界一国同時革命」や「世界革命戦争」というものがあった。当時、幾らかでも、それらに刺激された自分を思い起こすとき、太宰治が、『冬の花火』(46年作)という戯曲作品で、数枝という人物に「ねえ、アナーキーってどんな事なの? あたしは、それは、支那の桃源境みたいなものを作ってみる事じゃないかと思うの」と語らせながら、やがて、「桃源境、ユートピア、お百姓、(略)ばかばかしい。みんな、ばかばかしい。これが日本の現実なのだわ。(略)さあ、日本の指導者たち、あたしたちを救ってください。出来ますか、出来ますか。(略)落ちるところまで、落ちて行くんだ。理想もへちまもあるもんか。(略)あたしのあこがれの桃源境も、いじらしいような決心も、みんなばかばかしい冬の花火だ」と吐露させていく心情にも共感する自分がいたからだ。「万人がしあわせになれる王国」「万人が兄弟となる王国」というとき、「万人」と括られるものは、いったいどのような存在なのか、なぜ、「王国」なのかという疑念を、わたしのなかで払拭できずにいる。多様であるべき人びとをすべて「万人」とすることによって世界を「ひとつに」してしまうのは、理想とは逆行していく道筋なのではないのかというのが、さしあたって、「千年王国」に対する、わたしなりの感慨である。
 だが、白土三平の描く影丸も、太宰が、敗戦後のやるせない心情を託した数枝も、そして、わが悪魔くんも、理想社会に想いをよせながら、なぜか孤立感のようなものを胚胎していたからこそ、わたしは、惹きつけられるのだと思う。

 「現世は夢となり 夢は現世となる」という、いわば、夢でもあり、現世でもある場所は、鬼太郎が「生」から「死」、「死」から「生」へと往還する場所に通底いくといえるはずだ。
 「鬼太郎」シリーズに先行する作品に「墓場鬼太郎の誕生」(貸本版、『ガロ』改稿作掲載)がある。
 その誕生譚のなかで、鬼太郎の育て親になる水木という男に、鬼太郎の父親が語る「幽霊族」をめぐる物語は、鮮烈だ。
 「幽霊とい/われ きらわ/れてきた/われわれ/あわれな種族/について/同情と理解/をしていた/だきたい/のです/われわれは/大昔/………/人間のいない時代/から この地球/に住んでいた/のです/人類という/わるがしこい者/が出現するまでは/とてものんびりした/くらしでした………/われわれの生活が/絶頂になったころ/でしょうか『人/間』という/われわれに似た/ものがどこか/らともなく/あらわれて/まるで/ネズミのように/地球に/ひろがって/いったのです/争いごとを/好まず/おとなしい/われわれ幽霊族/はだんだん/人間にあっ/ぱくされ/やがて穴のなかにすむよう/になりました/(略)/ときたま寝/しずまった/夜 人間界/にでてたべ/物をあさ/ったもの/です/昔の人は/びっくりし/て幽霊だ/とおそれた/のです」(貸本版「墓場鬼太郎の誕生」―『ゲゲゲの鬼太郎 誕生編』・講談社コミックス、96年11月刊)
 この物語は、「幽霊」という「種族」、つまり「幽霊族」というものを措定することによって、人間界を相対化していくことを胚胎させている。それは、「幽霊」と「人間」のどちらが、「現世」の存在なのか、「夢」の存在なのかということをグレーゾーンのなかに置換していくことに他ならない。生者であった人間が、「死」を迎えることによって、幽霊(死者)となって現われるという時間性を、鬼太郎の父親の語りによって、転倒させながら、「おとなし」く、「のんびりしたくらし」をしていた「幽霊族」が、「人類というわるがしこい者」たちによって制圧された時間性を強いられてきたことを露わにしていく。この鬼太郎誕生譚は、水木しげるの死生観を、実に、色濃く投影させていると、わたしは見做してみたい。つまり、「生」と「死」は絶えず裏腹なものであるという、深い思考の源泉を湛えているということになる。もう少し、敷衍していうならば、人類以前の幽霊族の出自を、人という種以外の生命あるもの、つまり、すべての動物、生物、植物に暗喩化していると捉えることを可能にしている。
 だが、ここで誤解してならないのは、鬼太郎的世界を安直に、反文明主義や自然主義に連結してはいけないということだ。虚構性を顕在させながらも、奇妙なリアリズム的世界を放出させているのが、『鬼太郎』シリーズの世界だからだ。そして、奇妙なリアリズム的世界を最も象徴的に表出させているのが、「ねずみ男」だといっていいはずだ。ところで「墓場鬼太郎の誕生」は、貸本版と『ガロ』誌再掲載版で、大きく違うのは後段の描き方である。貸本版では目玉親父の誕生と水木が鬼太郎を育てていく決心をした後に、補篇のようなかたちで、「チャンチャンコ」と「ねずみ男」のエピソードが描かれている。
 鬼太郎がねずみ男を指して、「お父さん/この男 人を/ケイベツした/ような笑/い方を/しま/すヨ」「虫のすかな/い男だナ」「お父さん/この男/はりたお/していい」というのに対して、ねずみ男は、「ケイベツ/?」「ボクはただ/サンビした/だけだ」と応答して、次のように述べていく。
「俺をだれだ/と思ってる/んだ」「オシャカさま/より偉い/んだ」「学の/ほうだって/この/ヒゲの/ように偉い」「ただひたすらに/怪奇なものを/もとめて/いきて/きた/怪奇/文化の/真の功労者/なのだ」
 ねずみ男の大言壮語に目玉の親父は、圧倒されて、「せがれの/鬼太郎を/怪奇界の/名士にし/たてようと/おいでなさっ/たんですね」とすっかり信用してしまう場面で、貸本版「墓場鬼太郎の誕生」を閉じている。

 69年6月に、わたしは、吉本隆明の講演を直接、聞いている。講演のなかで、突然、「ゲゲゲの鬼太郎」と「ねずみ男」という名前が出てきて、驚いてしまったことを、いまだに忘れることができない。
 「太宰治の『右大臣実朝』における実朝と公暁は、水木しげるの漫画でいえば、『ゲゲゲの鬼太郎』と『ねずみ男』というような感じなんです。『ゲゲゲの鬼太郎』という作品のおもしろさの半分は、『ねずみ男』の存在に依存しています。実朝が『ゲゲゲの鬼太郎』で、公暁は『ねずみ男』というふうになります。ぼくはいまでもあざやかに思いうかべるんですが、公暁が由比ヶ浜の海辺で、朽ち果てた船に寄ってくるカニをつかまえて、それをピシャッと叩きつけて、ムシャムシャたべる印象的な描写があります。公暁はどうも『ねずみ男』的に描かれているとおもいます。」(講演「実朝論」―『展望』69年9月号、掲載)
 周知のように、戦時下に書下ろしで出版された太宰の『右大臣実朝』(1943年9月、錦城出版社刊)は、実朝の側で使えていた近習が、実朝の死後、二十年経って、振り返りながら語っていくかたちを採った作品である。合間に、実朝が語る言葉を片仮名書きにして入れ、『吾妻鏡』の原文を適時、入れていく構成となっている。「平家ハ、アカルイ。」、「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」という、作中、実朝に語らせた言葉は、あまりにも鮮烈な印象を残し続けているといっていい。吉本が指摘する、カニを食べる場面は、異様さを湛えていながらも、どこか可笑しみがあって、確かに太宰が描く公暁が、「ねずみ男」だといえないこともない。そもそも、実朝を暗殺した公暁像には、絶えず不分明さが付き纏っているから、「ねずみ男」と形容することによって、見えてくる様相というものがあるだろうし、「ねずみ男」の捉まえどころのなさを、太宰的公暁へと類推していく時に、なにか、像というものが明示されてくる気がする。
 『鬼太郎夜話』では、ねずみ男が、その本領を発揮して、鬼太郎親子が絶えず翻弄される様相を描かれていく。
 わたしは、水木と鬼太郎親子が二階の部屋を借りて住んでいる、東京・谷中初音町の天保時代から続くという、三味線作りの店「ねこや」の描写に惹かれる。そこでは、次のような言葉が付されていく。
「おばあさんと孫が/むかし おじいさんが/三味線を作った/残りかすの ねこの頭などを/売っていたが/いまどき こんなものを/買う人もいない/そこで 二階を人に貸したのだ」
鬼太郎は、「ねこや」の孫娘・寝子と一緒に小学校に通うことになる。昼食時、鬼太郎持参の弁当に入っている“どぶねずみ”に寝子が感応し、“猫”に変貌してしまう。そして、寝子は、「わたしね/魚だとか/ねずみに/弱いの/いいにくい/けど/ねこに/なって/しまうの」と鬼太郎に打ち明ける。そして、ねずみ男を見つけ、襲いかかり、頭をかじる場面は、寝子の悲痛な宿運とは裏腹に痛快さを喚起させる。この寝子こと猫娘は、初期の貸本漫画作品『怪奇猫娘』(58年6月刊)に登場する“みどり ”と同じキャラクターといっていい。異貌な存在として排除され追いつめられていく猫娘みどりの有様は、そのまま、『鬼太郎夜話』の寝子にも繋がっていく。ねずみ男と連携するにせの鬼太郎によって「死」の世界へ行ってしまった寝子を、目玉親父に誘われながらにせの鬼太郎は、「生」の世界へ連れて帰ろうとするが、「わたしは/どうせ/ねこ娘です/ふたたび/生きて/帰った/からって/みんなに/いじめられ/はずかしい/思いをする/だけです/わたしの/安住できる/ところは/ここ/だけです」といって寝子は、そのまま「死」の世界に留まることになる。
 『鬼太郎夜話』は、猫娘譚によって重層性をもった物語として屹立していると、わたしは、捉えてみたい。

(『貸本マンガ史研究 第2期4号・通巻26号』16.8)

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2015年10月10日 (土)

日常という劇―辰巳ヨシヒロの場所

 辰巳ヨシヒロ作品と初めて出合ったのは、『ガロ』誌上での「さそり」以降の一連の作品群であったと思う。貸本時代の辰巳作品を未知のまま、『ガロ』の作家の一人という認知の仕方であった。いま、思い起こしてみれば、当時の『ガロ』の作家のなかでは、幾らか異質な作風を漂わせていたということが、一つの強い印象として残っている。
 『ガロ』に掲載されていたヒロ書房の広告を見て、場所が青林堂の近くだったことを知り、青林堂に寄った後に、『群集のブルース』(「群集のブルース」の初出が『COM』だったことにたいし、幾らかの異和感を抱いたことを覚えている)を求めて、ヒロ書房で辰巳ヨシヒロ本人と直接会い、少しだけ雑談したことがある。たぶん、72年頃のことだ。作品の印象と作者のイメージとの関連付けでいえば、それほど意外な感じは受けなかったといっていい。その時のわたしは、辰巳作品への共感の言葉をどうにかして伝えようとしていたはずだが、うまく話せなかったという悔恨を残した一度だけの邂逅ということになる。
 四十年以上経ち、いまこうして、追悼稿によって、伝えられなかった言葉を紡ぎだせればと思いながら、辰巳作品を読み返してみた。そして七十年に発表された作品に特化して、幾つかのことを述べてみたいと思う。
 「飼育」(『ビッグコミック』70年8月25日号)は、小説家を志す男とバーで働く女との屈折した生活を描いている。モチーフの共通性を考えてみれば、つげ義春の「チーコ」を想起できるが、ここでの男女の愛のかたちは、大きな差異として表れる。遺影のように女と犬の写真が飾られ、押入れには、“ベルの家”と記された犬小屋が捨てられずに入っていることで、女がベルという名の犬を飼っていたことを、理解できるように描かれている。女が仕事に出かけた後、男は、“ベルの家”を押入れから出し、“ベルの家”を見つめながら、一人ウイスキーを飲んでいる。女は、常連客にホテルへと誘われるが、家で留守番をしている男のことが心配で、そのまま、寿司を土産に帰宅する。「アンタって人は/わたしがやって/やんなきゃ、何も/できない人だものね」という女。それにたいして、“ベルの家”に入って、「ウウウワンワン」と答えていく男。そして、翌朝、「おれは働いて、自分でやってみる。さらば」という書置きを残して、女のもとを去る。だが、直ぐに仕事先でトラブルを起こし、結局、飼い犬のように部屋で女が帰宅するのを待っているという画像で物語を閉じている。この小説家志望で生活力のない男と愛犬を亡くした女がどこでどのようにして知り合ったのかということは、それほど重要なことではない。人と人が知りあう契機は、類型されるものではなく多様なものである以上、お互いが抱え持ってしまった負の要素を補うかたちで、生活を始めたとしても、それは、必ず変容していくものなのだ。結局は長く続かず別離を余儀なくされたとしても、二人で暮らし始めてみれば、関係性というものは、個々の感性を充足させていく瞬間というものは必ず、生起するはずなのだ。だから、「飼育」における男女が一見、屈折した関係性に見えたとしても、愛というかたちは、お互いにとって等価なのだということを潜在させているのが、この作品を際立たせていると、わたしなら捉えてみたい気がする。
 「いとしのモンキー」(『週刊少年マガジン』70年8月16日号)は、猿(モンキー)を飼っている男が、勤務先の事故で、片腕を落とし、仕事も失い、飼っていくことができなくなったため、動物園の猿山に捨ててしまうのだが、動物園の猿たちに襲われ死んでしまい、やがて、その死の残像に怯えてしまう孤独な男の像を描出した作品だ。そもそも、実体として猿(モンキー)を飼っていたかどうかを疑えば、幻想譚といえなくもないし、飼われている猿(モンキー)は男の鏡像といえなくもない。だが、ここでは、日常のリアルな出来事として、飼われている猿(モンキー)と片腕になり、ますます孤立していく男の二つの像が重層的な物語として描かれていると理解した方がいいかもしれない。
 作品中、次のようなモノローグが配置されている。
「四畳半の/おれの城……/おれは ここで/ひとりになったとき/はじめて/孤独でなくなるのだ/おれの/飼っている/モンキー/どういう/わけか/いつも/飼い主の/おれに/背中を/むけている/(略)ここでは/ベトナム戦争も/沖縄も 水俣病も/太平洋往復/横断ヨット/も/すべて/現実の/ものとは/思えない/できごとなのさ/いわば/おれにとって/最後にのこされた/人間らしい生活とは/猿といるとき/だけなのだ」
辰巳ヨシヒロの描く男たちは、孤独を慰藉する手立てとして、〝さそり〟を飼ってみたり、〝ねずみ〟に寛容な振る舞いをする。「人間らしい生活とは/猿といるとき/だけなのだ」という時、慰藉してくれる対象は、人間ではなく異類であるということをここでもまた示されていく。これは、辰巳自身の心情をある意味、代象しているといっていいはずだ。つまり、七十年前後の時代情況と自分が置かれた様態に対する苛立ちや憤りを投影していると見做すことができるような気がする。作品集の「あとがき」で、収録された作品の発表時期が七十年前後であることを述べながら、辰巳は、その頃の思いを次のように綴っている。
 「日本の高度成長によって国民は好景気に酔いしれていた。この頃から国民の貧富の差が進行する。(略)昭和三十一年に雑誌への進出を狙って大阪から上京して来たのだが、その日その日のために貸本マンガを描き続けなければならなかった。しかし、少年雑誌やテレビの急速な普及によって、一時は全国に三万店もあったと言われる貸本業界も徐々に衰退していき、昭和四十三頃には、その形態は完全に崩壊してしまった。/私は失業した。(略)昭和四十五年に入り、数社の出版社からボツボツと注文が来るようになった。どこかで誰かが私の作品を見ていてくれていることを確信した。この作品集の大半は、『自分なりの劇画世界』を構築するために、もがき苦しんでいた頃のものである。」(『辰巳ヨシヒロ傑作選』14年11月刊)
 「自分なりの劇画世界」という辰巳の確信は、『ビッグコミック』、『週刊少年マガジン』、『ガロ』というように、発表媒体が変わっても、揺るぎない、一貫した世界を表現していくことの起点となっている。そして小説家志望の男、猿(モンキー)を飼っている男は、いうなれば、「もがき苦し」みながら、日常という時間を送っていく像として描出されていく。それは、同時に関係性に対するアンビバレンツな心情を持ってしまうことの証しとなっているのだ。
 「わかれみち」(『ガロ』70年4月号)は、“さそり”や、“猿(モンキー)”、“ねずみ”といった異貌なるものは登場しない。象徴的に描かれるのは、「高度成長によって」によって、貸本業界の衰退と同じように、その有様を否定され、廃止へと余儀なくされた都電である。
 寿司屋で泥酔する男がいる。店主は、「こいつ/悪酔いしち/まったよ」「少し寝かせてから/帰した方がいいな」と言い、妻に、二階に床をしくように頼む。さらに店主の言葉が続く。
「会社でなにか/いやなことがあった/らしいんだ/しきりにボヤいて/いたから」「そんなことが/ないと/うちへなんか来な/いんだ この男」
 やがて、泥酔した男は目を覚まし、少年期へと回想していく。男(ケンジ)と店主(ヨシオ)は中学時代の同級生であった。ケンジは、ごく普通に両親と暮らしていて、ヨシオの方は、父親が不在で母が飲み屋を営んでいた。ある日、ケンジは、ヨシオの母と客らしき男との性的な行為を盗み見て、衝撃を受けてしまう。ヨシオは、そんな母の様態を見ても、平然としていることに、驚きとともに、ある種の疑念を抱いてしまう。この二人の、違いを〝わかれみち〟といういい方で、象徴しているようにも思えるが、しかし、作品は、もう少し深奥を切開しているといっていい。客たちの喧騒ですっかり覚醒してしまったケンジは階下へと降りて帰ろうとする。
 「おや/ケンちゃん/もう/お帰り?」「また/来らぁ/ヨッちゃん」「タクシー/呼ぼうか/もう終電は/通っちまっ/たぜ」「いや/そこまで/歩いて/拾うさ」
 別れ際の二人の会話には、会社でいやなことがなければ、自分の店なんかには来ないというヨシオと、また来るといってしまうケンジとの間に、言葉では説明できない、お互いの孤立感を確認しあえるような関係の淡さとでいうべきものが滲み出ていると捉えることができる。「軌道内通行禁止」という表示の前で、佇むケンジを描出する最後の画像。二つ並んでいる線路は、やがて一つの線路となっていく。やがてその線路もなくなってしまうことを想起してみるならば、一つになっているはずの関係性もいつかは、離反し遠い距離を生起する関係性へと変容していくのだろうか。例えそうであったとしても、この日の一夜のことは、日常という劇として、大きな意味を持つことになるはずだ。
 わたしは辰巳ヨシヒロの描く世界を、そのように感受したいと思う。

(『貸本マンガ史研究 第2期3号・通巻25号』15.9)

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2014年7月 9日 (水)

影丸穣也の「作品」を振り返りながら

 わたしにとって影丸穣也という作家で思い出されるのは、やはり、1970年から72年まで、「週刊少年マガジン」誌上に連載された『ワル』(原作・真樹日佐夫)という作品である。同誌に連載されていて、つのだじろうを引き継ぐかたちで描いていた『空手バカ一代』(原作・梶原一騎)の方は、わたしは、ほとんど見ていない。当時は、もちろん劇画家としてのデビューが貸本マンガであったことは、知る由もなかったが、同時期の梶原一騎原作のマンガ作品、『あしたのジョー』や『愛と誠』に比べれば、弟の真樹ということもあってか、苛烈でアンチヒーロー的な氷室洋二像と少年誌のなかでは異彩を放っていた劇画的描出力に、直ぐ共感できたことを覚えている。今度、あらためて、影丸作品を振り返るにあたって分かったことだが、連載終了後、『新書ワル』(「プレイコミック」・87年~92年)、『ワル正伝』、『ワル外伝』、『ワル最終章』(全三巻)と三十五年にわたって『ワル』作品が描き続けられていたことには、驚いた。なんといっても、影丸と真樹の二人が共作し続けた連携力に、感嘆するとともに、どうにかして入手した『ワル最終章 vol.1』(コアマガジン・05年刊)を読む限り、登場人物の加齢が、いい意味で重厚さを醸し出し、作品にさらなる深化を与えていて、通例陥りやすい長期連載によるマンネリズムとは一線を画したものとなっているのは、ひとえに影丸穣也という劇画作家が持っている膂力によるものだといっていいと思う。
 高校を舞台とした『ワル』、新宿・歌舞伎町での抗争を描く『新書ワル』、台湾マフィアとの激闘の後、生死不明となった『ワル正伝』の後を受け、「最終章」と銘を打って完結編を目指す『ワル最終章』は、アメリカ大統領夫人誘拐事件というこれまでとは、異質な位相を持って物語は開始されていく。大統領夫人誘拐の指揮をとっていたのは、六本木の剣道場・敷島館の館長でもある大和礼であるが、実は反政府組織「海神の牙」のリーダーでもあるという設定だ。〝世直しの軍団〟だという地平同(地球に真の平和と繁栄をもたらすための同志の会)に加担する氷室は、大和と対峙し、「海神の牙」を地平同へ合体させることを主張したところで第一巻は閉じている。作品中、アメリカ大使館前の、「戦争反対」を叫ぶデモ風景が、描写されている。イラク反戦を意識して描かれたと思われるが、『ワル』という作品が、長い継続のなかで、学校、闇社会といった位相を経て、政治的情況をも取り込む位相へと至ったことは、ある意味、必然的なことだというべきかもしれない。だが、影丸穣也の代表作といっていい、『ワル』シリーズの道程を望見するだけで、本稿の主意が達せられたというつもりはない。わたし自身、必ずしも影丸穣也作品の長年にわたる愛読者というわけではなかったが、この機会に新旧二つの作品集を読んで、長い時間性を越えて再度、この作家の劇画的描出力に、共感を持ったことを述べておきたいと思う。
 『影丸穣也時代劇傑作選』(10年9月刊)には、67年から68年にかけて月刊誌「少年」の付録と月刊誌「まんが王」に発表した五篇が収載されている。当然、原作者のないオリジナルストーリーによって描かれたものだ。率直にいえば、白土三平作品を彷彿とさせる最下層に生きる者たちへの鮮烈な視線は、少年漫画誌というカテゴリーを越える際立った作品性を持ったものとなっている。集中、二篇のみを取り上げてみたい。
 「『野武士』異話 手なし」(「少年」67年10月号付録)は、関ヶ原の合戦を経て、徳川政権の始まりという時代、「かつて戦野に/その勇猛を誇った/兵法者の群れは/今は ほとんどが/全国各所において/野武士となり果て/荒れまわっていた/……/ここ/飛騨の山奥にも/黒風党と名のる/野武士の一団が/きびしい『掟』を守って/生息していた…」という書き出しで、五人の登場人物、黒風党首領、首領の右腕(メテ)、左腕(ユンデ)、メテの弟(シシ丸)、少女(ミヤ)らが描出されていく。メテやシシ丸とユンデとの抗争という少年期の読者には分かりやすい構成とはいえ、ユンデの悪業は徹底していて、メテや首領を殺し、シシ丸は両手首を切り落とされる。しかし、それでもシシ丸は、ユンデと闘い、兄と首領の仇討を果たすという、いわば典型的な勧善懲悪譚である。その後、シシ丸が野武士集団の先頭に立って、立て直していくといった展開になっていかないところが、この作品を異色なものにしている。シシ丸たちは、刀を捨て、刀の代わりにスキ、クワをもって「大地を相手にほんとうの勇気を」しめすことを誓っていくことになる。「いつしか/黒風党の名が/だれの口からも/きかれなく/なった……」として物語を終えている。
 「鉄砲弥太」(「少年」68年3月号付録)と題した作品は、マタギの集団で射撃大会を行っている場面から始まる。火縄銃で腕を競っていくものなのだが、「手なし」と同様に、対立する二人、弥助と源次がいた。しかし、競って勝ったのは弥助だった。弥助の息子・弥太は親方から腕前をみてみたいといわれ、弥助が的を持って立ち、弥太が狙いを定めて撃つが、影から弥助・弥太親子に敵愾心を持つ源次が、弥助を撃ったため、弥太があたかも弥助を撃って殺したことになってしまう。銃によって人を殺してならないという集団内の掟によって「人狩りの刑」に処せられる。といっても、温情でただ集団からの離脱を強いられることになったのだが、源次は執拗に弥太を狙い殺そうと追いかけていく。弥太は、どうにか瀕死の重傷を負いながらも逃げ延びて、山深い場所でひっそりと一人暮らしをする老人に救われる。この老人の出自は明らかにされていないが、銃は、生きることへの道具としてあるというのが老人の考え方であった。弥助はここで、老人から銃のことも含め、様々なことを学び成長していく。弥太にとっていつしか、第二の父ともいえる存在になっていた老人に、やがて死が訪れる。それを契機に、弥太は父のかたき源次を撃つべく旅立つ。そして、鉄砲隊結成のために行われていた城中での鉄砲の試合で、二人は再会し、対決することになる。弥助は源次に狙いを定めるが撃てずにいると、源次は自らの銃の暴発によって死ぬ。結果的に、弥太は銃によって人を殺さずに済んだことになる。弥太は鉄砲隊にも加わらず、老人と暮した場所へと帰っていくことを暗示して物語を閉じていく。
 二作品に共通していえるのは、野武士集団、マタギ集団というそれぞれの共同性に内在する制約を越えて、個としていかに自在性を獲得していくかという葛藤を描いていることにある。「手なし」では、野武士としての象徴でもある刀を捨て、スキ、クワによって大地を耕すことで、ある意味自由に生きることを目指し、「鉄砲弥太」では、鉄砲隊に加わらないのは当然だとしても、マタギ集団には戻らず(終景では、必ずしも故郷への帰還を拒絶してはいないのだが)、単独行を選び、進もうとしていると捉えることができる。発表時期が、67年から68年にかけての、やがて生起する反乱の時代に照応している。いわば戦後民主主義の虚妄性のなかで安穏と生きることを拒否するという、叛逆のムーブメントを担う若い世代の心情と、シシ丸や弥太の思いがクロスしていると捉えるのは、いささか裏目読み過ぎるだろうか。
 『87分署シリーズ 麻薬密売人/ハートの刺青』(09年7月刊)は、よく知られたエド・マクべインの警察小説の劇画化である。漫画家としての出発がミステリー作品だったことを思えば、必然なる回帰といっていいかもしれない。ほぼ、翻訳にそった構成とはいえ、「麻薬密売人」の鮮烈な出だしが、影丸の絵に載って見せられると、さらに深い印象を刻まれることになる。
 「冬はまるで/アナーキストのように/襲いかかってきた/荒くれた/目つきで/すさまじい/叫びを/あげ――/激しい息づかいを/しながら 全市を/冷気でつかみ――/骨の髄まで凍らせ/心臓を縮みあがらせた」(中田耕治・訳)
 架空の街・アイソラを、87分署二級刑事のスティーヴ・キャレラ、三級刑事のパート・クリング、耳が不自由なため言葉を話せないキャレラの妻テディなどのキャラクターが、活写されていく。影丸穣也によって劇画化された二作品は、刑事によって「事件」を解決していくといった単なる推理劇というよりは、「事件」によって生起していく群像劇といった様相を有している。キャレラやクリングたちの動静を中心に描くのではなく、「事件」の被害者となっていく人物たち、そして肝心の犯人の周縁をスリリングに描いていくことで、キャレラたちの行動が重層的に浮かび上がってくるといった構造を湛えていることになる。それは、原作が持っている力だともいえるのだが、やはり影丸の描出力によるものだといいたい気がする。なによりも、影丸の描く登場人物の造型がいいのだ。人物の表情がヴァリエーションに富み、劇性をさらに際立たせているからだ。例えば、「ハートの刺青」では、結婚を約束して相手の女性から預金を搾取した後、ハートの刺青をして殺すという連続殺人犯・ドナルドスンが、新たなターゲットのプリシラ・エイムズと食事をしながら会話をする七頁にわたる場面は圧巻である。結婚したいと率直に述べながら、巧みに金の話題へと誘導していくドナルドスンに対して、自分の預金を託すことを決意していくプリシラの表情の変化が、愛への純粋な渇望を表していて、リアルだ。テディの必死の活躍もあって、プリシラは死なずに、ドナルドスンは逮捕される。事件解決後、キャレラとプリシラは、次のような遣り取りをする。自分を責め、愛なんてものは、ない事に気づくべきだったと語るプリシラに対して、キャレラは、「そんな事本気で/考える方が/馬鹿ですよ」と答える。小鳥が空を飛んでいるカットを挟み、「愛は…/小鳥達の/ものですわ」とプリシラ。「愛は/小鳥達のもの/かもしれないが/人間のものでも/あるんですよ!」と語っていくキャレラ。やがて、穏やかで優しい表情のプリシラの顔のカットの後に、「ミス/あなたの笑顔が/〝愛〟そのものですよ/本当に……」と述べるキャレラの表情もいい。結婚詐欺に会う女性という設定である以上、美形である必要はないとしても、そういうことを無化してしまうほどにプリシラの造型に豊かさが漂っているのだ。これは、作家であることを離れて、影丸穣也の優しい視線が射し込まれているからだと、いってもいいはずだ。

(『貸本マンガ史研究 第2期1号・通巻23号』14.6)

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2009年3月19日 (木)

劇画という言葉の基層へ

  劇画という言葉を、いつ、どのような時に知ったのかは、遠い記憶の彼方にある。ただ、その劇画という言葉が発する鮮烈さに大いなる衝撃を受けたことだけは覚えている。「劇画」という言葉が、貸本マンガの一つの系譜から発生したことを理解したのは、衝撃を受けた、もう少し後になってからであり、単純な二元論に絡めとられていたわけではないが、商業誌マンガは、「漫画」、『ガロ』系マンガなどを、「劇画」と腑分けして捉えてもいたことは確かだった(近年は、そういう腑分け自体、意味をなさなくなっているといってもいい)。
 わたしの場合、貸本マンガ体験(ネギシ読書会といった、新本も含む貸本店は除外)は、そんなに長くはない。小学六年生から中学一年生頃にかけて、集中的に白土三平の作品を中心にして一連の忍者マンガやその他のアクションマンガを読んでいた。いまにして思えば、たまたま知った貸本マンガから受けた面白さの感受は、当時の子供向け商業漫画誌の作品からの離別とやや大人向け作品(マンガに限らず小説などの活字作品)への志向へと、わたしの関心が向かった契機になったような気がする。
 劇画という言葉の持つ基層へと視線を傾けてみるならば、描線のリアルさや物語構造の斬新さといったことが、漫画ではなく、劇画という概念へと峻別させる根拠となったことは、当然だとしても、もう少し別様のことが、いえそうに思える。作家の側からいえば、自分の描きたいものをある程度、自由に(子供向けということを意識せずにと、いっていいかもしれない)描けるということであり、読者側からいえば、ただ漠然と、面白いマンガというものに魅せられていただけだったのを、一人の作家とその作家性へと関心を向けられていくことが、劇画をマンガから分岐した契機なのではないかと、わたしは考えている。読者側からの視点でさらにいえば、幾度となく記してきたことなので、重複することになるのだが、『忍者武芸帳・影丸伝』を読み切った後、類似した忍者マンガ作品を渉猟していったが、わたしの場合、ほとんど無意識のうちに、やはり白土三平作品に拘らざるをえなかった。この時、つげ義春の『忍者秘帳』に接見していたのかどうかは、無論、記憶していないが、ただ、白土三平という作家名とその作品群だけが、わたしの心奥に深く刻み込まれていった。少年期のマンガ体験のなかで、商業誌に名を連ねていた手塚治虫や横山光輝(『サスケ』などを発表していた白土三平も同列にしていいが、わたしの場合、掲載誌『少年』を購読しておらず、後年、単行本によって知った)には、それほど継続的な共感を抱かなかったから、不思議だ。たんに嗜好の問題に還元したくはないが、『ガロ』が創刊(64年9月)されて一、二年後には、断続的とはいえ『ガロ』を購読しだしたのは、白土三平の『カムイ伝』が掲載していたからだった。わたしのマンガ体験歴などという大げさないい方はしたくはないのだが、中学生時は、ある意味、空白期だったのが、再び、マンガへと関心が向いていったのは、高校生の時であり、その時、『ガロ』を中心としたものだったのは、現在から振り返ってみれば、偶然ではなかったと、いっていいと思う。そして、『ガロ』に接していなければ、つげ義春やつげ忠男、林静一といった作家たちとその作品に出会うことがなかったのだから、わたしにとって、僅かな期間の貸本マンガ体験は、その後の、マンガだけではない表現全般への方位に大きな影響を与えたくれたことだけは、明白なことだったといえる。
 ところで、つげ義春が、『四つの犯罪』(完全復刻版・小学館刊)の挟み込みインタビュー(聞き手・権藤晋)で、「『生きていた幽霊』もそうだったようですが、編集部からなにも反応はないんですね」という問い掛けに対して、次のように応答していた。
 「(劇画が)青少年に悪影響があるとかなんとかマンガにたいして世間の目が厳しくなっているので、『あまり過激なものを描かないように』という手紙は若木(引用者註=若木書房)から来たことがありますよ。でも、若木はほかとくらべておおらかというか、さほどうるさくなかったですね。」
 昭和三十年代に、「悪書追放」運動なるものが起き、その最も苛烈な対象となったのが、「劇画」であったことを、わたしは、当然のことながら、当時、認知できる年齢ではなかった。もちろん、わたし(たち)のような戦後生まれでも、現在のように、マンガを読むことに没頭することは、いいことだとは、誰も考えていなかった時代にマンガと接していたのだ。親たちは、子供に悪影響を及ぼす(どう悪影響を与えるかということは、この際、明確な理屈と根拠があるわけではなかったはずだ)低俗なマンガから、いかに、早く引き離して、高尚で、学習に適した名作小説や伝記小説を読ませようとして腐心していたのかを、子供心に圧迫感となって理解できていた。
それにもかかわらず、わたし(たち)が、マンガ、そのなかでも「劇画」というものに魅せられていったのは、極めて、象徴的な事象だったといえる。
 繰り返していえば、白土三平を基軸として、つげ義春やつげ忠男、林静一といった作家たちを知り、共感をし、様々なことを喚起されていったことは、「劇画」という言葉が持っている基層の力だといってもいい過ぎではない。
 わたしは、現在、表現全般に対して、どんなカテゴリーも設けずに自分の関心が向かう方位だけを確信して視線を射し込んでいる。映画・絵画・音楽・文学・思想といった表現領域に、同列なものとして「漫画(劇画)」というものを位置づけることを、なんの迷いもなく可能とする視野をわたしは持っているつもりだ。
 表現それぞれに対し予見を持って差異や優劣を設定することは、転倒した思考でしかない。
ただ、わたし(たち)を喚起させる力があるのか、ないのかということだけが、表現力の問題なのである。

(『貸本マンガ史研究20号』09.3)

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2006年4月27日 (木)

「『噂の武士』をめぐって」

 『噂の武士』という作品集は、わたしにとって様々な思いを換気させてくれる本だ。
 つげ義春の作品歴や著作年譜といったものを見れば、意外に思うかもしれないが、最初の作品集は、東考社から発売された『噂の武士』だとされている。ここでは、通常、著書(あるいは著作)として見なすべきものを、作品集としてのみ考えられているため、一冊の単行本(長篇作品)として出されている貸本漫画は作品集リストから除外されているのだ。貸本漫画という形態に、なにか偏見と不明さがあるのだろうか。そもそも、漫画家の作品歴や著作歴を考える時、貸本漫画歴を分断して捉えることが、わたしには理解できない。六八年に出た「ガロ6月増刊号・つげ義春特集」に掲載されている「作品リスト」は、長篇、中篇の表示はあっても、特別に貸本漫画作品といった区別はしていない。わたしの考えは、つげ義春の最初の著書は、一九五五年(当時は、五三年と見なされていた)、十八歳の時に若木書房から出された『白面夜叉』だと思っているから、『噂の武士』を、“つげ義春、最初の作品集”という思いは、まったくない。
 ところで、わたしには、『噂の武士』を入手した際にまつわることで忘れることのできない記憶が残っている。
 記憶は、いつだって不確かなものだ。それでも、ただ一度、桜井昌一氏に会ったことは、記憶の網目から取り出すことはできる(不確かな記憶は、もしかしたら二度かもしれないと示唆している)。
 当時、東考社は東京都下、国分寺市本多五丁目にあった。わたしは、一九六八年四月に上京し、国分寺市東元町二丁目の〈野人舎〉と、下宿人たちが勝手に命名したアパートとは到底いえそうもない建物に住んでいた。わたしは、当時、「カムイ伝」を見るためだけに、「ガロ」を購入していた。衝撃的な、「ねじ式」が掲載された「ガロ6月増刊号 つげ義春特集」が、出たとき、下宿の仲間のNさんが、すごい漫画が発表されたといって、わたしの部屋へ息せき切ってやって来たことを、昨日のことのように鮮明に覚えている。わたしはといえば、その時、まだ購入していなかったのである。
 『噂の武士』が刊行されていたのを知ったのは、「ガロ」に広告が掲載されていたからだ。わたしが、いつその広告を見て、住所が国分寺であるからと、直接、買いに行ったのかは、もう覚えてない。歩いて十五分から二十分近くかかったろうか、角に交番があり(今でもまだある)、その脇の路地を入った先に東考社はあったように思う。不確かな記憶を、たどれば、直接買い求めに来た未知の若者に対して、笑顔で接する桜井氏の立ち姿は覚えているが、どんな会話をしたのかは、まったく記憶にない。新書判142頁、定価220円の『噂の武士』(六六年十二月発行)を手にして、その時は、なんとも充実した気分で下宿へ帰ったはずだ。
 さて、ここから記憶は怪しくなる。部屋でページをめくっていくと、乱丁本だったことに気がつく。“笑顔”で接してくれた桜井氏のことを思い、交換してもらうのが、なぜかためらわれたのだ。そのまま、換えてもらわずにいたのか、すぐに、交換に出向いたのか、はっきりしない。ここからの記述は、桜井氏の名誉のために言っておく。けっして東考社・桜井氏を批判したいがために、記憶の断片を紡ぎ出そうとしているのではない。わたしのもうひとつの不確かな記憶はこうだ。迷いに迷ったすえ、思い切って交換しに行った。ところが、持ち帰ってみたら、またも乱丁本だったのだ。さすがに、もう一度、行くという気持ちにはなれなかった(たぶん交換しに行った時の申し訳なさそうな桜井氏の表情が痛々しかったのだ)。もう桜井氏の落胆する顔を見たくなかった。どこかで、つげ義春の作品集を出した桜井氏への敬慕の思いがあってそうしたはずだ。マニアなコレクターだったら、しつこくまた交換に行っただろうが、わたしには、そういう趣味はない。今、手元にある『噂の武士』(帯付だったが、もうボロボロである)は、つげ義春の「まえがき」、「古本と少女」、「噂の武士」、「西瓜酒」、「女忍」の四作品、白土三平の解説「つげ義春とその作品」は、問題がなかった。「噂の武士」と「西瓜酒」(開始頁85)の間に収載されていた「不思議な手紙」(開始頁59)に乱丁があったのだ。64頁の次の頁が81、それが96頁まで続く。そして次がまた81頁で始まっていくというものだった。つまり、「不思議な手紙」は十六頁分抜けた変わりに、他の頁分が製本されてしまったことになる。
 つげ義春は「まえがき」で、次のように述べている。
 「突然、新書判ブームが起り、ドッと旧作が放出された。よいマンガは何度でもくり返し読んでもらおうとの趣旨であるらしいが、一度売った原稿が二度のおつとめをしようとは夢にも思わなかった。
 今さら旧作をひっぱり出し恥の上塗りはしたくないのだが、労せずして金が入るという誘惑に理性を失ってしまったのだ。
 したがって、本書に収めた五ツの短篇は、冷静な判断によって選ばれたものではない。たまたま手もとに原稿があったりしたからだ。」
 当時から、つげ氏は衒いをもった文章を綴っているのが印象的だ。解説で、白土三平が「透明さ、張りつめた美しさ」という表現でつげ義春の世界を述べているのを読んで、“このままの本”でいいのだと、わたしは思ったのかもしれない。こうして、桜井氏の笑顔と困惑した顔を喚起させる『噂の武士』は、わたしの書棚の中では、常に目を引く場所に収められる本となったのである。

(『貸本マンガ史研究・13号』03.8)

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「劇画という根拠―佐藤まさあき考」

 また、「劇画」という言葉にまつわる作家が亡くなった。どうしたことだろう。本誌の「桜井昌一追悼号」に「わが戦友」と題した長めの追悼文を寄せていたばかりではないか。なにか「死」というものの非情さを感じないわけにはいかない。いささか、漫画・劇画の世界を逸脱して思いを敷衍すれば、かつて、戦後詩に新たな表現性をもたらした「荒地」派の詩人たちが、相前後して亡くなっていった時の、喪失感に似ている。もちろん、世代的には、「劇画工房」世代は、一回りほど年少とはいえ、亡くなった時の年齢が、「荒地」派の詩人たちと、きしくも近似していることも、わたしが、こだわる根拠でもある。
 もうひとつの根拠は、やはり、「戦後」という問題だ。
 佐藤まさあきの著書『「劇画の星」をめざして』のなかで、「父は空襲で直撃弾を受けて死亡し、母はまたそのとき受けた火傷の後遺症で」、中学二年の時に急死したと記述されている。昭和十二年生まれの佐藤が、「戦争」を体験した事実には変わりはない。両親の「死」という苛酷な体験によってである。その著書のなかで、義兄との軋轢や戦後の困窮した生活にたいする様々な思いが、自分の作品に復讐譚が多い理由だということを、率直に述べていた。だから、佐藤にあって、「劇画」という根拠は、ひとえに「戦後」という問題なのだと、いっていいはずだ。
 ハードボイルドという言葉が、日本語的イメージに換言される時、例えば、昭和三十年代の日活アクション映画群が放った世界と同義のように語られるとしたら、大きな錯誤を生むことになる。だからといって、わたしは佐藤まさあきが描出するハードボイルド劇画世界を長年にわたって理解してきたなどというつもりはない。後年、チャンドラーの一連の小説に接して、ハードボイルドというものを、自分なりに捉えられるようになった時、映画に例えるなら、日活よりも、東映の股旅作品やヤクザ映画群の世界に近いことに気づいただけなのだ。そこに漂う世界は、いうなれば、抑制された憤怒であり、抜き差しならない関係性からの離反である。そのことにわたしが魅了されたことは確かだ。むろん、佐藤まさあき作品にたいする理解の仕方をそのことへ押しとどめたいわけではない。
 しかし、わたしのあまり正鵠を得ない思い込みは、あの独特のきつい目線をもつ主人公像は、佐藤の「戦後体験」のすべてを象徴させているに違いないといってみたくなるのだ。

(『貸本マンガ史研究・15号』04.8)
 

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