2009年3月19日 (木)

劇画という言葉の基層へ

  劇画という言葉を、いつ、どのような時に知ったのかは、遠い記憶の彼方にある。ただ、その劇画という言葉が発する鮮烈さに大いなる衝撃を受けたことだけは覚えている。「劇画」という言葉が、貸本マンガの一つの系譜から発生したことを理解したのは、衝撃を受けた、もう少し後になってからであり、単純な二元論に絡めとられていたわけではないが、商業誌マンガは、「漫画」、『ガロ』系マンガなどを、「劇画」と腑分けして捉えてもいたことは確かだった(近年は、そういう腑分け自体、意味をなさなくなっているといってもいい)。
 わたしの場合、貸本マンガ体験(ネギシ読書会といった、新本も含む貸本店は除外)は、そんなに長くはない。小学六年生から中学一年生頃にかけて、集中的に白土三平の作品を中心にして一連の忍者マンガやその他のアクションマンガを読んでいた。いまにして思えば、たまたま知った貸本マンガから受けた面白さの感受は、当時の子供向け商業漫画誌の作品からの離別とやや大人向け作品(マンガに限らず小説などの活字作品)への志向へと、わたしの関心が向かった契機になったような気がする。
 劇画という言葉の持つ基層へと視線を傾けてみるならば、描線のリアルさや物語構造の斬新さといったことが、漫画ではなく、劇画という概念へと峻別させる根拠となったことは、当然だとしても、もう少し別様のことが、いえそうに思える。作家の側からいえば、自分の描きたいものをある程度、自由に(子供向けということを意識せずにと、いっていいかもしれない)描けるということであり、読者側からいえば、ただ漠然と、面白いマンガというものに魅せられていただけだったのを、一人の作家とその作家性へと関心を向けられていくことが、劇画をマンガから分岐した契機なのではないかと、わたしは考えている。読者側からの視点でさらにいえば、幾度となく記してきたことなので、重複することになるのだが、『忍者武芸帳・影丸伝』を読み切った後、類似した忍者マンガ作品を渉猟していったが、わたしの場合、ほとんど無意識のうちに、やはり白土三平作品に拘らざるをえなかった。この時、つげ義春の『忍者秘帳』に接見していたのかどうかは、無論、記憶していないが、ただ、白土三平という作家名とその作品群だけが、わたしの心奥に深く刻み込まれていった。少年期のマンガ体験のなかで、商業誌に名を連ねていた手塚治虫や横山光輝(『サスケ』などを発表していた白土三平も同列にしていいが、わたしの場合、掲載誌『少年』を購読しておらず、後年、単行本によって知った)には、それほど継続的な共感を抱かなかったから、不思議だ。たんに嗜好の問題に還元したくはないが、『ガロ』が創刊(64年9月)されて一、二年後には、断続的とはいえ『ガロ』を購読しだしたのは、白土三平の『カムイ伝』が掲載していたからだった。わたしのマンガ体験歴などという大げさないい方はしたくはないのだが、中学生時は、ある意味、空白期だったのが、再び、マンガへと関心が向いていったのは、高校生の時であり、その時、『ガロ』を中心としたものだったのは、現在から振り返ってみれば、偶然ではなかったと、いっていいと思う。そして、『ガロ』に接していなければ、つげ義春やつげ忠男、林静一といった作家たちとその作品に出会うことがなかったのだから、わたしにとって、僅かな期間の貸本マンガ体験は、その後の、マンガだけではない表現全般への方位に大きな影響を与えたくれたことだけは、明白なことだったといえる。
 ところで、つげ義春が、『四つの犯罪』(完全復刻版・小学館刊)の挟み込みインタビュー(聞き手・権藤晋)で、「『生きていた幽霊』もそうだったようですが、編集部からなにも反応はないんですね」という問い掛けに対して、次のように応答していた。
 「(劇画が)青少年に悪影響があるとかなんとかマンガにたいして世間の目が厳しくなっているので、『あまり過激なものを描かないように』という手紙は若木(引用者註=若木書房)から来たことがありますよ。でも、若木はほかとくらべておおらかというか、さほどうるさくなかったですね。」
 昭和三十年代に、「悪書追放」運動なるものが起き、その最も苛烈な対象となったのが、「劇画」であったことを、わたしは、当然のことながら、当時、認知できる年齢ではなかった。もちろん、わたし(たち)のような戦後生まれでも、現在のように、マンガを読むことに没頭することは、いいことだとは、誰も考えていなかった時代にマンガと接していたのだ。親たちは、子供に悪影響を及ぼす(どう悪影響を与えるかということは、この際、明確な理屈と根拠があるわけではなかったはずだ)低俗なマンガから、いかに、早く引き離して、高尚で、学習に適した名作小説や伝記小説を読ませようとして腐心していたのかを、子供心に圧迫感となって理解できていた。
それにもかかわらず、わたし(たち)が、マンガ、そのなかでも「劇画」というものに魅せられていったのは、極めて、象徴的な事象だったといえる。
 繰り返していえば、白土三平を基軸として、つげ義春やつげ忠男、林静一といった作家たちを知り、共感をし、様々なことを喚起されていったことは、「劇画」という言葉が持っている基層の力だといってもいい過ぎではない。
 わたしは、現在、表現全般に対して、どんなカテゴリーも設けずに自分の関心が向かう方位だけを確信して視線を射し込んでいる。映画・絵画・音楽・文学・思想といった表現領域に、同列なものとして「漫画(劇画)」というものを位置づけることを、なんの迷いもなく可能とする視野をわたしは持っているつもりだ。
 表現それぞれに対し予見を持って差異や優劣を設定することは、転倒した思考でしかない。
ただ、わたし(たち)を喚起させる力があるのか、ないのかということだけが、表現力の問題なのである。

(『貸本マンガ史研究20号』09.3)

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2006年4月27日 (木)

「『噂の武士』をめぐって」

 『噂の武士』という作品集は、わたしにとって様々な思いを換気させてくれる本だ。
 つげ義春の作品歴や著作年譜といったものを見れば、意外に思うかもしれないが、最初の作品集は、東考社から発売された『噂の武士』だとされている。ここでは、通常、著書(あるいは著作)として見なすべきものを、作品集としてのみ考えられているため、一冊の単行本(長篇作品)として出されている貸本漫画は作品集リストから除外されているのだ。貸本漫画という形態に、なにか偏見と不明さがあるのだろうか。そもそも、漫画家の作品歴や著作歴を考える時、貸本漫画歴を分断して捉えることが、わたしには理解できない。六八年に出た「ガロ6月増刊号・つげ義春特集」に掲載されている「作品リスト」は、長篇、中篇の表示はあっても、特別に貸本漫画作品といった区別はしていない。わたしの考えは、つげ義春の最初の著書は、一九五五年(当時は、五三年と見なされていた)、十八歳の時に若木書房から出された『白面夜叉』だと思っているから、『噂の武士』を、“つげ義春、最初の作品集”という思いは、まったくない。
 ところで、わたしには、『噂の武士』を入手した際にまつわることで忘れることのできない記憶が残っている。
 記憶は、いつだって不確かなものだ。それでも、ただ一度、桜井昌一氏に会ったことは、記憶の網目から取り出すことはできる(不確かな記憶は、もしかしたら二度かもしれないと示唆している)。
 当時、東考社は東京都下、国分寺市本多五丁目にあった。わたしは、一九六八年四月に上京し、国分寺市東元町二丁目の〈野人舎〉と、下宿人たちが勝手に命名したアパートとは到底いえそうもない建物に住んでいた。わたしは、当時、「カムイ伝」を見るためだけに、「ガロ」を購入していた。衝撃的な、「ねじ式」が掲載された「ガロ6月増刊号 つげ義春特集」が、出たとき、下宿の仲間のNさんが、すごい漫画が発表されたといって、わたしの部屋へ息せき切ってやって来たことを、昨日のことのように鮮明に覚えている。わたしはといえば、その時、まだ購入していなかったのである。
 『噂の武士』が刊行されていたのを知ったのは、「ガロ」に広告が掲載されていたからだ。わたしが、いつその広告を見て、住所が国分寺であるからと、直接、買いに行ったのかは、もう覚えてない。歩いて十五分から二十分近くかかったろうか、角に交番があり(今でもまだある)、その脇の路地を入った先に東考社はあったように思う。不確かな記憶を、たどれば、直接買い求めに来た未知の若者に対して、笑顔で接する桜井氏の立ち姿は覚えているが、どんな会話をしたのかは、まったく記憶にない。新書判142頁、定価220円の『噂の武士』(六六年十二月発行)を手にして、その時は、なんとも充実した気分で下宿へ帰ったはずだ。
 さて、ここから記憶は怪しくなる。部屋でページをめくっていくと、乱丁本だったことに気がつく。“笑顔”で接してくれた桜井氏のことを思い、交換してもらうのが、なぜかためらわれたのだ。そのまま、換えてもらわずにいたのか、すぐに、交換に出向いたのか、はっきりしない。ここからの記述は、桜井氏の名誉のために言っておく。けっして東考社・桜井氏を批判したいがために、記憶の断片を紡ぎ出そうとしているのではない。わたしのもうひとつの不確かな記憶はこうだ。迷いに迷ったすえ、思い切って交換しに行った。ところが、持ち帰ってみたら、またも乱丁本だったのだ。さすがに、もう一度、行くという気持ちにはなれなかった(たぶん交換しに行った時の申し訳なさそうな桜井氏の表情が痛々しかったのだ)。もう桜井氏の落胆する顔を見たくなかった。どこかで、つげ義春の作品集を出した桜井氏への敬慕の思いがあってそうしたはずだ。マニアなコレクターだったら、しつこくまた交換に行っただろうが、わたしには、そういう趣味はない。今、手元にある『噂の武士』(帯付だったが、もうボロボロである)は、つげ義春の「まえがき」、「古本と少女」、「噂の武士」、「西瓜酒」、「女忍」の四作品、白土三平の解説「つげ義春とその作品」は、問題がなかった。「噂の武士」と「西瓜酒」(開始頁85)の間に収載されていた「不思議な手紙」(開始頁59)に乱丁があったのだ。64頁の次の頁が81、それが96頁まで続く。そして次がまた81頁で始まっていくというものだった。つまり、「不思議な手紙」は十六頁分抜けた変わりに、他の頁分が製本されてしまったことになる。
 つげ義春は「まえがき」で、次のように述べている。
 「突然、新書判ブームが起り、ドッと旧作が放出された。よいマンガは何度でもくり返し読んでもらおうとの趣旨であるらしいが、一度売った原稿が二度のおつとめをしようとは夢にも思わなかった。
 今さら旧作をひっぱり出し恥の上塗りはしたくないのだが、労せずして金が入るという誘惑に理性を失ってしまったのだ。
 したがって、本書に収めた五ツの短篇は、冷静な判断によって選ばれたものではない。たまたま手もとに原稿があったりしたからだ。」
 当時から、つげ氏は衒いをもった文章を綴っているのが印象的だ。解説で、白土三平が「透明さ、張りつめた美しさ」という表現でつげ義春の世界を述べているのを読んで、“このままの本”でいいのだと、わたしは思ったのかもしれない。こうして、桜井氏の笑顔と困惑した顔を喚起させる『噂の武士』は、わたしの書棚の中では、常に目を引く場所に収められる本となったのである。

(『貸本マンガ史研究・13号』03.8)

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「劇画という根拠―佐藤まさあき考」

 また、「劇画」という言葉にまつわる作家が亡くなった。どうしたことだろう。本誌の「桜井昌一追悼号」に「わが戦友」と題した長めの追悼文を寄せていたばかりではないか。なにか「死」というものの非情さを感じないわけにはいかない。いささか、漫画・劇画の世界を逸脱して思いを敷衍すれば、かつて、戦後詩に新たな表現性をもたらした「荒地」派の詩人たちが、相前後して亡くなっていった時の、喪失感に似ている。もちろん、世代的には、「劇画工房」世代は、一回りほど年少とはいえ、亡くなった時の年齢が、「荒地」派の詩人たちと、きしくも近似していることも、わたしが、こだわる根拠でもある。
 もうひとつの根拠は、やはり、「戦後」という問題だ。
 佐藤まさあきの著書『「劇画の星」をめざして』のなかで、「父は空襲で直撃弾を受けて死亡し、母はまたそのとき受けた火傷の後遺症で」、中学二年の時に急死したと記述されている。昭和十二年生まれの佐藤が、「戦争」を体験した事実には変わりはない。両親の「死」という苛酷な体験によってである。その著書のなかで、義兄との軋轢や戦後の困窮した生活にたいする様々な思いが、自分の作品に復讐譚が多い理由だということを、率直に述べていた。だから、佐藤にあって、「劇画」という根拠は、ひとえに「戦後」という問題なのだと、いっていいはずだ。
 ハードボイルドという言葉が、日本語的イメージに換言される時、例えば、昭和三十年代の日活アクション映画群が放った世界と同義のように語られるとしたら、大きな錯誤を生むことになる。だからといって、わたしは佐藤まさあきが描出するハードボイルド劇画世界を長年にわたって理解してきたなどというつもりはない。後年、チャンドラーの一連の小説に接して、ハードボイルドというものを、自分なりに捉えられるようになった時、映画に例えるなら、日活よりも、東映の股旅作品やヤクザ映画群の世界に近いことに気づいただけなのだ。そこに漂う世界は、いうなれば、抑制された憤怒であり、抜き差しならない関係性からの離反である。そのことにわたしが魅了されたことは確かだ。むろん、佐藤まさあき作品にたいする理解の仕方をそのことへ押しとどめたいわけではない。
 しかし、わたしのあまり正鵠を得ない思い込みは、あの独特のきつい目線をもつ主人公像は、佐藤の「戦後体験」のすべてを象徴させているに違いないといってみたくなるのだ。

(『貸本マンガ史研究・15号』04.8)
 

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