2006年5月 9日 (火)

「『千年の愉楽』考・一」

 『夏芙蓉 』。不思議な響きがする。フヨウやスイフヨウではなくナツ・フヨウだからだ。夏(ナツ)がひとつのイメージを付加している。濃厚な香りを放ち、酔芙蓉は花の色を変えるという。切実さ、切なさ、拙速さ。わたしなら、寂しさとともにそんなイメージを思い浮かべる。夏は、その表層さがもたらす熱さよりも、拙速に消滅に向かっていく様を喚起させる。だから、こんな書き出しで始まる、ひとつの物語に胸が熱くなるのだ。
 「明け方になって急に家の裏口から夏芙蓉の甘いにおいが入り込んで来たので息苦しく、まるで花のにおいに息をとめられるように思ってオリュウノオバは眼をさまし、仏壇の横にしつらえた台に乗せた夫の礼如さんの額に入った写真が微かに白く闇の中に浮きあがっているのをみて、尊い仏様のような人だった礼如さんと夫婦だった事が有り得ない幻だったような気がした。」(「半蔵の鳥」)
 この物語を著した作者は夏に死んだ。

 『天鼓』。 天上界から舞い降りてきた太鼓といった意味をもつこの言葉は、この物語の作者中上健次が畏敬してやまない谷崎潤一郎の『春琴抄』を思い出させる。盲目の主人公春琴は、「飼っている一番優秀な鶯に『天鼓』という銘をつけて朝夕その声を聴くのを楽しんだ」。わたしは、映画『春琴抄』(七六年、監督・西河克己、主演・山口百恵、三浦友和)で物語の後半、春琴が佐助に口紅を塗ってもらいながら、鶯の鳴く様を聞いて、嬉しそうに、「いま鳴いたのは天鼓やな」 という場面に、強い印象をもっている。暗い結末をもつこの映画で、明るい慰藉するような鶯の声は、「テンコ」という響きとともに、胸を打つ。
 中上の物語は、こうだ。「明けてくるとまるで瑠璃を張るような声で裏の雑木の茂みで」鳴く鳥が、オリュウノオバには、「半蔵が飼っていた天鼓という名の鶯」のように思いだされてくるのだ。そして、この鶯は、半蔵の熱い関係性を象徴している。

 『中本の血』。オリュウノオバは「路地」でただひとりの産婆だ。半蔵の姓は、オリュウノオバの夫の礼如さんと同じ中本だ。「中本の血がよどみ腐っている」象徴としての弦とはイトコ同士だ。半蔵が二十歳の時、女と暮しはじめる。女が身ごもった。半蔵はオリュウノオバに弦のような子が生まれないかと心配で尋ねる。そういう思い、つまり中本の血の宿運は、そのまま「路地」の若衆たちの存在の苦悩でもあった。まるで、そのことを払いのけるかのように、熱く生き急ぐ。
 天鼓という鶯をもらった若後家の家に、入りびたる。鶯は、この家に出入りするもうひとりの男から貰ったものを女が渡したのだった。山仕事の仲間の怪我の治療費を無心に女の家に行くとその男と出会う。半蔵は、「鶯の声をあんなに綺麗になるほどに仕込んだ」ならと、酔いにまかせその男と、若後家を天鼓のように仕込んでやろうといたぶっていく。男と女。男と男。熱い性愛。やがて死。

 『路地』。 読み書きができないオリュウノオバは、生れてきたものの生年月日と、死んだものたちの年月を諳んじることができた。そうすると、「路地」がまるで、「 死んだ者や生きている者らの生命があぶくのようにふつふつと沸いているところのような気がして」ならなかった(「六道の辻」)。
 「何百年もの昔から、今も昔も市内を大きく立ち割る形で臥している蛇とも龍とも見えるという山を背にして、そこがまるでこの狭い城下町に出来たもう一つの国のように、他所との境界は仕切られて来た。」(「同」)
 「路地」という場所はそういう空間性をもったところだ。中上健次が紡ぎ出した物語の数々は、「路地」の物語だ。そしてそれは、わが国に潜在する共同性の態様を析出した物語でもあった。アジア的遺制の残存が、わが天皇制の虚構の物語だとすれば、ここ「路地」は、そのことを無化すべく存在せしめられた場所だと、中上は物語っていくのだ。

 『桜の木』。半蔵より十歳も若いが、叔父にあたる田口三好は、「十五ほどで、もうその頃は大人の中に立ち混って闇市の中で商売をはじめ、不良少年団の親分」(「六道の辻」)のようにふるまっていた。オリュウノオバは、「意地も屈託もない青年団の若衆よりも、(略)飯場で手に入れた金を一晩出かけた博奕であらかたなくし、残った金で(略)女に流行の柄のゆかたを買って使いきり、花火のように瞬間に燃え上がればいいと思っている三好の方が数段女としては惹かれると思った」。亭主もちの女と関係し、亭主を殺す。無垢で、人を殺しても悪いと思わず、「血の中で女を裸にしてつがるという」考えをする三好をオリュウノオバは、「分かりすぎるほど分かっ」ていた。二十歳になった三好は飯場で怪我をする。「眼がおぼろげにしかみえなくなっ」たのだ。やがて、「夏芙蓉の花が閉じはじめる頃」、三好は、桜の木で首をつって死んだ。〈死者の像〉が累積していく。

(『点』01号・04.4.15)

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「『千年の愉楽』考・二」

 『鴉天狗』。「路地」でただ一人の産婆であるオリュウノオバが語る「浄らかだからこそ澱んでいる」、「中本の一統」の血をめぐる物語は、「路地」が招来してしまう忌避できない死という劇だ。それは、「路地」の若者たちの熱くたぎる生き急ぎが、外界を「路地」に反照させて、解体させているからだといってみたくなる。オリュウノオバは、産婆であることで、若者たちの「生誕」に立会い、そして、生き急ぐ若者たちの早すぎる「死」を抱懐する。「死」を「再生」させるかのように、また、産婆として「生誕」に関わっていく。オリュウノオバの視線は、「髪が黒々として体中くまなく産毛と言えぬような毛でおおわれ」て生まれ、「女親のカネが異類の子を孕み産んだのではないか」と思われた文彦へと向けられていく。全身の毛は一月経って消え、「どんな異類の徴候もみられな」い文彦が六つの時、「鴉天狗」を見たと告げる(「天狗の松」)。オリュウノオバは、暗い予兆を思うのだ。

 『巫女』。文彦は、中学を出てから飯場を転々とする。修業する巫女の集団が、食料や生活のために必要なものを買い求めるために飯場の近くで女郎屋をはじめた。そこで知り合った女を、「山の中で出会った」として、文彦はオリュウノオバのもとへ連れて来て「どうしたらいいだろうか」と聞く。巫女だった女と文彦の出会いを「中本の血の若衆にふさわしい淫蕩だがあえかな物語」だとオリュウノオバは思った。天狗の化身かとも思った巫女と文彦の暮らしが始まる。だが、ふたりの過剰な性愛の果てに、女は死に至る。中上健次の描写力は、この女の「死」を流麗に描ききったことにある。「一瞬に光りの塊のようになって熊野の山々が重なった方に飛び去った」女は、男を救済していくかのように死んでいったともいえる。中上の視線は、「路地」の若者たちへの熱愛がこもったものだ。 しかし、「生きていく気が抜けた」文彦は二十四の時、「路地の松に首をくくって死ん」だ。

 『タンゴ』。連作六篇からなるこの『千年の愉楽』は、「天人五衰」で物語を転位させているかのようだ。ある種、静謐な劇の流れから、戦後という時空がそうであったように、喧騒の場所を過剰に描出していく。明治近代国家は、「穢多解放令」を公布した。だが、むしろ苦難の時間性は重層していった。だからオリュウノオバは、「猿のように獲られて死んだ者」を思いながら「滅びるより増える方がよいと説いてまわり産ませ」てきたのだ。路地の若者あるいは中本の一統は、沈潜した時間性を払拭させるかのように、熱くたぎる夢想を抱こうとする。それは、なによりも「路地」の宿運を解き放ちたいという無意識の「夢」だといっていい。終戦の翌々年の夏の盛りに康夫は、誰も眼にしたことのない蓄音機を携え路地に戻ってきた。そして、タンゴを聞かせ路地の者たちを驚かした。「音」が「声」が「踊り」が聞こえてくる。中本康夫ことオリエントの康はそんふうに登場する。

 『理想の国』。中上の描く「路地」は、国家や共同体から排除された場所だ。だからこそ、「路地」の失われた共同性を獲得し、転化させ、それを発露として、世界へ反照させていくしかなかったのだ。オリエントの康は、「新天地をつくりたいと奇異な情熱を持って」路地の若衆たちを説いて廻っていた。それは、「路地の高貴な汚れた血の本能の命ずるまま」つくるもう一つの満州国のようなものだった。昔、子供の頃に路地から何家族もバイアという土地へ移住していったことを、康は覚えていた。譲司に新天地の場所を聞かれ、「南米のバイヤじゃの」と答えるのだった。こうして、「日本人として新天地で理想の国をつくる事」など、「三カ条の規約をつくり六人の血判を押し」て鉄心会という名の組をつくった。そんなオリエントの康をオリュウノオバは想う。「誰かの為にそんな見も知らぬ他所の国へ行こうとしたのではなく」、ただ死に向かうオリュウノオバの為だった気がした。

 『蓄音機』。オリエントの康は、ダンスホールで地廻りの若衆たちにピストルで撃たれ瀕死の重傷を負う。鉄心会の手下たちが地廻りの者たちとイザコザを起こしたからだ。
「痛みが心臓の動きと共に響いているのを耳にしながら、(略)眼を閉じれば裸足で新天地の道路を横切っている髭面の自分が見えると思い、痛みの呷きとも溜息ともつかぬ声をあげて手をのばして自分をはげますように蓄音機を廻して針を下ろした。」(「天人五衰」)
 やがて、康は集団で新天地に行く事を断念する。そして、蓄音機から鳴るタンゴの音とともに路地の者たちが踊っている場所で、一番の手下だった譲司にピストルで撃たれる。二度の「狙撃の祝福が厄を払った」かのように死ななかったが、その後、一人、南米へ渡り「死んだ」。「音楽は物の怪の力をもち」、「オリエントの康を彼方にとじ込め」たとオリュウノオバは思う。物語は、過剰な死を累積させながら、鮮烈な生を描出していくのだ。

(『点』02号・04.11.15)

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「『千年の愉楽』考・三」

 『義賊』。新一郎は、十七の時に、男親の死を契機に、「誰も手をつけられないような盗人に成長してい」(『ラプラタ綺譚』)た。じぶんを義賊に擬して、別当屋敷や群長の妾の家、鉄道疑獄で捜査されそうなバス会社といった場所に入っては、盗んだものを路地の辻に捨てていた。路地のものたちは、それが盗んだものだと知りながら、しぶんたちものにしていく。だから、誰も新一郎の行状を責め立てるものはいなかった。たまりかねた礼如さんは、何度も意見をすることになるが、聞き入れることもなく、破天荒な所業は続いていく。だが、「川向こうの製紙会社を荒して失敗し」てからは、盗人を止める。そして、しだいに「中本の血の本性を顕わしはじめ」る。新一郎は、旦那に囲われている芸姑の歓心を買うために、草履や下駄の「直し」の仕事につく。茶屋の玄関脇で、鼻緒のすげかえをすることで、芸姑との機縁をつくり、「愉楽」の関係へとすすんでいった。

 『銀の河』。ふたりの噂が花町でたってきたため、かつての所業が知れることを恐れ、新一郎は、行方をくらます。やがて、南米へ渡り、オリュウノオバ宛に絵入り手紙が送られてくる。二年のあいだに届いた六通ほどの手紙は、「銀の河の事が繰り返し出て来」た。新一郎は路地に戻ってきても、すぐには南米のことを語らず、三年経ってようやくオリュウノオバに語る。「ラプラタは銀の河だが、そこもやはり路地と同じように人間の住むところで、羽の生えた天女も臭い女だったしイーグル男もみにくい奇形のアル中にすぎなかった」と。中上が描出していく路地の世界は、場所性を逸脱していく。それは、路地という空間を外部へと連携させたいからにほからない。アルゼンチンとウルグアイの国境間に流れ出るラプラタ川という実際は、「銀の河」という換喩で、わたしたちがもっている路地という空間のイメージに繋がっていく。しかし、中上はこの物語の主人公に水銀を飲ませ自死させるのだ。

 『達男』。わたしたちは、六篇からなる連作短編集『千年の愉楽』を俯瞰して、ようやく最終章へ至る。この「カンナムイの翼」は、オリュウノオバの「死の床」から描き出されていく。だが、全篇に渡ってそうであるように、ここでもまた、時間を往還しながらオリュウノオバの視線から物語は、紡ぎ出されていくのだ。「通夜の今日は、到るところに散った路地の出の者だけでなく、誰もが、どんな時代に生きた者も集まる」という共同性の表象として「死の床」は描かれている。路地の唯一の産婆としての存在性は、多くの路地の者たちの「生」を認証し、「出自」を保証していく有り様を示している。女に刺されて瀕死の中本富繁は、生まれてくる子供のために、五体満足で生まれてくるようにと大蛇が棲むというお堂に潜んで祈願していた。だが、「ふくろうが鳴いた夜」に、富繁は大蛇に飲まれて死んだ。その時、達男は、「何一つ欠ける事なく余分な物もなく」、オリュウノオバにとりあげられたのだ。

 『人間の路地・アイヌのコタン』。十五になった達男は、「何代にも亙って若死にし浄化を繰り返してきた果てに生れたこの上なく尊い仏の現身のように」黄金色に輝いていた。夫の礼如さんが遠くへ通夜で出かけ不在の時、オリュウノオバは、達男と情交し、朝早く戻ってきた礼如さんの知ることとなる。「親が子を抱くように抱いて何が悪いんなよ」と言うのに対して、礼如さんは「ようも、ようも」と絶句するだけだった。この「カンナムイの翼」一篇は、濁流のように中上健次の物語への渇望を凝縮しているといっていい。アイヌ(のコタン)と路地を連結させて、「愉楽」の世界に投げ入れようとしているからだ。達男は、北海道の鉱山へ働きに出で四年ぶりに、アイヌの若い衆とともに路地へ戻ってくる。ここで、達男は、アイヌは人間という意味で、カムイは自然や神のことだと、オリュウノオバに教える。そして、達男は、連れてきた若い衆に「ポンヤウンぺの産婆」だと紹介する。

 『千年の愉楽』。ポンヤウンペは、「キラキラひかる揺り籠(シンタ)に乗ってやって来た神謡(ユーカラ)の、半分は自然・神(カムイ)、半分は人間の名だ」と聞いたオリュウノオバは、「外からやってくる敵を撃退しろと」いう意味に思った。ここに至って、過激な思いを、オリュウノオバに仮託していく。「人間(アイヌ)の路地(コタン)と路地を結び、理由なく襲いかかってくる者ら」に対して、弓矢や鉄砲、爆裂弾で戦争するという想起。それは、「天子様暗殺謀議」で逮捕・処刑されて和尚不在となったのを礼如さんが変わりに路地をまわるようになった因縁ともつながる。この最後の一篇は、達男とアイヌの若い衆が、北海道に戻り、鉱山の暴動を組織して殺されたことに象徴されるように、物語はさらに過剰化していく。愉楽は共同性が孕んでいる熱い渇望なのだ。千年とは、そこに内在している「生」であり「性」でもある。そして忌避できない「死」という場所を意味しているのだ。(了)

(『点』03号・05.6.15)

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