2006年11月24日 (金)

吉本隆明・笠原芳光 著『思想とはなにか』(春秋社刊・06.10.30)

 『アフリカ的段階について』(九八年刊―〇六年・新装版刊)以後、吉本隆明は歴史的・思想的概念を大きく旋回させたといっていい。それは、先行する『母型論』(九五年刊―〇四年・新装版刊)から連なる展開であるとしても、〈初源〉への遡及をさらにラディカルに押し進めていく作業であったと捉えることができる。そういうことを踏まえたうえで見るならば、確かに、本書は、吉本にとって「本領である思想の問題をさまざまな角度から論じた」(笠原・跋)ものであるが、その核となっているのは、やはり、『アフリカ的段階について』以後、展開されている歴史的・思想的概念だ。それは、本書の「序」のなかで象徴的に述べられていることで分かる。
 「仮に人類の歴史を『大』歴史と『小』歴史にわけるとする。未明時代から現在までの政治・社会や文明文化・科学産業など従来考えられてきた人類の歴史は『大』なる外在史であり、身体性から見られた個々人は内在的な『小』人類史と見ることができよう。そしてこの『大』『小』の人類史を媒介するものは『種としての遺伝子』『世界の地域ごとの言語』『それぞれ異なった風俗・習慣』『自然への精神と身体による働きかけの運動性』と見做すことができよう。私たちは壮年になったころ、政治と文学という粗雑な文学(芸術)理念に不満で『思想』と『文学(芸術)』と考え方を改めたことがあった。この場合の『思想』という概念はここでいう媒介概念を意味している。」
 「媒介概念」としての思想という言及のし方にわたしなら注視したい。「情念、感覚」と「理念、イデオロギー」のあいだにあって、「曖昧だけど複雑な領域」を「思想」と捉えると(7P)、吉本は、笠原の「思想とはなにか」という問いに応答している。「曖昧だけど複雑な領域」を例えば、吉本のいい方に倣っていえば、〈含み〉と呼んでいいものだと考えていくならば、「媒介概念」というたて方は、「理念、イデオロギー」へと収斂されない「思想」という既知のカテゴリーを拡張させ屹立させていくものだといっていい。
 こうした捉え方は、例えば、短歌や俳句に関しての言及にかなり明快なかたちで表われている。短歌や俳句が一行の詩といった方向性を持つことに対して、「それならば詩を書けばいいじゃないか」(75P)といいきっている。定型という不自由さにいるのなら、自由な詩形式を選択すればいいとも断言して、笠原との微妙な齟齬を発生させた応答となっていて、「第二章 詩歌のなかの思想」での論及は興味深いものがある。短歌や俳句が一行の詩を指向するということを思想概念に置き換えていえば、「複雑な領域」や「含み」を逸脱して「情念、感覚」の位相から「理念、イデオロギー」へとなんの疑念もなく転移していくことを意味しているといっていいだろう。このことは、「含み」や「曖昧だけど複雑な領域」にこそ表現性の媒介があり、深層があるということを見過ごしていることになる。だから吉本は頑強に短歌や俳句が詩へ共振していくことに抗しているのだと思う。
 そのことを、もう少し敷衍してみるならば、わが古代列島の北方人と南方人の「交換=交流」という歴史概念の拡張した捉え方にもいえることだ。
 「(略)本当の沖縄顔はアイヌと同じで、丸い顔で眉が太くて、そして横顔が立派で、和人というか中央の人とはちがって横顔ができています。(略)日本列島の北のほうはアイヌで、南のほうは琉球か東南アジアとか太平洋の島からやってきたと固定観念で考えてしまうと間違ってしまいます。そうではないのです。それは『交換=交流』なんですね。北の人は北は不毛だとおもって南に行く、南の人はこんなところでは農業はできないとおもって北へ行く。そこで交換が起こる。」(48P)
 いわば、択一的な価値判断(イデオロギー化した思想)を排するという考え方がそこには内在している。短歌や俳句に対しても、アイヌと沖縄に対しても、そこでは〈初源〉への徹底した遡及する視線を示して、母型のかたちへと思考を滑り込ませているといっていい。そのうえで、どんな予見ももたず、思考の類推を押し進め、世界性という幅を思惟のなかに繰り込んでいくことを意味している。
直截にいえば、吉本隆明の思想の方法とはそういうことを指し示しているとわたしは考えている。
 「(略)法律も支配共同体のありかたというものも、宗教や農耕の間に交換―つまり支配者と被支配者が持っているもの、この場合宗教心とすれば―が成り立つ、混合、交換という考え方が自然じゃないかなとおもいます。(略)自然に交換する。自分の持っていないものをもらってしまうし、相手もあげてしまう。」(163P)
 ここでの論及を、かつて『母型論』のなかの「贈与論」で提示した、贈与とは「遅延された形而上的な交換」であるといったことと、関連付けてみるならば、より明確な理解できるはずだ。さて、本書の骨子をうまく収斂させて捉えようとするならば、わたしは、次の様な発言を取り出してみたい。
 「(略)個人が個人としての思想的な葛藤とか煩悶とか信念とかあるとすると、それと同等に男女、家族の問題についての見解も信念もあるし、共同の政治問題についての煩悶も悩みも信念も同等に持つことができるのであって、軽重があるわけではないし、大小の問題でもない、皆同じ重みを持った問題として人間は抱えこんでいるとおもいます。(略)三つの問題が同等な問題としてあることを無視してはならないのです。」(275P)
 これは、難渋する情況的な問題に対する視線の置きどころを鮮明に表明していることに他ならないといえる。一見、『共同幻想論』を敷衍したような言及のし方に思えるかもしれないが、むしろ、「逆立」といった媒介概念をさらに拡張して「含み」を持たせたいい方にしていることが、ここでは重要なのだ。つまり、個人幻想と対幻想、さらに共同幻想を垂直的に措定するのではなく、包括的に、あるいは俯瞰的に捉えていくことを指し示していると、わたしならそう理解する。
 かつて、中沢新一は吉本の『最後の親鸞』は、「二十一世紀に向かって遠く投げ出した思想の砲丸」(文庫版・解説)だといった。わたしは、吉本の本書での「さまざまな角度から」の鮮烈な論及に接して、あらためてその「思想の砲丸」という卓見的な捉え方を本書に対しても付してみたいと思っている。

(『図書新聞』06.12.2号)

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西川徹郎 編集『銀河系通信 第十九号』(茜屋書店刊・06.8.25)

 六年ぶりに第十九号が発行された。しかも、この間の空白を埋めるかのように重厚な作品・論稿群で構成された七〇〇頁を超える大冊として。誌名を『銀河系つうしん』から、『銀河系通信』に変え、判型もB5判からA5判に変更された。
 西川徹郎は極北の地にて孤高の俳句表現者としてあり続けながら、俳句の〈世界性〉を追求している。もとより、俳句に限らずなにがしかの自己表現に関わる領域は、俳壇、歌壇、詩壇、文壇とすべてに渡って不透明でしかも縦割りの閉じた幻想共同体を形成し、そこに安住し続けている限り、表現性は保証されていくという自己撞着の位相を持っている。例え、極めて作家性が強い表現者であっても、知らず知らずのうちにその環界に入ってしまえば、停滞した表現に陥ってしまっていることをわたしはしばしば目にしている。
 また、吉本隆明の『試行』を例示するまでもなく、個人誌、あるいは少数者によって発行される雑誌が、深度ある内実をもちながら継続させて発行していくことは並大抵の膂力ではできない。しかし、創刊して二十二年、斎藤冬海という最高の伴走者とともに、西川は、『銀河系通信』という場所を通して、さらに加速し、疾走しているのだ。

 マネキン横抱きに走れはしれと青みぞれ(『死亡の塔』)

 個人誌というかたちをとりながらも、『銀河系通信(旧・つうしん)』は、これまでも多彩な表現者に誌面を開いてきた。当然、俳壇・文檀的な繋がりは採らない。今号もまた、再録を含め、吉本隆明、芹沢俊介、川本三郎、笠原伸夫、稲葉真弓、吉本和子といった名が連なっている。
 本号の内容を簡潔に列記してみればこうなる。
 巻頭に置かれた「俳句の前線(皆川燈/星野泉)」に続き、西川の「誌上句集 銀河小學校 自選二千句」が配置され、「特集Ⅰ 世界文学としての俳句」、「特集Ⅱ 寺山修司とは誰か」は、西川の論稿・講演録を中心に収めつつ、五十嵐進の「西川徹郎論ノート」をはじめとした秀逸な西川論を幾篇か収める。五年前に他界した『吉本隆明全著作集』の編集で知られる川上春雄は、斎藤冬海の父の友人であり、西川・冬海の二人にとって敬愛する吉本隆明に連繋する詩人として通交を重ねてきていた。「追悼 川上春雄」という一章を設けているのは当然のことだ。特集のようなかたちで川上春雄を追悼した雑誌は、これまで本誌ただ一誌であることを強調しておきたい。以下、「特集Ⅲ 小笠原賢二 極北の詩精神」、「特集Ⅳ 孤高の詩人」、「第三回 銀河系俳句大賞 決定発表」(註・受賞者は平敷武蕉)、「特集Ⅴ 修羅の日本文学史」、「特集Ⅵ 漂泊の詩人 高橋紀子」(註・吉本隆明の実妹)、「特集Ⅶ 現代俳句の異星 三十四俳人」(註・阿部完一、伊東聖子、大井恒行、柿本多映、宗田安正、安井浩司他)、以下「銀河系の彼方へ」と題した書評などの再録やエッセイ群が続く。そして最後に西川による「黎明通信No.19」が置かれる。
 「星月の光が湖水を通って湖底の白砂を間近に浮かび上がらせて輝くのと同じく、私の俳句は遥かなる銀河系銀河の星々の光を受けて〈生の全体性〉の悉くが湖底の白砂のように輝く。有季・定型の文語俳句が季語・季題を主題とすることに対し、私の実存俳句が〈生の全体性〉や〈生活の総体〉を主題として書かれていることは、私の論文(略)の中で既に明確にしておいた。」
 「私は、〈文学としての俳句〉の樹立の為に、『反季・反定型・反結社主義』を掲げて、血塗れた筆剣を以て修羅を持続し、この〈俳句革命〉の闘いを何処までも戦い抜くことを、ここにあらためて宣言しておく。」
 この熱く鮮烈な表明を、わたしもまた支持してやまないといっておく。

(『図書新聞』06.12.2号)
                 

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2006年11月 2日 (木)

うらたじゅん 著『嵐 電 RANDEN うらたじゅん作品集』(北冬書房刊 ・06.9.20 )

 三年ぶりの作品集である。この三年という時間の累積は、確実にわたしたちにある種の息苦しさややるせない感慨を強いてきたように思われる。作者であるうらたじゅんにとっては、どうであったろうか。
 当然のことながら「金魚釣りの日」や「川をのぼる魚 虹色の銃」には、情況が強いてくる鬱屈感を反映させていると見ることができる。だがそれらの作品には、わたしたちが抱いてしまった感慨を濾過させてくれる力が内在しているといっていい。うらたじゅんがもっている“濾過する力”とは、いうまでもなく現実というもののリアルさ(国家や戦争といういわば生活への軋轢を喚起させるものに代位してもよい)に、〈記憶の物語性〉を対峙させることによってそれを相対化させていくことを意味している。もちろんここでいう“記憶”とは一見、作者自身の“私的”な相貌をもちながらも、実はわたしたちの基層の記憶の襞へイノセントに訴えかけてくるものだ。「夏休みの里」や「嵐電RANDEN」という作品を象徴させるまでもなく、うらたじゅんが漫画という境界を超えて極めて際立った物語性をもった表現者であればこその水位を獲得していることを意味しているのだ。
 「金魚釣りの日」という作品は、主人公のミヨが少年少女期を回想しながら、父の青春期の残像を交錯させた位相にモチーフを潜在させている。かつては子供たちが唐突に遭遇する死は病死を除けば、今日のような殺人による死や交通事故死ではなく、遊行中の水辺でのものが、じつに多かったように思う。わたしの少年期を振り返っても川で遊泳中(いまのようにプールというものはほとんどなかった)に亡くなるということがよくあったことを覚えている。遊び場が自然の場所である限り起りうることだった。この作品でも、ミヨのために金魚を釣ろうとして友達の男の子ケンが川で溺れてしまった出来事が大きな傷痕として残っていることを描出している。また、少年少女期によく遊んで親しかった友達と転住とともに通交がまったく途絶えることへの悔恨を回想譚にして深い心象劇として描いている。そして、うらたじゅんの作家としての力量は、そこへ父の青春期の残像を異和感なく見事に差し入れていることだ。南方で「戦死」したとされている父の幼馴染が、もしかしたら生きてジャングルを彷徨っているかもしれないという物語を核にして、ミヨは溺れたケンを助けてくれた人が父の幼馴染に違いないとするイメージに重ねてあわせていく終景への展開のさせ方は、うらた作品のあらたな段階への達成とともに、わたしたちの情況とのきつさを濾過する力ともなっているとわたしは思う。ケンの死から生への救済と、「戦死」したとされている父の幼馴染を救済して生へとイメージ化したうらたのこの作品は、父の青春期における、〈死〉をめぐる物語として描出した「鈴懸の径」とパラレルにあるといっていいかもしれない。
「川をのぼる魚 虹色の銃」は、全篇、ヨーコが従兄のケンジを「君」と語りかけるモノローグで展開されていく。ケンジは、「世界の流れを変え」るという“妄想”によって、隔離病棟の患者になっている。ヨーコとケンジの熱い往還は、隔離された身体にあっても、「きっと君をここから救い出す!そして私が君を守る!」「君が倒れても私が君の夢のつづきを生きる」というヨーコの鮮烈な言葉をのせた終景として描かれていく。「ぼくは本気でこの世界の流れを変えたいと思っていた」とケンジに語らせるうらたじゅんは、この間の情況が強いてくるものにあたかも直接的に対峙しているかのようだ。もちろん、それはひとつのメタファーとして捉える視線だ。わたしは以前この作品に触れて吉本隆明の詩篇「廃人の歌」を思い浮かべたと述べたことがある。「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」という衝撃的な吉本の詩句と、長編詩の装いをもったこの作品を同一線上で語れることをわたしは僥倖なことだと思っている。
 集中の一篇一篇について語るべきかもしれない。いや、語りつくしたいという欲求を抑えることができない。特に辻潤の二番目の女房キヨをモチーフにした「うはばみのおキヨ」、黒猫ミーコの化身の物語、「眠れる海の城」の二作品については、機会があれば、あらためて稿を起こしてみたい。
 わたしはなんの衒いもなく、率直にこういっておきたい。読者としてうらたじゅんの作品に接するということこそ、最高の物語の渦中に入っていくことなのだと。

(『図書新聞』06.11.11号)

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2006年8月28日 (月)

松本健一 著『日・中・韓のナショナリズム―東アジア共同体への道』(第三文明社刊・06.6.12)

 歴史を物語ることとはなにか。本書での松本健一は、そう問い掛けながら、現況の様々な問題を切開しようとしている。むろん、ここでの歴史とは近現代史のカテゴリーに含まれる時間性を意味している。
 松本はこう述べる。
 「私は、『歴史はつねに現在の物語である』と考えています。かつてあった事実を『いま』、『私』が物語る、というのが歴史でしょう。(略)私にとって歴史の方法とは、過去の事実を、『いま』という時点から、『私』という主体が語るというものなのです。」(66~68P)
 ソ連邦崩壊によって、米ソ対立構造という世界の枠組みは、グローバリズムという僭称のもとアメリカ一国支配構造へといっきに至っている。そして、そのことへの反転としてナショナルな情勢が様々に生起していることもまた、確かなのだ。わが国では、小泉政権誕生後によって惹き起こされてきた諸々の位相における「気運」は、松本に倣っていえば、アメリカに対してとは違いアジアに対しては明らかに「閉じられたナショナリズム」を頑強に主張しているといっていい。だが一方では、わが国とのあいだに深い軋轢が生じている韓国、中国においても、それは同様のことがいえるのだ。なぜなら、互いの歴史への「物語」の記述に、「かつてあった事実を『いま』、『私』が物語る」という視線が欠けているからだ。“日・中・韓”とも、「私」が語るのではなく、過去の「国家」という幻想が語っているにすぎない。つまり、国家としてのアイデンティティとして歴史を語る限り、そこでは交錯や通交は発生しないということになる。
 松本が本書で語っていることは、極めて明快なことだ。「靖国問題」、「歴史教科書問題」、「領土問題」、「憲法改正問題」と、現在の東アジアにおける暗渠のような隘路に陥っている政治的・歴史的問題を、「『私』が物語る」ことによって見事に切開しているからだ。
 靖国神社が、戦後、「国家神道の要素を残した」かたちで宗教法人化して、〝ねじれた状態〟であり続けてきたことをつよく指摘しながら、A級戦犯合祀の矛盾を鋭く突く。そして先の戦争に対する見地を、松本は、竹内好の論稿「近代の超克」を援用しながら、「大東亜戦争の二面性」という視線で明らかにしているのだ。
 「一つは、米英に対する帝国主義国家『間』戦争という側面です。ここでは、正義も不正義もない。あるのは、帝国主義国家同士が覇権を争って、勝つか、負けるかということです。(略)もう一つはアジアへの侵略戦争です。(略)『アジアの解放のために』という美名は、ある意味では欧米からアジアの植民地を奪うことだった。(略)A級戦犯というとき、米英に対しては単に帝国主義『間』戦争に負けた戦争指導者ということです。しかし、アジア諸国に対してとなると侵略戦争を起こした責任が問われてくるのです。」(43~44P)
 たぶん、ここ数年の十五年戦争をめぐる言説の多くは、ここでいう「二面性」をひとつのものとして、あるいはまるごと一体のものとして錯誤して捉えてきてしまったことにある。歴史教科書の書換えを目論む勢力が主張する自虐史観からの脱却という方途は、戦後のアメリカ的民主主義の網目の綻びを恣意的に大きく引き裂こうということなのだろうが、それ自体、間違いではないとしても、しかし、網目のなかにあるものを直視していないことからくる、皮相な行為としてしか、わたしたちには映らないのだ。時としては滑稽な、憐れみを誘う、先の戦争を正義の戦争としなければならないという喜劇を演じているといってもいい。松本が竹内好の「二面性」論を援用することの意味は、その網目のなかの深い位相を掘り起こすものであることは、自明なことなのである。
 ところで、ひとつだけ、憲法九条の問題だけが、わたしにとっていくらかの異和として残った。松本は九条の堅持を基本的には主張しながらも、自衛権は保持するというものだ。ただし、海外派兵の禁止や自衛という方便による攻撃にしっかり足枷をするという考えである。それ自体、かなり合理性を持ったものだし、確かに現実的であるかもしれない。だが、わたしは、国家であることのアイデンティティとして軍隊を保持するという考えはとらない。だから、「国家」を“開く”意味において、例え純粋自衛であっても国軍を否としたいと思っている。
 さて、本書における松本の眼目は、「共生」ということである。中国の驚異的な経済発展を背景とした新たな覇権主義に疑義を呈しつつ、中・韓が主張してやまない歴史問題や領土問題に潜在する「閉じられたナショナリズム」を超えるものとして「共生」への指向を提起している。
 「自分と他者の間に線を引いて自分の権利を主張する。これが西洋近代を引っ張ってきた『民主』の理念なら、それを超えていく理念が『共生』の思想です。」(211P)
 戦後(アメリカ的)民主主義が、その内部から破綻をきたしている時、対処療法として噴出する閉じたナショナリズムではなく、東アジアをめぐって共生へと向かうべきだとする松本の提言を、わたしなりにいいかえればこうなる。過去の歴史物語に視線を巻き込まれていくのではなく、未知の歴史物語を開いていくことが、現在のまた、これからの道筋であると。と同時に、これからの「国家」は“開いて”いくべきだということになる。

(『図書新聞』06.9.2号)

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2006年8月 1日 (火)

小川和佑 著『名作が描く昭和の食と時代』(竹林館刊・06.4.20)

 昭和という時代を遠望することは、もちろん、ただ回顧的になにかを振りかえるということを意味しない。近代天皇制下の元号歴でいえば、昭和という時代区分がもっとも多くの時間性を累積したことは確かだが、十五年戦争を通してわが国が、歴史的に大きな転換を強いられる契機をもったということを重大なファクターとして了解のなかに入れなければ、時代論としての意義はないと思う。
 長年にわたって多くの文学評論をなしてきた著者が、あえて(といってもいいであろう)、「文学作品」と「食」を連結させて本書を著わしたのは、通俗的な「食文化論」を提示したかったからではないし、ましてや、書名に表われているような、「名作ガイダンス」のバリエーションを、いまさらのように試みようとしているわけではない。
 昭和一桁生れの著者の世代は、十代で“十五年戦争を通した転換期”を体験するという、もっとも苛酷なアドレッセンスを持っている。もう少し年長であれば、まだ自らの体験に対する相対化ができる。また、年少であれば、後年、体験の浮遊の仕方は、ある種の濾過のされかたによって、リアリティ性は昇華されることとなる。だが、著者たちの世代は、そうではないのだ。本書の中で、一九三〇(昭和五)年生れの著者が自分と同世代作家だった高橋和巳(昭和六年生れ)や開高健(昭和五年生れ)に共振していくのは、当然のことだ。
 「高橋和巳の『邪宗門』(一九六六・昭和四一年)と、開高健の『青い月曜日』(一九六九・四四年)の二冊の長篇小説は少年期の飢餓体験に深く根ざした小説であった。
 彼らと同世代の戦中・戦後に生きた都市の少年たちは、高橋、開高らと同じ、肉体的にも精神的にも、『飢える魂』を抱いて過ごした世代であった。
 その『飢える魂』が高橋和巳に『邪宗門』を書かせたといってよい。(略)千葉(引用者註・作中主人公)の閉じた両眼から涙が一筋頬を伝わり落ち、そのまま倒れ伏して息絶える終章は凄絶というよりも、これ以上、文学ではもう哀しみを描くことは不可能だろうという思いを読者に与えずにはおかない。」(119~121P)
 空襲によって焦土と化した都市(特に、東京や大阪といった大都市)には、飢えと寒さによって多くの小さな生命が失われていった。そいうことのイメージ像が、『邪宗門』の終章に投影されていると著者は見事に捉えていく。
 だから、著者・小川和佑が本書で展開する「食」を通した昭和時代論は、今日の繁栄の中に潜在する哀しみを描出している文学作品を丹念に読み解くことによって成立させているものだ。「食」することの極限、食人行為(大岡昇平の『野火』や武田泰淳の『ひかりごけ』)から、反「食」行為の極限、断食して自死へと向かう高橋和巳の『邪宗門』まで、人間存在の深度を探る批評性は、際立っている。
 「昭和の文学が描いた食は人間の生きる哀しみに満ちている。
 繁栄の現在の時間の、はるか半世紀の彼方にこの哀しみがある。しかし、その哀しみに立ち合い、涙を流した人々の多くは老い、死んでいった。」(132P)
 こうした視線から、では現在という場所はどう見えてくるのだろうか。村上春樹の『ノルウェイの森』のなかの「食」の描写を「歓び薄い食」であると捉えながら、次のように述べていく。
 「満足感とはおよそ遠い食卓の風景である。半世紀五〇年、二つの異なる時代をを経てきた昭和の生活感覚は明らかにこの描写のように変質した。(略)食事を決して、楽しみながら食べてはいない。義務のように食べる。そして、なかば手をつけて皿を下げさせる。それはしばしば見る光景である。拒食の時代なのだ。空腹を知らない世代。」(168~169P)
 作品論を通して、現在の時間に漂うものを透徹しようとする著者の方位は、「飢える魂」が無化してしまった場所だ。
 それでも、わたしは(たぶん著者もまた)、本書のなかで論及されている例えば、宮沢賢治や堀辰雄がもっている「食」へのイノセントな憧憬感というものを切実な思いとしたいのだ。
 「賢治の飢渇にも近い東北近代化の夢語り」である「食」の詩にあふれるもの(28P)、東京下町育ちの辰雄が「焼きたてのパンの香りは異文化の発見」だとして書き留める詩篇(49~50P)、著者に導かれながら、こうした「食」への憧憬感が、いま、失われてしまったことをあらためて考えざるをえない。もう一度、わたしたちは原初の場所へ視線を向けるべきなのかもしれない。

(『図書新聞』06.8.5号)

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2006年6月11日 (日)

うらたじゅん、山田勇男他 著 『幻燈 6』(北冬書房刊・05.11.5)

 つげ義春・つげ忠男以後の劇画・漫画表現を追及し、多くの秀逸な作品群を掲載し続けてきた『幻燈』の第6集が一年半ぶりに刊行された。うらたじゅん、菅野修、西野空男らがそれぞれ二作品を、『夜行』の常連、斎藤種魚が『幻燈』誌上初作品(第1集の装幀を担当しているが)、「アヌス・スプリングの虹」を発表し、また、映画『蒸発旅日記』の監督・山田勇男の漫画作品と劇評そして天野天街との対談など、読み応えのある作品・論稿が数多く収載されている。
 作品として真っ先に取り上げたいのは、河内遥の「ねむりじたく」だ。前作「乙女チャンラ」で『幻燈』初登場以来、注目されるこの作家は、大手少女漫画誌での本格デビューも近いようだ。独特の呼吸感漂うこの作品は、浮遊する現在をうまく投影させている。少女漫画への指向も持っている河内だが、確かに圧倒的な技量性がある。だが、それに寄りかからず、むしろ大胆に自らの世界を描出していくべきかと思うが、どうだろう。初登場の木下竜一は、「神隠し」、「旧友」の二作品とも四頁の短いものだ。線描のタッチと独特な構図が醸し出すものは、一枚一枚の絵画作品を積み重ねたような構成をとっている。次作はどういうものを見せてくれるのか、期待したい。「アヌス・スプリングの虹」は、斎藤種魚の詩的世界を久しぶりに見せてくれている。この作家は、『幻燈』のような場所がふさわしいと、あらためて思った。
 劇画・漫画作品以外では、宮岡蓮二の評論「英霊異論―うらたじゅん『鈴懸の径』は『靖国』を撃つか」は力論である。力論であることを認めつつも、しかし、わたしにはどうしても釈然としないものが、読後、残ったといってよい。十五年戦争下の戦死者を「英霊」として祀る靖国神社の問題は、国家と天皇制の切開を迫っていくものだ。そのことにもちろん、異存はない。かつて加藤典洋の『敗戦後論』が提起したのは戦争責任と戦後責任のある意味、切断であり、責任という概念を拡張することにあったとわたしは見ている。つまり、「日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か」というものであった。そのこと自体、必ずしも錯誤的な論述だったとわたしは思わない。戦争責任・戦後責任の問い掛けの多くは、加害者として、アジア二千万の死者への哀悼を先行すべきだというものだ。宮岡の論旨もその中にはいる。ならば、加害者とは誰かという問題、あるいは戦時下における被害者はアジアや南方地域の人たちだけなのかということが、厳密な意味でほんとうはせり上がってくるはずだ。わたしなら、〈死者〉とは誰か、〈死者〉とはなにかということを、すべての国家(間)による戦争を考える時に、まず、想起する問題だ。宮岡は、うらたじゅんの「鈴懸の径」(『幻燈 3』収載)に、「『加害者』という認識が欠けている」と批判する。それは、十五年戦争下における父の世代の青春期を描出したこの作品に対して、「加害者」の視線を具体的に描出しなければ、作品として高い質を持つことができないと論述しているのに等しい。たぶん、宮岡はうらたとの近接した通交のなかで感じた「あやうさ」(本論でそういういいかたをしているが、実は、この「あやうさ」を宮岡は具体的に述べていない)から、そのような思いを抱いたのかもしれない。しかし、それは作品論として逸脱しているとわたしは考える。宮岡が、現在の情況に苛立ち、憤激していることは分かる。だが、そのような思想情況とうらたじゅんの「鈴懸の径」の作品を対峙させて語るのは、かなり強引な手法であるといいたくなる。そもそも、宮岡は、この作品のモチーフになっている灰田勝彦の「鈴懸の径」という歌に対しても疑念を持っているようだ。たぶん、軍歌はすべて否定すべきものという思いもあるはずだ。そこが、わたしとの差異になっている。わたし自身もこの作品に、少なからず疑念がないわけではない。だが、わたしなら加害者の視線のなさということを、この作品に対しては導入しない。このことは、機会があれば、別の場所で述べるつもりだ(ひとことだけいえば、時間軸の移動が作品構成上うまくいっていないということがある)。ところで、この宮岡のうらた批判に呼応するかのような作品が、今集の新作「金魚釣りの日」である。父の幼馴染はビルマで戦死したとされるが、もしかしたら生きてジャングルを彷徨っているかもしれないと思われていた。自分のために金魚を釣ろうとして川で溺れた友達の男の子を助けてくれた人が、父の幼馴染に似ていたとイメージしていく終景への展開のさせ方は、うらたがあらたな段階へと達したと感じさせる作品になったと、わたしは思う。うらたは、この新作でも、「鈴懸の径」でも、〈死〉というものを、あらゆる予見(反戦や聖戦という意識性)を排してイノセントに救済させたかったのだと、いっていいかもしれない。

(『図書新聞』06.1.28号)

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2006年6月 1日 (木)

吉本隆明・芹沢俊介他 共著『還りのことば 吉本隆明と親鸞という主題』(雲母書房刊・06.5.1)

 吉本隆明の『最後の親鸞』(1976年)は、吉本の代表作のひとつであるばかりでなく、戦後のわが国における尖鋭なる思想的所在を指し示す最重要な著作といっていい。宗教論という枠組みを超えて、『共同幻想論』以降の喚起するモチーフ、〈国家〉、〈宗教〉、〈法〉という人間の観念が発生せしめた制度・システムと存在することの方位(生と死の環界)をめぐって真っ芯に考究した仕事だった。
 それから、三十年。吉本と親鸞の通交の場所をいま一度、再検証し、この閉塞した現在を撃つ手立てを模索する試みとして本書は提示される。
 前半部は、吉本を囲んでの鼎談二篇(「還相の視座から」、「〈空隙〉より出る言葉」)。後半部は、芹沢俊介「吉本隆明『存在倫理』をめぐって」、今津芳文「『正定聚』をめぐる断章~主に吉本隆明の親鸞論から」、菅瀬融爾「已然形の親鸞」の三論稿で構成される本書の眼目はなんといっても、オウム以後・九・一一テロ以後における現在という場所をどう措定するかということだ。
 「宗教というのはかたちが変わる部分と、かたちは変わらないけど段階が変わる部分とがある(略)、宗教のある部分を法律的なものが代表するようになってくる(略)、法律のある部分は民族国家や国民国家が代表するようになります。」(39P)
 「社会倫理でも、個人倫理でも、国家的な倫理でも、民族的な倫理でもなく、人間が存在すること自体が倫理を喚起するものなんだという、全く別な倫理がある。つまりそこに〈いる〉ということ自体が〈いる〉ということに対して倫理性を喚起していく。この存在の倫理を設定してみると、テロの巻き添えを食って死んだ人と、乗客をおろさなかったこととは、同じに見えてもまったく違うことなんですね。」(54P)
 二〇〇一年、アメリカの同時多発テロにおいてニューヨークの二棟の世界貿易センタービルにそれぞれハイジャックされた旅客機がもろとも激突していった事件は、依然、多くの傷痕を残しながら、その後のアメリカの覇権戦争というグローバリズムに拍車をかけていった。当時、事件直後、吉本は、激突されて亡くなったビルの人びとと、ハイジャックされたまま亡くなった乗客とは、その死に関して位相が違うといったことを述べ、〈存在倫理〉という概念を提示した。かつて吉本は、オウムが生起した事件をめぐって、地下鉄サリン事件は否定・指弾はできても、麻原の教義理念はある程度、評価せざるをえないと発言して、多くの誹謗中傷にさらされた(本書の共著者、芹沢もそうだった)。そしてまた、九・一一テロをめぐっての、〈存在倫理〉発言は、多くの誤解と非難の情況をかたちづくっていったことは、記憶に新しい。なぜ、そのような誤解と錯誤の情況を生起してしまうのか。どのようなテロ行為によって惹き起こされようが、死はすべて同じもので認めることができないということは、一見、普遍原理のような命の等価という倫理性を満たしているようにみえる。しかし、よく考えてみるならば、エキセントリックで、しかも欺瞞に満ちた正義の戦争を宣言するブッシュ発言と同じ水位に敷衍できることに気づくべきなのだ。そこには、普遍原理、普遍倫理という纏いを抱きながらも実は、存在の深度を含まない、政治的・宗教的言説にうらうちされた傲慢な視線が内在しているのだ。
「(略)人間力というのは根本的に何なのか。一言でいうと、自己についての自覚ということになります。
 つまり思考することと実行することの間にはあるひとつの空隙、分離があって、そこの分離のなかに人間だけが言葉を見出したりするわけです。(略)この分離が非常に重要なことで、その場合にはかんがえる自己であるところの〈自己としての自己〉と何かを行うところの自己である〈社会的自己〉との分離ということになります。」(90P)
 吉本が、〈存在倫理〉から〈人間力〉としての〈自己〉の存在根拠へと思考の深度を深めていったのは、ビルに突入してビル内の人びとの多くに死者が出たことは仕方がないが、乗客を乗せたまま激突したのは容認できないといった転倒した考えを披瀝しようとしたいからではない。
 ブッシュがテロ後すぐさまテロ犯を特定できた(したかったというべきか)のは、宗教国家のひとつの最終形態である国民国家(もっと率直に帝国と擬定してもよい)・アメリカと、もうひとつの最終形態である民族国家・中東国家群との国家間戦争(もちろんキリスト教対イスラム教という宗教戦争でもある)が、とうに発生していたことを容認したものなのだ。だから、テロ以前、以後にかかわらず、既に戦争下にあったと見做すべきだといってもいい。とすれば、「戦争では非戦闘員が死ぬこともあり得る」(53P)という位相において、ビル内の死者は戦争下における非戦闘員と見做せるが、乗客たちはそうではない、非戦闘員ではないのだから、降ろした後に突入すべきだったという根拠を、吉本は、〈存在倫理〉から〈人間力〉としての〈自己〉へという思考を深化させて提起しようとしているのだ。テロ犯における思考と行動のなかに分離・空隙を埋めるものがないことを析出する吉本は、そのまま、現在、わたしたちが難破してしまった場所へと見通していく。
 「存在あるいは存在根拠というのが(略)問われた場合には、(略)他者との関係とか時代との関係といったあらゆる関係がぜんぶどこかに集約されて、集約されていながらその区別はきちっとついているという状態が、ぼくらが現在望み得る人間力としての最後の課題なんだとおもいます。」(98P)
 いま、切実に存在の深度を見定め、捉え返すことの必然を、吉本の新著から突きつけられたとわたしは思っている。

(『図書新聞』06.6.10号)

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2006年4月25日 (火)

貸本マンガ史研究会 編著『貸本マンガRETURNS』(ポプラ社刊・06.3.8)

 「貸本マンガ」という言葉を思い浮かべる時、ある時代の相や文化的な相を抜きにしては語れないといってもいい。あるいは、「紙芝居」と並んで、懐古趣味的に振り返られる場合もあるかもしれない。さらに、誰にでも、少年期・少女期というものがあり、アドレッセンス前期のなかで体験されていったことは、その後の自分自身の様々な感性を育む契機として大きな意味をもっていると捉えることもできるはずだ。わたしの場合は、まさしくそうだった。『貸本マンガ史研究9号』(現在は16号まで刊行中)にも書いたことだが、ほぼリアルタイムで、白土三平の『忍者武芸帳 影丸伝』を借りて読んだ。読み終えた時の衝撃は、当時、中学一年生だったわたしにはどんな書物よりも遙かに大きかった。マンガというものは、中学、高校と上級に進学していくに従って読まなくなる(読むことを強制的に禁止される)ものだったが、たぶん、わたしの世代(大学生がマンガを熱心に読んでいるとはじめて喧伝された世代)以降からは、成人してもマンガは読んでもいいものになったといっていい。いまでこそ、マンガは子どもから大人(上限は限りなく上昇している)まで、読むことが当たり前になっているが、かつては、マンガは子どもだけのものであり、そこには、「知」の源泉がない、たんに娯楽的なものだと思われていた。その最も象徴的なのものが、「貸本マンガ」群であった。だが、わたしたちが、上級学生になっても手放さないで読んでいたマンガ(もちろん「貸本マンガ」も含む)は、どんな古典的な文学作品よりも魅力あるもので、なおかつ多くの事柄を啓発してくれるものだったのだ。いま振り返ると、『忍者武芸帳 影丸伝』をはじめとして、漫画・劇画作品が、文学作品や映画作品と充分に拮抗できるまでの物語性や表象性を獲得しつつある時だったともいえる。わたしは、高校生の時、白土の「カムイ伝」を読むためだけに『ガロ』を購読しだし、つげ義春の「沼」に出会って衝撃を受け、『ガロ』を通して、さらに水木しげる、つげ忠男、林静一を知った(誤解を恐れずにいえば、わたしは手塚漫画にはなんの魅力も感じなかった)。つげ兄弟も水木も、そもそも貸本マンガ家として出発しているのだ。そう考えるなら、現在、流通する多くの漫画・劇画作品は、こうした基層に支えられてきたといっても、決していい過ぎではない。極論すれば、読者年齢層を拡張させ、ひとつの表現作品としてマンガを屹立させたのが、「貸本マンガ」の『忍者武芸帳 影丸伝』であったといってもいい。
 「貸本マンガ史研究会」のメンバー(本書の執筆者を列記しておく―梶井純、吉備能人、権藤晋、ちだ・きよし、三宅秀典、三宅政吉)にとって、わたしの思い込みは迷惑かもしれないが、彼らが、わが国の高度成長期前、つまり、〈戦後〉という意識が依然、潜在していた時期の、十年にも満たない「貸本マンガ」隆盛期に焦点を当てて論じることは必然であったと思う。
 「短命であった貸本マンガが、現在のマンガの隆盛を準備したものである」からこそ、「貸本マンガの全容を戦後史的な視角から記録し、分析する活動」を通して、「貸本マンガの豊かな、そして可能性に満ちた世界を提示しよう」(本書「あとがき」)として、研究会を結成し(一九九九年)、研究誌『貸本マンガ史研究』を発行、そして本書を彼らは編んだのだ。当然、ここで重要なことは、「戦後史的な視角」ということであり、なによりも「マンガ」に強く魅せられていること対して率直になることである(終章「貸本マンガに溺れて」は、そんな文章だ)。
 さて、本書の内容に触れていく。
本書の論稿は、すべて書き下ろしである。総論的な「序章」と、「終章」の間に、全5章を配置し、「時代劇マンガ」、「ミステリー、ハードボイルド、アクションマンガ」、「少女マンガ」、「怪奇マンガ」、「青春マンガ」といったジャンルに分け、それぞれについて精緻に論及している(数多くの図版、用語解説的なコラム、巻末の充実した関係年表・リスト類、そしてなんといっても、うらたじゅんの“パラパラマンガ”があり、豊穣な構成になっている)。
 「ここで特筆しておきたいのは、『幕末風雲伝』(引用者註=つげ義春作品)のような作品は、一般雑誌には絶対に掲載されなかったことだろうということである。絶望感とニヒリズムに覆われたマンガは、貸本マンガにおいてこそ通用した。」(「1章 ヒーロー現る!」)
 「佐藤(引用者註=『黒い傷痕の男』などの代表作がある佐藤まさあき)にとって戦後とは、『経済成長』のなかで簡単に忘れてしまえるような次元のものではなかった。そして佐藤の読者たちも同様に厳しい時代と社会を現実に生きたわかものたちであった。」(「2章 ミステリー、ハードボイルドの誘惑」)
 「(引用者註=水木しげるの)『悪魔くん』が目指した世界は、ひとつの理想郷(ユートピア)であった。『河童の三平』に描かれた郷愁にみちた世界が、かつてあった理想郷だとすれば、『悪魔くん』が求めた世界は、まだ見ぬ『理想郷』といえよう。(略)貸本マンガの登場とともに怪奇マンガも生まれた。(略)勃興してきた大手資本によるマンガの出版は、その表現領域を広げ、怪奇マンガもまたそのなかに取り込むことになる。それは貸本マンガで進化した怪奇マンガによって支えられているだろうことはいうまでもない。」(「4章 異世界への誘い」)
 執筆者たちの思いを凝縮してみれば、こうなる。これらの論及が示すものは、「豊かな、そして可能性に満ちた世界」というものが、「貸本マンガ」をめぐる場所にあったということだ。それは、まぎれもなく〈戦後〉という時代の相を象徴したものである。
 だから、わたしは貴重で重要な一冊が、いま刊行されたと、なんの衒いもなくいっておきたい。

(『図書新聞』06.4.22号)

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橋爪大三郎 著『隣りのチャイナ―橋爪大三郎の中国論』(夏目書房刊・05.12.1)

 社会学者・橋爪大三郎の「中国論」である。わたしは本書を前にして、やや意外な思いを持ったといっていい。つまり、橋爪と「中国」の“取り合わせ”に対してである。「あとがき」によれば、最初に中国を訪れたのは一九八八年とのこと。以来、中国語会話を習得しながら、何度も訪れ、中国の学際人との交流を重ねてきていることを初めて知った。本書はいわば、この間の集大成といった趣がある。発表年次は、一九九三年のものから、最新の書下ろし論稿まで、インタビュー構成あり、対談、座談会ありと多彩にわたっている。
 “隣りのチャイナ”とは確かに、意味深い言葉だ。近くて遠いとはよくいわれるいいまわしだが、日本(人)と中国(人)の間には、つねにそんな隔たり感をもたらす。橋爪は、もう少し踏み込んで、「似て非なる国、中国と日本」と率直に捉えている。
 「『不幸な過去』(歴史問題)が互いを隔てているだけではない。中国と日本は、文化が異なり、社会が異なり、人びとの考え方、感じ方、行動様式が異なるのだ。このことをよくわきまえないなら、相手を理解しようとすればするほど、誤解を生じる。」(「チャイナ原論」)
 「中国は世界の中心であることに慣れており、反対に、日本は世界の周縁であることに慣れている。中国人は、なんでも良いものは中国にあると思っており、反対に、日本人は、なんでも良いものは外国にあると思っている。だから日本人は、外国のものを取り入れるのに抵抗がない。」(「似て非なる国、中国と日本」)
 ここでは、日本(人)と中国(人)をアジア(人)という枠組みだけで同じカテゴリーに入れることはできないということが示されている。むしろ、列島性による地勢的な環境と大陸性という広大な空間領域を感性に組み入れられていることの大きな違い、非対称性にこそ視線を潜らせる必要が、日本(人)と中国(人)の懸隔にはあるといっていいかもしれない。もしかしたら、日本(人)が、アジアにおける特殊形態を指し示していると見た方がいいかもしれない。十五年戦争を経ながらも、マクロ的数字(国民総生産・GDP)では西欧に肩を並べる、あるいは超えたかたちの高度消費社会段階に達した日本が、経済発展において後発の中国や韓国の格好のターゲットになったのは、当然のことであった。六〇年代末の文化大革命によって未曾有の権力闘争を経ながらも、毛沢東政権から鄧小平政権という政治路線は、十億人以上の国民を有する社会主義国家体制化という空虚な政治的実験から、改革開放政策・市場経済化への転換を見事に遂げていった。このことは、驚嘆に値する。あの八九年の天安門事件が、いまではなんの衝撃にもならないかたちへと変容していることは、その証左だ(もちろん、現支配体制は歴史的事象からの抹消に懸命なのだが)。そして、現在、九〇年代からの急激な経済成長が停滞することなく、依然、高い成長率をもって、やがて、アメリカ、日本に次ぐ、世界第三位のGDPを達成する見通しだ。本書の中で橋爪の対論者、精華大学教授・胡鞍鋼は、次のように答えている。
 「中国が急速に台頭して以来、アメリカとすでに戦略上の競争関係に入った。中国の指導者は、そのように明言はしていませんけれどもね。世界史をみると、どんな大国も、急速に台頭したあと、旧来の大国に挑戦状をつきつけるものなのです。私の計算では、二〇一五年には、中国のGDPは、アメリカと肩を並べる。OECDや世界銀行やランドコーポーレーションの予測によると、その時期はもっと早い。(略)そこで結論はこうです。中国は世界最大の経済大国になる。中国は世界最大の農産物生産国になる。中国は世界最大の工業製品生産国になる。IT分野でも世界一になる。このようなことは、中国人自身も予想しなかったことです。」(「21世紀、中国はかつてない壮大な実験に挑戦する」)
 橋爪は、いくらか遠慮気味に疑義を呈しているが、概ね胡鞍鋼の未来予測を是認している。わたしは、占い師になるつもりはないから、“中国は世界最大の経済大国になる”かどうかには、いっさい関心はない。マクロ的数字を累積して大国だというのは、“世界の中心である”中国人にとっては、都合のいいものだ。ミクロ的にいえば、国民一人当たりのGDP値が、世界一になるわけではない。また、本書でも詳細に論じられているように、都市と農村の格差拡大、膨大な失業者数(特に国営企業に多いことが、わが国とは転倒している)、深刻な環境問題と、急速に経済発展した負性が露出しだしている。政府方針が先富論(一部のひとがまず先に豊かになればよい)から共富論(共同に発展して豊かさを共有する)へ移行していったとしてもだ。
 「中国は伝統的に、資源も文物も、よいものは何でも中国にあると考え、周囲の民族や国家をレベルの低いものと見下してきました。こうした体質は、覇権主義ではないのか。」(「21世紀は『アジアの世紀』か」)
 「最近の中国の輝かしい発展は、毛沢東が火をつけた中国人の誇りとナショナリズムの、具体的な成果なのだと言っても間違いではない。」(「チャイナ原論」)
 こう述べる橋爪の中国論は、卓越だ。覇権主義とナショナリズムというキー・タームだけ採りださせば、もうひとつの“帝国”、アメリカに類推できることに、中国の現在の「意味」が孕んでいるといってよい。

(『図書新聞』06.4.8号)

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森 達也 著『ドキュメンタリーは嘘をつく』(草思社刊・05.3.22)

 『A』、『A2』、『放送禁止歌』などの作品で知られる映像作家・森達也は、ここ数年、映像以外の場所でスリリングな発言を提示しつつ、旺盛な著作活動を見せてくれている。本書は、最近の著者の著作活動のなかでも、自身のもっとも本領の場所からのものだ。ドキュメンタリー論であり、ドキュメンタリー史論でもある本書は、映像論として、まぎれもなく本格的なものだといっていい。
 わたしが、森達也の映像作品に関心をもってきたのは、自分の表現性にいかなるけれん外連みも持ち込まないことにある。なにか、もってまわったいい方かもしれない。もう少し別様にいえば、わたしなどは、対象を捉えようとする(森の場合は撮る)時、どうしても、すでに手垢にまみれてしまったような固執した理念や観念(もっと直截にいえば主義・主張)で捌いてしまおうとする。うまくフォーカスしていればいいが、往々にしてずれた視点で、自己模倣と自己満足の場所に陥っているのだ。だが、森はけっしてわたし(あるいは、わたしたちといってもいいだろう)のような、視線を対象に向けない。最もいい例が、残念ながらペンディングとなってしまったようだが、天皇明仁のドキュメンタリーの企画にあらわれている。
 「誰を撮りたいですか?と訊ねられて最近では、『天皇陛下です』と答えることが多い。(略)数年前知り合いの雑誌記者に、『今の天皇陛下が国歌を歌わないことをどう思うか?』といきなり訊ねられた。(略)僕の記憶では、昭和天皇は歌っていたはずだ。もしかしたら国歌について、無邪気に歌いたくないというような複雑な思いを、今上天皇は抱いているのではないかと僕は推測した。ほぼ直感に近いけれど、戦争責任やアジアへの侵略行為について、現在の天皇は踏み込んだニュアンスで発言することが時おりある。その表情や物腰に、そんな雰囲気が仄かに滲む瞬間がある。
 左翼思想が滲むならば撮りたいというわけではない。もちろん戦争責任を明らかにしたいなどと考えているわけでもない。そんな直接話法はドキュメンタリーに馴染まない。理由はただひとつ、内面的な矛盾や葛藤が過剰であればあるほど、被写体としての魅力は増大するからだ。」(193~194P)
 この後、森も触れているのだが、確かに、日韓共催のサッカー・ワールドカップの折、明仁は、天皇家と朝鮮半島との関係に触れていた。歴史認識的にいえば、既に万世一系という時間の連続性は破綻しているのだから、衝撃的なことではないとしても、天皇みずからそれを認めることは、天皇制というシステムに大きな変容を与える発言であることは確かだ。だが、その際、「日本のメディアはこれを最小限にしか報道せず、(略)海外のメディアのほうが大きく報じた」と森も述べるように、メディアも含め論壇や歴史研究者からなんの反応もなかったことに、わたしですら意外な思いをもったものだ。さて、そのことを想起しながらも、森の視線が、わたしたちと違って屹立しているのは、こうだ。わたしのように、そのことを、すぐに天皇制というシステムなどという観念性に結びつけていくというプロセスをとらずに、あくまでも明仁の「内面的な矛盾や葛藤」に注目していくことにあるのだ。「直接話法はドキュメンタリーに馴染まない」という考えが、森の映像手法にあるからこそ、例えば、『A』において荒木の「内面的な矛盾や葛藤」を観ることで、わたしたちは、もうひとつのオウムという共同性がもつ深層を感知して、その映像に共感していくのだ。〝けれん外連み〟がないということは、そういうことをいうのであり、「ドキュメンタリーは監督という主体が呈示する現実へのメタファーなのだ」(227P)という信念によっているからこそ、ドキュメンタリーは「嘘」をつくのであって、事実の客観的な表現などという〈虚妄な〉位相と明確に分岐していくものだといっていい。
 たぶん、多くの人はニュース報道とドキュメンタリーというものの明確な差異を認識していないと思う。森は「ジャーナリズム(報道)とドキュメンタリー(表現)を、同一視する人は数多い。実は僕自身もかつてはそうだった。」(66P)と率直に述べている。ここで、括弧で括っているように、報道(主張や主観を排した、あるいは統制されたもの)と表現(制約や抑圧があっても、矜持を手放さないことがその領域に立ち止まらせる)とは、明確に違う場所性をもっているのだ。だから、客観(中立)表現か主観表現かということは、まったく転倒した問題だといっていい。森も本書のなかで、執拗に論述しているように、客観(中立)表現といものは、本来ありえないのだ。では、ドキュメンタリーと劇映画の違いはなにかとなりそうだ。
 本書の中で森は、くりかえし、「ドキュメンタリーとドラマとのあいだの差異」は「ないと言い続けて」(224P)いる。
 わたしも、もちろん、異論はない。
 原一男の『ゆきゆきて、神軍』や、森の『A』や『A2』が、わたしだけでなく、映画雑誌でその年の映画ベストテンに選出されるということを見ても、もはや誰もが(森には、そんなことはないといわれそうだが)その境界線はないものと思っているはずだ。
 最後に、わたしが森に対して感応する最大の論拠を示しておきたい。次のように率直に述べるからこそ、彼の発言に逐一注目せざるをえないのだ。
 「(略)かつて多くのメディア従事者は、己の無力さを嘆きながら、無駄な煩悶を続けていた。(略)『後ろめたさ』と『無駄な煩悶』というネガティブな要素が、実はとても重要なのだと僕は考える。」(100P)
 撮るべき対象に「内面的な矛盾や葛藤」を見ようとする森は、『放送禁止歌』の最後の場面のように、実は自らに、そのことを投影させていることを認識していればこそ、そう述べていくことができるのだ。

(『図書新聞』06.4.1号)

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