2006年4月27日 (木)

「風景の感情―映画『リアリズムの宿』をめぐって」

 つげ義春の「原作」そして、「映画」。どんなに予見を拝して接しようとしても、原作がもっている力を意識しないで作品に向かうことは、これまで困難だったような気がする。もちろん、映画作品は、それ自体まぎれもなく自立したものだ。だが、かつて、つげ作品は、「ぎりぎりなものが原作としてある」し、「コマが計算つくされて描かれて」いるため、そんなにいじれないと述べていた石井輝男の発言(『夜行』第十八号)を、わたしは印象深く覚えている。多くの傑作を演出してきた映画監督だからこその表明なのかもしれないが、やはり、そこには、つげ原作の力を率直に認める感慨があるといっていい。
 では、山下敦弘監督作品『リアリズムの宿』は、どんな映画作品としてわたしたちの前にあるだろうか。真っ先に感じたことは、つげ原作から、距離を置き、やがて接近し、そして離れていくといったスタンスをとっていると思えた。もちろん、その距離感の移行は、この作品の独自性と映画作品としての屹立性ということを意味している。
 原作(作品としては、「リアリズムの宿」と「会津の釣り宿」)との「距離感」は、当然ながら、原作とは違う画像のリズム感のようなものをもたらす。監督の山下敦弘がプレスシートで述べていることは、そのことを傍証しているといっていい。
 「僕らにとって初の原作もの。そのうえ、漫画である。僕自身、マンガは好きでよく読むほうだか、いざ映画と繋げて考えるとなると近いがゆえの難しさに正直、困惑した。(略)原作自体、僕らが生まれる前に発表された作品なので、そのまま作るとなると時代劇を作ることになるのでそれはやめようと思った。設定を現代に移し、つげさんの作品世界の中に僕らが作り出したキャラクターを放り込む方法を取った。つまり、つげさんのオリジナリティと僕らのオリジナリティを正面対決させようと思ったのだ。」
 わたしは、この発言を読んですくなからず衝撃を受けた。なるほど、一九七六年生まれの監督にとって、原作がもっている時間性のイメージは「時代劇」なのかと。わたしは、つげ作品のある種の普遍性は、時間性にあると思っていたからである。この映画の、原作との独特の「距離感」は、そういう認識からきていることに、納得せざるをえなかった。
 山下は、「つげさんのオリジナリティと僕らのオリジナリティを正面対決させようと思った」と述べているが、わたしの印象では、「正面対決」といったことは感じられなかった。むしろ、原作のオリジナリティに、監督たちのオリジナリティを無意識のうちに皮膜のように覆いかぶせていったというべきかもしれない。
 そう感じたのは、おそらく、なによりも冒頭のシーンで、自分のなかにある原作のイメージが払拭されたことにある。寂れた小さな駅頭。本来ならつげ義春的イメージであるべき風景は、登場するふたりの青年の携帯電話でのやり取りで、背景自体へと押しやられ、携帯電話とふたりの「会話」が、つげ義春的話体から逸脱させて(監督たちの意図としては、つまり、時代劇から現代劇へ移行させたということになる)、奇妙な空間性を描出している。そのことに、わたしは不思議な新鮮さを感じたといっていい。この映画の、独特といってもいいユーモアあるいは何がしかの淋しさ、孤独さを漂わせながらも、笑いを慫慂する会話は、たぶんこの監督の資質なのかもしれない。いや、それがひとつの作家性だといってみたくなるのだ。この作家の、独特な映画的文体が醸し出すリズムは、映画で映し出される〈風景〉にはりついている〈感情〉といったものを描出して、『リアリズムの宿』一編を、〈世界〉として醸成しえたのだと思う。もうひとつ、この作品を、いっそう際立たせることになったのは、二人の青年に、ひとりの不思議な少女を対置したことにある。最初、ある種の異和感をもった。だが、時間を置き、あらためてこの作品を振り返って見ると、「海辺の叙景」や「オンドル小屋」、「もっきり屋の少女」といった、つげ的少女感とどこか通底するように思えてきたのだ。たぶんそれは、この少女を演じた尾野真千子という役者がもっている雰囲気がそう感じさせたといえるし、原作者のつげ義春がプレスシートで述べているように、「女の子がふいっと消えちゃうあの感じ、いいよね」ということにも繋がっているといってもいい。 
 わたしは、少女が唐突に(そう、まさしくやや不自然に唐突に思えるのだ)、海で表われるシーンに物語の作為性を感じたが(しかし、消えていくのも唐突だから、それはひとつの道筋がついているともいえる)、それでも三人で共に旅していく物語の展開こそが、この作品の基調なのだといってみたくなる。この映画で、わたしがもっとも印象深いと思った場面は、三人並んで、なにやらカラオケ・スナックのような場所で飲んでいるところだ。坪井(長塚圭史)が、つき合っていた女のことを酔いにまかせて語る。木下(山本浩司)は、それを冷やかすかのように、淡々と抽象的な恋愛論を語り、最後はカラオケで歌いだす。真中にはさまれた少女は、なにも語らず聞いているだけだ(その様態が、尾野真千子をいっそう際立たせることにもなる)。真正面から撮ったこの長回しのシーンは、監督たちが、無意識のうちに抱え持ってしまっている現在という場所から強いられる孤立感といったようなものが、濃厚に反映されていると思った。三人並んだ関係性は、それ自体なにも濃密なものではない。物語から見れば、偶然のいつ離反してもいい関係性だ。それでも、映像は延々長回しすることによって、それが、深いところで繋がるはずだという思いを感じさせることで、この三人の描き方、有様に、わたしはこの映画がもっている力感を、率直に認めたくなったのだ。
 カラオケ・スナックの後、三人で露天風呂になだれ込む。そして、部屋に戻ると坪井が気分を悪くして、二人が懸命に介抱する。やがて、二人が寝入ってしまった後その様態を、なぜか少女は彼らのカメラを手にとって撮りだす。少女は、なにかを確認しておきたかったのだろうか。カメラは自分のものではないし、後日、写した写真を見ることもないはずなのだ。少女の写真を撮るという行為は、関係性にたいする無意識の渇望の表れだとわたしなら捉えてみたい気がする。
 翌日、バス停で、少女が、二人とは違うバスに乗って、消えてしまう場面は確かに秀逸だ。このバス停の「風景」は、カラオケ・スナックの場面とは対象的に会話がまったく交わされない。しかし、わたしには確かな「感情」が見えてくるようだった。「感情」が見えるというのは、なにも機を衒ったいいかたをしたいわけではない。この映画が絶えず湛えている登場人物たちの抑制された「感情」といったものが、「風景」として感じさせているといいたいだけなのだ。もちろんこれは、かなり不自由さをもった意匠としての「風景の感情」だといってもよい。だが、そのことがまた、この作品をいっそう印象深くさせているのだ。さて、こうして述べてきて、わたしは次のような想いに辿りついた。
 原作とあえて対比せずに見ることができた初めての「つげ原作映画」が、『リアリズムの宿』だったといえば、わたしの感想のすべてを集約したいいかたになる。むろんそれは、この映画にたいするわたしの賛辞でもある。

(『幻燈・5号』04.4)

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