2008年11月 7日 (金)

柏倉康夫 著『若き日のアンドレ・マルロー 盗堀、革命、そして作家へ』(行路社刊・08.7.10)

 若き日のアンドレ・マルロー(1901~76)をめぐって叙述しながら、一九二〇年代から三〇年代にかけてのアジア、ヨーロッパの時代情況を描出した本書は、〈疾走〉することのダイナミズムをわたしたちに喚起させてくれる。マルローという極めて独創的な思考を持った人物を活写する以上、通例的な評伝の枠組みを、はみ出てしまうのは当然だとしても、読み進めながら、マルローや四歳年上の妻・クララたちのあまりの破天荒なと、いいたいほどの行動力は、時代情況を抜きにしては理解できないことなのだといっていい気がする。
 例えば、カンボジアでの盗掘事件(後に小説『王道』に結実していく)によって禁固刑の有罪判決を受けたマルローに対して、パリの知識人たちの多くが嘆願運動に立ち上がったのだ。それは、ジッド、モーリヤック、ガリマール兄弟、アラゴン、ブルトンといった錚々たる面々であった。クララの奔走によるとはいえ、まだ、フランスの言論界では無名の若手の一人にしか過ぎないマルローに対して、それだけのことが生起したということは、マルローが彼らたちを惹きつけてやまない才能と存在力があったからだといえるかもしれない。
 マルローが、アジアというものに最初に関心を向けたのは、インドシナ半島だった。周知のように、六〇年代から七〇年代にかけて泥沼化していった、いわゆるベトナム戦争は、アメリカの介入によって始まったわけだが、そもそも前史として、長年のフランスによる植民地支配による圧政があったことに由来する。
 「フランスのインドシナ進出は、他の植民地のように直接的な富をもたらさなかった。(略)植民者が見いだしたのは、貧弱な鉱山と安い労働力であった。そのためフランス植民地政府と入植者は、住民を労働力として仮借なく使役した。」(64P)
 だからこそ、過酷な情況がインドシナ半島には、当時あったということである。「インドシナに行く前のマルローは、美術と詩と冒険に熱中する若者にすぎず、政治的な関心はほとんどなかった」(57P)のだが、盗掘をたんに一攫千金の冒険ぐらいにしか考えていなかったにもかかわらず、逮捕・拘禁され、裁判というものを経験し、その過程で植民地政府が、いかに横暴なことをしているのかを目の当たりにして、憤りと憎悪を植民地行政そのものへと向かわしていったと著者は捉えていく。その後の、現地での反植民地政策的主張を織り込んだ新聞発行というインドシナ半島での活発な言論活動は、まさしく〈疾走〉する行動者マルローといった相貌というものを表出させている。結局、苛烈な言論は、新聞発行継続を困難にし、やがてマルローはクララとともにフランスへ帰国する。若きマルロー、二十四歳の時だった。
 「第一次大戦がもたらした悲惨な結果は、ヨーロッパの知識人に、ヨーロッパ以外のまったく異なる文化に目を向けさせることになった。古い伝統を誇る中国とインドは、第一次大戦にも参加していず、列強の支配から立ち直りつつあった。彼らはそこに人類救済の手がかりを求めようとしたのである。」(119P)
 「同時代のヨーロッパ人の表情に刻みこまれた苦悩と孤独は、(略)二十世紀のヨーロッパ人が直面している主体の危機であり、それは社会にたいする荒廃の感情を生み出す。そしてこれをマルローは『不条理(アプシュ)の(ル)感覚(ディテ)』と呼ぶのである。/人間は自分を押しつぶそうとする宿命に抗して行動する。行動とは宿命にたいする反撃のこころみなのである。」(125P)
 このような、ヨーロッパ、フランスの言論界にあって、マルローは、「東洋の真の偉大さを見つけた稀なヨーロッパ人の一人であった」(129P)から、「西欧文明の侵略に混乱しながらも、その影響のなかから新たな価値観を模索し、確実に立ちあがりつつあるアジア」(132P)を直視し、アジアと西欧との架橋を追及していくことができたのである。『西欧の誘惑』(1926年刊)、『征服者』(1928年刊―本書で知ったことだが、日本で最初にマルローの作品が翻訳出版されたのは、1930年に新居(にいい)格(たる)が英訳版から翻訳した『征服者(「熱風」に改題)』だった。むろん著者に了解をとらずに出版されたものである。意外なところでアナキスト新居格の名を目にして、驚いたことを明かにしておく)、『王道』(1930年刊)、『人間の条件』(1934年刊)と次々に発表していった作品群が、そのことを明示していったといえるはずだ。
 さて集中、わたしが最も関心を持ったのは、一九二〇年代の初期中国革命の挫折を描いた『征服者』をめぐって、1931年に「新フランス評論」誌上で行われたトロツキーとの論争についてである。ロシア革命を主導したトロツキーは、自身がスターリンによって放逐された立場から、初期中国革命の頓挫をスターリン・コミンテルンの介入のせいであり、『征服者』はコミンテルンの立場で書かれていると批判する。文学にそれなりの見識を持っていたトロツキーですら、マルローによる小説をあたかも現実の出来事を活写したものとして、小説『征服者』を理解する視線は、面白い。唯一、アナキストでテロリストでもある登場人物・洪を「民衆を代表している」としてシンパシイを寄せるトロツキーに対して、「ロシア革命にあっても、レーニンやトロツキーは幾人もの洪と出会った」にも関わらず、彼らを秘密警察に委ねたではないかと批判するマルローの認識の確かさに、わたしは即座に首肯したいと思う。

(『図書新聞』08.11.15号)

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2008年10月10日 (金)

神津陽 著『時代劇の父・伊藤大輔』(JCA出版刊・08.8.8)

 日本映画史というものを望見する時、戦前、戦後を通じて作品を撮っている映画監督は数多くいるわけだが、伊藤大輔は、優れた作品を有しながらも、なぜか閑却されてきた存在だった気がする。それは、わたし自身の個人的な思いにも関わることなのかもしれないが、伊藤を師としていた加藤泰もまた、わたし(たち)が、熱狂して、共感したほどには、世評的にはそれほど広範に注目されていたわけではないことに共通のものを感じてならない。わたしにしても、加藤泰を通して、伊藤大輔を知り、六〇年代末頃の再上映の期に、『反逆児』などを見た程度であった。本書に接した機会に、伊藤大輔最後の作品、『幕末』を見直してみて、天皇制を否定する革命思想家の貌をした龍馬像が、なんとも衝撃だった(最初に見た当時は、異和感を持ったはずだが、いま見てみれば、やはり痛快な作品に仕上がっている)。
 神津陽による「伊藤大輔論」と聞いて、『新選組 多摩党の虚実』の著者であれば、それもありうるのかなと思ったが、読後、感じたことは、『兎の耳―もう一つの伊達騒動』の著書に通底したモチーフをもったものであることが、了解されたといっていい。それは、故郷を〈原郷〉とする思想的所在の問題ということになる。著者はそこでは、伊藤大輔という存在と重なりあいながら主題を展開していく。
 わたしは、伊藤大輔が愛媛県宇和島の出身(著者と同郷)であったことを、本書で初めて知った。だが著者は、たんに同郷の名匠を論ずるという立ち位置にいるわけではない。「著名な伊藤監督は大成後も宇和島に里帰りしたことはないようなのだ」という思いが、初発の関わりだったと、著者は述べている。つまり、旧制松山中学を中退した十九歳の時に、郷里を後にして、亡くなる八十三歳までの間、伊藤は宇和島に帰還した様子がないということに、「帰りたい帰れない〈原郷〉」の淵源を探ることで、伊藤大輔の作家的源泉を解き起こしていくのである。
 なぜ、伊藤大輔は、「時代劇の父」と称されたのか、あるいはなぜ、「傾向映画」といわれた一連の作品を撮り続けたのかということなどが、この〈原郷〉体験に連なっていくのだという著者の論旨展開の手捌きは見事なものである。通例の評伝や映画作家論とは、明らかに違う位相をもって、わたしたちに伊藤大輔の像を提示してみせてくれる。
 伊藤の宇和島における祖父伝来の下級武士にまつわる物語が、「伊藤時代劇のエッセンス」であるとしても、もうひとつの問題、「傾向映画」といわれた所以は、作品論と大きく関わってくる。そして、そのことこそが本書の重要な主題となっていくのだ。
 普通、傾向映画といえば、左翼思想に論拠を置くものとして理解されやすいが、伊藤映画にあっては、そういうものとは別次元にあるといっていい。
 「だが伊藤時代劇は国家にほめられる勧善懲悪映画ではなく、逆に早急に現国家打倒を目指すプロレタリア映画でもなかった。当人は『イデオロギーで私は映画を作らない』と断言している。そして『傾向映画があって伊藤大輔があったのではない』、『私が作った映画がたまたま傾向映画だった』とまで書いている。」(113P)
 このように述べる著者は、なぜ「たまたま傾向映画だった」のかということに、さらに拘りながら、青年期に「指紋を失くすまでの激烈な組合結成運動」に関わったのが、「傾向映画の源泉だという類の左翼史観は的外れのようだ。伊藤の『傾向映画』はむしろ生活レベルでの反逆精神の持続に過ぎない」(116P)といい切っていく。
 加藤泰は、若い人の純粋なひたむきさに通じる「どうしても納得出来ない我慢が出来ない」というものを、「映像にぶつけて、そして映画にし続けられた」のが、師・伊藤大輔だったと述べている(講演「伊藤大輔の世界」・81年9月10日―『夜行14号』所収)。加藤泰の発言は、まるで自分の映画姿勢と通底しているかのようだ。確か、齋藤龍鳳だったか、「大正生まれのアナーキスト」とか、「和製ワイダ」といって加藤泰を評していたが、本書の著者・神津陽は伊藤大輔の思想軸を「実感的アナキズム」として捉えていく。
 「下郎物での伊藤大輔の手法は多分にアナキズム的であり、主人公の下郎は盲目的に信義を貫き、裏切りに対しては負けを承知で抵抗し破滅的に死ぬ。それでも昭和三十年のスターリン批判や三十一年のハンガリー動乱で方向転換したと言う日本の新左翼創始者たちよりは、同時期の伊藤大輔の思想の方がはるかに先駆的で開明性があったと私は考える。」(22P)
 「ロシア革命時には労働現場にいてアナキズムの影響の強かった伊藤大輔は、江戸末期の武士や浪人や百姓の抵抗を描き為政者の非を指摘した。だが、彼は抵抗運動に賛意を示しても、抵抗組織を永続化し絶対視する事はなかった。」(120P)
 「伊藤が描く国定忠治は日本の大衆運動のネックである組織論の根本問題を直視するが、当然の課題を引き受けよと言うばかりだ。これも仮説だが、伊藤大輔は自分の経験と見聞から、革命には権力奪取は不要で、抵抗力増大による権力無化こそが必要だと思い付いたのではないか。」(129P)
 ここでは、神津による伊藤大輔論を通して自身の「個と共同性を架橋する思想根拠」を提示しているかのようだ。もちろん、それは、まったく当為する論旨だと、わたしなら理解する。

(『図書新聞』08.10.18号)

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2008年9月26日 (金)

小野才八郎 著『太宰治再読』(審美社刊・08.6.30)

 著者は、太宰の生地・金木町の隣村(嘉瀬村、現在は金木町と合併)に生まれ、生家に疎開していた太宰との知遇を得て、師事し、太宰死後は桜桃忌の世話人のひとりでもある(現在、世話人会は解散)。小説集の他に『太宰治語録』(津軽書房―98年刊)の著書があり、太宰関連でいえば二冊目の著書ということになる。わたし自身の怠慢もあり、また太宰の身辺関係にあまり注視することがなかったため(弟子筋として、小山清と田中英光しか認知していなかった)、本書で、初めて著者を知ったことになる。
 よくいわれるように、太宰の小説作品を遠望する時、初期、戦時下、戦後とほぼ三期にわけて捉えることができる。そして戦後の作品、『斜陽』、『人間失格』は、誰もが認める太宰の代表作と見なされているが、わたしなら、むしろ初期の『晩年』と、戦後、最初の作品(戯曲)である『冬の花火』を、真っ先に挙げたいし、中期の代表作としては、『富嶽百景』ということになる。
 本書では、『晩年』に収められている「思い出」から稿を進めている。「東京百景」で綴られている「思い出」に触れた箇所を援用しながら、太宰が「いかなる状況、いかなる心境のときに書かれたのであろうか」と、解き明かしていく。著者は、「東京百景」で、「思い出」を“遺書”と述べたことに拘泥し、「『思い出』から『人間失格』への道程は、太宰文学そのものの道行と考えてもよいのではないだろうか」(35P)と結語する。以降、「走れメロス」、「海」、「薄明」、「トカトントン」、「ヴィヨンの妻」、「人間失格」といった作品が、〝再読検証〟されていくことになるのだが、著者が終戦の年(一九四五年)の九月に復員後、十一月に金木町の生家に滞在していた太宰を、何人かの仲間とともに月一回の割合で訪ねて以来(著者によれば、太宰本人は、「太宰道場」と称していたようだ)、東京に太宰一家が戻る(四六年十一月)までの一年ほどの間の通交談は、わたしには興味深いものがあった。
 上京後の翌年に発表された「ヴィヨンの妻」に触れて、次のように述べている。
 「弟子の菊田義孝は太宰が敗戦の事実をかくも深刻に考えていたとは気付かなかったと、反省を込めて告白したことがあった。おそらく他の多くの弟子も同様であったろう、私も含めて……。」(120P)
 また、疎開時(「冬の花火」は、四六年三月執筆、同年「展望」六月号に発表)、最後の頃に書かれた作品「トカトントン」(四七年、「群像」一月号に発表)の成立に関わったとする著者は、その作品の構想について太宰が語ったこととして、「今度、君たちと同じくらいの年齢の青年で、ちょっと面白いと言おうか、困ったと言おうか、まあそんな、悩める青年を書こうと思うよ(略)悩むにも才能がいるんだよ。つまらない悩みもあるからね。それにしても君たちには悩みはなそうだね」(85P)と記している。
 「トカトントン」は、終戦の八月十五日の玉音放送を聞いた青年が、「死ぬのが本当だ、と思」ったとたんに、「誰やら金槌で釘を打つ音が、幽かに、トカトントンと聞え」、「悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え」、「憑きものから離れたように」、「なんともどうにも白々しい気持」になり、その後もその“トカトントン”という音が耳から離れないという悩みを手紙文体で綴った短編である。著者は、サルトルの『嘔吐』と比較して存在の不安感を基軸として論じていくわけだが、もうひとつ、切実なる問題としては、日本の敗戦による大きな価値転換ということが、太宰の内部にはあったことになる。
 「日本の敗戦を太宰は日本の滅亡とまで意識した(「冬の花火」、「春の枯葉」)。あらゆる価値は転換し、どん底から新しい日本がはじまることを期待した。―神は死んだ。(略)―とはニーチェの言葉である。しかし太宰は、神は死んだとは言わない。『神はある』という。これは戦前からの信念である。ただ、滅亡のどん底を衝くという意識はおなじであろう。単なる虚無ではない、虚無を突き抜けた『空無』でなければ、と、太宰はよく口にしていた。畳をとんと叩き、『ほら、跳ね返るだろう。底に達しなければこの力は生まれないのだ』と力を込めていわれたものである。」(68~69P)
 それでも、現実との軋轢は、作家・太宰治にとっては大きな荷重になっていったはずだ。著者が述べる通交談からも窺い知れるように、太宰独特のリリカルな倫理性とでもいうべきものは、敗戦の価値転換を単純に許容しうることではなかったのだ。
 著者たちに、「どうも日本人は負けたということを真剣に考えていないようだね」と太宰がいったと述べている。
 底に達して、“跳ね返る力”を生み出すことなく、太宰は自死を選んだことになるのかもしれない。「敗戦期」ということに、拘って太宰を捉えるとすれば、わたしはそういう感慨をもってしまうのだ。

(『図書新聞』08.10.4号)

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2008年8月 8日 (金)

新藤 謙 著『秋山清の詩と思想』(土曜美術社出版販売刊・08.6.10)

 本書は、アナキスト詩人として知られる秋山清について論じられた、単著のものとしては、岡田孝一著『詩人秋山清の孤独』(96年―土曜美術社出版販売・刊)についで二冊目にあたるものだ。『秋山清著作集』(全11巻・別巻1―ぱる出版刊)編纂に関わった立場からみて、秋山清論が本書で二冊目ということを、少ないと捉えるか、二冊も単著として秋山清論があることに瞠目すべきこととして考えるかは、いささか逡巡する思いがあることは確かだ。だがけっして、少なくはない数の秋山清に関する論考(その代表的なものが、吉本隆明の「抵抗詩」であり、内村剛介の「書く醜態について」であるとわたしなら考える)があることを思えば、秋山清という詩人が、必ずしも、閑却された存在だとはいえないと、断言していいはずだ。
 秋山の近接にいて、詩業を中心に述べられている『詩人秋山清の孤独』に比して、本書は秋山の思想の核心へと真っ芯に切迫したものとなっている。
 「日本及び世界を体系とする論理が秋山にとっては無政府主義である。人間が自由平等かつ道徳的に生きるためには、一切の政治権力を地上から放逐しなければならない、という結論が導き出される。あるいは、そうした状況を作るために無政府主義思想が体系化されたのかもしれない。」(29P)
 「無政府主義を含む現代の反逆思想の存在理由は、不服従の自由を行使し、国家を超える思想を構築することであり、批判的知性を養うことである。暴力革命やテロリズムが無効である以上、反逆の思想はいたずらに議会制民主主義を否定するのではなく、その思想の普及と充実のために、議会制民主主義をも活用しなければならない。」(137P)
 「秋山清の真骨頂は無政府主義の研究と実践で、これは詩業以上に深いと思う。私は無政府主義は実現不可能な理念という点で、民主主義同様、永久革命だと考えるが、すべての権力を否定する無政府主義は必要不可欠の思想であることを疑わない。」(214P)
 このように、著者によって直截に述べられていく「無政府主義(思想)」という概念は、マルクス主義(あるいは、共産主義、社会主義)と同様に、ひとつの位相に括れないものとしてあるというのが、わたしなどの考え(例えば、マルクスの思想とマルクス主義の思想は、まったく別物として捉えるべきだということでいえば、バクーニンとクロポトキンの思想は、無政府主義というひとつの思想には括れないほどの遠隔性を持っていると見做すべきである。また、議会制民主主義という言葉自体も、ひとつの定立した概念として見做すには、かなりの留保が必要だという気がする)だが、「実現不可能な理念」ということでいえば、確かにそうかもしれないと同意する以外にない。しかし、理念や理想というものは、それ自体、実現可能なプログラムを持っているから希求するものではないと思う。未だ実現されえないからこそ、想起することなのであり、そのことは必ずしも、空想的なこととして退けられるものではないはずだ。
 と、このように著者の思想的根拠の外延を敷衍しながら、本書へと立ち入ってみれば、秋山清の詩と思想の内在性に深く視線を降ろしていることは、認めないわけにはいかない。前半部は、詩業について丹念に辿り、後半部は、『文学の自己批判』、『日本の反逆思想』、『ニヒルとテロル』、『反逆の信條』などの著作を通して、秋山清のアナキズム的思考の所在を析出していく。そして、本書も含め、秋山清を論及する時、大きな焦点として立ち上がってくるのが、「戦争責任」の問題であるといっていい。秋山の戦時下の詩篇を“抵抗詩”として高く評価したのは、吉本隆明が最初であったが、以後、その評価のうえに、秋山の非戦思想者としての立ち位置が確定したと思われる。しかし、だからといって、反戦抵抗者として戦時中、国家権力と闘ったとかそういう位相のことではない。すくなくとも、詩業として国策に照応した作品を執筆しなかったことであり、戦前と戦後の時空間を連続したものとして認識していたということなのだ。生活の糧を得る仕事として著した一連の木材関係の著作を指して、戦争協力者だとすれば、戦時中、非転向で獄中にいた人以外は、すべて戦争協力者ということになる。戦後、秋山や吉本、武井(昭夫)らが、先駆的に文学者たちの「戦争責任」の問題を追及したのは、時間の連続性を無視して、戦前の所業を糊塗し、さらには、そのことを正当化したからに他ならない。
 「前出の散文(引用者註=一連の木材関係の著作)に現れた秋山の戦争責任はどうなるのか。秋山は戦争中、アジア・太平洋戦争を侵略とは断じなかった。またそれが公表できる状況でもなかった。したがって文章が本音か偽装かは判らない。かりに偽装であったとしても、書いた以上は自分の責任である。秋山清でなく高山慶太郎の筆名だからまあいいや、では通らない。戦後の秋山はやはりそのことにけじめをつけるべきであった。そして戦争中、協力詩を書かなかった自分と、戦争肯定を含意した散文を書いた自分との心のせめぎあいを率直に語る必要があったと思う。」(186P)
 著者のこの視線は、確かに正当なものである。しかし、生前、秋山は、戦時下に木材関係の著作があることを、声高に表明はしなかったが、さりとてそのことを糊塗もしなかったのだ。わたしは、三冊のうち、二冊の著作しか見ていないが、かなり慎重に書かれた(だから、一見、迎合的な記述もないわけではない)ものであることは、よく分かるし、木材の専門書として見れば、当時としては、かなり上等なものであることは評価していいと思う。当然のことながら、著者が懸念するような、「本音か偽装か」といったことを秋山がそれらの著作には施してはいないといえる。「戦争中、協力詩を書かなかった自分と、戦争肯定を含意した散文を書いた自分との心のせめぎあいを率直に語る」べきだと著者はいうが、秋山は、高村光太郎のような『暗愚小伝』を書くべきではないという矜持があったからこそ、また後年、木材関連の著作を知ったものが、自身の詩業を否定はしないはずだという確信があったからこそ、“心のせめぎあい”を敢えて語る必要はないと考えたのだと、わたしはいま、著者の疑念に対していいたい気がする。

(『図書新聞』08.8.16号)

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2008年6月 6日 (金)

羽生康二 著『昭和詩史の試み』(思想の科学社刊・08.3.7)

 「昭和詩史」と書名に付された本書は、著者独自の視線をもった鮮鋭な“詩史”となっている。「主に扱っている期間は、昭和の初めから1945年(昭和20年)までの二十年間であ」り、「宮沢賢治、中原中也、金子光晴、草野心平、田中冬二その他、昭和の詩人として名高い詩人が何人も、この本には含まれていない。それは、わたしの見方に立って昭和20年までの現代詩を概観する上で、必ずしもこれらの詩人を含める必要はないと思ったからだ」(「あとがき」)と著者は、率直に述べているが、それは、昭和前期二十年間の大半を占める十五年という時間を横断するアジア太平洋戦争期に向けて著者の考え方を対置していることを意味している。そしてさらにいえば、著者の見方(考え方)、つまり本書における主題は、「戦争協力詩をどう考えるか」ということに尽きるといっていいと思う。
 本書は二部立て構成となっている。対象となっている詩人たちを列挙すれば、「第Ⅰ部 昭和詩史の試み」が、北川冬彦、春山行夫、中野重治、西脇順三郎、村野四郎、猪狩満直、江間章子、田木繁、小熊秀雄、小野十三郎、山之口貘、岡本潤、壺井繁治、三好達治であり、「第Ⅱ部 十五年戦争と詩人」は、大江満雄、伊藤信吉、そして秋山清である。「北川冬彦が主宰する詩誌『時間』の同人だった」(198P)という著者は、「昭和期の詩の世界は、モダニズム詩系の詩人たちとプロレタリア詩系の詩人たちの対立と共存を中心として成り立っていた」(148P)と捉え、モダニズム詩系詩人とプロレタリア詩系詩人を織り交ぜるようにして論を進めている。そして、「45年の日本の敗戦までの時期に生きた詩人たちは、少数の例外を除いて、ほとんどすべて、戦争に協力する詩を書いている。(略)どういういきさつがあったにせよ、戦争協力詩を書いた詩人たちは、そのことに対して責任がある」(197P)と結語していくのだ。
 つまり戦時中、本意ではないにしろ、積極的であったにしろ、「戦争協力詩」や「文学作品」を書いていながら、戦後、そのことを自省することなく、まったく糊塗し、当然のごとく“進歩的相貌”を持って登壇した文学者が、実に多くいたことが、問題なのである。いまや周知のことではあるが、吉本隆明が、武井昭夫との共著『文学者の戦争責任』(1956年9月刊)のなかに収められた論稿「前世代の詩人たち」(本書では、櫻本富雄の『詩人と戦争』、『詩人と責任』とともに、たびたび援用されている)で、壺井繁治と岡本潤に対して苛烈に批判を加えたことは、当時、大きな反響と論争を巻き起こしているし、その衝撃と余波は、しばらく続いていったものだ。
 だが、時間は風化していくものだ。扶桑社の歴史教科書問題に象徴されたように、先の十五年戦争はアジア太平洋地域への侵略戦争であるといった言説を自虐史観だと断じる気運が醸成され、さらには自衛隊の海外派兵が定式化され、九条改憲へ連動していく。
 「戦争協力詩問題の広がりと深さを知るにつれて、これは何十年も前に片づいた過去の問題とは言えない、という気持がしだいにわたしの中で強くなってきた。(略)強制されたわけでもないのに国家体制にすり寄っていく学者たち、戦争放棄の9条を持つ憲法を悪しざまに言い、改憲をとなえる有識者たち。そういう人たちが、十五年戦争の時期に次々と国家体制に進んで協力した多数の人たちと重なって見えてきた。(略)重要なのは『書いた』ということそのものよりも、『のちになって自分が書いた戦争協力詩にどのように対処したか』である。」(200~203P)
 終戦時、十歳だった著者が憂える情況は、確かに、切迫したものだ。高度消費社会が自壊した後に訪れたのは、鬱屈した停滞様態だ。格差が増大して二、三十代を中心とした世代が、なかなか向上しない生活環境に置かれている。詩の世界ではどうか。吉本隆明が、わたしの問い掛けに答えて、「詩のほうで二十代、三十代の人たちの作品を読むと、なんかこれから後のことを考えたりすることが、お年寄りと同じで、億劫で億劫でしょうがないという感じなんですね」(「秋山清と〈戦後〉という場所」―「現代詩手帖」07年10月号)と述べていた。いわば、通路の見えない閉塞感をともなった社会をどう切開していくかという手立てがないということなのかもしれないが、そう思うことに慣れていくことを、わたしは危惧する。そうではないと、声高にいいたい気がするのだ。
 著者は、「戦争協力詩を書かなかった詩人」として秋山清を取り上げている。「白い花」をはじめとした一連の戦時下の詩篇は、吉本が「詩的抵抗の最高の達成」といち早く評価している。最初に、秋山清の詩の取り上げた経緯(「大岡山文学」52年6月)を訊ねたら、吉本は「オーソドックスなプロレタリア詩系統の人だったら、取り上げたりはしなかったと思います。つまり、秋山さんのは勇ましい詩ではなかったからです」(前出「秋山清と〈戦後〉という場所」)と答えてくれた。著者もまた、「現実をもって語らせよ」という詩法をもって、静謐な詩篇を紡いでいった秋山清に対して深い理解を示している。
 「今の時点で考えれば、日本の侵略戦争をたたえる詩を書かなかったということは、たいしたことではないと思えるかもしれない。しかし、国全体が戦時体制一色となり、ほとんどすべての詩人が戦争協力詩を書いた中で、それを書かずに通すことはたいへん難しいことだった。」(267P)
 このように捉えながら、著者は「アナキスト詩人秋山清は、八十三年の生涯を、さまざまな現実に直面し曲折を経ながら、『にげないこと』というただひとつの戦術をもって生き抜いた」(282P)と述べている。
 そうなのだ。「にげない」限り、いつかは通路を見出せる時が来るはずだと、いいたい。

(『図書新聞』08.6.14号)

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2008年5月24日 (土)

吉本隆明 著『「情況への発言」全集成(全三巻)』(洋泉社刊・08.1.23~5.22)

 六〇年安保闘争後の六一年九月、吉本隆明・谷川雁・村上一郎の三人を同人として、「直接購読」、「自主的寄稿」を基軸に独自の発行形態をもって雑誌『試行』は創刊された。『試行』は後に、十一号から同人制を解散し、吉本の単独編集(個人誌というかたちになったわけではない。寄稿に関して、より開かれていったのは、いうまでもないことだ)となって、九七年十二月発行の七四号で終刊した。その間、多くの執筆者が、『試行』誌上を往還した。思いつくままに列挙すれば、磯田光一、浮海啓、内村剛介、桶谷秀昭、梶木剛、宍戸恭一、芹沢俊介、滝村隆一、松下昇、三浦つとむ、宮城賢、毛利ユリなどだ。吉本自身は、「思想の〈世界性〉を視野に入れた新たな表現理論を自らの手で作り上げるしかないという不可避の課題」(松岡祥男「解説 『試行』とはなにか」―全集成1)をもって、一度の休載もなく、『言語にとって美とはなにか』(一号~一四号)と『心的現象論』(一五号~七四号)の連載を続けた(付言すれば、『共同幻想論』は、雑誌『文芸』にて連載)。
 『試行』誌のなかで、一際、鮮烈な印象を与えたのが、巻頭に配置された「情況への発言」である。六八年に徳間書店から、吉本隆明講演集『情況への発言』が発行されているが、もとより書名は、この巻頭言に由来する。「情況への発言」は、第四号(六二年四月刊)から毎号開始され、吉本以外の寄稿者も執筆しているが、吉本の最初の執筆は、「『終焉』以後」と題された第六号(同年一〇月刊)である。以降、吉本の全五六論稿(「若い世代のある遺文」の「註」も含む。また、集成版には、終刊号に掲載された「直接購読者諸氏へ」も収録されている)が発表されたわけだが、このほど待望久しく、全三巻の集成版として刊行された(各巻には、吉本の「新書版のためのあとがき」と、松岡祥男の懇切で詳細な解説が付されている)。ここでは、六二年から九七年までの時制を通して、吉本隆明の思想的格闘が、凝縮されて見ることができるわけだが、吉本の〈発言〉群が包有している普遍的視線は、時間の堆積はあっても、揺るぎないものとして屹立し、現在においても充分に、通路を開いているものとしてあるといっていい。
 「情況への発言」が、鮮烈な印象を与えた多くの事由として、論敵との激しい論争ということにある。よく知られているように、五〇年代後半、花田清輝との論争をもって、吉本の論争好きといったことを喧伝されているが、そうではない。「情況への発言」での論争の多くがそうであるように、他者(匿名批判が多いのも特徴的かもしれない)からの批判があって、はじめて、吉本の方から、応答するのであって、他者を排撃して自己を正当化しようとするといったことではないのだ(批判者の多くは、そういう党派性の位相を持っている)。しばしば、吉本批判者は、自立主義者とか、自立派、吉本エピゴーネンといったことを的にして、論争しているが、そのこと自体からして、まったくの見当違いをしているのだ。
 「(略)『試行』は、はじめから、人は人に影響をあたえることもできなければ、影響をうけることもできない。ただ、〈かれ〉が〈かれ〉自身をどこまでも深化させてゆくという自己影響だけが、〈影響〉だという原則をひそかに守ってきました(略)。『試行』とはつまりひとつの〈態度〉であって、あるいは〈態度〉の共同性であって、それ以外のものでありえておりません。」(『全集成1』・121P)
 「わたしは、六〇年闘争後の〈たそがれ〉のたたかいのなかで、逃亡してゆくきみのような亡霊に追いすがることをやめて『試行』を自立せしめてきたのだ。いまさら、きみのような亡霊のおちょぼ口の御託宣などまつまでもなく、〈孤立〉、〈たそがれ〉という激烈な新旧スターリニズムの攻撃のなかで、はじめて〈自立〉は出発したのだ。いまさら何をおそれる必要がある?どんな離反や敵対をおそれる必要がある?」(『同前』・165~166P)
 こういう吉本の立ち位置を、錯覚し、曲解した批判者の杜撰さが露呈し、結局は、吉本の揺るぎない〈態度〉だけが、鮮明になっていったのが、多くの論争後の印象だといえる。太田竜、平岡正明、竹中労、岡庭昇、津村喬、柄谷行人、蓮實重彦、浅田彰、黒田喜夫、大岡昇平、埴谷雄高と例示してみれば、吉本の〈孤立化〉の深度が、理解されてくると思う。
 さて、激烈な論争だけが、「情況への発言」の骨子ではない。「アジア的ということ」(八〇年十一月~八三年九月)という重要な論稿もある。これは、吉本の代表的な仕事でもある『共同幻想論』や一連の「南島論」と、それらをさらに発展させ達成された九〇年代の最重要著作『母型論』、『アフリカ的段階について』へと、連結しうる仕事として捉えることができる。連載全七篇(同じ意味において八九年に書き下ろしで二回連載され、いまだ単行本未収録の新稿「南島論」も含めてもいい)が、第二巻に単著としては初めて収録された。これは、特記すべきことだ。吉本は『共同幻想論』の「序」において、マルクス(の思想)とロシア・マルクス主義として顕現したマルクス主義(の思想)とは、まったく別物であることを強調している。この「アジア的ということ」では、「アジア的な共同性」という基軸で、さらに論及を進めているのだ。
 「マルクスのいう『プロレタリアートの革命的独裁』の概念は、『プロレタリアート』の主導による全大衆のための近代的民族国家の解体、いいかえればコミューン型国家(「反」国家あるいは解体的な国家―引用者・註)への即時的な移行以外のものを意味していない。これなしには『プロレタリアート』もまた抑圧者、搾取者、国家的資本家階級に転化してしまうことは自明であった。レーニンは(略)『プロレタリアートの独裁』の概念を倫理的に矮小化してしまった。それはレーニンの言説が流布している画像では、国家権力を掌握したプロレタリアートの前衛と称する集団が、硬直した冷酷な公的面がまえをこしらえて、武装力で大衆をしゃにむに威圧して、政策的強制力を行使している絵図になっている。そして或る程度確実にこの画像は世界の〈アジア的〉な地帯の社会とその国家にとって、現実化されていったのである。」(『全集成2』・168P)
 この論旨は、ロシア・マルクス主義批判といったことにだけ収斂されていくものではない。国家や共同性の本源的な基層へと関わる視線をもっている。また、例えば、「連合赤軍事件」に対して向けた「わたしの〈理念〉では、〈組織〉の共同性と〈家族〉や〈個人〉とが、まったく別の次元に属するという認識をもっているのに、かれらが無理にも〈組織〉の共同性に、〈家族〉や〈個人〉の次元を封じこめようとする〈理念〉に支配されていたという差異だけである。かれらを〈狂気〉、〈異常〉、〈非人間〉と非難してはばからない権力やマスコミやそれに乗せられたひとびとは、ただ、眼をすこしの瞬間だけ内側にむけてみれば、けっして他人ごとではないことに気づくはずである。」(『全集成1』・207P)という言及にも通底していくものだ。「私は、吉本の連合赤軍事件批判を超える、どんな思想的総括も知っていない」と松岡が述べることに、わたしもまた無条件で同意する。そして、〈アジア的な迷妄〉の所在は、政治思想的な領野にだけあるのではない。依然、現在でもあらゆる場所で、大きな課題として横たわっていると捉えるべきなのだ。

(『図書新聞』08.5.31号)

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2008年4月25日 (金)

現代人文社編集部 編『光市事件裁判を考える』(現代人文社刊・08.1.31)

 光市事件裁判といえば、真っ先に思い浮かべてしまうのが、しばしばテレビ画像に映し出される、加害者(被告人)とその弁護士たちを、ややエキセントリックに断罪し、死刑判決を訴える異様な被害者遺族の像だ。無惨に妻と子供を殺されたことに対する憤りは正当なものであり、その限りでは同調できたとしても、一方的で過剰なメディア報道に乗って極刑を訴える様は、どう考えても、素直に納得できるものではない。いったい、彼は、どこへ充足すべき到達点を求めているのだろうか。
 「この事件と裁判をめぐる騒動が示しているのは、被告人と遺族男性の間にあるモラルの断層である。モラルの断層を埋める工夫なしでは、遺族男性の心のざわめきが鎮まるとは思えないのだ」(「被害者・遺族も、被告人も救われる可能性」81P)
 こう述べているのは、漫画『家裁の人』の原作者で知られる毛利甚八だ。
 本書を読んで、母子殺害事件を“通例”の少年事件裁判として、杜撰に進んできたことが、読みとれる。「事件と裁判をめぐる騒動」が、過剰化していった背景のひとつには、来るべき裁判員制度を念頭に置いて、多発する未成年者よる凶悪犯罪(特に殺人事件)に対して、検察側が極刑(死刑)への明確な量刑基準(これまでよりも、厳しくという考えが基層にある)を確定しておきたいという思惑があるといってもいい。一方で、犯行時、18歳だった少年の父親によって選定された弁護士側の、予見(つまり極刑としても無期懲役となるという前提)と依頼人の暗黙の意思が、“通例”の少年事件裁判の枠内で拙速に進行させたがったこともある。それは、被告人が父親に虐待され、夫の暴力に耐えかねて実母が自殺(少年が中学一年生時)した現場を見たことなどにより、精神的外傷を負い、発達障害にあったことを、弁護側も、検察側も、なるべく論点としては避けるかたちとしてあったからだ。
 周知のように、わが国の裁判の判決基準というものは、判例主義にある。少年による殺人事件の量刑基準は、永山基準といって永山則夫事件がモデルケースであった。しかし、刑罰至上主義が、犯罪抑制に繋がるとは、到底思えないし、そのことが様々な事案に敷衍されていくことの方が、問題だといえる。
 「立場の『置き換え』が、いつの間にか被害者遺族と『一体化』した。被害者遺族からの視点だけによる報道が、遺族の望む『正義』までも絶対化・聖域化させていると言っていい。これによって、視聴者は被害者遺族の方にシンクロし、被告人の元少年と弁護団は憎悪と非難の対象でしかなくなっている。」(「世の中に伝えるべき対象は『被害者・遺族』だけなのか」104P)
 ジャーナリストの綿井健陽は、メデイァの有様を、このように厳しく指弾する。そして、「遺族の男性は『(一・二審・最高裁まで)七年もかけて裁判をやってきた』と言うが、被告人にとってはこの差し戻し控訴審でようやく公平な裁判を受ける権利が与えられたといっていい」(107P)と述べているが、まさしくその通りであって、死姦行為を含めた“母胎回帰ストーリー”をでっち上げて(そういう言葉と内実は、弁護団が主張したのではない。実際は、メデイァがそのように称して意図的に報道したことなのだ)、被告人を救済しようとしているといった検察側を代弁する非難は、そのまま検察側の方にも跳ね返っていくことになる。強姦目的で襲ったという、判別しやすい、捏造された供述調書をたてに裁判を進行したのは、検察側なのである。
 本書を手掛かりにして、事件の深層を探れば探るほど、「事件と裁判をめぐる騒動」の内実がいかに浅薄なものであるかが、明らかになってくる。巻末にある光市事件差戻審弁護団の一人、石塚伸一による「Q&A 光市事件・裁判」のなかで、弁護団が二一人の弁護士によって編成されていることに対して、次の様に応答している。
 「(略)多くの弁護士が集まった理由の一つには、最高裁の不当かつ強引な訴訟運営があります。最高裁で新たに選任された二人の弁護人が、事実解明の必要性を訴えたにもかかわらず、(略)破棄差戻し判決を言渡しました。(略)このままでは、差戻審が真実の解明の場にならないのではないか、と危惧され(略)、悲惨な状況に置かれた被告人のために闘おうという弁護士が集まりました。」(160P)
 確かに、事件の真相解明による正当な〈法〉的裁定は、重要なことに違いない。しかし、加害者と被害者遺族間の断層を少しでも埋めることができないない限り、〈法〉的判断は、実質的な意味を失うことになるとわたしは考える。
 毛利甚八は、さらにこう述べながら、事件の基層へと問いかけていく。
 「被告人を死刑にすることは、国民に対して国家の厳しい顔を見せつける側面が強くある。(略)被告人の死に方は国家にとって何の関係もないことだが、遺族にとっては被告人の死に様こそが重要となるのではないかと思う。罪の深さを意識し、死を恐れながら、被害者に詫びながら死んでもらわなければ、償いにならない。(略)刑法は近代国家を成立させるために輸入され改造された秩序維持の物差しだが、それを十全に機能させるのは共同体とそこに生きる人々が日々つくりだしている『共に生きている意識』である。『共に生きている意識』のなかに善悪の基準があってこそ、被告人の反省も生まれるし、法廷で裁判官や検察官の発する言葉が働いていく。私たちは、今、社会のなかで、その意識を育てながら生きているのか?/そうした社会意識を育てられなかった犯罪者を殺して、悪い心を潰していけば、社会は安寧に向っていくのか?被害者と遺族の心は救われていくのか?」(80~81P)
 差戻控訴審の判決は、四月二十二日である。もう一度、いおう。どのような判決が出ようとも、加害者と被害者遺族間の断層が少しでも埋まらない限り、空無なことなのだ。

(『図書新聞』08.5.3号)
                                 

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2008年2月22日 (金)

つげ忠男・うらたじゅん・菅野修他著『幻 燈 8』(北冬書房刊・08.1.20)

 『夜行』(72年創刊、95年20集で終刊)に引き続き、漫画作品集として発行し続けている『幻燈』の第8集が、一年ぶりに刊行された。そして本集では、待望久しいつげ忠男の新作が掲載されている。
 本集に立ち入る前に、わたしなりの現在の漫画情況への見解を示しておきたい。実は、「毎日新聞」2月6日付夕刊紙上にて、信じられないような誇大妄想的言説を目にしたからである。わたしはまったく読んでいなかったのだが、「マンガの居場所」という、何人かが執筆する連載コラムがあった。このほど10年間の連載が終了したらしく、そのことを振り返る文章が、執筆者の一人でもある夏目房之介によって書かれていた。いわく、「この10年、マンガの世界化は急速に進み、『外部』の眼は市場でも研究でも大きな意味を持った。2001年『日本マンガ学会』が設立され、僕の知合いも多く参加し、彼らはまた大学からマンガ研究者として呼ばれ、僕自身今年から大学の専任教授となる」と滔々と綴っている。「『外部』の眼」のといういい方にまず反感を覚え、日本を冠した学会と称しているが、知り合いだけの閉じられたマニアックな集団の場所なのではないかと、疑義を差し込みたくなり、そして、「彼らはまた大学からマンガ研究者として呼ばれ、僕自身今年から大学の専任教授となる」といういい方に至っては、憐れみの情すら湧いてくる。そうか、マンガが学際的研究対象になることは、そんなにもすごいことなのか。そのために夏目は、これまで奮闘努力してきたのかと。極めつけはこうだ。「相変わらずの出版不況の中『マンガが面白くなくなった』という言説に対し『居場所』は一貫して『今のマンガの面白さ』を追及し続けた」と自画自賛している。
 そうではないと、声だかにいいたくなる。漫画や劇画が、マイナーな表現ジャンルとして、見做されていた長い期間、それでも優れた作品が多く生み出されている。それは、市場主義や研究対象といったこととは無縁に、ひとりひとりの作家の矜持と膂力によって達成されたものだ。また、僅かであっても、そういう作品に共感する熱い読者がいたからでもあった。そして、その読者がまた、作家となって、これらのエートスを引き継いでいったのだ。サブ・カルチャーの一翼を担っていた六〇年代から七〇年代の漫画・劇画情況というのは、そういう時代相を表象していたことになる。いまや、マス・カルチャーを主導するまでに拡大化した漫画というジャンルは、一人一人の作家性を踏み台にして、テレビドラマ化、映画化とリンクして大量消費させていくだけの巨大ビジネス産業だといっていい。それゆえ、漫画作品はたんに大量流通商品でしかないのだ。もちろん、そのなかでも、際立った秀作があることを認めないわけではないが、わたしは、現在の漫画情況をけっして楽観視してはいない。いまのままであれば、やがて作家が枯渇し、少子化が拍車をかけ、読者が離れていくことは目にみえているといわざるをえない。
 『幻燈』誌に掲載されている作品群は、明らかに、そういう事象とは対極にある。あるいは、やや強引ないい方をしてみるならば、はじめから、マス読者を想定しているわけではなく、確実に自分の作品世界が伝わっていく読者というものを作品の中に、意識的にしろ無意識的にしろ内在させているとみることができる。それは当然のことながら、作家性を消費の対象にすることを否とし、自ずから屹立させることを指向しているといっていい。
 さて本集には、対談がふたつ(鈴木翁二・山田勇男「『夜のコトバ』展をめぐって」、うらたじゅん・山田勇男「地上五センチを歩く」)と、座談会「うらたじゅん作品の多様な世界」、宮岡蓮二「瑠璃さんなんていない―山田勇男論」(久保註=映画監督・山田勇男の漫画作品を本格的に論じたものだ。深い示唆を湛えている必読論稿だ)、つげ義春「旅写真」(北冬書房Websiteで連載中)などが掲載され、漫画作品は14作品である。ここでは漫画作品のみを任意に紹介してみたい。
 菅野修「キスの味」。妻を自死(首に傷痕を描出)させた中年男の妄想が、連鎖のようにして展開していく。妻の“形見”として髪の毛を鬘にして被る男は、女性に憎悪しながらも、いつしか自分が女装することに快感を覚え、男に抱きつかれキスされるところで終景となっていく。卓抜な物語性もさることながら、菅野独特の描線によって、この中年男の像型が、非在感に溢れていることが、作品の深度をさらに増幅させている。
 漫画誌『跋折羅』で活動し、二十八年ぶりとなる新作を発表した片桐慎治は、「遠雷」と「犬になる」の二作品。二作品とも黒い犬がメタファーとなって、モノローグの断片と陰翳ある画像が、詩的世界を表出している。特に、「犬になる」のモチーフとした「炎天に一度会ふべき神を待つ」(山本加人)の一句の鮮烈さと小さな人影の画像は、いつまでも心奥の襞へと突き刺さってくるかのようだ。
 オンチミドリ「双子美人様式」は、不思議な二体が踊りながら様々な場所を彷徨する。この二体の躍動が、生きていくことの視線といっていいかもしれない。永井サク「鎌倉日帰り」。柔らかな描線で紡ぎ出す、この作家の世界は、皮膜のような孤絶感を表出する。海老原健悟「ギラギラ」(他に「静謐」、「夜化粧」)は、対照的に細やかだが、黒色の描線を荒く強調するように表現していく。わたしは、彼の独特のモノローグに散りばめられた言葉の断片にいつも惹きつけられる。木下竜一「尋ね人」(他に「人形姫」)。この作家は、いつも短かめの作品なのだが、そこに湛えているものは、幾つもの言葉を重ね合わせていかなければ到達できないような叙事世界を描出する。
 西野空男「夜」。「犬になる」や「ギラギラ」に〈神〉という言葉で出てくるが、西野の場合は、〈イエス〉と直接、発する。そして、「私は/イエス/キリストを/信じません」と、マコという女を監禁していたであろう男に、語らせる。傘で刺し殺すという行為、助けに来た男と女の関係の隔絶。西野空男の世界は、ますます切り刻むような孤独感を漂わせていく。斎藤種魚「蝶番」。二体の物語。種魚ファンタジー、全面展開だ。画像はパソコン処理なのか、淡い情感が、エロス性を逆に際立たせている。そして、うらたじゅん「夜の店」について。「生」と「死」の往還の物語である。傑作「眠れる海の城」があるように、うらたじゅんの世界を際立たせる一貫したモチーフである。本作は、これまでの作品に共通するものが多くあると感じられながらも、しかし、あらたな地平を切り開いていると感じさせる。例えば、「空の上には/また海があるの/かもしれへん/空の上の浜辺で/おじいちゃん/不思議な夜店してるねん/きっとそうにちがいない/夢でみた夜店屋さん/おじいちゃんに似てたもん」と少年に語らせる場面に、うらたじゅんのイノセントな思いを強く受け止めることができる。この語らいと画面に、あらたな踏み出しをしていこうとするうらたの意志のようなものを感じるのだ。付言しておけば、この場面に挿入された、つげ義春の「石屋」を思わせる箇所は、つげ作品に対する真摯な思いの表れだといっておきたい(「石屋」シリーズでなかなか妻の顔を表さなかったように、本作では、少年の母の顔を明らかにしていない)。
 ようやく、つげ忠男「曼陀羅華綺譚」にたどりつく。すでに、「Websiteつげ忠男劇場」で発表されたものの掲載であるが(未発表の後半部分は次集掲載予定)、紙印刷で見ると、やはり、つげ忠男は健在だという思いを抑えることができない。『ガロ』デヴュー作と同じ、ゴッホがここではモチーフのひとつとなっている。終景、住職の若妻は、あたかもゴッホの晩年の傑作“麦畑”を掻き分け歩み寄ってくるかのように描かれている。後半部を期待せずにはいられない。
 このように、『幻燈』の作品群を目にすれば、漫画やアニメの海外輸出だけを「マンガの世界化」と称して、錯覚する立場を、わたし(たち)は、絶対に取らないということだけは、明らかにしておく。作品の深度だけが、〈世界〉を凌駕していくことになるからだ。

(『図書新聞』08.3.1号)

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2008年1月18日 (金)

神津 陽 著『極私的全共闘史 中大1965-68』(彩流社刊・07.12.8)

 四十年以上経過した年月を振り返ることに、どんな意味があるのだろうかと、わたしはいつも考えていた。ただ回顧するだけの記憶の遡及にはなんの意味や意義すらないといえる。現在を絶えず、その意識下に置かない限り、記憶はたんに厚化粧された古層にすぎないからだ。『全共闘白書』なる大部な一冊が出たのは、もう既に十四年ほど前のことになる。それから、なにか息せき切ったかのように全共闘回顧本が出始めたような気がする。“68年革命”論なる大言壮語な本も出て、誇大妄想的回顧もここに極まれりといった事態になっている。〈全共闘(運動)〉というものをどのように深化させた思想領域の中で評価し見直すかということが、記憶の道筋とその周辺を辿るだけでは到達しえないことは、誰にでも了解できる前提なのだ。当時と、それからのことと、そして現在の自分たちの思想的な所在を鮮明にすることなくしてはできないことなのだといっていいはずだ。にもかかわらず、ここ十年ほどの間で提出された多くの〈全共闘(運動)〉回顧録はすべて、“68年革命論”本が象徴しているように、自分(たち)の立ち位置を、皮膜のように覆い隠し、自分(たち)こそが歴史の中心にいたのだと錯覚して放言しているに過ぎないといっていい。
 「過去の錆び付いた回顧談ではなく〈現在を生きる糧〉」になることが、「記憶の復元軸」だと述べる本書の著者・神津陽は、七〇年代初頭、共産主義者同盟叛旗派を主導した一人であった。本書は全共闘史と銘うってあるが、むしろ全共闘前史(〈全共闘(運動)〉は、その全体の通史を傍証していくよりも、初期、前史が、ダイナミックな思想性を取り出すことを可能としている)といった方が的確だし、さらには極私的に記述された叛旗派立ち上げ前史といった趣きもあるが、多くの類書とは、次元の違う断面を切開しながら、〈全共闘(運動)〉の思想的所在を最も深く掘り下げた分析を真摯に提示しているといいたい気がする。それは個別中大闘争にフォーカスしたことが、視線のぶれを持つことなく、詳細な記述を通して一個別大学の領域から敷衍して、当時の他大学の個別闘争へ、さらには全国的な学園闘争へと拡張されていくかたちが、理路的な通路を持って理解できるように論旨が進められているからだといえなくもない。さらには、極私的といいながらも、自己的な視線をかなり抑制して論述していることが、鮮烈さを与えているといってもいい。率直に、司法試験合格志望だったことを述べ、志望断念と運動の確執を通しながら、日常的な態度や様々な関係性を描出するという、その意味では、極めて私的な周縁に触れているが、それがまた、当時の時代情況を投影させていて、必ずしも有りがちな自分中心の物語にはならず、切迫感を持って本書に接することができるのだ。
 ところでわたし自身はといえば、一浪して中大に入学したのが六九年である。本書で触れられている学館自主管理闘争はもちろんのこと、学費値上げ白紙撤回闘争(現役受験時に遭遇している)などは、既に神話化していた時だった。中央大学新聞学会に所属しながら、中大全中闘の外延として関わり、一方では、背叛社という自爆して解体してしまったアナキスト集団の残存メンバーと新たにアナキストグループを立ち上げて活動を開始していたから、既に党派主導が見え始めた全共闘組織による一連のカンパニア闘争には、距離を置かざるをえなかった。六九年から七十年にかけて、苛烈な反体制運動が激化していき、赤軍派のような突出した集団が形成されていったのは、ある意味、必然的だったと思うが、大菩薩峠事件の直前に離脱した元赤軍兵士の高校生が、節操もなく、わたしたちの方へ近接してきたことがある。このことだけで断定していうわけにはいかないかも知れないが、ムードとしての過激性に吸引されてしまう層もあったということだ。神津は本書で、ブント主流からはじかれた塩見孝也の「自己陶酔型観念論」は、所詮「ホラ妄想」だと指弾しているが、なるほど、そういう誇大妄想をなんの疑いも持たない信仰が、瀰漫していったことは確かかもしれない。赤軍派がそうだったように、政治的軍事主義、党派主義によって領導される運動体は、必ず、遅滞し閉塞し解体していく命運にあったといえる。
 さて全国で初めて学費値上げ撤回を勝ち取った中大学費闘争は、全学闘争会議議長が最終場面で「学費闘争は終わったが、七〇年安保までバリケードを死守しよう」と暴言を吐いて、他派や一般学生からいっせいに批判され屈辱的な結末に至った経緯を、神津は次の様に捉えている。
 「中大生にとって自治会勢力図や内部論争や連自やスト決議は、自分らの目的遂行に関係する範囲で関心のある事柄だ。(略)学費値上げ反対でスト権を確立してバリケードストに突入したのだから、白紙撤回すればバリストを解除するのが理の当然である。そこに何の打ち合わせもなく『永続バリケード』主張が出れば、罵倒する大衆の方が健康な反応ではないか。中大学費闘争の最終局面は前代未聞の〈進んだ大衆・遅れた党派〉の構図だったのである。」(215P)
 神津の考えは、個別大学闘争は社会闘争であって、拙速な政治闘争に還元してはならないというものだ。塩見ら関西ブントに扇動されたかたちで永続バリケード宣言をしてしまった議長はピエロに過ぎないとまで断じている。これは、〈全共闘(運動)〉の思想的位相を見事に言及していると、わたしには思える。そして、「最も大切な思想的基盤は、国家も憲法も排除する民権論であ」るとして、『蒼氓の叛旗』以来展開している共同体論(組織論)を敷衍しながら論述する。
 「私は学館闘争の頃から、『組織論は国家論のミニチュア』だと考えていた。社会主義革命の最終形態は国家廃絶だが、暴力的廃止は不可能であり、国家統制は不要となって社会に回収されるべきなのだ。(略)今時の大衆運動には党派的主導が必要だが、大衆が指導の正否や是非を判断すればよい訳で、大衆が成熟すれば余分な指導や官僚的な統制などは不要となるのだ。」(219P)
 政治主義や党派主導の運動に対して、徹底的に否といい、真に開かれた共同性の場を模索する指向が、ここにはある。
 これまで、〈全共闘(運動)〉をノンセクト・ラジカルな学生大衆運動であったと、よくいわれるような一面的な捉え方に、わたしはどうしても首肯できなかったといっていい。各大学全共闘の編成や中心メンバーには、党派の影が見えていたし、折からの新安保条約延長阻止を政治課題とした七〇年安保闘争や沖縄闘争を前に、全国的な学園闘争は社会闘争から表層的に政治闘争へとスライドせざるえない契機をもっていたが、だからといって無理やり全国全共闘を結成しても、党派間の拮抗の中、内部崩壊していくのは必然的なことだった。だからこそ、過小評価も過大評価もすることなく、神津のように深部に視線を降り立たせて思想的断面を取り出し、持続して〈全共闘(運動)〉を対象化することに、意義があるのだと、いま、わたしはあらためて述懐も込めて思っている。

(『図書新聞』08.1.26号)

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2008年1月 4日 (金)

前登志夫 著 歌集『落人の家』(雁書館刊・07.8.20)

 吉野の山に住まう歌人として知られる前登志夫の第九歌集である。一九二六年生まれの歌人にとって、九冊の歌集というのは、けっして多くはなく、どちらかといえば寡作の方に違いない。
 前登志夫は、長らく中央の歌壇とは関わりなく活動していたこともあって、わたしたちにとって、ある種、伝説化された歌人でもあった。詩人として出発、五六年に詩集『宇宙驛』を上梓。「異常噴火」して歌作を始め、「かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳らひにけり」の鮮烈な一首を巻頭に配した第一歌集『子午線の繭』を出版したのは、六四年、三八歳の時である。文庫版『存在の秋』に付された自筆年譜によれば、六八年前後の十年間はほとんど都市へ出なかったとあり、七四年、四八歳の時、「大阪・金蘭短期大学に助教授として招かれ、十五年間の山籠りを解く」とある。その間の著作は、第二歌集『靈異記』、共著『現代短歌大系 8』、エッセイ集『吉野紀行』のみであった。六七年、歌と民俗の研究集団「山繭の会」発足させ、主宰し、八〇年、歌誌「ヤママユ」を創刊。本歌集を「ヤママユ叢書第七十七篇」としている。第三歌集『繩文記』(七七年刊、第一二回迢空賞受賞)上梓して十年の後に、第四歌集『樹下集』(第三回詩歌文学館賞受賞)を刊行。そして現在まで、二十年間、六冊という歌集を出している。わたしは、なにかに拘っているのだろうか。はじめの二十三年間で、三冊の歌集ということへの対比を考えれば、後の二十年間、六冊ということが、普通なら遅々としたものであっても、前登志夫の場合は、なにか加速度的な時間を意味しているようでならないのだ。
 「わが歌よ、死者の打つ木魂のように空を走れ!」(「存在の秋」)と宣した歌人は、堆積していく時間の往還のなかで、いまどのような場所に佇っているのだろうか。そのことが、わたしにとって最も関心が向かう所在である。
 『鳥獸蟲魚』、『青童子』、『流轉』『鳥總立』と続いた歌集名を瞥見すれば、最新歌集名は、これまでのどの歌集名にもなかった極めて実感的なものだといっていい。山間地を生活の場としてきた自分を〈落人〉と擬定とするのは、率直な表明であり、さらに〈家〉という空間に連関させていくこともまた、至極、自然のなりわいの表出ということになる。

 歌詠みにうつつを抜かし生きたればわがめぐりみな荒寥とせり
 やうやくにわれの煩惱も淡くなり歌詠むことは息するごとし
 わが魂はいづこさまよひゐるならむ谷間をへだてわが家を見れば
 とぎれとぎれの居眠りのまに歌詠めるわけのわからぬ頭蓋の谷間
 兩の羽ぼろぼろとなりし雄の蛾は雌に先だち息きれてをり
 紅葉の明るき村をとほりきてまたつぶやけり、みんなはどこへ

 はじめの歌詠み(む)の二首は、対称的なものとして捉えることができる。〈荒寥〉と〈息するごとし〉は、いうなれば時間の堆積が自らの身心に襞のように覆いかぶさってくる感受の在り様を示している。〈谷間〉という言葉に象徴化させた二首も、方位を変えて、同様の感慨を込めているといえよう。これらのことをさらに加速化させれば、〈雄の蛾〉の実態と〈みんなはどこへ〉という感性の拠りどころが、自らの存在の暗渠となっていることの表明であるというように、前登志夫にとっては、現在の「歌」があるということのように思える。
 かつて、村上一郎は、前登志夫の短歌世界を「倫理的な抒情の叫びを形象」しているとし、「自省に始まり、自嘲にはゆかずに、自虐・自罰にいたる前登志夫の自己に対する倫理の過剰なまでのつきつめ方は、彼の抒情の内容を翳深いものにしている。」(「前登志夫論―〈或る山びとの歌〉―」『現代短歌大系 8』収録)と述べていた。
 確かに、この最新歌集の歌篇たちも、そのような視線を敷衍させて捉えられないことはない。だが、前登志夫の〈現在〉は、「自省」を「倫理の過剰」へとつきつめることでは開示できない地平に至ってしまったと捉えるべきであるという気がする。つまり、堆積していく時間(老いや、やがて訪れるであろう死)を自然過程そのものとして受苦することを前登志夫の場合、良しとしてはいないことがわかるからだ。

 人間以前のわれにあらずや槇の葉につもれる雪を食べてゐるのは
 攫ひたるをみなは髪をなびかせて山驅くらむかわれの不在に
 守るべき山の砦も潰えしか、觀念の鳥あゆむ枯草
 はや夜明けわれを守りしは夜の皮膚、月沒りしのち竹群さわぐ
 蟾蜍そこ退けてくれ青草をそよがせてゆく形象ありき
 きつつきは木のテロリスト春の日のわれの頭上に穴穿ちをり
 若き日をきみはうたふな戰争と戰後の日々をうたふなきみは

 吉野の山々という自然に囲まれて住まう歌人にとって、〈歌詠み〉と〈生活〉は、一体のものであった。だが、どんなに隔絶された場所であっても、世俗的な社会の皮膜を忌避できるわけではない。是認する、しないに関わらず、わたしたちは、いつも反自然と自然の狭間のなかでしか生きていくことはできないからだ。「あとがき」で、「過酷な経済至上の世の中では、一市民として慎ましくおのれの生をいとなむ風景は、まるで落人のようにすら見えたりします」と述べている。自然が、人工化されることによって自然でなくなる必然を抱えもってしまった疲弊していくだけの現在社会は、誰でもがやがて、〈死〉に向かっていく必然と、それはパラレルなものだといっていい。
 だから、〈きみはうたふな〉という、倫理性から放たれて、ある意味、切実さをもった「自省」感は、この歌人にとって、〈現在社会〉や〈死〉に対する苛烈な〈抵抗〉の思いなのだと、わたしは受けとってみたいのだ。

(『図書新聞』08.1.12号)

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