2013年11月 8日 (金)

長谷川 裕・著、村上 健・絵                         『怪しい駅 懐かしい駅――東京近郊駅前旅行』          (草思社刊・13.8.28)

 わたしは、「駅」というものに、長い間、魅せられ続けてきた。なぜ、魅せられるのかは、自分でもよくわかっていない。ただ、未知の駅舎に行っても、なんとなく、そこに佇んでいたいと思ってきただけなのだ。著者の長谷川裕は、「それぞれの駅にはそれぞれの事情があり、なるべくして、あるいはやむにやまれず現在の形になっている。/私たちの暮しはこの百数十年間、そんな駅と深く関わりながら、駅とともに変化してきた。だからこそ、駅は怪しく懐かしい場所に思えるのだろう」(「はじめに」)と述べているのだが、大勢の人々が行き交うターミナル駅であっても、閑散として誰もいない地方の小さな駅も、わたしには、なにか親近感のようなものを覚えるのだ。確かに、著者がいうように、駅は、人々が往来する場所であるからこそ、そこに、その人たち(あるいは、わたしたち)の〈暮し〉と〈時間〉を漂わせているのだといっていいかもしれない。
 わたしが、小学生から中学生にかけて、スポーツといえば、野球と相撲だった。特に、大相撲の東京場所が開かれる両国駅は、地図を見る限り東京駅や上野駅のような大きな駅だろう思い、いずれは訪れてみたいと憧れていた駅だった。地方出身だったわたしが、両国駅に訪れたのは、上京して随分経ってからだったが、イメージとまったく違っていたことに、驚いたことを覚えている。本書では、「かつての栄光の名残りが駅舎に残る」として両国駅を取り上げている。
 「両国は相撲の街だから本場所が始まると見物客や観光客が集まり、駅前広場はそこそこ賑やかになるものの、ふだんおおむね閑散としている。(略)/ここまで八十数年を生き長らえてきた都内でも古株の駅舎である。/が、哀しいかな、もはやターミナル駅としての機能を果たしていない。(略)/駅に盛衰あり。両国駅は万世橋駅と同じ運命を歩んでいるかのようだ。」
 ところが最近、旧万世橋駅(御茶ノ水駅と神田駅の中間にあった駅で1943年に廃止)は、新しい商業施設となって再生したという報が入ってきた。本書には、もう一人の共著者といっていい村上健の絵が収められている。とりわけ、見開きで活写された両国駅が、じつにいいのだ。夕暮れ時の駅を真正面から見据え、タクシーが何台も連ねて、客を乗せていき、駅舎前の通路も多くの人で行き交っている。タクシー待ちのなかに数人の力士たちが立っている姿は、なにかほっとした気分にさせる。明りで照らされている両国駅の文字、そこには、わたしにとって、ありうべき幻の駅舎が描きだされているのだ。
 両国駅をはじめとして、東京周辺の16の駅(都電の停留所跡というのもある)が、長谷川裕の卓抜な視線を持った文章と村上健のあたたかみのある描線による街々(人々といってもいい)の絵との交響で、本書は、駅をめぐる物語に浸ることができる。
 そして、わたしが惹き込まれた駅がある。西武多摩川線(わたしたちには、是政線といった方が親しみやすい)の終着駅、是政駅である。上林暁の「花の精」とつげ義春の「無能の人」の舞台として取り上げられている。「無能の人」は、周知のように、多摩川の石を拾って、銘石として売る漫画家・助川助三の話だが、是政線は、戦前、多摩川の砂利を運搬するために施設されたものだという。
 「一人でほそぼそと石を売れば世間の笑いもので、大資本を投入して組織的に企業化すれば、経済発展の一翼を担う事業ということになるわけだ。/助川さんの気分で、もしかしたらいい石が落ちているかもしれないと足元に目を向けてみる。が、中流域の川石は角が取れて丸いものばかりで妙味に欠け、漬物石にしかなりそうもない。凡庸な目にはどの石も凡庸にしか見えないのだろうか」と著者が、述べているのが、印象的だ。この是政駅の章は、贅沢だ。村上による、多摩川に咲く月見草、ミヤコザクラ、スイカズラ、クレソン、ツリガネニンジン、ムラサキツユクサの花々や、ヒヨドリ、カワセミ、カルガモ、ツグミ、ハクチョウ、セグロセキレイといった鳥たちが愛らしく描かれている。これらの絵が、寂しげに佇む是政駅を包むように、あたたかさを吹き込んでいる。

(『図書新聞』13.11.16号)

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2013年10月26日 (土)

野崎六助 著『異端論争の彼方へ―埴谷雄高・花田清輝・吉本隆明とその時代』(インパクト出版会刊・13.9.20)

 異端論争という捉え方に、やや逡巡しながらも、副題にある埴谷雄高・花田清輝・吉本隆明という存在へ視線を射し込もうとする著者の意図はなにかということに、まず真っ先に、関心を惹かれたといっていい。かつては、わたしも、政治と文学論争、花田―吉本論争、埴谷―吉本論争(もちろん、リアルタイムで望見している)に、自らの思いを重ねながら、接近していったことがあったが、すでに、そのことへの思考の回帰は起きることはない。だから、本書を前にして、なぜ、いま、三人の思想家たちを並べて、その相貌を解析していくのだろうかという思いで、本書を読み進めていったことになる。
 著者は、埴谷・花田・吉本らの論争をほぼ時系列(戦前期から八十年代中葉まで時間の幅をたてている)で対象化しながら、そこでは、埴谷の『死靈』の解読とともに埴谷のレーニン観を横断させていく。そして、「〈帝国〉はけっして滅びない」と題した最終章において、それらの時間性を〈現在〉へと繋げていくことで、〈現在〉をあらたなに生成させるべく通路を見定めていこうとしているのだ。
 著者の論争への解析に対するわたし自身の言及は、省くとして、ただ、埴谷―吉本論争における次のような箇所にだけ触れておきたい。
 「吉本の位置は、そこで、ハイパー資本主義の広告塔というところに落ち着いた。要するに、本書の『正統と異端』というテーマは、そのあたりに墜落していったわけだ。(略)資本主義は絶え間なく資本主義を乗り超えつづけていくだろう。勝利する対象は資本主義それ自体だ。これは論理矛盾ではない。(略)資本主義は、墓掘り人をも、自身を進化させる歯車として組み入れ、発展持続する巨大なキャパシティを実現した。――それを資本主義のユートピアとみるのか、変わらぬ資本主義の地獄とみるのか。」
 考えてみれば、埴谷―吉本論争以後、数年してバブル景気というものがやってくる。だが、それも九十年代前半で失墜、わたしたちは、以後「変わらぬ資本主義の地獄」を見つづけることになる。しかし、資本主義という怪物は、グローバリゼーションというあらたな幻想のユートピアを拡散させて生成した。
 「グローバリゼーションは、世界を一つのものとして考える。ワン・ワールド、一元化支配の構図だ。(略)ほぼ二〇年を通過し、ますます堅固な統治システムをつくりあげつづけている。『この世界の外に出る』ことは出来ないかのように……。経済、政治、技術、文化、情報、犯罪。あらゆるものが国家を超えて、グローバリゼーションの『支配下』に組みこまれている。それでも国民国家は存在し、国民を制度、法律、ナショナリズム幻想などによって繋ぎとめようとする抑止力を行使する。グローバル・エコノミー、グローバル・カルチャーの影響は、われわれの思考に莫大なバイアスをかけつづけている。」
 確かにそうなのだ。ありとあらゆるものの動態が、見えざるコントローラーによって駆使されていることになる。そして、潜在している難題を、「単一の問題(イッシュー)に還元することによって、結果的には判断保留する。つまり、何もしない」のだ。だからこそ、わたしたちは、そのことに気づいていかなければならない。
 著者は、こうして、最後に、「レーニン・イン・ビカミング」といい、「後段の『ビカミング』に」、「人間はいかにして人間になる(ビカム)のか」という思いを込めて本書を閉じている。なぜ、レーニンなのか、埴谷におけるレーニンの問題は、結局、最後までアナキズムと切り離せなかったはずだと考えるわたしにとって、いくらか、「レーニン・イン・ビカミング」といういい方に対して抵抗感を覚えながらも、そもそも、埴谷の、あるいは論争の切開への基点として、「自己(ゼルプスト)」をめぐる問題とした著者の考えに、わたしもまた同意するからこそ、グローバリゼーションが、国家や国民を呑み込んでいくならば、一人一人が、立っていくことについて、つまり、「自己の究明」によって、「人間はいかにして人間になる(ビカム)のか」という地平へと希求する契機を獲得できるのではないかと、わたしなら思いたい。

(『図書新聞』13.11.2号)

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2013年10月 4日 (金)

「大杉栄と仲間たち」編集委員会 編                        『大杉栄と仲間たち―「近代思想」創刊100年』               (ぱる出版刊・13.6.27)

 雑誌『近代思想』(月刊)が、大杉栄と荒畑寒村によって創刊されたのは、大正元(1912)年十月のことであった。その一年半ほど前の一月に幸徳秋水たちが処刑され、いわゆる無政府主義、社会主義運動にとって冬の時代といわれた時期にあたる。いかにも、文芸的色彩を持たせた誌名であったためか、第一次二十三冊(~1914.9)は、発禁処分になることなく順調に発行されたのだが、その後の月刊『平民新聞』(全六冊、四号以外すべて発売頒布禁止、1914.10~15.3)をはさみ、第二次『近代思想』は、15年10月に再刊、復刊されるが、二号から四号(16年1月)までが発禁となり、その号で廃刊となる。大杉は、その頃、伊藤野枝との随伴がはじまり(堀保子は、『近代思想』の事務方として支えていた)、『文明批評』を出した後、『労働運動』を創刊するのは、大正8(1919)年10月のことだった。本書のなかで、小松隆二は、「『近代思想』とその時代は、大杉の生涯と運動においては重要な位置にある」として、『近代思想』に高い評価を与えている。つまり、「大杉らにとって『近代思想』の活動は、次のステージに進む準備の一面があった。と同時に、大杉らにもすでに思想、芸術、文化面でも他と対等に交わったり、先導したりする力が備えられており、大杉らの多様な活動・運動の一つが『近代思想』であったという理解・評価も可能である。社会主義者やアナキストの運動でも、明治期の『平民新聞』、また大正期の『労働運動』のような思想・運動専門の機関誌が唯一の、あるいは高い活動ではない。同時に文芸、文化、芸術、経済など多様な活動がなされてよい」(「『近代思想』にみられる大杉栄と堺利彦の距離」)と述べている。
 本書は、昨年(2112年)の10月に、雑誌『近代思想』が創刊して一〇〇年ということで開催された記念集会を基にして編まれた、二四名(そのうち、冨板敦は、渾身の資料編を提示したことを付記しておきたい)の執筆者による論集である。「大杉栄」、「『近代思想』」、「仲間たち」といった項目に添って諸論稿が並んでいる。
 いくらか恣意的に、幾篇かの論及を引いてみたい。
 「ある意味で大杉は生まれつきの詩人ではないかと思う。詩を書くのが得意だけではなく、彼の性格や考え方も『詩的』と言いえるだろう。」(マイケル・シャワティ「『詩人』としての大杉栄」)
 「大杉が『春三月縊り残され花に舞ふ』と詠じた一九一一年から、憲兵に絞め殺された一九二三年まで、僅か一二年。あの膨大な仕事が僅か一二年の間に為されたことを思ふと、その生の勢ひに圧倒される。それは花に舞ひつづけた一生であつたやうにも感じられる。」(白仁成昭「花に舞ふ――死と生の会話」)
 「国境をこえたアジアの連帯のうえにアナキズムの実現があるという大杉栄の思想は、亜洲和親会以来、揺らいではいないと私は考えているが、もちろん、検証は必要である。」(山泉進「大杉栄と上海と極東社会主義者会議」)
 「大杉は、女性問題や、まして『母』の生き方よりも、人間一般の個性や自由、さらには、革命主体としての人間のあり方に関心を持っていた。(略)数段高い位置から『青鞜』を指導するようなその態度は、『青鞜』を非難する男性知識人と補完的な共犯関係を結んでいる。不均衡なジェンダー構造のもとで、現状を無視した普遍主義とも呼べる思想を実践する男性・大杉栄が、後に堀保子・神近市子・伊藤野枝との関係を破綻させる葉山事件への道は、すでに始まっていた。」(村田裕和「『近代思想』のドラマ批評――『新しい女』をめぐって」)
 「たしかに七分は、運動に関与したことも、まとまった業績を残すこともなかった。そんな彼の生の在り方は、もしかしたら、学術的価値とか運動史上の価値といったものとは遠い存在とみなされるかもしれない。一市民としての、地味な存在であるのかもしれない。(略)その在り方もまた、一つの歴史そのものであり、貴重な財産であることが見えてくる。」(山中千春「無垢という〈アイロニー〉――『近代思想』以後の仲間・大石七分」)
 最後に、引いた大石七分は、「大逆事件で処刑された医師・大石誠之助の兄にあたる大石余平」(「同前」)を父に持ち、西村伊作(文化学院の創設者)の末弟でもある。血縁、地縁があるということは大きな意味を持つかもしれない。だが、「学術的価値とか運動史上の価値といったものとは遠い存在」であったとしても、「一つの歴史」というものをつくりあげる存在でありうることは、強調されていいはずだ。
 わたしは、これまで、『労働運動』と比較して、『近代思想』を幾らか低く見做していたように思う。それは、ロシア革命以前と以後の差異というものに拘っているからだ。やがて、拡がっていく大杉と荒畑や堺利彦、山川均らとの距離というものを考えていく時、わたしなら、大杉の孤立した奮戦とそれを支えていく理念の有様に共感を抱く。しかし、小松の言ではないが、『近代思想』の試みがなければ、次なる大杉栄の営為はなかったかもしれないと、あらためて思っている。なによりも、本書の諸論稿によって、大杉、荒畑たちの切実なる活動が、時間性を超えて、ひとつの描像をもって浮き上がり、わたしたちのいまと繋がっていることを、確認できたといっておきたい。

(『図書新聞』13.10.12号)

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2013年9月13日 (金)

横田榮一 著                                『カントとアドルノ――自然の人間的歴史と人間の自然史』      (梓出版社・13.4.10)

 アドルノは、よく知られているように、ホルクハイマーとともに、フランクフルト学派の第一世代(他に、フロム、マルクーゼ、ウィットフォーゲル等)にあたる。本書の著者が、前著『ハーバーマス理論の変換』で第二世代のハーバーマスの仕事をテクストにしたわけだから、アドルノを取り上げていくのは、必然的なことだったかもしれない。ただ、本書では、アドルノに対しては、全面的に肯定の視線から論及しているわけではない。つまり、アドルノによるカント批判のなかに、「しっくりこないもの」を取り出し、それを析出していくことによって、「人間的自然の歴史」を浮かび上がらせ、さらには前著のモチーフと連結させて、「新自由主義及び新自由主義的グローバリゼーションがもたらした世界に」、対抗・批判し「別の世界」をつくりだすべく契機をカント哲学(その中心概念、「最高善」)のなかに見い出していく壮大な論稿となっている。
 アドルノのカント批判を、著者は、「近代に発展してきた商品交易と社会的労働の活動圏としての市民社会(略)のうちに位置づけて解釈するとともに、(略)その市民社会の後の発展形態であるシステム社会のうちに位置づけて解釈し、読解している」が、カント哲学における「歴史的位相」とは「異にするものを同一の時間平面上にあるかの如くに扱うという、非歴史性がある」と見做していく。わたしは、フランクフルト学派のいわば、内在的経験として第三帝国との対峙というものが、著者が指摘するところの「非歴史性」を生起させる要因があるように思える。アドルノのアメリカ亡命時代の仕事のなかに、反ユダヤ主義に傾斜していく深層を分析するというものがあったようだが、どのような結論が導き出されたのかは知らないが、そもそもその視線と方法は、いささか屈折しているような気がしてならない。だから、著者に導かれながらアドルノのカント批判に接見するたびに、どうしても、アドルノには屈折感のようなものが覆われていると、わたしには見えてくるのだ。
 「アドルノはカントの理性をあらゆる実質を欠いた人格的統一・英知的性格として捉え、自我の統合の形式遂行を内的自然に対する支配として捉えた。だから、アドルノの見るところ、カントの理性は強い自我であり、これはブルジョワ的な強い自我、強い男に他ならない。カントの定言命法もまた自然支配の文脈で解釈される。すなわち、カントの定言命法もまた規範に変換された自然支配の原理であり、こうしてアドルノの目においては、カントの理性、理論理性のみならず実践理性ももっぱら自然支配的理性とされる。」
 著者も指摘していることだが、カントが提示する人類(あるいは人間)の歴史というものには、自然を支配するという概念は含まれていない。例えば、「自然は人間に自由と理性を与えたのであり、(略)人間は自然の素質にしたがってすごす粗野な状態から自力で脱出すべきであるが、みずからを改善する過程において、自然の素質を傷つけることのないように注意すべきなのである」(「人類の歴史の憶測的起源」・中山元訳)と述べるなかから、「ブルジョワ的な強い自我」とか、「自然支配的理性」を抽出することは困難なのは明白だ。著者は、「アドルノのカント解釈は私には極めて強圧的であるように見える。アドルノはカント哲学にそぐわない枠組みから、その枠組み内でカント哲学を構成してしまっている」とまで断じている。著者は、こうして、アドルノが提示するカント的自然史概念の「書き換え」による自然という概念、あるいは自然史という概念に対して、否定的な分析を加えつつ、さらなる思考の展開を試みながら、カントにおける「自然の人間的歴史の構想」を開示していこうとしていく。そして、「自然の人間的歴史において根本は人間の生(生命―生活)である」として、次のように結語している。
 「新自由主義及び新自由主義的グローバリゼーションは、今日、人間の自然史の現代的形態として現れ、そこでは、多くの諸個人が目的自体としてではなく、単なる物体として扱われ、世界福祉の条件が貧困化していくという、カントが語る最高善の解体・破壊が臆面もなく進行している。現状に対して、『別の世界は可能だ』を標語とする世界市民的公共性の運動は、私見では、カントの最高善を、すなわち世界のある状態を現状とは別の世界として産出する運動である。」
 カント哲学を、現在、わたしたちの言語コミュニケーションで流通している理性や自由、善といった概念と同一化して捉えてはならない。アドルノと同じ陥穽に入るだけだ。ダーウィンの進化論が出される以前に、自然史と人間の歴史を包括する視線を湛えていたことに、わたしたちは、まず、驚嘆すべきである。そのうえで、著者が述べていく、新自由主義及び新自由主義的グローバリゼーション(「アベノミクス」やTPPもまた、そのなかに含まれていく発想だ)のさらなる拡散に対し、どこかで歯止めをかけなければならないのは確かである。なぜなら、「別の世界は可能だ」と思考していくことの切実さを、わたしたちは忘れてはならないからだ。

(『図書新聞』13.9.21号)

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2013年9月 7日 (土)

つげ忠男・菅野修・山田勇男・うらたじゅん他著『幻 燈 13』(北冬書房刊・13.6.15)

 漫画・劇画作品のアンソロジー集『幻燈』の最新刊である。つげ忠男の新作を見ることができる唯一の漫画集だといっていい。「変転」と題された、待望のつげ忠男の作品に対して、わたしは、なかなか思うような言葉を紡ぎだせないでいる。物語を素描しても、この作品をうまく捉えたことにはならないと思うからだ。それでも、作品の深層に届かせるべく、あえて言葉を取り出して見るならば、四十七歳になる鬼多川淳という三人の男の転位した物語ということになる。「変転」というならば、それはある種の連続性を孕んでいく。わたしが、「転位」としたのは、そこには、連続性と断続性が混在した状態で作品化されているということを意味している。住まいのある場所から四駅ほど先にある銀行の支店長に昇進が決まった、家族四人の父親であり夫である鬼多川淳。マグロ獲りを競いあい、糊口を凌ぎながらも、はるか年下の女性と同棲して、毎日、食事の支度をする男・鬼多川淳。人前で殴られた腹いせに、仕返しに来た若者に刺されて死ぬ、ヤクザを生業としている鬼多川淳。そこには、それぞれ違う造型が描かれているのかといえば、そうではないと思う。起点として描かれている、最も二人の像とはかけ離れていると見做されやすい銀行員の鬼多川淳のなかにも、どこか、非定住性の資質が漂っていると思われるからだ。
 うらたじゅんの「中之島の図書館で」は、橋本、松井という日本維新の会の主導者たちが、府立中之島図書館(建物は、周知のように重文に指定されている)の廃館に向けて動き出したことに対しての抗議を含めて書かれた作品であるが、巧みに“戦争”の記憶を挟みこんでいくところに、うらたならではの力業がある。
 映画監督・山田勇男の漫画作品「午前三時に蠟燭の火が蒼ざめる」は、詩情溢れる世界を描出している。ところで、山田の十年ぶりとなる新作映画が近々、公開される。大正ギロチン社の若きテロリストたちを描く『シュトルム・ウント・ドランクッ』だ。期待したい。
 斎藤種魚の作品は、つげ義春の「無能の人」を連想させる「無農薬の人」と題した、12コマによる十四篇の連作である。妻に愛想をつかされ、妻が残していった場所で細々と野菜を作っていく男の物語だ。「人と自然にやさしい無農薬とか有機栽培といったって、あれだよ。結局自然の大地をないがしろにしてるんだよね」と無農薬の人に呟かせている。
 他に、菅野修「90度の足を持つ女」、おんちみどり「階段町かるた」、甲野酉「眩ます」、藤宮史「或る押入れ頭男の話・アーケード街」、木下竜一「ラジオ電波」「元同僚」、うらたじゅん「ポンタのこと」も角南誠「海の日」、小林坩堝の散文詩「風船おじさん」、高野慎三、権藤晋のエッセイ二編が収められている。

(『図書新聞』13.9.14号)

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2013年7月 5日 (金)

石弘之・石紀美子 著                        『鉄条網の歴史―自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明』(洋泉社刊・13.3.11)

 鉄条網と聞いて、わたしたちはどういうイメージを思い浮かべるだろうか。世代間によって、当然、抱くイメージは違うだろうし、関心の方位によってもまた違ってくるといっていいかもしれない。わたしなら、やはり、真っ先に強制収容所、捕虜収容所といったことを想起してしまう。アメリカの西部劇映画をリアルタイムで観た世代ではないから、家畜を囲い込むための鉄条網というイメージは、どうしても薄い。
 本書は、サラエボで戦後復興プロジェクトに参加した経験を持つ長女の協力を得て、環境学者(石弘之)ならではの、新たなる提起をしている。つまり歴史的空間のなかで、一見、見過ごしがちな鉄条網というものに焦点をあてて、人間が抱え込んでしまった負のテクノロジーを論断しながら、わたしたちに、なぜ敵を対置し排除していかなければならないのか、あるいは、なぜ人種間の差別化をしなければならないのか、なぜ富と権力を持つ者たちと持たざる者たちを差別化しなければならないのか、なぜ国境によって分断しなければならないのかということを、真摯に問うていく。
 そもそも、人間と動物を分断させた鉄条網は、いつしか、人間と人間を分断し、民族共同体を分断し、国家間をも分断していったことになる。
  「『短時間に広範囲を厳重に囲う』という鉄条網の持つ最大の機能が、家畜から人間に向けられるのは時間の問題だった。はじめは、自分たちを囲って敵から身や財産を守ったのが、やがて敵を囲うことに威力が発揮されるようになった。」(「第四章 人間を拘束するフェンス」)
 鉄条網が、農牧場を囲うものとして発明されたのは、アメリカとフランスで一八六〇年代の同時期だったという。軍事用に転用されたのは、ヨーロッパで一八八〇年代というから、僅か、二十年ほどの期間でしかない。驚くべきテクノロジーの拡張といえる。やがて戦争の時代に突入するとともに、鉄条網は重要な位置を獲得していくことになる。著者たちは、鉄条網を「塹壕戦の主役」と規定している。
 ベルリンの壁の上部には、鉄条網を張りめぐらしていたし、イスラエル・パレスチナ間には、分離壁が立てられ、上部や前面に鉄条網が張られている。鉄条網の存在は、いまだ現在的であることを忘れてはならない。
  「人種の差というのは、劣等人種と優越人種という近代西洋の価値観に基づく部分が大きく、植民地支配や奴隷貿易などの口実とされてきた。人種とIQの違いなどが論じられるが、それは教育や生活の水準、栄養条件などの環境の違いでしかない。アマゾンや東アフリカで狩猟で暮らす先住民と生活を共にしたことがあるが、彼らの基準では、わたしは狩りも採集もできずひとりで生きていけない無能な『劣等人種』であった。/アフリカに発祥した人類は、本来は『黒人』だった。それが、移動先の気候風土に適応するために、皮膚や毛や目の色素量が変化し、気温に適応するために体型が熱い場所で細く長くなり、寒いところではずんぐりむっくりになっただけの話だ。」(「同前」)
 人種・民族の差異を、なぜ、差異のまま容認できずに、差別へと転化させてしまうのだろうかと思う。著者のような視線を、多くの人たちが持ちえるならば、差別感を無効化できるはずだと、わたしならいいたい気がする。
 さらにまた、アメリカのフロンティア精神が、先住民圧殺によって開始されていったことを、糊塗するかのように、アメリカ的デモクラシーが世界を席巻していったのは、核開発(もちろん、原発も含む)に象徴される負のテクノロジーによってであることは、誰もが否定できないだろう。鉄条網もまた、核的なるもののメタファーであると、わたしならいっておきたい。
  「国境という概念ができたのはそんなに古いことではない。地球は連続した空間であり、海洋、山岳、河川湖沼、砂漠などの自然の障壁を別にすれば、人間や物や動物は本来自由に行き来できた。古代から中世においては『国境』という概念は存在せず、ヨーロッパでは相互に承認して確立される国境はほとんど存在しなかった。(略)国境線や戦闘によってくるくる変わる勢力圏を確定するのには、鉄条網が威力を発揮した。地域住民がほとんど気にも留めなかった『国境』という抽象的な存在が、鉄条網が張られることで目に見えるようになった。この結果国境画定をめぐる国境紛争が起き、民族が分断されて新たな紛争を誘発するという事態になっている。」(「第六章 世界を分断する境界線」)
 鉄条網が、隣家との境を確認する垣根のようなものならいいが、実際はそうではない。そのことは、パラドキシカルにテクノロジーが負性を帯びていくことを、示しているといわざるをえない。鉄から鉄条網が作られていくように、ニトログリセリンからダイナマイトを発明したり、放射線研究から、核爆弾や原発が開発されたり、拡張していくテクノロジーの方位は、必ずしも、人びとの生活を向上させていくものではないのだ。
 3.11から二年しか経っていない、いまだからこそ、わたしたちはもう一度、テクノロジーの問題を考えていくべきである。

(『図書新聞』13.7.13号)

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2013年4月26日 (金)

石渡博明 著                                   『いのちの思想家安藤昌益――人と思想と、秋田の風土』(自然食通信社刊・12.11.15)

 わたしは、安藤昌益に長年、関心を抱き続けながらも、なかなか、その著作世界へとわけいっていくことができないでいた。だが、前著『安藤昌益の世界』(07年・草思社刊)に接し、著者に誘(いざな)われるようにして昌益の思想世界の豊饒さを感受することができたといっていい。寺尾五郎以後、最高の昌益思想の導き手に出会ったというのが、その時の率直な思いだった。それから、五年余り経って、本書を前にして思うことは、著者ほど、昌益を深く理解し、信を寄せる読み手はいないだろうということだ。
 わたしの、安藤昌益への入り口は、そもそも「農本的無政府主義」(石川三四郎)や、東洋的アナーキズムといった位相からであった。もちろん、本書を読み終えても、そのことを訂正することはないのだが、著者も述べているように、わたしもまた、3.11以後のことを思えば、江戸中期の時代に安藤昌益が放った世界が、実に新鮮に、普遍性を帯びて現在においても屹立したものを包有しているということが明確になったということになる。
 わたし自身が、拘っている概念でいえば、農本(主義)的、東洋的(アジア的)ということを、反文明や反進歩・反近代といったことを、安直に象徴させたいわけではない。むしろ、人間が対自然との克服過程によって築き上げてきた科学や文明の水位といったことが、砂上の楼閣に過ぎないのではないかということを、まず疑うことからしか、人間(命あるものすべて)と自然との関係は構築できないのではないかと思っているからである。そのことによって、わたしたちの共同性全般に渡る難題は、少しずつでも、見通せることができるはずだという淡い希望があることを否定しないつもりだ。
 昌益が提示する「自然」の概念を、著者は、次のように読み解いていく。
 「昌益のいう『自然』とは、現代語の自然とほぼ同じように、人為によらずに存在するもの全て、天地宇宙の間に存在するありとあらゆるもの、森羅万象を射す言葉です。しかも、『自(ひと)り然(す)る』『自(われ)と然(す)る』『自(わ)が然(す)る』とも読まれるように、単なる物質存在ではなく、同時にその運動性・生命性が強調されている点に特徴があります。」「『自然』の語と表裏一体のものとして、昌益の思想を最も特徴づける言葉に『直耕(ちょっこう)』という用語があります。(略)『直耕』は単に農民の生産労働に限りません。宇宙の根源的実在である『活真』が天地宇宙を生み出し、その存在を日々維持しているのは『活真の直耕』によるものであり、天地宇宙が『転々』として運回し、四季を巡らせ万物を生み育てているのは『転定(天地)の直耕』だというのです。」
 わたしは、かつて生命あるもの、あるいはすべての生命態というものは循環するものだということを、発生学者・三木成夫から学んだ。その衝撃は、いまでも忘れない。前著で著書によって読み解かれた昌益の世界に接して、同じような感慨持ったことを覚えている。ここでは、「人為によらずに存在するもの」といういい方を著者がしていることに着目してみたい。わたしなりに、「人為」の意味を措定してみるならば、あらゆる生命を統治しようとする力とでもいえばいいだろうか。昌益は優れた医者だったという。だが、昌益時代に比べれば、想像を絶する進化を遂げてきた医療技術というものは、臓器移植や延命治療に象徴化させていえば、実は、いつのまにか人間の生命をコントロールするためにあるかのようになっているといわざるをえない。M・フーコーふうにいうならば、生命倫理の問題ということになる。もちろん、それは医療技術だけの問題ではない。原子力技術や遺伝子工学といったものに対しても、現在、わたしたちの疑念は確実に拡大しつつあるはずだ。わたしは、科学や様々な技術革新によって、生活水位が向上したことを安直に否定したいわけではない。リスクをともなった、やみくもな進歩は、「自然」に反することだという矜持だけは持ちたいと思っているだけなのだ。だから3.11は、自然からのひとつの警告だと考えるべきかもしれない。
 「昌益にとって最も人間らしい人間、人間らしい姿とは、自然の万物生成活動と軌を一にした、農民の姿」であると、著者はいう。もちろん、農民というのは、いまや、ひとつのメタファーとしての存在性であるから、わたしたちは、これからありうべき像(イメージ)を、作り上げていくべきである。
 昌益が理想としていた「『自然の世』とは、支配者・搾取者がおらず、人々が自然と一体となって農耕を軸に、皆一様にその土地土地に適した生産労働(農業・林業や水産業)にたずさわり、貧富の差がない、平和で平等な社会」という、いうなれば共同性のイメージを、イノセントなものとして、250年後のわたしたちは、引き受けていかなければならないと、わたしなら思う。

(『図書新聞』13.5.4号)


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2013年4月 5日 (金)

暮尾 淳 著『詩集 地球(jidama)の上で』                  (青娥書房刊・13.2.13)

 詩の他に俳句・エッセイを収めた『ぼつぼつぼちら』(05.10刊)以来、七年ぶりの詩集ということになるが、昨年、句集『宿借り』(12.5刊)を刊行しているから、幾らか空白感は埋められている。ただし、わたしは、この間、本詩集に収められている大半の詩篇は、初出誌(「騒」や「小樽詩話会」)で読んでいる。当然のことかもしれないが、いまこうして、ひとつに纏められてみると、初見時と印象が、かなり違って感じられることに驚く。
 例えば、「愚かなるアバンチュール」に、「ほろ酔いの彼女を/そこだけ暗い地下鉄駅の入り口まで送り/さようならと後ろを向いたジーパンの/お尻を思わず撫でてしまったのだが/彼女は振り向きもせず階段を降りて行き」という箇所があり、思わず暮尾淳タッチとでもいえる情景に惹かれてしまったことを覚えている。だが、最終連は、「そんな愚かなアバンチュールも/豚インフルエンザもテロも/素知らぬ顔して乗せて/いまも回っている地球に/飲み残し本醸造の/しぼりたて『ダダ』で乾杯。」(“ダダ”という銘柄の酒が、限定発売で、本当にあったのだ)となっていて、鳥瞰視線とでもいう他はない、独特の角度を射し仕入れていることに気づかざるをえない。この鳥瞰視線から見えるものは、地球(詩集名の地球に“jidama”と付したのは、鮮烈だ)の上に住まう人々であり、自分を取り囲む人たちや出来事であり、ついには、自分自身である。ではなぜ、暮尾は鳥瞰視線から、自分を見ようとするのだろうか。一見すると自己を相対化するといったことを想起しがちになるが、そうではない。鳥瞰視線によって見えるもう一つの像というものがあるのだ。それは、生者とともにあるはずの死者たちの像である。「日常性を撃つなどという詩的野心は、もうわたしにはない」(「あとがき」)と暮尾はいう。確かに、そうかもしれない。しかし、日常性というものは、撃つべきものではない、イノセントに受け入れるものなのだと、わたしなら、いいたい気がする。そのことを一番知っているのは、他ならない詩人・暮尾淳のはずなのに、敢えてそのようにいうところが、暮尾タッチなのだと、わたしは思う。
 「マレンコフが死んだと/居酒屋で聞いたが/スターリン時代の/ソビエトの首相ではなく/カラオケの世になっても/新宿の古いバーを回っていた/それが通称の/流しのギター弾きで」「飲んで話してみれば/家族には自殺者のいる人間なんて/ごろごろしていて/要するにおれは/単なる酒好きで」「マレンコフと同じ肝臓病みだけれど/それでもさいきんは/深酒には気をつけているんだぜ。」(「マレンコフ」)
 ソ連の最高指導者にありながら、フルシチョフに追放され、その後、不遇の晩年を過ごし、86歳で死んだマレンコフに似ているとして、その名をつけられた流しのギター弾きの死は、詩人・暮尾淳にとって、日常のなかのひとつの死である。それは同時に、暮尾にとっては、もうひとつの死と、さらにもうひとつの死をも喚起させるものなのだ。
 「自分の意思や善意とはかかわりなく/ただたまたま存在していたというだけのことが/ひとに害をもたらしてしまう/その生の理不尽に/ひそかにおれはおたんこなすと呟き/(略)/蕎麦屋で安い昼酒を飲んだ。」(「おたんこなす」)
 「酔って部屋に帰り/送られてきた本をぱらぱらとめくると/出口のない暗澹たるこの時代を撃つには/棍棒のような思想が必要だとあり/しかしおれにはそんな物騒な/棍棒なんて/もちろん利口棒ももう要らないよ。」(「利口棒の唄」)
 「単なる酒好き」で、「蕎麦屋で安い昼酒を飲ん」で、「酔って部屋に帰り」、地球(jidama)の上のことを想う、そんな暮尾淳の詩世界を、これまでわたしは、同じように酔い続けてきたように思う。「生の理不尽」さに気づくことは、死者を想うことから由来する。わたしたちは、時として、死(者)のことを忘れ、生(者)へと執着し、出口の見えない暗澹たる世界を彷徨することになるのだ。あるいは、こうともいえる。棍棒のような思想が瀰漫しているから、死(者)を貶めて、生(者)を優先させる。それは、地球(jidama)ではなく、地球(chikyu)からの視線(水平的な視線といいかえてもいい)だからだ。もちろん、わたしは、そんなことを、暮尾淳がこの詩集で表出しているなどと、訳知り顔で解説したいのではない。少なくとも、無意識のなかで、「棍棒のような思想」を希求してみたり、「ただたまたま存在していたというだけのことが/ひとに害をもたらしてしまう」ことを忘失してしまう自分がいることを、暮尾淳の詩世界によって気づかされたということだ。
 まだまだ、酩酊が足りないのだ。しかし、「深酒には気をつけているんだぜ」という言葉を、かみしめながらも、結局、わたしは、これからも暮尾淳の詩世界に酔い続けていくほかはなさそうだ。

(『図書新聞』13.4.13号)

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2013年3月30日 (土)

堀部茂樹 著『北村透谷 その詩と思想としての戀愛』          (七月堂刊・12.11.20)

 わたしにとって、北村透谷(1868~94)への入り口は、桶谷秀昭(評論集『近代の奈落』)であり、北川透であった。自由民権運動をモチーフとする色川大吉は、わたしにとってはやや距離があったといえる。いまから、四十年以上前のことである。本書の著者は、わたしとほぼ同世代だといっていい。当然のように、吉本隆明、桶谷、北川、菅谷規矩雄の名前に重きを置いている。著者は、「あとがき」のなかで、透谷の「『恋愛は人世の秘鑰なり』というマニフェストに瞠目し、心奪われ」、「魅せられた」と述べた後、次のように記していく。
 「ちょうど透谷と出逢った頃、奇しくも今年三月亡くなった吉本隆明の『共同幻想論』(略)が出た。『対幻想は、個体幻想と国家幻想の源泉であり結節点である』という吉本の思想は、それからの私にとって批評の思想的根拠となったが、それ以上に、生きることの根拠ともなった。それは、内なる『家族』の問題に呪縛されてきた私に、『性』と『家族』は『対幻想』の源泉であり、『対幻想』に関わる問題が、悲しみ、苦しみ、闘うに値する思想的課題でありうるのだということを教えてくれた。したがって、また、『恋愛』が、個人の恣意的なものでなく、人の宿命的な関係性を映すものであることを示唆するものであった。」
 吉本の『共同幻想論』における〈対幻想〉概念を重視する著者(あえて、付言しておけば『島尾敏雄論』という著書がある)に、わたしもまた同意するものである。だが、著者とおなじように『共同幻想論』の核は〈対幻想〉にあると述べたり、男―女における関係性、あるいは、恋愛(エロス)性といったことを論旨の基軸として強調するとなにか奇異な視線に晒されてしまうことを、わたしは、これまでしばしば経験してきた。だから、二十年に渡って書き続けられ、いま、纏められた渾身の透谷論を前にして、「その詩と思想としての戀愛」をモチーフに、展開していることを、感嘆の思いで、わたしは読み入ったといっていい。そして、あらためて、そもそも、わたし(たち)が、透谷に魅せられたのはなぜだろうかという思いに至ったといえる。
 「明治一八年、自由民権の壮士らと別かれ、二三年から詩人、思想家として、はげしいたたかいのなかを生きてきた」透谷は、「ほとんど孤独で、精神の自由、『内部生命』を牙城に、明治の思想界ぜんたいに、たたかいを挑み、刀折れ矢尽きた感があった」(桶谷秀昭)なかで、石坂ミナとの熾烈な関係性もまた、同時に抱え持ちながら、やがて自死したことに、わたし(たち)は、当時、率直に共感していたことを思い出す。それは、維新でもなく革命でもなかった薩長政権成立から二十数年経過していた透谷の時代に、戦後二十数年経過した只中で、価値転換を目指した闘いとそれに付随する日常的な関係性を苦悶しながら送っていたわたし(たち)の時代情況を、無意識のうちに重ね合わせていたからだといいたい気がする。
 「〈恋愛〉を個と国家社会の対立の埒外のこととして捉えるのではなく、生きることの根源に係わるエロスのこととして感受した透谷は、〈恋愛〉をたんなる色事から、人間の精神を構成する位相のひとつに引き上げて、追求し、表出し、表現したのだ。」「透谷は、明治維新によって崩壊した江戸幕藩体制という強力な共同性が、明治中央集権国家という新たな共同性の体制として形成される過程において、没落士族の子弟として封建的な共同性から解放され、関係意識を裂かれて、〈おのれ〉という個の意識を〈病〉として抱えて、都市に流浪し始めた近代の典型だった。」「透谷の『恋愛』と『恋愛思想』とは、結局、何であったのだろうか?『体験としての恋愛』において、『我と汝』の融合する賛美するべき『至上の体験』の至福を感受したことは事実であったが、そのことから透谷が『恋愛至上主義者』であったことはない。透谷の『体験としての恋愛』が、『理想としての恋愛』となり、挫折し、経験化されて行き着いた透谷の『恋愛思想』が『恋愛至上主義』ではなかったことは明白であり、それは、『牢獄ありて後の恋愛』すなわち、『引き裂かれた魂』の『半魂』との合一・一体化への希求であり『恋愛の不可能性』の意識であった。(略)さまざまな誤解・曲解されてきた透谷の『恋愛』と『恋愛思想』を巡る詩と思想の営為が、透谷の〈引き裂かれた精神〉、〈引き裂かれた魂〉の軌跡を示しているということだ。」
 丹念に透谷作品に向き合いながら、その作品の深部を切開して、透谷の内面世界を照射していく著者の視線の行く立ては、「江戸幕藩体制という強力な共同性が、明治中央集権国家という新たな共同性の体制として形成される過程」のなかで、「関係意識を裂かれて」いく透谷像であり、恋愛を巡る精神の軌跡が、「引き裂かれ」ていく透谷の有様である。著者に導かれながら、わたしなりに透谷を描像していくとするならば、関係性(共同性)のなかで、絶えず苦悶しながら生き急いだ思想家だったということになる。幕藩体制から明治近代という擬制の社会で、「生きることの根源」として、まだ、未明の恋愛という感性を自らに強いたことは、透谷にとって、ほとんど、悲痛なる宿命だったといっていいかもしれない。

(『図書新聞』13.4.6号)

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2013年3月22日 (金)

つげ義春・原作、山田勇男・監督                     『つげ義春の蒸発旅日記 ディレクターズカット版【DVD】』  (ワイズ出版発売・ベンテンエンタテイメント販売・12.11.16)

 つげ義春が『夜行 No.10』(81年6月刊)に発表したエッセイ「蒸発旅日記」を基層にして、漫画作品「初茸狩り」や「西部田村事件」などの挿話を織り込んで、寺山修司作品の美術担当でもあった山田勇男が監督した作品(公開は、03年7月。05年8月、初DVD化)のディレクターズカット版である。特典映像として、つげ義春の撮影現場訪問が付されている。 
 映画は主人公・津部を演じる銀座吟八の抑制された演技、ストリッパー役の藤繭ゑの際立ったエロス性、津部が結婚しようと会いに行った看護婦役の秋桜子の存在性、それらが響音しあうかのように、中心となる人物たちが、夢のような世界をリアリティ溢れる存在として活写されていく。
 わたしは、公開時に劇場で見ただけで、その後のDVD映像も見ていなかったので、じつに十年近い空白の時間をもって再見したことになる。映画というものは、不思議なもので、最初見たとき印象深いと思われる場面も、再見時になにも感じないことがあるし、逆に、なにか冗満だなとおもわれるカットが、深い意味合いをもって迫ってくるということがある。本作において、たびたび水面が揺れるカットが挿入されている。それが、今回、DVD作品では、彷徨(蒸発)する主人公(津部)の心象を効果的に表していると率直に感じることができたのだ。たぶん、カメラのフォーカスが揺れる雰囲気を繊細に捉えているからだと思う。このことは、全編を貫いている基調だといっていい。監督の山田勇男は、清順映画の美術監督・木村威夫の色調を見事に映像美として展開していく。ただし、それが、どこか抑制気味に描出されることによって、ポエジーのようなものが滲み出ているといえるのだ。わたしの勝手な憶測を述べるならば、そもそも、山田がつげ義春という表現者に仮託しているものは、映像詩的世界ではないかという気がする。
 「映画の津部さんは、つげさんだとぼくは思っていますからね。そして、津部さんであるつげさんは、わたし自身も投影しているんです」(『幻燈 No.4』02年10月刊)と、山田はインタビューで答えている。これまで、山田以外、竹中直人、石井輝男、山下敦弘らの監督によってつげ義春の原作は映画化されているが、確かに、山田が語るように、つげ義春―映画の主人公―監督という連繋を辿ることができるのは、この『蒸発旅日記』以外ないといえるかもしれない。
 「わたしが今までつくってきた映画の方向性というのは夢の感覚のリアリティみたいなものですから」とも前出のインタビューで山田は述べている。一見、矛盾するかのような「夢の感覚」と「リアリティ」という言葉の繋がりは、まさしく、つげ義春の一連の「夢作品」にも通底するいい方だと思う。「リアリティ」が「現実」と直訳するような地平からは、つげの「夢作品」を理解することはできないとわたしなら考える。じつは、「夢」と「リアリティ」が表裏のものであることを知ることによって、わたしたちは、はじめて存在していることの「感覚」を掴むことができるからだ。それは、この映画作品が、彷徨していく主人公像を極めてリアリティある場所(鄙から都会へと空間性は拡張していく)に象徴化させていることで、切実な示唆を包有することに繋がっていく。つまり、こういうことだ。十年というこの間の時間性は、ますますわたしたちを彷徨える存在として強いてきたことを、この映画がいま、暗喩していると見做すことができるのだと。

(『図書新聞』13.3.30号)

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