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2021年10月16日 (土)

大野光明・小杉亮子・松井隆志 編               『社会運動史研究 3 メディアがひらく運動史』(新曜社刊・21.7.15)

 本号の特集は、「メディアがひらく運動史」である。「社会運動は、ビラや機関紙、ミニコミ、映画、絵画、音楽、雑誌など、多様で個性的なメディアを生み出し、その存在や主張を社会に示し、体制的な主流メディアには対峙してきた歴史を持つ」と述べながら、「社会運動とメディアのより多義的な関係性を歴史的に再検討する」と編者たちは特集の意図を示しながら、「運動の中で生み出されたメディアの集積は、それ自体が別の運動的な営みにつながっていく」と記していく。確かに、それが例えビラや機関誌紙であったとしても、内包されている言語の集積は、思念の有り様を潜在させているといっていい。
 巻頭に配置されたのは、清原悠「出版流通の自由への模索――初期模索舎における自主流通・社会運動・ジェンダーへの問い」である。七〇年一月に開店した「模索舎」を、もちろん、わたし自身も利用していたし、関わっていた機関誌や刊行書を委託していた。ただ、それ以前からの神田ウニタ書房、同時期の国分寺アヴァン書房、吉祥寺ウニタなどがあり、果たして模索舎は継続できるのかと疑心暗鬼であった。だが、創設者の一人、五味正彦(敬称略)と面識はあるが、本人はわたしと違って〝明るい人〟だった印象(もちろん、わたしの勝手な思い込みだ)があるから、難局を乗り切っていくだろうとは思っていた。
 「様々なミニコミを一ヵ所で売買交換―流通を可能とする模索舎という空間自体も重要であった。特に対立する諸運動の情報が模索舎という同一の空間に留め置かれたという点は、特筆すべきだろう。新左翼セクト間の対立や、ウーマン・リブのグループ同士の確執は模索舎にも持ち込まれ、敵対するグループの発行物を置かないように圧力をかけられたこともあったが、模索舎は「出版流通の自由」の理念を押し立てることでそれらの介入を許さなかった(略)。」
 わたしは、その頃の模索舎よりは、ここ十四、五年の現在の模索舎に親近感を覚える。運動関連の紙誌、書籍が必ずしも売れ行きがいいわけではない情況の中で、遙か年少の人たちによって運営されている模索舎の今後を期待したいし応援したいと思っている。
 三橋俊明「日大闘争は、何を「経験/記録」したのか」では、日大全共闘書記長の田村正敏と七三年に、「「無尽出版会」を設立して『無尽』に自らの経験を執筆し、日大闘争の「記録」づくりに取り組み」、四号まで刊行し、以後の「記録」づくりをめぐって述べていく。わたしが、当時、『無尽』創刊号に関心が向いたのはいうまでもない。
 「創刊号は巻頭に私の拙文が置かれ、秋田明大とアナキスト詩人秋山清の対談「何が続くか」をトップに、田村正敏の「出発することの意味(1)」、山本義隆の「加藤一郎公判調書」などを掲載して刊行された。」
 秋山は、日大予科入学という経歴はあるが、なによりも田村の熱心な誘いが大きかったと思われる。
 わたしは、日大闘争、東大闘争等を、全共闘運動といった総称で語られることに、幾らか逡巡する思いを抱き続けてきた。三橋の論稿のなかに、次のような箇所がある。
 「日大闘争の行方は不透明になったが、バリケード生活に定着していた「愉快な時間」は維持され変わっていかなかった。日大闘争の方針や展望は重要だったが、私には自らの意思と力で手に入れた「愉快な時間」とでも名づけたい、自由で解放感に溢れた生活時間が何よりも大切だった。この「愉快な時間」を、いつまでもいつまでも持続させたかった。」
 わたしは、この文章に接して、いまだからいえる感慨がある。三橋が「時間」という認識なら、わたしは、「関係性」という感覚があったと思い返している。「愉快な関係性」と、いまだからいえるのかもしれないが、一人一人の考え方が違っていても、何かわかりあえる関係性というものが、生起していたことを思い出すのだ。
 最後に、古賀暹インタビュー「雑誌『情況』の時代――火玉飛びかう共同主観性のなかで」に触れておきたい。わたしは、創刊して一年後に『情況』の事務所を何度か訪れている。たんに、所属していた大学新聞に出す広告の版下を受け取りに行ったに過ぎない。その後、七三年頃、友人と創刊した雑誌への広告の件で何度か訪れているが、古賀氏と話した記憶がない。もっぱら柴田勝紀氏と会話をした。今回のインタビューで二人の関係性のようなことが窺い知れたといっていい。
 古賀氏は、七〇年前後の『情況』誌を次のように述べている。
 「表面的にはセクトの方は「政治闘争」を主眼に考え、ノンセクトの方は学内のことを主体に考えるから。しかし、それが、相互に刺激し合ってきたから、あの運動は発展してきたというのもまた事実なんですよね。問題はこの二つが交錯する場を構築するにはどうするかということだったわけ。『情況』は思考が交錯する「場」だったから、ある程度この二つをつなぎ合わせることができた。しかし運動の場ではできなかった。両者は次元が違うんだね。」
 今回の特集に拘泥して述べれば、〝メデイアがひらく運動〟というベクトルはありうると思う。つまり運動自体における共同性を開いていくことは、可能だと思う。だが、セクトの運動が閉じていく方向にある限り、永続的な交錯はありえないということになる。
 他に、秋山道宏他「社会運動とメディアの連環」、熊本一規「闘争終盤に東大全共闘になった」等に着目した。

[付記]本書には、李美淑「境界を越える対抗的公共圏とメディア実践――画家・富山妙子の「草の根の新しい芸術運動」を中心に」という力論が収載されている。富山妙子は八月一八日に逝去された。享年九十九。

(『図書新聞』21.10.23号)

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2021年10月 1日 (金)

『虚無思想研究』20終刊号の発刊

 『虚無思想研究』は、八一年十二月に創刊。『虚無思想研究』編集委員会の発行で、編集長は大月健。年に一、二冊刊行からやがて間隔を空けての刊行が続き、第十九号が〇五年二月に発行された後、休刊となる。大月健は個人誌『唯一者』を九七年四月に創刊し、第十二号を一二年五月に発行。だが、一四年五月十七日、大月健は逝去。『唯一者』は、一四年十月に刊行された第十三号が終刊号となった。本誌には、『唯一者』総目次が挟み込まれていて、そこにはわたしの二人の友人の名前があった。第二号にちだきよしの名前があり、驚いた。第十二号は、うらたじゅんから送られてきた。二人とは、もう会うことは出来ない。
 本書は、十六年後に終刊号として刊行されたことになる。辻全集未収録作品を再録し、大月が創刊号に発表した「マックス・スティルナーと辻潤」をはじめ、寺島珠雄の「辻まことさんとの断片」など、六編が再録されている。さらに巻末には横組みで大月健「辻まことからみた父親 辻潤」、下平尾直の大月健『イメージとしての唯一者』の書評など他誌紙で発表された論稿を収録している。
 わたしは、幸徳秋水や大杉栄より、辻潤に関心があった。それは、十代後半(時期的には六十年代後半)に、秋山清の『ニヒルとテロル』に接したからだ。
 「巨大な国家権力やそれを支配する組織、これらの、到底及びもつかぬ相手に手袋を投げて、辻は退却したのである。自分の滅亡を覚悟して束の間の惰眠をむさぼることに意義を見いだしたのは、勇ましい改革者たちの夢を軽蔑したのではなく、その最大のものは、自分自身であったであろう。その自覚が辻潤の一切の生き方を支配したと私には見える。」(「ニヒリスト辻潤」)
 辻潤の死は、〝餓死〟である。そのことになにがしかの意味を、わたしは見出したいとは思わない。ただ、辻潤は自分自身を凝視続けていったといいたいだけだ。
大月は、次のように述べていく。
 「(略)「唯一者」が「唯一者」として生きる時、それなりに似た部分が生ずる。「唯一者」は「万物は己にとって無だ」といいきることの出来る者である。国家を否定し、宗教を否定し、そして、社会をも否定する。こういう「唯一者」が現実の世界と関わりをもつ時、それは悲惨な生涯を送るしかない。しかし、「唯一者」自身にとって、それが悲惨と意識されているかどうか判らない。自分自身を生きる、それがどのように過酷であろうとも後悔することはない。」(「マックス・スティルナーと辻潤」)
 確かに、「後悔する」ことこそが悲惨なのだ。だから例え重苦しい様態であったとしても、あるいは小さな通路かもしれないが、そこから明るい兆しが見えるときがある。いやあるはずだとわたしなら思い続けたい。

※発行・浮游社[〒八一四-〇〇二三福岡市早良区原団地十一棟一〇一号室(浮游庵)・郵便振替00970-6-47825・定価二〇九〇円(税込)]

―――月刊情報紙『アナキズム』第十九号・21.10.1

 

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