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2021年6月19日 (土)

能登恵美子 遺稿集『増補 射こまれた矢』           ( 皓星社刊・21.3.7)

 本書の著者は、八五年、皓星社入社。『海人全集』、『ハンセン病文学全集』の編集を担当。一一年三月七日、逝去。享年四九。一周忌に刊行した遺稿集の増補版である。「二〇〇一年五月二十一日から二〇〇二年七月二十四日まで、能登恵美子が皓星社ホームページの「ハンセン病文学全集編集室」内で記していた編集日誌を、増補に際して収録した」と記されている。本書のほぼ半分に近い頁数を占める「編集日誌」は、真摯に関わっている『ハンセン病文学全集』刊行に向けての日々の心情を吐露していく。読みながら、切なくなってくる。
 「今回の粗選で、頭を抱えていたジャンルを順に示すと、短歌の選、俳句の選、詩の選だ。(略)短歌は、編集協力者でもある冬敏之さんに頼んだ。しかし、俳句[と詩]は誰に頼もうかと悩んでいたら、藤巻さん(引用者註・現、代表取締役会長)が詩人の清水昶さんに頼んでくださった。/清水さんは、皓星社のほうへ来て作業をしてくださるということで、今日から一緒にお仕事です。」(二〇〇一年六月四日)、「毎日清水さんは通ってきてくださる。梅雨に入ったようで、ご足労おかけいたします。」(同年同月七日)
 詩人、清水昶が、〝仕事〟で皓星社に行っていたのは本人から直接聞いて知っていたが、このように書かれて、わたしは、やや安堵している。しかし、後段の方で、清水昶が、「公明新聞」〇一年十一月四日付日曜版文化欄に発表した「ハンセン病文学の彼方へ」という文章に対して、能登は厳しく批判している。清水の錯誤した発語が確かに多々散見されているが、能登が最も強く異を唱えていたのは、「ハンセン病の長い歴史において記録文学として貴重な価値を持つ」という捉え方に対してだった。
 「私は文学者ではありません。おこがましいとは思いますが、清水さん。記録文学という言い方が私は良く理解できません。「私がこの場所で、私が生きている時代の中で、生きていることをありのままにしるす(刻む)」ことは文学ではないのでしょうか。」(〇一年十一月七日)
 清水昶は、能登の数か月後(五月三〇日)に逝去。
 「『ハンセン病文学全集』は文学全集として成立するのか。と思われる方々も多いでしょう。ある意味、『ハンセン病文学全集』が成立するという背景がハンセン病が抱えている問題点ともいえるのではと思います。明石海人の有名な『白描』に「(略)――深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない――そう感じたのは病がすでに膏盲に入ってからであった。(略)」とあります。人はなぜ物を書くのでしょう。海人は病を得、病み重ねてゆく。不治といわれた病と闘いながら書きぬきました。」(「みみずく通信」創刊準備号…掲載日不詳)
 能登は、編集者ではあるが、ここで明石海人の言葉の表出へ、同化していくかのように述べていく時、彼女もまた表現者となってハンセン病文学を体現していこうとしているといっていい。それは、記録を超えた文学という表現の水位へと言葉を刻んでいることになるのだ。
 「能登は、二〇〇三年の九月二九日うつ病と診断されてから「むくろじ」と名づけたインターネットの掲示板を開設し俳句を書き続けた。その句は千句以上になるが折に触れて改作し、自選句としてまとめていた」という。何句か引いてみたいと思う。
 「無患子やいのち絶つなと秋の声」「寒冷や谺となりて魂が」「ゆっくりと色無き風を抜け歩く」「枯れたなら木枯らしとなり雪花となれ」「いのちの底から眺める冬の月」「眼底の底の底の白魚よ」「なれぬならただ一群の鬼芒と」「だれかれに与たうる命たれの物」「骨片をまきし谷底雪ましろ」「生きようとする心ありトマト切る」
 けっして、心地よく読める作品とはいえないが、作者の心象を少しでも理解したいと思わせるものを選んだつもりだ。懸命な眼差しとでもいえることが、この短い詩型に満ちている。分っているよとひと言、いいたい欲求を抑えることができない。
 本書の「序文」として鶴見俊輔(一九二二~二〇一五)は次のような文章を寄せている。
 「ハンセン病のことに打ちこむ人は、矢を射こまれたようにこのことに打ちこむ。英国から熊本に来て、全財産をこのことに投じ、生涯を捧げたリデルがおそらく最初の人で、その後、日本人からそういう個人が現れた。能登さんは、そういう人の一人だ。/この矢を抜いてくれと叫びたいときはあっただろう。しかし、矢を抜いてもらわない生涯を生きた。」
 確かに、「ハンセン病のことに打ちこむ人は、矢を射こまれたようにこのことに打ちこむ」のかもしれない。書名の「射こまれた矢」は、この鶴見の一文から採られたはずだ。しかし、「矢を抜いてもらわない生涯を生きた」は、わたしは鶴見のいい読者ではないから、わからないが、少しきついいい方のように思える。
 俳句作品を読む限り、けっして能登恵美子は強い人ではない。関係性を拒絶するような独歩の人でない。人と人の関係性のなかにひとつの慰藉を求める人であると、わたしならいいたいと思う。

(『図書新聞』21.6.26号)

 

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2021年6月 1日 (火)

『侯孝賢と私の台湾ニューシネマ』を読む

 九〇年に公開された映画『悲情城市』は、わたしが初めて観た台湾映画だった。冒頭、ヒロヒトの玉音放送が延々と流れるなか、出産間近で苦しむ妊婦の声がかぶってくる。そして、男の子が産まれましたと産婆の声。画面は基隆港が映し出され、S.E.N.S.の鮮烈な音楽が流れる。物語は台湾の、つまり、日本の敗戦後、東アジアの混沌としていく情況を映し出していくことになる。この作品を契機に、わたしは侯孝賢[ホウ・シャオシェン]作品を、それ以前のもの、それ以後のものを観てきたことになる。また、侯孝賢(四七年~)の盟友、エドワード・ヤン(四七~〇七年)の『牯嶺街少年殺人事件』(九二年公開)は、さらなる衝撃を受けた作品だった。台湾ニューシネマとは、この二人の映画監督が切り開いた領野だった。本書の著者、朱天文[チュー・ティエンウェン](五六年~)は作家であり、脚本家として、侯孝賢作品の『風櫃の少年』(八三年)から『黒衣の刺客』 (一五年)までの作品に参加している。
 「まえがき」で、「三十九年前のこと、私は初めて侯孝賢に出会った」と朱は述べている。会った場所は、明星珈琲館の三階であった。表紙に配置された写真は同じ場所での、翌年、『冬冬の夏休み』の脚本をめぐって話しているところだ。撮影者は、エドワード・ヤンだという。
 「もし『風櫃の少年』が雰囲気と趣で、ドラマというより散文的な映画であるなら、『冬冬の夏休み』はひたすら語り続ける小説的な映画だ。『風櫃』のすっきりして味わい深い個人主義的なスタイルから、『冬冬』になると、侯孝賢は意欲的に個人主義を突破し、台湾独特の風土と情感を背景としたスタイルを確立したように見える。(略)侯孝賢が私たちに自信を与えてくれるのは、彼がいつも男らしく明るいからだ。宗教家の悲壮な心情で芸術の殿堂に向かって巡礼するのではなく、また革命家のように孤独で熱狂的に、この二年来の台湾ニューシネマを推し進めることに身を捧げているのでもない。(略)しばしば躓きもするが、彼はすぐに起き上がり、いつもまた嬉しそうに歩き出すのだ。」(「初めての侯孝賢論」)
 作家であることが、視線を揺らぐことなく侯の立ち位置を見通すことができると、わたしなら朱の言葉から素直に受けとめたくなる。
 わたしは、加藤泰にしても鈴木清順にしても、脚本を第一主義的に考えて、映画を撮る映画作家ではないことを知っている。侯もまたそうではあるが、朱たちと議論をしながら作り上げているわけだから、撮影中の停滞はありえない。本書の後段で、〇四年の、映画『珈琲時光』をめぐっての二人の対話を掲載している。そこには、侯が無意識のうちに隘路のような場所で停滞していることを、朱は柔らかく指摘しているが、応答は交差することはない。小津安二郎生誕百年を記念して作られた作品とはいえ、侯孝賢は小津作品に影響を受けて映画の世界に入っていったわけではないし、それほど、小津作品を知っていたわけではないことを本書では触れている。むしろ本書で知ったことだが、侯と朱たちは、小川紳介と通交していたのだ。本書の中で朱は「小川紳介監督とは一度しかお会いしたことのない私、朱天文がペギー・チャオと侯孝賢に代って筆を執り、小川監督とともに夢を追い奮闘してきた友人たちに向けてこの手紙を書いている。映画の世界では、私たちはすでに互いをよく知り、強いきずなで結ばれている。」(「小川紳介監督を悼む」)と述べている。
 『黒衣の刺客』から長い空白期を経て、ようやく次回作『舒蘭河上』が今年の後半にクランクインするようだ。期待したいと思う。

[朱天文著、樋口裕子・小坂史子編訳、竹書房刊]

―――月刊情報紙「アナキズム」第十五号―21.6.1

 

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