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2021年2月27日 (土)

藤田晴央 著『空の泉』(思潮社刊・20.12.25)

 前詩集『夕顔』から、七年ぶりに刊行された新詩集は、詩篇の一作一作に込められた詩語は、これまでの藤田晴央の詩世界とは幾らか違う装いを表出しているような気がしてならない。藤田とわたしは、詩人・清水昶を介して知りあい、四十年以上の時間を共有してきた。清水昶が亡くなって、まもなく十年になる。わたしは、清水昶が亡くなった年齢を超え、藤田は今年、清水昶の享年に辿り着く。清水昶がよく述べていたいい方でいえば、歳月茫々といっていいかもしれない。詩の言葉も、批評の言葉も表出する側の年月が刻まれていく以上、ささやかな変容は素直に受け入れていくべきかもしれない。
 「陽が射し/雪が溶け/あかるい木肌をみせる/切り株が/しめった切り口いっぱいに/空を吸い/(略)/手を伸ばし/空に触れようとしている/空に触れながら/わたしの頰にも触れる/(略)/わたしは立ちつくし/空を仰ぐ/亡くなったものの/生きていた時間は/切り株の樹影のように/青々と/そよいでいる」(「切り株の樹影」)
 「空を吸い」、「空に触れ」、「空を仰ぐ」という詩語を受けて、「亡くなったものの/生きていた時間」を潜在させていく。本詩集の「あとがき」に、著者は、「『夕顔』を出したのは二〇一三年だった。その前年、私は長年連れ添った伴侶を病のために失」ったことを記している。わたしも親しくさせていただいた伴侶の雪乃さんは、一二年一一月一四日に亡くなられた。五七歳だった。
切り株と空との往還は、生命の有様を投影していくことになる。
 「ひとつの風から/ひとつの風へと/移り また移り/わたしは上昇してゆく/空へ」(「風の接線」)、「しゅう ぽうん/ときの闇にあらわれる/いのちの火花//おまえが亡くなってから/二回目の夏/しずまりかえった寝室にとどく/遠い花火の音/しっこくの夜空に咲きちる火の花たち」(「花火」)、「あなたが亡くなった秋/その秋と同じように/彼方から白鳥が/空を青く染めている//あの秋から/空が広くなった」(「あの秋から」)
 著者は、追憶の年月を空へと思いを託すことになる。
 「わたしは上昇してゆく/空へ」、「しっこくの夜空に咲きちる火の花たち」、「青く染めている」空、「広くなった」空、空は、ただ天空にあるものではない。「切り株の樹影」の詩篇のように、生きてある場所、つまり切り株が根を下ろしている地面という場所と繋がっていることをこれらの詩篇たちに著者は語らせている。それは、物語には終わりはないということであり、語れば語るほど尽きない物語が湧いてくることを意味する。「詩とは、そのこんこんと湧いてくる泉である」(「あとがき」)と著者も述べている。
「黙々と雪かきをしていたら/スコップが切った雪の中に/小さな裂け目があり/そこだけが青い/水色と藤色の中間くらいのほの明るい青/空の色を映しているのかと見あげても/灰色の雪空」(「雪の裂け目」)
雪に空の色が映ってみえると思うことの鮮烈さ、反転して「灰色の雪空」だったとしても、空と地面は繋がっているのだ。
 「あの秋の暮れ/全身から/いのちの小人たちが火の粉のように/空に昇っていったのだから//今 たましいは/この無数に降りしきる雪にのって/舞い降りているのだろう/(略)/ふり仰ぐ頭上に/たましいの泉があり/わたしは/湧きでるものに/のどをうるおしている」(「空の泉」)
 わたしたちは、一人で生きているわけではない。大勢の人たち(家族であり、友人であり、知人であり、見知らぬ人たちでもある)の生の日々、時間性のなかで、地面に立ち空を見上げてきたといってもいい。「全身から/いのちの小人たちが火の粉のように/空に昇っていった」物語をわたしは、共有できる。生も死も、「たましいの泉」のなかにある。そう思うことは、けっして難しいことではない。もちろん、それは、わたしたちが確実に、多くの時間を重ねてきたからだということになるとしても、一日一日を刻んでいくことで、日々の流れは、豊饒なものになっていくはずだと、藤田晴央の新詩集は伝えているのだ。

(『図書新聞』21.3.6号)

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2021年2月20日 (土)

暮尾 淳 著『暮尾淳詩集 生きているのさ』           (川島書店刊・21.1.11 )

 暮尾淳、逝去の報(二〇二〇年一月十一日)に接して、思ったことは、最後に会ったのが、ちょうど一年前の一九年一月十一日だったということだ。そして、その日は、喫茶店で珈琲を飲みながらの歓談だった。わたしが、暮尾淳と親しく通交するようになってから、酒を飲まないことはなかったので、心に残る歓談だったといっていい。
本詩集は、二〇〇九年から一九年までに発表された詩篇から、遺族の方によって三十一篇(逝去後の二〇年に掲載された詩篇も含む)で編まれた詩集である。
 暮尾淳による表紙絵がいい。書名から暮尾淳の声が聞えてくる。
 「私鉄の駅のすぐ傍の/線路沿いのやきとり屋で/雪もちらつく夕暮れどきの/何度目かのガタンゴトンを聞き/焼酎のお湯割を飲んでいたら/(略)/お客さんはお幾つですか/カウンターの隣の白髪まじりの男が/とつぜん声をかけるので/七十六になるところですと応えると/お若く見えますねぇなのだ。/(略)/たしかに世界は荒む一方で/落語が好きだった伊藤さんも/そうではなかったろう石垣さんも/こんな人間文化のどんづまりを見ないで/この世からおさらばしたが/おれはそういうわけにもいかず/ゴットンゴトンゴゥオー/一輪挿しのくたびれた花びらを/ふるわせて電車はまた過ぎ/明日も生きているのさ。」(「生きているのさ」―[註・伊藤さんは伊藤信吉、石垣さんは石垣りん])
 暮尾淳の詩篇に接すると、詩語のなかにまぎれもない暮尾淳の呟くような声と発語が聞えてくる。そのような詩作品を、わたしは暮尾詩以外知らない。歳を聞かれて、「七十六になる」と応えたら、「お若く見えますね」といわれたということを描出していくわけだが、「お若く見えますねぇなのだ」といい切っていくことによって、独特の情感を湛えていくからだ。さらに、「たしかに世界は荒む一方で」と述べながらも、そこには皮相なメッセージ性を引き込まず、「明日も生きているのさ」と繋いでいく。
 巻頭に置かれた「スカイプ」は、次のように書き出されていく。
 「テレビ電話の時代など/考えもしなかったろう親父のことを/ふと思い出しながら/撫でたいなぁそのおかっぱ頭をといえば/ここはサッポロだからできないよと/パソコン画面の孫娘は/東京の四Fで缶ビール片手のおれにいい/あっ!じいじのカラスが鳴いている」
 酒場で一緒に飲んでいた時、わたしに札幌に転勤した息子さん一家が、孫たちと会話できるようにスカイプを設定してくれたことをうれしそうに話してくれたことを思い出した。札幌は、暮尾淳の生地で、だから、「親父のこと」と述べていくことになる。そして、この詩篇の最後の五行は、次のように結んでいく。
 「保を分解してイロホと号していた親父よ/あの世にスカイプ行ったなら/お袋も兄貴もあの姉も弟も/みんな本音で笑って泣いて/そんなやりとりできないものかな。」
 本詩集の巻末に略歴が掲載されていて、暮尾淳が参加した詩誌を確認できる。「未踏」、「あいなめ」、「コスモス」(第四次から終刊号まで参加)、「プラタナス」。九〇年、「騒」創刊。長く続けていた「騒」を終刊した時は驚いたが、二〇一五年に「Zero」を創刊し、毎号、暮尾詩を読むことができた。十三号(一九年十一月刊)に、掲載された詩篇に接した時、入院中であることは知っていたが、それでも、冷静に読めなかった。本詩集にも収めている。
 「なるようになるのは/死ぬこともそうだが/おれの心肺能力では/五〇行ほどの/そろそろちかいおれの死へ/という作品を/書こうとして/毎日病室で/粘ってみても/一行もできずに/眠る日々だから/先のことは/哀しいけれど/ケセラセラ/誰にもわからない」(「病室にて」)
 第十四号(二〇年五月刊)には、同人たちの追悼文とともに、本詩集の最後に配置された「病気の男」が掲載されているが、「病室にて」の方がはるかに辛い情感が伝わってくる。「死ぬこと」、「死へ」と言った言葉が、詩語として立ち上がることの難しさ、といいたくなる。わたしは、詩人ではないが、詩を愛唱し続けてきたという思いはある。そうであるならば、詩人が、必死に詩語を紡ぎ出そうとすることの意思は、生きていこうとすることの苦しみなのであろうか。「一行もできずに/眠る日々」があってもいいではないかと、いいたくなるが、それは詩人にかける言葉ではないことに気付いてしまう。
 暮尾淳は、わたし(たち)に多くの共感を与えくれた詩篇を紡ぎ出してきたからだ。

(『図書新聞』21.2.27号)

 

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2021年2月 6日 (土)

北村皆雄 聞き手/松村 修 編著                『沖縄・西表炭鉱 抗夫聞き書き1972』             (発行・樹林舎 発売・人間社 --20.11.16)

 本書の頁をめくり、「はじめに」へ視線を射し入れた。そこで不思議な感慨を抑えることができなかった。映画『アカマタの歌――海南小記序説/西表島・古見』の制作のために、出てくれた「村の人たちから聞いた話をもとに、西表島西部炭鉱生き残り元抗夫を聞き取り撮影したテープの書き起こし記録」が本書なのだが、「海南小記」は、もちろん柳田國男の『海南小記』に由来するが、「アカマタ」は、西表島古見部落の「アカマタ・クロマタ祭儀」(本書では「祭祀」としている)のことを指している。この祭儀は秘儀であり、撮影は禁止なのだ。「想像していたことではあったが、あまりの剣幕にやむなく我々は、撮影機材等を置き、撮ることをやめた。しかし祭りを観ることはできた。祭りが終わったあと村の十七軒の家族を撮影させてもらいながら話を聞いて回った」と述べている。
 わたしは、かつて「祭儀論―天皇制における共同体的構造」(八回連載・未完)と題した論稿を『天皇制研究』(JCA出版・80年1月~86年8月)という雑誌に連載していて、連載六回目は西表島古見部落の「アカマタ・クロマタ祭儀」を取り上げた。現地に行ったわけではなく、幾つかの研究書を手掛かりに論稿を進めていったことになる。いまこうして、本書に出会ったのも、なにか、ひとつの縁といっていいかもしれない。
 しかし、本書に接して、南島の列島群に炭鉱があったことは、まったく想起できなかったといえる。
「西表島で石炭が採掘されるようになったのは、明治十八年(一八八五)に三井物産株式会社が内離島で試掘をして、明治政府が西表島の石炭に関心を持ったことにはじまる。(略)昭和十二年(略)からの日中戦争を経て、最盛期には千人前後の抗夫を使役して(略)採炭が活発に進められた。(略)太平洋戦争後、炭坑(ママ)は一時アメリカ軍に接収され再開したのち民間に払い下げられたものの採算が合わず撤退となった。」
 そして、敗戦後も、そのまま西表島に残って暮らしつづけた人たちに、七二年、聞き取りを行ったことになる。
四十二歳の時、星岡炭鉱の募集をみて、昭和十三年に熊本から来たという日高岩一は語る。
「(炭鉱には何人ぐらい働いていたかと聞いたことに対しての応答)台湾人、朝鮮人からみんなで五十人くらいおったですね。台湾人は十四、五人おったでしょうな。朝鮮人の人は少なかったですね。五、六人でしたね。あとは内地人と宮古、八重山の人でしたね。」「(台湾の人や朝鮮の人はいじめられていたかと聞くと)いえ、皆同じことです。それは差別は無かったです。働きさえすれば、台湾人は、またよう働きます。」
 西表島には、幾つも炭鉱があって、それぞれで様相は違っていたと思われる。野田炭鉱で働いていた太田(名前は不明)は、次のように述べている。
 「炭鉱の親方としては差別はなかっただろうな。人手が欲しいから、じゃが一杯飲む時には差別はあったとみえるですね。日本人は必ず琉球もんとそのとき馬鹿にしたですからね。(略)台湾人なんかまだ下ですよ。」
 同じ野田炭鉱で働いていた福島出身の君島茂は、炭鉱で亡くなった人は、どこに葬られたのか尋ねたのに対して、次のように語っている。
「あんたらウタラ(宇多良)まで行ってみましたか、ウタラ。(略)あそこに墓地があるんですよ。墓地に全部納めてあるんですよ。そして亡くなった人に対する慰霊祭はよくやりましたよ。結局、親方自体も亡霊に悩まされたくないんだろうな。きついこと言っておってもね。もう年に三回はね山の神といって山の神祭があるわけだ。三、五、九とね、その明けの日は慰霊祭といって拝んでから、坊主呼んでね、懇ろに弔っていましたがね。」
 やはり、神宿る島だといっていい。
 台湾から西表に来た、周沈金と陳蒼明の二人の言葉は、過酷さを体験したことが滲み出ている。「時々バカヤロウとかね、この台湾のチャンコロとかね、言うばい」(周)、「もう戦争が止めたからよ、そのままこっちに居たわけさ。人夫は皆んな台湾に送り帰してよ、戦後よもう炭鉱やらんから皆な帰って、自分だけまた復興しようと思うてよ、炭鉱起こしてやろうと思うてよ、待っておったさ」(陳)と述べているが、炭鉱は辞めて農業をすることになる。南島からみれば、最も近い本土は九州である。そこには三池炭鉱があった。やがて、エネルギー源は石炭から石油へと移っていく。三池争議は五九~六〇年というまさしく六〇年安保闘争と重なっていく。
 南島の神々の祭儀の行われる島に、炭鉱があり本州から、朝鮮半島から、台湾から労働者あるいは請負人としてやってきたということが、ひとつの歴史的時間を持っていたことに、アジアが有する〈混沌〉を、わたしなら感受してしまう。

(『図書新聞』21.2.13号)

 

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