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2020年11月30日 (月)

「貸本マンガにこだわり続けた人―ちだ・きよしさんを偲んで」

 ちださんが亡くなった。わたしが、最後に会ったのは、梶井純さんの葬儀の時だから、一年以上前のことになる。ちださんと初めて会ったのが、いつ頃のことだったかは、もう覚えていない。恐らく、北冬書房関係の集まりの時だと思うから、かなり前(一九八〇年前後)のことになるはずだ。彼とは年齢が近い(ちださんのほうが一歳年長)からか、あまり自分の方から積極的に話すわけではないわたしと違って、彼の方からよく話しかけてくれた。
 子供の頃は、どんな漫画(家)を読んでいたのかと聞かれたことがある。一瞬、戸惑ったのだが、ちださんの柔らかな表情に引き寄せられるように、淡々と話したことを思いだす。長兄(八歳上)が漫画好きというか、漫画をよく描いていて、投稿したかは覚えていないが、「漫画少年」のことを、よく聞いていた。その兄が、東京の大学に行っていた頃、「忍者武芸帳 影丸伝」のことを教えてくれたのは、わたしが、小学六年生の後半か中学一年の頃だった。もともと手塚治虫のマンガには、どうしても馴染めなかった。白土三平を知ってからは、ますます手塚マンガは遠くなった。白土以外では、横山光輝の「伊賀の影丸」、山根赤鬼の「よたろうくん」などを挙げたと思う。さらに、「鉄腕アトム」にはなんの魅力も感じなかったけれど、「鉄人28号」の方には素直に惹かれたことも話したはずだ。ちださんが嬉しそうに相槌を打ってくれたことが忘れられない。
 後年、ちださんは、次の様な文章を発表している。
 「子ども向けの月刊雑誌に掲載されたマンガに関しての記憶は、小学校入学の二年前くらいから始まる。(略)その当時三つ年上の兄は、手塚治虫、杉浦茂、絵物語の福島鉄二、山川惣二、関谷ひさしがお気に入りで、わたしは馬場のぼる、高野よしてる、夢野凡夫、益子かつみ、横山光輝、山根赤鬼、青鬼、わちさんぺいにこだわっていた。兄弟とは不思議なもので、わたしはべつに手塚作品が嫌いなわけではなかったのだが、兄に反発していたのだろう。」(「貸本マンガに溺れて」―『貸本マンガRETURNS』収載)
 わたしの長兄も世代的には手塚ファンだったと思うが、特に勧められた記憶はないが、「よたろうくん」は、長兄の勧めだった気がする。ちださんもわたしも、兄弟だからといっても、年齢が離れていれば同じものを読むということがなかったのは当然のような気がする。
 石川淳志監督作品「へんりっく 寺山修司の弟」(二〇〇九年・ワイズ出版)に、プロデューサーとして千田潔の名前がある。ワイズ出版の岡田博さん以外では、喇嘛舎の長田俊一さんの名前もあり、石川さんの親しい関係のなかでの後見人のような感じで、ちださんと長田さんはいたような気がする。かなり難航した撮影期間を経て、完成した作品の試写会の時に、ちださん、長田さんと、そして石川さんと会って、どんな話をしたかは、もう記憶の彼方となって忘れてしまったが、ちださんたちの存在は、石川さんにとって心強かったはずだと、わたしは思っている。
 ちださんが体調を崩されたのは、退職後だったか、それ以前だったか、はっきりしないが、それでも、ちださんには沈黙は似合わない。自分がどんな状態になったかを、説明してくれる。その明快さが、体調の不安定さを乗り越えていったのだと思う。
 わたしの貸本マンガ体験は、小学六年生から中学二年までの僅かな期間だった。そもそも、住む場所に貸本屋があまりなかったからだといっていい。だから、ちださんのように貸本マンガを収集していくことは想像もできなかった。
 「高校三年の受験期、一九六七年一〇月ぐらいからわたしは貸本屋へ行く回数が減っていた。そして、大学受験に失敗した六八年に貸本屋通いはわたしのなかで終わっていたはずだった。もちろんそれは再受験にそなえてのことだったが、貸本屋の数そのものが減っていたこともある。(略)浪人生として新宿の街をよく歩いていたころ、新宿駅の西口を出て数分のところにあった小さい古本屋で見つけた佐藤まさあきの作品が、わたしの貸本マンガ熱をまた呼び起こしてしまった。佐藤は貸本マンガ家のなかで毀誉褒貶も含め、ある突出感を常に醸し出していた作家であり、ある時期わたし個人の精神的な支えになり続けた作家であった。/わたしはそのときなぜか、子どものころに親しんだ貸本マンガを自分の手元に置きたいと強く思った。それが貸本マンガ収集の端緒だった。」(「同前」)
 同じ頃、わたしもまた大学受験浪人を一年間送ったからわかるのだが、無意識のうちに「精神的な支え」のようなものを強く求めていくことになるのだ。ちださんは、もともと親しんでいた貸本マンガの世界が、「収集」というかたちで発露していったわけだが、わたしは、『ガロ』を購読していたが、映画はそれほど観ていなかった。本も古本を買うよりは新刊書を買っていたから、仕送りはすぐに底をつく状態だった。
 ちださんは、幼少期の体験にかなり拘泥し続けてきた気がする。それはもしかしたら家族関係なども大きく影響しているのかもしれないが、彼からはなにも聞いたことがないから推測の域を出ない。それでも、「貸本マンガに溺れて」の論考のなかで、祖母の娘や叔父のことなどに触れているが、どちらも、その〈死〉に関してだ。
 そういえば、『貸本マンガ史研究 第2期06号』に、ちださんは、梶井純さんを偲ぶ文章のなかで、「私は一八歳のころ、精神の病にかかってしまったが、いくつかの病院を訪ねて歩き、最後にたどり着いた精神科で信頼できる医者にめぐりあうことができた。彼は私のおかしなものの考え方にも、人間はそれぞれだからとおだやかに話してくれた」と書かれていて、少し驚いた。記憶のどこかで、彼から、それに近いことを聞いていたような気がするからだ。一八歳頃といえば、大学受験を目指していた時期であり、「貸本屋へ行く回数が減っていた」頃ということになる。それは、受験ということに関わることだけではなく、ちださんのなかで、貸本マンガとの距離が離れていったなにかが、あったからかもしれない。
 「ずっと貸本マンガにこだわって生きてきた。貸本体験のなかにはいくつもの風景が混在し、積み重なっている。あるときは鬱屈した心を代弁するイメージとして働くこともあるが、あるときは何かおそろしい風景として繰り返し立ち現れることもある。」「わたしは収集したこれらのマンガを、そういった人たち(引用者註・「貸本マンガを描きながら、報われず誰からも正当な評価も受けずに消えていった多くの貸本マンガ家」)に目を向ける原点としたい。それは、貸本マンガしかなかったわたしの幼い日々の苦痛から目をそらさない、ということでもあるだろう。」(「同前」)
 論考の書き出しと最後の文章を引いてみた。「貸本マンガにこだわって生きてきた」といい切るちださんは、「貸本マンガしかなかったわたしの幼い日々の苦痛」と、いってしまう。ちださんは、貸本マンガにこだわり続けてきただけでなく、「鬱屈した心」、「何かおそろしい風景」といった自分自身の心奥と対峙し続けてきたのかと思うと、なにも、かける言葉がないことに気づいてしまう。

(『幻燈・16号』20.11)

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2020年11月21日 (土)

加藤英彦 著『歌集 プレシピス precipice』         (ながらみ書房刊・20.8.31)

 第一歌集『スサノオの泣き虫』から十四年、待望の第二歌集が届いた。歌集名の〝プレシピス〟は、聞き慣れない言葉だが、「危機的な状況や断崖の謂いで、この数年、集団的自衛権や沖縄の基地問題、原発の再稼働や憲法改正など、政権は急速に危うい方向へと舵を切りはじめたように思う。そんな暗鬱な時代への喩をこめ」たと作者は「あとがき」のなかで述べている。この二十年間を振り返ってみても内と外で様々な大きな動態に接してきた。そして、理不尽なことへの憤怒から親近なる人たちの〈死〉へと、わたしたちは、年齢を重ねながら遭遇し、多様な時間を経てきたことになる。

 ひとつずつ忘れてゆけばいつの日か生まれし海にもどれるかもしれぬ
 いま夢はどのあたりなるあの沖にいつかは母もねむる日がくる
 なびくことなき隊列として山の腹には千本の杉の直立
 声をしぼれば昏き淵よりくさぐさの語りつくせぬもの立ちあがる

 海や山へ思念を飛翔させてみれば、生と死の往還を絶えず透視できるような気がしてくる。生と死は断絶して、あるのではなく連続したもの、円環しているものとして、想起させてくれるからだ。
 「いま夢はどのあたりなる」と語る作者の思念のなかには長い時間が胚胎し続けている。だから、ほんとうは「ひとつずつ忘れてゆけば」いいというわけではないのだが、忘れることは、けっして哀しいことではない。
 「千本の杉の直立」は、確かなものとして、わたしたちを喚起させてくれる。諦めることはない、「語りつくせぬもの」を立ちあがらせるのだと、いってみたくなる。

 土ふめば足裏にうすく纏いつくガジュマルの影 沖縄の翳
   辺野古の海をとりもどせ――。
 掌のなかにまだ小石ほどの熱もてば鳴らせる鐘のすべてを鳴らせ
 ふくろうが翔びたちてゆくもうだれも泳ぐことなき海の冥さへ

 「足裏にうすく纏いつく」ふたつの影・翳が鮮烈だ。列島の人々は、ふたつの影・翳の有様を感受しなければならないと思う。そして、その先へ視線を走らせることを忘れてはならない。作者は、影・翳を起点として、「鐘のすべてを鳴らせ」といい、「海の冥さへ」と向かっていく。滾る想いは南島を照射する力となっていくはずだ。しかし、だからといって、視線は絶えず地を這うようにして向けていくべきだと作者は語っていると思う。列島と南島の間には深い暗渠が横断しているからだ。そこを少しずつでも埋めていかなければならない。

 いつかわたしも消える日が来むその日まで騙しつづけてゆけわたくしを

 「いつかわたしも消える日が来む」、確かにそうだと思う。だから、「騙しつづけてゆけ」と鼓舞することの思いは切実だ。十四年という月日に、どんな意味があるのかなどとは、わたしは思わない。たぶん、作者もそうだと思う。一年も十四年も、わたし(たち)にとっては、同じ時間があるだけなのだ。

 燃える水のありかをめぐり百年を諍いやまず国家というは

 「燃える水のありか」は、様々なことの暗喩だといっていい。そこには、原発の蒙昧も南島の苦渋も、息苦しさの現在も胚胎していると見做していいと思う。だから、「暗鬱な時代」を生き続けるわたしたちは、「国家」を相対化していく視線を手放してはならない。「わたくし」から、絶えず、「国家」を透徹していく方途を見定めていくことを、〈プレシピス〉の歌群たちは、叫んでいるからだ。

(『図書新聞』20.11.28号)

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