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2020年10月17日 (土)

石川捷治・中村尚樹 著『KUP選書 1                スペイン市民戦争とアジア―遥かなる自由と理想のために』(九州大学出版会・20.8.31)

 一九三六~三九年にスペインで生起した内戦は、世界史的視線を通してみても多くの重要な問題が孕んでいたとわたしは考え続けてきた。一七年、ロシア革命によってボリシェヴィキ政権が成立、二四年にレーニンが死去するとスターリンが全権力を掌握してソ連は独裁国家へと変容していく。三二年に関東軍によって傀儡国家、満洲国が建国され、大日本帝国がアジアを圧制していく。三三年、ドイツではヒットラーが首相となりナチズムが席巻していく。イタリアは二二年からムッソリーニ政権が続いていて、日独伊三国同盟が結ばれたのは四〇年であった。
フランコら一部の陸軍が共和国政府打倒に蹶起したのが内戦の始まりだった。フランコは独伊の支援を受け、満洲国を容認した見返りとして日本からの承認を得ていくプロセスは、反乱側の象徴的な様態を示していた。対抗する側が、ソ連スターリン政権が支援していくが、やがて対立していくアナキスト、トロツキストとの抗争に邁進していくこととなり、共和国側は自壊していくこととなる。
 本書の書き出しを引いてみる。
 「一九三〇年代後半の世界政治史における焦点の一つはスペインにあった。スペイン戦争の帰趨は、第二次世界大戦への道を開くのか、それともそれを阻止しうるのか、という岐路に位置づけられていた。」(「プロローグ」)
 もう少し過剰に述べてみれば、それは戦後の冷戦時代をも通観しうるものであったといっていいと思う。
 そして、「スペインではフランコ独裁体制が第二次世界大戦を越えて一九七五年まで続いた」(「同前」)が、それはフランコの死によって終わったに過ぎない。本書は、「内戦」ではなく「市民戦争」という書名を採っている。それは次のような意味からである。
 「「スペイン市民戦争」という呼称を用いるのは、クーデターが長期の国際的「内戦」になっていく過程に注目し、共和国防衛において世界的規模での市民の主体性が発揮されたという、戦争の主体と性格を重視したからである。つまり、人間が人間の尊厳を守るために闘う、その市民的主体性を表現したいと考えたのである。」(「プロローグ」・コラム)
 本書は、「プロローグ」と「エピローグ」を挟んで、「第一章 スペイン市民戦争と現代」、「第二章 今日のスペインに見る市民戦争」、「第三章 スペイン市民戦争とアジア」、「第四章 スペイン市民戦争と日本」の全四章で構成している。そして、スペイン市民戦争を詳述していくことを目指しているのではなく、戦争の内実が、現代(現在)を透徹していることに論旨を含ませていくといっていい。
 「「現代の内戦」は、スペイン市民戦争から始まるといっても過言ではない。(略)スペイン市民戦争が単なる内戦ではなく、国際的内戦ということであり、ある意味ではひとつの国の問題が同時に世界的な問題でもあるという「現代」の特徴を先取りしていたのである。(略)「現代の内戦」の系譜は、スペイン以後、中国内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争とつづくが、ベトナムでも一九七五年に戦争が終わった。(略)他方、もう一つの、民族や人種や部族や宗教等の対立を原因とする内戦は、(略)多くのところで今なお深刻な状況が続いている。」(「第一章」)
 確かに、コロナ禍のなかますます露出したかのように中国共産党の専制権力が香港市民を圧制し続けている。同じようなことが南米、タイ、ロシアの周辺国家、アフリカと、さらに、パレスチナはもっと暗い通路しか見えてこない。
わたしは、本書の中で最も惹きつけられたのは、〇三年一月から四月まで、「セビーリャとバルセローナを中心にスペインに滞在」時の報告である。
 「転ばないよう気をつけながら山道を下りて、その広場にたどりついた。入口には高さ六メートルほどの細長いコンクリートの柱が約三〇本並んでいる。四つの面を持ったそれぞれの柱には、ぎっしりと名前が刻まれている。この柱は、この地で虐殺された人々の墓標なのだ。」「(略)CNTの事務所で私を出迎えてくれたのは、市民戦争時代に民兵だったホセ・ガルシアさんだ。(略)彼は市民戦争時代の詳細については、あまり語りたがらないようだった。(略)深い思いがあるように思えた。バルセローナでは内戦中の内戦と言われた、アナーキストと共産党との激しい銃撃戦もあった。共産党はソ連の支援を受けて勢力を伸ばし、アナーキズム勢力の排除にかかったからだ。ホセさんは自分の眼で、そうした現実を目撃したはずだ。」(「第二章」)
 なかなか、過去の悲惨、悲痛な出来事を冷静に振り返ることは難しい。自分が被害者であるとともに加害者でもあるという背理を有するのが「戦争(内戦)」の現実である。理想を求めて闘うということは、無血はありえないということだ。それでも、なにかを求めて、闘う時、わたしたちはあらゆる方途を模索すべきなのかもしれない。

【付記】本書は、〇六年に『九大アジア叢書 6巻』として刊行したものをKUP選書1巻として刊行した新装版である。

(『図書新聞』20.10.24号)

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