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2020年10月31日 (土)

虚無の情感、無限の優しさ――鮎川信夫『宿恋行』

 わたしにとって、鮎川信夫は戦後詩、現代詩を開いてくれた存在だった。「繫船ホテルの朝の歌」、「橋上の人」は、物語詩といっていい世界を湛え、わたしは、鮎川の詩に耽溺していった。亡くなる八年前に刊行された生前最後の詩集が、『宿恋行』で、逝去後の一九八七年に刊行された詩集が『難路行』である。『宿恋行』は、晩年というには早すぎる年代だが、そのような見方を強いる感性を湛えていたといっていい。四十年以上経ったいま、あらためて接してみても、その時の感受の有様を改変されることはない。それが、鮎川のひとつの達成だったといわれれば、そうかもしれないと思う。
 『宿恋行』には七三年から七八年まで、発表された順に二十四の詩篇が収録されている。しかし、前年七二年の十一月に発表された「宿恋行」という詩篇は中扉の裏に表題がないかたちで掲載されていて、本文の収録詩篇ではない。「白い月のえまい淋しく/すすきの穂が遠くからおいでおいでと手招く/(略)/五十年の記憶は闇また闇。」と書き記す、鮎川が五十二歳の時の作品だ。この作品に「宿恋行」と題して発表した鮎川の心意は、その時、わたしには分からなかったが、いまは不思議な言葉の漂泊がそこには感じられる。
 集中、「死について」という作品は「短歌」七六年六月号に発表された。五十代後半という年齢は、当時なら充分に晩年といえたことは確かだが、鮎川が語る「死」は、ボクシングが象徴化されていくことに意味がある。

 惜しまれる死に方をしなかったことで
 生きていることが心苦しくならなかったことで
 多分ぼくはまちがっているのだろう
 口笛を吹きながらするシャドー・ボクシングが死のレッスン。

 「シャドー・ボクシングが死のレッスン」という詩語が、深く心奥に突き刺さる。鮎川がボクシング好きであることは、知っていたが、それにしてもと思う。シャドー・ボクシングは、闘うために一人でやるトレーニングの方法だが、それを死のレッスンと捉えていくことが、もしかしたら優しい視線なのかもしれない。吉本隆明は、鮎川への「別れの挨拶」で、「わたしたちへの無限の優しさと思い遣り」、「虚無の情感」が射しこんでくると述べていたことをいま思いだす。           
                                   (『現代詩手帖』20年11月号)

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2020年10月30日 (金)

大澤正道著[解説・森元斎]『石川三四郎 魂の導師』     (虹霓社刊・20.8.31)

 石川三四郎は、幸徳秋水より五歳年少で、大杉栄より九歳年長である。同時代を疾走しながら敗戦後までアナキストとしての矜持を持ち続けていった。一九五六年、八十歳で亡くなる。本書は、石川三四郎伝である。
 「石川は考えてから歩き出すのではなく、考えるまえに歩きだし、あとで後悔することの多い人である。(略)打算ができず、純情なのである」と著者は述べていく。
 女性との関係や宗教、思想との往還にも、そのことはいえるかもしれない。大逆事件に連座しなかったことは、その後の石川にとって、どういうかたちで思想的醸成がなされていったのかは、その後の多様な活動のなかからはなかなか見えにくい。しかし、「土民思想」、「土民生活」に込めたものは、理解できないわけではない。権藤成卿を評価する〈思想的幅〉を持っていたことへ通底するといっていいからだ。Ⅳ章の「天皇と無政府主義者」では、石川の六十代後半からの思想の相貌を照射していく。敗戦時の天皇裕仁の生の声に心撃たれた優しいアナキストが、錦旗革命を目指して苛烈化していく。裕仁という「「偉大な天皇」を擁して、一気に「無政府社会」を実現するという一種の錦旗革命」を石川は妄想していったのだ。軍部の犠牲者だったと、裕仁に同情していく石川の思想の深層には、裕仁を信認して死に至った多くのひとたちのことを見過ごしていることに気付かないでいたのかもしれない。本書は八七年に刊行された新装版である 

(月刊情報紙「アナキズム」第八号―20.11.1)

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2020年10月24日 (土)

山田邦紀 著『今ひとたびの高見順               ――最後の文士とその時代』(現代書館刊・20.6.25)

 高見順(一九〇七~六五年)を、わたしが意識的に関心を抱くようになったのは、七十年代か八十年代か判然としないが、『いやな感じ』(六三年刊)という作品を知ってからだ。『故旧忘れ得べき』、『如何なる星の下に』といった戦前期の作品ではなく、晩年の『いやな感じ』と詩集『死の淵より』によって、高見順が親近な作家として、わたしのなかでかたちづくられていったことになる。同じころ、タレントの高見恭子(高見順が亡くなる直前に養女として籍に入れている)がテレビに出て父は高見順であると公言していたことに不思議な感慨をもったといっていい。高見順自身も私生児であった。
 高見順について、わたしはほとんど知らないできた。日本民藝館に行った時に、日本近代文学館に何度か訪れたことはあるが、創設に尽力をしたことは知っていたが、それ以上の関心を向けることはなかった。
 本書は評伝である。「四苦八苦して自分なりの工夫を試みたつもりだが、「高見順を通して見た昭和史」という目論みが成功したのかどうかは正直わからない」と著者は「あとがき」で述べているが、読み終えて思ったことは、作家である前に一人の人間として高見順(高間芳雄)が時代情況とどう関わってきたのかということが、鮮明に浮かび上がってきたといっていい。そしてそれは、『いやな感じ』を書き上げたことにつながっていき、わたしは高見順の有様をあらためて考えることになったのは、本書を読み通したからだと率直にいいたいと思う。
 高見順の父親は福井県知事・阪本釤之助(長兄は永井荷風の父)である。「当時の知事は官選知事で、絶大な権力を持っていた」のだ。阪本が、「三国を巡察した際、三国の高級料亭「開明楼」」に四日間、滞在した時の接待役が地元の「美貌の素人娘であるコヨ」だった。この時に高間コヨは阪本の子を身ごもる。明治三九(一九〇六)年のことである。「私生児であるという事実は、高見順を生涯にわたって苦しめ続けた」と著者は述べていく。認知を拒み続けた父とは、葬儀に参列したが直接会うことは一度もなかった。
 母と祖母の三人が三国を離れて上京したのは、高見順がまだ一歳の時で、〇八年九月だった。「釤之助邸のすぐ近くだ」った。
 府立一中(現・日比谷高校)、一高、東京帝大と進学していく。府立一中四年生時、大正十二(二三)年の九月、関東大震災が生起する。高見順はその頃、有島武郎に惹かれていたが、やがて、「大杉栄の作品を読むようになる」。著者は、「白樺派とアナーキズムの間には距離感があるものの、順の中ではそれほど矛盾しなかった」として、高見順の次のような言葉を引いていく。
 「調和的なヒューマニズムと破壊的なアナーキズムの間に一見つながりはないようで、私にはそこに自我の重視という点で共通するものを見た。ヒューマニズムが自我の確立を私に教えたとすると、アナーキズムは自我の拡充を私に教えた。」(高見順「青春放浪」)
 多感な十代半ばを思えば、大杉栄から、「自我の拡充」を喚起されるということは、庶子として生まれ育ってきた自分を律するための原初の有様だったといっていいはずだ。だから、震災時の「大杉栄・伊藤野枝が殺された甘粕事件」に衝撃を受けることになる。そしてそれは、晩年の傑作『いやな感じ』に結実していく。事件の深層を著者はかなり詳細に述べているが、直接、本書を読んで欲しいと思う。高見順は戦時下に報道班員として満洲に渡り、甘粕正彦(敗戦直後、自死)と何度も会っているということも興味深い。
 小説を書き始めるのは、一高入学以降である。そして帝大時代、三好十郎、壺井繁治らと『左翼芸術』を昭和三(二八)年に創刊、初めて筆名・高見順を使用し、「秋から秋まで」という作品を発表する。
 「順は昭和八年一月のある日、日本プロレタリア作家同盟城南地区キャップとして街頭連絡に出ている時に逮捕され、大森署に留置された。」
 「拷問を受けて転向」し、釈放されたのは三月の初めだった。その間、最初の妻、石田愛子が離れていく。二年後、水谷秋子と再婚。
昭和十六年十一月、陸軍報道班員として徴用されビルマ派遣となる。サイゴンに向かう船の中で、日米開戦を知る。その後、十九年六月からは、中国へ。帰国は十二月十日。翌年、敗戦。
 そして、高見順が、「私としては渾身の勇と力をこめて書いた」作品『いやな感じ』を著者は次のように述べていく。
「「いやな感じ」はアナーキストでありテロリストでもある主人公を中心に、昭和初期から昭和六(略)年の満州事変、昭和十一(略)年の二・二六事件を経て昭和十二(略)年に始まった日中戦争までの約十年間の激動期を描いた作品で、作家・川端康成は「異常な傑作」と激賞した。」
 『いやな感じ』の雑誌『文学界』での連載は昭和三十五年一月号から三十八年九月号までだ。あの〝六〇年安保闘争〟が苛烈化していく時期に連載が始まっていったことに、不思議な繋がりを感じる。そして、現在(いま)は、それから六十年という時間を経てきた。
 〝今ひとたびの〟と書名に関した著者の思いを、わたしは真摯に受け止めたいと思う。

(『図書新聞』20.10.31号)

 

 

 

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2020年10月17日 (土)

石川捷治・中村尚樹 著『KUP選書 1                スペイン市民戦争とアジア―遥かなる自由と理想のために』(九州大学出版会・20.8.31)

 一九三六~三九年にスペインで生起した内戦は、世界史的視線を通してみても多くの重要な問題が孕んでいたとわたしは考え続けてきた。一七年、ロシア革命によってボリシェヴィキ政権が成立、二四年にレーニンが死去するとスターリンが全権力を掌握してソ連は独裁国家へと変容していく。三二年に関東軍によって傀儡国家、満洲国が建国され、大日本帝国がアジアを圧制していく。三三年、ドイツではヒットラーが首相となりナチズムが席巻していく。イタリアは二二年からムッソリーニ政権が続いていて、日独伊三国同盟が結ばれたのは四〇年であった。
フランコら一部の陸軍が共和国政府打倒に蹶起したのが内戦の始まりだった。フランコは独伊の支援を受け、満洲国を容認した見返りとして日本からの承認を得ていくプロセスは、反乱側の象徴的な様態を示していた。対抗する側が、ソ連スターリン政権が支援していくが、やがて対立していくアナキスト、トロツキストとの抗争に邁進していくこととなり、共和国側は自壊していくこととなる。
 本書の書き出しを引いてみる。
 「一九三〇年代後半の世界政治史における焦点の一つはスペインにあった。スペイン戦争の帰趨は、第二次世界大戦への道を開くのか、それともそれを阻止しうるのか、という岐路に位置づけられていた。」(「プロローグ」)
 もう少し過剰に述べてみれば、それは戦後の冷戦時代をも通観しうるものであったといっていいと思う。
 そして、「スペインではフランコ独裁体制が第二次世界大戦を越えて一九七五年まで続いた」(「同前」)が、それはフランコの死によって終わったに過ぎない。本書は、「内戦」ではなく「市民戦争」という書名を採っている。それは次のような意味からである。
 「「スペイン市民戦争」という呼称を用いるのは、クーデターが長期の国際的「内戦」になっていく過程に注目し、共和国防衛において世界的規模での市民の主体性が発揮されたという、戦争の主体と性格を重視したからである。つまり、人間が人間の尊厳を守るために闘う、その市民的主体性を表現したいと考えたのである。」(「プロローグ」・コラム)
 本書は、「プロローグ」と「エピローグ」を挟んで、「第一章 スペイン市民戦争と現代」、「第二章 今日のスペインに見る市民戦争」、「第三章 スペイン市民戦争とアジア」、「第四章 スペイン市民戦争と日本」の全四章で構成している。そして、スペイン市民戦争を詳述していくことを目指しているのではなく、戦争の内実が、現代(現在)を透徹していることに論旨を含ませていくといっていい。
 「「現代の内戦」は、スペイン市民戦争から始まるといっても過言ではない。(略)スペイン市民戦争が単なる内戦ではなく、国際的内戦ということであり、ある意味ではひとつの国の問題が同時に世界的な問題でもあるという「現代」の特徴を先取りしていたのである。(略)「現代の内戦」の系譜は、スペイン以後、中国内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争とつづくが、ベトナムでも一九七五年に戦争が終わった。(略)他方、もう一つの、民族や人種や部族や宗教等の対立を原因とする内戦は、(略)多くのところで今なお深刻な状況が続いている。」(「第一章」)
 確かに、コロナ禍のなかますます露出したかのように中国共産党の専制権力が香港市民を圧制し続けている。同じようなことが南米、タイ、ロシアの周辺国家、アフリカと、さらに、パレスチナはもっと暗い通路しか見えてこない。
わたしは、本書の中で最も惹きつけられたのは、〇三年一月から四月まで、「セビーリャとバルセローナを中心にスペインに滞在」時の報告である。
 「転ばないよう気をつけながら山道を下りて、その広場にたどりついた。入口には高さ六メートルほどの細長いコンクリートの柱が約三〇本並んでいる。四つの面を持ったそれぞれの柱には、ぎっしりと名前が刻まれている。この柱は、この地で虐殺された人々の墓標なのだ。」「(略)CNTの事務所で私を出迎えてくれたのは、市民戦争時代に民兵だったホセ・ガルシアさんだ。(略)彼は市民戦争時代の詳細については、あまり語りたがらないようだった。(略)深い思いがあるように思えた。バルセローナでは内戦中の内戦と言われた、アナーキストと共産党との激しい銃撃戦もあった。共産党はソ連の支援を受けて勢力を伸ばし、アナーキズム勢力の排除にかかったからだ。ホセさんは自分の眼で、そうした現実を目撃したはずだ。」(「第二章」)
 なかなか、過去の悲惨、悲痛な出来事を冷静に振り返ることは難しい。自分が被害者であるとともに加害者でもあるという背理を有するのが「戦争(内戦)」の現実である。理想を求めて闘うということは、無血はありえないということだ。それでも、なにかを求めて、闘う時、わたしたちはあらゆる方途を模索すべきなのかもしれない。

【付記】本書は、〇六年に『九大アジア叢書 6巻』として刊行したものをKUP選書1巻として刊行した新装版である。

(『図書新聞』20.10.24号)

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