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2020年8月22日 (土)

杉本真維子 著『三日間の石』(響文社刊・20.6.25)

 本書は、「図書新聞」紙上で十年以上に渡って断続的に連載している「裏百年まち」から三五篇、「群像」、「現代詩手帖」各誌に発表した二篇、未発表が一篇で構成している。著者は三冊の詩集(『点火期』、『袖口の動物』、『裾花』)を出しているが、詩集以外の単著は本書が初めてである。
 「裏百年まち」で著者が紡ぎ出す文章に、わたしが接してきて感受したことは、物語のような世界を言葉たちが交感しているということだった。それは、エッセイといったカテゴリーには収まり切れないことを意味する。もちろん、小説ではないし詩作品でもないが、著者が詩人であることを手放さずに言葉を紡いでいるからだといっていいと思う。あらためて、本書に接して、そのことをさらに強く感じたことになる。
 「鳩も私も、窪地の底に溜まった、闇の塊の一つなのかもしれない。誰かに幽霊とまちがえられながら、夜の墓地を歩く。寺の門前には数ヶ月間変わらず、同じ格言がライトアップされている――「これからが これまでを 決める」。時間が逆さに流れ、ぐるりと一筆書きにされた過去と、未来のあいだに、自分がいる、と思った。ひりひりと、これから、が出来ていく。」(「幽霊坂」)
 過去と現在の自分、そして未来はどんな繋がりがあるのかと、わたしもまた考えたことがある。二十代前半期の頃だった。そこで、「過去こそ未来」(内村剛介)という言葉に出会い納得したことを、「ひりひりと、これから、が出来ていく」という言辞によって思い起こしたことになる。
 「あと一週間かもしれない。そういわれた祖母に対し、いまは「なにも書くことがない」という感慨を保っている。これが揺らいで、うすくなにかがひらいてきて、そこからしるが出て、詩になったらもうおしまいなのだ。つぎに、わたしに詩に書かれるような祖母が、わたしの近くで、息をしているはずはないのだ。」(「反逆の日」)
 詩を、ここまで、つまり祖母の有様と繋ぎながら述べていく詩人を、わたしは知らない。賢治が姉の死を詠んだように、詩人は身近な死を引き寄せるものだと思っていたから、杉本真維子の心象は、むしろ親近感をわたしに抱かせる。そして、心象はさらに深度を深めていく。
 「かつて、肉親の死とはどういうものだろうと、想像することのおそろしさに負けていたころ、私の父は、こういうものだ、と教えるようにとつぜん死んだ。死によって私は生まれた、と思うほど、世界は一変し、経験はゼロにもどった。自分はまだ何も知らなかった、という言葉が何度も口からこぼれた。」(「石を投げて呼ばない」)
 「死によって私は生まれた」といい切る詩人の言葉に、応答できずただ立ち止まって、その言葉を反芻する自分を確認することになる。なぜ著者は、父の死をこのように捉えてしまうのだろうか。
しかし、三十九歳で亡くなった友人のことを、「私が持っている言葉のイメージを、そのまま温かく、受け取ってくれていたなんて」(「オバQ線」)と語る視線もある。また、小学校時代の担任を追慕する著者は穏やかだ。クラスの紹介文を担任の先生は「不思議な国の五組」と記したという。
 「先生は若くして亡くなってしまったが、私に残してくれたものの圧倒的な重量感は、そのまま先生の存在感となって留まり、今も自室の壁には、先生が卒業式に贈ってくれた文字版画がひかっている。(略)今も楽しければ踊ります。並ばされたりなんかしません。自由の意味を考えていきます。いつも本気を出します。詩を作っています。」(「不思議な国の五組」)
 著者のイノセントな決意表明がいい。「いつも本気を出します。詩を作っています」は、確かに真摯だけれど、肩に力が入っているわけでなく、自然に言葉は発語していくものだということを滲ませているからいいのだ。
 「(略)今年の夏は、生まれて初めて花火を美しいと思えなかった。(略)夕暮れ、新盆の準備をしながら、そんなことを思いだしていた。茄子と胡瓜に割り箸をさして、死者になった父の乗り物をこしらえる。これがうま、これがうし。門提灯を開き、玄関につるす。松の割り木を用意し、迎え火を焚く。(略)それから、呼吸を整え、正座して、経を唱える。なんとなく、外出ははばかられたので、翌日から三日間は、家に籠ることにする。待つこと、迎えることが自分の仕事だから、窓を開け放ち、灯りを絶やさぬように、家の番人に徹する。(略)最終日、送り火の時間を迎えるころには、私は窓際に置かれた石であった。」(「三日間の石」)
 父を送る新盆の様相を、このように物語っていく著者の立ち位置は浮遊感を湛えているが、「この世に帰ってきたのは、私なのではないか。闇のなかでちろちろと揺らめく火を追って、夢中で走ってきたのは、私なのではないか」と問い掛けていくことで、それは明快なかたちをつくっていくことになることが分かってくる。
 わたしなら、「三日間の石」という物語を受けて、次のように述べてみたい。
人と人との関係性を絶えず往還することこそが、生と死の間を照射していくことになるのだといいたいと思う。

(『図書新聞』20.8.29号)

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2020年8月 1日 (土)

石井正己 著『現代に共鳴する昔話 異類婚・教科書・アジア』(三弥井書店刊・20.1.10)

 著者は柳田国男の世界をわたしたちの世代が考えてきた受容の仕方とは、幾らか角度を広げ、多層なかたちで捉えていくことを、これまで指向してきたといっていい。例えば、わたしなら、柳田の『遠野物語』を、吉本隆明の『共同幻想論』に倣って共同体の禁忌の物語として解読していくということを課してきたといっていいが、そのことは、もう少し拡張して捉えることで、〈現在〉という時空を見据えることもできると思っていたからだ。
 「思えば、柳田国男研究を進めてきたのは民俗学者ではありません。民俗学者はアカデミズムの確立に向けて、民俗学を科学にするのと差し替えに、柳田を仰ぎながらも個性をはぎ取ってしまったように見えます。民俗学者が進めようとしなかった研究を全面的に受け止めたのは、吉本隆明や橋川文三、後藤総一郎といった思想史の人々でした。柳田国男は思想家として評価されたのです。そうした刺激は歴史学や人類学、社会学、国文学、教育学など幅広い分野に及びました。」(「柳田国男とグローカル研究」)
 六十年代後半から七十年代にかけて、吉本、橋川、後藤に導かれるようにして柳田の〈思想〉に触れていったのは確かだが、わたしには、菅江真澄への近接感が柳田の民俗学的方位と交錯していったという僥倖があった。 
著者は重ねて述べていく。
 「例えば、現代社会が抱えている親殺しや子殺し、孤独死、そして大震災からの復興を考えるときに、『遠野物語』は大きな示唆を与えてくれます。柳田国男の思考は今も決して滅びていないと断言することができます。」(「同前」)
 そして、本書の書名にもある「昔話」という言葉をめぐる問題がある。柳田は「昔話」ということに拘泥していた。
 「木下順二は、太平洋戦争の深い反省から、次々と民話劇を発表して民衆運動を進めました。民話劇は社会が直面する現実の課題と向き合うことを使命感とし、民衆の話そのままではなく、新たな命を吹き込まなければ意味がないと考えました。柳田国男は新しい時代の思想を盛り込もうとする「民話」という言葉に対して、最晩年まで不快感を隠しませんでしたが、それほど社会的な影響が大きかったのです。そうした民話劇の象徴とも言える作品が「夕鶴」であり、ぶどうの会によって長く上演されました。」(「異類婚姻譚の系譜」)
 わたしたちは、ともすれば、「昔話」も「民話」も古くから語り継がれた物語というイメージを抱くかもしれない。もちろん、そういう一面もあるとは思うが、木下順二の「夕鶴」が、「民話」から想を得たとしても、それは新たな創作作品というべきである。「夕鶴」が、大きな影響力を持って、異類婚姻譚の「鶴の恩返し」と一体化されて「民話」として拡張され流布されていくことに危機感を柳田が抱いたのは当然というべきかもしれない。
 わたしは、「夕鶴」を観ていないし観たいと思ったことは一度もないが、民衆運動といういい方で語られるものが、実は民衆の存在を希薄にしていくことになることを知っているつもりだ。
 『遠野物語』が、共同体、つまり共同性に孕んでいる問題を照らし出しながら、そこで生活している人々の心性を露わにしていくことに衝迫性を持っているといっていい。だから、著者の視線は次のようなかたちで柳田の苦闘を称揚していくことができるのだ。
 「重要なのは、「心の繋がり」や「精神生活の帰趨」を見つけ出そうとする点です。柳田にとっての昔話というのはそれ自体に魅力があるというより、日本人の「心」や「精神生活」を知るための素材であると考えていたように思います。柳田が昔話にあれほどの情熱を注いだのは、自分の方法を鍛え上げるための最も重要な場所だったからにちがいありません。」(「昔話研究の未来をどう考えるか」)
 著者に誘われて、柳田国男の鮮鋭な〈像〉がかたちづくられていくことに、わたしは、素直に共感したいと思う。

【付記】
 著者は、本書の最後で次の様に述べている。
 「今から二〇〇年ほど前に東北地方を歩いて、民俗を記録し、絵画に残した菅江真澄という人がいます。(略)菅江真澄の絵画の中には、今も残っている民俗もあれば、消えていった民俗もあります。先月(引用者註・一四年一〇月)、秋田県立博物館で行った講演では、「菅江真澄の残したものを世界記憶遺産に出してはどうか」と提案しました。(略)秋田県の若い人の関心が薄くなっている菅江真澄の価値を、世界的に意味づけることができるからです。」(「無形文化遺産と日本」)
 一八年九月に、秋田県立博物館で菅江真澄の没後百九十年記念展があり、その図録は、「菅江真澄、記憶のかたち」と題されていた。「記憶のかたち」は、著者が提案したことを継承したのかもしれない。ところで、ちくま文語版『柳田國男全集』(全32巻)のカバー表紙絵は、すべて菅江真澄の「民俗図絵」から採っている。

(『図書新聞』20.8.8号)

 

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