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2020年7月23日 (木)

梶井純さんとの時間

 梶井純さんと初めてお会いしたのは、一九七一年頃だったから、四十八年という長い時間を横断してきたことになる。しかし、その間、途切れずに会っていたわけではない。空白期も度々あった。最後の頃は、アナキスト詩人・秋山清さんを偲ぶ、「コスモス忌」で年に一度、会っていたことになる。わたしは、偲ぶ会といったかたちの集まりに定期的に参加することは忌避してきた。大勢で集まって偲ぶことより、その人の仕事・業績を亡くなった後で、自分なりに何度も振り返っていく作業を課していくことの方が切実なことだと思っていたからだ。だが、二〇〇四年に『秋山清著作集』(ぱる出版)の刊行を提起したことで、版元の社主O氏から、編集作業をするにあたってどうしても紹介したい人がいるから参加して欲しいといわれ、同年十一月二七日、会場に行った。誰も知っている人がいないと思っていたら、梶井純さんがひとりでいたので、直ぐ隣に座りいろいろ話し込んでしまった。O氏が慌てたようにやってきて、すぐに詩人の暮尾淳さんを紹介された。暮尾さんも今年一月に亡くなられた。
 梶井さんは、最後の数年間、歩行に不安があるということで奥さんのサトノさんと一緒に参加されたが、雨の日は欠席だった。一昨年は、天候は良かったが参加されなかったから、気掛かりではあったがこちらから連絡することはしなかった。突然の訃報は、三宅政吉さんからメールで受けとった。二年以上、梶井さんと会話していなかったのに、沈黙したままの梶井さんの顔に接したことが辛かった。
 梶井さんの名は、『漫画主義』という雑誌に執筆者として名前があったことで知ったことになる。もちろん、『ガロ』誌上の広告でのことだ。同時に、権藤晋(高野慎三)、菊地浅次郎(山根貞男)、そして石子順造だ。六八年の冬、年長の友人夫妻宅(アパートの一室だが)で、山根ご夫妻、石子さんと鍋を食べながら、会ったことがある。石子さんと山根さんの二人の言葉の応答に圧倒された記憶だけが残っている。石子さんとお会いしたのは、その一度きりである。
 わたしは、つげ義春さんをいち早く評価したことは、知っていたが、『漫画主義』から、直接的には影響を受けていない。それは、たんに購読してなかったことを意味するのだが。創刊号(六七年三月)は「つげ義春特集」だ。以下、梶井さんの論稿を七〇年まで追ってみる。第二号(同年六月)では「石森章太郎ノート」、第三号(同年一〇月)は「戦記マンガの精神構造」、第五号(六八年七月)には、「児童文化統一戦線への一視点」、第六号(六九年三月)には「「戦記マンガ」批判の思想を撃つ」、第七号(六九年八月)には「回帰または浸蝕輪廻への出撃―永島慎二論」と「ジョージ秋山・人の悲しさ、夢、人間嫌い」、そして第八号(七〇年九月)は「子どものマンガの退廃とその構造」となる。ところで、第七号と第八号には秋山清さんが寄稿している。
 「戦記マンガ」を巡っての論稿は、その後の梶井さんの大きな仕事、つまり、『執れ、膺懲の銃とペン 戦時下マンガ史ノート』(ワイズ出版、九九年)へと結実していくものだといえる。わたしは、考えてみたら梶井さんとどんな話しをしたのかはあまり覚えていない。映画や漫画をめぐって話したとは思うけれど、例えば、『漫画主義』で取り上げた石森章太郎、永島慎二、ジョージ秋山という作家たちについては、わたし自身の関心があまりなかったこともあり、話した記憶はない。覚えているのは、やはり骨董についてだったと思う。わたしが骨董に深い関心を持っていたわけではなく、ただテレビ番組「開運!なんでも鑑定団」(テレビ東京・九四年四月~)を見て楽しむといった程度のレベルである。
 『幻燈 創刊号』(北冬書房、九八年)に梶井さんは、「ビンスキー・ノート」という論稿を寄せている。目次を見て、〝ビンスキー〟とは誰のことなのだろうと思った。ビンスキーは、「ビンスキ」のことだった。いまでは、「ビンスキ(貧乏数奇)」はかなり高い認知度になっているようだが、当時は、わたしのような反応が普通だったと思う。
 「【ビンスキ】貧乏数奇。金のあるなしに関係なく、くだらないモノばかり買う行為や人を指すことばではない。//前世紀の遺物のような感じもする「数奇者」ということばは、そうとうにうさんくさい響きをともなっている。(略)古美術が好きで古物買いを長くやっていても、大方の人にとってはいずれ瓦礫か石くれか、というようなものを購う程度の散財では「数奇者」も「趣味人」もあてはまらない。もちろん、ただの瓦礫か石くれにたいするフェティシズムが高じているわけでもない。/あらためて考えてみるまでもなく、私の骨董には金をかけていないという顕著な特徴がある。(略)いってみればプロレタリアート骨董であるしかない私の守備位置からすると、カワラやセトカケの魅力は果てしない。一番に安いことだ。そして、ほんの少しの想像力があれば、残欠であってもモノの「実力」を賞美するのにそれほど不足はしない。(略)外見とはいささか異なる、タフな骨董業者である中島誠之助にして、愛玩してやまないモノの一つに中国均窯の破片があることを示しておかないのは公平を欠くというものだろう。(略)均窯残欠の美しさをこそ賞美できることとは、彼がその残欠に並々ならぬ美を見ていることを意味する。プロかアマかを問わずに「目」を信頼できるとはそういうことなのだ。」
 梶井さんの骨董観が濃密に凝縮された文章だと思う。さらにいえば、見事な思考の有様を指し示している。つまり、「カワラやセトカケの魅力は果てしない。一番に安いことだ。そして、ほんの少しの想像力があれば、残欠であってもモノの「実力」を賞美するのにそれほど不足はしない」といい切る箇所がいい。絵画や古美術品の評価を市場価値(価格)で判断されるのが、業者と蒐集家の間では了解事項だ。だがほんらいは、個々の表現価値が前提とされるべきである。率直にいえば、「カワラやセトカケ」に表現価値はあっても、市場価値がないから多くの蒐集家には見向きもされない。「開運!なんでも鑑定団」を人気番組に押し上げた功労者である中島誠之助を梶井さんは鑑定価格が高すぎるとわたしに語ってくれた。それには様々な思惑あることも教えてくれたし、「ビンスキー・ノート」のなかでも厳しく中島批判をしているが、最後に、共感を示すところは梶井さんらしい優しさかと思う。
 わたしが、梶井さんと共著者として参加した『山野記』(北冬書房、八九年)のことは、忘れられない。しかも、編者はつげ義春さんだ。何度かみんなで打合せをしたのもいい思い出になっているが、梶井さんの「古董旅日記」のなかに、わたしが撮った(もしかしたら妻が撮ったかもしれない)、近江八幡の「家並」と「掘割」の写真が使われたのは共作したような思いになってうれしかった。わたしたちが、近江八幡へ行ったのは、安土城跡とともに高野さんから勧められたからだ。
梶井さんの「古董旅日記」は次のように始まる。
 「もう二七年前のことになる。秋の近江路を歩いた。/晩秋の気配がただよう小高い丘の上から、近江八幡の町並み見下ろしていた。冷えびえとした大気は、まぎれもなく秋の終わりを告げはじめていた。眼下に広がるほとんどの稲田から、モミを焼く白い煙がまっすぐに立ち昇っていた。/学生生活も終りに近く、まだ就職先は決まっていなかった。前途に希望があふれているとはいえなかったが、焦っているわけでもなかった。大阪市内でおこなわれるK社の入社試験を前に、先方もちの旅費で近江路を歩いてみようと思い立った。(略)いまでこそ近江八幡は、たぶんマイナーな、たいしたとりえもない観光地か、京阪神のベッドタウンに変貌しているのだろうが、当時の近江八幡はわるくなかった。(略)普通の小さな地方都市のふんいきで、なおかつ古い城下町らしい家並みが残る町だった。(略)いかにも観光客にこびるように整序された剥製のような町並とはちがって、なんにもなくてもやっぱり生活しているんですよ、といったおもむきのある風景は、思いがけなく新鮮なものだった。」
 梶井さんが訪れてから、二十五年以上後に訪れたわたしたちも、梶井さんの近江八幡の印象をほとんど訂正することはなかった。近江八幡にまつわる戦前期からの物語を類推していけばいい。もちろん、背景の物語を意識しなくても、「なんにもなくてもやっぱり生活している」という風景は、その町が送ってきた時間の累積が無意識の共同性として表出していることだといっていいと思う。
 だから、梶井さんの「カワラやセトカケ」へ注ぐ視線、二七年前に近江八幡の町並みへ注ぐ視線は、ひとつの普遍性を持って、わたしに問いかけてくるような気がする。 
 かつてあったこと、モノが、表出し続けないことはないのだ。表出し続けてきたこと、モノが、わたしたちがどう感受するかということが、ある種の精神のリレーとして繋がっていくんだよと、梶井さんは語りかけているのだと思う。

 

(『貸本マンガ史研究』第2期06号・20.7.23)

 

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2020年7月 1日 (水)

映画『半世界』、溢れる関係の物語

 監督・脚本の阪本順治にとって、「世界」という言葉は、覇権主義国家の為政者たちの使うものとなっているという考えがある。だから「半世界」は、〝もう一つの〟、あるいは〝別の〟、〝ほかの〟世界ということを込めているのだ。直截にいえば、「反(もしくは叛)世界」がいいかもしれない。作品の後半で、父親の仕事を自分の意志で継いでいる炭焼き職人の高村紘(稲垣吾郎)が、自衛官を辞め、妻子とも別れて八年ぶりに帰郷した沖山瑛介(長谷川博己)に向かって、「こっちも世界なんだよ」と言い放つ場面がある。
 これは、それ以前に、「おまえらは、世間しか知らない、……世界を知らない」と瑛介にいわれたことに対するものだった。瑛介のいう世界とは何を意味するのか。それは、海外派兵にまつわる世界のことである。彼らにはイラクと南スーダンから帰還後、五十六人もの自死という現実が、その世界には含まれている。もう一人、父親が経営している中古車販売を姉とともに手伝っている岩井光彦(渋川清彦)を含めた三人は小中学校が一緒という幼なじみの友人で、まもなく四十歳という年齢だ。
 作品は阪本の言(「映画芸術」四六六号)に添っていえば、〝土着の共同性(関係性)〟を照射していくことになる。もちろん、〝土着〟といっても、ひとつの象徴性を含ませているのだが、紘の仕事からいえば、わたしなら柳田國男の『山の人生』を想起したくなる。そこには孤独できつい手仕事のような様態がある。紘は、瑛介を喚起する気持ちで自分の仕事を手伝わせる。やがて、少しずつ慰藉されていく瑛介の心性が伝わってくる。「世間しか知らない、……世界を知らない」と言ってしまったことをどこかで押し込めておきたいとするかのように、表情も緩やかになっていく。しかし、ある日、光彦の販売店で客とトラブルになっているところに、紘と瑛介が乗っていた車が通りかかる。瑛介は急にそのなかに入って客と殴り合いになる。瑛介が〈狂気〉を表出した場面だ。瑛介の世界がついに破砕したのだ。それは瑛介の知っていた世界は世界ではなかったことになる。
 この作品では、もうひとつの世界も描かれる。紘と妻・初乃(池脇千鶴)と中学生の息子・明(杉田雷麟)の家族という世界だ。しかし、穏和で親和性に満ちた家族とは違う、危うい関係性が織りなしていくのだが、初乃の存在がこの映画では大きな有様として描かれていることに、わたしは阪本順治の物語力を感受した。
 物語は三カ月という短い時間性が横断している。しかし、紘の炭焼き小屋での突然死によって溢れる三人の関係性は閉じることになる。
 瑛介は、紘の死をかみしめるように「こっちも世界」かと呟く。
 息子の明は、一人で炭焼き小屋にやってくる。ランチボックスとグローブを持ってきている。小屋に吊り下げているサンドバックめがけてパンチを激しく撃っていく。
 もうひとつの「半世界」が始まる。

(月刊情報紙「アナキズム」第四号―20.7.1)

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