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2020年6月27日 (土)

大野光明 小杉亮子 松井隆志・編               『社会運動史研究 2「1968」を編みなおす』             (新曜社刊・20.4.20)

 本書は、昨年の二月に創刊された『社会運動史研究』の第二集である。編者たちは、巻頭で次のように述べていく。
 「一九六八年は世界同時多発的に社会運動の高揚が見られた年であり、日本でも、大学闘争やベトナム反戦運動をはじめとして、社会運動史にとって重要だと思われる出来事がさまざまに起こった。当時のグローバルな現象は、「1968」と象徴的に呼ばれる。(略)「1968」の言葉が指し示そうとする出来事は、確かに歴史的・社会的に重要である。しかし、いささか粗雑な「1968」のイメージは、その重要性を理解するためにこそ、いったんほどいてみるべきだ。運動史のディティールに立ち返って再検証し、これまでのイメージや理論を書き換えていくことが、一九六八年から半世紀以上が経過した今だからこそ、必要だと私たちは考えた。」
 確かに、パリ五月革命と呼ばれた運動の中心にいたダニエル・コーン=バンディはアナキストだった。全共闘運動が広く生起していったのは党派が主導していった部分もかなりあるが、ノンセクト学生の多くが参加したことによって、可能となったことを忘れてはならない。運動論的な視線だけでは、必ずしもすべてを捉えていくことができないのは、自明のことである。
 嶋田美子の「矛盾の枠、逆説の華――名づけようのない一九六〇年代史をめざして」は、通例の運動史的視線ではみえにくくなる思想や文化、芸術といった側面を丹念に辿っている。そのうえで、六〇年から七〇年という流れをさらにそれ以後までを透徹しているといってもいい。
 嶋田は、「現代思潮社・美学校」(六九年二月創設)の研究を通して、その前史ともいうべきことに視線を射し入れていく。六〇年安保闘争時にかたちづくられた「六月行動委員会」(吉本隆明や埴谷雄高他、美術関係の人たちが多くいたことを強調しておきたい)、その後の「後方の会」、「犯罪者同盟」そして、六二年の「自立学校」、六五年の日韓闘争時の「東京行動戦線」、六七年の一〇・八より一年前に決起した「ベトナム反戦直接行動委員会」などを照射していく。
 「笹本雅敬はその後、早稲田の学生らとベトナム反戦直接行動委員会を組織し、六七年(引用者註・嶋田の記述は間違いである。正しくは六六年である)にはベトナム反戦の直接行動として当時ベトナム向けに自動小銃を製作していた田無の日本特殊金属工業を襲撃しました。」
 このべ反委の闘いに未成年だった斎藤和が参加している。彼は、後に「東アジア反日武装戦線による日本企業爆破事件」にかかわり、七五年、逮捕時に自死した。
 最後に、嶋田は次のように結んでいく。
 「六〇年代を通底し、1968年の全共闘運動に影響を与えたのは、一握りのイデオローグや大きな政党政治の動きではなく、これらの小集団や個人による、これまでの枠を超える自由への希求、「名づけようのない人間になるための」数々の試みではなかったのではないでしょうか。(略)個々の断片が積み重なり、つながり、鳥瞰図からは見ることのできない時代のうねりを作り、地下水脈となって現在に続いているのです。」
 かつて絓秀美は、一連の六八年革命論のなかで、七〇年の華青闘による七・七集会を高く評価していたが、同時期に望見していたわたしには、まったく首肯できない見方だった。そもそも、六八年を「革命」として捉えること自体、荒唐無稽といっていい。
 山本崇記は、「運動的想像力のために――1968言説批判と〈総括〉のゆくえ」のなかで、絓の華青闘への評価の言説を一蹴する。
 「第一に、切断の思想の典型であるという点である。そして、第二に、セクト(新左翼)主義的な歴史観であるということである。(略)マイノリティが「7・7を契機として、一挙に歴史の「主体」として浮上してきた」ということは考えにくいことであり、それまで「不可視だった存在」でもなかった。」
 「切断の思想」とは、「運動的想像力を喚起しない」歴史的時間を切断した論理ということになるわけだが、それは、やがて破綻していくしかない。例示するまでもないが、小熊英二の『1968』も、まさしく「切断の思想」といっていい。
 『東大闘争の語り』(二〇一八年)を著した小杉亮子は「〝1968〟の学生運動を学びほぐす――東大闘争論の検討」と題して、「二〇〇八年前後から、(略)一八年前後までに、当事者や研究者によって刊行された東大闘争論」を取り上げて論及していく。そして、『東大闘争の語り』のなかでも提示した「予示的政治」について述べていく。
 「予示的政治とは、遠い理想や目標を設定せず、運動のなかの実践や仲間との関係性のつくりかたによって望ましい社会像を予め示そうとする運動原理である。この予示的政治への志向性は、ノンセクト・ラディカルを中心とする東大全共闘派の学生たちが、新旧左翼政党・党派の運動原理である「戦略的政治」を批判し、それとは異なる運動を追求したことから形成された。」
 運動というものは、主導者がいて、共感していく人たちが連動していくことではない。そこにひとつの関係性、つまり開かれた共同性を形成していくことが切実なことなのだ。
 本書の特集は、他に、阿部小涼「拒否する女のテクストを過剰に読むこと」、山本義隆「闘争を記憶し記録するということ」、古賀暹「『情況』前夜」(聞き手・松井隆志)がある。特集のみに触れただけだが、一号に比べてさらに重厚な一冊になったことだけは、強調しておきたいと思う。
 三号は、来年の七月刊行予定である。

(『図書新聞』20.7.4号)

 

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2020年6月13日 (土)

雨宮処凛 編著                            『ロスジェネのすべて――格差、貧困、「戦争論」』          (あけび書房刊・20.2.20)

 〝ロスジェネ〟、つまりロストジェネレーションとは、日本において、バブル経済崩壊後の就職氷河期世代のことを指し示し、七四年から八四年生まれをカテゴライズして総称している。わたしが、もっとも印象深く感じたのは、フリーターという言葉が、かつての旧左翼が好んで使用した労働者と等価な、あるいはそれ以上に拡張した意味で使われ、フリーター労組が結成されたのは、〇四年だった。〇五年から、メーデーの時期に、「自由と生存のメーデー」を始めていく。わたしは四七年から四九年に生まれたベビーブーマー世代(堺屋某が命名したダンカイと一括りするような捉え方に異議を持っているから、わたしは使用しない)の最終年生まれだが、なにか隔絶した時間の流れを思わないわけにはいかなかった。なぜならわたしたちの世代は、多様性があった。わたし自身も含めて積極的に就職しようとしなかった(あるいは、様々な事由で就職できなかったといいかえてもいい)人たちが多くいたから、就職氷河期ということに悲惨さよりなにか空しさのような思いを抱いたといっていい。
 それでも、当時わたしは、本書の編著者、雨宮処凛や対話者の一人、松本哉が様々なかたちで発信したことを鮮烈な印象を持っている。その時から、十五年以上の時間が経過した。
 本書での雨宮処凛(七五年生まれ)との対話者は、倉橋耕平(八二年生まれ、立命館大非常勤講師)、貴戸理恵(七八年生まれ、関学大准教授)、木下光生(七三年生まれ、奈良大教授)、そして松本哉(七四年生まれ、「素人の乱5号店」店主)だ。
 雨宮は、かつて右翼団体に入った後、そこから離脱し、現在を堪えず見通す立ち位置を持続させている。
「私が23歳の頃、小林よしのり氏の『(略)戦争論』(略)が出版された。/『戦争論』は、多くのロスジェネにとって「初めての政治体験」となった。そうして『戦争論』以前から小林よしのり氏の『ゴーマニズム宣言』(略)の熱心な読者だった私は、その時、右翼団体に入っていた。/ロスジェネは、もしかしたら「右傾化第一世代」ではないだろうか。」
 さらにいえば、若い世代の右傾化を象徴する言葉としてネットウヨ(ネット右翼。もちろん若い世代だけではなく、たんにネットにはまってしまった、わたしと同世代の人たちもいるだろう)があるが、そのことも、ロスジェネとリンクしていくといっていいはずだ。倉橋は次のように注目すべき発言をしている。
 「日本(=祖国)を考えること自体に自己啓発性があり、自分に喝を入れる作用もすごくある。それは、日本という国家と自己を同一化させるアイデンティティへの志向がそうさせるものだと思います。実際に90年代は、自己啓発本がブームになり始めた時期でした。」
自分と国家は絶対同一化しないと考え続けてきたわたしにとってみれば、愕然とする事態を倉橋は切開している。
 「難しいけど、一つ言えるのは、自分の中だけの問題にしないで、関係性のなかに問題を開いていってほしい。脳内で暴走しないで、実際に付き合うなかで生身の相手に触れてみてほしい。」(貴戸)、「(註・雨宮のどうしたら「自己責任」論を超えられるかという問いに対して)講演会とかで、歴史をふまえたうえで、日本社会これからどうするの?みたいな話を最後にするわけです。で、どうしても「自己責任」が大好きで、なおかつ社会を壊したくないなら、もう江戸時代に戻るしかないぞ、と言っています。」(木下)
 貴戸が述べる「関係性のなかに問題を開いてい」くということは、凄く切実なことだ。これは、「自己責任」論にも通底していく。〇四、五年頃、フリーターの孤独死(自死)を知って言葉が出なった。「貧しいのも、不安定なのも、正社員になれないのも結婚できないのも将来の見通しが立たないのもすべて自己責任。おそらく、ロスジェネはその価値観をもっとも内面化している世代だ」と雨宮は述べている。そんな皮相な自己責任という幻想は拭い払うべきだと声高に叫んでも、自死していく若い人たちには、残念ながら届かないのだ。
 「ちゃんとして生きるのは無理ですよね。うちらの世代というのは、成功してる人もいるし、困っている人もいる。あるいは本当に勝手なことをやって、金はないけどすごい自由にやっている人もいるし、いろいろいると思うんです。(略)今更ね、そんな真面目に生きようなんて考えたって意味ない。(略)適当に勝手にやって、ざまあみろって最後に言って死ぬのを目指したらいいと思うんですよね。ざまあみろって言える生き方を、皆ですれば。」(松本)
 松本は一見苛烈に述べているようだが、関係性を開きながら生きていくことをシンプルに言っているのだと思う。自分を責めて関係性を閉じていくことは、暗渠に入っていくことになるからだ。暗渠は国家や国家に準じた社会が作り上げた幻想でしかない。そういう幻想は解体すべきだと言っても、残念ながら、彼ら彼女らにはなかなか届かないかもしれないが、本書をぜひ読んで欲しいと思う。

(「図書新聞」20.6.20号)

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2020年6月 1日 (月)

吉本隆明との〈通交〉をめぐって

 詩人の清水昶は、かつて「青年期につよい影響を受けたひとに出会うのは、いまでもわたしには怖い気がする。埴谷雄高、吉本隆明、谷川雁、この三人には、わたしは会いたくなかった。(略)『鮎川信夫著作集』完結記念講演会で大それたことに司会などをやったとき吉本さんが講演した。そのときわたしはボーッとあがってしまった。吉本さんとはひとことも口を利かなかった」(『詩人の肖像』八一年刊)と述べていたことがある。わたしは、昶さんより、ひと回り後の世代だから、谷川雁からは、ほとんど影響を受けていないので、埴谷、吉本となる。埴谷さんには十代後半に初めてお会いし、その後、友人とインタビューをした。吉本さんの講演は何度も聞きに行っているし、学生時代、講演録を起こしたこともあるが、直接会って話したいと思ったことは一度もなかった。昶さんのように、「怖い」ということではなく、著作世界に接し続けるだけで充分であり、そのことに共感性を抱き続けることでいいと思っていたからだ。
 八三年頃に、吉本さんの長女で漫画家のハルノ宵子(多子)さんと親しくなり(いまでも、交流は続いている)、どうしても、多子さんに伝えなければならない用件があり、電話をして、もし吉本さんが出たらどうしようと思いながら、ダイヤルを回したところ、お母さんの和子さんが出て、ほっとしたことを思い出す。
 その後、〇五年に『秋山清著作集』(ぱる出版)の編集にかかわることになり、吉本さんに推薦文をお願いすることになった。万事休すである。電話をかけ、多子さんに取りついでいただき、初めて、声を交わす。終わってみれば、著作世界だけでと固執していたことは、けっして声高に言うべきことではなく、粛々と関係性は開いていくべきだと思うようになった。わたしの妻が、俳句を通して和子さんと手紙のやり取りをしていたこともあり、その年の吉本家の忘年会と、翌年の花見の会から二人で参加することになった。
 九六年夏、吉本さんは水難事故に遭った。奇跡的な回復後、精力的に執筆活動を続けた。わたしがお会いしたころは、足腰が大分弱くなったころではあったが、変わらず、いろいろな話ができたのは、貴重な体験をしたといま思っている。
 『秋山清著作集』[全十一巻・別巻一]が完結し、「現代詩手帖」で特集を組むことになり、巻頭に吉本さんへのインタビューを掲載することを発案し、吉本さんに快く引き受けていただいた。〇七年六月五日のことである。自宅に伺い、わたし一人で吉本さんと五時間ほど話したと思う。二人だけで会っていたことに、特に緊張することもなく、中程からは、本題から離れて様々な話題を横断するかたちで談笑したといえる。もちろん、掲載するのは、詩の雑誌なので全部を収録できなかったが、なかでも、わたしにとって深い印象を抱いた吉本さんの発言を紹介したいと思う。
 「詩のほうで二十代、三十代の人たちの作品を読むと、なんかこれから後のことを考えたりすることが、お年寄りと同じで、億劫で億劫でしょうがないという感じなんですね。(略)それなら、いい詩を書くために踏ん張ったという作品を出してくれればいいですが、そういうものもないんですね。(略)詩を考えるみたいなところで、難しいことしか言えないなら、それはそれでいいから、詩らしくしてくれと思うんですが、そういうものもない。」(「現代詩手帖」〇七年一〇月号)
 これは、詩の世界のことだけではなく、若い世代の混迷様態を切開しているといっていいと思う。
 その後、〇八年五、六月に春秋社の仕事で、『第二の敗戦期』という本を進めて、吉本さんに起こした原稿を提示したが留保されてしまった。その頃、なぜか数多くの留保された本があったようで、吉本さん逝去後、次々と刊行された。多子さんは、父が引き受けたものはすべて刊行するという判断をされて、わたし(たち)の『第二の敗戦期』は、一二年一〇月に刊行した。
 「気心の知れた友達同士で同人誌を作るみたいな感覚を持ち、三人以上いればしっかりした集団ですので、そこでいろいろなことをやってみる。つまり、ここだけはすこし自由・平等なんだという、三人ぐらいでそういうものを作っていく、ということがたくさんできていけばいいと思っています。」(『第二の敗戦期』)
 吉本さんの優しい視線は普遍性を有しているのだ。

(「トンボ 10号」20.6.15)

 

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