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2020年5月16日 (土)

つげ義春 著『つげ義春日記』                  (講談社文芸文庫、講談社刊・20.3.10)

 『つげ義春日記』は、「小説現代」誌上で、一九八三年三月号から十二月号まで断続連載(七五年十一月から八〇年九月までの日記)の後、同年十二月、講談社から刊行された。刊行当時から三十七年近い時間が経過したことになる。しかし、「沼」や、「西部田村事件」、「ねじ式」、「ゲンセンカン主人」、「夢の散歩」、「窓の手」、「別離」といった多くのつげ作品は、いまだに、〈現在性〉を有していると、わたしは捉えているから、久しぶりに装いを新たにした『つげ義春日記』(ただし、本文に訂正をした箇所がある)を眼前にして、近接な、リアルなこととして、わたしの中では奔出している。なぜなら刊行後どれぐらいの時間性が経過したかの記憶は薄れているが、突然、つげ自身の判断で絶版にしたからだ。さらに、わたしの友人・石川淳志監督が映画化を試みたが、絶版によって叶わなかったということが、強く印象に残り続けてきたという、もうひとつの時間性を持っている。
 つげ義春にとって、先行する日記に「夢日記」がある。周知のように、島尾敏雄の夢作品を契機にしているといってもいい。しかし、『つげ義春日記』は、通例、見られる日記文学のカテゴリーに入るとしても、つげ義春の表現者としての独特の視線があることを前提にして読み進めていかなければならない。始まりは、昭和五十(一九七五)年十一月一日。同月十八日深夜、正助、誕生。NHKで「紅い花」がドラマ化される。文庫版作品集(小学館、講談社、二見書房)が次々と刊行され、増刷を重ねる。しかし、妻のマキが、昭和五十二年八月、子宮癌の手術。この時期は大きなうねりのようなことが、続くわけだが、日記は書き手の個的心性の表出である以上、書き出された言語の集積は、時には変容しながら形成されていくことになる。意識的か無意識的かということではなく、つげの表現者としての資質が、そういう世界性をかたちづくっていくのだということを強調しておきたい。
 「今日も正助のうなり声で熟睡できず、子供のために生活のすべてを混乱させられるようで憎悪を覚える。そのことをマキに云うと泣き出した。」「夜「紅い花」放映。(略)出来栄えには失望。新しい技法も陳腐に思える。原作には無い戦時中の空襲場面を挿入したのは反戦思想を示し、専門家筋への受けを考慮したとの由。私の作品に反戦思想とは表現の次元がまるで違う。」「マンガで生活できなくなった忠男のことを想うと胸が傷む。忠男のマンガを評価しないマンガ界に激しい怒りを覚える。」「雨の中を、正助を抱いて三人で飯野病院まで出かけた。結果はやはり癌だった。診察室から出てくるなり、マキはその場にしゃがみ込んで泣いた。私は少し離れ正助を抱いて窓の外を通る電車を眺めていた。」「夜、入浴中、石子順造さん死亡の連絡があった。マキが電話を聞いた(享年四十八歳)。予期していたことでもあるのでとくに感慨はない。実感もない。それより一年間も病人に付添い献身的な看護を続けた石子夫人の努力には感動せずにはいられない。」「今度神経症となったのは、風邪で寝ているときいろいろな現実的な心配ごとを考え過ぎ、それが発端であったが、根源はこの漠とした(存在の不安)が原因だったのではないだろうか。」「夜、床に就いてからひどい孤独感に襲われた。深い深い、たとえようもない孤独感だ。(略)なんといったらよいのだろう。生の孤独感とでもいうのだろうか。」
 「あとがき」で、「好んで読むのは「私小説」」であり、「日記や年譜も熱心に読む」と、つげは述べている。本書は、日記ではあるが、確かに、ひとつの「私小説」というかたちの表現といってもいい。子どものうなり声に憎悪を覚えると妻に云う。妻は泣き出す。妻は自分が癌だと分かったから泣くというよりは、夫や息子のことを思えば、「しゃがみ込んで泣」くしかないのだ。私小説というものは、例えば、島尾敏雄の『死の棘』を想起してみる。つげ的に述べれば、「主観」を拡張して物語化したものだといえる。では、そもそも「主観」とは、どれほど強固なものだろうか。わたしは、「主観」や「私」という有様は絶えまなく揺れ動くものだといいたい気がする。そもそも、「主観」や「私」は、確たるものではないのだ。そのことを、誰よりも知っているからこそ、つげ義春や島尾敏雄が表出する物語は、わたし(たち)の深奥へと刻み込まれていくことになるのだ。
 だから、『つげ義春日記』が放つ「世界」は、「生の孤独感」を慰藉するために、わたし(たち)は、生きていくのだということを鮮鋭に語っているといっていいはずだ。

 【付記】わたしが、つげ義春さんと初めてお会いしたのは、本書にも記述されている昭和五十三(一九七八)年十二月二十三日の北冬書房忘年会の席上だった。秋山清さんや鈴木清順さんたちが参加。わたしは遅れて参加したのだと思う。後方に座ったら目の前がつげさんだった。「自分は酒も呑めず、緊張して物も食べられず、話もできなかった。知識人の前に出ると畏縮してコチコチになる」と本書には書かれている。つげさんが、「知識人」という時、ある種の無意識のアイロニーが含まれていると思う。どういう話をしたか、もう覚えていないが、図々しくサインをお願いしたら、快く引き受けてくれた。しかし、色紙のようなものは持ってはおらず、失礼とは思ったが、手帳の白紙の部分を切って渡し、書いてもらった。
 「眠い! つげ義春」
 つげさんは四十一歳、わたしが二十九歳の時だ。

(「図書新聞」20.5.23号)


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