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2020年5月23日 (土)

ドナルド・キーン 著                           『新潮選書 日本文学を読む・日本の面影』           (新潮社刊・20.2.24)

 ドナルド・キーンは七〇年前後に、三島由紀夫を評価するアメリカ人研究者として、その名を意識したのが、最初だったと思う。だが、わたしは三島に耽溺するほど愛読することはなかったから、キーンについても、それほど近接してこなかったといっていい。それでも、日本国籍を取得して最後の場所としてわが列島に居を構えた時は、素直に驚嘆した。そして一九年二月、九十六年の時間を閉じたわけだが、日本人以上に、〈日本的〉なるものを愛惜してやまなかった心性は、鮮鋭なものだったと、思わないわけにはいかない。
 「日本人には「ぼかし」の趣味がある。はっきりしたものより、ちょっとあいまいなものを面白がります。はっきりしたものならば意味は一つしかありません。しかし、ぼかした意味や、二つの意味にとれるような文章には、より深みがあり、より楽しみがある。」「戦争がはじまっても作家活動をやめませんでした。おそらく太平洋戦争中の四年間にもっともいい作品を書いた作家は太宰治だったでしょう。」「三島さん(引用者註・三島由紀夫)は、太宰の文学は嫌いだ、自己憐憫の文学だと何度も私に言っていました。三島さんの立場はそうでしたが、もし彼が意識的に太宰とは別の文学を目指していなかったとすれば、太宰文学と同じようなものを書いただろうと思います。」(「日本の面影」)
 「日本の面影」は、一九九二年、NHK教育テレビ「人間大学」での十三回分の講座テキストである。単行本、著作集いずれにも未収録である。最初の引用箇所は、「『徒然草』の世界――日本人の美意識」からだが、「「ぼかし」の趣味」といういい方が、文学的ではないところがいい。キーンは、文学的な視線を向けていながらも、そこに日本人像のようなイメージを潜在させているといえるような気がする。「ぼかし」は表現論としては優れたものなのかもしれないが、資質や感性といった位相をイメージすれば、「あいまい」といった負の様相を湛えてしまうからだ。さらにいえば、後段の箇所(「日本文学の特質」)で、「日本文学は〝余情の文学〟だ」と述べていくことに、それは通底していくといっていいはずだ。
 「近代の文学3――太宰と三島」から二カ所、採った。太宰治と三島由紀夫を並立させるところがいい。どちらも自死した作家といえるかもしれないが、キーンはそういうところに拘泥してはいない。三島と親しかったキーンならではの捉え方だと思う。
 集中、次のような箇所に惹かれる。「戦争中、谷崎先生は軍部に全く協力しませんでした」、「荷風は戦争には全く非協力的でした。あれほど戦争に協力しなかった日本人はほかにいなかったと思います」と述べていくキーンは、太平洋戦争開戦時、海軍の日本語学校に入学する。日本軍の書類の翻訳や、捕虜収容所の捕虜の尋問にかかわる。さらに戦地にも向かう。日本軍撤退後のアリューシャン列島のアッツ島(アナキスト詩人、秋山清の詩「白い花」によって、わたしは知った)とキスカ島、そして最後は沖縄だ。
 「日本文学を読む」は、四十九人の作家論と「現代の俳句」の項目を含む文学史的視線からの論集である。一九七一年から七七年まで雑誌「波」に連載されたものを纏めたものだ。敢えて、大岡昇平をめぐる論述を見てみたい。一九四五年三月、キーンはレイテ島の日本兵俘虜収容所へ向かった。ジープの運転手が「あいつらは仕合せだ。フィリピンのゲリラに捕まった日本兵はなかなか収容所まで着かないんだ」と言ったことに対して、キーンは次のように述べていく。
 「「仕合せだ」という気配は何処にもなかったが、私は生が死よりましだと単純に信じていたので、運転手の言葉に頷いた。俘虜の一人が大岡昇平であったことを何年か後で知った時、感無量だったが、その時は、柵の中に立っている兵士に特別の関心を示さなかった。(略)大岡の『俘虜記』を読んだ時、その頃のことが目の前に浮かんで来た。そして外国人である私は、現在の若い日本人よりも当時の大岡の心境を理解できるのではないかと思った。(略)私は人間のさまざまの醜態の中で戦争ほど嫌なものはないと信じ、心から反戦主義者であるつもりだが、戦争の体験を忘れようとはしない。(略)私が大岡の文学を読む時、戦争の犠牲者同士として感情移入できると思う。」
 このキーンの言葉は、日本人以上に、〈日本的〉なるものへ心情を仮託できることと通底していくと、わたしならいいたくなる。キーンが十八歳の時に、『源氏物語』と出会って、〈日本的〉なるものへと傾注していくが、まもなく、日米開戦となる。「大岡の文学を読む時、戦争の犠牲者同士として感情移入できる」からこそ、日本文学を通観する膂力を培っていったのかもしれないし、わたしたちが未知に思う様相に対して、共感しうる豊饒な感性を絶えず湧きたたせることができたからだといえるかもしれない。
あらためて、ドナルド・キーンの世界の広大さを思わないわけにはいかない。

(『図書新聞』20.5.30号)

 

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2020年5月16日 (土)

つげ義春 著『つげ義春日記』                  (講談社文芸文庫、講談社刊・20.3.10)

 『つげ義春日記』は、「小説現代」誌上で、一九八三年三月号から十二月号まで断続連載(七五年十一月から八〇年九月までの日記)の後、同年十二月、講談社から刊行された。刊行当時から三十七年近い時間が経過したことになる。しかし、「沼」や、「西部田村事件」、「ねじ式」、「ゲンセンカン主人」、「夢の散歩」、「窓の手」、「別離」といった多くのつげ作品は、いまだに、〈現在性〉を有していると、わたしは捉えているから、久しぶりに装いを新たにした『つげ義春日記』(ただし、本文に訂正をした箇所がある)を眼前にして、近接な、リアルなこととして、わたしの中では奔出している。なぜなら刊行後どれぐらいの時間性が経過したかの記憶は薄れているが、突然、つげ自身の判断で絶版にしたからだ。さらに、わたしの友人・石川淳志監督が映画化を試みたが、絶版によって叶わなかったということが、強く印象に残り続けてきたという、もうひとつの時間性を持っている。
 つげ義春にとって、先行する日記に「夢日記」がある。周知のように、島尾敏雄の夢作品を契機にしているといってもいい。しかし、『つげ義春日記』は、通例、見られる日記文学のカテゴリーに入るとしても、つげ義春の表現者としての独特の視線があることを前提にして読み進めていかなければならない。始まりは、昭和五十(一九七五)年十一月一日。同月十八日深夜、正助、誕生。NHKで「紅い花」がドラマ化される。文庫版作品集(小学館、講談社、二見書房)が次々と刊行され、増刷を重ねる。しかし、妻のマキが、昭和五十二年八月、子宮癌の手術。この時期は大きなうねりのようなことが、続くわけだが、日記は書き手の個的心性の表出である以上、書き出された言語の集積は、時には変容しながら形成されていくことになる。意識的か無意識的かということではなく、つげの表現者としての資質が、そういう世界性をかたちづくっていくのだということを強調しておきたい。
 「今日も正助のうなり声で熟睡できず、子供のために生活のすべてを混乱させられるようで憎悪を覚える。そのことをマキに云うと泣き出した。」「夜「紅い花」放映。(略)出来栄えには失望。新しい技法も陳腐に思える。原作には無い戦時中の空襲場面を挿入したのは反戦思想を示し、専門家筋への受けを考慮したとの由。私の作品に反戦思想とは表現の次元がまるで違う。」「マンガで生活できなくなった忠男のことを想うと胸が傷む。忠男のマンガを評価しないマンガ界に激しい怒りを覚える。」「雨の中を、正助を抱いて三人で飯野病院まで出かけた。結果はやはり癌だった。診察室から出てくるなり、マキはその場にしゃがみ込んで泣いた。私は少し離れ正助を抱いて窓の外を通る電車を眺めていた。」「夜、入浴中、石子順造さん死亡の連絡があった。マキが電話を聞いた(享年四十八歳)。予期していたことでもあるのでとくに感慨はない。実感もない。それより一年間も病人に付添い献身的な看護を続けた石子夫人の努力には感動せずにはいられない。」「今度神経症となったのは、風邪で寝ているときいろいろな現実的な心配ごとを考え過ぎ、それが発端であったが、根源はこの漠とした(存在の不安)が原因だったのではないだろうか。」「夜、床に就いてからひどい孤独感に襲われた。深い深い、たとえようもない孤独感だ。(略)なんといったらよいのだろう。生の孤独感とでもいうのだろうか。」
 「あとがき」で、「好んで読むのは「私小説」」であり、「日記や年譜も熱心に読む」と、つげは述べている。本書は、日記ではあるが、確かに、ひとつの「私小説」というかたちの表現といってもいい。子どものうなり声に憎悪を覚えると妻に云う。妻は泣き出す。妻は自分が癌だと分かったから泣くというよりは、夫や息子のことを思えば、「しゃがみ込んで泣」くしかないのだ。私小説というものは、例えば、島尾敏雄の『死の棘』を想起してみる。つげ的に述べれば、「主観」を拡張して物語化したものだといえる。では、そもそも「主観」とは、どれほど強固なものだろうか。わたしは、「主観」や「私」という有様は絶えまなく揺れ動くものだといいたい気がする。そもそも、「主観」や「私」は、確たるものではないのだ。そのことを、誰よりも知っているからこそ、つげ義春や島尾敏雄が表出する物語は、わたし(たち)の深奥へと刻み込まれていくことになるのだ。
 だから、『つげ義春日記』が放つ「世界」は、「生の孤独感」を慰藉するために、わたし(たち)は、生きていくのだということを鮮鋭に語っているといっていいはずだ。

 【付記】わたしが、つげ義春さんと初めてお会いしたのは、本書にも記述されている昭和五十三(一九七八)年十二月二十三日の北冬書房忘年会の席上だった。秋山清さんや鈴木清順さんたちが参加。わたしは遅れて参加したのだと思う。後方に座ったら目の前がつげさんだった。「自分は酒も呑めず、緊張して物も食べられず、話もできなかった。知識人の前に出ると畏縮してコチコチになる」と本書には書かれている。つげさんが、「知識人」という時、ある種の無意識のアイロニーが含まれていると思う。どういう話をしたか、もう覚えていないが、図々しくサインをお願いしたら、快く引き受けてくれた。しかし、色紙のようなものは持ってはおらず、失礼とは思ったが、手帳の白紙の部分を切って渡し、書いてもらった。
 「眠い! つげ義春」
 つげさんは四十一歳、わたしが二十九歳の時だ。

(「図書新聞」20.5.23号)


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