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2019年9月 7日 (土)

吉本隆明 著『ふたりの村上――村上春樹・村上龍論集成』( 論創社刊・19.7.10)

 吉本隆明の仕事の軌跡を望見してみる時、雑誌「作品」に連載された文芸時評を『空虚としての主題』(八二年刊)として、わたしたちの眼前に提示された時から、「現在」という視線を起点に多様な方位を切開していく批評を濃密に持続させていったといっていい。そして『マス・イメージ論』(八四年刊)から、『新・書物の解体学』(九二年刊)、『ハイ・イメージ論』(全三巻・八九年~九四年刊)によってそのことはさらに結実していくわけだが、作家論、作品論の中心は、村上春樹と村上龍というふたりの村上の表現世界であった。
 村上春樹は、七九年、群像新人文学賞受賞作『風の歌を聴け』が最初の作品で、以後、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』と続く。わたしは、村上龍よりは、村上春樹の方を比較的読んだと思うが、初期の三作品は、リアルタイムではなく数年経過してからだった。
 村上龍は七六年、『限りなく透明に近いブルー』で群像新人文学賞、そして芥川賞を受賞。作品は、大きな話題を呼んだが、数年後、わたしは読んでみたが途中で挫折した。わたしにとって村上龍は、エッセイやインタビュアー(例えばテレビ番組の「カンブリア宮殿」など)の仕事の方に魅力を感じる。
 わたしは、村上春樹の長編小説は、『羊をめぐる冒険』と『スプートニクの恋人』以外、あまり共感した記憶はない。むしろ中編的な作品や短編的作品に魅力を感じる。なかでも短編集『螢・納屋を焼く・その他の短編』(八四年刊)は最も感応した作品集だと言っておきたい。その、「螢」という作品に関して、吉本は次のように、わたしたちを誘っていく。
 「それは根源的にいえば「腕」とか「温もり」とかいう言葉が〈依るべき男の腕〉とか、もたれあっているときの〈体温の温もりの感覚〉とかのフィジカルな「概念」だけではなく、〈依るべき本体〉とか〈温かい親愛〉のような、いわば生命の像ともいうべきものをふくんでいるからだ。この生命の像ともいうべきものの姿は、言葉の「概念」に対応する[意味]によって喚起される像ではなくて、[意味]にむかって直交する「概念」のなかに折り畳まれた生命の糸が、「概念」から融けだすことで得られるのだ。(略)この生命の重畳量の豊富さが、とりもなおさず作品の頂点をつくっている。それがこの「螢」という作品をいいものにしているおおきなわけになっている。」
 概念と像[イメージ]を折り重ねるように「螢」論を展開していく吉本は、「生命の像」ということを抽出していく。「生命の糸」、「生命の重畳量の豊富さ」といういい方も含めて、吉本の「螢」論は、わたしに、大きな像[イメージ]を喚起してくれたといえる。
 村上龍の『走れ! タカハシ』をめぐっては、次のように切開していく。
 「話体が走る速さは、太宰治に酷似している。もっと具象的な像をふくんだうえでいいなおすと、走行する歩幅(対象撰択力)と繰り出す速さ(流力)とが似ていて、散文話体としては極限にちかい速さをつくりあげているといえる。ではどこが異っているのか。太宰治の文体が屈曲によって像をつくりだしているとすれば、村上龍の文体は展伸のところで像をつくりだしている。(略)太宰治の成熟期の作品の話体は、屈折を折りかさねることによって回帰する場所の所在を暗示しているのだが、村上龍の作品は話体が意図的にも無意識的にも屈折を拒否しているために、走ってゆく行方を指示しないままに、どこまでも延びてゆくことだ。いわば欠如としての空虚ではなく、この過剰としての空虚ともいうべきものが村上龍のおおきな現在的な意味でもあり、また謎だともいえる。(略)そしてこれが、文学の新世代がもたらしてきた新しい未知、わたしたちの現代文学ではかつてなかった未知のようにおもわれる。」
 「欠如としての空虚ではなく、この過剰としての空虚」というものを、「村上龍のおおきな現在的な意味」だとする吉本の村上龍論の確信は、『マス・イメージ論』、『ハイ・イメージ論』という大きな達成に照応していくといっていい。
 本書の成立に関して述べておきたい。八六年九月、大和書房から『吉本隆明全集撰』(全七巻・別巻一)が刊行された。「『全集撰』は過去の吉本著作とはいささか性質のちがう異例の刊行物である。(略)全体の構成や採択をも意図的に自らに課し、(略)シリーズ全体が、吉本氏の一篇の著作と言えないこともないほどの緊密性、有機的な統一性に貫徹されるのではないかと期待される」と第一巻の「解題」で川上春雄は述べている。しかし、第二巻『文学』と別巻が未刊のまま中断した状態となってしまった。本書で全集撰の担当編集者だった小川哲生が次のように述べている。
 「第二巻『文学』の巻には「ふたりの村上」という書き下ろし稿一五〇枚が収録される予定となっていた。(略)しかし、予定通りには脱稿に至らず、またそれと並行してわたしが個人的な事情から大和書房を退職したため、結果として全集撰の企画自体が結局中断のやむなきに至ったという事情があった。」(「編集後記にかえて」)
 長年、『吉本隆明資料集』を発行し続けてきた松岡祥男(本書では「解説」を執筆)の勧めで、『ふたりの村上』がこのようなかたち(十六年間で執筆された二〇篇の論稿を収録)で実現したことになる。
 近年の、村上春樹の長編作品が衰退した物語性を表出していることを思えば、『ねじまき鳥クロニクル』や『アンダーグラウンド』に対する根底的な批判を加えて本書を閉じているのは、〈予兆〉を孕んでいたというべきかもしれない。

(『図書新聞』19.9.14号)

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