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2019年9月25日 (水)

吉本隆明・北川太一、そして光太郎へ

 吉本隆明は私家版詩集(『固有時との対話』、『転位のための十篇』)の後、武井昭夫との共著『文学者の戦争責任』(五六年九月)を刊行する。集中、巻頭に配置されたのが「高村光太郎ノート―戦争期について―」であった。翌年七月、初めての単著『高村光太郎』を飯塚書店から上梓する。この著作は「この国で高村光太郎について書かれた、最初の単行本」(北川太一)であった。さらにその翌年十月、五月書房版が、六六年二月、『決定版』が春秋社から、そして七〇年八月、同じく春秋社から『増補決定版』が刊行されてくというように、吉本の高村光太郎論の書籍のかたちでの足跡を辿ることができる。
 わたしにとって、高村光太郎とのはじまりは彫刻家であった。小学生時代、光太郎の最後の彫像作品となった十和田湖の乙女の像を見ている。詩作品に初めて接したのは、中学一年生の時だった。自分で意識して接したわけではない。担任の教師が、黒板の上方に額に入れ「道程」の一篇を掲示したのだ。漫画(劇画)しか読まなかったわたしにとって、残念ながら毎日見る光太郎の詩は退屈な言葉としか受け取れなかったといっていい。『智恵子抄』の詩人だったことに繋がったのは、それから数年は経ている。
 吉本の著作は高校生の時に、江藤淳の論稿を読みたいため、購入した『われらの文学 22』(六六年、講談社刊)で初めて知ったことになる。その後、六十年代後半から、吉本の著書のほとんどすべてに随伴していった。
 わたしは、戦争期の光太郎の詩群を切開していく吉本や、「暗愚小伝」に鋭く切りこむ秋山清に対して、異論はないものの、そこから滲み出てくるものは、光太郎の孤絶感ではなかったのかと思わないではない。父光雲との潜在する確執、そしてその死、妻智恵子の死を経ての、戦争期から戦後の時空は、光太郎にとって悲痛の日々だったはずだが、むしろ自らの立ち位置を徹底していくことだったといっていい。吉本の『高村光太郎』はそのようなことを濃密に放射していったといえる。
 何十年も前に、花巻の高村山荘を訪れて思ったことは、まさしく「暗愚」ということの不可思議さが想起されたことだった。敗戦時、二十代前半の年齢だった吉本、北川太一に導かれるように光太郎の世界を理解したつもりであったが、どうしても賢治や啄木とは違って、光太郎の紡ぐ詩群との間隙には埋めようもできない深い暗渠があることに、わたしは諦念のような思いを抑えることができないでいた。
 「昭和二十年四月、智恵子と共に半生を生きた思い出深いアトリエは、空襲によって炎上する。六十二歳、寡にして孤。彫刻刀と一束の詩稿の他、一切を失った光太郎は、彫刻の材を求めてする東北放浪を夢み、さそいによって、岩手県花巻の宮沢清六方にうつる。肺炎臥床。東北の人と自然の中で回復する光太郎に再び戦災。そして終戦がくる。(略)光太郎を取巻くのは、北方の美しくもまた厳しい自然のみではない。/その一つは戦時の行動への、さまざまな形での弾劾である。(略)光太郎は書く。『小生の戦時中の詩について摘発云々の事はいささかも驚きません。……小生の詩は多くの戦争によつて触発された人間美をうたつたものですが此際釈明などしたくもありません。若し招喚などうけるやうな事があつたら、語るべき事を語る機会を得たやうなもので、それも亦可なりと存ぜられます。』(佐藤隆房宛)」(北川太一「評伝 高村光太郎」)
 光太郎は自らの理に反して戦争詩を書いたわけではなかった。だから、「摘発云々の事はいささかも驚きません」と述べ、「小生の詩は多くの戦争によつて触発された人間美をうたつたもの」だと強調していく。吉本は、そのような光太郎の揺るぎない表明を、例えば、戦後に書かれた、「死はいつでもそこにあつた/死の恐怖からわたし自身を救ふために/『必死の時』を必死になつて私は書いた。/その詩を戦地の同胞がよんだ。/人はそれをよんで死に立ち向つた。」(「我が志をみて人死に就けり」)を引きながら、次のように述べていく。
 「戦後、高村をほんとうに苦しめたのは、天皇(制)の問題と、このじぶんの詩をよんで人は死んでいったという問題だけであった。天皇(制)の問題は高村を駆りたてて、青年期にあれほどまで反抗した庶民的な家の情感のなかにひっぱってゆき庶民的な天皇尊崇をうけいれさせた原動力の問題であった。(略)たしかに、二年余をついやして高村は天皇(制)の重圧を意識のそとに追い払ったが、けっして意識のなかで扼殺したのではなかった。天皇(制)に戦争責任はなく、天皇(制)の名をかりて、残虐をおこない、侵略をおこなった官僚権力、軍隊に責任があるというところに社会問題は転化されたのである。高村は、自分の意識のなかをおおった天皇にたいして自省をくわえずに、天皇を担いだ自己意識の退化に批判をくわえておわった。」(『高村光太郎』)
 わたしは、いま、明仁から浩宮(徳仁)へ譲位され、改元も行われた現在、光太郎の戦争期から戦後期への心象は、なにかということが、沸々と湧き出てくることに、悲哀の思いしか感じられない。天皇及び天皇制は空虚なものだということが、どうしてわからないのだろうかといいたくなる。なにもない、なんの意味もないものが、この国の王制の核心なのだ。そこには神なんかではない人間の天皇がいるだけだ。だから、官僚権力、軍隊と同じ様に戦争責任があるのは自明のことなのだ。
 高村光太郎にとって、父光雲がもう一人の天皇であったことが悲運だったのだと思う。

(『トンボの眼玉』No.9---19.9.20)

 

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