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2019年8月10日 (土)

追悼・梶井純

 梶井純(本名・長津忠)さんが、七月二三日午前三時、虚血性心疾患で急逝された。七八歳。梶井さんとわたしが初めてお会いしたのは、権藤晋(高野慎三)さんが紹介するかたちで歓談した時で、七一年頃だったと思う。梶井、権藤両氏が、石子順造さんと菊地浅次郎(山根貞男)さんとともに、漫画評論誌『漫画主義』を創刊されたのは、六七年だったから、梶井純という名前は、ある種の憧憬感を抱いていたが、太平出版社の編集者の長津忠さんにたいしては、わたしが『性の思想』(六九年刊)、『われらの内なる反国家』(七〇年刊)を既に購読していて、たぶん、そのことを話したような記憶がある。わたしが二十代前半、梶井さんは三〇歳前後の頃になる。
 漫画評論家としての梶井さんは、貸本マンガ(『戦後の貸本文化』・七九年刊)と戦時下マンガ(『執れ、膺懲の銃とペン 戦時下マンガ史ノート』・九九年刊)に関心の方位が向けられてきた。一方で、骨董趣味があり、『骨董紀行』(九二年刊)、『骨董遊行』(九六年刊)の二冊の著書がある。そういえば、梶井さんから骨董について、いろいろ教えてもらったことを思い出す。また、『トキワ荘の時代 寺田ヒロオのまんが道』(九三年刊)という著書が、近々、文庫化の予定で進行中だった。
 つげ義春編『山野記』(八九年刊)に、梶井さんは「古董旅日記」を、わたしは、「高遠行」という論稿を寄せたのだが、梶井さんに、わたしと君の論稿が趣旨から外れるのではないかとつげさんは心配していると思うよと言われて、確かにそうだなあと考えてしまったが、刊行後、特に厳しいことをつげさんから言われることなく、ほっとしたことを今でも覚えている。ちなみに、梶井さんの論稿のなかに、わたしが撮った近江八幡の「家並」と「掘割」の二枚の写真が使われている。
 九九年、権藤晋、三宅秀典、三宅政吉、ちだ・きよし、吉備能人(この筆名は、梶井さんが考えたものだ)諸氏と「貸本マンガ史研究会」を設立。会誌『貸本マンガ史研究』を発行。わたしは会誌には、何度も寄稿させていただいた。近年は、アナキスト詩人・秋山清さんを偲ぶ「コスモス忌」でお会いする機会が多かった。だんだん、足腰に不安があり、奥さんのサトノさんとの同伴が多かったけれど、ここ二年ほどは欠席が続いていた。
 梶井さんは、『秋山清著作集』の「月報」に次のような文章を書かれている。
 「秋山さんは、かけ出しの編集者だったわたしたちにやさしかったように、無知なわかものには、だれにでも心やさしかったのではないか。しかし、いまでは秋山さんを知るわたしたちにはわかっている。そんな秋山さんのやさしさが秘めていたものが、慄然とするような思想的なきびしさを同伴するものであったにちがいないことを。」
 秋山さんをこの文章の書き手の梶井さんに置き換えてみれば、なんの異和感がないことに気づいてしまう。やさしさのなかに、「慄然とするような思想的なきびしさを同伴」していた梶井純(長津忠)さんが、いま、鮮明に浮かび上がってくる。

(『図書新聞』19.8.17号)

 

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2019年8月 5日 (月)

開かれた思考が伝わってくる

 情況誌、思想誌というものが、ほとんど見かけることがなくなったここ数年、いや十年近い時間性を見通してもいいかもしれないが、16年2月創刊の『フラタニティ』は、意欲的に情況的なるものに対峙し続けている。わたしが関わってきた『アナキズム』は、15年5月発行以降休眠中である。『フラタニティ』は創刊以降、季刊ペースを維持して、切実なる情況に視線を投射してきたことを、わたしは驚嘆しながら望見してきたことになる。第14号の、「特集:沖縄を自分の問題として考える」は、表題に感心した。沖縄が置かれている情況や政治的、思想的、歴史的な事象に関して、政治的な運動体の方向性に制約される立場ではなく、まず、自分自身の問題として捉えていくということを、最も切実なことと思うからだ。ひとつだけ例示してみれば、次のようなことだ。
 公明党が自民党と連立政権を組んで二十年になる。それは、かつて非自民の細川連立政権の一角を担っていた公明党とは、まったく別様の政治政党に変容したこと示している。第二次安倍政権になって、皮相な九条改憲を進めることに加担していることを、もはやなんの痛痒も感じないまま、ついには、沖縄の人たちを見放している創価学会=公明党の罪過は大きい。だから、創価学会員の野原義正氏の「三色旗を掲げデニー勝利に貢献」の寄稿は、様々なことを伝えてくれたといっていい。
 わたしたちは、そもそもイデオロギーや考え方、信の有様で生きているわけではない。もちろん、様々な指針の契機として綱領的な思考を根拠にすることを否定はしない。しかし、人と人との関係性は、僅かな重なりでも繋がることができることを忘れてはならない。個々は、みな共通の考え方を確認できるとしても、百パーセント同じことはありえないということを前提にすべきだ。多様な考え方のなかで、繋がることを模索することは切実なことではないかと、わたしなら思う。だから関係性は閉じてはならない、開いていくべきなのだ。『フラタニティ』をみればわかる。多様な考え方に開いていることを。

(『季刊 フラタニティ』No.15---2019.8)

 

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2019年8月 3日 (土)

坂本俊夫 著『おてんとうさんに申し訳ない 菅原文太伝』  (現代書館刊・19.5.20)

 俳優・菅原文太(一九三三~二〇一四)は、その最後の場所も含めて、わたしにとって最も大きな存在としてあり続けている。わたしが十代後半の時、つまり六十年代後半から七十年代にかけて、情況的なるものに切迫しながらも、東映の任俠映画(それ以前の股旅映画や日活の清順映画は再映で観ている)をリアルタイムで観て共感していた。そして、当然のごとく高倉健、鶴田浩二、そして藤純子の有様に魅せられてもいた。だが、七〇年三月に封切られた『緋牡丹博徒 お竜参上』(監督・加藤泰)での、青山常次郎役の菅原文太は、静謐ながらも、鮮烈に今戸橋の上でお竜(藤純子)に語りかけていく姿が、わたしには強く刻まれてしまったといっていい。
「やはり川はあるんですよ。クニです。北上川という川に。その川上の貧しい小さな村です。山も見えるんですよ。岩手山が。その山の見える林の陰の墓地におやじとおふくろが眠っているんですよ。」
 妹の亡骸をそこに埋葬するために、クニ(故郷)へ帰る青山とお竜の別れのシーンは、ひとつのラブシーンではあるが、わたしには、俳優・菅原文太の静かなる宣明とも思えた。そこでは、宮城県出身の菅原文太が東北へと視線を馳せるイメージを秋田県出身のわたしが共振していったからかもしれない。この青山の役は、高倉健にも鶴田浩二にもできない。菅原文太だからこそできるのだ。高倉健の二歳年下の菅原文太が以後、任俠、実録といったジャンル(境界)、さらには硬質、破天荒といった固定化された役柄を無化していくかのように、東映映画の秀作群を牽引していったとわたしは捉えている。
 本書では、『緋牡丹博徒 お竜参上』について、「『ぼく自身は、ひとがいうほど残っていない』と振り返る。『菅原文太が菅原文太として生きていないという感じが、いまだにぼくはしている』というのだ」と記述されていく。もちろん、あの役は思い入れのある役だったなどと語ったら、それは俳優としての有様を否定することになる。加藤泰作品の初出演は、『男の顔は履歴書』(松竹・六六年)の朝鮮人ヤクザの役で、静謐さとは程遠い役柄だった。加藤泰、最後の劇映画作品『炎のごとく』(東宝・八一年)の主役は菅原文太である。
 本書によれば、菅原文太にとって「印象深い作品」として、『現代やくざ 血桜三兄弟』(監督・中島貞夫、七一年)を挙げている。
 「『現代やくざ 血桜三兄弟』では、単なる演じ手としてだけでなく、程度はわからないが、意見を言って内容に関わることができた。中島とそういう関係ができていて、文太はそのような映画づくりに意欲を示していたのだった。だから、『緋牡丹博徒 お竜参上』では関わったという感が薄かったのである。」
 深作欣二は三歳上、鈴木則文とは同年、中島貞夫は一歳下ということで、同志的な連携が可能だったといえる。わたしは、中島貞夫との作品なら、『木枯し紋次郎』、『木枯し紋次郎 関わりござんせん』(七二年)と『総長の首』(七九年)を挙げたい。
 本書では、父親の事がかなり詳しく書かれていて、私には、未知のことが多かった。母親のことも含めて、妹の事にもう少し触れてくれればと思わないではない。しかし俳優・菅原文太の足跡が、さまざまな資料を丹念に辿りながら、見事な〈像〉を描出していく。
 本書の中で、最も印象深いのは松竹時代のことで次のように記述している箇所だ。
 「暇なときは、よく動物園に足を運んだ。『孤独をまぎらわすために檻の中のチンパンジーやライオン、クマなどを見ては独り言を言っていた』のである。/檻の中にいる動物たちを見ながら、文太は、『こいつらは一生、檻の中で生きるのか。その点、オレは幸福だ。まだまだ自由があるな』。それに比べると、『人間の孤独感なんかたいしたことないな』と思って、孤独感から立ち直っていた。」
 もちろん、本当に孤独感から解放されることは、難しい。それでも、そこで立ち止まるのではなく、少しでも歩を進めることは意味がある。動物たちに比べたら、「人間の孤独感なんかたいしたことないな」と思う菅原文太の方位に、わたしは共感する。人間も動物も孤独な生き物だ。だが、少しだけ違うことは、大きな群れ(関係性)でなくても、小さな群れ(関係性)で、慰藉されるのが、人と人の関係性といえるからだ。
 「文太が言う『おてんとうさん』は、『お天道様が見ている』で使われるようなすべてを見通す存在という意味も込められているかもしれないが、楽なことだけを、自分の楽しみだけを安穏と生きていったら、これまで有形無形に世話になってきた、任俠映画風に言えば、『世間のみなさんに申し訳ない』、あるいは、今日まで生かしてくれた社会に対して、何かしなければ申し訳ないという思いが、文太にはあったのだろう。」
 著者は、そう述べながら、「『おてんとうさん』は、まず『世間の人』なの」だと述べていく。わたしたちが、自分自身も含めて大衆とか民衆と見做しているものは、茫漠としている。「世間の人」もそういうことになるかもしれない。だから菅原文太の視線の先にあるのは、クニ(国家)ではなく、クニ(故郷=共同体)だと思う。沖縄の人たちにとって、本当のクニ(故郷=共同体)を手にするために、最後まで菅原文太が随伴したのは、青山常次郎の故郷への思いと通底していくのではないのかとわたしなら思いたい。

(『図書新聞』19.8.10号)

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