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2019年5月 1日 (水)

映画『金子文子と朴烈』の世界

 ほんとうは、「文子と朴烈の世界」という表題にすべきかも知れない。映画作品は入り口であって、その先に過去と現在を結ぶ混沌とした世界があるからだ。だが、映画の金子文子(チェ・ヒソ)は、鮮烈に立っていた。まずそのことから、言葉を対置しなければならないと思いはじめている。
 「私はいつもあなたについています。決してあなたを病気なんかで苦しませはしません。死ぬるなら一緒に死にましょう。私達は共に生きて共に死にましょう」と心の中の熱い思いを記して、文子は獄中手記『何が私をこうさせたか』を閉じている。文子の〈死〉が、〈自死〉なのか〈圧殺〉なのかどうかを確定させる確かな根拠はない。しかし、「死ぬるなら一緒に死にましょう。私達は共に生きて共に死にましょう」という強い共感性は揺らぐことはなかったに違いない。囚われて以後、天皇制という権力の様態と激しく闘った文子と朴烈の共闘は、対なる関係性に象徴させながら、映画の世界で見事に表出させていく。
 監督のイ・ジュンイクは、映画『アナーキスト』(監督:ユ・ヨンシク、脚本:パク・チャヌク、主演:チャン・ドンゴン、二〇〇〇年・韓国)のプロデューサーだった。その映画は、一九二四年の上海が映画の場所だったが、二二年から二六年の東京がこの映画の場所となる。前作、『空と風と星の詩人~尹東柱の生涯~』(一六年・韓国)は、戦時下の日本で獄死する詩人の有様を、静謐な抒情詩を全篇に渡って援用しながら、見事に描出していった。
 「アナキズムという言葉は、韓国ではタブー視されてきました。共産主義と混同もされてきましたし、『無政府主義』と訳されることで暴力的なものと思われていました。(略)実際に韓国人の政治や権力にたいする志向性をみると、アナキズム的な思考があります。最近のキャンドルデモなんかをみても、アナキズム的な集団行動なんですよね。日本には天皇制が存在するということもあり、比較的、権力にたいする尊重意識や服従をよしとする傾向があるように思いますが、韓国では絶対権力を否定しようとする気質がとても強いです。今後も朴烈や金子文子のようなアナキズム的表現や発想は繰り返されていくのではないでしょうか。」(『キネマ旬報』一九年三月上旬特別号)
 イ・ジュンイク監督の「日本には天皇制が存在するということもあり、比較的、権力にたいする尊重意識や服従をよしとする傾向がある」という指摘は、間違ってはいない。ここ数年に渡った茶番劇(アキヒトの譲位表明とアベの暴走)は、クライマックスを迎えるが、わたしには、なんの感慨も湧いてこない。茶番劇は茶番でしかないからだ。文子と朴烈の対なる関係性が向かう先は、ただひたすら共同性を開いていくことにある。怪写真として見做されている二人の寄り添う写真を敢えて頻出させながら、強固な日朝(日韓)の境界性のみならず、ヤマトという擬似国家体制をも無化させていく映画の力を胚胎させている。微細な部分を重視しながら、事実とは違うといったことを語る方法を、わたしは採らない。震災時、ラジオ放送はなかったから、この映画に隘路があるといえないと思う。
 チェ・ヒソが演じた金子文子は、確かに金子文子だったといっておきたい。
※『金子文子と朴烈』(原題『朴烈』、一七年、韓国)。

(『アナキズム文献センター通信 第47号』19.5.1)

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