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2019年4月30日 (火)

追悼・うらたじゅん

 うらたじゅんさんが二月七日に亡くなったことを、八日朝、ご主人からの電話で知った。もちろん、この時、ご主人と初めて話したことになる。
 〇二年二月、「胃潰瘍だと軽く考えていたら、胃ガン」だった。八月、「十七年間一緒に暮らした」猫のミルキイが亡くなる。うらたじゅんさんは、十七年間、癌との闘いだった。想像を超えている。言葉を記すことができない。
 うらたじゅんさんとは、九八年に三作品(「冬紳士」―『幻燈 1号』、「思い出のおっちゃん」―『ガロ』4月号、「天王寺夏絵日記」―『ガロ』7月号)に出会ったのが、始まりだった。最初の作品集は、『眞夏の夜の二十面相』(北冬書房・〇三年)である。うらたさんとは、何度も会ってきた。
 『アナキズム』誌には、三作品、発表している。「うわばみのおキヨ」(六号、〇五年六月)は、つげ義春さんが絶賛した。「こんにちは赤ちゃん」(十二号、〇九年八月)、そして、「バクーニンとノーブラ女」(十九号、一五年五月)である。山田勇男監督『シュトルム・ウント・ドランクッ』(一三年)にも映画出演をしている。十四年に会ったのが、最後だったかもしれない。その時に、バクーニン特集を『アナキズム』誌でやるので、作品をお願いしたはずだ。
 『眞夏の夜の二十面相』評をはじめ、作品評は、「図書新聞」紙上で行ってきた。うらたさんからは、俳句作品を掲載した作品集やいろいろな作品を掲載したものを贈っていただいている。どんな会話をしたのか、どんなふうに接してきたのか、明確にいえないまま、この文章を書いている。お嬢さんがいて、子どもが生まれ、おばあさんなったことは、「道草日記」(Web上の公開日誌)で知ることになるが、ご主人のことを含め、東京で会っている時は、何も聞いてこなかったように思う。わたし(たち)は、うらたじゅんさんと会ってきたことになるが、浦田純子さんとは会っていない。一九五四年一月四日、NHKラジオで「紅孔雀」の放送を開始。「第五福竜丸」が三月一日、ビキニ水爆実験で被爆。九月、武内つなよし「赤胴鈴之介」の連載開始。うらたじゅん(浦田純子)さんは、十一月六日に生まれた。

(『アナキズム文献センター通信』第47号―19.5.1)

 

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2019年4月15日 (月)

日本アナキズム運動人名事典編集委員会 編       『【増補改訂】日本アナキズム運動人名事典』        (ぱる出版刊・19.4.20)

 十五年前に『日本アナキズム運動人名事典』が刊行された時、わたしには不思議な感慨を抑えることができなかったといっていい。それは、なぜこの時点で人名事典なのかということが、なかなかリアルなこととして了解できなかったもどかしさがあったからだ。
 前年の〇三年九月、大杉栄・伊藤野枝虐殺から八十年が経過したことへのイベント企画として「S16 - Reclaim the Life〈生の奪還〉─1923年大杉栄ら虐殺と今をめぐって─」が行われた。わたしは、わずかばかり関わっただけだったが、若い世代とのあらたな連携でなされたことに大きな刺激を受けたことを忘れないでいる。これは、〈アナキズム〉という思考の有様がイデオロギーや運動を推し進めていくための理念としてあったものから、もっと自在に、多様に受けとめていくことを可能にしていく方途を開いていったことを示していたといっていい。もちろん、情況的な背景としては、イラク反戦の渦動が大きなかたちで投射していたことも確かであった。
 「S16」に参集したメンバーと旧版『人名事典』の編集委員、執筆者が重なっていたのはいうまでもないが、“日本アナキズム運動”というカテゴライズに、いうなれば楔が撃ち込まれたことが大きな意味を持っていたというべきかもしれない。つまり、反体制といった曖昧な前提の揺らぎに対して、明確な立ち位置と意思表示をもって、対抗・抵抗の視線を射し入れていくというものだったということになる。
 人名事典というものは、本来、一人一人の顔や声や生き方の表象としてあるものを示してくれるはずである。あるいは動態としての人名が読み手に切迫してくることだといい換えてもいい。そういうことが、無意識のなかで、強いてきた事象が人名事典というものだったのだが、十五年前の旧版は、直截に鮮烈な印象を与えてくれたのは確かだったといっていいはずだ。
 そして増補改訂版が、十五年の時間を経て、いま刊行された。それは、これまでの時間性以上に難渋な様相を絶えず強いられてきたといっていいかもしれない。例えば、旧版が、「近代日本の民衆運動に大きな影響を与えた社会運動家や自由思想家、また台湾、朝鮮、中国などの活動家をも取り上げる」という「基礎情報を重視する立場を貫いた」(「増補改訂版刊行にあたって」)ことの意味は大きい。そしてバクーニンと安藤昌益が同等に扱われるといったことに、ある種の鮮鋭さはあったとしても、あるいは、まだ存命であった水木しげるが採り上げられるという画期性はあったとしても、それが本来的な意味での画期性とは違うという印象を与えたといってもいい。
 だからこそ改訂も大事な作業ではあったが、増補の重要性はなによりも切実なものとなったといえるし、約三千名から六千余名に増えたことは大きな意味を持つにいたったことになる。
 そのなかでも、多くの俳句表現者が採り上げられているのは異彩を放っている。もちろん、和田久太郎という存在は、わたし(たち)にとって大きな有様だが、俳句表現者として見做す時、幾らか角度が違ってくるといわざるをえない。だから、西東三鬼、鈴木六林男、高柳重信、富澤赤黄男、永田耕衣、平畑静塔といった俳句表現者たちを採り上げていくこの事典は極めて特異である。
 「57年『高柳重信作品集 黒彌撤』(琅玕洞)を刊行。この『序にかへて』で富澤赤黄男は『高柳重信の精神』はアナキズム的な『反抗と否定の精神』であると指摘した。(略)この『黒彌撤』の『黒』には23年1月に創刊された『赤と黒』をはじめ『黒色文芸』などに繋がるアナキズムの思想が認められる。(略)第一評論集『俳句評論 バベルの塔』(略)の巻頭の評論『敗北の詩』(略)では高柳は俳句を『敗北の詩』と呼び、俳句作家を『反社会的な』存在と捉える。そこには24歳のアナキスト・高柳重信の姿が『虚無的な教条の光芒の中』ではっきりと描かれている。」(「高柳重信」―平辰彦)
 わたし自身も重信俳句の世界に共感してきたつもりだったが、ここまでアナキズム的様相を色濃く見通すことができなかったといっていい。
 わたしは、一人の建築家に惹かれる。
 「64年『文明と建築』においてアナキズムへの関心を初めて表明、翌65年東京海上火災本社ビルの設計に際し美観論争が生じ、都および建設省との抗争は以後10年に及ぶ。68年に生じた大学闘争に深く関心を寄せ『孤立を恐れず、連帯を求める』に深く共感するとともに日大の自主講座に講師として参加した。日本における近代建築の確立と建築家の地位向上のために権力に屈することなく、また商業主義に流されることなくその思想と立場を貫いた。」(「前川國男」―奥沢邦成)
 前川國男邸はいま、東京都小金井市の小金井公園の「江戸東京たてもの園」に移築されている。わたしは、時々訪れているが、建築家の家というよりは、夫婦二人だけの理想郷の場所というイメージだ。
 広くアナキズムを包摂するという意味で、この人名事典は、多彩な幅を持っている。最もそのことを指し示す意味でも以下の人物を列記してみれば分かる。
 吉本隆明、谷川雁、花田清輝、対馬忠行、澁澤龍彦、滝口修造、石牟礼道子、赤瀬川原平、斎藤竜鳳、白土三平、マキノ雅弘、大島渚、若松孝二、永川玲二、中西悟堂と並べてみると、なぜ、アナキズムなのかと思われてしまうかもしれない。それは、それぞれの描出に接していただくしかない。
 増補改訂された本書は収録人物の多くの増量が最大の業績ではあるが、附録の関連機関紙誌一覧の充実(四五年から六八年が新たに加えられた)、二〇年設立の日本社会主義同盟の加盟者名簿を収録、人名索引の他に、機関紙誌名の索引も掲載している。
 巻頭に置かれた「増補改訂版刊行にあたって」は、「近代日本の歴史の中で自由と平等を求めて闘った有名・無名の活動家の足跡発掘と業績の顕彰に、この増補改訂版が役立つことを願うものである」という文章で締めくくっているのは、なによりも印象深いといえよう。
 二十年という長い時間のなかで、本書が結実したことに、敬意を表したいと思う。

(『図書新聞』19.4.20号)

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「吉本隆明」――『【増補改訂】日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版刊・19.4.20)

 1924(大13)11.25―2012(平24)3.16。父は郷里の天草で造船所を経営していたが、不況のため倒産し、夜逃げ同然で、吉本が生まれた年の4月に東京・月島へ移住する。その時、吉本は既に母親の胎内にあった。
 十歳の時から、今氏乙治の私塾に通い、少年期の吉本は大きな影響を受けていく。府立化学工業学校卒業後、42年米沢高等工業学校応用化学科入学。44年初の詩集『草莽』(私家版)を刊行。45年東京工業大学電気化学科入学。卒業後、職を転々とし、やがて東洋インキ製造・青砥工場に勤務。しかし、組合運動によって職場を追われ、56年から特許事務所に就職し、69年まで勤務。
 52年に『固有時との対話』、53年に『転位のための十篇』を私家版詩集として刊行、詩人としての本格的な出立をする。56年武井昭夫との共著『文学者の戦争責任』は、様々な反響を巻き起こすことになる。同年に刊行された『文学の自己批判』のなかで、秋山清は、吉本たちの発言に率直に共感を表明している。吉本は、早くから秋山清の戦時下の詩を高く評価し、後に詩集『白い花』(吉本の解説を付して66年に刊行)に収められることになる詩篇を58年「批評運動」に再録の助力をしている。
 六〇年安保闘争は、吉本にとって大きな転換点になった。以後、戦後体制の基層を徹底的に批判する方途を自らに課していったのだ。埴谷雄高は、吉本が、「唱えた『自立』こそアナキズムの流れの中心にある思想」であると語っている(「無政府主義研究 第2号」1974.6)。61年に創刊した雑誌「試行」(97年74号で休刊)は「自立誌」といわれ、多くの直接定期購読者に支えられ、様々な書き手を輩出した。
 68年に刊行された『共同幻想論』は、国家や法・宗教を人間が作り出した観念領域だとし、全幻想(個人幻想・対幻想・共同幻想)領域を切開しようとした戦後思想史における画期的な著作となった。吉本は、マルクスの思想とマルクス主義の思想は、まったく別物であるという視点から激しくマルクス主義(スターリン主義)批判を展開していったため、赤坂憲雄は、二十歳の頃に「『共同幻想論』をアナーキズムの理論書として読んでいた」(吉本隆明他『琉球弧の喚起力と南島論』河出書房新社1989)というが、ある意味、的確な捉え方だともいえる。
 八十年代に入り、資本主義が高度消費社会に達したことを積極的に評価し、初期からの読者が離反していくことになる。96年西伊豆で水難事故に遭い、その後、身体の衰えが加速していくものの、口述筆記というかたちで、精力的な著作活動をしていく。
 亡くなる最後の一年は、3.11以後の反原発運動に疑義を呈し、結果、原発擁護の立場と見做されながら、その死を迎えた。
[著作]『擬制の終焉』現代思潮社1962、『言語にとって美とはなにか Ⅰ、Ⅱ』勁草書房1965、『吉本隆明全著作集』全15巻・勁草書房1968-1975、『共同幻想論』河出書房新社1969、『心的現象論序説』北洋社1971、『最後の親鸞』春秋社1976、『マス・イメージ論』大和書房1984、『ハイ・イメージ論』全Ⅲ巻・福武書店1989-94、『母型論』学習研究社1994、『アフリカ的段階について』春秋社1998、『吉本隆明全集』全38巻別巻1・晶文社2014---
[文献]『鑑賞日本現代文学30埴谷雄高・吉本隆明』角川書店1982、吉本隆明・久保隆「秋山清と〈戦後〉という場所」『現代詩手帖』2007.10、石関善次郎『吉本隆明の帰郷』思潮社2012

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「信太裕」――『【増補改訂】日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版刊・19.4.20)

 1948(昭23)9.22―----(---)---- 北海道出身。道立滝川高校卒業、法政大学法学部入学、後中退。法政大学アナキズム研究会に所属し、ベトナム反戦直接行動委員会のメンバーだった和田俊一を中心に結成された背叛社に参加。背叛社の理念としては、「直接行動は、一切の権威と権力に叛逆する。この事実=真理を総破壊と称する」というもので、バクーニン理論に通じていくものがある。ここには、戦後アナキズムの運動体が、サロン集団化したことへの苛立ちと、折からの新左翼運動の苛烈化が影響していたことは、明らかだ。
 68年10月6日夜、新宿区上落合の背叛社事務所で製造中の手製爆弾が誤爆するという事故が起きて、背叛社のメンバー全員が逮捕される。唯一の未成年者だった信太は、起訴されなかったものの、公判中、和田が公安権力と癒着していたことが判明、大きな衝撃を受ける。その結果、一部の人たちを除き、旧来のアナキズム的立場の側からは、べ反委の運動は評価されるべきだが、背叛社の運動は、アナキズムといえないという錯誤的発言が露呈していった。ここにいたって、信太は、旧来のアナキズム的立場を似而非アナキスト達と断じ、1969年8月、中央大学学生寮の一室でタナトス社結成準備会を立ち上げる。
 そして、結成にあたっては、「日本のアナキズム運動を主体的に嚮導する力量が不足していることを直視するとき、(略)啓蒙主義的アナキズムを超克し、より激越な反権力闘争を展開し、現今の無政府主義陣営内部に侵食している日和見主義・退嬰主義・敗北主義を排拆する新たな反権力組織を結成するのが焦眉の急と存意する。(略)擬制の自由ではなくして真制の自由を志向し、(略)現今の似而非アナキズム潮流を拝して、新たな革命的アナキストによる組織を結成し逼迫せる革命の橋頭堡を構築し、ありとあらゆる国家権力機構の瓦礫と廃墟の上に黒旗を屹立せしめよ!」と宣していく。
 理念的位置づけの先鋭さは、突出していたが、運動総体としては、宣言通りの激越な闘いというわけには、いかなかった。それは、タナトス社から分岐して結成されたギロンチン社にもいえることだった。70年10月、タナトス社、ギロチン社の共同呼びかけで、富士宮にて全国アナキスト会議が二日間にわたって開かれた。これは、旧来のアナ連やアナキストクラブといった組織とは別のまったく新しい、二十歳前後という若い世代が領導した画期的なものだったことは、強調していい。ここから、ネビース社といった新たな運動体も生まれことも付記しておく。
 その後、運動関係から離れた信太は、関西の方へ転居して、大阪で古書店を営んでいたことと、生前唯一の著作となった句集を出したこと以外、その消息はほとんど知られていない。
 『水の音』と題された句集は、179句が収められ、「春の香や 水の音して 醒むる日の」「戦いの ひまを盗みて 濁り酒」「目覚めるも つかのまの虹かかる空」「粉雪や 虚空に消ゆる 音の影」「忽ちに 消ゆるも夜の 花火かな」などの作品がある。また、「あとがき」には、多行形式で「観し景は/ 古今を/辿る/言の葉の/ 道の/奥処に/ 月/出ずる/ まで」という短歌を記して、一書を閉じている。
[著作]句集『水の音』近代文藝社1991
[文献]信太裕「10.6背叛社事件、その意味するもの―蘇生するアナキズム」『中央大学新聞』1969.9.9、「新たな反権力組織結成にむけて」『THANATOS 創刊号』1969.9、和田俊一『背叛社非政治資料・国体論並びに背叛革命』1968.12

 

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