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2019年4月15日 (月)

「吉本隆明」――『【増補改訂】日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版刊・19.4.20)

 1924(大13)11.25―2012(平24)3.16。父は郷里の天草で造船所を経営していたが、不況のため倒産し、夜逃げ同然で、吉本が生まれた年の4月に東京・月島へ移住する。その時、吉本は既に母親の胎内にあった。
 十歳の時から、今氏乙治の私塾に通い、少年期の吉本は大きな影響を受けていく。府立化学工業学校卒業後、42年米沢高等工業学校応用化学科入学。44年初の詩集『草莽』(私家版)を刊行。45年東京工業大学電気化学科入学。卒業後、職を転々とし、やがて東洋インキ製造・青砥工場に勤務。しかし、組合運動によって職場を追われ、56年から特許事務所に就職し、69年まで勤務。
 52年に『固有時との対話』、53年に『転位のための十篇』を私家版詩集として刊行、詩人としての本格的な出立をする。56年武井昭夫との共著『文学者の戦争責任』は、様々な反響を巻き起こすことになる。同年に刊行された『文学の自己批判』のなかで、秋山清は、吉本たちの発言に率直に共感を表明している。吉本は、早くから秋山清の戦時下の詩を高く評価し、後に詩集『白い花』(吉本の解説を付して66年に刊行)に収められることになる詩篇を58年「批評運動」に再録の助力をしている。
 六〇年安保闘争は、吉本にとって大きな転換点になった。以後、戦後体制の基層を徹底的に批判する方途を自らに課していったのだ。埴谷雄高は、吉本が、「唱えた『自立』こそアナキズムの流れの中心にある思想」であると語っている(「無政府主義研究 第2号」1974.6)。61年に創刊した雑誌「試行」(97年74号で休刊)は「自立誌」といわれ、多くの直接定期購読者に支えられ、様々な書き手を輩出した。
 68年に刊行された『共同幻想論』は、国家や法・宗教を人間が作り出した観念領域だとし、全幻想(個人幻想・対幻想・共同幻想)領域を切開しようとした戦後思想史における画期的な著作となった。吉本は、マルクスの思想とマルクス主義の思想は、まったく別物であるという視点から激しくマルクス主義(スターリン主義)批判を展開していったため、赤坂憲雄は、二十歳の頃に「『共同幻想論』をアナーキズムの理論書として読んでいた」(吉本隆明他『琉球弧の喚起力と南島論』河出書房新社1989)というが、ある意味、的確な捉え方だともいえる。
 八十年代に入り、資本主義が高度消費社会に達したことを積極的に評価し、初期からの読者が離反していくことになる。96年西伊豆で水難事故に遭い、その後、身体の衰えが加速していくものの、口述筆記というかたちで、精力的な著作活動をしていく。
 亡くなる最後の一年は、3.11以後の反原発運動に疑義を呈し、結果、原発擁護の立場と見做されながら、その死を迎えた。
[著作]『擬制の終焉』現代思潮社1962、『言語にとって美とはなにか Ⅰ、Ⅱ』勁草書房1965、『吉本隆明全著作集』全15巻・勁草書房1968-1975、『共同幻想論』河出書房新社1969、『心的現象論序説』北洋社1971、『最後の親鸞』春秋社1976、『マス・イメージ論』大和書房1984、『ハイ・イメージ論』全Ⅲ巻・福武書店1989-94、『母型論』学習研究社1994、『アフリカ的段階について』春秋社1998、『吉本隆明全集』全38巻別巻1・晶文社2014---
[文献]『鑑賞日本現代文学30埴谷雄高・吉本隆明』角川書店1982、吉本隆明・久保隆「秋山清と〈戦後〉という場所」『現代詩手帖』2007.10、石関善次郎『吉本隆明の帰郷』思潮社2012

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