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2019年1月26日 (土)

高野慎三 著『東京儚夢ぼうむ 銅板建築を訪ねて』     (論創社刊・18.9.10)

 わたしは、著者のように銅板建築にたいし関心を持って眺めてきたわけではないが、それでも東京で暮らして五十年になるから、帝都時代の名残とはいえ、なにか郷愁のようなものを誘う佇まいであることに惹かれてきたのは、確かだった。
 「震災以後、『帝都復興』の名のもとに大がかりな区画整理が行われ、次々と新築の家が並びはじめた。しかし当初は、バラック仕立てや平屋の家が少なくなかったようである。(略)一九三〇年前後になると、暮らしに活気がもどってきたのか、銅板張りの建物が出現するようになる。」(「まえがき」)
 そして、「耐火や耐久を兼ね備えた」ものとして、「銅板張りの木造二階建て」の民家や商店が、「銅の価格が下落気味であった」ため一気に、東京で広がっていったと著者は述べている。
 アメリカの空爆による戦禍から奇跡的に免れたものや高度成長期にも耐え抜いて、いまだ、「戦後の風景」を表象するかのように存在する銅板建築の様相を、著者は旅するように活写した写真集が本書である。
 地域としては、千代田区神田界隈、台東区、中央区、品川区である。巻頭に配置された神田界隈の家々は、民家や寿司屋、雀荘、洋品店、糸や裏地・ボタンを売る店、軽食・喫茶の店、青果店などが写し出されていく。なかでも、三階建てのものは、「錆びて緑青色に変色」しているにもかかわらず、かえって長い時間を湛えてきた雰囲気をもって、重厚さを醸し出しているといっていい。
 台東区東上野に佇む、“居酒屋アイリス”の看板を掲げた、三棟続きの銅板建築の隣にビルが建っているという不思議なコントラストの構図の写真[44~45P]は、銅板建築の現在を象徴させているように思う。築地や北品川の緑青色も見事に映えているが、わたしは本書の中では、台東区の鳥越の〝おかず横丁〟の家並み[66~75P]がいいと感受した。
鳥越について、著者は次のように記している。
 「鳥越神社に近い『おかず横丁』を訪ねたのは、そう古いことではない。一五、六年前のことである。(略)鳥越神社は、下谷神社から歩いてそう遠くない距離なのだが、都電が廃止になってからはなんとも不便な土地となった。(略)幅広い蔵前通りに並行した北側に狭い『おかず横丁』がある。いくつもの商店が軒を並べていたが、人通りは少なかった。それでも肉屋、魚屋、惣菜屋が並び、下町情緒がのぞいた。(略)それよりも目を見張ったのは銅板建築の存在である。緑青色に錆びた姿を好まないのか、上から赤や青のペンキが塗られた建物もある。(略)『おかず横丁』の裏には零細工場が並ぶ。印刷業、製本業、箔押し業、製箱業、合紙業、ボタン製造業、穴かがり業、革抜き業、数え上げたらきりがないほど多くの業種が固まって存在する。多くは二階建てである。どこも敷地は十数坪から二〇坪前後だろうか。家族だけで営む家内工業の町だ。」(「私的回想」)
 現在は、あきらかに「家族だけで営む家内工業の町」ということを、直ぐに想起するのは困難になってきているとはいえ、暮らしの様態は、多様なものであると考えてみれば、家は住宅という機能だけのものではない。かつてといっても、何十年も前のことになるが、変貌する大都市に比べたら、まだ地方都市の方が、古い家並みや商店街があったわけだが、いまは、地方都市の方がはるかに時間の進捗は早くなっているように思う。古い建物にはほとんど生活感なく、大げさにいえば廃墟のようになっている。東京だからこそ高層ビル群とおかず横丁のような家並み、町並みが併存できるといえるのかもしれない。もちろん、そうした風景が永遠不変に続くとは思えないとしても。
 かつて、林静一画集『儚夢』(幻燈社刊、1971年)という本があった。そして、林静一の世界に共振するように、あがた森魚の「乙女の儚夢」(72年)という歌があった。この二つの“儚夢”は“ロマン”と読ませている。当然、本書の書名も“ロマン”と読ませると思ったのだが、著者は、敢えてといっていいのかわからないが、“ぼうむ”としている。文字通り読めば、“はかないゆめ”となるわけだが、“ろまん(ロマン)”も“はかないゆめ”も、ただ、過去の時間への郷愁というものが色濃くあって、現在に対する視線をどこかに留保するように感じられるといえる気がする。だからかもしれない、著者が“ぼうむ”としたのは、そこに、強い意志をもって現在の風景と暮らしという世界を透徹しようと思考したのだと、わたしなら思う。

(『図書新聞』19.2.2号)

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2019年1月12日 (土)

藤井貞和 著『非戦へ 物語平和論』               (編集室 水平線刊・18.11.9)

 『湾岸戦争論』(河出書房刊・一九九四年)から二十四年、著者は、〈戦争の起源〉、〈戦争の本性〉から抽出される「未完の戦争学」を指向して、本書をあらたに提示している。詩人であり、物語文学者であるからこそ、〈起源〉や〈本性〉を切開して、〝非戦〟へとその視線を放射させていこうとしているのだ。3.11以後に書かれた文章群、講演と、書き下ろし論稿「戦争から憲法へ」を中心にして構成している本書だが、9.11アメリカ同時多発テロ直後に書かれた回文詩と、清水昶、佐々木幹郎、倉橋健一らと編集・発行していた伝説の詩誌『白鯨 詩と思想』四号(74年刊)に掲載した「近代と詩と――主題小考」を再収録していることにも注視すべきだ(なお、本書には刺激的な解説文として元『現代詩手帖』編集長・桑原茂夫の「『戦争』のこと」が付されている)。特に四十年以上前の論稿のなかに、著者が現在、思考をめぐらす起点があることに、わたしは、驚嘆せざるをえない。
 「戦争は地域や住み分けの差別からも、民族や宗教の差別からも、生産手段や階級の差別からも引き起こされる、それらの差別の根底に、そもそも好戦的な残虐性がよこたわっており、しかもそれが人類をみずからきたえ、ほとんど他の動物を寄せつけないほどの本能と頭脳とを育ててきたのだとしたら、これほど現代の『平和主義者』を絶望させる事態がほかにあろうか。」(「近代と詩と――主題小考」)
 そうなのだ、人類史の、あるいは生態史的な視線から考えても、動物たちの環界を弱肉強食の様態として、差異化したところで、人間の、人類の〈本性〉を考えた時、人間(人類)は、動物以後ではなく、動物以前の争闘本能を強固に潜在化した存在だといいたくなる。なぜなら、動物にはないとする〈知〉というものは、行為を正当化する偽善的な様相を逃れがたくあるといえるからだ。〈戦争〉と〈平和〉を対置したロシアの文豪がいたが、わたしには、欺瞞に満ちた対置でしかないと思っていた。さらにいえば、反戦平和というロジックもそうだ。反戦と平和が安易に連結してしまうのはレトリック以外のなにものでもないからだ。それは、かつて、〝原爆を許すまじ〟というスローガンに象徴されるといっていい。だからこそ、三十歳前半の著者が発した、「『平和主義者』を絶望させる事態」という捉え方に、わたしは同意したいのだ。〈反戦〉には、表出する〈戦争〉に対しての対抗視線しかなく、残念ながら、〈絶望的〉な起源や本性を見通す膂力がないのだ。
 だが、物語文学者としての著者は、記紀神話や物語世界から、絶望的な起源や本性を照射していく。それが、「学」となるかは、わたしには関心がないが、「学」ではなく、ひとつの切実な考え方であるとするならば、わたしもまた、そのことに随伴したいと思う。
 以下、本書における中心的な論稿の一部を、任意に例示してみる。
 「縄文から弥生への劃期は大陸から水田耕作を携えたひとびとの流入であり、戦争がそこに伴ったことは確実だと思われる。銅鐸が最初から銅鐸のかたちで大陸から移入されるはずはない。必ずや農耕具であるほかに、剣、矛、槍先などのかたち、武器として大量に日本列島にもたらされた。集落は要塞化し、戦士の埋葬を見ることになる。」「戦争には確かに広範囲の移動という一面がある。たとい国内であろうと(内戦である)、部族間抗争(と言っていなければ氏族間抗争)とのみ見るのでは不足であるという、〈国家の火〉を前提とする理由であり(平家にしろ、源氏にしろ、国政を担当しなければならないということでもある)、ここに戦争の定義が胚胎する。」「『戦争の放棄』は不戦の一環であり、諸他国の憲法にもありえてよいが、『戦力不保持』『交戦権の否認』は『戦争の放棄』を超える徹底であり、日本国憲法に見られる特徴として知られる。この特徴はパリ不戦条約と日本国憲法とのあいだのかなり大きな相違点であって、前者を不戦とするならば、後者を(略)〝非戦〟という語をここにおいて用意することは至当だろう。」(「戦争から憲法へ」)
 古代社会における人間の多様な意識の集合性(共同幻想)が、親和性へと傾くのか、ひたすら争闘によって共同体を拡張していくのかということは、強引に類推していけば、現在における西アジアや、民族宗教対立の争闘へと、それらはリンクしていくような気がしてならない。
 物語とは、過去だけではなく、現在にも未来にも潜在していくことだと思う。誰にでもある日々の暮らしを切実に考えていくことこそ物語であって、非戦とは、そういう物語を表わすひとつの言葉なのだと、わたしは、本書から喚起されたといっておきたい。

(『図書新聞』19.1.19号)

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