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2018年9月 1日 (土)

栗原康 著『菊とギロチン――やるならいましかねえ、いつだっていましかねえ』(タバブックス刊・18..7.11)

 女相撲と大正期のアナキスト集団・ギロチン社を重層化させた映画『菊とギロチン』(監督・瀬々敬久、脚本・相澤虎之助、瀬々敬久、現在上映中)のノベライズ本である。わたしは、これまで、ノベライズ本なるものを読んだことがない。つまり、オリジナル脚本の映画作品なら、確認する意味で後に、活字化された脚本(映画誌や『シナリオ』誌に掲載されもの)は読むことはあっても、わざわざノベライズ本を読む必要はないからだ。当たり前のことだが原作本と映画化された作品は必ずしもイコールではない。そもそも活字による表現と映像表現は位相が違う以上、別々の作品だと見做す方がいいのだ。脚本は何稿か改稿するので、最終稿ではない限り、実際の作品とかなりの違うものとはいえ、原作とは違い、それほど大きな異同はないといえる。
 著者は、一年前に脚本を入手し、そこからノベライズ本を書き始めたようだ。その間、映像化作品をたぶん観ていると思うが、映画ではナレーションや文字で説明している部分を援用しながらも、著者の熱い思いや思考の先をかなり苛烈に凝縮させて、もう一つの『菊とギロチン』という鮮烈な作品を現出させたといっていいと思う。
 本書は、脚本で記された話し言葉を太文字にして引用し、ト書きにあたる部分は膨らませて、著者が紡ぎだす物語とアナーキーへと向かう思考を発露させていく。例えば、次のように。
 「(略)日本はシベリア出兵。革命のどさくさにまぎれて、ロシアを侵略しにいったのだ。戦争はどれもムダだとおもうが、そんななかでもマジでムダな戦争である。しかも、このとき国内じゃコメがたりなくて米価が高騰し、みんなメシが食えねえよってさわいでいた。そんなときに、シベリアに兵糧をおくっていたわけだ。そりぁ、民衆は大激怒。ふざけんなっていって、一〇〇〇万人規模の大暴動がまきおこった。(略)警官隊もけちらして、交番という交番をなぎたおし、百貨店という百貨店のショーウィンドウをたたきわった。いいね!一九一八年、米騒動だ。」
ギロチン社が結成される場面はこうだ。
 「一瞬できまった。オレたちの手で、ヒロヒトをギロチンにかけてやろう。菊の御紋をギロチンにかけてやれ。(略)この日から、中浜たちはギロチン社を名のるようになった。あっ、ギロチン社っていっても、ガッチガチの組織じゃないよ。宣言文もなけりゃ、綱領もない。とちゅうでやめたくなったら、いつやめたっていい。いざやるときにやりたいやつらでやっちまおう。そういうあつまりだ。(略)いくぜ、兄弟!菊とギロチン」
『菊とギロチン』という物語をかたちづくっていく大きなモチーフは、女相撲の力士たち、なかでも花菊と十勝川の存在だ。女相撲の歴史は古いが、興行的に成立したのは江戸時代中期以降のことのようだ。明治期になって石山兵四郎一座が全国を興行するようになり、女相撲は昭和三八年まで続いたという。物語の玉岩興行は女力士十二名の一座だ。花菊こと、ともよは、姉の死によって後添えとなった先は貧しい農家で、しかも暴力をふるう亭主だった。家出し、「おら、つよぐなりでえ!」といって頼ったところが、玉岩興行だった。十勝川ことたまえは、「朝鮮の忠清北道ってとこでうまれた」のだが、貧しい農家ゆえ、「一六歳のときにくちべらしのために」遊郭へ売られた。「どうせ日本人にヒデエ目にあわされるなら」と日本へ渡ってきたのだ。関東大震災後の最中で起きた朝鮮人虐殺の蛮行。たまえも逃げた先が女相撲だった。
 十勝川と中浜哲、花菊と古田大次郎というふたつ対なる関係性が、女相撲とギロチン社を連結し、閉塞する社会へ必死に対抗しながら生きていくことの切実さを描像していく。終景近く、ともよの夫が一座に現われ、ともよを連れて帰ろうするのを古田は必死になって止めようとする。
「花菊が好きだーぁ‼好きなおんな一人たすけられなくって、なにが革命だァ――ッ‼」「花菊はだれのもんでもねぇ・・・、花菊は、花菊だァ!」
 古田は自分が持っていた爆裂弾をともよの夫に投げつける。大怪我をしたともよの夫に向かって、ともよを諦めるなら医者に連れて行くといって、花菊を断念することを迫る。
 「そうだ。爆弾をつかって、ひとを殺すことがつよさじゃない。人間が爆弾みたいになることが、ホントのつよさなんだ。だれにも制御できない力。女だからああしろだの、妻だからこうしろだの、そんなことをいってくるやつらをパンパンーンッてふっとばして、自分の生きかたを自分でつかみとることがつよさなんだ。(略)女力士、花菊。なめんじゃねえ!/そんな古田の意図がつたわったのか、花菊が泣きじゃくっている。きっと、古田が死を決意してなにかをやろうとしているってのもわかっちまったんだろう。」
 「菊とギロチン」は、天皇とアナキストたちが対峙するメタファーなのかもしれないが、わたしには、瀬々版『菊とギロチン』も、栗原版『菊とギロチン』も、菊は、花菊のことであり、ギロチンは古田大次郎のことだと思う。この対なる関係性は、本書の巻末に書き下ろされた瀬々敬久の「小説・その後の菊とギロチン」でさらに深化させている。
 わたしは、かつて、著者の『大杉栄伝 永遠のアナキズム』の巻頭に配置された大杉の米騒動論を苛烈に論及した「蜂起の思想」から大いなる喚起を受けたものだったが、本書もまた、著者の真摯なる言葉の表出に胸打たれたといっておきたい。

(『図書新聞』18.9.8号)

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