« 2017年12月17日 - 2017年12月23日 | トップページ | 2018年1月28日 - 2018年2月3日 »

2018年1月13日 (土)

宮岡蓮二 著『APARTMENT――                   木造モルタルアパート 夢のゆくえ』(ワイズ出版・17.8.15)

 わたしは、著者と同世代(二歳年長で、上京は二年ほど早い68年)だから、“木造モルタルアパート”とは、実際に暮らし続けた空間であり、懐かしい場所でもある。最初の場所は、“木造モルタルアパート”というような上等なものではなく、玄関を開けると長い土間が続いてあり、突き当りは共同トイレ(もちろん水洗なんかではない)で、左側に小さな洗面所があり、右側が四畳半の部屋が五つ並んでいるだけの木造長屋であった。それでも、住人たちの不思議な矜持があって勝手に“野人舎”と名付け、玄関に木の看板を掛けていた。そこに三年半ほど住んだ後、“二人暮らし”を始めるため別の場所へ引っ越したが、そこは一階建てて、共通の玄関を入ると廊下があり、履物を脱いで上がり、突き当りの六畳間に小さな台所があるだけの部屋が、“新居”であった。もちろん、洗面所とトイレは共同、風呂は、銭湯だ。窓を開けると、隣に二階立てのアパートがあり、夏など下の階の一室が見え、家族五人が暮らしているのが見えた。なぜか、貧しいとか、もう少し広い部屋に住みたいとは、あまり思わなかったのだ。六畳でも充分の広さを感じたし、それが、自分たちの現在なのだと考える以外なかったからだといっていい。
 著者は、最初の場所を次のように述べている。
 「六畳一間に半間の流しと押入れ、それが東京でのわたしの最初の住まいであった。しかし、それをアパートと呼んでよいのかどうか、いまでは疑問である。なにしろ一軒家(大家一家は一階で暮らしていた)の二階に、たった二部屋の貸室しかなかったのである。/当時、同じ練馬やその周辺の友人たちの住まいは(略)内廊下の左右に部屋が並ぶアパートがほとんどだった。」
 いま、思い返してみれば、「内廊下の左右に部屋があるアパート」をわたし(たち)は、羨望の目で見ていた。なんとなく、プライバシーが確保されているように見えたからだ。わたしの記憶に間違いなければ、そのようなアパートの方が賃料は高かったはずだ。
 著者の“木造モルタルアパート”をめぐる写真撮影の旅(といっても、東京都二十三区のうち江戸川区、千代田区、品川区、渋谷区、目黒区を除いた十八区が旅の場所であるが)は、二十年にも及ぶ。膨大な数の写真を本書に精選して収録する作業でも大変なことだったろうと推察する。訳知り顔に収録されている“木造モルタルアパート”の写真に対して、なにかを言及することは憚れるのだが、幾つかの印象深い建物に触れてみたい。
 台東区台東のアパート(一六一頁)の真正面から撮った一枚は、一階と二階の窓が違う構造になっていて、不思議な感じを湛えている。しかし、前方は駐車場で五台の車が並んで停まっている。もう一枚は、アパートに近寄って仰角で撮っている。建物の下方に、「最大料金駐車後24時間2200円」と書かれた看板が掛けられていて、写真は、アパートの背後にあるマンション風の建物とビルを捉えている。駐車場と新しい高い建物に挟まれている二階建てのアパートは、長い年月が威厳のような風合いをもって漂わせているとわたしには、思われた。
 世田谷区若林(二一六~七頁)の、二階建てアパートの外階段を撮った写真七点は、様々なヴァリエーションを見るものに感じさせる。二階へ上る、二階から下りる、住人たちは、どんな思いで、毎日、アパートの階段を上り下りするのだろうか、ふと、そんなふうに想像したくなるアパートたちの佇まいだ。北区西ヶ原(二七四頁)の一枚、窓の廂の上に白黒模様の猫が佇んでいる姿を捉えている。集中、唯一、“生きもの”が登場する貴重な一枚だ。なぜ、この一枚にだけ猫が写っているのか、著者の思いを問いたい気がするのだが、それよりも、わたしには、窓の廂が、猫が佇むことができるだけの空間であったことに驚いたといえる。
 わたしも、実は、近所を散策しながら古いアパートを見つけては、なんとなく懐かしい気分に浸ったものだ。確かに、ここ十年ほどは、その佇まいを見つけることが困難になってきている。トイレが共同で、風呂もないアパートに若い人たちが住みたいとは思わないことを誰も責めることはできない。著者はそんなアパートを撮り続ける思いを次のように述べていく。
 「一九五四年に始まった『集団就職』は地方から東京へ多くの若者を運んだ。かれらのほとんどは、大きな企業であればその寮、個人営業の店などではそこの家族と同居する。まだ幼いといっていいかれらが、あかの他人と生活を共にするのはつらいことだったに違いない。かれらが夢見たのは、故郷へ帰ることをのぞけば、一人で生活していくこと、ではなかっただろうか。その憧れの対象が、いま朽ち果てようとしている、この木造モルタルアパートではなかっただろうか。」
 記憶というものは、なにか契機となるべき像がなければ失われていくものかもしれない。だからといって、過ぎ去ったことに拘泥することが、負の方位だと、わたしは思わない。なぜなら、記憶というものは、たんに過去のことを包有することではなく、現在を絶えず、共振させていくものなのだと思っているからだ。そういう確信を、わたしは本書から受け取ったといっておきたい。

(『図書新聞』18.1.20号)

| | コメント (0)

« 2017年12月17日 - 2017年12月23日 | トップページ | 2018年1月28日 - 2018年2月3日 »