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2018年7月20日 (金)

「映画」をめぐる共同性の場所                 ――新宿昭和館、文芸坐終夜上映他

 いま、思い返してみると、わたしにとって、映画館とは、「映画」を観に行く場所であるというよりも、なにか不思議な感覚を共有する場所であったといってもいい。スクリーンに映し出される「映画」という物語に喚起されて観客(わたし)たちは、ひとつの共同性をかたちづくるかのように、そこでは、もうひとつの物語を生成させていくといえば、いいだろうか。といっても、大それたことが起きるわけではない。つまり、観客(わたし)たちが、スクリーンに向かって騒然と応答することを述べているに過ぎないからだ。
 そのことを、描出していく前に、わたしが、最も数多くの「映画」を観ていた時期と作品について触れていくべきかもしれない。時間性でいえば一九六〇年代後半から七〇年代前半にかけて、年齢としては、十代後半から二十代前半が、「映画」というものを親近なるものとして感受していた頃になる。
 情況的なことと、年齢的なことが、重層化していくことによって、「映画」は、もちろんのこと、感受するあらゆるモノ、コトが、わたし自身の立ち位置のようのものを決定づける契機になったのは、いうまでもない。振り返ってみるならば、モノの見方や感じ方は、その時期から、あまり変わっていないように思う時がある(要するに、たいして成長しないまま、年齢だけは重ねてきてしまったということになる)。だから当時、感動して観た映画を、いまだに、DVDで繰り返して観ては、同じ場面で感性を刺激されているのだ。例えば、加藤泰の『遊俠一匹 沓掛時次郎』(66年)や、アンジェイ・ワイダの『灰とダイヤモンド』(日本公開・59年)は、映画館、VHS、DVDを含めて、何十回となく観ている。
 レンタルビデオ店が活況を呈するようになった頃、「映画」は、映画館で観るものだと公言する人たちが多くいたが、わたしは、すこし違う思いを抱いていた。観たい封切作品が、だんだん少なくなってきたこともあり、映画館へ行って、高い料金を払ってまで観たいと思わなくなっていたからだ。それに、「映画」を、映画館でしか観ることができなかった時代に比べたら、自分たちの部屋が、もうひとつの小さな映画館(思い起こせば、しばしば通った、新宿にあった蠍座という映画館は、試写室と変わらない小さな画面であったから、大きなスクリーンを有しているのが映画館だと、わたしは考えていない)になるわけだから、それ自体、凄いことだと素直に思えたといってもいい。
 当時、わたしが、熱狂的に観ていたのは日本映画で、東映任俠映画(再上映された股旅映画も含む)と一部の日活作品、そしてピンク映画の作品群が中心だった。監督を特化していえは、加藤泰、鈴木清順であり、さらに若松孝二ということになる。もちろん、外国映画作品も観ないわけではなかった。ワイダを別格にすれば、ゴダールやヴィスコンティ、パゾリーニ、フェリーニ、アントニオーニ、トリュフォーといった監督たちの作品もそれなりに観ている。それでも、加藤泰やマキノ雅弘、山下耕作、石井輝男、中島貞夫、鈴木則文以外の監督作品(深作欣二の作品は、やや遅れて七二、三年頃から観るようになった。さらに、日活ロマンポルノの監督たち藤田敏八や、神代辰巳、田中登、加藤彰、曽根中生を挙げてもいい)で、決して傑作とはいえない東映任俠映画であっても、ゴダール作品よりは、素直に感応できたといっていい。
 加藤泰が、任俠映画について次のように語っている。わたしが、なぜ、加藤泰映画に、東映任俠映画に魅せられていったのかという事由のようなことを、直截に提示されているので引いてみたい。

  「任俠映画の世界については、今度皆さんに見ていただいたのは『遊俠一匹 沓掛時次郎』(一九六六)と『緋牡丹博徒 花札勝負』(一九六九)の二つなんですが、『遊俠一匹』のほうは日本がまだ徳川政権で治められていた時代、(略)『花札勝負』は明治のころで、徳川政権と代わった薩長政府が日本を治めていた時代です。どちらの時代も日本は法治国家で、法律で安全な暮らしなり何なりをちゃんと守ることを約束された国でした。ところが、何かがあって普通の社会からはじき出されちゃったとか、やむにやまれぬことで犯罪をおかして、(略)国が定めた法律のもとで安全に暮らす普通の社会がいやだと、そこからはじき出された人間たち、アウトローの世界がある。(略)ところがどっこい、アウトローの世界に逃げ込みますと、そっちの掟があるんですね。/そのアウトローの世界というのは、完全な男社会です。(略)男も女も全部、男でなければいけない。(略)親分の言うことはいっさい聞かなければならない世界です。その中でもし恋愛してごらんなさい。アウトローの世界では恋愛は成り立ちません。(略)恋愛しますね。男は女を愛しくてたまらなくなります。子どもも生まれます。そのとき、(略)親分から『お前死ね』と言われても、これは死ねなくなります。その世界の掟が守れなくなるんです。ですから恋愛は成り立たない。ところが、(略)掟では許されない恋愛、男と女のいちばん美しい瞬間にどうしても突入してしまう。掟にそむいて、そこへ突入した男も女も苦しんだり悩んだり、それにぶつかってじたばたする。そのとき、いちばん美しい顔をします。僕はそう信じる。いちばんいい姿をしてくれます。僕はそう信じる。その瞬間をなんとか見つけて、画にしてみたのが『遊俠一匹』であり、そして『花札勝負』である。」(「人間がいちばん美しい瞬間」―『加藤泰、映画を語る』)

 加藤泰は、アウトローの世界を通しての「男―女」という〈対〉なる関係性に拘泥することを、ここでは鮮明に述べているわけだが、わたし(たち)は、「アウトローの世界」を、たんに任俠的な共同体の枠組みだけで、物語を見ていたわけではない。共同体を、もう少し拡張させて、現実の社会や世界を想起しながら、そこでの統治性と拘束性を通した禁忌の象徴として捉えていたといっていい。
 わたしが、東映任俠映画を初めて映画館で見たのは、国分寺東映(封切館ではなく、二番館だった)での『俠客列伝』(監督・マキノ雅弘、68年)だった。上京して初めて住んだ場所が国分寺であり、いままた、巡り巡って国分寺に住んでいるが、当時、二軒あった映画館はもちろん、いまはない。上京後、欠かさず購読する紙誌は、高校時代から手にしていた漫画誌「ガロ」を別にすれば、「試行」(吉本隆明・個人発行誌)と「映画芸術」(編集長・小川徹)、週刊発行の書評紙「日本読書新聞」(以下「読書新聞」と記す)だった。「読書新聞」の最終面には、映画評や演劇評が掲載されていて、たまたま独文学者の片岡啓治(一年後、個人的に親しくなる)の『俠客列伝』評を読んで、個と共同体をめぐる軋轢や葛藤という視線で論及していることに鮮烈さを感じ、偶然にも国分寺東映で、上映されていたので、すぐさま観に行ったことを覚えている(翌年、『花札勝負』もここで観ている)。わたしは、映画を観て感動して泣いてしまうという経験をそれまでしたことがなかったが、不覚にも、初めてみた東映任俠映画で泣いてしまったのである。客は、五、六人しかいなかったし、暗い場所だから、恥ずかしがる必要なかったとしても、やや、衝撃感を覚えたといってもいい。年齢を重ねると涙もろくなるものだというが、そんなことはない、若くても、泣くときはあるということだ。住んでいた長屋のようなアパート(みんなは、勝手に野人舎と称していた)の住人で、わたしより一、二歳年長の友人は、任俠映画を観て、つい泣いてしまうと、その頃よく話してくれていたから、内心、ほっとしたものだった(もちろん、恥ずかしくて、わたしもそうだと相槌をうたなかったのはいうまでもない)。
 ただ、いま思うと、どうして、『俠客列伝』なんだという感慨は残っている。その後、二度ほど、見直す機会があったが、どの場面で涙したのか、まったくわからなかったからだ。
 ただし、わたしは、『遊俠一匹 沓掛時次郎』や山下耕作の『関の彌太っぺ』(63年)を何度見ても、いまだに同じ場面で涙していることを告白しておきたい。
 池袋・文芸坐と新宿・昭和館という映画館は、わたしにとって、最も切実なる共同性の場所だったと断言できる。ほんとうは、この二つの映画館に特化して述べていくことが、わたしの「映画」をめぐる物語ということになるのだろうが、残念ながら、記憶は時間とともに希薄になり、詳細に語るべき残滓を集積することができなかったといっていい。ひとまずは、ひとつのテクストから二つの映画館について引いてみたいと思う。

  「昭和館(開館時定員570)は昭和七年(一九三二)一二月二二日に松竹・パラマウント作品を上映するSPチェーン封切館として開館した。(略)戦時中の昭和一九年(一九四四)四月、(略)空襲対策で(略)取り壊された。再建は昭和二六年(一九五一)で、(略)始めは洋画を上映していたが新東宝の封切館となり、(略)昭和三七年(一九六二)頃(略)から任俠物と喜劇の組み合わせ番組になり、次第に任俠映画が主体となった。(略)昭和館はこの界隈の空気に馴染むように存在していた。(略)任俠映画ファンに混じって、その日の仕事がなかったと思われる労働者らしき人たちが映画を観ずに座席で寝ていた。客層にも場所柄があらわれており、女性の単独客などは見たことがなかった。(略)平成一四年(二〇〇二)四月三〇日、建物老朽化により地下劇場と共に閉館となった。」(青木圭一郎『昭和の東京 映画は名画座』)

 昭和館で、どんな作品(東映任俠映画であることは間違いないが)を観たのかは、もう覚えていない。後に触れる文芸坐のオールナイト五本立ての作品群で観ていたもの以外ということになると思うのだが。ちなみに、地下劇場は1956年に開館したという。わたしが、知っている頃は、成人映画専門の上映館だったが、成人映画以外の作品を二回ほど地下劇場で観た記憶はあるが、自信はない。もしかしたら、文芸地下と記憶が混同しているかもしれない。
 「昭和館はこの界隈の空気に馴染むように存在していた」のは確かだ。わたしにとって、昭和館近くの飲食店が並ぶ路地の飲み屋に度々通っていたし、喫茶店名は忘れたが、片岡啓治氏と初めて会った時に指定された喫茶店が気に入り、頻繁に通っていたものだ。要するに、わたしは、昭和館の界隈が、新宿の中でも特に気にいっていたことになる。だから、歌舞伎町やゴールデン街は、銀座と同じ様に、遥か遠い場所であったといえる。
 「任俠映画ファンに混じって、その日の仕事がなかったと思われる労働者らしき人たちが映画を観ずに座席で寝ていた。客層にも場所柄があらわれており、女性の単独客などは見たことがなかった」という記述に対して、昔なら、感情的になり徹底的に批判の言葉を投げつけていたかもしれない。
 だが、わたしとは、同年の記述者に向けて、憤ってみたところで、自分自身が空しくなるだけだ。当時の、文芸坐のオールナイト五本立て上映の際も、満員席のほとんどが、学生たちや、けっしてスーツが似あうような人たちではなかったし、任俠映画や股旅映画の時は、女性客をほとんど見かけなかったといっていい。同世代で、任俠映画や成人映画を観るのは、映画好きの中では少数派だったといえるからだ。日本映画なら東宝や松竹の封切作品で、後は、洋画ファンが圧倒的に多かったといっていい。
 もう少し、踏み込んでいうならば、いまになって、回顧的に全共闘世代に支持された任俠映画といういい方があるが、それは、正しくはない。「全共闘世代」という世代の括り方が間違っているからだ(団塊といういい方にも、わたしは首肯しない。出生数が多い世代ということでいいと思うのだが)。全共闘を学生運動や対抗的な渦動のなかに身を置いていることの象徴として述べるならば、同世代でそのようなかたちで関わっていた者たちは、おそらく、一割にも満たないはずだ。そして、誤解のないようにいえば、任俠映画ファンがすべて、対抗・抵抗的な渦動の中に身を置いていたわけでは、もちろんない。運動に関わるだけの熱意はない、真面目に勉強し、単位を取って卒業して、それなりの会社に就職するといったイメージを抱くことができないといった学生たちの方が、多くを占めていたかもしれないからだ。やるせない感性を任俠映画の世界の中で慰藉されていくことは、わたしにはわかる。「その日の仕事がなかったと思われる労働者らしき人」たちと、わたしは形容して述べることに同意したくはないが、その「労働者らしき人」たちだって、任俠映画の世界に慰安を求めていたのだと、わたしには思われる。

 日々を慰安が吹き荒れて
 帰ってゆける場所がない
 日々の慰安が吹きぬけて
 死んでしまうに早すぎる
 もう笑おう、もう笑ってしまおう
 昨日の夢は冗談だったんだと
       (吉田拓郎「祭りのあと」)

 結局、けっしてハッピーエンドではない任俠映画に慰藉や慰安を求めても、ただ「吹きぬけて」しまうだけなのだ。わたしは、その頃、その時、どんな感性をもって、映画を観るために映画館へ出かけていったのかと思う時がある。わたしもまた、慰藉されたり、慰安を求めていたのだろうかと、振り返ってみるが、加藤泰のいい方に倣っていえば、「掟にそむいて、そこへ突入した男も女も苦しんだり悩んだり、それにぶつかってじたばたする。そのとき、いちばん美しい顔をします。僕はそう信じる。いちばんいい姿をしてくれます。僕はそう信じる」ということの地平を確認することにあったのではないかと、いまなら、いい切れるような気がする。そして、「掟」とは、いうなれば「共同幻想」であるといった捉え方を可能にしていると考えていたといっていい。

  「人生坐(引用者註・昭和四三年七月、閉館)の系列館として地下の文芸地下劇場は昭和三〇年(一九五五)の一二月二七日に既にオープンしていたが、地上にある文芸坐はやや遅れて翌昭和三一年(一九五六)の三月二〇日に開館した。(略)観客は常連が多く、タイトルに贔屓の出演者名が表れたり劇中に登場すると、拍手や『ヨォーシ』と言う学生集会のような声が掛った。(略)平成九年(一九九七)三月六日、建物の老朽化により閉館となった。(略)跡地に(略)新しいビルが建築された。(略)三階には平成一二年(二〇〇〇)一二月一二日に新文芸坐(266席)がオープンした。」(『同前』)

 わたしは、なぜか新文芸坐には、一度も行ったことがない。文芸坐での映画的熱気を記憶のなかに、残存させていたいからといえば、聞こえはいいかもしれないが、単に、池袋まで出かけていく気分が、なかなか湧いてこないからだ。
 文芸坐の土曜日終夜上映(五本立て興行)が、いつから始まったのか、前著によれば、1968年5月の石井輝男監督作品『網走番外地』シリーズの第一作から第五作までのオールナイト興行だったという。以後、『日本俠客伝』シリーズや『昭和残俠伝』シリーズなどが上映され、「毎回大入りとな」ったが、「地元の東映系の映画館からの反対によって昭和四六年(一九七一)二月までで終了した」という。ただし、「昭和四七年(一九七二)頃から日活映画のオールナイト上映が始まっ」たと記している。
 わたしは、69年から70年にかけて、もしかしたら71年も含めて行ったのかもしれないが、はっきりしたことはいえない。ただ、『番外地』や『残俠伝』シリーズを観に行ったことは、覚えているし、『鈴木清順大会』、『大島渚大会』(『日本の夜と霧』と『日本春歌考』だけを観たいために行ったから、他の三本の時は、ほとんど寝ていたと思う)、加藤泰作品を観たいために『中村錦之助大会』などに行っている(〝大会〟と称していなかったかもしれないが、わたしたちは勝手にそう捉えていた。『錦之助大会』とは別に『加藤泰大会』もあったと思うが記憶は曖昧だ)。
 ところで、「観客は常連が多く、タイトルに贔屓の出演者名が表れたり劇中に登場すると、拍手や『ヨォーシ』と言う学生集会のような声が掛った」と記されているが、わたしが観ていた時とは、かなり違う印象があるから、もう少し詳細に述べてみたい。まず、「観客に常連が多い」から、画面に向かって拍手したり声を掛けたのではないと思う。ほとんど、自然発生的に湧き上がってくるといった感じといえばいいだろうか、タイトルが出ると、まず歓声と拍手、そしてスタッフ・キャストのクレジットが始まり、高倉健や藤純子という文字が表れると、当然、大きな拍手が起こる。だが、特に加藤泰や鈴木清順の時は、タイトルクレジットの最後に監督名があらわれるとさらに大きな拍手が起きて、感動的であった。
 誰もが、初めはそうだったのかもしれない。あるひとつの映画作品を観たいと思う契機は、物語に惹かれたり、好感する俳優が出演しているからということが多いに違いない。わたしは、映画に対して、監督主義あるいは作家主義的に作品を追いかけていくということを、この時期に感得したといっていい。だから、監督名がクレジットされた時、大きな拍手と歓声(鈴木清順の時は、「セイジュン」と声が掛る)が湧き上がることに、わたしは感嘆することになるのだ。
 もちろん、タイトルクレジット時だけに応答があるわけではない。映画という物語との往還のなかで、観客たちは、たえず共同性をかたちづくっていくのだ。
 例えば、『昭和残俠伝 血染の唐獅子』(監督・マキノ雅弘、67年)では、殴り込みを決意した高倉健を藤純子が泣きながら止める場面にたいして、観客席からいっせいに、「めそめそするな」と声が飛ぶ。殴り込みに行って、高倉健が、「死んで貰うぜ」という台詞が出ると、「ヨォーシ」や「異議なし」の声がかけられる。
鈴木清順の『けんかえれじい』(66年)では、タクアン(片岡光雄)がステッキで桜の樹を叩くと、はらはらと桜の花が散る場面に、「セイジュン!」と声が放たれる。あるいは、終映の“終”や“完”の文字が表れると、いっせいに拍手が鳴り響くのだ。
 歌舞伎というものを、わたしは観劇したことはないが、芝居の中で役者の通称名が客席から発せられるようだが、むろん、当時の文芸坐や昭和館の観客たちは、誰も歌舞伎を観劇したことはないと、いい切っていいと思う。例え清順映画に、歌舞伎的様式美があったとしてもだ。
 わたしたち観客の応答は、街頭での示威行動や“学生集会”のなかで発せられる応答とは、似て非なるものだ。情況的なるものの同時性はあったとしても、「映画」をめぐる共同性の発露は、あくまでも、「映画」という物語から喚起されたものだからだ。そして、これだけは、強調しておきたいことだが、観客それぞれは、映画を見終え、劇場を出ていけば、ふたたび、会いまみえることもなく離散していくことになるとしても、共同性をかたちづくったことの事実は不変だといえる。それは、いわゆる反抗と対抗の渦動の時代だったからこそ、映画になにがしかの思いを仮託していたための応答だったからだといいたい。

(『塵風 第7号』18.7.15)

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