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2018年2月24日 (土)

新居 格 著『杉並区長日記――地方自治の先駆者』    (虹霓社刊・17.10.20)

 恐らく、戦前期の社会主義運動やアナキズム運動に関心を持っていたとしても、本書の著者、新居格(にいい・いたる、一八八八年~一九五一年)を知っている人は、極めて少ないと思う。
 例えば、アナキスト詩人・秋山清は、新居について「啓蒙的社会評論家として、アナキズム思想家として、文芸および文化批評家として、またユニークな短編小説家として、最後に、太平洋戦争後に東京都杉並区の戦後第一回の区長選挙に当選し(略)一個の知識人として多面的すぎるほどの特長を身につけた生涯」(「反骨の自由人 新居格」・七一年一〇月)を送ったと述べている。わたし自身、秋山の新居論に誘われるようにして、機会があれば、新居の著作に接してみたいと思ったのだが、いつのまにか閑却してきたのだ。それには、幾つかの事由があるのだが、たぶん戦時下でも情況とは距離を置いていたため、戦後直ぐに旺盛な執筆活動を開始し、ついには、一年間だったとはいえ四七年に杉並区長として、その任にあったことに、不思議な感慨を抱きながらも、なぜか、積極的に接近しようという思いが湧かなかったからかもしれない。だから、長い時間を要して、ようやく、いま新装版(五五年刊の『区長日記』を底本とし、七五年刊の『遺稿・新居格杉並区長日記』を適宜、参照)の本書を読むという僥倖を得たことになる。
 そして、読了後、わたしは率直に驚嘆したといいたい。新居格という人物像や、その著作活動を熟知していなくても、本書は、副題にもあるように、地方自治、あるいは行政というものはなにかということを、ほとんどリアルな視線で、〈現在〉を見通していることになるからだ。
次々と軽佻な知事に変わる東京都や排他主義の知事を生んだ大阪府の有様、さらには国会議員の劣化が、そのまま、地方議員にも汚染しているかのような、皮相な不祥事の頻出を思えば、杉並区長・新居格を、〈鏡像〉とすべきだと、わたしは、いいたくなってくる。
 「天下国家をいうまえに、わたしはまずわたしの住む町を、民主的で文化的な、楽しく住み心地のよい場所につくり上げたい。日本の民主化はまず小地域から、というのがわたしの平生からの主張なのである。/美しくりっぱな言葉をならべて、いかに憲法だけは民主的に形作っても、日本人の一人々々の頭の中が、相変わらず空っぽであり、依存主義であり、封建的であるのでは、なんにもならない。わたしは、日本中のあちこちの村に大臣以上に立派な村長ができたり、代議士以上に信用のできる村議会議員がぞくぞく出てくるようでなくては、本当の民主主義国家の姿ではないと思っている。」「彼らはいう。――君は理想主義者だから現実を知らぬ、と。だが、わたしはそれに対してこう抗弁することが出来る。/わたしが現実を知らぬというのは間違っている。ただ、君等と現実の認識に相違があるだけだ。そしてわたしは昂然といい放った。/君等の現実の認識とは、旧態依然たる現実が対象ではないか。それに反してわたしのは、進行形においてなされるのだ、と。」「首長は、外部にたいしましては全的に責任を負うものではありますが、内部的には各自がそれぞれに全責任を負うわけになるのであって、わたしたちの職場ではだれもが誰をも支配していないのでありまして、あるものは分担の相違だけなのであります。」
 当時、杉並区は人口三十万人だった。区長とはいえ、地方の県庁所在地の市と同じ規模を有していると考えてみれば、新居の首長としての構想は、大胆で斬新過ぎたといえるかもしれない。新居が杉並区長だった時から、七十年経ったことになる。だが、新居の地方自治の構想からは、大きく後退・停滞しているのが、現在的な様態だといっていい。
 「わたしたちの居住地区では区議会議員がある。そのうちで、都議会議員に可能性があると思うものは、この次には都議会に出るという気になるのだ。(略)次には国会ということにする。そこに根本的な誤謬があるので、その連中は初めから自治体の意義を知らず、小地域ながら自治体のためにつくすことがいかに尊貴なことであるかを弁えないのだ。」
 そもそも、〈政治家〉は、パブリックサーバントであるべきである。しかし、いつの間にか、自らの地位に権力という媚薬があることに酔いしれていく結果、たんなる上昇志向という病に罹っていくことになる。
 地方行政が、国からどれだけ多くの予算を配布してもらうかということに汲々としている限り、地方自治というのは幻想態に過ぎない。国から村へと至る現在の垂直的な構造を考えてみれば、新居が描く、「まず小地域から」というベクトルの可能性は、明らかに至難なことに思えてくる。「政治力とは、他の区を出しぬいて都からより多くの交付金(略)をせしめることなのか」と新居は憤怒する。選挙の度に住民のためといいながら、当選してしまえば、自らの地位に連綿としている〈政治家〉たちがゾンビのように蔓延っていては、〈政治〉は、わたし(たち)の〈生活〉と相反する位相でしかないと断定していい。
 持病であった腎臓疾患が悪化せず、少なくとも、数年、杉並区長を続けて、新居格の〈理想〉の落葉でも残してくれていたならと思わずにはいられない。

(『図書新聞』18.3.3号)

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2018年2月17日 (土)

五十嵐勉 著『破壊者たち』(アジア文化社刊・17.9.7)

 五十嵐勉が著した本著を読み終えて、真っ先に思ったことは、なぜこれほどまでに苦悶する物語を、著者は描出しようとしたのだろうかということだった。
 物語(小説作品)というものは、現在と未来をどのように見通すことが出来るのだろうかというモチーフを有していると、わたしは理解してきた。だからといって予定調和的な展開であるべきだとは思わないし、押し付け的な未来像を見せられることを求めてきたわけではない。例えば、高橋和巳がかつて著した『邪宗門』(六六年刊)という小説を、救済のない、ただ破滅していくだけの物語だと、当時、多くの批判にさらされていたのだが、共感していた読者であるわたし(たち)は、けっしてそうは捉えてはいなかったのだ。なぜなら、マイナスの位相を集積していくこと(つまり、“敗北の構造”を徹底的に感受することで理解しうる道筋というものがあるのだという思い)によって、必ずどこかでプラスの位相へと転化していく可能性があるはずだと考えていたからだ。
 本書の物語は、三つの場所からの視線を交互に描きながら展開していく。「マネキン破壊のアルバイトという現在の東京」、七十年代中頃から生起したクメール・ルージュ(カンボジア共産党)に参加している一兵士の独白に添って描像していくカンボジア、四五年八月、ヒロシマに向かって原爆投下を任務とするエノラ・ゲイの機内というそれぞれの場所は、ひたすら大量破壊と大量殺戮へと向かっていく場所でもある。
 著者は、本書のなかに挟みこまれている冊子のなかで、次のように述べている。
 「原爆を落とす側、虐殺をする側には、何か共通するものがあるのではないか、という考えが以前からありました。大量破壊、大量殺戮に通底するものを小説という方法で探ることです。人間の意識には、戦争や集団の機能行為を通して出現してしまう危険なものが潜んでいる。それを抽出してみるという作業です。それは遠いできごとや行為ではなく、日常生活や普通の市民生活の中に、潜んでいる。」(「『破壊者たち』をめぐって」)
 破壊や殺戮をしながら、あるいは、これから膨大な無辜の住民の命を奪うため原爆を投下しようとしていながら、どこかで逡巡しつつ、自らの行為を正当化していく像をそれぞれ次のように著者は描出していく。
 「マネキンたちは、大きな群れとして僕と対峙し、(略)声は複数になり、そして不意打ちのようにあちらこちらから投げかけられてくる。(略)反感や非難は僕の体や頭や手足を打つが、僕はひるまない。むしろそれと闘うことによって、僕のパワーは大きくなり、よりいっそう熱い力が残酷さを増してマネキンの群れに向かっていく。」「いったんある線を越えてしまうと、人間は何か別なものになっていく気がします。それは人殺しの機械として機能していくことでもあり、何か麻薬のように、それをしないと落ち着かなくなるのです。(略)すでに私たちには大義はなく、(略)我々の生活とは死刑執行であり、首を打って穴の中へ投げ込むことが、仕事だったのです。」「おれはただ、『この作戦が成功すれば、終戦を早められる』という言葉を信じた。おれはそれをスチムソン陸軍長官からもじかに聞いた。おれは信じた。そのためだったら、どんな孤独にも耐えられる。おれは耐えた。だからこそこの空の青さが美しく思えるのだ。」
 破壊や殺戮をする行為を狂気性として捉えるとして、では、その狂気の始原つまり、狂気の母型とはなにかと考えてみる。誰にでも、狂気性は潜在しているのだと捉えていくならば、人間という存在そのものが、狂気の母型といえるのかもしれない。しかし、それでは堂々巡りでしかない。どこかで、それを転化する契機はあるはずだ。著者も、「日常生活や普通の市民生活の中に、潜んでいる」と述べるように、夫婦、親子、兄弟間であっても、命を奪う行為はあるし、突然、なんの関係もない人たちに襲い掛かって殺傷する事象も多くあることを考えてみれば、戦争や内戦だけが殺戮の場所ではないことは、自明のことである。しかし、それでもなお、〈死〉より〈生〉のほうが、「美しく思える」場所を紡ぎ出すことを、微力ではあっても、一人ひとりが日々想起していくことからしか、マイナスをプラスへと転化できないといいたい気がする。
 「集団の機能行為を通して出現してしまう危険」性と著者が述べているように、個が共同性のなかに置かれた途端、個の屹立性を喪失していくことを、わたし(たち)は知っている。だからこそ、まず一人ひとりが母型からの再出発を試みることだと、『破壊者たち』という物語を通して、わたしが喚起されたことだ。

(『図書新聞』18.2.24号)         

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2018年2月10日 (土)

吉本隆明 著『吉本隆明質疑応答集 ② 思想』        (論創社刊・17.9.25)

 吉本隆明の講演後の質疑応答をテーマ別にまとめて全七巻で刊行するという画期的な企画の第二巻が本書だ。このような企画が成立するのは、吉本隆明が絶えず切実に情況的課題や思想的課題に真正面から向き合い続けてきたからだといっていい。特に、本書の前半部に配置された1967年10月12日から11月26日にかけて中大、早大、国学院大、関大の四カ所で行われた質疑応答は、白熱化するというよりは、いわゆる67年10.8羽田闘争直後の対抗的運動の高揚が投射されて、国家や権力の所在をめぐって吉本と学生たちとの拮抗と離反していく言語の応酬が苛烈だ。読みながら、わたしは、同世代であった学生たちへ、ある種の痛ましさを感じないわけにはいかなかった。吉本の『共同幻想論』が刊行されたのは、68年12月であったし、その前半部は雑誌「文藝」に66年から67年まで連載されたものだが、もとより、わたしもそうだったが、雑誌「文藝」を手に取るはずのない学生たちは、吉本が展開していく「共同幻想」の概念を、未消化のまま誤解していくのは無理がないかもしれない。だが、66年10月に刊行された『自立の思想的拠点』には、『共同幻想論』のモチーフを込めた論稿が幾つか収められていたから、それらを了解していれば、もう少し冷静な質疑応答が成立していたのかもしれないが、10.8以後の高揚は、論議を皮相な情況論的な場所へと押し込んでしまったといえる。
 四大学での講演から一年半後、つまり、10.8以後、全国的に拡がっていった大学闘争(高校での闘争もあった)は、東大安田講堂の攻防を頂点として、さらに苛烈なかたちで続いていったわけだが、吉本は、学生運動をまるで革命闘争のように鼓舞していった歴史学者・羽仁五郎を次のように述べて、断じている。
 「いったいこの老人は、安田講堂に赤旗がたち、都庁に赤旗がたち、つぎにまたどこかの都市や地域自治体に赤旗がたつという具合に拡がれば、国家が覆滅するなどと本気でかんがえているのでしょうか。(略)羽仁五郎の『エキストラポレイション』(引用者註・「外挿」)の論理は、いかように学生や労働者に実践的に蔓延しても、政治的国家の本質に一指も触れられないということは申すまでもないことです。この老人は、本質的には社会的な運動の課題でしかない問題を、政治的な運動の課題と滅茶苦茶に混同しているにすぎないのですが、こういう馬鹿気た論理が、現在急進的な学生たちに受けいれられる基盤があるとすれば、そこにたちどまって考えてみるだけの問題がひそんでいるにちがいありません。」(「情況への発言」69年3月)
 後年、70年前後の学生運動に大きな影響を与えた思想家として吉本を称揚する文章を多く散見することになるが、それは、記号化すればわかりやすいという安直な捉え方に過ぎない。たとえば、国学院大と中大では、運動の主体的な担い手たちの党派性は、両極端といえるし、わたしが、当時の情況を想起してみれば、吉本を読んでいるのは、運動の主体的な担い手というよりは、その周辺にいる学生たちの方が多かったはずだ。70年6月に結成された共産同叛旗派の集会で、吉本はしばしば講演をしているが、叛旗派にシンパシイを寄せているからではなく、六十年代から関係が続いている三上治(味岡修)の依頼に応じているにすぎないのだ。
国学院大での応答を引いてみる。
 質問者「一般の大衆は意識しないでも国家の共同性に対立しているとしても、彼らにたいしてたんにイデオロギー的な先験性を打ち出していくのじゃなくて、大衆そのものを止揚していく立場に立たなければだめだと思うんです。」
 吉本「(略)大衆というのはね、あなたのいうようにイデオロギーをそこに注入すべきものだというような、そんなものとはまったく反対なんですね、(略)僕はその大衆というものを全体として把握するばあいには、その裏面というものを考えるわけです。つまり、大衆はいったんある契機というものがあるばあいには、かならずあらゆるイデオロギー的抑圧をくつがえしていくものだということ、ある契機さえあれば、転化しうるものだということですね。大衆は国家の共同性にそう易々諾々として服従しているとは考えない。」
 大衆をよくいえば啓蒙、要するに組織(コントロール)していこうとする学生たちと、大衆の側にたって情況的な位相を見通していこうとする吉本との間には、大きな障壁が横たわっているかのようだ。わたし(たち)は、革命運動を領導する前衛なんかではない、大衆の一人一人であることを彼らは理解できないのだ。その後、質問者たちは、「あんたはな、大衆の反体制的な後退的な意識に依拠しているんですよ」「あなた自身がね、現実的な階級闘争をどう必然的に高めていくか、そういう立場こそ問題なんですよ」と畳みかけていく。吉本は、「何いってるんだい、僕は少しも依拠なんかしてないよ」「何いってるんだ、それはあなたの問題だよ」と述べながら次のように応答していく。
 「私らはね、安保闘争以後ね、独立ですよ、独立、自立ですよ。そして、私たちはやってきているんですよ。宣伝、啓蒙から、理論的建設の過程まで全部やってきてるんですよ、一貫して。」
 本書では、後半部、柳田国男、竹内好、〈アジア的〉な問題など重要なモチーフの講演後の質疑応答も収められていて、そのことに触れることはできなかった。しかし、『共同幻想論』が、わたしたちの前に現出する前夜、吉本の「独立」、「自立」、「一貫して」といった言葉の発露に、思想の根源からの熱視線を感じないわけにはいかなかったといっておきたい。

(『図書新聞』18.2.17号)

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2018年2月 3日 (土)

三上 治 著『吉本隆明と中上健次』(現代書館刊・17.9.7)

 著者は、本書の中で、「初めて訪ねたのは、一九六〇年の九月か一〇月のことであった」と記しているように、吉本隆明と長い交流を続けてきたことは良く知られている。機縁はもちろん、六〇年安保闘争であるのは、いうまでもない。著者はその後、社学同全国委員長になり、七〇年には、神津陽とともに共産同叛旗派を結成する。叛旗派の集会や中央大学で、吉本はしばしば講演をしているが、それは、ひとえに三上治との通交によって実現したものだといっていい。「図書新聞」紙上で、「吉本隆明と中上健次」と題して連載が始まった時、没後、多くの吉本論が氾濫するなかで、現実的な場所で、〈政治運動〉として吉本思想の核心を、最も実践してきた三上治(味岡修)が、吉本を本格的に論ずることになったことを、わたしは期待を抱きながら読んでいた。いま、一冊に纏まったかたちで通読して、やはり、著者だからこそ、吉本思想の深遠へ、さらに深奥へと論及していることに、率直に共感したことを、まず述べておきたい。
 開巻(「第一章 死の風景・精神の断層」、なお、「序章 『三・一一』の衝撃」では、小沢一郎との対談が“幻”に終わったことが記されていて、興味深い)、三・一一以後のほぼ一年間の〈最後の吉本隆明〉へ、静謐ながらも鮮鋭に視線を射し入れていく著者の言葉はなによりも苦闘の中から滲み出ているといいたくなる。
 「経験として取り出した言葉や抽象には、他者の経験が介在してもいるのだ。事実そのものと、事実として取り出したものとは同じではない。これは前提である。しかし、事実は先験的な理念との現実の誤差を教えてくれるのであり、それは理念を開いていくことを可能にする。」「僕は、吉本がなぜに原発容認の考えであったかをエコロジカルな思考への批判も含めて知っていた。(略)僕が吉本に魅かれてきたのは、その思考が事実に対して開かれていること、経験的であることだった。原発問題でも気にかけていたのはそこだった。」「吉本が繰り返し述べているのは、原子力エネルギーに害があるのであれば、その防御策を同時に発展させるのが根本問題であり、止めるのは科学的でないということだ。これは彼の強固な科学技術についての考えであり、福島の事故を目にしても変わらなかったものである。/僕はこうした考えを取らない。人間が生み出した科学技術を人間の意志で止められないとは考えない。また、ある領域で科学技術の進展を留めるのを人間の退化だとも思わない。」
 わたしも、〈最後の吉本隆明〉に接して、戸惑いを払拭することが出来なかった。頑迷に、「科学技術は後戻りできない」とする主意に、『最後の親鸞』で、〈往相〉、〈還相〉という概念を析出した吉本にとって、科学技術(科学知)に関しては、〈還相〉がないことになると思ったからだ。つまり、著者の言葉を援用していくならば、なぜ、科学技術や科学知をめぐって「理念を開いていく」ことをしなかったのかということになる。
 本書は、「第二章 安保闘争のころ」から「終章 『いま、吉本隆明25時』」まで、吉本の思想を語り、中上健次の文学を語り、著者と中上が企画して、八七年九月に行われた「いま、吉本隆明25時」をめぐって述べながら、本書を閉じていく。
 「我が列島に存在してきた共同幻想の歴史的な構造を析出し、その一部に過ぎない天皇制的な共同幻想が支配力を持つ現状を無化する試みは未知の思想として今も残されているといえる。このころ『共同幻想論』は別の形でも読まれて衝撃を与えていたが、その中に中上健次も存在していた。」「吉本も中上も文学を基盤として活動していたのだから当然だが、彼らが執着していたのは幻想ということだったように思う。幻想としての人間の存在を追い、それを生涯にわたって考え抜いたのだと思う。彼らが遺した膨大な作品は、彼らが紡ぎだした幻想にほかならない。幻想とは幻影でも想像力でもない。それらを含む人間の精神的(心的)な表出であり表現なのだ。」
 中上健次は、『岬』で芥川賞を受賞したのを契機に、わたしは読むことになる。いつしか、芥川賞作家などという冠を忘失するほどに、旺盛な中上の仕事に随伴していった。敢えて絞りに絞って述べるならば、わたしは、『千年の愉楽』と『鳳仙花』がいいと思っている。中上の、『共同幻想論』角川文庫版の解説がいい。中上らしい熱い言葉に散りばめられた文章が、うれしかった。著者が、「幻想とは幻影でも想像力でもない。それらを含む人間の精神的(心的)な表出であり表現なのだ」と述べて、吉本隆明と中上健次を繋ぐ時、それは、「世界」を震撼させることの可能性を見通すことであったと、わたしなら思う。中上は、吉本の詩「廃人の歌」のなかの一節「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」を好んで援用していた。ならば、本書に誘われながら、わたしは、微力ながらも、そのことを追認し、先へ先へと進むしかないと思っている。

(『図書新聞』18.2.10号)

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