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2017年8月11日 (金)

月犬句集『鳥獸蟲魚幻譜抄』を読む

 著者の第一句集である。文庫サイズで表紙、裏表紙を含め20頁、作品数は、六十一。だが、作品世界は濃密である。

  蝶群れて激しく水を吸ふ白晝

 巻頭の一句である。わたしにとって、偶然にも、二年前、リアル句会で接した作品である。五句提出されたなかで、「棒立ちの神と私と酔芙蓉」とともに、わたしは選んだ。俳句の実作をしないわたしが句会に参加するという大胆なことをしたのは、ひとえに、著者の強い勧めによる。
 この時の句会報に、わたしは以下のような文章を記した。

 言葉(言語)というものには、自己表出と指示表出という二つの位相があるとして、自己表出を突き詰めていけば、「沈黙にいちばん近いところの言語」(『第二の敗戦期』)になると、吉本は後年、語っている。言葉(言語)というものが、リアルなコミュニケーション・ツールであるという拘束性から放たれて、沈黙のコミュニケーションへ至るということを考えてみた時、俳句作品が通交する場所は、まさしくそういうことなのではないかといいたくなる。つまり、言葉が本来の意味を超え出ていく時、作り手と読み手の間に不思議な沈黙のコミュニケーションがかたちづくられていくことになるのだ。「棒立ち」が「酔芙蓉」へと展開されていく情景や、「蝶」の「群れ」から、「白晝」へと連結されていく時、ここでの超え出ていく言葉たちは、まさに、そういうことを、わたしに喚起してくれる。                         (『夜河』No.02---2015.10)

 ここで述べたことを、幾らか補足したい欲求がいま、わたしに起きている。俳句の実作者と作品のモチーフとの間にもまた、沈黙のコミュニケーションへ至る往還の場所があるのではないだろうかと。モチーフが実景か想起したものかに関係なく、作者自身が俳句という表現のなかに、自分自身を投射して沈黙の共同性をかたちづくることで、作品というものを屹立させていく。月犬作品に接して、わたしが、感受することは、それに尽きるような気がする。
 「激しく水を吸ふ」のは、作品のモチーフとしては、“群れた蝶”なのだが、実は、“自分自身の有様”を描出しているのだといいたい。“白晝、群れた蝶が激しく水を吸ふ”というイメージは、作者自身が、“激しく水を吸ふ”ことへコミュニケートしていくことの動態というべきではないのか。なによりも、強調していいたいのは、“飲む”のではなく、“吸ふ”ということにある。だから、“激しく水を吸ふ”ことは、“有様”であるとともに、“このようにしか生きられない”という〈表象〉なのだ。

  遠くから砲聲聞こえ蝶の午后
  手にすれば若き蝗の濡れてをり
  象連れてゆく七月の海岸へ
  夜の鳥霧動きたる河口かな

 月犬俳句が、わたしを刺激してやまないのは、絶えず喚起する詩語があるからだ。“砲聲”と“蝶の午后”、“若き蝗”と“濡れて”、“象連れて”と“七月の海岸”、“夜の鳥”と“河口”というように、詩語を連結させながら多様なイメージを喚起する、これらの作品は、わたしをいうなれば言葉以前、つまり未生の世界へと誘っていくかのようだ。戦争や争闘といった情況のなかでの“砲聲”を、“蝶”を媒介することによって、無化していくと見做してもいいのだが、わたしは、少し反転させて読み解いてみたい。“蝶”は、作者自身(あるいは、投射された作者像)であり、“砲聲”は、様々に重層化する人の大声であり、雑音のような言葉の暗喩と捉えるならば、“午后”という“場所”は、それを遠ざけていく〈時間性〉として描出されていくことになる。

 手にすれば若き蝗の濡れてをりの“濡れた蝗”に視線を馳せる作者自身の抒情的感性に、わたしなら、率直に感応する。

 象連れてゆく七月の海岸へを初出時に見たとき、“大往生した井の頭の動物園の象なのか。ならば、海岸ではなく、ほんとうは彼岸なのかもしれない”と解したのだが、時間が経過すると、“象”は、様々な生命ある存在の象徴として見做すことを可能にしている。“連れてゆく”場所が、“七月の海岸”であることによって、詩情性が横断していく。

 “河口”という詩語は、直ぐに重信の作品を想起させるが、夜の鳥霧動きたる河口かなでは、“夜の鳥”という有様によって、俯瞰視線を持つ鮮烈な作品として、わたしは感受した。

 これらの作品は、すべて初出時になんらかの応答をしたものだ。
以下、幾つか作品を引いてみる。

  もうすでに壱個の死なる夏の蝶
  魂の柔らかきところに靑蜥蜴
  海渡る宣教師の夢の鯨よ
  壱本の杭を離れぬ冬鷗
  鱶裂かる遠い港の夜更けかな

 
 句集名から分かるように、全作品、“生命あるもの”を織り込んでいる。だからといって、著者は、生命賛歌のようなことはしない。むしろ、生きていくことの苦渋感のようなものを胚胎させていく。 

  白鳥や未來といふは仄暗し

 最後の作品は、そのことを最も象徴している。わたしのなかで、“白鳥”は、アンビバレンツな存在である。けっして、なにかを仮託したくなるような存在ではない。確かに、“白鳥”と“未來”は連結しやすいこととして想起できるかもしれないが、反転させてみれば、そこは、“仄暗”い場所を表出するものとして、描像できるのだ。だから、迷わず、“暗ければ渾べて良し”といいたい。


※夜窓社・刊、2017.7.20発行(非売品)。但し、正式な書名は、“魚”の“脚”が、“大”である。

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