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2017年7月29日 (土)

渡辺雅哉 著『改革と革命と反革命のアンダルシア――「アフリカ風の憎しみ」、または大土地所有制下の階級闘争』(皓星社刊・17.2.28)

 いまから八十年以上前、1936年から39年にかけて、スペインで生起したファシズムへ抗した闘い(およそ六十万人の「スペイン人の生命が失われた」といわれている)というものがあった。わたし(たち)は、1970年前後、折からの情況との対峙のなかで、ひとつの理念が敗北の構造へと向かっていく予兆というものを、当時から遡って三十数年前のスペインという場所へ、共感を抱きながら、見通していたといっていい。なぜなら、その頃、市民戦争、内戦、革命といった多様な視線で捉えられてきたスペインの情況を、わたし(たち)は、短期間とはいえアナキストたちが主導した、世界史的に唯一の革命だったという意味で、スペイン革命と見做していたからだ。しかし、わたし自身は、ただ都合よく、自分の理念の方に引き寄せていたに過ぎないことを、間もなく知ることになる。当たり前のことではあるが、国家の有様というものを、ひとつの普遍概念(共同幻想)として見通すことはできるとしても、しかし、個別的、地域的な国家性(共同性)というものを捨象してはならないということを認識するようになっていた。
 本書は、スペイン革命を形成した根源、つまり、スペインにおいて醸成された初源のアナキズムというものを照射した画期的なスペイン内戦(あるいは革命)前史に関する論考集である。それは、同時に、そもそもアナキズムとは何かということを問うことでもあるし、やや手垢に塗れた言葉かもしれないが、民衆のエートスを切開していくことでもあるのだ。だから著者の視線は、いわゆる「都市エリート」が集まるカタルーニャ(バルセローナ)やマドリードといった場所を反照させるうえでも、必然的に南スペインつまりアンダルシアへと向けられていくことになる。
 「19・20世紀の南スペインの『膨大な数の農民大衆』をあえて『アンダルシアの民』と呼ぶことにしたい。」「本書の最も大きな狙いは、特にFRE(引用者註・スペイン地方連盟)に端を発する『純粋』アナキズムの水脈に着目しつつ、『アフリカ風の憎しみ』を刻印された19世紀以来のアンダルシアの階級感情が第2共和制期を通じてさらに悪化し、ついには1936年7月の破局へと雪崩れ込む過程を描くことにある。」
 アンダルシアは、大土地所有制度の下、「農業エリートと『民』とを引き裂く階級憎悪」というものが、潜在していた。著者は、それを「アフリカ風の憎しみ」と象徴化している。そして、「膨大な数の農民大衆」の、ほとんどが「日雇い農」であったと述べていくのだ。
 本書のなかで、著者が「1868年の9月革命の余燼がくすぶるスペインに、イタリア人のジュゼッペ・ファネリによりもたらされたミハイル・バクーニンのアナキズムの理念は、カタルーニャと並ぶ――また、ときにはカタルーニャをも凌駕するほどに――大きな支持基盤をアンダルシア、ことにグアダルキビール川の中下流域に見出す」と述べているように、わたしが、スペインのアナキズムに関心を抱いた契機として、アナキズム思想の最高の体現者であるミハイル・バクーニンの影響を知ったからだった。「『純粋』アナキズムの水脈」と著者が捉えるのは、そういう意味が含まれているのだ。
 だから、著者の論及を援用して述べるならば、「日雇い農」として在り続けた「アンダルシアの民」の「革命的な集合心性」には、そもそも「土着の社会主義」、「村落アナキズム」が胚胎していて、それが、バクーニン思想に喚起された「純粋」アナキズム理念として表出していったといえる。
 そして、改革と革命への渦動のなか、アナルコサンディカリズム、リベルテール共産主義といった思想が「アナーキー」をめぐる隘路のなかに入り、様々な軋轢が生起したことによって、「純粋」アナキズムが後退、変容を強いられていったことを、「1936年7月の破局」へ連結させながら、著者は、壮大な物語を紡いでいったのだと、わたしには思われる。
 そもそも、わたしは、リベルテールと共産主義、アナキズムとサンディカリズムを繋ぐ契機を、スペインに限らず、どの場所においても疑問を抱いていた。極端な比喩をいえば、アナキズムとマルクス主義を折衷するようなものだと考えられるからだ。
 「アルフォンソ・ニエベスの議論は、(略)革命を『アナーキー』のなかで実現される『物質とモラルの両面における人類の再生(略)』の事業と規定する。(略)そこで、『アナーキー』へと至る途上に『浄化(略)のための一時期』が設定される。ニエベスの理解では、この時期こそが『経済的な解放』、言い換えればリベルテール共産主義の段階に他ならない。」
 ロシア革命後の過度期国家論に通底する「リベルテール共産主義」の措定の仕方だといっていい。「人類の再生」という空無な概念は、置いておくとしても、「経済的な解放」ほど、怪しげないい方はないのだ。
 「ファン・ガリェーゴ・クレスポとマウロ・バハティエラ・モラーンを通じて、FAI(引用者註・イベリア・アナキスト連盟)はアナキズムとサンディカリズムとの関係をめぐる議論を持ち出した。(略)ガリェーゴ・クレスポにとって、資本主義に対する闘争の『武器』としてのサンディカリズムを培い、導くのがアナキズムの精神に他ならない。従って、(略)資本主義が消滅すれば、サンディカリズムはその存在の必要性を失い、サンディカリズムは『理想』、つまりアナキズムの精神のもとに『自動的に』吸収される。」
 論者は違うが、ここで述べられていることは、サンディカリズムもまた、リベルテール共産主義と同じような位置づけになるといえるはずだ。
 「リベルテール共産主義の実現は、すべての住民の集まり(略)がそのまま『自由な自治体』へと転化する農村においていっそう容易なものと考えられていた。」
 ロシア革命が、やがて、ナロードニキの感性を簒奪して民衆のエートスとはかけ離れた方位へと向かっていたように、「土着の社会主義」、「村落アナキズム」こそが、「アナーキー」の源泉であったことをスペインのアナルコサンディカリストたちは、置き去りにしていったために、悲痛な終焉を招来させてしまったのだと、本書を読み終えて、わたしが真っ先に感じたことだ。

(『図書新聞』17.8.5号)

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