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2017年5月20日 (土)

河出書房新社編『高橋和巳 世界とたたかった文学』        (河出書房新社刊・17.2.28)

 わたしは、高橋和巳の文学、そしてそこに胚胎する思想に、青春期(高校一年生時の冬、刊行されて三ヶ月後の『憂鬱なる党派』を、一学年上の先輩に薦められて読んだのが、始まりだった)、大きな影響を受けただけでなく、自分自身の思考の原基をかたちづくる契機になったと思っている。以後、五十年以上にわたり、折に触れ、作品や評論等を繰り返し読み直している。作品でいえば、『邪宗門』、『憂鬱なる党派』、『悲の器』、『散華』、『堕落』、『日本の悪霊』であり、評論なら「暗殺の哲学」、さらには、本書で高橋和巳アンソロジーの巻頭に配置した「非暴力直接行動について」である。わたしにとって、高橋和巳の文学と思想は、いまだに、〈現在性〉としてある。
 本書の開巻の「高橋和巳、その人と時代」と題した文章で、「高橋和巳は一九六〇年代から七〇年代はじめにかけてのある時期、最も読まれた作家でした」「かつてあまりに多く読まれた反動と、そのあとの消費社会への流れは高橋和巳を忘れさせようとしたかのようです。しかしこの時代はもう一度、高橋和巳を呼んでいるように思われます。この誠実で、深く人間を見つめた文学者の作品はこれからこそ読まれなくてはならないはずです」と書かれているのだが、わたしには、幾らか留保したい感慨がある。最後の「誠実で、深く人間を見つめた文学者の作品」という結びには、もちろん異論はないし、まったく同意できる見方だ。しかし、「多く読まれた反動」ではなく、七十年前後の対抗と抵抗の渦動のなかで、高橋和巳の作品は、本人の心身の消耗とともに、皮相に消費されていってしまったのだと、わたしは、捉えている。卑近な例を挙げてみる。71年5月、わたしは、所属していた(といっても、活動からは、やや離れていたのだが)、大学新聞に、後輩に頼まれ、長めの高橋和巳の追悼文を書いた。後輩は、〝情況〟的な記事を差し置いて、一面全体を使い掲載した。その時の周りの反応は、実に冷ややかなものであった。高橋和巳の苦闘なる死は、ある意味、〝情況〟的なるものへと還元され沈められたのだと、わたしは思っている。
 河出文庫新装版『憂鬱なる党派 上』(16年7月刊)の帯文に、小池真理子が、「四十六年前。私は『憂鬱なる党派』を手にした男友達と、西日の射すバス停で何台もバスをやり過ごしながら高橋和巳の話をしていた」と記していた。わたしより数年年少の小池もまた、高校生の時、高橋和巳の真摯で誠実なる表現に喚起されたことがわかる。闘争や情況的なものとは、別に、そういう時期に高橋和巳は、感受される存在であったことを、わたしは強調しておきたいのだ。
 本書は、旧稿(三島由紀夫との対談、秋山駿によるインタビュー、埴谷雄高、大江健三郎らの追悼稿)のものも含めて、新たに書き下ろされた高橋和巳をめぐる論稿(杉田俊介、安藤礼二、友常勉、島田裕巳他)と対談、そして、高橋和巳の評論・エッセイを五編収録し、現在から見て、「世界とたたかった文学」を俯瞰できる構成となっている。二編ほど引いてみたい。
 「(略)私が挙げている幾人かの代表者のうち、自己の精神のアナキズムへの傾斜を自覚していったのは高橋和巳ひとりであるが、さて、全共闘運動にかかわった彼は、そのとき、ひとつの極度な困難に直面せねばならなかったのである。」(埴谷雄高「破局への参加」)
 「(略)『邪宗門』は、高橋和巳という作家の個性、さらにはモデルとなった出口なおと出口王仁三郎という『対』でありながらも一なる存在であるという宗教者たちの個性が渾然一体となり、それ以前にも以降にもなかったような、稀有な作品として完成されたのだと思います。列島一〇〇年の歴史を問いながら、未来にひらかれた作品になったのだと思います。」(安藤礼二「『邪宗門』の革命」)
 さて、陣野俊史と小林坩堝との対談「いま、高橋和巳を読むために」は、本書の白眉といっていい。1990年生まれの小林は、かつて「高校一年生になるまえの春休みです。河出書房から出ていた文庫版の『悲の器』を」(山羊タダシとの対談「高橋和巳の現在」―『幻燈 10号』09年11月)読んだのが、初めての高橋和巳との邂逅だったと語っていた。陣野の、「若い人がわりとすんなり入れたんですか」と小林に問い掛けているが、むしろ〝若い〟時期だからこそ、高橋和巳の〝誠実さ〟に共感できるのだ。小林の発言を引いてみる。
 「私がいちばんに挙げるとしたら『憂鬱なる党派』です。高橋和巳の文学はだいたい敗北というか、滅するというところに終局がありますけども、(略)主人公がほとんど餓死みたいな死に方をする。出版したかった原稿が主人公の西村の死後に子どもたちに紙飛行機にされて飛ばされて、それが地面に落ちてという場面があって。(略)私は、これは一つの希望なのかなと思ったんですね。(略)西村が死んでなお残った希望なのかなと考えたんですよね。誰にも手渡されない最後の希望。そこに共感可能性があるのだと。『邪宗門』の場合、餓死した一団にまつわる伝承めいた語りで終るわけですけど、それにも少し近いところがあって、何もかもが潰えたかのような、でもそれも希望なんじゃないかという気がします。強烈な敗北シーンではあるのだけれど、高橋和巳は希望を託したかったんじゃないかなと。無惨な美というか。そこに『精神のリレー』をみることも出来ると思うんです。」
 わたしは、この小林の捉え方は高橋和巳の世界を真っ芯で照射しているといってみたい。
 「すべて権力には、それに触れられれば逆上するにいたる『逆鱗』というものが存在する。」「個々の人間存在は、あるというだけではまだ価値ではないが、すべてが価値可能体である。」(高橋和巳「非暴力直接行動について」)
 これらの言葉は、〝世界とたたかう〟ための矜持でもある。

(『図書新聞』17.5.27号)

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