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2017年3月11日 (土)

青木孝平 著『「他者」の倫理学―レヴィナス、親鸞、そして宇野弘蔵を読む』( 社会評論社刊・16.9.10)

 「他者」という概念は、それ自体として存立できないものだ。つまり、「自己」というものを措定して、初めて、「他者」ということが表象してくるといえるからだ。しかし、本書の著者が思考する「他者」は、「自己」の反照か鏡像のように在ると、わたしは受けとめたことになる。もちろん、著者にあっては、「他者」とは、「自己」を対象化もしくは相対化するものと措定しているのだが。
 「レヴィナス、親鸞と宇野弘蔵という思想の出所も思考の形成過程もまったく異なるものをクロスオーバーさせることで、形而上学的観念論と弁証法的唯物論との障壁をいったん解体し、自我を根源的に相対化しうる『他者』を主体とする思想、すなわち語の厳密な意味での倫理的思考へと向かうことをめざしている。」(「まえがき」)
 ここで著者が明言していることは、「自我を根源的に相対化しうる『他者』を主体とする思想」を構築していく方途として、レヴィナス、親鸞、宇野弘蔵という一見クロスしない思想表現を横断させていこうという試みになるわけだが、「他者」という様相を鏡像のように見做していけば、それぞれのなかで微妙な差異を見せていることに、わたしの関心は引き寄せられていくのだ。その差異の位相を、わたしなりに共感性を滲ませながら述べていくことができれば、本書の深部へと幾らかでも近づくことがでるのではないかと思っている。本書の構成と違い、宇野、レヴィナス、親鸞という順に触れていく。
 著者は、「マルクスが人間主義的立場から資本主義を解明し批判しようとしたのに対して、宇野弘蔵のそれは、全く逆に、ひとまず資本の立場に主語を置いて、徹底的に『人間』を対象化し批判する方法論を貫こうとしたもの」だから、「人間(自己)に対してあらかじめ外的に存在する『他なるもの』を主体とする論理だったというべきである」と述べているのだが、確かに、資本制社会を構成するのは、「市民社会」という人間集団である以上、「人間」を対象化していくことは当然のことだと思う。そのように対象化していく視線が、「『他なるもの』を主体とする論理」となるのかどうか、幾らか逡巡しないわけにはいかない。
 レヴィナスについては、「顔」という概念を軸に「他者」へと敷衍させていく。「私の内にある『他』の観念をはみ出しつつ『他者』が現前する仕方、このし方のことをわれわれは顔と呼ぶ」というレヴィナスの言説を引きながら、著者は次のように述べていく。
 「(略)レヴィナスは、私と顔、それゆえ自己と他者を、鋭角的な非対称性によって切断する。そして自己を超える他者の崇高さ、尊厳さ、無限性を強調する。彼は、(略)無限に超越していく者として他者の『顔』を渇望した。むろん、こうした絶対的他者の肯定は、哲学ではなく宗教学としての『神学』にすぎないのではないかという疑問もありえよう。しかし、レヴィナスにとって、神は現前することない『絶対的不在者』であり、彼の追求したものは、どこまでも自己に対する他者の倫理的関係であった。」
 これはあきらかに、レヴィナスの他者(顔)は、宇野思想から、やや距離を置き、親鸞の「他力思想」により近接していくかのようだ。著者は、当然のことなのだが、仏教史、あるいは、仏教思想という位置づけのなかで、親鸞を捉えていくわけだが、宇野経済学ではなく、宇野思想として著者が見做したように、わたしは、思想家としての親鸞、あるいは親鸞思想という視角で捉えてみたいのだ。
 「(略)親鸞は、称名念仏の行を、衆生の側からする能動的な行(能行)としてではなく、どこまでも諸仏の、さらには阿弥陀仏の側からの大行としてのみ読み替えて捉えることになった。(略)親鸞の『他力』は絶対他者としての仏による無限の能動的救済を指すことばであり、これに、凡夫としての『自己』の、いっさい選択の余地のない徹底的に受動的な信心が対置されることになる。」
 称名念仏を一生懸命唱える、あるいは、俗的にいえば修業して悟りを開くといったことは、能動的信心ということになる。しかし、まったく逆のベクトルで信の構造を切開して見せたのが親鸞であった。著者の論及を援用していくならば、「自己があれこれ心配して手段を講じなくても、阿弥陀仏の側からひとりでに救いの手が差しのべられ」、その「背後に、一切衆生を救おうという弥陀の本願がある」ということになるのだ。そして、「もしかするとそれは、信仰そのものの放棄と紙一重の心境であり、いわゆる『非智』ないし『無知』の思想であったかもしれない」と付言していく、著者の親鸞思想の描出は、同意できる。そうであれば、信というものを徹底的に突き詰めて、やがて解体させていくかのような位相を表出する親鸞における「他者」の倫理思想は、屹立していると、いっていいのではないだろうか。

(『図書新聞』17.3.18号)

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