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2017年1月28日 (土)

尾関周二、矢口芳生 監修                    『共生社会 Ⅰ 共生社会とは何か』『共生社会 Ⅱ 共生社会をつくる』(農林統計出版刊・16.10.5)

 わたしたちは、敗戦からの奇跡的な復興から、やがて高度成長を経て、いわゆる〝豊かな〟暮らしというものを享受してきたが、ここにきて、様々な矛盾が露呈し、失ってきたものの大きさを思い知るようになっている。ここで、確認しておくべきことは、資本主義的なシステムか共産主義的なシステムかという二元論的なことでは、もちろんない。どちらも、統治システム(例え、資本主義社会が民主主義的な装いを持っていたとしても)である限り、わたしたちに希望を与えるものではないということである。誰もが均等に消費して暮らしを豊かにするという消費社会の様態は、グローバリズムの席巻によって、『21世紀の資本』でトマ・ピケティも指摘するように、圧倒的少数の富める者と大多数の持たざる者の急激な二分化を生みだしたことを、あらためて認識すべきなのだ。
 ここ、何年か、あたかもグローバリズムへの対抗概念のように、「共生」、あるいは「共生社会」という考え方が論議されるようになった。本書は、「共生社会を可能にするような社会システムを学際的に研究するという目的で」、2006年に発足した共生社会システム学会の創立十周年を記念して刊行されたものだという。監修者たちによれば、共生あるいは共生社会とは、次のような捉え方になる。
 「(略)『共生』とは、多様性のなかの平等性や持続可能性を確保・向上するための実践のあり方であり、その前提には、言語・文化・風土等の異質性・多様性の尊重がある。実践の対象には、人間と自然、人間と人間(社会)、人間と文化(風土)との関わりかある。また、『共生社会』とは、持続可能で真に平和で平等な社会の構築のための実践的協働社会のことである。実践の担い手は、異質性・多様性を尊重する自由な諸個人であり、また、諸個人が共同的に結びついた集団・組織である。」(Ⅰ・「はしがき」)
 わたしは自分が拘泥してきた思考の有様のなかに、関係性や共同性ということの問題を汲み入れてきた。だから、「共生」や「共生社会」という考え方に親近性を抱いてきたといっていい。ただし、その前提となるのは、ひとつは民主主義の擬制を超克することと、統治システムに対しては徹底的に抗していくことだと思ってきた。監修者たちがここで述べていることに、ほぼ首肯できるのだが、次のことだけは、付け加えておきたい。関係性(共同体、社会)は、絶えず開いていて、去るものは追わず、来るものは拒まない、また、集団・組織は水平的・横並びであるということだ。そういう有様が、可能かどうかをいま論議すべきことではない。「可能にするような」方途を、まず模索していくべきなのだ。
 そのような、わたしの思いを視線に託して、本書を読み通して、多くの示唆と喚起を受けたことを率直に述べておきたいが、二分冊のなかのすべての論稿に触れるわけにはいかないので、かなり恣意的に幾つかの論稿について述べてみる。
 「“人間の持続”をも含めた真の意味での“持続可能な社会”があるとするならば、われわれに求められるのは、人間というものを理解するための新たな枠組みの提起である。」(Ⅰ・第Ⅰ部、上柿崇英「第6章 持続可能性と共生社会」)
 上柿の直截な言表は、あらゆる現象を切開していく。ただし、この言表を実践することの困難さを上柿は周知のごとくいい切っていることが切実なことなのだ。
 「地産地消」によって地方経済を活性化していこうといわれて久しい。野見山敏雄は、「地産地消を取り巻く日本社会の構造的状況は急速に変貌している。農業生産の担い手が消失し、生鮮青果物の需要が減退する状況下では、大規模農産物直売所を代表とする従来型の地産地消は次第に衰退しつつある。これに代るものとして期待されるのは、人口増加や経済成長には依存しない、脱成長型の地産X消ではないだろうか」(Ⅱ・第Ⅲ部「第4章 脱成長型の地産X消で地域に活力を」)と述べ、農産加工業務を需要に振り向ける「地産加消」、地元食材を農家民宿・民宿に供給する「地産宿消」、給食に食材を提供する「地産学消」、再生可能エネルギーの地産地消を目指す「地産燃消」、地域の互助性や贈与性を活用して食の無駄をなくす「地産完消」を提言していく。親近なる共同体のなかで、多様なかたちで、「地域再生」を図るべきだとする野見山の発想は刺激的だ。
 福田恵もまた、同じ様に本来あり続けたはずの農村共同体の相互扶助的なるものに着目しながら、「『村落』を同質的な者同士の堅固な社会集団として単純に規定するわけにはいかない。むしろ、共生の方途を探るためには、人的揺らぎの中で異質な他者と対話し続ける『村落』の側面に目を向ける必要があろう」(Ⅱ・第Ⅳ部「第5章 集落社会における共生の関係」)と論及している。わたしもそう思う。日本的な共同体(性)の有様というのは、一見、閉じているように見えて、実は、開かれていると捉えることができる。それが、列島的なアジア性の特質なのだ。
 「共生社会」を見通すことは、わたしたちが、在るということ、つまり、「人間」が存在すること、そしてその持続性を問い続けていくことであることを、忘れてはならないといいたい。

(『図書新聞』17.2.4号)

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