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2016年12月24日 (土)

河村次郎 著『存在と時空』(萌書房刊・16.10.9)

 存在論を基軸とした哲学的思考を前にして、わたしは、一瞬、戸惑いを感じながらも読み進めていった。いったい、息苦しさを潜在させながら迷走する現在において、存在論を展開していくことに、どんな意義や意味があるのだろうかと思ったからだ。
 それでも、書名から直截に受けるイメージからいって、当然、著者は、ハイデガーを意識した先を見据えて論及していくわけだが、一方では、「ライトモチーフ」としてプルーストの『失われた時を求めて』が、「心を捉えて離さなかった」と率直に述べている。わたしは、著者のようにプルーストから喚起されたことはないが、それでも、過去―現在―未来と通底する時間の流れを水脈のように本書全体を貫いていることに共感したといえる。だから、いまここで本書へと視線を降り立たせて、わたしが発語していくことは、著者の本意からは、大きくかけ離れていくかもしれないが、敢えて論述していくつもりである。
 著者は、自己組織化、あるいは自己組織性という概念を援用しながら存在という様態を様々に析出していく。ただし、自己を組織するということは、どういうことなのかは語られていない。にもかかわらず、次のように論述されていくと、おぼろげに自己を組織することのイメージが伝わってくるといっていい。
 「我々は、自己組織化する有機体としての世界のなかで生きる意識生命体である。そして意識生命体であるということは、それもまた自己組織性をもつということを意味する。世界も自己もその存在において自己組織性を核としている。しかるに、世界と自己は分離しつつも相互浸透する融合的一体性をなしている。すなわち、『自己を生かしている場としての世界』と『世界へと関わる能動的な自己』は、渦動的一体性において一つの巨大な生命の自己組織性の一局面を形成しているのである。」
 「自己」と「世界」を繋ぐものとして組織化という概念を援用しているとするならば、わたしなら、関係性とか共同性という言葉を使いたくなる。わたしたちの現在は、世代間を超えていうならば、「自己」と「他者」、「自己」と「社会」、さらにいえば、「自己」と「世界」を繋ぐものが見えない場所(時空間)であると、わたしなら捉えてみたいからだ。しかし、著者は、「世界と自己は分離しつつも相互浸透する融合的一体性をなしている」と見做していく。わたしは、吉本隆明の『共同幻想論』から喚起されて、自己幻想(個体幻想)と共同幻想(国家や宗教、あるいは法や社会規範を包含する)は、「逆立」すると考えていた。だがここで、著者が述べていく、「世界」とは、国家群が構成する世界ではない、位相の事なる様態を示しているといっていいかもしれない。
 つまり、「自己は自然によって存在せしめられているのであり、自己の存在の意味は宇宙そのものの時間から派生したもの」と捉えながら、「『存在の時間』は自己と世界、この私と全宇宙の双方に張り渡されている」と述べているように、自然―世界―宇宙は、ひとつの環界として見做すことのできる視線を提示しているといっていい。もう少し、著者のいう「世界」に拘泥してみるならば、次のような箇所に収斂させることができると思う。
 「過去と現在と未来はそれぞれ分離した個別の領域をもつのではなく、一つの生成的事態のなかで相互浸透的に統合しているのである。また、世界は物ないし粒子の集合体ではなく、出来事の集積体である。しかも、その集積性は過程的連続性という性格を帯びている。それゆえ、過去の出来事は現在の出来事ならびに未来の出来事と過程的連続という相互浸透的統合性をもっているのである。」
 「世界は物ないし粒子の集合体ではなく、出来事の集積体である」とするならば、「世界」とは、わたしたちの「存在」と「時空間」の集積されたもの、つまり、生きていることの「証し」といっていいはずだ。
 わたしは、「現在」というものは、「過去」から連続したものであり、「未来」へと続く通路であると思っている。だからこそ、やがて訪れるであろう「死」は、「生」との繋がりによって生起するものであるといいたい。
 著者は、「存在の時空」と「生命の時空」を鏡のように捉えていると思われる。つまりそれは、「生きていること」と「存在していること」は同じ位相を有しているということでもある。だから、わたしは、難解な哲学書の装いを持ちながらも、極めて、シンプルに「生きていくこと」の切実さを宣明していると見做してみたいのだ。
わたしは本書を読み終えて、大正期を疾走したアナキスト・大杉栄が、次のように苛烈な文章を記したことを、唐突に想起した。
 「さればわれわれの生の必然の論理は、われわれに活動を命ずる。また拡張を命ずる。何となれば活動とはある存在物を空間に展開せしめんとするの謂にほかならぬ。(略)かくして生の拡充はわれわれの唯一の真の義務となる。」(「生の拡充」・1913年)
 こうして、わたしは、「存在の時空」とは、「現在」における「生」を凝視することであると、いま、考えている。

(『図書新聞』17.1.1]号)

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