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2016年8月20日 (土)

夢幻なる場所―水木しげる作品私論

 水木しげるの作品との、最初の出会いが、『ガロ』誌だったのか、少年誌だったのかは、よく覚えていない。貸本誌での作品は、見ていたかもしれないが、作者名を記憶することはなかったから、断定はできない。白土三平やつげ義春の作品との出会いは、明快に覚えているのに、水木作品との邂逅が、判然としないのは、たぶん、『悪魔くん』などのテレビドラマ化された作品との契機があったからだといえるかもしれない。
 水木作品との出会いが判然としないことに落胆はしない。手塚作品に、共感することなく少年期を過ごしていたわたしが、どういうかたちであれ、手塚的画風とは無縁の水木作品を親近なものとして感受したのは、必然的なことだったと、いま、思っている。ただし、これまで、水木作品を系統だって読んだり考えたりしたことがなかったことに、不思議な感慨を抱いている。だからといって、けっして、作品性を疎かに見てきたわけではない。NHKテレビの朝ドラと大河ドラマを熱心に観てきたわけではないが、『ゲゲゲの女房』(2010年放送・脚本、山本むつみ・演出、渡邊良雄他)は、ほとんど、欠かさず毎日観ていたから、わたしのなかで、水木しげるという表現者は、大きな存在としてあったということになるはずだ(詳細は、省くが、生前、一度だけ、たまたま、電話で応答したことがある。いまから、四十年以上前のことである。だから、面前で、会話したことは、まったくない)。
 同じ作品名でも様々なヴァリエーションがあるから、研究者のような視点で論述することはできないのだが、膨大な水木作品のなかから、愛読者の一人として共感を抱いてきた作品を挙げるとすれば、『悪魔くん』と『鬼太郎』のシリーズということになる。他に『河童の三平』や、『ガロ』誌掲載作品を中心に、幾つか作品を挙げることは可能であるが、ささやかな追悼の想いを込めての作品論としては、『悪魔くん』(東考社版)と、『悪魔くん千年王国』、『鬼太郎夜話』(『ガロ』連載版)、そして初期作品の『怪奇猫娘』をめぐってのものとしたい。
 『悪魔くん』(復刻版は、全一巻で73年、北冬書房より刊行)が、東考社から貸本マンガとして刊行されたのは、63~64年にかけてであり、当初の予定では全五巻であったが、売れ行きが悪く全三巻で完結となったようだ。白土三平の『忍者武芸帳 影丸伝』を意識して構想されたという説もあるようだが、わたしは、その説を留保する。水木作品で最もわたしを刺激してやまないのは、悪魔くんや鬼太郎、ねずみ男に象徴される、登場人物(妖怪たちを人物として括るのは無理があるかもしれないが)たちの異貌なる像型である。しかも、異貌、異様であるにもかかわらず、どこかユーモラスな雰囲気を滲み出しているから、作品世界へなんの抵抗もなく誘われていったともいえる。
 『悪魔くん千年王国』は、東考社版『悪魔くん』を改稿して、70年3月から10月まで「週刊少年ジャンプ」に連載したものだ。六十年代後半に生起した苛烈な反抗・対抗的渦動は、70年になってからも、依然、列島を横断していた。表題を、『悪魔くん』から『悪魔くん千年王国』としたのは、ある意味、理想社会を希求していたといっていい70前後の渦動を意識したと思える。
 「ぼくの力で/この世界に/戦争も貧乏も/たいくつも/ない/千年/王国を/つくる/ために…」「人類の/だれもが ねがい/だれもが/はたしえな/かった/万人が/しあわせに/なれる/王国を/いま つくるときが/きたのだ」「きたるべき時代に 神童があらわれ 悪魔を呼びだし その力で世界国家をつくる!/そして 世界の善意をもった賢者たちが 人類のしあわせのために団結し 万人が兄弟となる王国があらわれる…『現世は夢となり 夢は現世となる』といった!」(ちくま文庫版『悪魔くん千年王国』88年刊)
 「千年王国」というものが、アジア的な理想社会(夢幻なる場所とでもいうべき「社稷」や「桃源郷」という考え方もある)をイメージされたものだとするならば、西欧的なイメージとしては、「ユートピア」に敷衍することができる。
 いずれにしても、未知の未来へ希望を託す感性というものを、わたしは、皮相なことだと安易に断ずるつもりはない。だが、例えば、「国境も/考えて/みりゃあ/人間にとって/公害の/ひとつかも/しれない」「これから/世界を/あいてに/戦わなければ/ならない」という悪魔くんの言葉を引き継ぐかたちで、物語の最後で蛙男に次のように語らせていくことに対し、逡巡する思いを抑えることができない。
 「むかしから/心ある人びとは/病気の/人や 老人や/さまざまな/不幸な人びとも/おなじように/生活できる世界を/つくろうと/した……」「世界が/ひとつになり/貧乏人や/不幸のない/世界を/つくる/ことは……/おそかれ/はやかれ/だれかが/手をつけ/なければ/ならない/人類の/宿題では/ないのか/………」「不浄にみちた/悪魔の支配する/世界を/フンサイ/するために/戦うのだ」(『同前』)
 逡巡する思いとは、いうなれば、気恥ずかしさのような感覚ともいえる。七十年前後の渦動のなかから発語された幾つかのスローガンに、「世界一国同時革命」や「世界革命戦争」というものがあった。当時、幾らかでも、それらに刺激された自分を思い起こすとき、太宰治が、『冬の花火』(46年作)という戯曲作品で、数枝という人物に「ねえ、アナーキーってどんな事なの? あたしは、それは、支那の桃源境みたいなものを作ってみる事じゃないかと思うの」と語らせながら、やがて、「桃源境、ユートピア、お百姓、(略)ばかばかしい。みんな、ばかばかしい。これが日本の現実なのだわ。(略)さあ、日本の指導者たち、あたしたちを救ってください。出来ますか、出来ますか。(略)落ちるところまで、落ちて行くんだ。理想もへちまもあるもんか。(略)あたしのあこがれの桃源境も、いじらしいような決心も、みんなばかばかしい冬の花火だ」と吐露させていく心情にも共感する自分がいたからだ。「万人がしあわせになれる王国」「万人が兄弟となる王国」というとき、「万人」と括られるものは、いったいどのような存在なのか、なぜ、「王国」なのかという疑念を、わたしのなかで払拭できずにいる。多様であるべき人びとをすべて「万人」とすることによって世界を「ひとつに」してしまうのは、理想とは逆行していく道筋なのではないのかというのが、さしあたって、「千年王国」に対する、わたしなりの感慨である。
 だが、白土三平の描く影丸も、太宰が、敗戦後のやるせない心情を託した数枝も、そして、わが悪魔くんも、理想社会に想いをよせながら、なぜか孤立感のようなものを胚胎していたからこそ、わたしは、惹きつけられるのだと思う。

 「現世は夢となり 夢は現世となる」という、いわば、夢でもあり、現世でもある場所は、鬼太郎が「生」から「死」、「死」から「生」へと往還する場所に通底いくといえるはずだ。
 「鬼太郎」シリーズに先行する作品に「墓場鬼太郎の誕生」(貸本版、『ガロ』改稿作掲載)がある。
 その誕生譚のなかで、鬼太郎の育て親になる水木という男に、鬼太郎の父親が語る「幽霊族」をめぐる物語は、鮮烈だ。
 「幽霊とい/われ きらわ/れてきた/われわれ/あわれな種族/について/同情と理解/をしていた/だきたい/のです/われわれは/大昔/………/人間のいない時代/から この地球/に住んでいた/のです/人類という/わるがしこい者/が出現するまでは/とてものんびりした/くらしでした………/われわれの生活が/絶頂になったころ/でしょうか『人/間』という/われわれに似た/ものがどこか/らともなく/あらわれて/まるで/ネズミのように/地球に/ひろがって/いったのです/争いごとを/好まず/おとなしい/われわれ幽霊族/はだんだん/人間にあっ/ぱくされ/やがて穴のなかにすむよう/になりました/(略)/ときたま寝/しずまった/夜 人間界/にでてたべ/物をあさ/ったもの/です/昔の人は/びっくりし/て幽霊だ/とおそれた/のです」(貸本版「墓場鬼太郎の誕生」―『ゲゲゲの鬼太郎 誕生編』・講談社コミックス、96年11月刊)
 この物語は、「幽霊」という「種族」、つまり「幽霊族」というものを措定することによって、人間界を相対化していくことを胚胎させている。それは、「幽霊」と「人間」のどちらが、「現世」の存在なのか、「夢」の存在なのかということをグレーゾーンのなかに置換していくことに他ならない。生者であった人間が、「死」を迎えることによって、幽霊(死者)となって現われるという時間性を、鬼太郎の父親の語りによって、転倒させながら、「おとなし」く、「のんびりしたくらし」をしていた「幽霊族」が、「人類というわるがしこい者」たちによって制圧された時間性を強いられてきたことを露わにしていく。この鬼太郎誕生譚は、水木しげるの死生観を、実に、色濃く投影させていると、わたしは見做してみたい。つまり、「生」と「死」は絶えず裏腹なものであるという、深い思考の源泉を湛えているということになる。もう少し、敷衍していうならば、人類以前の幽霊族の出自を、人という種以外の生命あるもの、つまり、すべての動物、生物、植物に暗喩化していると捉えることを可能にしている。
 だが、ここで誤解してならないのは、鬼太郎的世界を安直に、反文明主義や自然主義に連結してはいけないということだ。虚構性を顕在させながらも、奇妙なリアリズム的世界を放出させているのが、『鬼太郎』シリーズの世界だからだ。そして、奇妙なリアリズム的世界を最も象徴的に表出させているのが、「ねずみ男」だといっていいはずだ。ところで「墓場鬼太郎の誕生」は、貸本版と『ガロ』誌再掲載版で、大きく違うのは後段の描き方である。貸本版では目玉親父の誕生と水木が鬼太郎を育てていく決心をした後に、補篇のようなかたちで、「チャンチャンコ」と「ねずみ男」のエピソードが描かれている。
 鬼太郎がねずみ男を指して、「お父さん/この男 人を/ケイベツした/ような笑/い方を/しま/すヨ」「虫のすかな/い男だナ」「お父さん/この男/はりたお/していい」というのに対して、ねずみ男は、「ケイベツ/?」「ボクはただ/サンビした/だけだ」と応答して、次のように述べていく。
「俺をだれだ/と思ってる/んだ」「オシャカさま/より偉い/んだ」「学の/ほうだって/この/ヒゲの/ように偉い」「ただひたすらに/怪奇なものを/もとめて/いきて/きた/怪奇/文化の/真の功労者/なのだ」
 ねずみ男の大言壮語に目玉の親父は、圧倒されて、「せがれの/鬼太郎を/怪奇界の/名士にし/たてようと/おいでなさっ/たんですね」とすっかり信用してしまう場面で、貸本版「墓場鬼太郎の誕生」を閉じている。

 69年6月に、わたしは、吉本隆明の講演を直接、聞いている。講演のなかで、突然、「ゲゲゲの鬼太郎」と「ねずみ男」という名前が出てきて、驚いてしまったことを、いまだに忘れることができない。
 「太宰治の『右大臣実朝』における実朝と公暁は、水木しげるの漫画でいえば、『ゲゲゲの鬼太郎』と『ねずみ男』というような感じなんです。『ゲゲゲの鬼太郎』という作品のおもしろさの半分は、『ねずみ男』の存在に依存しています。実朝が『ゲゲゲの鬼太郎』で、公暁は『ねずみ男』というふうになります。ぼくはいまでもあざやかに思いうかべるんですが、公暁が由比ヶ浜の海辺で、朽ち果てた船に寄ってくるカニをつかまえて、それをピシャッと叩きつけて、ムシャムシャたべる印象的な描写があります。公暁はどうも『ねずみ男』的に描かれているとおもいます。」(講演「実朝論」―『展望』69年9月号、掲載)
 周知のように、戦時下に書下ろしで出版された太宰の『右大臣実朝』(1943年9月、錦城出版社刊)は、実朝の側で使えていた近習が、実朝の死後、二十年経って、振り返りながら語っていくかたちを採った作品である。合間に、実朝が語る言葉を片仮名書きにして入れ、『吾妻鏡』の原文を適時、入れていく構成となっている。「平家ハ、アカルイ。」、「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」という、作中、実朝に語らせた言葉は、あまりにも鮮烈な印象を残し続けているといっていい。吉本が指摘する、カニを食べる場面は、異様さを湛えていながらも、どこか可笑しみがあって、確かに太宰が描く公暁が、「ねずみ男」だといえないこともない。そもそも、実朝を暗殺した公暁像には、絶えず不分明さが付き纏っているから、「ねずみ男」と形容することによって、見えてくる様相というものがあるだろうし、「ねずみ男」の捉まえどころのなさを、太宰的公暁へと類推していく時に、なにか、像というものが明示されてくる気がする。
 『鬼太郎夜話』では、ねずみ男が、その本領を発揮して、鬼太郎親子が絶えず翻弄される様相を描かれていく。
 わたしは、水木と鬼太郎親子が二階の部屋を借りて住んでいる、東京・谷中初音町の天保時代から続くという、三味線作りの店「ねこや」の描写に惹かれる。そこでは、次のような言葉が付されていく。
「おばあさんと孫が/むかし おじいさんが/三味線を作った/残りかすの ねこの頭などを/売っていたが/いまどき こんなものを/買う人もいない/そこで 二階を人に貸したのだ」
鬼太郎は、「ねこや」の孫娘・寝子と一緒に小学校に通うことになる。昼食時、鬼太郎持参の弁当に入っている“どぶねずみ”に寝子が感応し、“猫”に変貌してしまう。そして、寝子は、「わたしね/魚だとか/ねずみに/弱いの/いいにくい/けど/ねこに/なって/しまうの」と鬼太郎に打ち明ける。そして、ねずみ男を見つけ、襲いかかり、頭をかじる場面は、寝子の悲痛な宿運とは裏腹に痛快さを喚起させる。この寝子こと猫娘は、初期の貸本漫画作品『怪奇猫娘』(58年6月刊)に登場する“みどり ”と同じキャラクターといっていい。異貌な存在として排除され追いつめられていく猫娘みどりの有様は、そのまま、『鬼太郎夜話』の寝子にも繋がっていく。ねずみ男と連携するにせの鬼太郎によって「死」の世界へ行ってしまった寝子を、目玉親父に誘われながらにせの鬼太郎は、「生」の世界へ連れて帰ろうとするが、「わたしは/どうせ/ねこ娘です/ふたたび/生きて/帰った/からって/みんなに/いじめられ/はずかしい/思いをする/だけです/わたしの/安住できる/ところは/ここ/だけです」といって寝子は、そのまま「死」の世界に留まることになる。
 『鬼太郎夜話』は、猫娘譚によって重層性をもった物語として屹立していると、わたしは、捉えてみたい。

(『貸本マンガ史研究 第2期4号・通巻26号』16.8)

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