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2016年8月27日 (土)

北井一夫 著『写真集 流れ雲旅』(ワイズ出版刊・16.5.28)

 つげ義春・大崎紀夫・北井一夫共著『つげ義春流れ雲旅』(朝日ソノラマ・71.6、以下『流れ雲旅』と記す)が刊行されたのは、いまから、四十五年前のことだ。つげ義春は三四歳、北井は二七歳の時だった。つげは、「もっきり屋の少女」(『ガロ』、68年8月号)を発表以後、いわゆる沈黙期(作品は発表しなかったが、水木プロの仕事に専従していた)に入る。その間、「アサヒグラフ」で断続的に紀行文のようなものが連載されていることを知る(わたしが、当時、実際に手にとって見たのは一、二冊だったように思う。この連載が後に、『流れ雲旅』として結実する)。つげ作品に出会えない枯渇感のようなものを、わたしが抱いていたことを、昨日のことのように思い出すことができる。70年に、「蟹」(雑誌掲載時は未見で、後、『ガロ増刊号 つげ義春特集2』に収載されて知ったことになる)、「やなぎ屋主人」(この作品が、『ガロ』掲載、最後の作品となる)の二作品を発表。そして、翌年刊行された、『流れ雲旅』を手にした時、わたしは、「ねじ式」の時とは、また違った意味で、あらたなつげ義春の世界に出会ったという衝撃を受けたといっていい。それは、柳田國男や宮本常一への共感の時間を持ち始めていたわたしにとって、つげ義春の世界が、そのまま重層化されて感受できたことを確信したからだった。
 さらにいえば、『流れ雲旅』によって、北井一夫の写真に出会ったことは、大きかった。以後、ひそかに、北井写真を追いかけていくことになる。そして、写真集『村へ』(76年)によって、柳田や宮本と重層化する、もう一つの世界をわたしたちに北井は見せてくれたのである。
 『流れ雲旅』のなかで、北井が担当したのは、「下北半島村恋いし」、「篠栗札所日暮れ旅」、「国東半島夢うつつ旅」であった。本書『写真集 流れ雲旅』には、数点の再録はあるものの、ほとんど未収録写真(全作品、モノクロ・フィルムで撮ったものだ)を掲載している。他に、「東北の湯治場」、「四国室戸」、「天竜川/山形」、「藤原マキ」(「朝日ジャーナル」に依頼されて、「久しぶりに舞台に立つという」マキ夫人を撮った写真、六点)と題した70年から73年にかけて撮影された写真が収められている。北井は、「あとがき」で次のように述べている。
 「その頃私は、つげさんのマンガとそっくり同じような写真を撮っていた。つまり私の写真の被写体になった人たちは、いつも決まってカメラに向かって凝視しているという写真だった。私はこうして凝視する関係性こそがドキュメンタリーだと思うようになっていた。」
 北井は、「凝視」というやや硬質な言葉を使っているが、収載された写真の子供たちや、大人たちは、男女を問わず、和やかな表情を湛えている。つまり、カメラを構えている北井に対し、親近なる情感を発しているといえばいいだろうか。時代性や場所性にそのことの起因を求めて分析しようなどとは、わたしは思わない。見知らぬ人が、自分たちの共同性の場所に来訪しても、閉じていくのではなく、開いて受容する感性を胚胎していることに、感応するとともに、わたしは、北井の写真に関係性の拡がりとでもいえるものを喚起する膂力があるといっておきたい。
 つげ義春を撮った写真(表紙にも使われている)が、『流れ雲旅』に収録済みのものも含め、十点、本書には掲載されている。なかでも、「福岡篠栗」での穏やかな表情をしている石仏大小二体の脇で、カメラを持ちながら、うつむきかげんで笑っているつげ義春を捉えている写真(本書・140P)がいい。本書の帯に、「デジカメ時代になっても/北井作品だけは/やはりフィルムがふさわしい」という文章を寄せるつげとの関係性が、四十六年前の石仏二体の脇で笑っている写真に象徴して表れているといいたい気がする。
 本書収載の多くの写真に感応したわたしだが、敢えて、人と風景の写真を一点ずつ挙げるとすれば、「秋田泥湯温泉 1970」(47P)と「長野高遠 1973」(113P)だ。「泥湯」は、けっして広くはない共同浴場に年長の男女六人が浴槽のまわりを囲んで、談笑しているような写真だ。左側に座っている男性の表情に、わたしは、なぜか魅せられていく。「高遠」は、左側に中学生ぐらいの男子二人が、やや下りの坂を降りてくるのをとらえているから、風景写真とは厳密にはいえないかもしれないが、むしろ、少年たちの表情が伝わり、話し声が聞こえてきそうだから、ひとつの風景であると、いってみたくなる。右側に遠慮ぎみに写っているのは、桜のような気がする。高遠の桜をこのように写し撮る北井の感性に刺激される。もちろん、高遠の見事な家並の風景は、鮮烈だ。
 こうして、北井写真は、見るものに多様な物語をイメージさせてくれるのだ。

(『図書新聞』16.9.3号)

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